僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

年度末、退職の日を思い出す

2021年03月31日 | 思い出すこと

きょうは3月31日。年度末ですね~
令和2年度も、今日で終わります。

さて3月31日といえば、必ず思い出します。
38年間勤めた職場を去った、あの日のことを。
懐かしいですね~。12年も前の話ですけどね。

12年前のその日のブログは、感無量の思いでつづりました。
きょうはその記事「仕事を終える日」を再掲載させていただきます。
ダラダラと長い話ですけど、まぁ、おヒマなら読んでください。

 ………………………………………………………………

  2009年3月31日のブログの記事です。

        
  

退職をすることって、結構骨の折れることなんですよね。

1ヶ月以上もいろんな人たちからご好意あふれる送別会をしていただいた。
だから、どうしても飲みすぎになる。贅沢な悩みですけど

毎月血液検査をしてもらっている徳洲会病院での、ガンマGTP(肝臓のアルコールによるダメージ度)の数値が、1月より2月、2月より3月と、グングン上がってきている。それでも、風邪気味の時はあったが、大幅に体調を崩すということはなく、昨晩、今月最後の送別会を楽しく終えることができて、本当によかった。

28日の土曜日は、休日出勤して荷物を片付けた。

制服(事務服、作業服、防災服、合羽)は貸与されているので返さなければならない。しかし、人事課は、僕のネームの入った古い服を返してもらっても使い道がないので困るだろう。「適当に処分してください。まあ、市のマークも入った服だから軽率に扱わないようにだけはお願いします」とのこと。つまり、しっかり処分しておくように、ということだ。

29日の日曜日は、家で葉書の挨拶礼状を作ってプリンターで印刷した。
在職中、お世話になった皆さんに、お礼の言葉を書き、それだけでは愛想がないので、昭和58年に出場したニューヨークシティマラソンでのフィニッシュの写真をつけた。僕がゴールしている上には大きく「 FINISH 」の幕が写真に写っている。写真の下に「今回は38年間の公務員生活の FINISHです」との文をつけた。

出すところは150枚ほどあった。
ところが、50枚ぐらい刷って行くと、だんだんと写真が赤みを帯びてきて、最後のほうは真っ赤に近い色になり、どうやってみても火事場のような写真になった。原因はわからない。仕方なく、途中から写真を大阪長居競技場でのマラソンのゴールの写真に変えて、「38年間の公務員生活のゴールです」と説明をつけた。そんなことで、29日は1日中、眼がかすむほどその作業に没頭した。

昨日の30日(月)は、市役所の7階から順番に下りて行って、下水道部、都市整備部、財政部、教育委員会、総務部、秘書室、市民生活部、保健福祉部へと、順番に回って、職員の皆さんに、お礼のあいさつに回った。
「長い間お世話になり、ありがとうございました」
「あ、ご丁寧に。長い間、ご苦労様でした」
これを、何10回と繰り返す。久しぶりに話す人もあって、全部回りきるのにかなりの時間がかかった。

職場に戻っても何人かの職員が訪ねて来て、餞別などをいただいたりした。

副市長は「長い間お疲れさま。これから退職しても、市の行事(たとえばハイキング大会や、美化キャンペーンなど)にはどしどし参加してや」と握手をしながら、言われた。市役所を辞めると二度と顔を見せない人もかなりいるが、僕はOB会の行事にもどんどん参加するつもりだし、役所へ顔を覗かせもしたいし、今回送別会などでいろいろお世話になった年下の人たちとは、今後も飲みに行ったりするつもりである。38年間在職すると、数多くの友人ができる。その付き合いは、これからも大切にしたい。

そんなことで、昨日は1日中、挨拶をしたり机を片付けたりしていると、なんとなく胸が熱くなってきた。退職なんてどうということはない、と思っていたのにね…。

夕方、職場を訪ねて来た一人の女子職員が、僕の前で涙を流した。

僕が役所に入ったときに同じ課だった女性で、ちょうど彼女は20歳の誕生日を迎えた頃だった。みんなでハッピーバースデーの歌を歌ったことを今でも懐かしく覚えているが、彼女もそういうことを僕の顔を見て思い出したようで、思わず涙をこぼしたのだった。こちらまで涙が出そうになった。
「あれから38年が経ったのですねぇ。早いですねぇ…」

夜、創作中華料理店で「山の会」(というグループ)の人たちが送別会をしてくれた。そのうちの2人は去年同じ役所を退職したばかりの人たちだった。その人たちとワイワイ話をしていると、昼間の、なんとなく感傷的になった気分も和らいできた。

でも、家に帰って、ベッドに入ると、やっぱり何かヘンだ。眠れない。退職をするということが、どういうことなのか、まだ、よくわからない。

もういくつ寝たら退職だろと指折り数えていたが
もういくつ寝てもずっと退職のままである。

スーツを着て、ネクタイを締めて出て行かなくてもいい。
どんな生活なんだ? と思う。
40年ほど前の学生生活みたいなものだろうか
あれはまあ、一応大学へ通っていた。
これからは、通うところもない。
どんなんだろう…?

そんなことを思うと、ほとんど眠れないまま日付が変わった。
午前3時には、もう起きた。起きて、このブログを書いている。

今日は9時10分頃に議長から「議会事務局出向を解く」という辞令をもらい、
9時半に市長室へ行き、市長から退職辞令をもらう。

健康保険証と職員証を人事課に返す。

そして職場に戻って、最後のあいさつをし、見送られて、そのまま帰る。
今日は議員さんたちが、僕を見送ってくれるそうである。

それで、38年間の役所生活のすべてが、終わる。

4月1日と2日は、モミィを連れて、妻と3人で和歌山県の白浜温泉へ。

3日は議会事務局の、新任の事務局長も含めての歓送迎会。

5日~9日は、妻と2人で「青春18切符」を使って、大阪から、東京~仙台~盛岡~青森~秋田と電車に揺られ、秋田から飛行機で帰って来る。


              

それでは、葉書の印刷は途中で失敗したNYマラソンの写真ですが、
ここでその写真を使わせていただき、皆様に退職のご挨拶を申し上げます。

明日から何の仕事も持たないフーテンおじさんになりますが、
ブログは続けますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

 

  

  1983年(昭和58年) ニューヨーク マラソンでの フィニッシュ。
  今日は、38年間の 公務員生活のフィニッシュで~す。 

  ………………………………………………………………………

以上、12年前の3月31日に退職をした時のブログを、
そのまま再掲載させていただきました。

あれから12年。
まだブログを続けられているのは良かった~

当時のブログをそのままここにコピーしたので、コメントも、
その時の方々からいただいたのが、そのまま入っています


懐かしいです~

 

 

 

 

 

 

 

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道明寺天満宮の桜が満開

2021年03月30日 | 日常のいろいろなこと

一体いつになったらコロナは終息するのだろう。

大阪府は、きょう発表の感染者数が432人で、東京都の364人を大きく上回り、全国最多となりました。吉村知事はつい最近、緊急事態宣言を早期解除したばかりで、僕なんかは「そんなことして大丈夫かいな?」と心配していたら、案の定、感染者数が増加してきた。すると今度は一転して「まん延防止等重点措置」の早期適用を求めているとのこと。吉村知事もコロコロ変わるんだから。そもそも早期解除の要請自体に問題があったように思います。

それと、「まん延防止等重点措置」のことをテレビのワイドショーなどでコメンテーターや司会者が、略して「まんぼう・まんぼう」と言っていますけど、これもねぇ。なんだか学生時代に読み耽った北杜夫の「どくとるマンボウ」みたいで、全然緊迫感が伝わってこない。マスコミもこんな伝え方をしているから、世間はコロナに対してどんどん気が緩んでくるのではないかと思うんですよね。

また、先週、厚生労働省の職員23人が、深夜0時近くまで東京・銀座の飲食店で送別会をしていたことも大きく報じられました。ほんまにねぇ。コロナに関しては「何をしてんねん!」というニュースが最近はホントに多いですね

とまぁ、ぶつぶつボヤいてばかりでは面白くないので、
3日前に妻と行った道明寺天満宮の桜の写真を載せます。
ちなみにわが家から道明寺天満宮へは、歩いて1時間程度です。


 
 僕が住んでいる所の近くには古墳が数多くありますが、
 これは道明寺天満宮へ行く途中にある小室山古墳です。
 古墳としては珍しく、自由に中に入ることができます。


 
 中へ入って行くと桜が悠然と咲いていました。
 お花見客の姿もチラホラ見えました。


 
 そして道明寺天満宮へ着くと桜は満開でした。
 ここへは初詣にはもちろんのことですが、
 最近は桜の時期にも毎年来ています。

 
 
 この後方に拝殿があります。


ご参考までに、道明寺天満宮の桜に関するHPです。

僕たちが行ったのは3月27日でしたが、
ちょうどその前日に「満開」とありました。
後から見て知ったのですが、ラッキーでした。

そんなことで「天神さん」の桜を見た帰り道、
「くら寿司」に入りビールで喉を潤した次第です(笑)。

 

 


 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月から通う私立高校前をぶらぶらと

2021年03月26日 | ウォーク・自転車

4月からモミィが行くことになった私立高校は大阪市の阿倍野区にあります。これまで何度かその学校の前を通ったことがありますが、10年以上前か、あるいはもっと昔の話なので最近は見ていません。学校のホームページの写真を見ると、ずいぶん大きいビルのような校舎になっているので驚きました。

で、数日前、いいお天気だったので電車でアベノまで行き、そこから家の方角に向かってウオーキングをしたのですが、途中、その学校の前を通りました。もちろんそれが目的だったんですけどね。

 
賑やかな道路に沿って歩きました。
「都会」を歩くのは久しぶりです。

やがて学校が見えてきました。

道路を渡ったところから写真を撮りました。

 
 これがモミィが4月から通う学校です。

とても立派な建物で、先日不合格になった公立高校のあの古びた校舎とは雲泥の差です。ま、あくまで外見の話ですけど(笑)。

モミィはこれから3年間、この学校に通うことになるんだなぁ
と思いながら、しばらく立ち止まって校舎を眺めていました。
そしてそのあとまた、ウオーキングを続けました。

やがて長居公園にさしかかり、僕は公園の中を通って帰途に着きました。
長居公園も、桜がチラホラ咲き始めていました。

結局この日は、アベノから学校の前を通り、長居公園を抜け、途中回り道をしたりしてわが家まで15キロ以上あったと思いますが、休憩を入れて4時間ほどのウオーキングでした。

長居公園のこんな景色が、心を和ませてくれました。

  

  もう、すっかり春ですね~

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「他山の石」 とはどういう意味?

2021年03月23日 | ニュース・時事

広島に選挙区を持つ自民党の河合克行という元法務大臣が、妻(河合案里)を当選させるために地元議員らを買収して罪に問われた裁判が今日行われ、河合被告は現金の提供を認めた、というニュースが流れました。

そして、これを受けて、自民党の二階幹事長が、
「党としても、他山の石としてしっかり対応していかなくてはならない」
とコメントしたのですが
僕はそれをテレビで見ていて、
「はぁ? 他山の石?」
と、その言葉が耳にこびりつきました。

「他山の石」というのは、よその山から出た粗悪な石でも 自分を磨くのに役だてることができるという意味で、つまり、他人の悪い点も 自分にとって良い教材になる、という意味ですよね。

こういう言葉を使ったら突っ込まれるのはわかっているのに、二階さんも何を思ったのか? 「他山の石」と言っても同じ自民党なんですからね~

案の定、立憲民主党の福山ナントカという幹事長が、記者会見で「自民党にとっては他山の石ではなく『自山の石』ではないか!」と言ったそうです。

そりゃ、言われますよね。

二階さんとしては「自分はそういうことのないようにしたい」という気持ちで言ったのかも知れませんが、河合被告が属していた自民党の幹事長だから、個人ではなく、党として見解を表さなければなりません。
「党として一層の引き締めをはかっていかなければならない」
みたいなことを言うべきでした。「他山の石」なんて言うと、これはもう人ごとですもんね。

ところで
僕も人のことを言えた義理ではありません。

高校の時、今でもはっきり覚えていますが、何かの作文でこの「他山の石」を引用したことがあります。

「〇〇さんを他山の石として見習い、自分も頑張りたい」
というような文章を書いたのです。
いやぁ、まったく意味をはき違えていますよね。
〇〇さんに対して、失礼千万でした。

その引用が間違っていたことを知った時、本当に恥ずかしかったです。

「他山の石」という言葉を聞いて、50年以上前の高校時代のその失敗を思い出し、「あの時はホントに恥ずかしかったなぁ」と、ひとり顔を赤らめている僕でした。

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

公立高校合格発表の結果は?

2021年03月19日 | 日常のいろいろなこと

さて、モミィの公立高校の入試の結果ですけど。
昨日、学校へ発表を見に行きました。

こんな発表を見に行くのはわが人生、3度目です。
最初は僕自身の公立高校の発表(これは不合格)。
二度目は長男の公立高校の発表(これは合格)。
そして三度目が昨日のモミィの発表でした。
やはり結果がわかるまで、緊張しますね。

9時40分ごろに学校に着き、校庭で待機。
午前10時からの発表を待ちます。

 
校舎の2階に合格者番号が書いたパネルが張り出されます。
皆さん、ハラハラドキドキだったでしょうね。僕もです。


そして、いよいよ10時になり、番号が張り出されました。
みんな「キャ~」と言いながら近くまで走って行きます。
僕もドキドキ!
そしてモミィの受験番号を捜しました。

 

しかし
ありゃりゃ。
その番号は、なかったのです。
「う~ん?  ない。ない!」
前後の番号はあるのに、モミィの番号はない。
なんでやねん。
何だか肩透かしを食ったようで、
その場にひっくり返りそうになりました。

 ………………………………………………………………

そういうことで、
結果は不合格でした。

まぁ、モミィはさほどショックを受けることもなく、自分の友だちがどうなったかが気になるようで、昨夜はしきりにラインを送り合っていました。

さて、これでモミィは私立高校へ行くことが決まりました。
昨日は不合格とわかったあと、すぐに妻とモミィがその私立高校へ行き、入学手続きに関するいろんな資料を受取ってきました。そして今日、銀行から入学金を振込んで入学が確定。次は23日に学校へ行き、諸々の手続きをするようです。

思い起こせば
僕も公立の商業高校を不合格になって私立高校へ行きました。
そこがたまたま近大付属高校だったので、それまで考えもしなかった大学へ進むことになり、結局そのおかげで自分の青春時代が思い出深いものになったことは以前に書きました。

それと同様に、今回のこの結果が将来モミィの幸せな人生につながってくれたらなぁと願っています。「人間万事塞翁が馬」ですものね。

 


*去年12月20日のブログ

高校受験に失敗しても ~塞翁が馬~

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日、公立高校の合格発表

2021年03月17日 | 日常のいろいろなこと

モミィが3月10日に受験した公立高校入試の結果発表が、
いよいよ明日(18日)に迫ってきました。

発表は、大阪府立高校はすべて同時で、明日の午前10時です。

合格者の受験番号が学校の校庭に貼り出されるわけですが、
同時にネットでも発表されるとのこと。

しかしネットの発表では、アクセスが殺到したりして、
10時になっても、すぐにつながらない可能性もありそうだ。

そこで、明日はお天気も良いようだから、
僕はウオーキングがてら、その高校まで行き、
合格発表の貼り紙を見てこようと思っています。
歩いて数時間かかりそうですけどね。

ま、そんなことですが

ところで今日、妻に確かめたのですが、
その高校を受験したのは160数名で、
合格するのは122人だということです。
それで
妻にモミィの受験番号を聞きました。
合格発表を見るには番号を知らなければならないのでね。

そうしたら、
「モミィの受験番号は123番よ。わかりやすいでしょ」と妻。
へぇ。なるほどね~。「いち、にぃ、さん」なんだ。
そりゃ、わかりやすいわ。

ん? しかし、ちょっと待ってよ。

合格する人数が122人で、モミィの受験番号が123番って
何となく縁起が悪いみたいなイメージも、ね~(笑)。

さてさて、明日はどうなりますことやら。

結果はまた、ご報告します。

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続・おばさん事典 「悪いのは顔でしたか?」

2021年03月16日 | 読書

昨日の小川有里さんの著書「おばさん事典」の続きです。

一人のおばさんが、皮膚科の医院へ行った時のこと。
名前を呼ばれて診察室に入ると、医師がおばさんを見て、
「え~っと、あなたの悪いところは、顔でしたか?」
と言ったというのです。

悪いところは、顔だって?
ガ~~~~~ン。

おばさんはあまりのショックで声が出なかった。
無言のまま「はぁ?」という表情で医師を見た。
すると医師はカルテを見て、
「あっ、ごめん。顔じゃなく足でしたね。水虫でしたね」
と言い直したということです。
(またまたガ~~~~~ン)

おばさんは、
「あなたの悪いところは、顔でしたか?」
と医師から言われた瞬間、
ムカッとしました。
「ケンカ売ってるんかい!」と思ったほど。

で、診察を終えてから、受付の女性にそのことを話すと、その女性は、
「最近、顔のシミ取りの患者さんが多いので先生も勘違いされたのでしょう」
と言って、慰めてくれたそうです。
「フン。何の慰めにもなりゃしないわ!」
と、おばさんはその後ずっと家族や知人にぼやき続けたそうです。

これが昨日ご紹介した、小川有里さん著「おばさん事典」に載っていて、僕が大笑いしたエピソードの一つです。

それにしてもねぇ。
いくら顔のシミ取りの患者が多いといっても、確認もせずいきなり、

「あなたの悪いところは、顔でしたか?」と言ってしまうのもねぇ。
お医者さんもお医者さんですけど。

ま、毎日大勢の患者さんを診ている医師としては、別に何も考えず機械的にそんな言葉が口から出てしまうのかも知れませんが。

でも例えば、もし僕が頭痛がひどくて内科の医院に行った時、
医師から、
「え~っと、あなたの悪いところは、頭でしたか?」
な~んて言われると、やっぱりショックですね。

誰がアタマ悪いねん! と言い返したいです(笑)。

そのおばさんも、そのとき、
「この顔の、どこが悪いねん!」
と、叫んでやったら、よかったのにね~

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おばさん事典

2021年03月15日 | 読書

最近、小川有里さんという人が書いた「おばさん事典」というのを図書館で借りて読んだのですが、思わずクスッと笑ったり、「あははっ」と声を上げて爆笑したりと、久ぶりに笑わせてくれる本でした。

女性は、娘の時代を卒業すれば、あとは長〜い長~いおばさん時代が来ます。そんなおばさんのホンネや行動を描く楽しい一冊です。


   

おばさんもだんだん歳を取ると耳が遠くなる。
おばさんが電車に乗ったところ、車内アナウンスが、
「この電車は〇〇行きの『くつう電車』です」と言った。
「なに? 苦痛電車!」と首をかしげてよく聞けば「普通」電車だった。
天気予報では「男性諸島は午後から雨です」と。「えっ、男性諸島?」
よく聞くと「南西諸島」だった。
お店で店員さんが「はい、おさわりひとつです」と聞こえてビックリしたら、
「おかわりひとつです」だった。とかね。

夫も耳が遠くなり、一緒に行ったスーパーで「ササミを買うわ」と言うと、
「なに? タタミ(畳)を買ってどうするんだ」とか、
「接骨院に行ってきます」と言うと「はぁ? セックス院だと!」

そんな会話が出ていましたが、これは人ごとではありません。

僕だって「積水ハウス」を「セクシーハウス」と聞き間違えたし、
天気予報で「秋の寒冷前線」というのが「悪の寒冷前線」と聞こえた。
さらに自分でも思い切り笑ってしまったのが、ある商業施設の場内放送で、
「ただいま、サルのメイクアップフェア開催中でございます」と聞こえた。
「なんじゃ、それは?」とアタマが混乱。しかし本当は「サル」ではなく「春」、つまり「春のメイクアップフェア」だったのです。
こんな聞き間違いをするとはねぇ。
耳がおかしいというより、アタマがおかしいですね。

トイレの水洗用のボタンがわからず、間違って非常用ボタンを押した話などはよく聞きます。でもこれはおばさんに限らずおじさんも同じですけどね。

また、お医者さんに行ったら服の上から聴診器を当てられたというおばさん。
「若い女の子なら服をめくって聴診器を当てるのに、なんで私は服の上からなのよ」
いろいろあるんですね~
「干していた下着を盗まれたんだけど、20歳の娘のは盗まれたのに、あたしのは盗まれなかったの」な~んて話も載っていましたっけ(笑)。

そして、これは大阪のおばちゃんに多い傾向ですが、電車の中でワイワイがガヤガヤと大声で話し、周囲の迷惑も顧みずアハハッと大笑いする。こういうおばさんたちには注意するのも怖い。ある若い女性が著者の小川有里さんに「こんな場合、どうすればいいですか?」と聞いたところ、小川さんの答えは「どうしようもありません。元気全開のおばさんたちにかなう人はいませんから」と答えたそうです。

ホント、おばさんたちは元気全開です。僕も数年前まで通っていたスポーツジムのプールで顔見知りになったおばさんたちの元気全開ぶりを、この目で見てよ~く知っています。そのエネルギーはおじさんたちをはるかに上回っていました。

さて、
この本で、さらに大笑いしたおばさんの話がありました。
今も思い出してはガハハ~ッと笑っています。

その話は次回にしま~す。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モミィの中学校の卒業式

2021年03月13日 | 日常のいろいろなこと

昨日はモミィの中学校の卒業式でした。3年前、河内長野市にある私立の中学校に入学したものの、友達や先輩との関係がうまく行かず、本人の希望で2年生から地元の公立中学校に転校しました。あれから、はや2年が経ち、卒業式を迎えることになりました。

 
 体育館で開かれた昨日の卒業式の様子です。
 3年生6クラス 215名の卒業生が保護者席の前に座っています。

このブログをさかのぼること9年前の3月には、モミィの幼稚園の卒園式のことを載せています。

 
 その時に掲載した
卒園式での園児たち。
 左から2番目がモミィです。(2012年3月)

このころは毎日モミィを幼稚園に送り迎えしていたので、他の園児たちの顏もよく知っていますが、その子たちが、昨日はみんな大きくなっていたのでビックリしました。まぁもう中学生ですから、当たり前のことですけど(笑)。


 
 
これは3年前の小学校の卒業式です。
 壇上でモミィが卒業証書を受け取っています。

そしてそれから3年が経ち、昨日の中学校の卒業式です。

 
順番に名前を呼ばれ、モミィが証書を受け取るところです。

早いなぁ、とつくづく思いますね。

コロナ禍の中でさまざまな制約がありながらも、大きな影響を受けることはなく、高校は私立も公立も受験を終え、あとは公立高校の結果を待つだけとなりました。

4月からは高校生活が始まります。

何度も言いますが、本当にあっという間ですね。

★ あ、最後にひとつ、この日の卒業式で感じたことを付け加えます。
コロナの関係で式の時間短縮が図られたのですが、そのため、来賓の人たちは姿を見せず、祝辞とか祝電の披露などがカットされました。これはよかったと思います。市長だとか市長代理だとか地元の議員だとかの挨拶は、生徒たちにとって退屈だろうし、保護者もそう熱心には聞いていませんしね~。そして昨日は、その方々のお祝いの言葉が体育館を出たところの掲示板に掲載されていました。

 

こんな感じです。僕はひととおり目を通しました。
これで十分伝わりますよね。
コロナの終息後も、このやり方でいいんじゃないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

命はてんでんこ 東日本大震災から10年  

2021年03月11日 | 日常のいろいろなこと

昨日(3月10日)はモミィの公立高校の入試の日でした。朝、元気に出て行った姿を見届けて、ホッとしました。まずは体調万全の状態で試験を受けてくれることを一番に願っていましたから。

夕方帰宅した時「試験、どうだった?」と聞いたら、モミィは「いけたかもわからんし、あかんかったかもわから~ん」と、何の参考にもならない感想を述べ、「おやつ、何かある?」と、お菓子の棚をかき回したり、冷蔵庫をのぞいたりしていました。ま、相変わらず緊張感のかけらもありませんわ。

合格発表は18日で、まだ1週間先です。私立のほうが合格しているので、あの時ほど緊張はしませんが、それでも公立高校が第一志望だし、場所も近鉄南大阪線の沿線にあり通学も便利。やはりそこに合格してくれたら嬉しいです。ただ先日、新聞に大阪府下の全公立高校の出願状況が載っていたのを見たら、モミィが受けた高校は約1・4倍と割に高かったので、その辺がねぇ、どうなりますことやら。18日の発表が大いに気になるところです。


そして今日は3月11日。あの東日本大震災から10年が経ちました。震災が起きて2か月後の5月に、宮城県の名取市ほか数カ所、被災地を歩いたので、あの背筋が凍りつくような悲惨な光景が今も鮮明に頭の中に焼き付いています。

20歳の時の自転車旅行の折、北海道の帯広駅前で知り合った「新宿の大将」ことニシジマさんが、宮城県・石巻市へ行って結婚され、そこで花屋さんを営んでいたのですが、この震災と津波で店は全壊。それ以来、毎年この時期になるとハガキを送って来てくれます。今年も大将からのハガキが届きました。

  

ここに「命はてんでんこ」という言葉が出てきます。

意味がわからなかったので、ネットで調べてみたら、

自分の命はなんとしてでも自分で守れ。津波が来たら、取る物も取り敢えず、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ。めいめいが一刻も早く逃げろ。

といったような意味だそうです。そしてハガキに書かれている「常に災害に対する準備と心構えが必要」ということにもつながるようです。あの日の大災害のことを、僕たちは決して忘れてはならないのだと「大将」からのハガキを見る度に改めて心に刻み込んでいます。


そして明日12日はモミィの中学校の卒業式です。保護者の出席は2名までOKということなので、僕たちも行きます。で、まさかジャージ姿で行くわけにもいかないので、長い間着ていないカッターシャツとスーツを引っ張り出し「試着」してみました。体型は昔とほぼ変わっていないのでスーツは着られますが、ネクタイのほうははて、結び方を覚えているかな? とちょっと不安に駆られながらやってみましたが、アタマで考えるまでもなく、自分の手が勝手にネクタイをつかみ、スルスルっと勝手に首に結んでくれました。
こういうのって、体が覚えてくれているんですよね。

ということで、
昨日・今日・明日の「のん日記」でした。

では、ごきげんよう。さようなら。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

50回目の結婚記念日

2021年03月09日 | 思い出すこと

先日、50回目の結婚記念日を迎えました。いわゆる金婚式ですわ。
と言っても、特にお祝いごとは何もしていませんけど。

しかし、こう書いていても、
「ほんまにそんな年数が経ったの?」
とポカ~ンとするばかり。50年の歳月というものがピンときません。
何か自分のことではなく、他人事のように思えてしまうのです。

結婚したのが1971年(昭和46年)で、
僕は22歳になったばかりのころでした。

この年はどんなことがあったかと言うと
日本で初めてマクドナルドの店がオープンしたり、日清食品からカップ麺の第一号となる「カップヌードル」が発売されたり、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」 や五木ひろしの 「よこはま・たそがれ」などがヒットしたり、相撲界では大横綱の大鵬が引退したり、プロ野球界では長嶋、王が引っ張る巨人軍が7連覇を成し遂げて後の9連覇につなげたりというような年でした。
あ、そうそう。たまたま心斎橋のあるお店のくじ引きで一等賞が当たり、賞品のひとつは沖縄ペア旅行でした。しかし当時の沖縄はまだアメリカ領で、行くにはパスポートが必要でした。僕たちは「海外旅行なんてトンデモない」と、もうひとつの賞品だったガスオーブンにしたことを覚えています(沖縄はその翌年に日本に返還されました)。

そんな遠い遠い昔のことです。

結婚式を挙げ、近場への新婚旅行から帰って来た直後に大学の卒業式がありました。そして4月から就職するもそこの仕事が合わずに数ヵ月で退職。たまたま臨時募集があった松原市役所を、妻の勧めで応募し、8月から地方公務員としての生活が始まりました。

結婚した翌年に長男、次の年に次男が生まれ、結婚後20年ぐらいの時には2人とも大学生になって下宿生活を始めたので、それからはまた2人の生活に戻りました。そして結婚25年前後から、毎年のように2人で海外旅行に出かけるようになったのです。だからテレビで自分たちが行った国や街が映ると話が弾みます。あの時はあんなだったね、こんなだったね~なんて。やっぱり、あちこち旅行しておいて、本当によかったなぁと思います。

そして10年くらい前からモミィがわが家の一員となりました。そこで生活は一変。妻は二度目の「子育て」に追われることになり、モミィが15歳になった今でもそれは続いています。なにしろモミィは感情表現豊かでマイペースで、おまけに身の回りの整理整頓はまるでダメ。世話が焼けるのです(笑)。そばで見ていても、妻は振り回されっぱなしですもんね~。(それでもモミィのことを一番思っているのは妻ですけどね)。買い物、料理、洗濯の「主夫」をしている僕の方がず~っと楽ですわ。ハイ。

そんなことで、
結婚して50年経ちましたが、これまで大きな災禍にも遭わず、お互いに平凡ながら元気で楽しく過ごしてきました。

曽野綾子さんのエッセイにこんな一文があります。

今さらながら、多くの人に与えられている平凡という偉大な幸福に対して、改めて感謝しなければならない。

いま、これと同様の心境です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そして γ(ガンマ)GTPは下がったのか?

2021年03月06日 | 心と体と健康と

さて昨日(5日)の朝、7時前に家を出て雨の中を駅まで歩き、電車に乗って松原市内の病院へ着いたのが7時半。受付開始は8時からなので、来た人から順番に院内の椅子に座って待ちます。すでに数十名の人が座っていた。

僕のあとから来て、僕の近くの椅子に座ったお年寄りの女性が「あっ」と小さく叫んで立ち上がり「マスク忘れたぁ」とバッグの中に手を入れたままつぶやくのが聞えた。確かにマスクをされていなかった。僕は予備の新しいマスクをリュックに入れていたので、すぐにそれを取り出し「これ、どうぞ」とその人に渡してあげた。すると、すごく丁寧に「ありがとうございます」と何度も頭を下げられたので、こちらが強縮してしまった。普段は人の役に立つことを何もしていない僕なので、たまにこうしたことがあると、良い気持になれます。
今日の検査も良い結果が出るかもね(それとこれ、関係ある?)。

受付が始まり、検査室へ行って採血。そのあと循環器内科へ行き、そこのカウンターに書類を置いて9時からの診察開始を待つ。そして9時半過ぎに名前を呼ばれ、診察室に入った。さぁ、検査結果はどんなんやろ?  

「おはようございます」と医師とあいさつを交わしながら椅子に座った。

実は今年に入ってから、心房細動(不整脈)は1月に2回、2月には初旬に1回症状が出ただけで、それ以降、一度も出ていない。1ヵ月も出ないということはほとんど記憶にないことなので、今日はまず医師に「このごろ、すごく安定してるんですわ」とその状況を伝えた。

「あ、そうなんですか」と医師は僕の検査結果をプリントしたものを手にし、
「γ(ガンマ)もずいぶん下がっていますね」と、僕に見せてくれた。
「おおっ、やったぁ~」と心の中で快哉を叫ぶ僕でした。

前回(去年の12月)の肝臓に関する数値と言えば、
ガンマが180という、これまでで最も高い数値が出た。
同じく肝臓のぐあいを示すGOTとGPTも基準値を超える高さだった。
それが今回は、軒並み下がっていたのだから嬉しい。

前回と今回の数字を比べて見ると、
γ(ガンマ)GTPが 180 から 63(基準値は49以下)
GOTが 52から 30(基準値は37以下)
GPTが 93から 36(基準値は45以下)

というものでした。
「下がっているかな?」とは思っていたけど、
ここまで下がっていたとは。

「お酒は控えられたのですか?」と医師。
「えぇ、まぁ、飲むことは飲んでいますけど、飲まない日を作ったりね」
「あぁ、休肝日をねぇ。いいことです」
と、前回は珍しく厳しかった医師も、今日は元の柔和な雰囲気に。

正確に言うと、一昨日に書いたように2週間前まではいつもの調子で飲んでいました。そして2週間の禁酒。それは医師には黙っていましたが、まぁええやろ。それにしても2週間でここまで回復するんですね。
まだまだ肝臓の回復力はしっかりしているんだ。うふふ。

ところで、γ(ガンマ)GTPをはじめ GOT や GPT というのは、肝臓の解毒作用に関係している酵素であり、脂肪肝をはじめ、慢性肝炎、肝硬変などの指標として重要な数値とのことです。ですから、これが下がったということは大変喜ばしいことに違いありません。

検査結果票のその部分の写真です。

 
 γーGTP、GOT、GPTの数値の部分に医師が赤線を。
 右端の数字は基準値範囲です。

 
 その横の空欄に「肝酵素 改善。減酒 継続しましょう」
 と、医師が書いてくれました。

診察を終え、会計を済ませたあと、次の予約日は5月▼日とのことで、70数日分の薬をもらって帰途につきました。

途中、イオンに寄ってハイボール500mを数本買って帰ったことは言うまでもありません(笑)。でもね。くれぐれも調子に乗らないこと。
休肝日は必ず作りましょう(今度こそ)。

喉元過ぎても熱さを忘れず! 

忘れたらあかんで、その言葉を。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2週間の禁酒で γ(ガンマ) GTP は下がるか?

2021年03月03日 | 心と体と健康と

またお酒と健康に関する話です。

去年の12月、病院で血液検査をした際、γ(ガンマ)GTPの数値がかなり高かった。まぁ昔から高い目だったけれど、この時は180もあって、これまでで最も高い数値が出た(基準値は50以下)。

お酒の飲みすぎで肝臓が悪くなると γ(ガンマ) GTPの値が高くなるので、医師からも常々飲酒は控えるように言われていたんですけどね~

僕の場合、持病の心房細動(不整脈)の発作が出る一番の原因は飲み過ぎということなので、できれば医師の言うとおり、飲むのを控えなければならないんですけど、「今日ぐらいええやろ」と毎日毎日、自分に都合の良い言い訳をし、ついつい飲み過ぎてしまう、という生活です。「知ってるわ」と言う方も多いでしょうけど(笑)。

その去年12月の検査のこともブログに書きました。

不整脈はお酒が原因 とわかっていても (去年12月12日)

そしてまた病院へ行く日が明後日(3月5日)に迫ってきました。また血液検査をします。またガンマの数値が出ます。

これでまたまた数値が高かったら、またまた医師から注意されること必至。今度は「厳重注意」になるかも知れない。さらに「次は必ず奥さんと一緒に来てください」と強く言われるかも知れない。

それで、実は2週間前から禁酒をしています。

へへっ。
一定期間お酒を断てば 、ガンマの数値も下がるんじゃない? 
な~んてね。

とはいえ、肝臓の回復力も年齢と共に衰えてくるそうなので、2週間禁酒してもガンマの数値が下がらないことも十分あり得るらしい。その意味で言うと、今回は自分の肝臓の回復力がどれくらいなのかを知る機会にもなりますけど。

でもねぇ。
検査の前だけあわてて禁酒し、そしてもし良い結果が出たら、「その気になればいつでも禁酒して、ガンマの数値くらいストンと落とせるんだから」なんていい気になることは、僕の性格から見て間違いありません。

わたくし流の「その場しのぎ」の短期間禁酒が、
明後日の検査結果に、果たしてどう影響するか?

早く明後日が来てほしい。
と言っても結果を知りたいのではなく、
半月ぶりに飲めるからですけどね~(なんじゃ、そら)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鈴木選手マラソン日本新記録! でも見逃した

2021年03月01日 | スポーツの話題

昨日の日曜日の午前11時半頃。12時からびわ湖毎日マラソンの実況中継を見ようと思いながら、別のテレビ番組をかけていたら、「ニュース速報」が画面に出た。何ごとかと思って見ると、
「男子マラソン、鈴木健吾(富士通)が日本新記録」
という字幕が出たのでビックリした。

日本新記録にも驚いたが、マラソンは12時からではなかったのか? と、あわてて新聞のテレビ欄を見たら、マラソン中継は午前9時からとあった。なんだ? こんな早い時間にスタートだったのか。あちゃぁ。日本新記録が出たというのにそのレースを見逃したとは! めちゃ悔しい~ 見たかったわ!

昔からマラソンはお昼の12時頃にスタートするというイメージがあったので、今日のびわ湖マラソンもそうだと頭から思い込んでいた。朝、新聞を広げた時に確認したらよかったと思っても後の祭りです。

速報を見てすぐにNHKにチャンネルを変えたけれど、もちろん鈴木選手はゴールしたあと。レースを終えた鈴木選手がチラチラと映ったり、次々とゴールしてくる後続の選手たちが映ったりしているだけ。アナウンサーや解説者も落ち着いた口調で話していて、新記録が出た興奮はもう伝わってこなかった。

 
 鈴木健吾選手がついに2時間5分を切った。
 なのに見逃してしまった

そんなわけで、見られなかったのが残念でした。

1964年の東京オリンピックでアベベが優勝したレースを見て以来、マラソンの魅力に取りつかれ、以後、マラソン中継はほぼ欠かさず見てきました。

それで思い出すのは1978年(昭和53年)の別府大分毎日マラソンです。2月だったと思いますが、日曜日に行われた同大会。しかしこの時はテレビ中継を見られなかった。なぜなら、その前日の土曜日から1泊2日で、職場の慰安旅行へ行ったからです(断るわけにはいかないし)。行った場所は兵庫県の日本海に面した香住というところで、カニが名物です。で、職場の人たち10人前後で車に分乗し、土曜日に出発し、夜はカニを食べて宴会。翌日曜日は午後に現地を出発し、大阪への帰途に着きました。その時の車中でのことです。

車のラジオから別府大分毎日マラソンの実況が流れていました。本当はこんな旅行より、家でテレビ中継を見たかった僕は、ラジオに耳を傾けました。他の人はワイワイ話しているけれど、僕は黙ってラジオを聴いているだけ。アナウンサーが興奮してレースの模様を伝えている。どうやらレースは双子のランナーの兄、宗茂選手が独走状態のようで、さらによく聴くと日本記録を更新するハイペース、それも2時間10分を切る勢いでゴールに向かっているとのこと。当時はまだ日本人で2時間10分を切った選手はいなかった。
これは絶対に聴き逃せない。

「今、ええとこやからラジオを聴いて!」
と、同乗の人達を促すと、
「そうか? ええとこか?」
と、みんな、ラジオを聴き始めました。

結果、宗茂は2時間10分を切るタイムで優勝。夢の2時間9分台が出たのです。ラジオを聴きながら、僕は車の中で思い切り手を叩いて喜びました。

あれから40数年の歳月が流れたのですね。

そして今回は、鈴木健吾選手が日本人で初めて2時間5分を切るという素晴らしい新記録を樹立しました。日本人選手が2時間4分台を出すなんて、僕が生きているうちはないだろうと思っていたので、ホントびっくりです。

しかしながら、テレビで実況中継を見られなかった。スタート時間をきちんと確認しなかった僕の大失敗でした。

宗茂の快挙の時も職場の旅行のためにテレビを見ることができず、この鈴木選手の新記録達成のレースもうっかりと見逃してしまった。

なんでこうなるんでしょうね。ぐすん。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする