僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

ウダウダ会 愛染さんや生玉さん

2018年11月30日 | ウォーク・自転車

さて、ウダウダ会一行は、清水寺をあとに、ワイワイ・ウダウダ言いながら、次の愛染坂に向かいました。

坂の下り口にある愛染堂勝鬘院(あいぜんどう しょうまんいん)から愛染坂と名付けられたのですが、ここは「愛染さん」で有名です。

 
 これは10月末に七坂を歩いた時に撮った写真です。
 この時は中に入らず、そのまま正面の大江神社に入り、
 そのあと、左側の「愛染坂」を下りました。


  

で、ここに入るのはこれが初めてなんですが、愛染さんは聖徳太子によって建立され、本尊として良縁成就・夫婦和合で有名な愛染明王が奉安されているとのこと。だから「縁むすび」なんですよね。

門をくぐった右の奥に「愛染かつらの木」があります。樹齢数百年と言われる大きなかつらの木に、ノウゼンカズラのツルが巻き付き、かつらとカズラが一体となったように見えます。つまり仲の良い男女が寄り添っている、あるいは抱き合っているように見えることから、このかつらの木が「恋愛成就、夫婦和合の霊木」として、もう何百年も前からこのあたりでは親しまれているとのことです。この写真、そんなふうに見えます? 言われてみたら、見えますかね~


 
縁結びの霊木 愛染かつら」の札もあります

さて、「愛染かつら」といえば、昔(昭和10年代)に映画が大ヒットし、その映画の主題歌の「旅の夜風」がこれまた映画以上に大ヒットした、ということを前回のブログでも書きました。「花も嵐も踏み越えて~」という出だしで、霧島昇という当時の人気歌手と女性歌手とのデュエット曲でした。また繰り返しますが、うちの母が霧島昇の大ファンで、自分の子供に「昇」という名を付けました。今の僕の名は、霧島昇が存在していなければついていなかったはずの名前です(笑)。

と書きながら、今、思い出しました。

僕は今から11年前の2007年12月1日からこのブログを始めたのですが、その第1回目に「自己紹介と近況報告」というタイトルで、まず最初に自分の名前の由来のことを書いていましたわ(笑)。今、急にそれを思い出しました。

そんな、自分にとっても縁のあるところへ、今回、初めてやって来たというわけです。

ここには「霊木」と共に「霊水」というのもありました。 


  

これがそうですが、立札をアップしてみますと… 

 
「この井戸水を飲めば(中略)愛念を叶え…」とありますね~
 

もうひとつ、愛染さんの名物は多宝塔です。 


  

解説によりますと、この多宝塔は、推古天皇元年(593年)聖徳太子によって創建されました。その後、織田信長の大阪石山寺攻めの際に焼失しましたが、慶長2年(1597)豊臣秀吉により再建されたということです。現在の大阪市では最古の木造建築物として、国の重要文化財に指定されているそうです。 

大阪市で一番古い建物だということを、覚えておきます。

愛染さんを出て、すぐ前にある大江神社に入り、その神社の急な石段をみんなで下りました。実は愛染坂は大江神社の横にあるなだらかな坂なのですが、みんなが降りたのは七坂とは無関係のただの階段でした。ま、メンバーはそんなことには全然お構いなしのようです(笑)。 

そのあと、口縄坂、源聖寺坂を巡り、生國魂神社(生玉さん)へ到着。

 
七五三の時期だったのですね

 
結婚式も行われており、若い衆が太鼓を叩いていました

9時半に天王寺を出発し、いきなりこんにゃくを食べたりしましたが、あちこち寄り道をしながら歩いてもせいぜい2時間。生玉さんではまだ11時半でした。

しばらくの間、そこで休憩をして、「さぁ、行こか!」とリーダーのNさんが立ち上がり、最後の坂である真言坂を下り、一行は、徒歩と地下鉄で阿倍野へ戻り、Nさんが予約をしてくれていたアサヒ・ビアホールへと行きました。

ウダウダ会は「歩こう会」ですが、ひょっとすると「あるこーる会」と違うか? と思われるフシもあります(笑)。

全員テーブルについて、Nさんが「本日はお疲れさまでした。乾杯!」と音頭をとり、みんな一斉に生ビールをゴクゴク…。あぁ、うまい! 

やっぱり「あるこーる会」やなぁ、と、ひそかに納得した僕でした。

さて、皆さん。今日で11月も終わり。明日から12月です。本当に1年ってあっという間に経ってしまいますね~。お風邪など召されないよう、ご自愛ください。

 

 

 

 

 

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ウダウダ会 天王寺七坂へ まずは庚申堂のこんにゃく

2018年11月28日 | ウォーク・自転車

11月23日の祝日。午前9時半に、JR天王寺駅でわがウダウダ会のメンバーが集まりました。前回の春のウダウダ会には、僕は欠席しているので、去年の11月に吉野へ行って以来1年ぶりの参加です。

この日のウダウダ会は、男女十数名のメンバーで、先日僕が行ったばかりの天王寺七坂を巡ります。ただ、今回は南側の逢坂から北の方向へ歩くので、僕がこれまで2度とも北の真言坂から歩いたのとは逆回りのコースになります。

  

さて、人数もそろったところで、リーダーのNさんが、開口一番、
「これから天王寺七坂を巡るわけですが、その前に、まずこんにゃくを食べて酒を飲みましょう。うまいでぇ~」
と、例によってとんでもないことを言い出します。

「なんで歩く前からこんにゃく食べて酒を飲まなあきませんねん?」と言って理由を聞くと、実はまんざら「とんでもないこと」でもなく、Nさんは続いてこんな説明をしたのです。

これからまず、四天王寺の南門の300メートル手前にある四天王寺別院の庚申堂(こうしんどう)へ行く、とのこと。

四天王寺庚申堂とは、日本の庚申信仰の発祥の地と言われているところで、60日に一度、つまり年6回だけ縁日(庚申の日)があり、その日は庚申堂でこんにゃくを食べて厄払いをするのだそうです。

「それがね~実はきょう、偶然にも60日に1度のその縁日の日に当たってるんやわ。だからこんにゃくを食べて
「あぁ、そうでしたか。でも朝から酒は飲みまへんやろ」
「うん。それはまぁそやけどなぁ、飲んでもよろしいで」
な~んて会話を交わしながら、やって来たのが四天王寺庚申堂。僕はこの中に入るのは初めてです。

 


 
四天王寺庚申堂へ入って行く。
写真には写っていませんが、門の右側に
本邦最初 庚申尊 
という、大きな石碑が建っていました
  


 

正面が庚申堂なのですが、境内にはNさんが言ったとおり、テント張りの「庚申こんにゃく」の店がありました。1皿にこんにゃくが3個入って300円。ウダウダ会のメンバーは全員それを買って、そばのベンチに座って食べました。こんにゃくは北を向いて食べるということになっており、なるほど、ベンチは全部北向きになっていました。


 
右奥に北を向いてベンチが並んでいて、そこへ座って食べます

僕もそのベンチに座って、辛子をかけたこんにゃくを膝の上に置いて写真をとりました。こんな感じですが、味がよくしゅんでいて、なかなかおいしかったです。もちろん、お酒なんか飲んでいませんよ。

  

さて、こんにゃくも食べ終えて、再び出発。まず、久しぶりに四天王寺の境内を歩き、そこから七坂の最初の「逢坂」へ向かいました。

しかしウダウダ会一行は、ワイワイ言いながら歩くので、四天王寺から逢坂に入っても、それが七坂のひとつとはほとんどの者が気付かず、逢坂の石碑や案内板の前を素通りして行くので、僕は声を張り上げて「待って待って~。ここが七坂最初の逢坂やでぇ」と皆を引き留めなければなりませんでした(笑)。

まぁ、みんな久しぶりに顔を合わせて、「七坂巡り」より雑談しながら歩く方が楽しいのかも知れませんし、またおまけに、逢坂は国道25号線に面している賑やかな歩道で、坂もゆるく下っているので「七坂」の一つとは思いにくいですしね~。

そのあと、右折して、真田幸村が戦死した安居神社を見学。ここは僕も過去5回くらい来ているので、すっかりなじみの場所になりました。


 
正面の階段を上がったところが安居神社

そして安居神社から天神坂を上がると、次が清水坂なのですが、手前に清水寺があり、一行は寺に入りました。

しかしなぜか突き当りにある僕のお気に入りの「清水の舞台」まで行かず、途中で左側の階段を降りて「玉出の滝」を訪れ、そのまま西門から出て清水坂を上がりました。そしてリーダーを先頭にそのまま次の場所へ行きかけたので、
「ちょっと待ってぇ。清水の舞台へ行こうよ!」
と、声をかけ、みんなにもう一度清水寺まで戻ってもらい、今度はまっすぐ突き当りの清水の舞台まで行きました。せっかくここまで来て「舞台」を見ずして帰るのはあまりにもったいないですからね。メンバーの中には「へぇ、大阪にもこんな所があったんや」と感心していた人も結構いました。

清水寺へ来るのは4度目ですが、初めて集団で来たので、仲間の1人に頼んで写真を撮ってもらいました。


 

4度目にして、ようやく「舞台」を背景に写真が撮れました


このあと「愛染さん」から「生玉さん」へとゾロゾロと、賑やかにウダウダ会の一行は歩いて行くわけですが、それはまた次回ということにさせていただきます。

 

 

 

 

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モミィが読売新聞に

2018年11月25日 | 日常のいろいろなこと

いきなりですが、このブログをお読みいただいている方で読売新聞を購読されている方がいらっしゃれば、今月20日の朝刊を見ていただきますと、モミィが写真に載っています。ただし6ページにある「関西経済面」というところの特集記事なので、全国版ではないと思いますけど。

こういう記事です 

 

「激動 学習塾」という特集で、記事には、

「新しい学習指導要綱が導入され、大学入試改革が行われる2020年に向けて、教育現場は大きく変わりつつある。変化を好機ととらえ、事業拡大を目指す学習塾の動きを追う」

という書き出しで、ほぼ1ページ全面に英語とプログラミング教育について詳しく述べられています。ちなみに、プログラミングというのは、僕もよく知りませんが、コンピューターに指示をするプログラムを作ることをプログラミングというそうです。それ以上、聞かんといてください(笑)。

さて、この新聞記事の前半は英語教育と、英語に力を入れている塾のことが書かれています。

「英検の成績がよければ、高校、大学入試で有利になる」と個別指導塾「ベストワン」藤井寺校(大阪府藤井寺市)で学び、英検の2級を取得した中3の西原桂子(15)は言い切る。

と、記事をそのまま引用しましたが、この西原桂子ちゃんという子は、モミィの塾での2歳年上の仲良し友だちなのです。家でも「けいこちゃんがねぇ」と、よく会話に出てきます。モミィは先日、準2級に合格しましたが、桂子ちゃんはその前の英検で2級に合格したのでした。

桂子ちゃんが、英検の成績が良ければ高校、大学入試に有利になると言いましたが、モミィが今の中学の入試で合格できたのも、当時英検3級を持っていたことが大きな力になっていました。

ところで、なぜ読売新聞がこの件で、数多くある塾の中から、モミィが通うこんな小さな塾を選んだのかは知りませんが、「ベストワン」はECC系列なので、僕らは普段、この塾を単にECCと呼んでいます。

記事には、英検人気が高まる一方なので、塾では対策に力を入れており、今後ますます英語塾の競争が激化するだろう、ということが書かれていました。

うちは読売新聞ではないので、その記事のことを20日当日には知らなかったのですが、その後モミィが塾の先生から「読売新聞に載っているよ」と教えてもらったので、それを聞いた妻が図書館へ行き、その新聞記事をコピーして持ち帰り、僕に見せてくれたのでした。

妻によると、この記事の取材に来た新聞記者に、モミィもいろいろと質問されたそうです。それで、沢山しゃべったと言っていました。最後に記者から「あんた、面白い子やなぁ、大きくなったらウチの新聞社に入ってや」なんて言われたということです。

で、記事を全部読んだのですが、前述の中3で2級合格の桂子ちゃんの談話は名前入りで載っていましたが、いろいろな質問に答えたというモミィの名前は載っていませんでした(笑)。

ただ、記事の左端に写真があり、そこにモミィが写っていたのです。写真をアップしてみますと、


 
 

一番向こう側が中3の桂子ちゃんで真ん中が講師の先生。そして手前の眼鏡をかけている子が中1のモミィです。写真説明には、
「英検対策の個別指導を受ける中学生(大阪府藤井寺市で)」
とありました。モミィ、初めて新聞に載るといったところでしょうか(笑)。

小さいころからECC英会話教室に通わせていたことが、こうして実りつつあることは、僕も嬉しいです。次の目標は、1月に英検2級に合格するとのことで、塾の女先生から激を飛ばされているみたいですが、まぁ、それはちょっと難しいかな。でも経験を重ねることが大事ですからね。 

むろんいつも英語の勉強ばかりしているわけではなく、学校の他の教科にも力を入れなければならないし、部活(理科部)はあるし、土曜日の夜と今日の日曜日の午前は「なぎなた教室」だし、平日の夜は正式な授業がない日も含めて塾へ行っているし、空いている時間があれば友だちと阿倍野へ遊びに行ったりしています。 

まあ、あきれるほど元気ですわ。 

これまで、小・中学校で休んだ日がないという、つまりほとんど病気をしないという健康な体がモミィを支えています。やはり元気だからこそいろんなことにチャレンジできるんですよね。 

体が丈夫なことが、何よりも、何よりも一番!
モミィを見ていると、つくづくそう思います。

 

 

 

 

 

 

 

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大阪万博の開催が決まりましたが…

2018年11月24日 | ニュース・時事

きょう、朝一番のニュースで、2025年の万博の大阪開催が決まったことを知りました。僕は大阪府の今回の万博誘致には、大した関心を持っていなかったので、ニュースを見ても、「ふ~ん。そうなん?」という程度の感想しかありません。お金も沢山かかるし、どれだけ経済の活性化になるのかも不明だし。

僕らの年代で「大阪万博」といえば、今でも、自分が21歳の時に開催された万博(1970年)しか考えられないんですよね。あの時は、ものすごい人気でした。

その前年に、自転車で北海道往復旅行をしたときも、どこへ行っても「大阪から来ました」と言うと、「あぁ、来年、万博が行われるんだね。いいね。私たちも行きたいな」とよく羨ましがられました。それほど高かった関心が、今回で2度目となる大阪万博には寄せられるのだろうか?と疑問に思ったりしています。

また例によって昔ばなしになりますが、あのころは、僕が高校1年生の時に東京オリンピックが開催され、連日テレビの前で大興奮したものですが、その6年後に大阪で万博が開かれたんですよね。今回もまた、2020年に東京オリンピックがあり、その5年後に大阪で万博とは。歴史は繰り返す、と言いますがホントですね。僕としては大阪でオリンピックを開いてほしかったです。万博にイマイチ関心が湧かないのは、そんな思いも働いているのかも知れません。

さて、その1970年の万博ですが、前年にアポロ11号が、史上初めて人類を月に着陸させることに成功しました。1969年(昭和44年)7月21日。僕は自転車旅行中で、その時は北海道の網走の知人の方のお家に数日滞在し、21日は列車と船に乗り、知床半島を巡りました。そして網走のお家に戻り、夜にテレビでアポロ11号の月面着陸の中継を見ました。そんな忘れがたい思い出があります。

その月から持ち帰った石も、翌年の大阪万博で展示され、それがさらに万博の人気に拍車をかけたのですよね~


 
「月の石」をひと目を見ようとする人たちの、ものすごい行列。


 
 「月の石」を見る人たち。(2枚とも、ネットからの写真です) 

僕も、つき合っていた彼女(もちろん今の妻ですけど)と、一度だけですが行きました。しかし、会場内のあまりの大勢の人に怖気づいたほど。元々僕は人混みが苦手なので、月の石などには決して並ばず、人気が少なくてすぐに入れるパビリオンばかりを巡りました(笑)。それでも「万博に来ているんだ」ということだけで、嬉しかったですね~

あれから55年ぶりの2025年に、再び開催されることに決まった大阪万博。モミィが20歳になる年でもありますが、モミィにとっては「思い出の大阪万博」ということになるかも知れません。ま、僕もそれまで生きていたら十分ですかねぇ。

そこで、その大阪万博が開かれる時までは生きていることを目標にしよう、と今朝、自分に言い聞かせました。ある意味、僕なりに大阪万博の意義を見出したわけです(それを意義というか??)。

さて、話はコロッと変わりますが、世間は昨日から3連休なのですね。うちは、モミィが今日の土曜日も学校があるので、「3連休」というのがピンときません。おまけに僕自身はず~っと「死ぬまで連休」ですしね(笑)。

その世間の「3連休」の初日である昨日の祝日、久しぶりにウダウダ会に参加して、十数人のメンバーで天王寺七坂を巡ってきました。

七坂については、先日、一人で歩きに行き、ブログにもそのことを掲載しましたが、帰宅した時に郵便受けにウダウダ会からの封書が入っていて、中身を見たら「11月23日、天王寺七坂巡り」という案内でした。いま行ってきたばかりのところなのに、とビックリしたわけですが、昨日はいいお天気の中で、みんなでワイワイと言いながら七坂を巡りました。また新たな発見もありましたので、近いうちに書きたいと思います。

ではでは、皆さま、3連休の中日に、どうもお邪魔しました~ 

 

 

 

 

 

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煮えたぎる鍋の中に顔を!

2018年11月22日 | ニュース・時事

ある小さな芸能プロダクションの社長が、男性従業員に、忘年会の席で、煮えたぎるしゃぶしゃぶ鍋の中に顔を押し付けて大やけどを負わせた、というニュースが今日ありました。まぁ、3年前の出来事らしく、当時社長は25歳で従業員は23歳とのことでした。「パワハラか?」などと言われていますが、これはそんな問題じゃなく、傷害罪か、殺人未遂罪にすらなりかねない凶悪な行為ではないかと思われます。なにせ、グツグツ沸騰している鍋に、顔を突っ込ませたのですから。 


           
これがテレビで映された問題のシーン。
鍋は煮えたぎっていた、ということです。


それが、今週の週刊新潮に載ったということで、今日のワイドショーはそれを大きく取り上げていました。なんで3年前のことが今になって急に発覚したのかわかりませんけどね。

さて、その「熱湯鍋へ顔を押し付けられた」という事件ですが、宴会もたけなわになった頃でしょうか、社長が従業員に「何か面白いことをやれ」と命じたら、「いえ、無理です。できません」と、答えたとのこと。

テレビ番組によると、それで不機嫌になった社長は、じゃぁ、酒を飲めと言って、「ビール15杯、レモンサワーをピッチャーで2~3杯」飲ませたという。「飲ませた」というけど、飲ませられて飲める量じゃないですよね。

僕も飲むことは大好きですが、この量ってどうなの? ビール15杯、というのは、生ビールでしょうか? いずれにしても、15杯ですよ。15杯。げぇ~~。それとレモンサワー(つまりチューハイです)を、なんとピッチャーで2~3杯飲んだということ。

ピッチャーって、野球じゃありませんよ(わかっとるがな)。大きな入れ物で、みんなで分けて飲むのがピッチャー。だいたい1.8リットルぐらい入ります。つまり一升ですよね。ビール15杯を飲んだあと、ピッチャーのレモンサワーを一人で2~3杯?

そんな飲めるか? と僕は疑問に思うんですけど、テレビのコメンテーターたちは、そこは完全にスルーしていました。そして、それだけ飲ませて煮えたぎる鍋に顔を押し込む暴挙に及んだという社長の行為をボロクソにこき下ろしていましたが、そりゃまぁそうですわね。

ただ、僕が不思議に思うのは、この「被害者」がそれだけの量のアルコールを、いくら「飲め!」と命じられても、よく全部飲めたもんだなぁという驚きのほうが強いですね。

いくら大酒飲みでも、それだけの量を一度に飲めますか?

ともあれ、それを飲んだ後に、前述のように、社長からしゃぶしゃぶの鍋に顔を突っ込まれたということでした。

もし、この話が本当だとしたら、被害を受けた従業員は、その時はベロベロに酔っていて意識不明の状態ではなかったのかと思います。でないと、もう少し抵抗するでしょう。煮えたぎる鍋に顔を突っ込まれるんですよ。ベロベロでなければ、暴れて逃れられたんではないかな?

でもね~。ベロベロだったとしたら、頭も体も動きは鈍くなるし、何が起きてもわけがわかりませんからね~。僕もむかし、酔って溝や田んぼに落ちたことがありますが、「痛い!」と思ったことはありません。第一、何も覚えてないんですから(アホやがな)。

それと、加害者とされる社長も、泥酔していたのかも知れません。

いずれにしても「正気の沙汰」ではありませんよね。ひと言でいえば、お酒はほどほどにしなくちゃね~ ということですわ。僕も気をつけなければ。

この事件をワイドショーで見ながら、しみじみと我が身を振り返った次第です。

ところで、上の写真をもう一度見てください。

男性の頭を押し付けている社長の手、というのは、なんだか、女性の手のような感じがしませんか? この芸能プロの社長というのは、もしかして女性だったりして。

おお、こわ!

 

 

 

 

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初マラソンと丹波篠山

2018年11月21日 | ランニング

先ごろ兵庫県の篠山市で「丹波篠山市」への市名変更の賛否を問う住民投票が行われましたね。僕も篠山市とはいささか縁があるので、この件に関しては注目をしていました。

「篠山市」が「丹波篠山市」になったら、何が変わるのか? なぜ「丹波」を上につけるのか? と思われる向きもあるかと思いますが、いろいろな背景や事情があるようです。

さて今回の「騒動」の発端は2004年(平成16年)でした。「平成の大合併」で「丹波市」という名の市が誕生したのです。兵庫県の氷上(ひかみ)郡というところの6つの町が合併して市になろうという時、新市名を公募したところ、1位が旧の郡の名前をとって「氷上市」だった。そして2位が昔は丹波の国だったことから「丹波市」。3位が当節流行のひらがなの「ひかみ市」。しかし合併協議会は1位の「氷上市」を選ばず、2位の丹波市に決めた。そのほうがブランド力があるから、というのが理由だったそうです。

しかし丹波の国は兵庫県の東部一帯だけでなく、京都府の中央部や大阪府の一部も含まれており、「丹波市」誕生の当時から、篠山市だけではなく、京都府などからも非難されたそうです。つまり「丹波市」といえば、丹波の本家本元に聞こえるので、その名前を独占するな。丹波を付けたければ「丹波〇〇」とかにせよ、と。実際京都には「京丹波町」というところもありますしね。

そして丹波市が誕生したことで、篠山市が産地で「丹波産」として出荷していた黒豆など有名な生産商品が、「丹波市産」と勘違いされることになり、篠山市は大きな打撃を受けてきた、ということもあるようです。

そんなことで、今回、篠山市の上に「丹波」をつけて「丹波篠山市」にしようという動きが盛り上がって、住民投票になったというわけですよね。しかし、住民投票というのは投票率が50%を上回らなければ成立せず、それ以下なら開票もしない、ということになっており、まずは勝敗より投票率に注目が集まったわけですね。

新聞、テレビなども、先日18日の住民投票の投票率はどうなるのか? 
と、盛んに報じていましたが、フタを開けてみると70%近い投票率で、しかも賛成派が反対派を上回りました。これを受けて、市長が市議会に市名変更の条例を提案して、議員の賛成多数なら「丹波篠山市」が誕生する、ということになります。まぁ、住民の意思が賛成多数なんだから、住民の代表たる市議会も反対はしにくいと思いますけど

僕も「丹波」と言えば、やはり篠山を思い浮かべますね~

冒頭に、僕もいささか篠山市とは縁がある、と書きましたが、それは、僕が初めてフルマラソンを走ったのが「篠山ABCマラソン」だったからです。1982年(昭和57年)の3月。33歳の時でした。

それ以来、50歳代前半まで、フルマラソンは20回完走し、ウルトラ100キロマラソンも3回完走しました。中でも初めてのマラソンが、この地、篠山での大会だったので、一生の思い出の場所となっています。

当時は今と違って、マラソン選手以外の素人ランナーが出場できるマラソン大会は全国でも数えるほどしかありませんでした。まぁ、ランニング人口も少なかったですし。そんな折に、当時はまだ市ではなく篠山町でしたが、1981年(昭和56年)に誰でも参加できるマラソンの大会が新たに誕生したのです。その頃は毎朝仕事に行くまで、ラジオの朝日放送「おはようパーソナリティ」を聞いていたので、道上洋三さんがその第1回の大会に出て見事に完走されたことに刺激を受けました。

よ~し来年の第2回大会には出ようと、その時決意したのでした。フルマラソンどころか、5キロや10キロのレースにも出たことがなかったのに

そしていよいよ翌年の3月。朝早くに妻と2人の小学生の息子たちと家を出て、梅田から篠山へ直行するマラソンバスに乗り、会場へ着きました。

繰り返しますが、この時は第2回大会でした。そして来年の3月は第39回だそうです。もう、そんなになるんですね~。びっくりしますわ。

スタートの号砲で、初マラソンの僕はノロノロと走り出したのですが、みんなむちゃくちゃ飛ばすのでビックリしましたが、それはスタート直後だけで、しばらくすると周囲のスピードも落ち着いて、初めて経験する「レース」の感覚にかなりの興奮を覚えました。沿道では地元の人たちが応援してくれるのも、とても元気づけられました。

折り返し地点から元の道を走り、登り坂では走らずに歩き、タイムなど関係ない、めざすのは完走のみ、と何度も言い聞かせながら、だんだんゴールに近づいてきたときは胸が躍りました。

そしてスタート地点と同じゴールへ戻ってきたら、当時9歳だった長男が僕を見つけて、満面に笑みを浮かべたことも、はっきり覚えています。

そしてゴールイン。

タイムは4時間23分でした。ゴールの場所では、地元の方たちが、「デカンショ節」を歌いながら踊って、ランナーたちを迎えてくれました。

♪ デカンショ~デカンショで半年暮らす ヨイヨイ 
あとの半年 寝て暮らす ヨーイヨーイ デッカンショ 

♪ 丹波篠山 山家の猿が ヨイヨイ 
花のお江戸で 芝居する ヨーイヨーイ デッカンショ 

♪ 丹波篠山 山奥なれど ヨイヨイ 
霧の降るときゃ 海の底 ヨーイヨーイ デッカンショ

今も耳に残っているこの歌です。

続いて、翌年の3月もまた篠山マラソンに出ました。もう、この頃は、僕は篠山が大好きになっていました。

2度のマラソンを篠山で完走した自信を得て、その年の秋、3度目のマラソンとして、思い切ってニューヨークシティマラソンに行きました。こうして、丹波篠山を第一歩として、僕のマラソン人生が始まったのです。

こう書いていても、
やっぱ
り「丹波篠山」というほうが、雰囲気が出ますよね~

 

  
 1982年の初マラソンのゴール直後。
 無事に完走できて、とても嬉しかったデス。

 

 

 

 

 

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飲酒パイロットと赤緑色弱

2018年11月19日 | 思い出すこと

パイロットと言ってもボールペンや万年筆ではありませんよ。飛行機を操縦する人です。その操縦士が、ロンドンのヒースロー空港において、乗務前の飲酒で警察に逮捕されたニュースが大きく報じられました。逮捕されたのは日本航空の副操縦士。現地の基準値の10倍以上のアルコールが検出されたというのですから、驚きです。

これを機に、日航はパイロットの乗務前アルコール感知件数を公表したけれど、この1年余りで日航グループ社全体の感知件数は25件だったそうです。けっこう多いですね。「ほろ酔い操縦」なんてされたら、お客さんはたまったもんじゃありませんね。なお、この副操縦士は、現地警察に逮捕される直前の社内検査では、意図的に不正をして検査を逃れたということです。これもねぇ、恐ろしい話ですよ。

どうも、日本の航空会社のアルコールに対するチェック体制が全体的に甘い、というのが事実のようです。ということは、これまでも似たようなことが何度もあったのだろう、と思いたくなります。 

また、アルコールのチェックに引っかかって乗務が取り消された場合でも、会社側は「体調不良のため」と発表していたようです。まぁ「機長が酒臭いので今回のフライトは取りやめます」なんて言ったらお客さんたちはカンカンに怒りますものね~

19年前、妻と長男と3人で、ロンドン、パリ、ローマの旅行に出かけたことがあります。十数名のツアーだったのですが、旅の最後の日はローマで、その日の午後にそこを出発して帰国の途につくはずでした。

ところが、添乗員さんが朝食の時に「実はきょう乗る予定の飛行機のパイロットが体調不良のため、その飛行機が飛ばなくなりました。恐れ入りますが滞在を1日伸ばして、明日の午後に出発ということにさせていただきます」
  
そう言ったのです。その日は土曜日で、僕は1日遅れても日曜日に帰宅すれば仕事に影響はないので、むしろもう1日ローマを楽しめるのでシメシメと喜びました。

しかし、ツアー客の中にはそうでない人もいました。

「パイロットって1人しかおらんのか? 1人が体調を崩したら飛行機が飛ばんって、そんなアホなことあるかいな」

その人は、翌日までず~っとボヤいていました。そりゃ、1日でも帰国が遅れると大きな支障が出る人もいるでしょう。

でも、日本の飛行場なら「代わり」のパイロットがいるかと思いますが、外国の空港にはそういう「代わり」がいないそうなんですね。

前述したように、パイロットの体内にアルコールが残っていたことがわかっても、航空会社はこれまでは「体調不良」としか発表してこなかったという話を聞くと、ひょっとしたらあの時、ローマから出る飛行機のパイロットが操縦できなかった理由が単なる「体調不良」でなく、実は酒を飲んでいたのではないのか? という疑いが頭をよぎったりしますよね~

そんなわけで、今回のニュースを見て「パイロットの体調不良」のため僕らのローマでの滞在が1日増えたことを思い出しました。

このニュースに関して専門家が話していましたけど、最近はパイロット不足なんだそうです。人気のある職業だと思うんですけどね。

僕らが子供の頃は、パイロットになりたい、という夢を持っている子供たちが大勢いました。かく言う僕も、小学生の時は「なりたい職業」はパイロットでした。勉強ができたわけでもないのにね~ でもカッコよさでは、どんな職業よりも輝いているように見えました。

まぁ子供の頃ですから、僕もどこまで本気でパイロットをめざしていたのかは、はっきり覚えていませんが、次のことだけは記憶にあります。

ある時、小学生の時か中学校の時か忘れましたが、身体検査の時に色覚検査という初めて受ける検査がありました。いろんな色の大小の丸がぎっしりと詰まっている模様に描かれている数字を読み取る検査でした。もちろん、こんな検査を受けるのは初めてでしたが。

    
    こんな感じのものでしたね
 

その検査の結果、僕は「赤緑色弱」と言われました。つまり、赤と緑で描かれた数字がうまく読めない、ということなんだそうで。

「なんのこっちゃ?」

赤も緑も僕はちゃんと見えてます。でなきゃ、信号の色がわからん、ということになりますもんね。僕がそう言ったら、先生は「大丈夫よ。色弱は日常生活には何の影響もないわ」と言いました。なら、一体この色覚の検査って何のためにあるんだ、と子供心に不思議でした。こんな「モヤモヤした色紙」みたいなものがあるから、赤緑色弱なんてレッテルを貼られるわけで、これがなければ僕は色弱でもなんでもないんだよ、と思ったものです。

その後、たぶん高校生くらいの頃。まだパイロットの夢を捨てきれなかった頃ですが、衝撃の事実を知りました。それは、パイロットの資格条件として、ダメなものの中に「赤緑色弱」が入っていたのです。「ええ~?」とのけぞるほど驚いたことを覚えています。「ほんなら、僕は赤緑色弱やから、いくら勉強してもパイロットにはなられへんねんなぁ」と、悲しかったですわ。

今、NHKで放映されている朝ドラ「まんぷく」で、福ちゃんの姉さんの旦那さんで、要潤さんが演じている絵描きさんがいます。この人が戦争で光線を浴びて目がおかしくなり、「赤と緑の区別がつかない」と、がっくり肩を落とす場面がありました。これも赤緑色弱なんだそうです。この場合はかなりきつい症状で、そのために一時期は絵が描けなくなるのですが、青を使った絵を描いて復帰したという話がありました。これを見た時、自分が赤緑色弱だと言われたことを久しぶりに思い出しました。そしてさらに今回のパイロットの飲酒のニュースがあったので、「あ、パイロットと言えば、そんなことがあったっけ」と、また少年時代の赤緑色弱のことを思い出したというわけです。

でもね~。まかり間違って僕がパイロットになっていても、酒好きの僕ですからアルコール基準値は上がりっぱなし。会社から何度も注意されたあげく、クビになっていますわ。で、パイロットにならなくてよかったなぁ、と今では思っています。

(そのアタマで、なれるはず、ないやろ~)

 

 

 

 


 

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英検準2級二次試験 結果は

2018年11月15日 | 日常のいろいろなこと

先月24日、モミィが英検の準2級一次試験に合格したことを書きました。

そして今月の4日に、二次試験が大阪市内の学校で実施されました。

一次試験は学校からの「団体受験」ということで、モミィの学校で行われたのですが、二次試験は英検が指定する学校で行われます。場所は東住吉区にある城南学園という女子校でした。モミィももう小学生ではないんだから、3人で行くこともないだろうと、妻とモミィの2人で行きました。

その日は妻と何度かメールをやりとりをしましたが、保護者待合室には少人数しかいなくて、やはり準2級の受験生は、高校生かそれ以上の子が多いのでしょう、ということでした。

さて、面接が終わってモミィが出てきた時の様子が、妻からのメールで送られてきました。それを見ると

「面接ではムチャ緊張した。頭が真っ白になって、ゼンゼン駄目だったと言っています。残念です」という文面でした。そうかぁ、ダメだったか、とガッカリしましたが、一方では、いや、まだあきらめるのは早いで、という気持ちもありました。まだ不合格が決定したわけではないんですから。

ふつうはあまり緊張しないモミィだし、これまでの資格試験や入試の結果を見れば本番で実力以上のものを出してきた子だったので、「ムチャ緊張した」というのが不思議でした。そして妻が『残念です』と書いたことに対しては、僕は返信で、
「そう、緊張したの? 珍しいね。でも『残念です』はまだ早いでしょ。結果はわからんよ~」
そんなやり取りをしました。そして夜に帰って来たモミィに「緊張したん?」と聞くと、「した、した。緊張しまくりやった。今回はゼッタイあかんわ」とこちらもあきらめムードでした。

ま、次は1月に試験があるので、それも一次試験は免除で二次試験だけだから、もうひと頑張りしたらええやん、と一応は僕も妻も、モミィを励ましました。

というのが11月4日の二次試験の日のことでした。

そんなことで今回は期待もせず、僕はいつ合格発表があるのかも知らなかったのですが、一昨日(11月13日)の夜のことでした。

モミィはまだ塾から帰ってきておらず、僕と妻と2人だけだったのですが。

妻がパソコンをいじっていたのですが、僕に「ちょっと、これを見て」と画面を指差しました。妻はパソコンの操作は不得意で、画面にいきなり関係のない広告や不可解なメッセージが出た時は僕に声をかけて「これは、どうすれば消せるの?」などと。よく尋ねるのです。この時もてっきりそんなことだと思って画面をのぞき込むと

「ここよ。見て」
と、妻が指を差した画面は、モミィの準2級二次試験の結果速報でした。

へぇ? ネット上の結果速報が今日だったのか。

そして、そこにはモミィが「合格」と書かれていたのです。

へぇ~~! 

何度も何度も確かめました。狐につままれたような気分になりましたが、たしかに「合格」と書かれていました。思わず妻と顔を見合わせ、僕は「ほんまかいな?」と半信半疑でした。妻は「よかったね~」と一言。うん。まぁ、確かに、よかった、よかった。

モミィの点数を見ると、一次試験の時はギリギリ合格だったのですが、この二次はそれよりはいい成績でした。う~~ん? わけわからん。

でも、わけがわからんかっても、結果が良かったんだからね~

モミィは「緊張して頭が真っ白」と言っていたけど、頭が真っ白でも、それなりに面接ではちゃんと答えていたんでしょうねぇ。緊張する子って沢山いますしね。それでもきちんと答えてるなぁ、と面接官が判断したら、それなりの結果がついてくるってことでしょうね。

そういうことで、思わぬ朗報に戸惑いつつ、歓喜の一夜を過ごしました。

ちなみに、モミィの通う中学校は、1年生は全部で4クラスなのですが、たまたまですが、それぞれのクラスから1人ずつ準2級を受ける子がおり、今回は4人とも合格したそうです。で、モミィ以外の3人は帰国子女や小学生の頃から英語教育を中心にした私立小学校に通っていた子ばかりで、普通の公立小学校から来たのはモミィだけだったとのことで、今日、先生に「よう頑張ったねぇ」とほめられたと言っていました。ま、嬉しい話ですね~

先月24日のブログで、目標は中学卒業までに2級をとることと書きましたが、これでその目標にチャレンジする態勢に入れました。

せやけどね

モミィは準2級という大きな坂を一つ越えたのですが、僕なんかは天王寺で七つもの坂を越えてますからね~ 

まだまだモミィは、僕の足元には及びませんわい(笑)

 

 

 

 

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天王寺七坂を散策(終) ~天神坂・逢坂~

2018年11月11日 | ウォーク・自転車

    

大阪の中心地の道路は南北が「筋」で、東西が「通り」と呼ばれています。例えば、南北の御堂筋、東西の千日前通り、というふうに。

上の地図の南北にかけて通る道路の右側(東)が谷町筋、左側(西)が松屋町筋です。かつては坂の下、つまり松屋町筋のあたりまで海がきていた、ということです。信じられないような話ですけどね~。

さて、清水寺から南へ数分歩いたら、天神坂に来ました。今度は下りです。

 

2年前に来たときは、「マンション建設反対」の大きな幟が目立ち、ちょっと風情を欠いていましたが、今回はそれも無くなり、しっとりとした良い雰囲気です。う~む。しかしね~。この写真を見たら、左側に新しそうなマンションが建っていますね。近隣の反対を押し切って、建ったのかなぁ。ま、それはいいんですけど。

これをこのまま真っすぐ下って行くと松屋町筋に出るのですが、途中に安居神社(安居天神)があるので、どうしてもそこへ寄らなければなりません。ゆるゆると坂道を下ってゆくと、その途中、左手に天神坂の碑と案内板がありました。


 
向こうから下ってきました。

案内板には「安居天神へ通ずる坂道なので天神坂と呼ばれている」というふうなことが書かれています。この写真右側が安居天神、すなわち安居神社で、碑のすぐそばに神社へ上がって行く階段があります。


 
これがその階段。
何しろこの辺は坂道と階段だらけですさかいな~(笑)

安居神社は、ご存知の方も多いと思いますが、真田幸村が大坂夏の陣で戦死した場所でもあります。2016年の大河ドラマ「真田丸」で一躍この周辺が有名になり、僕も真田丸の出城があった真田山からこの安居神社へ、何度か来たことがあります。


 

森に包まれた神社の境内に入ると、そこに、真田幸村の像と、その右側に鋭角的な形をした「真田幸村戦死跡之碑」があります。幸村公は、なぜか片膝を立てておられます。


   
 


いま来た階段を下りて天神坂に戻り、そこから下っていくと、例のごとく松屋町筋に出ました。しかし松屋町筋もここで突き当りとなり、終点です。そこから、国道25号線を東へ、つまり四天王寺さんのある方に向かって歩くと、右側の向こうの方に母の納骨をしている一心寺さんがチラチラと見えてきます。そして、前方に碑が建っていました。
 

 
国道25号線沿い。歩道の右に碑が見えます。


 
逢坂の碑

しかし、これまでの坂とまったく違って、広い国道沿いの歩道であるうえ、坂道と言ってもゆっくりと上っているだけ。なので「坂」という実感は、あまりありませんね。で、特に感想というほどのものもなく、どう書けばいいのかわからないので、ここは「逢坂」の案内板の写真を出してお茶を濁しておきます(笑)。


 

「逢坂」と言えば、百人一首の10番目、

これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂の関 (蝉丸)

という歌が思い浮かびますが、ここで言う「逢坂の関」は昔の京都と滋賀の間にあった関所だから、天王寺とは全然関係ないと思っていました。でも、この案内板に「逢坂の関になぞらえてよんだものとも……言われている」そうなので、まんざら無関係でないのかも。


 
道路の向こうに一心寺さんが。

これで七坂は終わりました。

一心寺さんの前の信号を渡り、お寺に入りましたが、本堂は大規模改修中でした。でも納骨堂はそのままだったので、亡き母にお線香を上げ、そこから天王寺駅前の方へ歩き、近鉄電車に乗って帰りました。

と、七坂のブログはここで終えるはずだったのですが、家に帰ってびっくりすることがあったので、そのことをつけ加えます。

夕方に帰宅して、郵便受けを見ると一通の手紙が入っていました。
差出人は、

日本ウダウダ会

でした。これまでもウダウダ会については何度も書きましたが、会員数が男女合わせて十数人で、会の名称をみても分かるとおり、面白い顔ぶれが多く、ウダウダ言いながら歩く会とでも申しましょうか、ウダウダ言いながら酒を飲む会とでも申しましょうか。もちろん品格のある方も多くいらっしゃいますが。(いったい、どんな会やねん?)

そのウダウダ会からの通知が郵便受けに入っていたのです。すぐに封書を開けて内容を読んでみると、11月下旬に歩こう会を実施します、という通知でしたが、その行く先がなんとまぁ、「天王寺7坂巡り」と書かれていたのです。


 

何やの? この偶然は。 

コースは逆やけど、天王寺七坂には、
たった今、行ってきたばっかりやん。

本当に、驚きました。

はい。そんなオチで、天王寺七坂テクテクの記、終わります。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました~。

 

 

 

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天王寺七坂を散策 ~清水寺の舞台や玉出の滝~

2018年11月09日 | ウォーク・自転車

   

さて、愛染坂を下ったあと、左(南)へ曲がり、狭い道を5分ほど歩くと清水(きよみず)坂が見えてきました。愛染坂を下ったのですから、今度は清水坂を上るということになります。

 

 
スロープがついているので、自転車もOKです


この坂道を上がったところに案内板がありました。 

   

ここに「新清水清光院に登る坂道をいう」という説明が出ています。そのとおり、このすぐ近くにお寺があります。それが「清水寺」なんですよね。正式には「有栖山清光院清水寺」という名称だそうですが、上の案内板を見ると「新清水寺」とも書かれています。

江戸時代に、それまで別の名だったのが、京都の清水さんから千手観音をいただいたことをきっかけに寺の名を清水寺に改めたということです。お寺が高台にあるので、本家を真似して「舞台」を造り、さらに境内に「音羽の滝」とそっくり同じ形の滝をこしらえて、大阪版清水寺ができたのです。

その清水寺をご覧ください。

 

中へ入り、墓地の中をまっすぐ歩いて行くと、その突き当りに

 

「清水の舞台」があります。
ここから大阪の街の西側が一望できます。
左の方に通天閣も見えますね。

先ほどの案内板に、

境内南側のがけから流れ出る玉出の滝は、大阪唯一の滝として知られている。

と書かれていた「玉出の滝」というのは、墓地から石段を下へ降りていって、左手に曲がったところにひっそりとあります。

これがまた、京都の清水寺の音羽の滝とそっくりで、筧(かけい)が3本突き出していて、水がちょろちょろと流れ落ちています。これが「大阪で唯一の滝」なんだそうです。

 
玉出の滝です。
これが「滝」か? と思いますけど、次の写真を見てください。

 

こちらが本家、京都・清水寺の音羽の滝。超有名な「滝」ですね~

 
本当によく似ていますよね。

京都の清水寺の舞台や音羽の滝は観光客でごったがえしていますが、こちら天王寺の「清水寺」は、舞台も滝も、ひっそりとして、どこにも人影はありませんでした。

そんなことで清水坂を上がり、清水寺を散策した後、次の「天神坂」に向かいました。

「天王寺七坂」は次回で終わります。
皆さん、もう少しのご辛抱です(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

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天王寺七坂を散策 ~口縄坂・愛染坂~

2018年11月08日 | ウォーク・自転車

    
今回は松屋町筋を南下して口縄坂を東へ上り、そこから
細い道をクネクネ曲がりながら愛染坂を下るまでの話です。

 

松屋町筋を南へ歩くこと約10分。やがてそれらしきものが見えてきました。写真左のお寺の壁のそばに建っている碑です。

 

ここを左に折れると、その道が口縄坂です。

 


案内板には「坂の下から眺めると、道の起伏がくちなわ(蛇)に似ているところからこの名が付けられたという」とありました。蛇のことを「口縄」とも言うのですね。広辞苑を引いてみると確かに「くちなわ」という項目があり、「蛇の異名」と書かれていました。蛇の姿が朽ちた縄に似ているところから「くちなわ」になった、とのこと。いろいろ勉強になりますわ(笑)。


 

しかし、蛇に似ているんだったら、坂道もクネクネしているのかな、と思いますが、わりに真っすぐです。有栖川さんの小説「幻坂」では、登場人物が「石段が蛇腹みたいに見えるからやろ?」と言う場面が出てきます。そういうことなんでしょうかね~ 

 

  
口縄坂を上がると、ごく普通の街並みですが


坂を上がったところに御影石の碑が建っていました。キラキラと黒光りする表面に、織田作之助の「木の都」という小説の一節が刻まれていました。

  

「口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた」
という文章で始まっています。これも後から調べて知ったことですが、「夫婦善哉」などで知られ、戦前・戦中の人気作家だった織田作之助は、この界隈で生まれ育ったということです。でも、33歳という若さで他界しています。

ここから次の愛染坂へ行く道が、ちょっとややこしいのです。2年前にも同じコースを歩いたのですが、その時は道を間違って引き返したりしました。今回も少し戸惑いましたが、地図を見たりアテにならない記憶を呼び起こしたりして、狭い道を右へ曲がり、次の角を左へ曲がり、さらに次の辻を右に曲がったりしながら、どうにか愛染坂にたどり着いたのは自分として上出来でした。僕はもともと方向音痴ですので。

4つ目の坂である愛染坂は、その名のとおり、坂の下り口にある愛染堂勝鬘院(あいぜんどう しょうまんいん)から名付けられました。「愛染さん」で有名ですね。


 
右が「愛染さん」こと愛染堂勝鬘院。正面に見える鳥居が大江神社

ところで、「愛染かつら」という、昭和10年代に大流行した映画をご存知でしょうか? この「愛染かつら」という題名は、この愛染堂勝鬘院の中にかつらの木があって、それに由来した題名なのだそうです。

そして映画の主題歌も大ヒットしました。「旅の夜風」という題名ですが、「花も~嵐も~踏み越えて~♪」という歌をご存知の方も多いと思います。この歌を歌っているのは男女のデュエットなのですが、男性の方が霧島昇という当時の人気歌手でした。うちの母が熱烈な霧島昇ファンで、自分の子供にも同じ「昇」という名前をつけたほどです。その子供というのがまぁ、僕なんですけどね。これはホントの話です。ハイ。

話が脱線してしまいましたが、その愛染さんの門前を通り過ぎたところに、大江神社があります。昔、ここへ来て芭蕉の句碑を見て感激したことがありますが、この日、神社の鳥居をくぐってその碑を見ると、老朽化してきたのか字句がほとんど読めませんでした。碑には、

あかあかと 日はつれなくも 秋の風

と刻まれているはずなんですけどねぇ。
「字が薄すぎて読めな~い!」
と、ハズキルーペCMの渡辺謙さんみたいに大声で叫びたいですわ。

この辺りは高台なので、西に沈んでいく夕陽がとても美しいそうです。きっと芭蕉も「あかあかと」した夕陽に感じ入って句を詠んだのでしょう。地名も、このへんは「夕陽ヶ丘」ですしね~


 
右が大江神社で、左が愛染坂です

さてその大江神社から、愛染坂を下ります。

 
きれいな石畳が続きます。

小説「幻坂」では、たまたま愛染坂ですれ違った一組の男女の、その後の数奇な運命が描かれています。そのシーンを思い浮かべながら、「誰かとすれ違わんかなぁ」とふと思ったりしたのですが、残念ながら一人の人ともすれ違わないまま、下まで来てしまいました。

何を考えてるんでしょうね、ボクも。


 
ゴミの袋を見て、あぁここも生活の場なんだと、改めて思った次第です。


ではでは、これで4つの坂を巡りました。あと3つですが、特にこの次の清水坂は、清水寺もあり、おまけに清水の舞台もあり、大好きなスポットです。

それにしても、天王寺七坂の散策をブログに書くとなると、間違ったことは書けないので、いろいろと確認したり、調べたり、有栖川さんの「幻坂」をまた読み返したりして、時間を費やしますが、いい勉強になります。

ブログに書かないのなら「はい、行きました。はい、おしまい」ということになりますが、その点、書くとなると頭を使いますね~。やはり、読んでくださる皆さんに、少しでも自分の経験や感覚を正確にお伝えしたいと念じていますので、ありったけの知恵を絞ってやっております。

ありったけの知恵を絞って、これかいな? と言われそうですけど(ぐすん)。

 

 

 

 


 

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天王寺七坂を散策 ~最も古い大阪が見える~

2018年11月07日 | ウォーク・自転車

大阪の天王寺区には上町台地と呼ばれる台地があって、多くの坂があります。一昨年のことですが、「天王寺七坂」と呼ばれる7つの坂があることをブログ仲間のちひろさんから教えてもらいました。そして、その七坂を舞台にした有栖川有栖さんの「幻坂」という短編集のことも教えてもらいました。そこで当時、さっそく天王寺七坂を歩いたり「幻坂」を読んだりしました。

ちなみに、ちひろさんは関東地方にお住まいですが、大阪がお好きで、僕よりず~っと大阪の知識に詳しい方です。大阪に住んでいる僕が、関東の方から天王寺七坂や「幻坂」を教えてもらってるんですからね~


   
   文庫本で出ています。

ついでですが、有栖川さんの「幻坂」は、去年「大阪ほんま本大賞」を受賞した、ということも付け加えておきます。大阪に興味はあるけれど、そこまではとても行けない、という方は、この本を読んでいただけたら、天王寺七坂やその周辺についての故事来歴も小説の中に多く挿入されています。幻想的な小説ですが、面白くて、とても読みごたえがありますよ。

さて一昨年に天王寺七坂を歩いた時は、スマホで少ししか写真を撮らなかったので、今回は、沢山写真を撮ろうとデジカメをリュックに入れて、出かけました。

で、その天王寺七坂とは、すべて天王寺区にあるのですが

これは「幻坂」の1ページ目に載っている地図です。


 
地図の上(北側)から順に真言坂から逢坂まで散策しました。

この図で説明しますと、谷町筋と松屋町筋が南北に通っていますね。その西側の松屋町筋のほうが低く、そこから谷町筋の方向(つまり東)へ登って行く、ということになります。僕は先週このコースを歩いたのですが、地図の右上に「谷町9」とありますね。ここが地下鉄谷町9丁目駅で、その日はここで下車し、真言坂から一番南の逢坂まで、七坂を登ったり下りたりの散策をしたのでした。

 


 
まず家を出てから地下鉄の八尾南駅まで40分ほど歩いたのですが、
近所の大和川の橋から、あべのハルカスがくっきりと見えたのでパチリ。
写真では近くに見えますが、実際はかなり遠いです

地下鉄に揺られたあと、谷町9丁目駅で降りて地上に出ると、谷町筋と千日前通りが交差しています。


その千日前通りの方を西へ歩くと

すぐに左側に道があり「真言坂」の碑が立っています。


 

天王寺七坂は上の地図を見ていただいたらわかりますが、真言坂だけが南北方向で、ほかの6つの坂はすべて東西方向です。しかも真言坂は7つの坂のうちで最も短くて、周囲の建物もマンションばかりでイマイチ殺風景な感じ。しかし明治の廃仏毀釈まではとても由緒ある場所だったようで、坂の登り口にある立て札の案内板にその由来が書かれています。

  
どの坂にも、このような碑と案内板が立っています。


 

短い真言坂を上がるとすぐに正面に生國魂(いくくにたま)神社の北門。ここはいわゆる「生玉(いくたま)さん」として親しまれている大きな神社ですが、この生玉さんから南の阿倍野にかけては、「寺町」が形成され、多くの神社仏閣が連なる「最も古い大阪」と言われています。

ところがですねぇ。そんなところに、なんとまぁ、「ご休憩料金」などと書かれた看板のホテルがいっぱいあるのです。お寺とホテル。奇妙な取り合わせですけどね~。小説「幻坂」の「真言坂」編でも、主人公の女性が、生玉さんへ行く途中、「歩くのが恥ずかしい場所も通りました」というくだりがありました。そして

「川柳にみる大阪」という本には、

「生玉に お参りでない 二人連れ」

というのが載っていました。
男女が生玉神社の境内を横切って、アチラへ行くってわけですね(笑)。

さて、僕は生玉さんには入らず、横の道を歩き、左前方にあるラブホテルの派手な看板を見ながら(いえ、別に意識して見ていたわけではありませんよ)10分ほど歩くと「源聖寺坂」の立て札が見えました。今度はこの坂を西へ下って行きます。


 
源聖寺坂の石畳を下りてゆく

源聖寺坂は先ほどの真言坂とはガラッと違い、最初はなだらかな石畳、そして途中から石段となり、石段が切れるとまた石畳、そして道は左右に曲がっており、実に変化に富んで趣のある坂道でした。


石段に変わります
 
 
最後はまっすぐ下る石畳の道になり、その先に松屋町筋が見えました

この坂道を降りたところに源聖寺坂の碑があります。この碑の左側に源聖寺というお寺があるので、その名からとっています。 


 
この坂を下ってきたわけです

ここからは車が通る松屋町筋の歩道をぶらぶらと南へ歩き、次の3つ目の坂である「口縄坂」へと向かいました。

 


 

松屋町筋へ。10分ほどこの歩道を歩きます。
道の左側は、ほとんどお寺です


 
 「新選組 大阪旅宿跡」というお寺もありました

では、続きはまた次回、ということにさせていただきます。

一度に七坂全部を書いてしまうと話が長過ぎますし、お読みいただいている方も、多くの坂がごちゃごちゃになると思いますのでね~。ぼちぼちといきます。

 

 

 

  

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高円宮・絢子さまの 心に響く言葉

2018年11月03日 | 心と体と健康と

   ~ 今日あることが明日も

数日前、高円宮(たかまどのみや)家の三女・絢子さまが守谷慧さんという方と結婚式を挙げられ、その披露宴のテーブル席で、皇太子殿下がスピーチをされている姿がテレビに映っていました。珍しい光景でした。しかし、なぜそこに天皇・皇后両陛下がおられないのかと思ったら、「天皇陛下は披露宴には出席しない」というのが皇室の慣例なんだそうですね。知らなかった~

で、絢子さまは、皇太子殿下とはどういうご関係なのかと言いますと、今の天皇陛下のお父様である昭和天皇に、三笠宮という弟さんがおられて、その三笠宮さまの息子さんが高円宮さま。つまり高円宮さまは昭和天皇の甥で、今の天皇陛下とは、いとこ同士ということになります。なので、皇太子殿下と絢子さまは、お二人のそれぞれの子供さんなので「またいとこ」(あるいは、はとこ)ということになりますね。

僕は絢子さまの御父上である高円宮さまが亡くなられた時のことをよく覚えています。2002年(平成14年)のことでした。この方はバリバリのスポーツマンであり、日本サッカー協会の名誉総裁もされていました。その年に行われた日韓ワールドカップの開会式にも出席されています。しかしその数か月後、スカッシュの練習を行っていた時に突然倒れられ、そのまま帰らぬ人になってしまったという悲劇が起きたのです。当時、大きなニュースになりました。

高円宮さまの死因は『心臓発作』というふうに言われていたように記憶しています。享年47歳の若さでした。僕より5歳も年下だったのに

僕は2005年ごろから現在に至るまで「心房細動」の発作に悩まされていますが、最初はそんな病名も何も知らなかったので医師の説明を受けました。それは不整脈の一種で、心臓の中の心房で起きるものだけど、命に別状はない、とのことでした。そして医師はこうも言いました。

「同じ不整脈でも、心房ではなく、心室で起きる『心室細動』だったら突然死もあり得ます。あの高円宮さまもそうでした。心房細動と心室細動はよく混同されますが、まったく症状が違うのです。あなたの心房細動は命にはかかわるものではありません」

心室細動という言葉を聞いたのも初めてだったし、高円宮さまが亡くなられた時の『心臓発作』というのはつまり『心室細動』だったこともこの時初めて知りました。

それ以来、僕は心室細動といえば高円宮さまのことが浮かぶのでした。

この度ご結婚された絢子さまは、その高円宮さまのお嬢さんだったのですね。

さて、絢子さまのお相手の男性は守谷慧(けい)さんという方ですが、この方も数年前にお母様を亡くされたそうです。「けい」さんと言えば、あの眞子さまと婚約内定していた小室圭さんも「けい」さんですよね。本来ならお二人は、明日の11月4日に結婚式を挙げられる予定だったんですよね。しかし小室さん側にいろいろ問題があるとされ、今では離れ離れ。将来が見通せない状態です。これも今後、どうなるのでしょうねぇ。ところで圭といえば、うちの次男の子も圭というのですが、それは今日の話と関係ありません(笑)。

絢子さまはポッチャリと可愛くて、優しそうで、しかも気品に満ちていて、とても素敵な女性ですね。

その絢子さまが、7月2日の婚約内定の時に記者会見で述べられた言葉が、とても強く印象に残っています。

記者から、「お二人でどのような家庭を築いていきたいと思われますか?」と質問された時でした。絢子さまは、このように答えられたのです。

私は父を、守谷さんはお母様を、と、それぞれかけがえのない家族を突然失った経験を持ちますので、今日あることが明日も必ずあるわけではない、という共通の認識を持っております。日常に慣れすぎず、日々の何気ない出来事にも喜びや楽しさを二人できちんと感じていきたいと思っております。

その会見から4か月が経ちましたが、絢子さまのこの言葉は、今も僕の心の中で響き続けています。そして先日の結婚式や披露宴でこの方のお顔を見るたびに、その言葉を思い出し、感慨に浸っています。

 

 

 

 


 

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ハロウィン騒ぎに思うこと

2018年11月02日 | ニュース・時事

渋谷のハロウィンのあの騒ぎ方は、異様というか無茶苦茶でしたね。ハロウィンの本来の意味も分からず、とにかく仮装してはしゃぐだけならまだいいんだけど、大騒ぎして暴動まがいの行為をやりたい放題となると、本当に見てい気分が悪くなるほどです。逮捕者も少しは出たものの、警察はもっともっと厳しく取り締まる必要がありますよね。あんな程度の生ぬるい取り締まりだったら、若者もなめてかかって言うこと聞かないですよね~

それにしても、なんでハロウィンがあんな暴動になるのでしょうね。

僕がハロウィンのことを知ったのはずいぶん昔でした。

初めて海外へ行った1983年(昭和58年)のこと。それはニューヨーク・シティ・マラソンに出場するために行ったのですが、10月だったので、ニューヨークの街を1人でぶらぶら歩いていたら、あらゆる店に気持の悪いマスクや魔法使いスタイルの衣装などが並んでいました。

むろん、今から35年も前のことなので、その頃はハロウィンなんて日本でも全く知られておらず、僕はそんな気持ちの悪いものがいろいろ店に陳列されているのを見て、一体何ごとかと思ったものです。それが今から思えばハロウィンのグッズだったんですね。時期も10月だったので、どこの店にもそんなものあふれていた、ということでした。

あの渋谷のハロウィン(「渋ハロ」と言うらしい)の騒動をテレビで見て、あきれた人は多かったでしょうね。とにかく、大勢集まって大騒ぎする場所があればいい。しかもハロウィンならまぁまぁ名分も立つし、注目も浴びるし、マスコミも押し寄せてくるし、とにかくそこで仮装をして大騒ぎをしたらメチャ面白いやろという思惑で参加する人が多いのでしょうね。しかしそれにしても、テレビでも言ってましたが、あの光景はまるで「暴徒」でしたね。こういう若者は普段何も熱中するものを持っていないのでしょうか? 

ホント、あれは騒動というよりも暴動ですよね。そもそもハロウィンは紀元前のケルト民族の秋の収穫祭から始まったものとされ、魔除けの儀式も含めた宗教的な行事だったようです。そしてその悪霊を追い払う手段として仮面や衣服で仮装したといいます。そして今では仮装するのは子供たちです。でも、今回のように、ただ意味も分からず騒いでいるだけの若者たちを見ていると、ハロウィンであろうが何であろうが関係ないわけで。おまけに、これに便乗して女性の脚を盗撮している老人も映っていたのには、ほとほと呆れました。

こんなにハロウィンで大騒ぎするのも日本では最近のことですよね。以前はそんなことはなかったのですが、いつ頃からこんな騒ぎが始まったのでしょう? このところ、年々エスカレートしてきていますよね。来年はさらにひどい状況になることが予想されます。あの光景は「情けない」の一言に尽きますね。

テレビ各局もまた、そうした騒乱の映像を克明に撮って、ワイドショーとかで放映しているのですが、そういうことをするから、どんどん、全国から若者が渋谷に押しかけてきて益々騒ぎを大きくさせているとも言えます。

また、テレビの映像は、車を横転させて上に乗って上半身裸で踊っている男とか、それを煽っている男たちとか、喧嘩している奴らとか、女性の体を触っている男とか、そんなアホな奴らの顏にボカシを入れています。なんで顔をボカすんや?と、不思議でなりません。未成年かもということかも知れないが、それはこういう局面では関係ないでしょ。普通に顏も映せばいいんじゃないの? 

だいたいみんな目立ちたがっているんだから、そのままボカさずに顔を映せばいいと思う。個人情報保護を大義名分にしてボカしているつもりなのかもしれないけど、そんなことをしているから、みんな、いくらでも調子に乗って来るんだ。

そんなことで、東京の渋谷もなぁと眉をひそめていたら、昨日のニュースではわが大阪の道頓堀で、若者たちがバカ騒ぎをして、川に飛び込んだりしている光景が報じられていた。道頓堀といえば、前回のブログで取り上げたばかりの場所ですが、東京だけではなかったんだ。大阪もなぁ。

やれやれ

 

 

 

 

コメント (4)
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