僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

 39年の歳月を経て…

2008年03月31日 | ウォーク・自転車

たびたび触れるのだけれども、僕は20歳の時に、大阪から北海道まで70日間をかけて自転車で往復する一人旅をした。当時、その旅行の記録を本にしたいという分不相応な目論見を持っていたのだけれど、その後の日常の煩雑にまぎれて実現しなかった。…というのは言い訳で、そういう才能がなかったことが最大の理由でしたけどね。
手帳に旅行記録は残していたが、ずっと押入れの中に眠ったままだった。

そのうち、世の中にはパソコンという便利な機械が普及しだし、さらにブログという驚くべき「遊び道具」が流行し始め、僕は知人の方からの勧めもあって、このブログを利用して、当時の自転車旅行記を「執筆」することにした。あの時…1969年(昭和44年)の日記や写真、行く先々で押したスタンプなどを引っ張り出し、82回、掲載を続け、いちおう最後まで書き終えた。

  http://d.hatena.ne.jp/domani07/

この旅行で、僕は多くの人との出会いと交流があった。
しかし、ほとんどは、その場で出会って、その場で別れるというものだった。
例外として、一人だけ、一緒に自転車で走った人がいる。
北海道の帯広の駅前で知り合った男性で、その人は何歳か年上の東京新宿の人だった。豪快な人物であり、僕はその人を「新宿の大将」と呼んで旅を続けた。
帯広、襟裳岬、苫小牧、函館、下北半島、恐山、…そして野辺地というところまで、9日間、2人で走った。もとより行き当たりばったりの旅で、神社の中で寝たり、テントを張ったり、木賃宿に泊まったり、バス停で寝たりした。

ブログの旅行記でも、第42回から第52回まで、ずっと大将と一緒である。

一緒に走り出して9日後。青森県野辺地で、僕たちは太平洋側と日本海側と別れた。僕は八戸から岩手方面へ、大将は青森から秋田方面へと、再び互いに一人旅に戻った。大将は、自転車で日本一周をめざしていた。

…あれから、今年で39年が経つ。

新宿の大将は、その後、宮城県の女性と結婚して、その地でお店を営まれ、現在に至っている。年賀状の交換だけは続けていたので、今年の大将への年賀状に、僕は自転車ブログのことを書き、「よかったら見てください」と付け加えておいた。

先週の27日。
同じ勤務先で今月末に退職する人の送別会でお酒を飲み、雨に濡れながら深夜に帰宅してきた僕の目に、下駄箱の上に置かれた1通の手紙が飛び込んできた。差出人を見ると、なんとその大将からであった。

僕は、玄関に入ったところで立ったまま、便箋にびっしり5枚も綴られていたその手紙を、一気に読んだ。ずぶ濡れの服も着替えず、靴も脱がず、何度も何度も、繰り返し読んだ。

大将は、僕のブログが、まさか自転車旅行のブログだとは思っていなかったようで、それまで放置していたそうだが、娘さんから僕のブログ画面を出してもらって眺めると、「昭和44年自転車旅行」と書いてあったので、驚いたという。大将の昭和44年も、自転車旅行の年として、忘れられない1年であったはずなのである。そして大将は、使い慣れないマウスを動かして、僕のブログを読んでくれた。娘さんに「コピーできるよ」と言われて、全部コピーしてもらったら、ものすごい厚さになり、とじる金具は「布団を干すときの洗濯バサミ」だった…と書いていた。

大将の手紙を読みながら、つくづく不思議な思いに包まれた。

僕たちの青春時代の一幕は、決して思い出だけに埋もれているのではなく、今もこうして生き続けているのだなぁ…という実感が、胸を打つ。

時計が、急に39年前に戻ったような感じである。

                   

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 「耳鳴り」 から半年

2008年03月28日 | 心と体と健康と

一昨日の26日で、耳鳴りが発症してから半年が経った。
半年ですよ、半年。
休みなく鳴り響く耳鳴りに、以前なら1日でノイローゼになっていただろう。
それが、こんなものと否応なしにつきあわされて、もう半年です。半年。

半年、といえば…?

  ♪  あ~ぁ 半年あまりの 恋なのに~
     あ~ぁ エプロン姿が よく似合う~
   
   (そら、中条きよしや)

あ~、耳鳴りも「うそ」であってほしいけどなぁ。
半年あまりの恋やったらええけどね。
半年あまりの耳鳴りみたいなもん、シャレにもならんわ。


最初の1ヶ月や2ヶ月はずいぶん長く感じた。が、今は、あ、もう半年か…? という感じである。耳鳴りに慣れてきたことの証拠かもしれない。しかし「慣れてきた」とは言っても、現実にはそう単純なものでもないのですね、これが。
全面的に苦痛が消えたとか、イライラがなくなったとかの状態にはほど遠く、よく「蝉千匹」とか「ジェット機千機」とか言われるように、ジージー、キーンキーンと耳の周辺ですざまじい音が響くのだから、やはり辛い。毎日がうっとうしい。安定剤の服用を欠かすと不安感が募るし、夜は、就寝前に安定剤を飲んでも、相変わらず眠りは浅く、ぐっすり眠れる夜はほとんどない。集中力も途切れがちで、本を読んでいても長続きしにくい。

時間が半年前に遡ってくれて、耳鳴りになる前の静かな生活にもう一度戻ることができたらなぁ…と思ったりするのだけれども、光源氏ではないが「さかさまに行かぬ年月」なのだから、それもかなわない。

就寝時。…まわりが静寂に包まれているとき。
寝室の掛時計が、コッチコッチとゆるやかで小さな音をたてている。
体を右側に横向けにして、ベッド横たわると、右耳は枕で塞がった状態になる。
耳鳴りのきつい左耳のほうが上に向くので、その体勢で耳を澄ます。
キーンと響いている耳鳴り音と重なって、コッチコッチという小さな掛時計の音が左耳だけで聞こえるかどうかを確認するのだ。耳鳴りに邪魔をされて、ほとんど聞こえない状態に近いけれど、よ~くよ~く耳を澄ましてみると、かすかにコッチコッチという音が伝わってくる。

自分の耳鳴りの音が大きくなっているのか小さくなっているのか…?
慣れてきたことが逆にそれをわかりにくくしていることも事実なので、いつも夜の寝るときになると、こうして時計の音で左耳のテストをする。わずかでもその音が聞こえることによって、耳鳴りは大きくなっていないのだと安心できるから…。

それにしても、この先いったいどうなっていくのだろうか?
今後耳鳴りが消えるという保障もないし、ひょっとして一生消えないかも知れない。そう考えたら、慣れるということに期待するよりほかに方法がないわけで、これは、もはや時の流れに頼るしかないのか。

 ♪ ときのながれに身をまかせぇ~

   (そら、テレサ・テンや)

…とまあ、半分あきらめの境地が昂じてくると、やがてそれが「慣れ」の感覚と混じり合って、一体のものとなっていきそうな気もする。すると、耳鳴りの苦痛というものが鈍化していき、気にならなくなる…
という、そんなふうになっていくのだろうか?

その「慣れる」という感覚に「慣れる」ため、TRT療法を続けている。
発症から4ヶ月目にTRT療法を始めたので、今で2ヶ月が経過した。
TCIには、確かに慣れてきた。
ノイズの音量も、コツがつかめてきた。
朝起きて、今日も相変わらず頭に響く耳鳴りにうんざりしながら、ケースからTCIを取り出して耳につける。すると、ちょっと安心する。
ここ数日で、TCIをつけると僅かだけれど苦痛が軽減する感覚が生まれてきた気がするのだ。それでも、特に午後から夕方にかけて、耳鳴りが大きく感じられることが多く、そんなときは、全身に何ともいえぬ不快感が走る。

耳鳴りに慣れるためには、その感覚に慣れなければならず、その感覚に慣れるためにはTCIをつけるTRT療法に慣れなければならない。トレーニング2ヶ月を経て、ようやく、その第一段階であるTCIに、僕は何とか少しずつ慣れはじめてきたように思うのだけれども、確かな手ごたえ、というものは、まだない。

 

 

 

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 本の処分に未練いっぱい

2008年03月26日 | 日常のいろいろなこと

60年近く生きていると、身の回りにいろんなものがどんどんたまってくる。
整理術の基本の基本は「捨てること」にあるとされる。
そりゃ~、捨てなきゃ、たまるのは当たり前の話である。
不要になったものはどんどん捨てればよい…
と、話は実に簡単なんだ。
でも、それが、物によってはそうはいかないものがいろいろとある。
中でも本は、悩みのタネだ。

高校生の頃から本が好きだったので、これまで延々と買い続けてきた。
もちろん、全部残しているわけではなく、何度も整理をし、廃棄してきた。
だから、自分にとって真に大切な本だけに絞り込まれているはずなので、捨てる本はない…とは思うのだが、まだまだ書棚は本だらけである。ホントにこれだけの本が今後の自分の人生に必要なのか?と改めて自問すると、うなだれざるを得ない。

最近は、本好きの親戚の人が、自分が読み終えると僕や妻に読むように勧めてくれ、「読んだあとは返していらんで」ということで、推理小説などの文庫本がわが家にたまってきた。松本清張や西村京太郎シリーズ、夏樹静子の著作などがどんどん増える。それと、独立して家を出て行った息子たちの本も、クローゼットの中に残っていた。僕の好みと異なる本や、すでに読んだことのある本、僕が持っているのと同じ本などもあったので、これらも加え、また自分の蔵書の中からもさらに選りすぐって、今回、久しぶりにまた本の処分をすることにした。

処分方法は、これまでのように資源ごみに出すのではなく、近所にある古本屋さんの「ブックオフ」に引き取ってもらうことにした。捨てるのではなく、売るのである。売れれば、それに越したことはない。こんなことは今までしたことがなかったが、冊数を読むと150冊を超す数だったので、「100冊以上なら引き取りに出向きます」というブックオフの出張サービスを受けることにしたのである。

売る、と決めて、あらためて処分しようとする本を点検してみたら、中には沢木耕太郎の「深夜特急」の1巻から4巻までがあったり、山崎豊子の「大地の子」全4巻が混じっていたりしている。
「あ、こんなんも入っていたんか? う~ん。これは、もったいない」
一度は処分しようと決心したものの、こういうものを見ると、急に未練が湧いてきて、また読みたくなるかも知れぬ、と、どたん場で迷ってしまうのである。やっぱり、愛着のある本を手放すのは、今後読むかどうかは別にしても、なかなかつらいものがある。でも、愛着があるといえば、みんなあるのだから始末が悪い。

先日の朝日新聞の「キュー」というコラムで、島崎ナントカという女性の方が書いておられたが、彼女もずっと置いていた少女漫画の全集を思い切って古本屋さんに売却したけれども、そのあと、どうしてもまた欲しくなって、自分が売った値段の何十倍ものお金を払って買ってしまった…という話が載っていたが、その気持ち、よ~くわかります。

そういうわけで、本をダンボールに詰めてからも、何度も逡巡する。
本の背表紙を眺めれば眺めるほど、これも、あれも、また読みたくなるかもしれない…な~んて思ってしまい、キリがなくなる。
「それなら処分せず、全部、置いておいたらいいじゃない?」
と妻に言われたりする。
「いやいや、処分すると決めたんだから…」
と言いながらも、まだ目はダンボールの中の背表紙を見つめている。
ああ、なんとも優柔不断で決断力の鈍い僕である。

…そんなことで一昨日の24日に、ブックオフの人が車でやって来て、本を回収していった。妻が応対してくれたのだが、すべてを回収してくれたわけではなかった。
「全何巻」のうちの1冊でも欠けているものや、変色しているような古い本(星新一のショートショートや武者小路実篤の「友情」など、40年ほど前に買った文庫本)、時代に合わない本(10年ほど前のパソコンのマニュアル本など)は引き取ってくれず、僕が帰宅すると、玄関のダンボール箱に数10冊の「売れ残り」の本が寂しそうに入っていた。

「残った本は次の資源ごみの日に出すわね」
と妻が言った。
僕は、その「売れ残り」の本をまた1冊ずつ手に取り、そこから3冊ほど抜いて自分の手元に残すことにした。
…どこまでも未練がましい僕である。

それで…
結局、ブックオフには130冊前後の本を引き取ってもらった。
ほとんどが、文庫本である。

妻によると、ブックオフから来た人の本の「鑑定」は、30分以上かけて、入念に行われたという。一応、全部の本をチェックし、「値打ち別」に分ける。そして明細と、トータルした金額を妻に示して、そこへ押印して代金をもらう、という流れなのだそうだ。

お代金は、全部で1650円。
文庫本3冊分ほどの金額であった…  

 

 

 

コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 朝青龍優勝は筋書き通り

2008年03月24日 | スポーツの話題

きょうの大相撲大阪春場所の千秋楽。
2場所連続で横綱同士の相星決戦となったけれども…

過去、横綱同士の2場所連続千秋楽相星決戦は、3度あった。
輪島と北の湖、貴乃花と曙、もうひとつは…忘れてしまった。
しかしその結果、前の場所で敗れた横綱が、すべて翌場所では勝っている。
つまり、交互に優勝をしているわけである。
言い方を変えると、両横綱ともに顔が立つようになっている。

大相撲というのは、なんとなく、筋書きがあるような気がする。
といっても、それが八百長だという短絡的な話ではない。
その辺がちょっと微妙な「筋書き」の説明の難しいところだ。

僕は取り組み前から妻に「今日は間違いなしに朝青龍が勝つで」と言った。
いつも言うが朝青龍は大嫌いなので、負けて欲しいけれど、そうはなるまい。
理由は、そんな微妙な「筋書き」が目に映ってくるからである。
大相撲は、「筋書きのあるドラマ」と言ってもいい。

案の定、白鵬はずさんな取り口で朝青龍に負けた。八百長ではないだろうけど、ここは朝青龍が勝つという筋書きであったから、こういう展開は不思議でもなんでもない。相撲協会も早く朝青龍に優勝をさせて、去年の不祥事をうやむやにしてしまおうと躍起になっていたに違いない。白鵬が4連覇をするよりも、協会はそちらを望んでいた。

朝青龍は立会いが悪かった。が、白鵬は上手も取らず、がむしゃらに出て行った。
なんで、あんなにあわてて攻める必要があったのか。
いつもの白鵬の相撲に比べると、別人のようで、あまりにも悪すぎた。

優勝した朝青龍は、表彰式の土俵下インタビューで、
「大阪がほんまに好きや。まいど、おおきに」
と満面に笑顔を浮かべて手を振っていたが、これもなんだかドラマっぽい。

しかしまあ、これで、横綱同士の2場所連続千秋楽相星決戦は、前場所の敗者が今度は勝者になるという「筋書き」は保たれたのである。
重ねて言うが「八百長」とはまた違う。白鵬も勝ちたかったに違いない。
これは、なんとなく「そうなる」という大相撲の独特の流れ(筋書き)なのだ。

たとえば今日、7勝7敗で、勝てば勝ち越して殊勲賞が約束されていた琴奨菊は、すでに8勝をあげて勝ち越している稀勢里と対戦した。どうみても、ここは琴奨菊が勝つはずである。実際、琴奨菊が勝って勝ち越しを決め、殊勲賞を獲得した。稀勢里が勝つよりも、琴奨菊の勝利のほうが好ましい筋書きなのである。先日、横綱朝青龍を破った琴奨菊に、協会は殊勲賞を与えて盛り上げたいところなのである。
で、やはりこういう好ましい結果は、ほぼ100パーセントの確率で実現する。

同じく7勝7敗で迎えた大関琴光喜は、これも8勝をあげて勝ち越していた大関千代大海との対戦であった。万が一にも千代大海が勝つことはないだろう、と見ていたら、やはり千代大海はあっさり負けた。これで琴光喜は無事に勝ち越した。魁皇は、黒海にはたきこみを食って敗れたが、もし魁皇が7勝7敗であれば、黒海もこんな戦法には出なかっただろう。しかし、魁皇はすでに勝ち越していたのだから、黒海も思い切った手を使えたのだ。結局、黒海は勝って13勝をあげ、敢闘賞を受賞した。みんな、暗黙のうちに、好ましい結果に向けて流れていくのである。

ところで、今の大関は本当に情けない。
魁皇、千代大海、琴光喜と3人の日本人大関が揃って8勝7敗で春場所を終えた。
休場した琴欧州を除く3大関すべてが8勝7敗というのは、なかなか、やろうと思ってもできないことだ。それが、終わってみたら、みんな8勝7敗。
これで本人たちは、めでたし、めでたしなのであろう。
まあ、これでは、モンゴル勢には勝てんわなぁ~。

大相撲には「クンロク大関」という言葉がある。
9勝6敗という、大関としてふがいない成績を繰り返す力士に、侮蔑をこめて呼ばれたものである。今の大関は、その9勝すらあげられないのだから、「クンロク」にも劣る存在である。

2場所連続相星決戦を演じたモンゴル人の2横綱と、全員が8勝7敗というギリギリの勝ち越しを果たして安堵する日本人の3大関。このとてつもなく大きな差が、今の大相撲の全てを物語っている。横綱貴乃花が活躍していた頃の大相撲がなつかしいなぁ…。

と、書いているうちに日付が変わってしまった。
おやすみなさい。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 天賦の才・浅田真央

2008年03月22日 | スポーツの話題

今、最も旬のスポーツ選手といえばフィギアスケートの浅田真央ちゃんだろう。
いや、今が旬の選手、という狭い枠にとどまらない。
あらゆる女子のスポーツを通じて、10年に一人、出るか出ないかの逸材である。
これほど多くの魅力を備えている選手というのもめずらしい。

荒川静香さんや安藤美姫さんと比較しても、そのセンスは遥かに上である。
モノが違う、という感じすらする。
あれだけ可愛いのに、人気倒れにならないところがまた大したところだ。
今スウェーデンで行われている世界選手権で、転倒しながらの金メダルが、何よりも彼女の卓越した実力を示している。

こういっては何だけど、4位になった中野友加里選手は、技術的には非の打ち所がなかったけれど、一挙手一投足がすべて真央ちゃんの華麗でしなやかな動きには及ばなかったことは、素人目にもわかる。豊かな表情といい、滑らかなスタイルといい、流れるような身のこなしといい、これはもう、真央ちゃんだけが見せることのできる、天才と努力で編み出された超一級の芸術品であり、その演技をテレビで見られるだけで幸せな気分になる。

彼女を見ていると、1976年のモントリオール五輪で「白い妖精」と呼ばれたナディア・コマネチを思い出す。五輪史上、体操競技で初めて10点満点を出した選手だが、当時14歳だった彼女の華麗な演技と、可憐な容姿が、今の真央ちゃんとダブって見える。
あのときのコマネチ選手も、冷静な表情の中にあどけなさと美しさが同居していて、とても可愛かったなぁ。

ずっと応援したマラソンの高橋尚子選手が第一線から姿を消そうとしている。
とても寂しい気がするが、次には真央ちゃんがいる。
次回冬季五輪は2010年のカナダのバンクーバで開かれる。
そのとき19歳になる彼女の胸に、金色のメダルが輝くことを今から祈っている。

そんなことで、昨日は今一番好きなスポーツ選手が金メダルを獲得した。

一方で、今一番嫌いなスポーツ選手である大相撲の朝青龍が2連敗した。

昨日はなかなか、めでたい良い日であった。

しかし、残念なこともひとつ書いておかなければならない。
一昨日、プロ野球パ・リーグ開幕戦で、楽天が、9回裏まで2点のリードを奪いながら、土壇場で逆転サヨナラ3ランを浴びてしまったのは、ファンにとっては悪夢のような悔しい結果だったろう。仙台の人々の嘆きの声が、大阪にまで聞こえてきそうであった。

楽天の先発岩隈投手は、以前は僕らの地元・近鉄バファローズの若きエースであったが、楽天へ行ってからは故障で真価が発揮できないままだった。それが、今期は見事に復帰し、開幕投手となり、期待通り7回まで1点に抑えていたのだ。どう考えても勝ちパターンであったのに…勝負の世界は何が起きるかわからないことを、改めて痛感させられた。

野村監督と開幕戦といえば、以前この人がヤクルトの監督をしていたときに、忘れられないエピソードがある。かなり昔のことだけど、セ・リーグの開幕戦で、対戦相手の広島カープの打者小早川が放った大飛球がライトスタンドに入った。それはテレビの角度ではファールのように見えた。しかし判定はホームラン。しかも、試合を決するような貴重なホームランだった。野村監督は激怒して執拗な抗議を繰り返したが、認められなかった。ヤクルトは敗れて、開幕ダッシュに失敗、結局そのシーズンは、優勝を逃してしまった。

シーズンを終えて、各球団の監督談話が新聞に載っていた。
監督たちはそれぞれ今シーズンの成果と課題を挙げ、来期への決意を新たにしていたが、ただ一人、野村監督だけは違った。
「あぁ~。あの開幕戦の小早川の本塁打の判定がなぁ…。すべてやったなぁ」
と、愚痴をこぼしたのだ。
あの「疑惑の本塁打」が、ペナントレースに影を落とした、というわけだ。
野村監督は、わりに物事を引きずるタイプなんだなぁ、とその時に思った。

今期は、岩隈、田中の両エースを擁して期待されている楽天である。
ぜひともパ・リーグに旋風を巻き起こして欲しいと期待するファンも多い。
今日はマー君こと田中が先発だ。頑張れ、楽天。

まあ、とにかく、今シーズンが終わったあと、
「あぁ~。あの開幕戦のサヨナラ本塁打がなぁ…。すべてやったなぁ」
と野村監督が言わないような展開になることを、心から期待します。

さて、今日はフィギア男子の高橋は金を取れるのかどうか。
真央ちゃん同様、世界の頂点を目指してほしい。

ついでに大相撲の朝青龍はどうか。
今日は魁皇と対戦する。
この高慢ちきな横綱は、普段から稽古をサボる癖があり、それが後半のスタミナ不足につながると言われている。今場所はまさにその典型であり、ざまぁみろ、という感じである。今日も負けろ。負けて、早く引退して、相撲界から消えてくれ。モンゴルへ帰って商売でも事業でも何でもしてくれ。場所中、毎日テレビに出てくるので、目障りで目障りで仕方ない。

今日はおまけとして、もう一人、大嫌いなスポーツ選手の試合がある。
夕方にあの亀田興毅が8ヶ月ぶりにリングへ上がるのだ。
相手は例によってフィリピンから連れてきたわけのわからない選手だ。
弱い相手を見つくろってパフォーマンスを繰り返すのは相変わらずだが、ひとつ進歩したのは、亀田を陰であやつるTBSのテレビ中継の時間帯が、午後4時から5時までの1時間になったことだ。

これまでは「亀田まつり」などと称して夕方6時半頃からテレビ中継を始め、「間もなくゴングです」と何度も繰り返しながら、ゴールデンタイムに延々と亀田兄弟の過去の試合やアホ親父との練習風景を繰り返し、ゴングまで長時間ひっぱるというさもしい手法は、いかに破廉恥なTBSでもさすがに気が引けたのだろう。

朝青龍とともに、亀田もコテンコテンに負けて、どこかへ消えてくれ。
恥さらしな大阪人の姿を、これ以上見たくない。

…ということで、今日から高校野球も開幕し、スポーツ花盛りの土曜日である。

でも、楽天の田中投手を見たいのに、大阪ではテレビ中継がない。
あるのは衛星放送での西武・オリックス戦だけである。
バラエティ番組(しかも再放送まで)ばっかりではつまらんではないか。

せっかくの開幕シリーズなんだから、もうちょっとテレビ局も考えてほしい。
今は、プロ野球は、パ・リーグが話題豊富で面白いのだからね。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 マラソンと痛風の怪しい関係

2008年03月20日 | ウォーク・自転車

ブログを書いていると、それに付随したことをいろいろと思い出してくる。

前回、北京マラソンで宗兄弟が1、2位を独占し、その翌日に僕は痛風の発作に襲われた経験談を書いた。書きながら、あ、そうだった、あのときに生まれて初めて痛風という激しい痛みを体験したのだったなぁ…と当時の記憶をたぐり寄せていると、それにくっついて他にもさまざまなことが思い出されてきた。結局あれは、正しくは何年何月の出来事だったのだろうか…ということを調べてみたくなった。

ネット検索は、こういうとき、すこぶる便利である。
検索の結果、北京マラソンで宗兄弟が同タイムで1、2位となったのは1985年(昭和60年)10月13日ということがわかった。

余談だけど、そのサイトには他にもいろいろと1985年の出来事が列記されていた。
ちょっと取り上げてみると、3月に青函トンネルが貫通。6月に松田聖子が神田正輝と結婚。8月には群馬県御巣鷹で500人以上が亡くなった日航機墜落事故が起きた。そして10月には阪神タイガースが21年ぶりに優勝…などなどである。

1985年というのはそういう年だったんだけど、そのころ36歳だった僕はフルマラソンを走るのが趣味で、85年には11月下旬に小豆島マラソンに出場している。だから、10月の北京マラソンの頃は、小豆島を目指してトレーニングに励んでいた真っ最中だった。当時は土曜日は午前中だけ仕事で「半ドン」と呼ばれていた時代であり、12時に仕事が終わると、50ccのバイクに乗って長居競技場横の周回コース(1周2.8キロ)へ行き、長距離走をするのが土曜日の日課だった。北京マラソンの前日の土曜日、僕は長居のコースで30キロ走をしたことを覚えている。それが翌日のアクシデント結びついたのだ。

翌日のその日曜日。
たしか朝の9時か10時ごろに北京マラソンはスタートしたと思う。
大好きなマラソンのテレビ観戦にアルコールは欠かせない。
レースは、前述のように日本の宗兄弟の一騎打ちとなり、死闘の末、同タイムで兄の茂が優勝したのだが、これを見てコーフンしないはずがない。テレビ中継の間、ずっと、僕はレモンチューハイを何回もつくって、ガブガブ飲んだ。

その日の夜、布団に入ってから左足がジワリと痛み出した。
足の甲から外側のくるぶしあたりがズキズキと痛む。
どうしたんだろう…??
それより6年前。30歳のときに草野球の試合中、フライを捕球しようとした瞬間にぬかるみに足を取られ転倒し、左足首の骨にヒビが入ったことがあった。
今回の場所もそれと同じような場所だし、痛みの感覚もそれと似ている。
あの時同様、骨にヒビが入ったのだろうか…?

昨日、長居で30キロ走をしたので、足を酷使したことは事実だった。
ひょっとして、古傷の部分が今度は疲労骨折を起こしたのか…?
そう思うと、もうそれに違いない、と一人で決めてしまっていた。
昨日の昼の30キロ走がダメージとなり、左足首を疲労骨折したに違いない!

その夜は、痛みがどんどん強くなってきて、一晩中眠ることができなかった。
翌月曜日の朝は、もう左足首周辺が「激痛」と言っていいほどの状態になった。
妻に「左足がすごく痛い。骨にヒビが入っているみたいだ」と言って、勤務先に連絡して休暇を取り、近くの整形外科まで自転車を右足だけで漕いで行った。

診察室に入って、医師に症状を訴えた。
「おとといマラソン練習で30キロを走ったので、きっと骨折したのだと思います」
そんな僕の言葉を軽く聞き流した医師は、首を横に振って
「走って1日以上経ってから骨折するわけないでしょ。これは痛風に間違いないわ。ゼッタイに痛風や」
そう、言い切った。

「つ、つうふう!」
僕はわが耳を疑った。痛風って、なんだ? 
うぅ~~~。…半身がマヒしたりする病気と違うんか? 年寄りに多いあの…。
「あんた、それは中風(ちゅうぶ)ですがな」
医師はうろたえる僕に「まあ落ち着きなはれ」と苦笑した。

「ワシが言うてるのは痛風ですわ。きっと尿酸値が高いんやね。検査しまひょ」

血液検査を受け、その日は湿布薬と尿酸塩を溶かす飲み薬をもらって帰ってきた。
患部が、うっすらと赤くなり、少し腫れていた。
検査の結果は、やはり尿酸値が高く、間違いなく痛風であることが判明した。

血液中の尿酸値が高くなっていると、尿酸の結晶が出来ることがあり、その結晶が関節にこびりついて激痛が走るのが痛風だ、という説明であった。
「普通は足の親指の関節とか付け根が多いんやけど、足首とか膝も、たまにはあるみたいやなぁ」
医師はそんなことを言っていた。

きつい痛みは2、3日でひいて、僕はすぐに職場復帰したけれど、いや~もう、あんな痛いことは二度と経験したくない、とつくづく思った。

「痛風」とは、「風が吹いただけで痛い」というのが語源であると言われているが、実はそれは俗説で、昔は原因のわからない疾病はなんでも「風」という名をつけたらしく、それに「痛み」と併せて痛風と呼ばれるようになったという。でも、「風が吹いても痛い」という俗説の方が現実的な解釈である。それほど、痛い。

1週間ほどで、普通に歩けるようになり、11月に入るとランニングを再開できるようになった。そして、仲間と共にどうにか参加できた11月下旬の小豆島マラソンでは、4時間29分58秒という低調な記録で、完走者887名中、761位だった。

一昨年、昨年と連続で3時間台で走り、小豆島ではさらに自己記録を狙っていただけに、この痛風による失速は残念だったが、まあ完走できてよかった。おまけにゴール地点に「ミス小豆島」のお姉さんがバスタオルを広げて選手たちを迎えてくれていた。ゴール前でその姿を見た僕は、なぜか急にヨロヨロっと足がもつれてしまい、ゴール後にそのお姉さんに抱きかかえられる…という、なかなか妙味のあるフィニッシュを味わうことが出来た。うふふふ~(何のこっちゃ。アホやがな)。

以来、尿酸値(痛風)は、僕のお友達である。
最近は、糖尿病、不整脈、耳鳴り、腰痛と、お友達が増える一方である。

薬はこれまで継続しては飲んでいないけれど、最近また数値が上がってきたので、他の薬と一緒に、朝夕、尿酸値を下げる薬を飲みはじめた。
おかげで、現在は全く正常値に戻っている。
「薬を飲んでいる限り、痛風発作は起きませんから心配ないよ」
と今の主治医は、そう断言してくれている。

痛風にはプリン体という物質を含む食べ物が良くない、という。
牛や鶏レバーなどの内臓、魚の干物、かつお節、煮干し、干し椎茸などにプリン体が多く含まれているので避けなければならない。が、それより何より、大好きなビールにプリン体が多く含まれている。しかし、これだけは止められない。困った。

「日頃から水分を十分にとるように」と言われているので、
「じゃ、ビールをどんどん飲まなくては…」と考えたいところだが、残念ながらアルコールは水分を吸収してしまうので逆効果なのだ。世の中の仕組みは、そうそう自分に都合よくはできていない。

そういうことで、もともと尿酸値の高い人間が、激しい運動をしたり、暴飲暴食(特にアルコール)をしたときに痛風の発作が出る、という。

あのとき、土曜日に30キロを走るという激しい運動をし、翌日は北京マラソンを観戦するのに午前中からチューハイをがぶ飲みした。
過激な運動とアルコール…。
まさに「痛風さん、いらっしゃ~い」を絵に描いたようなパターンであった。

大きな痛風の発作が出たのは、そのときが最初で最後であった。
今から20数年前のことである。

…こう書いていくと、ついつい「懐かしの思い出ばなし」に傾いていく。
しかし、20数年経った今も尿酸値の薬を飲んでいるのだから、単純に思い出に浸っていたらいい、というものではない。
あのときのことをじっくりと振り返り、同じ過ちを二度と繰り返さないようにしなければならない。

さすがに今は、休日の朝からビールやチューハイを飲んだりはしませんけどね。

 

 

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 北京は五輪開催を返上せよ

2008年03月18日 | ニュース・時事


北京の大気汚染がひどいので、五輪のマラソンが危うい…というニュースが報じられている。マラソン男子の世界記録を持つエチオピアのゲブレシラシエが、出場を回避することを表明したそうである。その理由は、
「中国の大気汚染は私の健康にとって脅威であり、現状では42キロを走るのは厳しい」というもの。
彼はぜんそくと花粉症の持病を抱えているということだ。

一方、女子の世界記録を持つ英のラドクリフもぜんそくを持っているらしい。
2人は男女マラソンの世界記録(それも驚異的な記録)の保持者であり、かつ、ぜんそくの保持者でもあったということにびっくり仰天である。
持病も努力次第でここまで克服できるのか…と思うと、僕らみたいな凡人はグの音も出ない。大したものである。
ラドクリフは「特殊マスク」をつけて出場する、とテレビが伝えていた。

しかし、北京の大気汚染が、マラソンレースにそこまで大きな害を及ぼすとは、恥ずかしいことだが、僕は全く知らなかった。それどころか、北京のマラソンと言えば、僕はとてもいいイメージを持っていた。

僕にとっての北京マラソンといえば、80年代に日本選手が大活躍した当時のイメージがしっかりと記憶に残っている。宗兄弟(旭化成)がゴール地点までデッドヒートを繰り広げ、わずかに「胸の差」で兄の茂が弟をおさえて優勝した大会を、テレビで観戦したときは興奮した(生中継されたのは日曜日の午前だった。僕はその時間帯からチューハイを飲んで、翌朝、痛風の発作が出て仕事を休んだ。トホホ)。

翌年の北京マラソンは、もっと鮮明に覚えている。
同じく旭化成の児玉泰介が、日本人初となる2時間7分台の日本最高記録を出したレースである。当時の7分台は、驚くべき快挙であった。
今度はチューハイを呑まず、固唾を呑んでテレビの前で応援した。

さらに1~2年後、谷口浩美(これも旭化成)がまた2時間7分台で優勝した。
北京マラソンは好記録の出る大会、というイメージが強かった。

そんな古い話ばかりではない。
4~5年前の北京マラソンでも、中国の女子選手が、2時間19分台で走った。
これだけいい記録が出る北京のコースなのになぁ…
どうも、わからないところが多い。
道路にしても、硬くて走りにくい、と報道されているが、北京の道路の硬さはこれまでも同じではなかったのか? とにかく北京マラソンは、世界のマラソン大会の中でも屈指の好記録が生み出される大会であったのになぁ~。不思議だ。

大気汚染ということだが、94年の9月に、僕は北京へ1週間滞在したことがあるが、空はあくまでも青く澄んでいたように思う。
それはもう、遠い昔の話になってしまったのだろうか。

現実には今の北京の大気汚染は、相当にひどいようだ。
都合の悪いことはすぐ誤魔化そうとする中国当局も、これだけは認めている。
僕の頭も、昔は昔、今は今、と切り替えて考えなければならない。

そんなに空気の汚れているところであれば、つまり、選手がマスクをして走らなければなければならないような場所でマラソンを開催するのは、根本的に間違っている。…誰だってそう思うよね。

じゃぁ、別の場所でやればいいんだ。
そうそう。マラソン競技だけ、わが街大阪で開催したらどうだろう。
そうしたら、ゲブレシラシエ選手も出場するだろうし、ラドクリフ選手もマスクをしなくて済む。しかも、去年、大阪は世界陸上選手権を開催した土地であり、マラソン運営の確かなことも、世界にアピールしているしね。

思い起こしてみれば、2001年の夏。
2008年の五輪開催地を、大阪と北京が争ったのだ。
「大阪オリンピック」を夢見ていた僕は、開催地が北京に決まったとたん、ガクンと力が抜けた。あの時の悔しさが忘れられない。

あれから7年。
今こそ一矢を報いる最後のチャンスである。
マラソンを、ぜひ、日本の大阪で開催してほしい。
いや、何だったらマラソンだけでなく、オリンピックの開催をそのままそっくり大阪へ移す、というのもいいではないか。
いま報道されているチベットに対する仕打ちを見ていても、中国は人権を踏みにじっている現実がある。そんなところで平和の祭典でもある五輪開催とは、おこがましいではないか。

今からでも間に合う。まだ5ヶ月もある。何かと問題の多い北京五輪の開催そのものを、思い切って大阪に移すべきである。

橋下徹知事殿
どうか、今から大阪へ五輪の大逆転誘致に全力を挙げてください。

あなたなら、きっと出来ます。 

橋下はん。頼りにしてまっせ~!

聞いてる…?

 

 


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 お詫びと訂正・続編

2008年03月17日 | 日常のいろいろなこと


昨日の記事に対して、さっそく1件の連絡が入りました。

昨日の記事というのは…
「毎晩5キロの錘を両足につけて歩いている」というコバヤシ君の凄さに感嘆した方に対してお詫びをし、それは実は2キロだったという訂正をした記事でした。

そして、もし、もしも…、万が一…、このことに刺激を受けられ、5キロの錘を買い求めた方がおられましたら、その甚大な出費に対して、僕とコバヤシ君とが折半して弁償しますので、どうぞご連絡ください…

…そう書きました。

すると、○○さんからすぐに「ご連絡」が来たのです。


申請します。
普段は10キロ入りのお米を買いますが、コバヤシ君が足に5キロの錘を着けて歩いている記事に刺激を受け、5キロ入りのお米2袋を買い、重さを確かめました。
割高でしたが、5キロの重さにビックリ
コバヤシ君の凄さに感嘆し、涙しました。

今、ブログを拝見し、(それが間違いだとわかって)ガツンとショックを受け、
再び涙

2人で弁償してください。
お米は2袋で○○○○○円でした。


うぅぅぅ…

コバヤシ。

お前のせいやぞ

ひとりで弁償してくれぃ

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 お詫びと訂正

2008年03月16日 | 日常のいろいろなこと

            左が4キロ 右が2キロのダンベル 


最近は運動が不足していて、そのせいか身体の節々が不調である。
肩もギスギスする感じだし、腰にも相変わらず痛みがある。
暖かくなってきたのでそろそろ運動をしなければ…
と、朝のジョギング(超スローなジョグですが…)を始めかけているが、室内で簡単にできるダンベル体操も取り入れよう思い、以前買ったダンベルを物置から引っ張り出してきた。

わが家には2kgと4kgの2種類のダンベルがある。
4キロはずいぶん昔に買ったもので、「ダンベル」というより、昔ながらの「鉄亜鈴」という日本語での呼び名がふさわしいシロモノである。2キロのほうは、今ふうのモダンな形をしており、重さも手ごろで持ちやすく、非力なボクには反復回数も多くできるので、こちらのほうを主に使ってきた。

ところで、久しぶりに4キロのほうをつかんで持ち上げてみると…
ギ~~~ャン! 重い!

4キロ2個を両手で上げたり下げたりすると、すぐに腕が持ち上がらなくなる。
やっぱりだめだ。2キロにしなきゃぁな~。

そう考えていたら、ふと、あることに気がついた。

4キロというのがこれほどの重量ならば、5キロはさらに重い。
その5キロの錘(おもり)を両足につけて夜に歩いている男がいることは、このブログをお読みになっていただいている方々はご承知のことだと思う。

数ヶ月で20キロの減量に成功したわが職場の後輩コバヤシ君の話である。

コバヤシ君は、食事を減らした上、毎晩フィットネス用の錘を両足につけて約1時間歩き、汗びっしょりになって帰って来るのだと言った。その錘は、「最初は2キロでしたが、物足らなくなったので5キロに変えました」ということであった。僕はその話を聞いたとき、ちょっと変だと思った。2キロからいきなり5キロというのも飛躍しすぎだし、5キロと言えば結構重いのでは…というかすかな疑問。しかしまあ、力持ちのコバヤシのことだから、それくらいはやるのかも知れん。「巨人の星」の星飛雄馬でも、こんな訓練をやらされそうだし…。

それで、僕はブログで、コバヤシ君が言ったことをそのまま書いた。

しかし、この4キロの鉄亜鈴を持ったとき、これより重いものを両足につけて歩くというのは、相撲取りやプロレスラーならいざ知らず、素人には絶対に無理であろうことがわかった。5kgを両足につけたりしたら、僕など1歩か2歩、歩けるかどうかもわからない。

そこで先週、僕は職場でコバヤシ君に真偽をただした。
「コバヤシ。ほんまに5キロの錘を両足につけて歩いてるんか?」
「はぁ…。そう思いますけど」
「思う…? 2キロから急に5キロにアップするというのも、すご過ぎるやん」
「はぁ…。まぁ…、2キロやったら頼りない感じがしてきたもので…」
「それで、5キロにしたんか?」
「はぁ…。まぁ…。…5キロ…と思いますけど」

翌日。コバヤシ君と顔を合わすと、彼は「えへへへ…」と口元を緩ませて、
「すんまへん。勘違いでした。昨日確かめましたら2キロでしたわ。1キロから2キロに変えたんです。今つけて歩いているのが2キロです。えへへへへ~」

笑ってごまかすな、コバヤシ。
…そうか。やっぱり。

僕がブログで「毎晩5キロの錘を両足につけて歩いている」と書いたことに「すごいなぁ?」と感嘆された方に対して、慎んでお詫びをし、訂正致します。コバヤシ君が両足につけている錘は、それぞれ2キロの重量の錘でした。

もしも、そのブログを読まれて刺激を受け、5キロの錘を買い求めた方(そんなのが売っているかどうか疑問ですが)がおられましたら、その甚大な出費に対し、僕とコバヤシ君とが折半して弁償しますので、どうぞご連絡下さいませ。


そんな折、5月にエベレスト(チョモランマ)に登頂するためトレーニングを積んでいるプロスキーヤーの三浦雄一郎さんのことが先週の新聞に載っていた。
記事の中で、三浦さんが足に2.5キロの錘をつけていることが書かれていた。

いかに高齢と言えども、エベレストの征服をめざす人にして2.5キロである。このあたりが、一番重いものではないだろうか。

5キロの錘みたいなもんがあるとしたら、それは脚力を鍛えるのが目的ではなく、囚人を逃走させないよう、自由を束縛すための用具になるんと違うか?

ということで。
まことに失礼をいたしました。
重ねてお詫び申し上げます。

ついでに申し上げておきますが、この「のん日記」の記事内容には、いっさいの嘘やホラはありません。

ほんまか…?。
ほんまに、ほんまか…????????

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 TRT療法も1月半が経ち…

2008年03月14日 | 心と体と健康と

前回の「痴漢事件」で犯人にでっちあげられた男性の話が掲載されていた。
それを読むと、「それでもボクはやってない」の映画そのままである。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080313-00000979-san-soci

警察も女性の言い分だけを鵜呑みにしている。
双方の話をじっくり聞いて、「こいつが嘘をついているな」というような「直感」みたいなものが、警察官なら少しはあってもいいと思うのだが…。

話は変わって、耳鳴りのことです。

今月5日に大手前病院へ行って、1ヶ月ぶりに検査を受けた。1月23日から、耳鳴りのTRT療法を行っているので、まあ検査というより、経過観察みたいな感じである。TCIという、耳鳴り治療器を左耳につけた生活を始めて、1月半少し経った。

耳鳴りが発症してからは、今月の26日でちょうど半年になる。
以前にも書いたが、僕の耳鳴りが発症した日と、福田さんが内閣総理大臣に就任したのが同じ日なので、また今月26日は「福田内閣の半年間の成果は?」などという見出しが新聞を賑わすことになるだろう。

僕もまた、「耳鳴り・半年間の変遷は?」などと、振り返らなければならない。

さて、大手前病院へ行った話であるが。
予約時間の10時半に検査室に入り、1ヶ月ぶりにメガネの技師さんと対面した。

「その後、耳鳴りはどうですか…?」
と、技師さん。
「どうですか…?」と問われても、特に報告するほどの変化はない。
でも、何か言わなければ、何のために来たのかわからない。
「はぁ…。まぁ、その、なんですわ。耳鳴りの大きさは同じようなものだと思いますけど…。あのぉ、つまり、そのぉ…、ちょっと気が楽になってきたというか…」
「あ、そうですか。気が、楽にね…」
「まぁ、これ(TCI)をつけた安心感というか…、TRT療法をしている人が沢山いることがわかって、心強くなったというか…」
「はあ、はあ。安心感ね。心強く…ね」
と技師さんは、話を聞きながらパソコンに何かを入力している。

「それで…、耳鳴りが小さくなったわけではないと思うんだけど、こう…、慣れてきたっていうか…、どう言ったらいいんか…、耳鳴りは響いているけど、ちょっと気分的に楽になってきたって言うか…」
と、我ながらピリっとしない。何を言おうとしているのか…?
意味のはっきりしないような言葉を、くどくど連ねる僕。
それでも技師さんは、真剣な表情で耳を傾けてくれている。
「ほう…。ほう…。気分的に楽にね…」
じっと僕の目を見て、深く頷く技師さんである。

「で…、夜も、これまで音楽を聴きながらでないと眠れない感じだったのが…」
「はい…、眠れない感じだったのが…?」
「このごろは、それ無しでも眠りにつけるように…なったというか…」
「ふ~ん? そうなんですか? それはいい傾向ですね」
「まあ、相変わらず寝る前に、安定剤は飲んでいますけどね」
「はい、はい。…そうですか? ふむふむ」
と技師さんは、僕のぐだぐだした話が一段落すると、少し間を置いて、
「まあ、順調にTRT療法が進んでいる、と言えますね」と言った。

2年ほどかかる、と言われているTRT療法だから、まだ1ヶ月半では変化が出ないのは当たり前だろうが、それでも「早い人なら6ヶ月で効果が出たりします」と技師さんは言う。だけど、その「効果」というのは、どんなんだろう…?

耳鳴りを消すのではなく、耳鳴りに慣れる…というのがこの療法の最終目的だ。
…ということは、「効果」というのは、「慣れる」ということなのか。つまり耳鳴りはずっと存在し続けているということだろうか? 鳴っていても気付かない状態、ということなのか? おそらく、そういうことなのだろうなぁ…。と、自分に言い聞かせる。…が、鳴っていても気がつかない状態、というのが、またイメージしにくい。

「慣れる」ことが目的だったら、このTRT療法をしなくても、2年もすれば自然と耳鳴りに慣れてくるのではないか? という考え方も成り立つ。何もつけずに2年を過ごすのと、このTCIという治療器を1日10時間ほど耳につけて2年を過ごすのと、どれほどの違いが出るのだろうか? …なんていうことを疑い出すと、この療法の意味がなくなるので、とりあえずそれ以上は考えないことにしている。

TRT療法は、セルフコントロールも治療の大事な要素のひとつで、技師さんとの対話は、それを支援するためのカウンセリングでもある。だから、今の療法に疑いを持つことは、耳鳴りを改善することへの妨げになるわけだ。

TCIのボリュームを全体的に少し大きくしてもらって、この日は終わった。
だいたい、30分ほどであった。
次の予約は4月の3日に決まった。

安定剤がなくなりかけているので、また6週間分(1日2錠)のデパスをもらって病院を後にした。

耳鳴りは、大きくはなっていないが、小さくもなっていない。
しかし、1日を通じて、大きくなったり小さくなったりという波はある。
耳鳴りがキーンと大きく感じたら、TCIのノイズの音量を上げる。
あまり上げすぎて、耳鳴りの音を消してしまうと逆効果らしいので、それだけは注意して音を調節している。

ただ、あまりに小さくて軽いものだから、メガネをはずすときや、耳がかゆくて掻くとき、あるいは丸首の服を脱ぐときなど、はずみで機器が耳から外れて落ちる時がある。この1ヶ月でも、数回失いかけた。この機器は4月から発売が中止され、手に入れることが出来ないのだから、失くさないようにしなければならない。

TRT療法の行方は果たして…

と、こんなふうに書けるくらいの余裕は出てきたということだろう。

これからも、この療法に関しては余計なことを考えず、根気よく続けていこう。

 

 

 


 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 痴漢に間違われたら

2008年03月12日 | ニュース・時事

大阪の地下鉄御堂筋線天王寺駅…といえば僕にとっても、なじみの場所である。

そこで、「事件」が起きた。

地下鉄に乗っていた58歳の男性会社員が、そばにいた女性にいきなり、
「お尻を触ったでしょう!」と言われた。

「え…?」と男性が女性を見て、「触ってないよ」と言うと、
女性は、その場で泣き崩れた。
そこへ若い男が近づいて来て、
「触っていたのをオレも見た。まちがいない。お前は痴漢や」
と、大声を出した。
天王寺駅に着き、58歳の男性は駅長室に連れて行かれ、警察に逮捕された。

しかし…、実はとんでもない「やらせ」だったことが判明した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080311-00000064-yom-soci

その女性と「目撃者」の男は、仲間だったのだ。

今日、民放でもNHKでも、夕方のニュースでこの事件を報じていた。

2人は共謀して痴漢をでっちあげ、58歳の男性に「謝ったら許す」と言い、金をせびり取るのが目的だったという。この男性は、僕とほぼ同年齢だ。これくらいの年齢層が痴漢にでっちあげるのにちょうどいい「年頃」なのであろうか。
ひどい話である。

58歳の男性は、警察に逮捕されてから約24時間もの長時間、拘留され、犯人扱いをされたという。男性は「ハダカにもされました。人権も何もあったものではありません」と、テレビのインタビューに応じていた。

淡々とした口調でおとなしそうに話す男性であった。
まったく、とんだ災難である。

きょう、そのニュースを見て、僕は、最近テレビでも放映された周防正行監督の「それでもボクはやってない」という映画を思い出した。これは痴漢冤罪裁判を通じて、歪んだ現代社会の実態を描いた佳作であり、見応えのある映画だった。あの映画の中でも、痴漢に間違われた男を演じた加瀬亮は、ずいぶん言葉数の少ないおとなしい男性であった。「もっとはっきり言えばいいのに~」と、映画を見ながら、僕はイライラした。結局、映画の結末は、主人公は有罪判決であった…。

その映画を見終えた後、何ともいえぬため息が出た。

痴漢事件というのは、やったか、やっていないのか、真相はほとんどが「藪の中」である。「被害者」の供述だけが唯一の「証拠」である。物証というものはほとんどない。事実の解明は、ほんとうに難しいと思う。

それでも、痴漢が増えていることは事実であろう。
痴漢に限らず、女性が性的被害に遭う事件は最近益々増えてきている。
だから、痴漢に対して厳罰傾向にあるのは、当然のことだと思う。
そして、その風潮と共に、被害者が痴漢を訴えて出れば、警察はすぐに男を逮捕して起訴するという運用が今では当たり前のようになっている、という。

しかし、これを逆手にとって、痴漢被害者を装い、相手に賠償を求める事例も増加している傾向にあるということだ。

僕は自転車通勤なので、日常的には通勤電車には乗らないが、それでも、むろん電車や地下鉄に乗ることは多い。これまで、幸いにして痴漢に間違われたことはないが、ふだんから乗り慣れていない満員電車に乗るのは気が重い。電車が揺れた拍子に、隣の女性に「お尻をさわったでしょ!この人痴漢です!」と言われたら、いったいどうしたらいいんだろ…。揺れて接触したことに対して「あ、ごめん」と言えば、それだけで痴漢を認めたことになったりして、うっかり謝りもできない。

今日、そのニュースを報じたNHKテレビで、大学教授が「痴漢に間違われた場合、男性はどう対処すべきか」について、アドバイスをしていた。

「電車の中で女性から『この人、痴漢ですっ』と言われた場合、逃げたり、駅長室に行ったりしてはだめです。そうした場合は、やっていなくても、逮捕されるのが通例です。やはり、そのときは、毅然とした態度で、自分はやっていない、ということを主張することが大事です」

そう言っていた。

しかし…
毅然とした態度で「やっていない」と言っても、それで済む話なのか?
「駅長室へ来てください」と言われたらどうするのか? 
「やっていないから、駅長室には行きません」と言って、それで通用するのか。
「行かない」と言ったら、相手が「へぇ、わかりました」とでも言うのか?

それとも、駅長室に行かず、自分で直接警察を呼ぶのか?
で、警察が来て、「ひとまず駅長室へ」と言ったらどうするんだ?

「毅然として」というのは、具体的にはどういう態度なのだろう。
「気迫をもって身の潔白を訴えよ」という意味なのだろうか?

たしかに、その場でぐずぐずしていると、「それでもボクはやってない」の映画のように、いつの間にか犯人に仕立てあげられてしまう。やっていないということを、言葉を尽くして堂々と、つまり毅然と訴えなければならない…そういう意味なのだろう。

では、具体的にはどんなことを「毅然として」主張するのであろうか?

「やってない。やってない。やってな~い!」と、ひたすら繰り返すのか。
それで相手が「わかりました」と言ってくれるとは思えないしなぁ…。

「なにをおっしゃる、うさぎさん」
みたいなことを言っても、馬鹿にされるだけだろうしなぁ…。

「冗談は顔だけにしてください」
てなこと言ったら、よけいに相手は態度を硬化させそうだしなぁ…

これといった有効な対策は見当たらない。

女性にとってだけではなく、男性にとっても…
怖い世の中になってきたものだと思う。

 

 

 

 


コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 モミィの早春日記

2008年03月11日 | モミィの成長日記

          道明寺天満宮で


このところ大阪は、最高気温が急に上昇し始め、春の陽気になってきた。
8日の土曜日から、急に暖かくなった感じだ。
その土曜日。モミィをベビーカーに乗せ、妻と3人で外出した。

午前10時に家を出て、まず藤井寺の市民会館へ行き、近所の奥さんが入っている地域の日本画同好会の展示会を訪れた。妻が会場に入っている間、僕はモミィのお守である。

階段が好きなモミィは、市民会館の階段を何度も上ったり降りたりしていた。
会館の前でヒマそうなガードマンのおっちゃんが、じっと僕たちを見ていた。



  
  階段を上がったり降りたりしていると機嫌がいい。


そのあと、auへ行って、僕は2年ぶりに新しい携帯電話を買った。
その間も、モミィは店内を駆け回ったり、ソファに座ったり、ジュースの自動販売機のつり銭の孔に手を入れたりして、片時もじっとしていない。

auを出たあと、20分ほど歩いて、応神天皇陵前にあるかごの屋へ入った。
ちょうど12時。もう僕たちはお腹がペコペコに減っていた。

モミィは卵アレルギーだから、注文する食べ物も限られる。
子供用メニューは、お子様カレーとお子様うどんの2品。
しかし、お子様うどんは普通のうどんではなく、天ぷらうどんだった。
うどんに、海老の天ぷらが乗っている。

海老の天ぷらは、コロモに卵が交じっているはずである。
ということは、汁にも卵の成分が混じっているということだ。

「あの~、普通の、何も入っていないおうどんはないのですか?」と妻。
「え~っと。そうですね~。単品ではないのですけど…」と言いながら考える店の女の子。アレルギー体質の子は、なかなか外食が難しい。

「“親子どんぶり定食”に、半玉のわかめうどんがついていますけど…」
と、店の女の子が、頼りなげに言った。

妻はそのお店のお勧めメニューのナントカ膳というのを注文した。
モミィは、お子様カレーを注文した。そして僕は…
「よっしゃ、僕が注文するわ」とその“親子どんぶり定食”を注文した。

定食についてきたうどんはモミィに譲って、僕は親子どんぶりをアテにビール中瓶を2本飲んだ。

基本的に僕は、 さえあれば、食べるものは何でもいいのである。

モミィは、わかめうどんとお子様カレーのほか、家から持参したお菓子も食べた。
相変わらずよく食べる子である。



  
  お子様カレーとわかめうどんと持参のお菓子も食べる。


ついでに書くが、その前の日曜日も 暖かい  であった。

3人で廻るおすし屋さんへ行ったあと、道明寺天満宮へ寄った。
ここは、結構、由緒のある天満宮である。
天神さんだから、言うまでもなく、梅の名所だ。
今たけなわの梅を見に来る人たちで、天満宮はとても賑わっていた。

モミィをモデルに、梅を背景にして写真をパチリ。



  
    天満宮の境内でご機嫌よくバンザイのポーズをとる。



モミィと梅の話題をもうひとつ。

わが家の近くに、城山古墳という史跡がある。
ここもたくさんの梅の花が咲いていた。

8日、かごの屋の帰りにそこへ寄り、モミィを立たせて写真を撮る。

「こっち向いて~」と言っても、モミィはなかなか正面を向かない。
わざと知らん顔をして、違う方向へ視線をやったりしている。
ちょっと、このごろ「反抗期」に入りかけているように見える。
だから、なかなかいいタイミングで写真が撮れない。
ここに載せている写真は、やっとこさ、どうにか撮れた写真なのである。
なんともカメラマン泣かせのモミィなのだ。


 

  
  城山古墳の梅林で。なかなかカメラのほうを向かないモミィだ。



写真を撮るとき、こちらを向かないモミィに、僕もついつい声を張り上げる。
「お~い、モミィ。なんで、こっちを向かないのだ」と僕が責めると、
モミィは両手を組んだまま、しらけた
顔をして、プイと斜め上を向き、
「別に…」って、つぶやいたのである。

(おまえは沢尻エリカか…)

…というのは、嘘です。
いくら反抗期の兆し、といっても、モミィはそんなこと、言いません。

エリカちゃん。ダシにしてごめんね。
しかも、古いネタを蒸し返して…。

さて。
明日
(12日)の大阪の最高気温は19度だそうです。  
いよいよ、本格的な春の到来が期待できそうですね   。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 あぁ、高橋…

2008年03月10日 | スポーツの話題

いくらなんでも30キロまでは先頭集団に入っているだろうと思った。
いくらなんでも2時間30分は切るだろうと思った。
いくらなんでもテレビ中継中にはゴールするだろうと思った。
それが…。

5キロの給水のときに自分のドリンクを取るのに失敗した。
水を取って飲みにくそうに口に運んでいた高橋を見て、変だな、と思った。

民放のマラソン中継は、やたらとCMが入るのでわずらわしい。
特にレースがまだ動かない(と予想される)前半は、CMを入れまくる。
サッカー中継では試合中はCMを入れないのに、マラソンではお構いなく入れる。
マラソンだって、中断されず見続けたいと思うのに、前半はCMだらけだ。
本当に、レースに割って入るCMはイヤだなぁ…と思っていた矢先である。

そのCM中に、高橋が遅れた。

だから、彼女が遅れていく瞬間は、見ることができなかった。
CMが終わったあと、アナウンサーが「大変なことが起こりました」と絶叫。
「高橋が遅れ始めました…」だと。
映像は、すでに先頭から数10メートル遅れた高橋を映し出していた。

9キロ地点から早々と遅れた高橋だが、あれでよく最後まで走ったと思う。
普通、これほどの選手なら、棄権するところであろう。
ここは、心から拍手を送りたい。

昨日の朝、実は高橋が楽しみ…というより心配な気持ちの方が強かった。
昨日も書いたけれど、
「どこか、身体に故障を隠しているのではないか?」
…という心配が、僕のどこかにあった。
レース前の彼女のインタビューにも、何かを含んだような空気が感じられた。

去年、膝の手術をしたことが、レース後に明かされた。
スタミナは回復したが、スピード練習が間に合わなかった、という。

レースは21歳の中村が初マラソンVをなしとげた。
2位の尾崎も同じく初マラソンだった。

時代の流れや世代交代をというものを、ひしひしと感じさせるレースだった。

レース後の記者会見。
高橋の、いつもと変わらぬ笑顔が、かえって痛々しく見えた。
 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 高橋尚子という存在

2008年03月09日 | スポーツの話題

今日は名古屋国際女子マラソンの日だ。

どうも土・日曜日の昼間は外出することが多く、去年11月の東京国際女子マラソンも、今年1月の大阪国際女子マラソンも、テレビ観戦ができなかった。
きょうも和歌山県の「四国山」というところへハイキングに誘われていたのだが、この名古屋マラソンだけは何が何でも見なければならないので、お断りした。

注目はもちろん高橋尚子である。
五輪のマラソンで、日本人として男女を通じて初の金メダルに輝いた歴史的ランナーである。もう一度、名古屋でその強さを再現してもらいたい。そう祈っている。

僕のマラソン観戦の歴史は、もう45年近くなる。

マラソンの全コース生中継が世界で初めて実現したのは、1964年の東京五輪のマラソンのことだった。多感な15歳の高校一年生だった僕は、このレースをテレビで見て、マラソンというスポーツの魅力に取りつかれ、その後、いつか日本の選手が、五輪のマラソンで金メダルを獲得することを夢見ていた。(その頃は、まさか女子のマラソン種目が出現するなどとは思いもしなかった)。

東京五輪は、ご承知のように、後に自殺した円谷が銅メダルを獲った。

68年のメキシコは、君原が2位で銀メダル。僕は大学2年生で、翌年に計画していた北海道自転車旅行の資金を稼ぐため、アルバイトに精を出していたころだ。

72年のミュンヘンは、主力の宇佐美が期待に応えられず、日本勢はメダルなし。僕は結婚2年目で、この五輪の数ヶ月前に長男が生まれた。

76年のモントリオールは、宇佐美と宗茂らが出たが、宇佐美は年をとり過ぎ、宗茂は若すぎた。日本勢は惨敗。

80年のモスクワは、日本選手不参加。このとき、もしも…日本が参加していれば、代表に決まっていた瀬古利彦が勝っていた公算がかなり高かった。

84年のロス五輪も瀬古に期待が集まったが、直前に体調を崩すなどして、30キロ(35キロだったかも)地点で集団から引き離されて圏外に去った。たしか宗猛が4位に入ったと思うが、メダルはゼロ。

このロス五輪から、女子マラソンが正式種目になった。日本からは増田明美らが出場したが、増田は途中棄権に終わった。

88年のソウルでは男子は中山が注目を浴びたが4位でメダルには届かず。女子もパッとしない成績だった。この年、長男が高校1年生になった。

92年はバルセロナ。男子は旭化成の森下が、韓国人選手と最後まで競り合った。女子は有森がロシアの選手とこれまた最後まで競り合った。しかし、2人とも、渾身の力をふりしぼったものの、銀メダルに終わり、金の夢はついえた。あと一息で金、というところで、男女とも最後の一騎打ちに敗れたのは悔しい限りだった。この年、次男が大学1年生になった。

96年アトランタは男子は全滅。女子は、有森が意地を見せて銅メダル。「自分で自分をほめてあげたい」というレース後のインタビューが流行語になった。

そして2000年のシドニーを迎えた。
男子マラソンは低迷期に入っていたが、女子は綺羅星のごとく有力選手が揃った。
その中で、最も期待の大きかった高橋尚子が五輪新記録でとうとう宿願の金メダルを獲ったのである。そのときの嬉しかったこと、嬉しかったこと。

                        

 

  

  2000年(平成12年)9月25日の朝日新聞の朝刊。
  僕の大事なコレクションのひとつです。



この新聞の左下に、小さく「巨人が優勝」という見出しが載っている。
高橋の歴史的快挙の前に、巨人のリーグ優勝も隅に追いやられてしまった。

高橋は、東京五輪以来、念願だった「五輪マラソンで金」を実現してくれた。
その何年か前のタイのバンコクで行われたアジア大会マラソンで、酷暑の中を世界記録を上回るハイペースで飛ばしに飛ばし、後半の落ち込みも最小限にとどめて圧勝した高橋を見て、彼女はシドニー五輪でも、ひょっとしたら優勝するのではないかと思った。日本人でこんな強い女子ランナーを見たことがなかった。

それでも、高橋の五輪出場への道は険しかった。
前年のスペインでの世界選手権に出て、シドニーへの切符を手にするはずだった。そして、そのレースに向けて、世界記録を出せるほどの調子に仕上がっていたのに、直前に故障をして、世界選手権への出場を断念せざるを得なかった。

これでシドニーへの出場に黄信号がともった。
そして翌年、選考会の最終レースである3月の名古屋国際女子マラソンに背水の陣でのぞんだのである。僕は胸をドキドキさせながら、テレビを見ていたことを覚えている。しかし、高橋はそんな僕の心配などどこ吹く風の安定した力強いレース運びを見せて優勝し、無事にシドニーへの出場権を得たのである。

それから4年。
アテネ五輪の選考会では、マスコミも加わって、すったもんだの大騒ぎになった。
当落選上にいた高橋を、五輪代表に選ぶかどうかである。
僕は、ぜひ高橋を選んでもらいたかったが、どうもあの、独特の(アクの強そうな)キャラを持った小出義雄監督が、日本陸連からすごく嫌われていたようで、そのせいで(と僕は今でも信じている)高橋は選考から漏れたのだった。無念!

そしてアテネ五輪で、野口が見事に金メダルを獲得したのは記憶に新しい。

さらに4年が経った。そして今日…
高橋は、北京へ残された最後の1枚の切符の獲得をめざし、名古屋を走る。
体調はどうか? 練習はきちんと予定通りこなせたのか?
身体のどこかに隠している故障はないのか…? 
心配でならない。まぁ、僕が心配しても仕方ないのだけれど…。

   ……………………………………………………

男子マラソンが、いつかオリンピックで金メダルを獲る日が来るだろう、と思いながら15歳の頃から数え切れないほど多くのマラソンレースで日本選手を応援してきたが、今思えば、最も「金」に近づいたのが瀬古利彦であった。しかし、彼が最強の時期に開催されたモスクワ五輪が、ボイコット騒動で参加できなかったことが、すべての運命を狂わせた。

最近ではもう、自分が生きている間に、男子マラソンで金メダルを獲ることは無理だろう、と思い始めている。
今のアフリカ勢の強さには、日本男子ではとうてい歯が立たない。
(と言いながらも、心の底ではまだ期待している…)

しかし、日本の男子ではなく、女子がマラソンでこれだけ活躍するようになったのは、女子マラソンの黎明期から思えば、僕にはおよそ信じられないことであった。

男子ではなく女子がメダルを獲ったという驚異的な出来事。

高橋尚子という1人のランナーが、僕が抱いていた長年の夢を叶えてくれた。

自分の元気なうちに、彼女と同じ時代に生きられて幸せだったと思う。

名古屋国際女子マラソンは、きょう、12時15分にスタートだ。

久しぶりに高橋のマラソンが見られる。
勝って欲しい。ぜひ勝って、五輪出場を決めて欲しい。
…いや、あんまり欲を出してはいけない。
たとえ敗れても、それはそれでいいじゃないか。
あれだけ走って、あれだけ僕たちに夢を与えてくれたのだから。

最も重要なことは、彼女の走る姿を今日見ることができる、ということなんだ。
高橋尚子の2時間20数分を、存分に楽しもう…。

そう思っただけでも、胸が一杯になる。

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 超過激ダイエット報告

2008年03月07日 | 日常のいろいろなこと

         コバヤシ君作成の 「体重変化表」


前回、コバヤシ君(45)が医師から「メタボ」と言われて、あわててダイエットを開始したことを書いた。これに対してコメントを寄せてくださったyukariさんから、コバヤシ君のダイエットがその後どうなったのか気にかけていただいたので、昨日さっそく職場でコバヤシ君に「取材」を申し入れた。

「コバヤシ。メタボをきっかけに始めた減量の話をきかせてくれ」と僕。
「なんでですか? のんさんも、減量しはるんですか?」
「なんで僕が減量せなあかんね。とにかく詳しいことを知りたい」
「そんなこと知って、何にしはりますのん?」
「何でもええがな。出し惜しみするんか?」
「そうやないですけど、理由を言ってくださいよ、理由を」
「言ってやらない。内緒だも~ん」
「変なの…。僕の話なんか聞いてもしゃーないと思うんですけど」
「ええい、うるさい。職務命令じゃ。吐け、コバヤシ!」
「…ほんまに、けったいな上司ですねぇ」

…ということで、僕はコバヤシ君をドーカツして、その全貌を把握した。
今日はその結果を、皆さんにお知らせするわけである。

結論から先に言うと、コバヤシ君は20キロのダイエットに成功したのである。
だから、どうしてもその秘訣を聞き出す必要があったのだ。


  ~ コバヤシ君の減量大作戦 ~

最初にお断りしておくが、このコバヤシ君の過酷で壮絶な減量大作戦は、涙なくしては語れない。語るも涙、聞くも涙である。
これを読まれた方が流す涙は、たぶん1リットルでは済まないであろう。

去年の8月13日。
コバヤシ君は人間ドックで医師から「あなたは、メタボです」と言われた。
「ぎょぇ~」とコバヤシ君が叫んだかどうかは…知らない。
しかし、相当ショックをうけたようだ。

「そのとき、何キロやったん?」と僕。
「89キロでした」とコバヤシ君。
「昔はどれくらい?」
「70キロジャストでしたね~」

彼の身長は、約170センチである。

そして彼は「メタボ宣告」をきっかけに、一大決心をする。

まずは食べ物を次のようにした。

朝食はバナナ1本。

昼食は職場でちっちゃなサンドイッチ1個と野菜ジュースとヘルシア茶。
これが400キロカロリーだそうだ。

夕食は、自分の大きなお茶碗を、中学に上がったばかりの子供と取り替えて、子供用の小さなお茶碗に御飯を一膳。アルコールは飲まない。おかずは普通に食べる。

そのほか、脂肪を燃やすというサプリメント「L・カルニチン」というのを、1日2錠飲む。75錠入りで1980円だそうである。

あきれるほどの大食漢だった彼が、こんな食生活を始めたのである。
涙ぐましい努力、とはまさにこのことである。

「そんなんでは、お腹減るやろ。よう我慢できたなぁ」と僕が感心すると、
「最初の頃はチューインガムばっかり噛んで、飢えをしのいでいました」
ガムか…。なるほどなぁ。
「最近は慣れてきたから、ひもじい思いをすることはありませんよ」
胃袋が小さくなったというわけだ。

食事療法に加えてもうひとつ大切なのは、運動である。

コバヤシ君は、夕食を終えたあと、歩きに出ることにした。
家の周辺を約6キロ、1時間、早歩き。
しかし、ただ歩くだけでは効果が少ない。
彼は両足にフィットネス用の錘(おもり)をつけて歩いた。
この錘は、最初の頃は2kgだったが、慣れると次は5kgに一気にアップした。
両足にそれぞれ5kgの錘をつけて1時間歩くのである。
まるで「巨人の星」の星飛雄馬みたいな話である。
「家に帰ったときは汗びっしょりになりますよ、ほんまに」
「そらそやろ。しかしなぁ、よ~やるなぁ、そんなこと」
僕は感心するというより、あきれてしまった。

一方で、彼は凝り性だから、パソコンソフトのエクセルを使って、自分の「体重変化表」というものを作り、毎日の体重をこまめに表に書き込んでいった。食事や運動のほかに、こういう努力も、ダイエットを成功させるためには欠かせないことかもしれない。

それが、冒頭の表である。
小さすぎてわかりにくいので、それをタテにして拡大してみた。
コバヤシ君に頼んでプリントしてもらった彼の「体重変化表」である。


   


表がスタートしたとき、つまりメタボ宣告されたころの体重は89キロであった。

そこからダイエットを始め、1ヵ月後の9月中旬には80キロに落ちた。

つまり、最初の1ヶ月で約10キロの減量に成功したのだ。

さらに次の1ヶ月で4キロ減の76キロ。

11月初旬に75キロ。

12月中旬には72キロになって、その後半月間は変化なし。

表を見ると、今年1月初旬に、一度70キロを下回っている。
「このときは、風邪引いて飯が食えませんでしてん」
70キロを切ったのは、アクシデント、つまり病気やつれだった…。

コバヤシ君の若い頃の体重が70キロだったという。
ダイエットの成功で、その頃の体重に戻ったわけだ。
現在も、70~71キロで平行線をたどっている。

「ふ~む。ようがんばるなぁ…」
「えへへ~。もう慣れましたわ」

…というコバヤシ君の減量大作戦の顛末でありました。

   ………………………………………………………………

しかし…
これほど意志の強いコバヤシ君も、実は数年前からうつ病にかかっており、一昨年の秋は2ヶ月近く仕事を休んでいた。昨年の4月に人事異動で、今の僕の職場へ配置されてきた。彼は昔からの僕のマラソン仲間だったのだが、そのとき、初めて彼がうつ病であることを知った。一途で、人一倍責任感が強い性格なので、そうなりやすいのだろう。

今でも朝晩、抗うつ剤を飲み、毎月医者に通う。時々、朝に、
「すみませ~ん。きょう体調が悪いので休ませてください」
と、職場へ苦しそうな声で電話を掛けてくる。20キロの減量を成功させた鉄の意志を持つ彼の、もうひとつの側面である。

人って本当に、一面だけでは、はかりがたいですね~。

僕が約半年前に発症した耳鳴りで自律神経が乱れ、今も安定剤を飲んでいるのを知って、コバヤシ君は
「薬、何飲んではりますのん?」と聞くので、
「デパスや」と答えた。
「あ~、デパスですか。僕、あれは身体に合いませんねん。いま飲んでるのは○○と△△です。デパス、どうですか? 効きますか?」
と親しみを込めて尋ねてくる。
コバヤシ君にとっては僕は「精神安定剤服用同士のお友だち」なのであろうか。
まあ、それで彼の気持ちが和むなら、「クスリ友だち」でもいいけどね。

ということで、今日の締めくくりに、ひとこと。

コバヤシ流ダイエットは、普通の方はしないほうがいい…というのが感想です。
急に自分に無理な我慢を強いると、ストレスがたまって逆に身体に悪いです。
現にコバヤシ君は、ダイエットが成功しても、相変わらず、
「安定剤を飲まないと、過呼吸になってパニックになるんです」
と言っています。ココロのほうは未だ改善されていないわけで…。

こういう過激なダイエットを真正面から実践する彼の完全主義なところが、また、うつ病になりやすい性質でもあるのでしょう。

なんのこっちゃわからん話になってしまいましたが…。

 


 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする