僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

楽天優勝に想うこと

2013年09月29日 | 思い出すこと

プロ野球パ・リーグで、楽天が初優勝したことに喜んでいる人は多いだろう。どのチームのファンに限らず、日本中の人たちが「よかった、よかった」と拍手している様子が目に浮かぶ。東北が待ち望んでいた春の訪れ…と表現してもいいかも知れない。「たかが野球、されど野球」である。


僕も、2004年に楽天球団が誕生した時から、このチームが強くなることを期待していた一人だ。そこにはいろいろな思い出が詰まっている。


 ………………………………………………………………………………


僕が今住んでいる大阪府藤井寺市に引っ越してきたのは25歳の時で、すでに2人の男の子(2歳と1歳)がいた。藤井寺市は当時の近鉄バファローズの本拠地・藤井寺球場があったことで有名だった。球場は近鉄南大阪線・藤井寺駅のすぐ近くで、自宅から自転車で5分くらいのところにあった。


2人の息子たちも幼稚園の頃から野球が大好きになって、言うまでもなく地元近鉄ファンだった。休みの日には、お弁当やお菓子を持って家族で球場へ行き、近鉄の試合を観戦した。一塁側内野スタンドでビールを飲みつつ、子どもたちといっしょに近鉄を応援するのは、至福の時間…と言ってもよかった。


しかし…。その近鉄が2004年(平成16年)に経営難からオリックスと合併し(事実上は吸収された)、近鉄球団は消滅してしまい、藤井寺球場は「廃墟」と化してしまったのである。(現在、球場跡は私立の学園などになっている)。


近鉄球団は1949年(昭和24年)に誕生したそうである。僕もその年に生まれたので同年齢なのだ。その近鉄に「先立たれ」たのはとても寂しいことだった。


さて、近鉄がオリックスに吸収されることになったので、パ・リーグは5球団となり、当然、新たにもう1球団が必要になった。そしてさまざまな紆余曲折を経て宮城県をフランチャイズとする「東北楽天ゴールデンイーグルス」が誕生したのだった。楽天の選手はオリックスと近鉄の合併球団、オリックス・バファローズから振り分けられた。そんな経緯で2005年のシーズンから楽天がプロ野球に参入したのだから、楽天はいわば故・近鉄バファローズの「肉親」みたいなものである。大阪の藤井寺から宮城の仙台へと、ずいぶん離れてしまったけれど…。


何かの資料によると、楽天が新規参入決定直後の2004年の秋季キャンプは、藤井寺球場で行われたそうである。つまり、楽天の出発点はわが町・藤井寺だったということになる。


そんなことを思うと、やはり球団創設9年目にしての楽天の初優勝は、僕たち家族にとっても感慨深いものがある。ぜひ日本シリーズに出て、巨人と日本一を争ってほしいものだ。(日本シリーズに巨人が出るのは当然だと思っている!)


ところで、かつて一度だけ、巨人と近鉄が日本シリーズで戦ったことがある。元号が平成に変わった年…1989年だった。生粋の巨人ファンだった僕も、この時はどちらを応援していいものか迷った。家族はみんな近鉄ファンだし、僕も近鉄をスタンドで応援してきた。なにしろ地元中の地元である。仕方ない。どちらも応援することにした(笑)。


その日本シリーズは、大方の予想をくつがえし、初戦から近鉄が巨人を圧倒して3連勝した。あと1勝で初の日本一! そこまではよかったのだけれど…。


近鉄が3勝目を上げたときの勝利投手、加藤哲郎が試合後のインタビューで「巨人は弱いですわ。ロッテ(当時パ・リーグで一番弱かった)より弱いですわ」みたいなことを言って全国の巨人ファンの怒りを買った。それが巨人の選手を奮い立たせたのか、そのあと巨人が4連勝し、結局近鉄の日本一の夢は叶わなかった。(後に加藤投手は「口先男」などとマスコミにからかわれ気の毒だったなぁ)。


近鉄はその10年前にもあと一歩のところで日本一を逃していた。広島との日本シリーズで、3勝3敗で迎えた第7戦、1点をリードされた近鉄は9回裏ノーアウト満塁の絶好のチャンスで、「一打逆転サヨナラ日本一」のシーンを迎えた。しかし1点も入れられず、そのまま負けてしまったのだ。マウンドにいたのは江夏豊で、「江夏の21球」と言われ、今では伝説と化したシーンだった。あのときは小学生だった息子たちと一緒に、手に汗握りながらテレビを見ていたけれど、試合終了の瞬間、息子たちの悲しそうな表情が今でも忘れられない。


その近鉄も今は無いけれど、少なからず縁のある楽天が、間もなくCS、そして日本シリーズへ臨もうとしている。ぜひ近鉄が成し得なかった日本一を獲得してほしい。しかしひとつだけ、かなり大きなモンダイがある。相手が巨人だったら、どちらを応援するのだ…?


あぁ、またあの平成元年の、巨人・近鉄の日本シリーズを思い出す僕なのです。

 

 

 

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半沢ネタも最終回です

2013年09月26日 | 映画の話やTVの話など

24日(火)の新聞夕刊1面は、京都府八幡市で小学生の列に車が突っ込んで児童が怪我をしたというニュースがトップに出ていた。何がどうなって車が突っ込んだのか、にわかには理解できないような事故だったが…


その記事のすぐ下に「半沢」視聴率45.5% という見出しの記事が載っていた。新聞1面にTVドラマの視聴率が載るのはきわめて異例である。ビデオリサーチによると、関西地区でオンライン調査が始まった1980年以降の民放ドラマの中で最高記録なのだそうだ。そして瞬間最高視聴率は午後10時17分の50.4%だったという。この時間はラストシーンで、半沢が頭取に出向を言い渡される場面だった。最後のシーンでさらに視聴率がアップするというのは、それまで見ていなかったのに最後だけ見る人もかなりいるということなのだろうか。…たぶん、そうなんでしょうね。


ちなみに関西地区では、これまで最も視聴率が高かったのは「家政婦のミタ」ではなく、「男女7人秋物語・最終回」(87年)の41.6%で、続いて「渡る世間は鬼ばかりスペシャル」(94年)の41.0%だと書かれていた。「家政婦のミタ・最終回」は36.4%で、このあたりは、関西と関東との好みの相違なのだろうか? 


さてテレビのワイドショーでも、TBS以外の局も「半沢」の話題で賑わっていた。放送が終わったとたん、待ってましたとばかり他局でいっせいに取り上げていた。その中で、「へぇ~、ちっとも知らなかったわん」という興味深い話がひとつあったので、それをご紹介したく、今日もまたしつこく、半沢秀樹…じゃない、半沢直樹のことに触れます。ま、ほんのちょっとだけですけど。


TVに出てくる俳優やタレントについては僕はほとんど無知なので、いつも妻に「これ、何という人?」などと聞いていますが、その妻も「知らなかったわ」という「半沢直樹」に登場した俳優さん3人の話です。すでに知っておられる方も多いと思いますが、僕にとってはびっくりだったのでここに記しておきます。


まず、福山啓次郎の役を演じた山田純大という俳優さん。福山というのは、東京中央銀行融資部に属する「切れ者」と言われる次長で、大和田常務と繋がっている。伊勢志摩ホテルに関する金融庁の検査が近づいてきたとき、半沢を担当からひきずり下ろして福山に交代させようという上層部の思惑を受けて、銀行内での「模擬検査」を行う場面がある。そこでこの福山が常にタブレット型パソコンをのぞきながら、データばかり振り回し、半沢を攻め立てる(それが実に真に迫っていやらしく、演技とは思えないほど)。しかし最後に半沢に猛反撃されてガックリする…という役柄。このネチネチ男の福山を演じたのが、杉良太郎の息子…と聞いてびっくりしたのである。


次に、最後に半沢を裏切ろうとした同期の近藤の妻の役で出ていた人、山崎直子(あの女性宇宙飛行士と同姓同名)という女優さんは、山崎務の娘さんだという。へぇぇぇ~、あの「怪優」と呼ばれた山崎務のねぇ。


それと、もう一人びっくりしたのが、伊勢志摩ホテルの湯浅社長役を演じた駿河太郎という若い人。これが笑福亭鶴瓶の息子なんだそうだ。じぇじぇじぇ~。ご承知のように鶴瓶はこのドラマでは半沢の父親役で出ており、大和田が担当する銀行からの融資を受けさせてもらえず、降りしきる雨の中を何度も土下座し、あげくに首吊り自殺をするシーンが、半沢の回想の形で何度も出てきた。その鶴瓶の息子が伊勢志摩ホテルの若き社長を演じていたとは、知らなんだ~。

 

 

    
   福山啓次郎→山田純大
   (杉良太郎の息子)
 
 

     
    近藤の妻→山崎直子
    (山崎務の娘)


    
    湯浅社長→駿河太郎
    (笑福亭鶴瓶の息子)  

 


「半沢」には熱中したものの、僕はテレビドラマについてはウトいほうだ。妻はモミィを寝かせてからいろいろと見ているようで、たとえば井川遥が義理の息子と深い関係になる「ガラスの家」の話なども妻から聞く。ストーリーを聞いていると面白い。これからはドラマも、もう少し見てみようかなと思う。


ところで「半沢」のあとの日曜劇場はキムタクだということを、コメントをくださった方から教えてもらっていたが、昨日、「安堂ロイド」という新ドラマの宣伝を見て、あ、これなのか~と思った。でも安堂ロイドって、人の名前なの?「アンドロイド」にかけたの? 何だかタイトルを聞いただけでつまらなそうだ。妻は「ロンバケ」のころからのキムタクファンだが、最近のキムタクのドラマは懲りすぎて面白くない…と言っていた。今回はどうなんだろ。「安堂ロイド」より「安藤なつ」(「アンドーナッツ」にひっかけた)のほうが美味しそうだし、いっそ「安藤美姫」にしたら、さらに視聴率も上がるのでは…


な~んて、しょうむないことを書きながら迎える9月26日の朝です。


9月26日。耳鳴りが発症した日です。今日でちょうど6年が経ちました。

 
ここのところまた耳鳴りがうるさくなって心身の不安定が続いています。それに連動してか不整脈も出やすくなり、ある時には「半沢」を見ていて全身に力が入り、興奮のあまり心拍が乱れて気分が悪くなる…ということもありました。最終回が終わったのは寂しいですが、反面、ホッとしていることも事実です(笑)。

 

 

 

 

 

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「半沢直樹」終わりましたね

2013年09月24日 | 映画の話やTVの話など

「半沢直樹」がとうとう終わってしまいました。淋しくなりますね。


あのラストシーンは衝撃的でしたが、僕は先週発売された「週刊文春」の記事を読んで、ある程度の予測はついていました。その記事は「半沢直樹最終回直前スペシャル」と題して、原作者である池井戸潤さんの小説の世界が取り上げられていたものです。むろん、半沢シリーズ「オレたちバブル入行組」と第2弾「オレたち花のバブル組」の解説もありましたが、第3弾「ロスジェネの逆襲」(2012年刊)という小説の解説も載っていました。そこにはこう書かれていたのです。


関連の証券会社に出向させられた半沢。IT企業買収の仕事に乗り出すが、そこに横槍を入れてきた奴がいた…


これを読んで、たぶんドラマのほうも、半沢が最後は証券会社に出向を命じられるんだろうな…と思ったわけです。ただ、それは、父のカタキである大和田常務に「100倍返し」したあと、自ら望んで出向し、銀行の世界から離れて愛する妻と平穏な生活を送ろうとする半沢…という形で終わるのかと思っていました。しかし、すっかり昇進するものと張り切っていたところへ、頭取から、予想もしなかった証券会社への出向を言い渡され、半沢の顔色が変わるシーンで終わったのは、やはり意外といえば意外でした。…というより、これは続編を期待させるための終わり方なのかも知れない、とも思ってみましたが、TBSは今のところ続編の予定はなしと言っているとか。でも、みんな続編を期待するでしょうね~。まあ、今回に比べるとパワーダウンすることは十分予想されるので、何でもやればいいってもんじゃありませんけど…


ところでこの日はお昼に甲子園球場で阪神・ヤクルト戦があり、阪神が敗れて巨人の優勝が決まりました。おかげで夜の巨人・広島戦の中継も地上波では放送がなかったので、「半沢直樹」の視聴率もこれでさらに上がったものと思われます。最後までこのドラマに追い風が吹きましたね。


ともあれ、僕は普段あまりドラマは見ないほうなのですが、この「半沢…」だけは、完全にテレビにのめり込んでしまいました。


で、最後に蛇足ですが…。僕は時々この題名を間違って「半沢ヒデキ」と口走ることがしばしばありました。モミィに「ヒデキと違うで、ナオキやで」と訂正されることも何度か…。というのも、うちの2人の息子の名前が、長男がヒデキで次男がナオキなので、ついごっちゃになってしまったわけです。…またまた関係のない話で、これまた失礼しました!

 

 

 

 

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巨人優勝と「半沢直樹」最終回

2013年09月22日 | スポーツの話題


僕は小学生の頃からずっと巨人ファンである。あの頃…長島がいた。王がいた。強いものに憧れる子供心を、巨人はいつも満たしてくれた。大人になってもその習性は抜け切れず、今だに巨人ファンを続けている。まあ、昔ほど熱くはならないが、このことはあまりブログには書かないようにしている。大阪に住んでいながら巨人・巨人を連呼するのには何となく遠慮がある。むろん大阪にも巨人ファンは大勢いるが、僕の親しい友人や先輩はたいてい阪神ファンであり、アンチ巨人が多い。


たとえば、わがウダウダ会でどこかへ行くとき、隣で「昨日は惜しかったなぁ。あそこで1本出てたら勝ってたのに」という会話があると、僕は「どこの話?」と横から口を出す。相手は「決まってるがな、阪神や」と呆れたように言う。そして「まだ巨人応援してるん?」と、僕の巨人びいきを知っている先輩は、眉をひそめるのだ。先輩が僕を見る目は、明らかに謀反人を見る目である(笑)。


その巨人のリーグ優勝の日がやって来た…と、昨夜、巨人が優勝することを疑わなかった僕は、6時からBSテレビにかじりついていた。


相手は広島カープ。3回までは0対0だったが、4回1点を先制されて、なお2死一、三塁。ここで広島の広瀬が3ランホームランを左翼席に打ち込んだのだ。あっという間に4点を取られ、さらにその後も得点を許し、6回で7対0になった。はい、おしまい。テレビ消灯時間です。プツン。


優勝は今日に持ち越されたが、昼に行われる試合で2位の阪神が負けたらその時点で巨人の優勝が決まる。何となくそうなりそうな予感もするが、やはり巨人が試合に勝って胴上げ…というのがファンとして望むところではある。


しかしプロ野球といえば、ヤクルトのバレンティンが「本塁打55号」の厚い厚い壁を破って日本記録を達成したのには驚いた。昨日まですでに58本を打っている。今日もデーゲームの阪神相手に2本打って60号の大台に乗せ、巨人を優勝に導く…ということになるかも知れないなぁ。バレンティンは打率も1位で打点だけが2位だけれど、それも1位を行くブランコ(DeNA)とわずか3点の差で、三冠王も十分可能性があるというわけだ。


しかしそれだけ打ちまくっているバレンティンのいるヤクルトが、現在、6球団中6位というのは、どういうこと? よほど他の選手が頼りないのか…? おまけに打点が1位で、打率・本塁打とも2位のブランコのいるDeNAが5位。これまた他の選手は何をしてるねん、と言いたくなりますね。


その点、楽天のマー君はエライ。22連勝の快進撃は、もちろんこれがそのままチームに勝利をもたらしている記録なので文句なしに賞賛に値する。彼が原動力になって楽天は初優勝へまっしぐらだ。上記の外国人2人は「チームはチーム、個人は個人」という記録だが、やはりプロ野球はチームが勝たなければね~。


しかし楽天も強くなったものだ。星野仙一が楽天の監督に就任すると決まったのが3年前(2010年)の10月だった。2008年の北京五輪の代表チームを率いながら選手起用がまずく、銅メダルすら取れなかった星野が、僕が好きだった仙台の球団にやって来るというのは甚だ不本意だった。僕はその時のブログに「楽天には勝ってほしいわ、星野には勝ってほしくないわ」などとわけのわからないことを書いた。その時星野は「仙一という名前は仙台が一番という意味です」な~んて言ったので、シャレ言うてる場合か、…うまいこと言うてるけど…と思ったのを覚えている。まぁ楽天をリーグ優勝ほぼ間違いないところまで引っ張ってきたのだから、これからは星野監督の悪口を言うのはやめなければ…


野球の話も書きかけるとあれもこれも書きたくなるが、最後に元巨人の上原も、米大リーグ、レッドソックスの救援投手として大活躍中である。そして昨日、ブルージェイズ戦に8回途中から登板し、ア・リーグ東地区の優勝を決めて、捕手と抱き合って喜んでいた。その姿を見て涙が出そうになった。大阪体育大学を卒業して巨人に入ったものの、大学時代から「米大リーグへ行きたい」と言い続けていた上原が、38歳で、大リーグの地区優勝のマウンドに立っていたという図を見ただけでホロリと来たのである。どうも最近、涙もろくなって困りますわ。


元の話に戻るが、昼に阪神が勝てば、巨人は夜の広島戦に再び優勝を賭けて臨むことになる。またテレビにかじりつかなければならない。しかし午後9時から「半沢直樹」の最終回がある。むろん録画はするが、できればリアルタイムで見たい。


…ということは、昼に阪神が負けてくれたら、夜は間違いなく安心して「半沢直樹」を見ていられるわけだ。阪神の相手ヤクルトのバレンティンちゃん。ホームランをガンガン打って、今日はぜひチームを勝たせてやってくれぇ。

 

*おまけ  

「半沢直樹」もいよいよ最終回ですね。どうなるのでしょうか? 前回、直樹が妻に「出向になるかも知れない」と言うシーンがありました。その時妻は「地方でゆっくりするのがいいんじゃない。銀行だけが人生ではないんだから」と言いました。このセリフがドラマの結末を暗示している気がします。…父の仇である大和田常務に「100倍返し」すれば、もう銀行に未練はない。それより出向になって妻との家庭生活の幸せを求める…みたいなね~。

(ちなみに今日の午後2時から「半沢直樹ダイジェスト」が放映されます)。

 

 

 

 

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ダンス・ダンス・ダンス

2013年09月20日 | 日常のいろいろなこと


「ダンス・ダンス ・ダンス」…といっても、村上春樹の小説のことではありません。“ほんまもん”のダンスのお話です。いきなり余談で恐縮ですが、春樹さんのこの小説は、ダンスとは全く関係なく、タイトルは、アメリカのバンド、ザ・ビーチ・ボーイズの「ダンス・ダンス ・ダンス」から取ったものですよね。あのベストセラーになった「ノルウェイの森」のタイトルも、ザ・ビートルズの曲名から取ったのと同じように…。


さて本題ですが…。先日、市民会館の大ホールで「市民カーニバル」という催しがあり、モミィの所属するダンスクラブも参加しました。今はダンスのブームなのか、市内にもいくつかの子どもダンスクラブが存在しますが、その中ではモミィのクラブが生徒たちの数が一番多いようです。何年か前に、たまたま我が家から歩いて数分のところに出来たので、運動神経がイマイチ良くないモミィをその道場で修業させることにしたわけです(笑)


この「市民カーニバル」には、ダンスをはじめ歌声サークルの合唱や楽器の演奏、空手教室の技の披露、フラダンスなど、年配の方から幼児まで、市内のさまざまなグループが参加して、市民会館で開催されたものですが、去年まで小ホールで行われていたのが、観客がどんどん増えてきたので今年からは大ホールで行われるようになりました。広いホールですが、ほぼ満席に近い状態でした。


プログラムを見ると、ダンスが一番多かったですし、やはり、身びいきではありませんが、見ていて最も楽しいのはダンスでしたね。


 

 

   小さな子どもたちから…

 


  

   中学生たちまで… ダンスは見ていてホント楽しい。

 

  
  これはモミィ(左から2人目)が出たグループです。

 


…とは言っても、他にも見ごたえのあるものが多くありました。カワラやバットを気合もろとも真っ二つに叩き割る空手、ジャズ風にノリノリで演奏する大正琴、スマップの「世界に一つだけの花」を演奏して会場を盛り上げたオヤジバンドなどには、十分楽しませてもらいました。

 

 
 大正琴、というので辛気臭いのかなと思ったら、ノリノリでした。

 

 
 野球のバットを足でバシッと折る女性。迫力満点!

 


…ということで、このブログをここで終わればいいのですが、どうしてもひとつだけ付け加えたいことがあります。でも、またこんなことを書くと嫌われるんじゃないかなぁ、と思ってちょっとためらっているのですが、まあいいや…と思い直して書くことにします。僕は根が正直なもので(笑)。


実はフラダンスの舞台を見た時の話です。(そういえば、村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」もハワイでの話だったなぁ。…関係ないか)。大勢のご年配の女性たちが登場し、カラフルな衣装を身にまとい、ゆったり、優雅にステップを踏んだり両腕をひらひらとさせたりと、日頃のフラダンスの練習の成果を舞台で披露されたのですが…


笑顔を見せて踊る人はほとんどなく、なぜか皆さん、申し合わせたように無表情でゆらゆらと揺れているだけ…という感じ。フラダンスは、ハワイの海や風、花など美しい自然を、身振り手振りで表現した奥の深い踊りである…と言われており、僕にはその奥深さがわからなかったのかも知れませんが、この舞台は、正直言って一番退屈しました。他のグループにはビンビン感じられた観客へのアピールが、ここではほとんど感じられなかった。せめて笑顔があればなぁ、と思いましたが、まぁ照れ臭いのかも…。


多少濃いめのお化粧を施し、お気に入りのドレスを着て踊ることを「自分たちで楽しむ」のはとても素晴らしいのですが、いざそれを「人に見せる」となると話はまた別で、舞台の上で、すまし顔で淡々と踊るだけでは、観客の心に届かないのでは…というのがその時に僕が持った感想です。


映画「フラガール」も感動的でしたし、本場のハワイで見たフラダンスにもウキウキさせられたし…。決してフラダンスそのものが退屈だと言っているのではありません。ただ、この時に見て感じたことをそのまま書きました。なにせ根が正直なものですから(もう、ええわ!)。ど~も、失礼しました!

 

 

 

 

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大和川「氾濫」の危機 !

2013年09月18日 | 日常のいろいろなこと

今回の台風18号による大雨で、関西各地でも、河川の氾濫による浸水被害が相次いだ。中でも、京都の名所嵐山の渡月橋が桂川の濁流に呑み込まれそうな映像を目にした時は、全身が固まった。関東在住の知人の方がそれを見て愕然とされ、大阪も避難勧告が出ているようですが大丈夫ですか…と安否を気遣うメールをくださった(ありがとうございました)。


また同じ京都の福知山市も大雨の甚大な被害が出た。ここはちょうど1ヶ月前に花火大会で露天商のガソリンによる爆発死傷事故があったばかりで、何とも不幸な出来事が続く。福知山には以前、次男が数年間住んでいたこともあって僕たちも何度も訪れ、また福知山マラソンにも数回出たことがある馴染みの土地だけに、家屋の被害や農作物の壊滅的打撃を受けられた地元の皆さんの姿には、心が痛んだ。


僕のところは、前回のブログの冒頭で、外は台風の影響で激しい暴風雨だ…と書いたけれど、ブログをアップした午前7時半から後は、ずっとテレビの台風情報をつけていた。すると、外で何やらマイクの声がするので耳を澄ますと、「こちらは消防団です。先ほど、大和川が危険水位を越えました。〇〇小学校と〇〇中学校を避難所として開放しております」ということであった。地域の消防団がこういう“おふれ”を出すのも、長年この町に住んでいるが初めてのことである。


大和川はわが家のすぐそばである。その堤防が僕の毎日のジョギングコースであることは、このブログでも何度も書いている。その大和川の水位が危険なくらい上がっているというのだ。…しかし、考えてみたら、大和川ほどの大きな川が氾濫するというのは、よほどのことがない限り起こり得ないだろう。とりあえず「心配いらないよ」と、妻やモミィに言い聞かせて、注意深く様子を見守ろうと、腰を落ち着けてテレビを見続けた。でも、やっぱり気にならなかったといえば嘘になる。落ち着こうと思っても落ち着かない。


そこで、幸い雨が小降りになっていたので、強風の中、僕は走って大和川の様子を見に行った。堤防には、何人もの人たちが川の方を見ていた。僕も堤防へ上がり、川を見たら、想像していた以上に水位が上がっている。大和川を毎日のように眺めている者にとって、ぞ~っとする光景だ。テニスコートや少年野球のグラウンドも完全に水没し、河川敷に生えている大きな樹木の緑も、上のほうしか見えなかった。たしかに大和川の様相は一変していた。


…しかし、それはあくまでも「ふだんに比べて」のことで、水が堤防ギリギリにまで迫っているわけでもなく、まだ余裕はあった。これならまあ大丈夫だろ、と思いつつ、帰宅して妻とモミィにそう報告した(後でわかったことだけれど、他の地域では堤防ギリギリまで水が迫っているところもあった)。


僕は万一の場合に備え、急いでお握りを作ったり、貴重品や必要なもの…たとえば僕にとって欠かせない薬などをリュックに入れたりして、いつでも避難できるようにした。テレビに加えて、ラジオもつけた。何しろモミィがいるので、念には念を入れなければならない。


空が明るくなった。風はまだ強かったが、雨はもうどこかへ行ってしまった感じだ。…が、油断は禁物。ここでは雨が降ってなくても、大和川の上流は奈良県だから、そちらで大雨が降っていればさらに川が増水することも十分考えられる。そう思っていた時、テレビに流れた字幕を見て、あっ、と声を上げた。


「大和川が氾濫の恐れがあり、大阪市の4つの区の約30万人に避難勧告が出された」とのことだった。しばらくして、今度は大和川をはさんでわが家の真向かいにある八尾市の太田、沼という所でも、同じく大和川が氾濫の恐れがあるとのことで避難勧告が出された…という字幕が出た。そこは大和川をはさんで、もう本当にわが家と目と鼻の先の場所なのである。僕らの住んでいる地域にも、もしかして避難勧告が出るかも知れない。しっかり心の準備をしておこう。


しばらくの間かなりの緊張が続いたけれど、それ以上の情報は入ってこなかった。そしてようやくお昼になり、消防団の巡回車が来て、大和川の水位が下がり始めたことを放送した。やれやれ、今度こそ一安心…と胸をなでおろした。

 

 
 ふだんの大和川は、最高のジョギングコースとして心を癒してくれる。
 しかしこの日は河川敷の木々も水没し、頭だけがわずかに見えていた。
 (この写真は、今年の5月に撮影したものです)

 

大和川に恐怖を感じたのはこれが初めてではなかった。思い出すのは1982年(昭和57年)のことである。その年の7月末から8月初めにかけて、台風と集中豪雨が相次いで大阪周辺を襲い、僕たちは近所の人たちと一緒に市民会館へ避難したが、自宅が床上浸水するという人生でただ一度の浸水被害に遭った。この時に最も大きな被害を受けたのが、僕が勤めていた松原市だった。その被害状況の大きな写真が新聞の一面にデカデカと載ったほどの惨状だった。


僕は自宅の床上浸水で、妻と小学生だった息子たちと4人であわてて避難する騒ぎの中で、そこからまた出勤して松原市職員の一人として緊急事態の対応に追われた。僕は、総務課で市民からの電話を受けてそれを各担当課に連絡するという任務を申し付けられ、次々と市民の悲鳴、苦情、怒りなどが寄せられ、頭がパニックになったほど、てんてこ舞いであった。それからしばらく、僕は電話の恐怖症になった。で、その時も、大和川が氾濫したわけではなかったが、今回よりもっともっと水位が上がっていたような記憶がある。とにかく、当時のその雨は「60年に一度の大雨」と言われたものだった。(最近は「経験したことのない大雨」と言われた雨もありましたが)


今回の出来事で、夢になりかけていた31年前の記憶までよみがえってきた。できれば二度と思い出したくなかった出来事だったけれど…。

 

 

 

 

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「半沢直樹」と「おもてなし」

2013年09月16日 | 日常のいろいろなこと


台風18号の影響で今(16日午前6時半)も外は恐ろしいほど荒れ狂っています。激しい暴風雨が窓を叩きつける音で、ほとんど眠れぬ一夜を過ごしました(睡眠導入剤を飲んでいたのに…)。


さて「半沢直樹」もいよいよ来週、最終回を迎えますね。昨日の回は金融庁検査の最終聞き取り調査で、ハラハラするやり取りの末、執念深い金融庁のオネエ捜査官・黒崎(片岡愛之助)をついに屈服させて決着。いよいよ来週、半沢にとっての父の仇、香川照之扮する大和田常務との最後の一騎打ちです。予告編では半沢が「100倍返しだ!」と言うところがありました。楽しみですね~。終わってしまったら寂しいなぁ。見ていてあれだけ力が入るドラマも珍しいですよね。


この半沢の決めゼリフ「やられたらやり返す。倍返しだ!」は、今年の流行語大賞候補ナンバーワンの呼び声が高いようです。


今年とびきり話題になった流行語は3つ…と言われています。あまちゃんの「じぇじぇ!」と、林なんとかいう人の「今でしょ!」、そして半沢直樹の「倍返しだ!」…ですよね。しかしそこへ彗星の如く現れたのが、先日、五輪誘致の場で滝川クリステルが世界に訴えた「おもてなし」という言葉。これが人気急上昇中で、先の3つを凌ぐほどの勢いで流行語大賞に迫っているということです。どうなんでしょうね~


相手に報復を予告する「倍返しだ!」より、相手を手厚く待遇する「おもてなし」のほうが、正統で温かくて品のある言葉だと言えますけど、流行語はあくまでも流行語なので、品格や道徳とは全く別物だから関係ありませんよね。


ところで、今、人気絶頂の「おもてなし」という言葉は、僕が11月3日に出る予定をしている大阪・淀川市民マラソンのキャッチフレーズでもある…ということを、実は今日のブログで言いたかったのです。

 

 
    
         大阪・淀川市民マラソンのHPより

  

これはもうずっと以前から、このマラソンのキャッチフレーズなのです。今もし初めてこのマラソン大会のホームページをご覧になった方は、「なんだ、さっそく滝川クリステルのセリフをパクっているじゃないか」とは思わないでくださいね…と、大会の名誉のためにひと言申し添えておきます。ついでに、このHPのご紹介もしておきます。


  http://www.osaka42195.com/index.html
 


しかし、それにしても42.195キロを走ることが「おもてなし」になるのだろうか? 給水ポイントに飲み放題の生ビールやおつまみが置いてあったら、「さすがぁ、おもてなしの大会だなぁ」と思うだろうけど(そんなアホな!)、ひたすら走るだけの大会なのに、どんな「おもてなし」があるんだろうな、とも思いますね。


そういう「おもてなし」をされるのも大変ですけど、
まぁ「倍返し」をされるほうはもっと大変ですよね。

 

 

 

 

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ひまネタ・みのもんた編

2013年09月15日 | 雑記

3連休も2日目に入った…と言っても僕自身にはあまり関係ないが、モミイが学校が休みなので、家庭内ではそれなりに3連休の影響は受ける。


前回のコメントでマラソンレースへの温かい激励をいただいたので、今朝は思い切り早起きして走りに出ようと目を覚ましたら、外で雨の音がザーザーしている。う~ん。また出鼻をクジかれてしまった。ぐすん。


仕方がない。ブログでも書くとするか。(“でも”は余計か?)。


今日はひまネタです。みのもんたの息子が窃盗未遂容疑で逮捕されたというニュースが流れた。僕はそれを日テレの「ミヤネ屋」で見て知ったのだが、番組冒頭でそのニュースが報じられた。みのもんたの次男が東京都港区の路上で泥酔して寝ていた40代の会社員のカバンを盗み、財布の中のキャッシュカードを使い、付近のコンビニで現金を引き出そうとしたそうだ。そして父であるみのもんたはそれを受けて報道番組の出演をしばらく自粛する…いう話だった。ちなみに息子は日テレの社員だそうである。お金に困っていたとも思えませんが。


これに対して「ミヤネ屋」に出ているガダルカナル何とかという、いかにも間抜けそうな男が沈痛な表情で「もう30歳も越えた息子さんのことですからね。親がその責任をとる必要ってあるんでしょうか? みのさんが気の毒でなりません」とコメントしたので「けっ」と笑ってしまった。別に息子の年齢による責任能力があるなしの話ではないだろ、この場合は。


何が「みのさんが気の毒」なんだろうね。おまけに他のコメンテーターもよく似たことを言い、司会のミヤネも「そうですねぇ」と相槌を打っていた。いったい、みんな本気でみのもんたに同情しているのだろうか?


僕がもしコメントを求められたら(誰も求めないが…)、「親が親なら子も子ですなぁ」と言うか、あるいは「みののようなアホな親を持ったおかげで、普通ならこんな大きく報じられない事件なのに、テレビで顔まで映されて…。息子のほうがよほど気の毒ですわいな」な~んて言っていたでしょうね。


みのもんたは、テレビに出てくる数多いタレントの中でも一番嫌いな人物の一人である。「朝ズバッ!」は番組構成の点では同時刻の他局の番組より情報量が多く、適当にミーハーなニュースも混ぜ、悪くないと思って時々見ているが、あの司会のみのもんたの高慢ちきな態度が気に食わない。いくら「へへへ~」と笑っても、その目は冷たく人を見下しているし、常にわが物顔である。自分は番組の進行役…というより権力者である…という態度が滲み出ており、おまけに口を開くとたいてい的外れなことを言い、せっかくスタジオの雰囲気が盛り上がってる時に番組を寒々しくしてしまう…というのがいつものパターンである。


そのみのもんたが、最近「朝ズバッ!」の生放送中に女子アナにセクハラをした…という出来事があった。ま、こんなことはしょっちゅうなんでしょうけどね。これまでも何度も週刊誌などで、みのが女子アナにセクハラをしたことが書かれていた。しかしテレビ局は、かつてそれを告発した女子アナを番組から外した…ということもネット上で話題になった。みのもんたは、みのほど知らずの裸の王様だし、みのの機嫌をとるテレビ局も程度が低い。


さて最近問題になったそのセクハラのシーンを動画で見ると、番組が終わる直前、CMが流れ、それが終わってスタジオが映った瞬間、みのの右手が隣の女子アナの腰からお尻のあたりをさわっており、彼女がその手を払いのけている映像がモロにお茶の間に流れた。そこでみのは、あわてて両手を前に突き出し、蝿が手を擦るように両手をわざとらしく揉み手する仕草を繰り返していた…というものである。

 


 
  みのの右手が、隣の吉田アナのお尻をさわり、
 その手が振りはらわれているところが写ってます。
 CM中にまあそんなことをしていたわけですね、みのは。

 

動画はここです。沢山あって、中には関係が薄いのもありますが、一番上段の左端と右端の動画が、比較的わかりやすいかもしれません。


http://video.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%82%82%E3%82%93%E3%81%9F+%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%83%8F%E3%83%A9



今回息子が犯した罪よりも、もっとたちの悪い害をテレビの権力に物を言わせてタレ流し続けてきたみのもんたが、一日も早くテレビから姿を消してくれることを切に願うものである。


…と、他人の悪口を書いている間に、外は雨が止み、明るくなってきた。では、ブログを置いて、ジョギングに出ることにします。


なお、今回はみのもんたファンの方のコメントは受け付けません(笑)。もっとも、そういう方が日本におられたら…の話ですが。

 

 

 

 

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あれから2年半が経った

2013年09月13日 | 思い出すこと


一昨日の9月11日という日は、2001年に起きたニューヨークでの同時多発テロが「9・11」として強く記憶に残っているのだけれど、東日本大震災から2年半という節目の日でもあった。もうあれから2年半が経ったのだ。


12日の朝日新聞の1面に、宮城県石巻市の大川小学校の慰霊碑の前で祈りを捧げるご遺族の方たちの写真が掲載されていたのを見て、また目頭が熱くなった。


いま僕は、10数年も走っていないフルマラソンの大会にまたチャレンジしようと決め、練習に四苦八苦しているところだが、思い起こせば数年前にも一度、フルマラソンに出ようと決めたことがあった。2011年のことだ。年の初めに、ネットである大会を見つけ、それをめざして2月ごろから練習計画を立てて、衰えた体力に鞭打ちながら走り込みを続けた。レースは5月の中旬に行われる予定だった。そして「そろそろ書いてもいいだろ」と思い、そのことを3月10日のブログに書き、少し大げさだけど「後に引けない状況」的気分を作って自分自身を盛り立てようとしたのである。


その時のブログでは、どこの大会に出るかは書かず、「少し遠い場所だけど、5月中旬に開催される頃合な大会」に参加する…ということだけを書いた。実はその大会は、仙台で行われる大会だった。仙台市内の「台原森林公園を周回するコース」ということだった。「仙台鉄人会」という団体の主催で、5時間走の部や10時間走の部、あるいは駅伝の部、そして僕が出ようとしているフルマラソンの部など、競技種目はバラエティに富んでいて、おまけに制限時間もゆるい。地元のマラソン愛好者の人たちの温かい手作りの大会に違いない。僕はこの大会をネットで知った時、仙台には親しくしていた知人の方も住んでおられたこともあり、このレースなら何とか頑張れるだろうと思ったのだ。それを3月10日のブログに書いて、決意を新たにしたのであるが…


翌日の3月11日。東日本大震災が起きた。


言うまでもなく仙台市も大きな被害を受け、5月にマラソン大会などを開けるような状況ではなくなった。順調にいっていれば僕も走るはずだった仙台市の台原森林公園は、被災者の物資配給の場としてテレビニュースに映っていた。まさかこんな形でこの公園をテレビで見ることになるとは夢にも思わなかった。そして数日後の大会事務局のホームページに、「本大会は、東北地方太平洋沖地震の影響により、開催中止となりました」と告知されていた。


震災と津波の被害のあまりの大きさに茫然自失となり、僕は徐々にブログを書く気力もそがれ、しばらくしてから、半月余りブログを休むこととなった。一方その間に、10月に開催される第1回大阪マラソンに申し込んだりしたけれど、申込者が殺到して抽選に外れ、それ以来、もう自分にはフルマラソンには縁はない、年も年だし、妙な色気を出すのはやめようと決心したものである。あぁ、それなのに…


それから2年半経った今、僕はまた何を思ったか11月の大会に向けてフルマラソンの練習をしているのである。…というより、まあ、ただダラダラとジョギングを続けているだけのことなんだけれど、2年半前のブログで体力の著しい衰えを嘆いているのに、あれからさらに年を取って、まだフルマラソンにこだわっている自分の心理状態はいったい何なのか…? と、自己分析したりする。


東日本大震災から2年半…というニュースを見て、その前日の自分のブログのことを思い出し、それに関する話を書きました。それにしてもあの大災害からもう2年半が経ったのですね。7年後の東京五輪開催も確定したので、それを被災地復興に向けて、本当に実効性のある政策を展開する原動力にしてほしいと願っています。

 


 

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僕の海外旅行歴 2

2013年09月11日 | 旅行


東京オリンピックを巡るテレビ局の喧騒はなかなか一段落しないが(この間女子アナが「ひとだんらく」と言っていた。誤用ではないが聞きづらい。やはりアナウンサーなんだから「いちだんらく」と言ってほしいなぁ)、見ているほうは、いつまでも同じ映像ばかり見せられたり、同じような話や、逆に2020年五輪展望…みたいな気の早すぎる話などを聞かされたりしているうちに、そろそろ飽きてきた感がある。間に2016年リオ五輪があるのを、忘れているんじゃないの?


このブログでも2日連続で取り上げましたが、元の静けさ(笑)に戻します。


この前の続きです。21世紀が始まった2001年にスペイン旅行をしたあと…


2003年 ハワイ(マウイ島、オアフ島)。あるクイズでハワイ旅行が当たった。旅行社に勧められ、追加料金を払い「ぜいたくコース」にしたら、マウイ島のホテルの部屋はスペシャルフロアにあり、エレベーターでは鍵を差し込んでその階で降りるシステム。出入り自由で食べ放題・飲み放題のレストランもあり、リッチな気分に浸れた。海よりホテルのプールが素敵だった。日本語が通じにくく、日本人観光客はほとんど見なかった。そのあと行ったオアフ島ではどこでも日本語OKだったのに…


2003年 グアム。ハワイが面白かったので、2ヵ月後にグアムにも行った。ここはもう日本の街と変わらないほど日本人ばかりである。どこへ行っても日本人だらけ。ただ、ある晩、「大漁」という日本語の看板がかかった回転寿司屋へ行ったら、その店の客は外国人ばかりで、日本人は僕たち夫婦一組だけだった。


2004年 ラスベガス、サンフランシスコ。妻が以前からラスベガスに行きたがっていた。別にギャンブルに興じたわけでもないが、街の雰囲気が何とも言えないほど素晴らしい。歩いているだけで楽しい。ショーもよかったなぁ(うふふ)。そこから小型飛行機でグランドキャニオンにも行った。「壮大無比」とはこういう光景を指すのだろう。ぎゃふん、と言うしかなかった。サンフランシスコ近郊のヨセミテ渓谷も味わいがあった。ゴールデンブリッジもよかった。ただ帰国するとき、飛行機にトラブルが発生し、途中でサンフランシスコ空港へ引き返すハプニングがあって、ヒヤリ。


2005年 フィレンツェ。フランクフルトで乗り換えてフィレンツェ行きの飛行機に乗った。夜、フィレンツェに着き、タクシーの運ちゃんに「フィレンツェ駅前のホテルへ行って~」と言うと、運ちゃんは目を丸くして「お客さん、ここはボローニャですぜ」と言われコケかけた。濃霧のためフィレンツェ空港には着陸できずボローニャ空港に降りたということがわかり、てんやわんや。新幹線に乗ってボローニャからフィレンツェに行くのも一苦労だったが、何とかカタコトでイタリア語がしゃべれたので無事その日のうちにフィレンツェのホテルにたどり着けた。 <追伸>列車で行ったピサの斜塔も思い出深いです。


2006年 グアム。長男夫婦といっしょに行ったのだが、生後4ヶ月のモミィも連れて行った。4ヶ月児のくせに一人前にパスポートがいるのだ(笑)。むろんそんなことは何も知らなかったモミィだが、物心ついた頃、グアムでベビーカーに乗っている写真を当人に見せると「ふ~ん、私はグアムに行ったことあるんや。また連れて行ってね。でも次はハワイがいいなぁ」なんて言っている。「次」って…前のこと、覚えてるんかいな!


2006年 ラスベガス。妻のすぐ上の姉が海外旅行未経験で、「今度は私も一緒に連れて行って」ということで、妻の好きだったラスベガスを再び訪れた。今回はサンフランシスコもグランドキャニオンもなく、ラスベガス1本だった。この時点からアルゼンチンまでの5回の旅行は、すべて僕たち夫婦と姉との3人旅となる。ラスベガスはやはり何度行ってもいい街だ。自由の女神も、エッフェル塔も、凱旋門も、ピラミッドも、スフィンクスもあり、それを眺めながら街を歩くのが楽しい。


2008年 ハワイ(オアフ島)。姉の希望で、2度目のハワイへ。今回はオアフ島のみ。前回も登ったダイアモンドヘッドへまた登ったが、ここから見渡すワイキキの浜辺の風景はやはり絵に描いたように美しい。バスに乗ったり歩いたりして、あちらこちらと大型店舗やレストランや街頭ショーなどを楽しんだ。しかし数ヶ月前に僕には耳鳴りが発生していて、実はこの旅行中、何度か気分が悪くなり、一人でホテルの部屋で横になっていたことも多かった。


2008年 パリ。次はどこがいいですか?」と姉に聞いても「どこでも…」と言うので、じゃ、花のパリを、ということで僕にとっては4回目、妻にとっては3回目となるパリ旅行に姉を誘った。ブログで知り合った女性の方が以前パリに住んでおられ、その方が勧めてくれたいくつかのレストランを、地図を見ながら訪ね歩いたのが懐かしい。そして、一度行きたかったモンサンミシェルへ、日帰りツアーに申し込んで行くことができたのが、この旅の最大のハイライトだった。


2009年 カナダ(ナイアガラ、トロント)。初めてカナダへ行った。ナイアガラの滝が目の前に見えるホテルに満足。しかし行ったのが2月で、あたり一面雪景色。その雪を掻き分けながら、ナイアガラの滝の前に立った。現地の案内人が、ナイアガラの滝がほとばしる滝壺の中に連れて行ってくれ、滝の裏側からながめた景色はこれまた絶景だった。僕はちょうど還暦となる60歳の誕生日を、ナイアガラの滝を見てぶるぶる震えながら迎えたのだった。そのあと、カナダ最大の都市トロントへ行ったけれど、ここも雪、雪、雪だったことが一番印象に強く残っている。


2009年 ブエノスアイレス。姉と一緒に行く5回目の旅行で実現したアルゼンチン旅行。姉の子であるヒロユキが、もう10年以上も前からここに住み、現地のレストランでシェフをしている。彼を訪ねて地球の裏へ…。「息子をたずねて3千里」とでもいうべきか(そういえば、マルコもアルゼンチンをめざしたんだ)、母と子の10数年ぶりの対面が実現した。ヒロユキにはソルちゃんという一緒に暮らす若くて可愛い女性がいた。これがきっかけとなり、翌年から、ヒロユキは毎年3月に休暇をもらってソルちゃんを連れて大阪へ来るようになった。今年で4度目になる。その都度、僕らも呼んでもらってみんなで歓談するのが恒例になった。ところで、この旅行では、ブラジルとの国境にあるイグアスの滝にも行った。ナイアガラより雄大で、そのすさまじい迫力に圧倒された。


…ということで、前回と合わせて過去20回の海外旅行を駆け足で振り返ってみました。


ひとつの旅が終わると、写真とは別に、旅の記録を冊子にして残しています。編集ソフトを使い、写真と文章をまぜて旅日記をこしらえるのです。たまたま市役所で広報紙を作る仕事をしていたので、こういう技術は身についていました。旅行に関してはこれを見るとよくわかるので、結構重宝しています。

 

 
 本棚にこんなふうに旅行記のファイルが並んでいます。


 

 
  中はこんな感じです。これはスペイン旅行の1ページです。
 

 

 

 

 

 

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東京五輪の今と昔

2013年09月09日 | スポーツの話題


「2020年五輪、東京に決定!」のニュースが列島を駆け巡っているが、東京の「勝因」として、さまざまな話が乱れ飛んでいる。


まず、東京の最大のライバルだったはずのマドリードだけれど、結果は最下位であっけなく落選した。お膝元のヨーロッパのIOC委員たちがあまりマドリードを支持しなかったようなのだが、それには理由があって…


その次の夏季五輪(2024年)にパリが立候補しようとしていること。2022年の冬季五輪にミュンヘンが立候補しようとしていること。及び、次期IOC会長の有力候補がバッハというドイツ人であること…。つまり、あれもこれもヨーロッパが取ろうとしているわけである。もし今回マドリードが五輪開催地に決定すると、次の開催地が同じヨーロッパのパリになるはずがなく、またミュンヘンの冬季五輪さえ危うくなり、さらにIOC会長がヨーロッパ(ドイツ)人というのも、「なんでヨーロッパばかりなのだ」という内外からの批判が出て他の地域から選ばれる…という可能性も高まる。それやこれやでヨーロッパの委員たちが躊躇し、有力だったマドリードに投票しなかった人がかなりいた…と言われているのである。


東京が誘致に成功した理由についても、誘致本部がこれまでにないほどヤル気を出しプレゼンテーションを熱心に展開して国民の支持率を上げ、IOC委員にもその思いが届き、さらに安倍総理や皇室の方も今回のIOC総会に出席する意気込みを見せたことが大きい…など、いろんなことを言う人がいたが、細かい話はもう忘れてしまった。


ただ、面白かったのは、49年前の東京五輪招致に成功したときの総理が、安倍現総理の祖父にあたる岸信介総理の時だったという話には、思わず笑ってしまった。でも、案外そういうものが“勝利の女神様”の心をくすぐり、「じゃぁ、孫の顔も立てて東京にしてあげようか」と思われたのかも知れませんね。


ところでこの決定で、また49年前の東京五輪のことが頻繁に話題に上り始めている。テレビでもニュースキャスターらが「東京五輪の時はまだ生まれていませんでしたね」とか「5歳だったから何も覚えていません」とか「小6でしたが、鮮明に覚えていますよ」などと言ったりしている。それにしてもニュースで何度も「56年ぶりに東京で開催!」と繰り返し言われると、何だか、今から56年前に東京五輪があったのかな~、と錯覚を起こしてしまう。むろん、2020年からみて56年前なんだけれども、あまり「56年ぶり」ばかり強調されると、自分の年齢がわからなくなってしまうのだ(笑)。


ところで49年前の東京五輪の時は、僕は15歳だった。そして2020年の東京五輪の時は、モミィが15歳である。これも何かの縁なのかも知れませんね~。

 
いずれにしても、“7年後”に大きな楽しみが出来たことは何よりです。


 

 

 

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東京五輪開催決定!

2013年09月08日 | スポーツの話題


今朝は3時過ぎに起床し、3時15分頃からNHK総合テレビをつけた。いまテレビを見ながらこの文章を打っている。現在4時30分。あと30分ほどで、2020年五輪開催地が決定する。いや、投票はすでに終わっており、開催地は決定しているはずだが、発表されるのが5時ということである。


  ………………………………………………………………………………


さて、朝起きてテレビをつけた3時15分、NHKスタジオでは、ゲストとしてマラソンの有森裕子さん、競泳の萩原智子さん、バレーボールの大林素子さんの3人が現地の映像を見守りながら、緊張の中にも軽妙な会話を交し合い、なかなかいい雰囲気を作っていた。民放各局も少し見たが、出演者たちが騒々しいので、ここはNHKでじっくり見ることに。


テレビでは、3都市の過去からの招致活動の映像や、いま現在、各都市で国旗を振りながら「朗報」を待つ人々の様子などが映し出されていた。東京では、千代田区のホールで重量挙げの三宅さん父娘や女子水泳金メダルの柴田さんたちが、集まった多くの人たちと共に、舞台正面の大きなモニターを見つめていた。駒沢体育館もモニター会場になっており、アナウンサーが「決定の瞬間を今か今かと待っているところです」と熱い口調で話していた。


3時55分。ブエノスアイレスで第1回目の投票が始まった。ここで最下位になると、その時点で除外されてしまう。つまり1回目は、過半数を獲得する都市がない限り、まず除外される都市を決める投票でもある。見ていて緊張してくるが、電子投票なので、あっという間に投票が終わった。画面は集計する様子に変わったが、なにせ電子投票なのでこれもあっという間に終わった。


4時。投票結果が発表された。マドリードとイスタンブールが同数で並んだ…と発表された。え、2つが同数? どういう意味? 東京はどうなったの? もしかして東京が最下位? と一瞬思ったが、テレビでは、どうやら東京が最多得票を得たようだと説明があり、ホッと胸をなでおろした。そしてこの2都市による「最下位決定投票」が行われ、マドリードが敗れて最下位となり、除外されることになったのだ。


そしてすぐに東京とイスタンブールの決選投票が行われた。
が、結果発表はそれから1時間以上待たなければならなかったのである。


「マドリードが最初に落ちたのは意外でしたね」とスタジオの有森さんが言った。「評価の低かったはずのイスタンブールのほうが、東京にとってはかえって怖い感じがします」とも付け加えた。何となくそんな感じもする。油断ならない。五輪招致には「逆転劇」が多いから。いよいよ緊張してきた。今は4時50分だ。あと10分。しばらくテレビに集中です。


 ………………………………………………………………………………


ずいぶん待たされた後、たった今、5時20分にやっと発表がありました。
会場にロゲ会長の「トーキョー」の声が響きました。ぱちぱちぱち


やりましたね~
2020年五輪開催都市が東京に決まりました! よかったよかった。


今はそれだけです。何も言うことありません!


とりあえず、ブログをアップします。

 

                    

                     9月8日午前5時21分

 

 

 

 

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僕の海外旅行歴

2013年09月07日 | 旅行


海外旅行が好きで、その体験の多くはブログにも書いてきましたが、どのくらい行ったのですか?と聞かれることもよくあります。回数で言えば20回です。前回のブログでたまたまその回数を書いたところ、コメントをいただいたお2人に関心を示していただきましたので、一応記録しておく意味でも、いつどこへ行ったかというのをここに書きしるすことにしました。


仕事などで毎月のように海外へ行っている人も大勢いらっしゃいますし、海外旅行に50回近く行ったというご夫婦も知り合いにおられます。まあ回数がどう…ということはないのですが、心に残る旅の思い出は、数限りなくあります。


旅はガイドブックを眺めながらいろんなプランを練っている時が一番楽しいですね。わが家ではほとんど妻が計画を立てて僕に相談し、僕はウンウンとうなずく…というパターンですが、行く前の段階で、すでに胸がはずみます。ところがいざ旅行に出ると、僕らの場合ほとんど個人旅行なので、お昼ご飯を食べる場所ひとつにも神経を使い、つたない外国語で必死にやりとりをするなど、次々と局面を乗り切るのは、まことに苦行に近いものがあります(笑)。


身も心も疲れ果てて帰国し、やれやれ…やっぱりどこの国よりも日本がいい、わが家が一番いい…と焼酎お湯割りなどを飲みながら、ホッと一息ついてから、それから日がたち、ボチボチと旅の記録を整理しつつ「あの時はびっくりしたね」とか「怖かったなぁ」とか「不思議だったね~」とか旅の思い出を笑顔で語り合う時に、ひとつの旅が終わる…という具合なのです。


では、前置きはそれくらいにし、以下に並べてみます。


1983年 ニューヨーク。初の海外旅行。34歳の時。ニューヨークシティマラソンに出場するため一人で行った。一人で海外旅行したのはこれが最初で最後。現地での英会話に四苦八苦。なんでもっと学生の頃に英語を勉強しなかったんだろう…と後悔。海外旅行はある程度現地の人と会話が出来なければ面白くないことを痛感し、その後は行く前にその国の言葉を勉強した(…ちょっとだけね)。


1988年 韓国(釜山、慶州、ソウル)。当時、僕は韓国語を習っていたので「語学修業」のため、同好の士と2人で、宿も決めず、往復の飛行機チケットだけ買って出かけた。男2人の韓国旅行なので職場の仲間たちから「買春旅行やろ」と言われ閉口した。そんなことするわけ、ありまへんがな!


1989年 東南アジア(マレーシア、シンガポール、タイ、香港)。当時高2の長男と2人で旅行した。夏休み、実は家族4人で行く予定だったが、次男がクラブ活動の都合で行けなくなり2人で行った。行く先々で、現地係員が僕と長男を見て「アナタタチ、キョウダイ?」と言った。ホンマです。


1994年 北京。関西国際空港が開港した直後。大学生だった長男の友だちが北京の大学に留学していたので、僕と妻は長男とともに北京へ遊びに行った。北京の街は、人々のふるまいといい、路地の汚さといい、もうびっくり仰天することの連続。これが初の海外旅行だった妻は「二度と中国には行きたくないわ」と今でも言う。


1994年 オランダ(アムステルダム)、オーストリア(ウィーン)、スイス(ベルン)、フランス(パリ)。勤めていた市役所から、大阪府市町村職員海外研修というのに派遣してもらった。初めてのヨーロッパ。街並みの重厚さに圧倒され、帰国後さっそく妻に「来年一緒にヨーロッパを旅行しよう」と約束。


1995年 パリ。初めての妻との2人旅は、欧州でも最も素敵だったパリへ行った。往復の飛行機とホテルだけ予約して出かけた。パリのホテルに荷物を置いたまま、列車に乗って国境を越え、スペインのサン・セバスチャンというところへ行き2泊した。現在アルゼンチンのレストランでシェフをしている甥が、当時は料理人としてこの町で修業をしていたので、旅のついでに会いに行ったわけ。


1997年 オーストラリア(ゴールドコースト、シドニー)。僕と妻の2人旅のはずだったが、なぜか長男も行った。ゴールドコーストやシドニーを長男が運転するレンタカーで楽しんだ。「カンガルー飛び出し注意」の道路標識に笑った。しかし英国系の国ゆえアルコールの置いていない飲食店もあってガッカリ(なんだ、それは?)。


1999年 ロンドン、パリ、ローマ。長男が「ヨーロッパに行ったことないので」というのでまた3人旅。珍しく添乗員付きの団体ツアーだった。添乗員について行くだけでいいので、こんな楽な海外旅行があったのかと感激した。この時初めて行ったイタリアに魅せられ、イタリア語の特訓をして6年後のフィレンツェ旅行へとつながった。


2000年 ウィーン。94年の海外研修で印象的な街のひとつだったウィーンに、妻を連れて行った。間に列車でザルツブルグへ日帰り旅行もし、また列車で隣国ハンガリーのブダペストへの日帰り旅行もした。そのブダペストで怪しげな男たちに取り囲まれ、パスポートをだまし取られそうになり、妻の気転であやうく難を逃れた。ハンガリーはもうイヤ!


2001年 スペイン(マドリード、バルセロナ)。ニューヨークへ行く予定の直前に9・11事件が起きて、急きょ行く先をスペインに変更した。マドリードから列車で行った古都トレドやアランフェスも素晴らしかった。しかしテロの危険はスペインでもあり、空港からホテルへ送ってくれた現地旅行社の人が、「あなた方のホテルの隣がアメリカ大使館なので気をつけてくださいね」。なんでそんな場所にあるホテルを選んだんや、旅行社は…?


これで10回分が終わりです。
あと半分はまた次回に書きます。


ところで前回も書きましたが、明日早朝(日本時間午前5時)に、アルゼンチンのブエノスアイレスで、2020年の五輪開催国が決定するわけですが、聞けばスペインのマドリードが東京と競り合っているそうですね。


僕の20回の海外旅行中20回目のブエノスアイレスで、10回目の旅行先であるスペイン・マドリードが選ばれたとしたら…これも何か因縁めいているなぁ…なんて思っています。でもやはり東京で決まり! …と信じています。ワクワク。

 

 

 

 

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東京五輪実現の予感が…

2013年09月05日 | ニュース・時事

 

2020年のオリンピック開催地は東京に決まるのだろうか…? アルゼンチンのブエノスアイレスで行われる国際オリンピック委員会(IOC)総会の日が迫ってきた。日本時間の8日(日)午前5時に発表されるのだそうである。一応、その時間にはテレビを見ておこうと思う。


以前はイスタンブールが圧倒的に有力で、東京は国民の支持も低く、まず可能性はゼロに近い…などと言われていた。…が、そのイスタンブールで大規模な反政府デモが起き、またもうひとつの候補地マドリードも経済危機で失速した。もっとも、東京だって現在、福島第1原発における汚染水問題の深刻化が取り沙汰されている。そんなふうに、今は候補地のどのマイナスが一番小さいマイナスか…という、まるで昨今の国政選挙みたいな感じで争われているようで、何となくパッとしない選考であることも事実である。そんな中で、現時点ではとりあえず東京が有力とみられているようだ。


東京五輪と言えば1964(昭和39)年の10月に開催された。今から49年前のことである。高校に入って半年後だった。中学生の時、学校から映画を見に行ったのだが「ローマオリンピック」という記録映画で、ローマの石畳をエチオピアのアベベが裸足で走って優勝したマラソンのシーンなどに大いに感動し、オリンピックというものに初めて興味を覚えた。その映画のラストに閉会式の場面が流れ、その時初めて、次のオリンピックがニッポンの東京で行われることを知ったのだ。


その東京で行われたオリンピックは、言葉で表現できないほど素晴らしく、輝いていた。水泳も、陸上も、柔道も、レスリングも、重量挙げも、女子バレーも、何もかも、15歳だった僕の胸の中に、今も忘れ得ぬ名場面・名勝負の数々が刻み込まれている。


そして6年後の70年に大阪で万博があり、72年には札幌で冬季オリンピックが行われた。すべて「アジア初開催」だったので、日本という国はアジアではダントツのトップで、世界でも有数の大国なんだなぁ、と誇りに思ったものだ。


その頃に比べると、僕の中のそんな気持ちも年とともに薄れるばかりで、今さら東京でオリンピックを開いたところで金がかかるだけじゃないのか…と最近は思ったりしていた。でも、まあ、開催地決定の時期が近づいてくると、なぜか高校時代のときめきが心の奥底からじわじわと突き上げてくる感じがしてきて、出来れば東京開催が実現したら、またあの時のように楽しめるのではないか…と思うようになった。(もっとも、東京ではなく他の都道府県の都市ならさらに応援していたと思うけれど)


しかし、この五輪開催地に対するIOC委員の投票というのもなかなかクセ者で、フタを開けるまで、どう転ぶかわからないようである。


ご記憶の方も多いだろうが、88年の五輪はほぼ名古屋に決まりかけていた。僕らもてっきり日本で2度目の五輪が名古屋で行われるものと思い込んでいた。しかし、結果は韓国のソウルに決まり、信じられない思いをしたことがあるので、今回も、東京が有力と言われているけれど、そんな下馬評は全くアテにならない。


でもね…。IOC総会がアルゼンチンのブエノスアイレスで行われるというのが、個人的に何となく「いい感じ」をもたらせてくれていることは事実である。ブエノスアイレスは、僕が過去に行った20回の海外旅行の中で、20回目の旅行地である。2009(平成21)年の秋だった。余談だが、その翌年にモミィをわが家に引き取ったので、それ以降、海外旅行をする機会がないままである。…まあ、それはいいのだけれど、ブエノスアイレスには甥も住んでいる。地球の裏側とはいえ、僕たち家族にとっては縁があって身近に感じられる大好きな都市なのだ。その地で行われる総会の投票で2020年の五輪開催地が決定するというのは、ちょっとした追い風が吹いているような予感もし、「東京に決まるんじゃない?」という気分が、日に日に高まってきているところである(あくまでも気分ですが)。


さて、どうなりますことやら。8日(日)の午前5時の発表が楽しみです。

 

 

 

 

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店主敬白

2013年09月03日 | 日常のいろいろなこと


昨日(2日)のこのブログに対して、匿名の方からコメントをいただきました。

本日(3日)午後3時07分にコメントをいただいたその方に、お返事をします。


昨日のブログで、僕は、大阪府吹田市で起きた2歳女児の交通事故に関し、女児の前を歩いていたお母さんも、もう少し注意していたら事故も防げたのでは…と書きました。それに対し、その方から「(お母さんは誰よりも自責の念に駆られておられるのですから)お母さんの責任を問うているようにとれるようなことは言わないであげていただきたいです」というコメントが寄せられました。


それを読み…その方のおっしゃるとおりだと思いました。
自分の配慮が足らなかったことを反省しています。

そのようなことで、昨日のそのブログは、削除させてもらいました。

コメントをくださった方をはじめ、
不快に思われた方々に対しては、
心から
お詫びする次第です。

…まだまだ修業が足りませぬ。

 

 

 

コメント
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