僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

 北京の17日

2008年08月25日 | スポーツの話題

「北京の17日」が終わった。
そう言えばむかし「北京の55日」というアメリカ映画があった。
チャールトン・へストン主演の、義和団事変を題材にとったスペクタクル映画で、ブラザース・フォーが歌った主題歌も流行した。この歌を日本では、後に殺人事件を起こした克美しげるが歌った。なんとアニメの主題歌「エイトマン」のB面として発売されたのだけれど、2曲ともヒットした。
う~ん。こんなことを知っている人って、年齢がわかりますねぇ。

その「北京の55日」の主題歌の日本語訳は、

  ♪ フランス イギリス イタリア ロシア
    さらに加えて精鋭日本
    華の北京 今や死の街  ♪

そんな歌詞であった。1899年、清の時代の中国に存在した自衛組織・義和団の蜂起を鎮圧するため、英・米・露・独・仏・伊・日などの連合軍が北京になだれ込み、北京は55日間で、さながら死の街になったという史実を歌っている。

しかし、今回の「北京の17日」は、中国は世界の国々を相手にすさまじい力を発揮して、北京を訪れた「連合軍」各国をけちらす世界一の金メダル数を獲得した。
つまり「北京の55日」の借りを、100年余の後、17日間で返したとも言える。

今回の大会は、「中国の中国による中国のための」オリンピックであった。

さて、昨日の男子マラソンは、ケニアのワンジルが2時間6分台の記録で優勝した。仙台育英高校の出身であり、日本語のインタビューがとてもよかった。僕も1月半ほど前に仙台へ行ったとき、仙台育英高校をこの目で見た。バスのガイドさんが、「あそこに見えるのが、仙台育英高校です」と説明してくれた。高校駅伝や高校野球の強豪として、いまやこの学校の名前を知らない人はいないほどである。

20年ほど前に、ヱスビー食品のダグラス・ワキウリというケニアの選手が、世界選手権のマラソンで優勝し、流暢な日本語で会見に臨んでいたのを思い出す。世界的には無名だったワキウリがペラペラと日本語をしゃべるので、世界のメディアは「ワキウリは日本人だったのか?」と驚いたというエピソードが残っている。そのワキウリも、翌年のソウル五輪では惜しくも2位であった。今回、ワンジルは、見事にワキウリの無念を晴らしたことになる。それにしても、アフリカ勢のスピードはケタ外れである。これでは日本選手はついていけない。尾方は実に尾方らしいレースをしたと思うが、佐藤は例によって調子の波が大きく、今回は最悪の状態でレースを走らねばならなかったようだ。野口もそうだけど、厳しい練習をしなければ勝てないし、厳しい練習を積むと故障や体調不良に見舞われる。佐藤も、練習の疲労が、本番まで尾を引いてしまったようである。でも、佐藤は最下位でも淡々とゴールしていた。その姿には、なんとなく、よかったなぁ…という感想を持った。

北京五輪での日本人の金メダル数は、僕は「最大8個」だと予想した。
柔道、北島、女子レスリングで2個ずつの合計6個。
プラス、野球と野口のマラソンを積み上げて最大8個…という計算。
しかし、ひょっとしたらソフトボールと室伏で、2個の金が獲れるかも。
そうしたら、2ケタの10個になる…。そんな勘定であった。

北島と女子レスリングは予想通り2個ずつとり、柔道は予想の倍の4個をとった。
これですでに最大の8個を達成した。この調子なら2ケタいけるのでは、と期待したけれど、野球も女子マラソンも、金どころか、メダルなしに終わった。やっぱり8個かぁ、と思っていたら、ソフトボールが不屈の闘志を見せて金メダルをとり、合計9個。日本人選手は、この大会、思っていた以上に健闘したと思う。

オリンピック期間中、このブログは、せめて2日に一度にしておこう、と思いながらも、競技を見て体中を駆け巡った感情を、今すぐにでも誰かに伝えたいという気持を抑え切れず、ほとんど毎日更新し続けた。ブログというものに出会ったおかげで、毎日のようにその観戦記をそこに掲載するというのは、とても充実感がある。
僕のこの感想文には、片寄った見方も多くあったと思うけれど、我慢強くお読みくださった皆さんには心からお礼を言いたいです。

それにしても、やっぱりオリンピックはいいなぁ。1964年、高校1年生だった時に見た東京オリンピックに感動し、それ以来ずっとオリンピックを追い続けてきた。68年のメキシコ五輪のときは大学2年で、翌年の北海道自転車旅行の資金稼ぎに段ボール工場でアルバイトをしていた。次の72年のミュンヘン五輪のときは、横で生後3ヶ月の長男が泣いていた。その次の76年モントリオール五輪のときは、4歳の長男と3歳の次男に囲まれ、中古で勝った住宅のローンに追われ始めていた…。
とまあ、こんな調子で、4年、4年が刻まれてきたのである。オリンピック期間中の新聞記事は、ミュンヘン五輪からずっとスクラップをして保存してきた。(でも今回からは、もう、やらないことにした)。


7年前。北京でのオリンピック開催が決まったとき、僕は52歳だった。
「北京は2008年の夏か…」と指折り数えたら、その年がいま勤めているところの定年退職直前の年であった。なあに、まだまだ先のことだ、と思っていたら、北京オリンピックは終わり、秋の風が吹き始めてきた。
もう、その時期がやってきたのである。

歳月の経つのはあまりにも早い。

4年先はロンドン大会。
そのとき、自分はどうしているのだろうか。

 

 

 

コメント (7)
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