僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

村木厚子さんの強さ

2010年09月25日 | ニュース・時事

大阪地検特捜部検事のフロッピーディスクのデータ改ざん容疑事件にまで発展した「郵便不正事件」で、被告となった厚労省の元局長、村木厚子さんが、無罪判決のあとに記者会見に応じていた様子を見て、「この人は本当に立派だなぁ」と感心した。日本中のほとんどの人たちが、そう思ったに違いない。

やっていないことを、「やった」と決めつけられ、逮捕、勾留される。
その結果、無罪の判決が下される。
しかも、検事の証拠データの改ざんが発覚した。

こんなことって、ちょっとやそっとで許せることではないだろ。

僕なら激怒して、会見の席では検察に対して、憤懣をぶちまけるだろう。
しかし村木さんは怒りの表情を見せることもなく、淡々と、時には飄々として、感想を述べておられた。この人は、本当の意味で強い人なんだなぁ、と思う。

僕が好きな村上春樹の小説「海辺のカフカ」の一節が思い浮かぶ。

主人公のカフカ少年は、15歳の誕生日に家を出る。
世界で一番タフな15歳になるために旅に出たカフカ少年は、こう言う。

「僕が求めている強さというのは、勝ったり負けたりする強さじゃないんです」

そして…

「不公平さや不運や悲しみや誤解や無理解、…そういうものに静かに耐えていくための強さです」

本当の強さとは、そういうことなのだろう。

村木さんの会見をテレビで見ながら、そんなことを思った。

 

 

 

 

 

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イチローと白鵬との 「違い」

2010年09月24日 | スポーツの話題

今朝、テレビをつけていると、マリナーズのイチローが2安打を放ち、10年連続200安打を達成した、というビッグニュースが飛び込んできた。長い歴史を持つ米大リーグでも、10年連続で200安打という記録を打ち立てた選手は誰一人としていない。異国の地で、前人未到の大記録を達成するとは、まさに偉業であり、日本人の誇りである。

異国の地で偉業を成し遂げた…といえば、大相撲の横綱白鵬もそうだろ。
これも59連勝という、ケタ外れの大記録を、今も更新中である。
双葉山の69連勝に、ヒタヒタと近づいてきた。

しかし、双葉山の69連勝というのは、不滅の金字塔だ。
この大記録は永遠に破られない…と相撲ファンは信じてきた。
それが、もしかして、モンゴル人の横綱に破られるということになると…。

この勢いなら、来場所に69連勝を超える可能性が大きくなってきた。

う~ん、はっきり言って、破ってもらいたくない。
朝青龍なんかに比べたら、白鵬は立派な人物なんだけどね。

他の力士たち、しっかりしぃや。特にニッポン人の力士たち!
誰一人として白鵬に歯が立たないというのは、あまりにも情けない。
“まぐれ”でさえも勝てないんだから…。

イチローの歴史的快挙はとてもうれしい。
でも、白鵬の場合は…。

…こういう発言は、外国人差別ということになるのでしょうか…?


 

 

 

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議会も首長も…

2010年09月23日 | 議会&役所

きょうは秋分の日である。せっかくの祭日だが…
早朝から外は豪雨で、ときどき
雷が鳴り響き、ピカッと稲妻が光る。

幼稚園が休みだから4歳のモミィが「なんで休みなん…?」と聞く。
「祭日やからね」と言うと、「さいじつってなに…?」とまた聞く。
「それはね、土曜と日曜以外にも休みがあって、それを祭日と言うんだよ」
と、答え、「こんどの祭日は、秋分の日というんだよ」と説明する。

モミィはさらに、「しゅうぶんのひって、なに…?」とたたみかけてくる。
「う~ん、秋分の日というのは、…う~ん、う~ん」と僕は唸りながら、
「お日様が出ている時間と、お月様が出ている時間が同じになること」
などと、いい加減な、しかし、必死に考えた末の答えをひねりだす。

「なに…? おひさまと、おつきさまがどうしたん…?」

あぁ~、このごろはモミィの「○○って、なに…?」「なんで…?」の責め苦に悶え悩む毎日である。何か、幼児に説明するための国語辞典って、ない?

 

  …………………………………………………………………………

さて、僕が長年勤めていた大阪府の松原市議会で、先般、市議会議員の選挙が行われ、新たに19人の議員が当選し、何人かの新人議員も当選してきた。

この何十年間というもの、すべての市議会議員と顔見知りだったけれど、今回から、まったく知らない市議会議員が出てきて、僕の仕事もますます過去のものへと遠ざかって行く。

そして、一昨日の21日に臨時議会が開催され、議長や副議長のほか、いろいろなポストの役員が決められた。

それを見て、一番驚いたのは、3つある常任委員会の副委員長のポストを、すべて今回初当選してきた1年生議員で占められていた…ということである。

副委員長といえば、委員長が都合で欠けたときには委員長をするという大事な役割を担うポストである(ただ、日陰の存在ではあるけれど)。

委員長は会議を仕切るだけの知識と経験が必要だ。それを、ほんの1週ほど前に初めて議員になったばかりで、右も左もわからぬ人間が、どうして出来るというのだ。まさか新人たちが、「ぜひ私を副委員長に」と、名乗りを上げたわけではあるまい。
程度の低いベテランか中堅議員が各会派に根回しをして「副委員長は日陰の存在で、何の実質的なメリットもないので、新人議員に押し付けるということに決めよう」みたいな妙な申し合わせをしたに違いない。これから、そういう慣例を作ろうというつもりかも知れないが、まったく、常任委員会というものを頭からナメきった、無知で低級な役員人事というほかはない。

もし、「新人議員さんに勉強してもらい、責任感を持ってもらうやる気を出してもらうための抜擢だよ」…というのなら、なおさら勘違いも甚だしい。委員会は、子どもの塾ではない。真剣勝負の場であり、おもちゃの刀で「試し切り」をしてみるところではないのである。

何より、議会の誰もがそういうことを「いいこと」だと思って、全員が無批判に「右へ習え」と決めてしまうところが危うい。

こんな調子では、松原市議会は、先行きが大いに不安である。

松原市議会も、議員の新陳代謝が激しくなり、それ自体はとてもいいことだけれども、やはりこれも、中身による。

僕の目から見て優れた人材がすっかり少なくなり、代わりに、知識もないのに権威だけをふりかざすような中途半端な人物が中心になって、議会の質を落としていくという嘆かわしい現象が起こりつつある。市職員や松原市民のみなさんは、いま、そんな松原市議会に対して、厳しい視線を向ける必要があると思うのだ。

 ………………………………………………………………………………

ところ変われば品変わるで、逆に市議会を完全に無視したアホ市長がいる。
いつか書いたことがあるが、鹿児島県阿久根市の竹原市長である。

議会を招集する義務がある市長が、議会を開かず、勝手に自分で決める「専決処分」ですべてのことを決めていく、という、聞いたこともない暴挙に打って出て、しかもそれが市民の支持を受けてきたというのだからタチが悪い。

なぜ市民に人気があるのかといえば、議員や職員は優遇され過ぎているとし、バッサバッサと議員報酬、職員給与、ボーナスの額などを大幅カットし、自分に逆らう職員は、クビにする。そういうことが、「公務員嫌い」の市民の喝采を浴びたということである。その意図はいい。「官民格差を是正する」といううたい文句も立派である。しかし、だから暴走してもいい…ということにはならない。市民に迎合し過ぎなのである。

それを独断の「専決処分」で次々と処理していくという手法が大きな問題なのだ。議会の議員も、市長と同じように選挙で選ばれているのだから、まさに市民の代表である。それを無視するのは議会制民主主義に反することは明らかで、これはもう話にも何もならない。よくこんなことがまかり通っているなぁ、とずっと思っていた。

しかし今月、竹原市長のリコール(解職請求)を求める市民の署名が有権者数の過半数に達し、解職の是非を問う住民投票が実施される見通しとなった。まぁ遅すぎたけれど、阿久根市民の良識の一片を示したものと言える。

そんなとき、今回新たに総務大臣に就任した片山善博さんは、阿久根市長の専決処分について、専決処分というのは災害時など議会を招集する間もない時に緊急の案件があった場合にやるもので、その要件も満たしておらず、そもそも通常の時から議会を招集もしていないのだからこれも違法であり、違法な状態で行った専決処分だから、根っこから違法だ、と述べた。実にスッキリした論理である。これを、前の原口総務相がなぜ言えなかったのか…と、あらためて思う。

片山さんは「朝ズバ」で、あのつまらない相槌を打ちすぎるみのもんたを相手にしながらも、実に視聴者にわかりやすく、丁寧な解説をしてくれていた。今回の竹原市長に対するコメントは、さすが~、と感心するほかない。

竹原市長もそうだけど、「住民に人気がある」というだけで、それを嵩にかけて議会などを威圧する…という手法は、名古屋市の河村市長や、あるいは少し意味は違うが大阪府の橋下知事も、似たところがある。
法政大学のある教授は、「(この2人は)世論に支持されているおれたちの言うことを聞け、という面があり、議会に説明を尽くす首長の責任を果たしているのか疑問」と、新聞に意見を寄せていた。

宮崎県の東国原知事もいい加減な男だ。
あれだけ「宮崎をどげんかせんといかん!」と、郷土の発展に命を懸けるかのごとき発言で知事に当選しておきながら、1期4年でさっさと宮崎を捨てて中央進出をうかがっている。まあ、淫行で逮捕されたくらいしか目立った「実績」のないそのまんま東のような三文タレントに期待するほうが間違っているけどね。

選挙の投票は人気投票ではない…と言っても、それは所詮、理想論である。
現実は、テレビで有名になって票を取れるという人間たちがどんどん政治の世界に出回っている。資質・能力と関係なく、である。

まことに嘆かわしいことではないか。

 

 

 

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悩めるスーパーのレジの列

2010年09月21日 | 日常のいろいろなこと

スーパーの食料品売り場のレジのことである。
レジがある程度混雑している時、どの列に並ぶか…?
並ぶお客の人数の多いところもあれば、やや少ないところもある。

この選択は、なかなかむつかしい。

一目見て、お客が少ないと思って並ぶと、前のお客さんのたちのカゴの中が、どれも満杯で、一人にかかる時間が長い時がある。

隣のレジのほうが、並んでいるお客が多かったはずなのに、一人ひとりの品物が少なくて、スムースに前へ前へと進んでいる。それを横目で見てがっかりする自分がみじめである。特に急いでいる時など、その思いが強い。

だから、単にお客が多いか少ないかだけでは簡単に決められない要素が、レジの行列には存在する。

海外、たとえばグアムのスーパーで「エクスプレスレジ」というのを見たことがある。買った品数の少ない人専用のレジである。牛乳1本だけとかお菓子2個だけとか買う人は、そのレジでてっとり早く支払いを済ませることができる。グアムやハワイのスーパーに入ると、カゴも特大だし、お客の買う量の多さにびっくりしてしまうが、まあ、そんなところだから、そういうシステムも必要なのだろう。日本では、あまり見かけない。

ヤマほど買い込む人も、1個だけ買う人も、条件は同じである。だから、買い物が少ない場合には、よけいにレジの列が気になる。

他よりお客の列が長くても、そこだけレジ係が2人いる場合がある。そんなときは停滞なくお客は流れて行くし、一方では、レジ係が1人でも、手の遅い人もいれば、てきぱき打ち込んでどんどんお客をさばいて行く人もいる。通い慣れたスーパーなら、誰が手が早くて誰が普通で、誰が動作がのろい…ということは、把握しておいたほうがいい。

僕は近所のジャスコ藤井寺店食料品売り場に毎日のように行くので、レジの女性(中には男もいるが)に関しては、どの人たちが優秀でどの人たちがイマイチか…などの能力はほとんどわかっているのだ。しかも、仕事が速くて感じが良くておまけに美人である○○さんのファンでもある(名札、ついてるんだもんね)。混んでいても、わざわざその人のレジに並んだりして。あはは。

でも、ひどいレジ係になると、大混雑しているのに、知り合いの客が来たら、その客と雑談をしながらレジを打っている人がいる。口を動かすより先に、もっと速く手を動かせよ、と思う。

そんなある日のこと。
僕は例によっていつものスーパーで、8ヵ所くらいあるレジのどこに並ぼうかと探し、1人だけしかいない場所を見つけ、そこに並んだ。

前のお客は30代に見える女性だった。ちょうど支払いの時である。
買い上げ額が1,998円とレジ画面に出ていたのが、後ろの僕にも見えた。

女性客は財布からお金を取り出そうとしている。
カードではなく、現金払いみたいだ。それは、いい。しかし…

ふつう、1,998円なら、千円札2枚を出すだろう。
まぁ、たまった小銭を使ういい機会だからと、お釣りのないようにお金を出すのも、むろん自由である。でも、ふつう…ふつうですよ、こういう場合は2,000円を出しませんか? 後ろにお客も並んでいることだしね。いや、でも、お客さんだからね。どんな払い方でも勝手だから、誰も文句は言えないのはわかっていますけど…。

じっと見ていると、不思議なことにその女性は、まず8円…つまり1円玉を8枚、それも財布から1枚ずつ確認するようにつまみ出して、レジの皿にポツン、ポツンと置いていったのである。その次に10円玉を9枚、それも財布の中を覗き、1枚ずつつまみ出してレジの皿に置く。そうして次に、100円玉をまた9枚、同じように財布の中をかき回しながら、ゆっくり確認しつつ、1枚ずつつまみ出して皿に置くのである。

周囲のレジでは僕より遅く来たお客たちが、どんどん会計を済ませていく。
「えらいとこに並んだなぁ…」と、思わず舌打ちする。
特にその日は、僕は事情があって急いでいたのである。
こんな時に限って…。

僕の時間間隔では、その間、5分近くかかっていたように思う。
いつの間にか、僕の後ろにも数人のお客が並び始めているが、いっこうに前に進まないので、みんな眉をしかめながらレジのほうを眺めている。
レジの店員さんも、チラチラとこちら側に、申し訳なさそうに目を走らせる。

1円玉を8枚…。
10円玉を9枚…。
100円玉を10枚…。

最後に女性は、千円札を1枚取り出して、レジ皿に置いた。
しめて1,998円である。

やれやれ…。

女性は、係員に対して一言も発することなく、後ろに並んでいるお客たちに対しても、一向に意に介しないふうで、レジを離れて行った。

ふ~ん。ええ度胸やなぁ。
気の小さい僕などは、こういう人がむしろ羨ましい。

…と考えながら、自分の番が来たとき、「あっ、そうか」と思って、もう一度、先の女性の顔を見た。何となく、雰囲気が日本人と違う。

1998円をお釣りなしで支払うとき、日本人であれば1,000円札から出すだろう。次に100円単位、そして10円単位で…と。
つまり、大きいほうから出す。
しかし、外国ではは小さいほうから出すところも多いようである。そういえば、僕自身も旅行中、それで面食らったこともあった。

この女性は日本人ではなかったのだ。
中国人だろうか…。たぶん、そうだろう。

そう思ったら、いまの女性の、理解しにくかった行為の意味も解ける。
日本の通貨を1円、10円、100円と1枚ずつ確認する、というのも、まだこちらの生活に完全に慣れていなかったのだろう。そうか、だったら仕方ないかぁ…? と、思わなければしようがない。

それにしても、国による習慣の違い、人の気質の違いとは恐ろしい。
つくづくそう思った。

  …………………………………………………………………………

しかし、中国と言えば、尖閣諸島沖で日本の巡視船にぶつかってきた中国漁船の船長を逮捕し、勾留延長をしたことに対して、あの中国当局の傲慢な態度と、国民の異様なまでの激昂ぶりは何だろうか…? 

悪いのはそっちじゃないか、何をえらそうに言ってるんだ、
…と、報道に接するたび、不快感が募る。

報道では、日本政府は、漁船のほうが巡視船にぶつかってきたビデオが残っているから大丈夫…みたいなことを言っているようだが、そんなもの見せても、中国は「日本が勝手に映像を捏造したのだ」と言うに決まっている。まったく、どうしようもない国である。

スーパーのレジとは、なんの関係もありませんけどね。

 

 

 

 

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耳鳴りは相変わらずです

2010年09月18日 | 心と体と健康と

15日に耳鳴り治療(TRT)で、2ヶ月ぶりに大手前病院に行きました。
言語視聴覚室で、もうすっかりおなじみになった前○先生が、ニコニコと迎えてくれました。奥には、耳鳴り治療器TCIを扱うトーシンの社員の方もおられました。

TCIが先日、スイッチを切っても音がしたままだったので(今は直りましたが)そのことをトーシンの社員の方に言いました。
「よくあるんですよね。この夏は特に熱かったので、汗がTCIに入ってスイッチ系統も狂うということがあるんです」と言い、僕のTCIを見て、「今は正常ですよね」と言いながら、サッサッと掃除をしてくれました

耳鳴りの症状は、正直に言って、一向に改善しない、というのが現実です。
そのことを先生に報告するのですが、「前と一緒です」と言うだけではつまらない。何か新しいことを言わなければ…と思うのですが、それも思いつかない。
ただ、ちょっと変わってきたことといえば、耳鳴り治療器であるTCIを、あまりつけなくなった、ということだ。これをつけると、たしかに耳鳴りを緩和できるので、これまで重宝してきた。それをつけないということは、耳鳴りが気にならなくなったのか…ということになるのだろうけど、そういうことではなく、要するに、いちいちつけるのが面倒になった…というのが本音である。

それは言い換えると、耳鳴りに慣れて来た、ということなのだろうけど、「慣れる」という言葉にもいろいろな意味がある。少々乱暴に分けると「慣れて快適になる」というのと、「イヤイヤ慣れる」というのと、両方あるのではないか。僕は言うまでもなく「イヤイヤ慣れる」ほうである。耳鳴りに慣れるということは、「慣れなければ生きていけない」という重い命題を抱えて生きていく上のやむを得ぬ知恵であり、これはもう、体全体がすっかり「慣れた」というような単純なものではない…と思うのだ。

この日は、初めて「耳鳴りの大きさの検査」というのをしてもらった。
ヘッドホーンのようなものを耳にかぶせる。
先生がスイッチを入れると、僕の耳鳴りと同じ音が「キーン」と聞こえてくる。
その音量が、僕の耳鳴りを上回ると「はい、大きいです」と伝える。
「大きいですか…? じゃぁ、これでは…?」
と、先生が音量を操作する。音量が小さくなると、「キーン」という音が、自分の耳鳴りの音なのか、機械が出している音なのか、よくわからない。そこで、ヘッドホーンのようなものを耳から離す。それでも「キーン」という音がするのは、これはもう、僕の耳鳴りの音なのである。もう一度、ヘッドホーンをつける。「キーン」という音が、耳鳴りより大きく聞こえたときに、先生に「あ、大きくなりました」と伝える。

そんなことを数回繰り返した。
「う~ん、音はあまり大きくないですね」との先生の言葉にびっくりした。
僕の耳鳴りは、誰の耳鳴りよりも大きいのでないか…と思っていたから。

まあ、こんなことも、癒しのひとつになるだろうか…と思ったり。

それにしても、3年近く通っている病院で今ごろ「耳鳴りの大きさ」の検査を初めて受ける、というのも何となく変だなぁと思い、同じ大手前で治療を受けておられるyukariさんにメールをして尋ねてみたところ、yukariさんもそういう検査は「初耳です。…最新の機械なんですかねぇ」ということであった。最新の機械にしては、古ぼけた感じのものだったけれど…。
でも、耳鳴りの大きさって、人にはわからないと思っていたのが、こういう機械で検査してもらうのは、ひとつの安心であることに違いない。

それが終わって、耳鼻科に書類を持って行くと、なぜか診察を受けてくださいと言われ、また診察室の前で待っていた。当初から診てもらっていた宇○先生は、4月から阪大病院へ変わってしまって、もうおられない。診察と言っても、聴力検査が主だったのに、今日は前○先生に「耳鳴りの大きさの検査」をしてもらったわけだから、診察など何も必要ないのになぁ…と思いながら診察室の前で待っていた。

しばらくして、○○さ~ん、と中から女性の声が僕の名前を呼んだ。
「失礼します」と、診察室に入ると、若い女医さんだった。…オヨヨ。

「耳鳴り、たいへんですよね~」と、まず同情の言葉をかけていただいた。
これまで耳鼻科で、「耳鳴り、たいへんですよね~」なんてこと、言われたことがない。「神経科へ行って下さい」とか「慣れたら忘れます」とか「命にかかわりませんから」など、耳鼻科では、なんだか馬鹿にされたような言葉ばかりかけられていたので、この女医さんの言葉にはホロリとした。「診察なんか、いらんのに…」と直前まで思っていた僕も、これにはデレ~っとしてしまった(アホやがな)。

女医さんは、「外耳を診ますね」と、僕の両耳をのぞき、「別に何もありませんね」と言った後、「夜、眠れますか…?」と訊いた。
「いえ、なかなか、眠れないです」
「で、デパスを飲んでおられますよね。以前はマイスリー(睡眠導入剤)も処方していたようですが、これは効いていますか…?」
マイスリーは、いま、別の病院でもらっているけれど、あまり効かない。
「デパスのほうが、いいです」
デパスも、別の病院でもらっているのだけれど、これは沢山あったほうが安心である。
「わかりました。では、デパスを出しておきましょうね」
やさしい、やさしい、女医さんであった。
はぁ、これやったら、毎回診察を受けてもええやん…なんて思ったりして。

そんなことで、診察は終わった。

9月…。

9月といえば、僕の耳鳴りが発症したのが3年前、2007年の9月26日だった。あぁ、もう3年も経つんだな~。

自民党の安倍首相が退任し、福田首相が就任したのと同じ日であった。
その福田さんも、1年後の2008年の9月に退任した。
僕の耳鳴りは退任せず、留任。

次に総理になった麻生さんも、翌年2009年の9月に退任した。
僕の耳鳴りは退任せず、留任。

次に総理大臣になった鳩山さんは、今年の9月までも持たず、退任。
僕の耳鳴りは退任せず、留任。

この9月、管首相がまた退任するのではないか…という局面だった。
新聞では、ここ数年の歴代首相がすべて9月に退任しているから…
いうことで「魔の9月」などと書かれていた。
僕にとっては、耳鳴りが発症したことが「魔の9月」じゃん。

…あぁ、それにしても。

耳鳴りが発症して、もう3年も経つのだ。早いなぁ。

最初の頃、ある心療内科の医師は「1年経ったら慣れるそうですよ」と言った。
「1年も!」とんでもない。こんな耳鳴りが1年も続いたら、僕の人生はどうなるんだ!と思い悩みながら、ふと気がつくと、もう3年経ってしまったということである。

石の上にも3年…ということわざがあるけれど。
3年過ぎても、慣れないものはある。

「石の上 3年たったら 別の石」というサラリーマン川柳があったっけ。

 

 

 

 

 

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四国自転車旅行 おまけ

2010年09月14日 | ウォーク・自転車

四国への自転車旅行を終え、仕事に戻って間もない頃のこと。

職場で昼の弁当を食べ終えたあと、同僚や上司に、出来上がってきた旅行の写真を見せながら話をしている時、ひょっこりと地元の新聞を発行しているミズノさんという中年の男性が事務所に入ってきた。
「えらい盛り上がってまんな。何の話をしてはりまんねん」
と、ミズノさんは僕たちの中に割って入ってきた。

僕は当時、松原市役所の市議会事務局というところで仕事をしていたが、ローカル紙の記者でもあり、オーナーでもあったミズノさんは、よく市議会に出入りし、自民党や公明党、共産党などの控え室に入って雑談をしながら、さまざまな情報を集めて新聞記事のネタにしていた。

「いや~、実は今ね、旅行の話を聞いていたんですわ」
と、僕の上司が、ミズノさんに、自転車旅行のことを簡単に説明した。
するとミズノさんは、
「ほほぉ~。そら面白い話やねぇ。ちょっと訊かせてもらいまひょか」
と言って、メモと鉛筆を取り出した。

僕が訊かれるままに話していると、メモを走らせていたミズノさんは、
「何かええ写真、ありまへんか?」と訊いた。
ちょうどそのとき、旅行の写真をみんなに見せていたところなので、ここにありますよ、とミニアルバムを示すと、「ふむ、ふむ…」と、ミズノさんはそれをパラパラめくりながら、その中の1枚を勝手に抜き出し、「これ、ちょっと借りまっせ」とメモ用紙といっしょに写真をバッグに入れて、「記事にさせてもらいまっさ」と言いながら事務所から出て行った。

約1週間後、職場に届けられたそのローカル紙に載った記事がこれである。


            


  

 

記事中の写真は松山の子規堂。
後ろに写っているのは、前回書いた「現存する最古の軽便機関車」という「坊ちゃん列車」だと思うのですが…。
 

 

 

 

 

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四国自転車旅行 ⑥旅の終わり

2010年09月12日 | ウォーク・自転車


 


  

…まぁそういうわけで、四国自転車旅行も最終日を迎えた。
昨日までと違って厚い雲が空を覆い、今にも雨が降りそうな天気だ。

早朝6時10分に大洲の国民宿舎を出て、内子、中山と走り、このサイクリング最後の「大物」の峠となる犬寄峠を越えて伊予市に入った時は、やれやれ…と一段落した気持ちだった。地図を見ると、ここから松山、北条、今治、そしてフェリー乗り場のある東予まで、峠らしいものはない。旅の最後は、快適な走りで締めくくることができそうだ。

午前10時、はるか前方に松山城が見えてきた。

松山はさすがに人口30万人を超す大都市で、活気もある。

松山駅の2階で早めの昼食をとったあと、市内をぶらりと走る。
たまたま通りがかった子規堂というところに「現存する最古の軽便機関車」という「坊ちゃん列車」があったので、その前で写真を撮ってもらった。

11時15分に松山を出発し、1時間後に北条市に入った。

空はいつの間にか、雲が消え、真上から強い日が射していた。

海添いの道路脇で、自動販売機で買ったスプライトを飲んでいると、前を通り過ぎようとした麦わら帽子をかぶったおじさんが、僕を見て飛び上がらんばかりに驚き、
「おお!その肩、えらい日焼けじゃなぁ。水ぶくれになっとるぞ。体に悪いから袖のある服を着なさい」
と僕の肩を指さした。
「え…?」と、首を曲げて自分の肩に目をやったら、ほんとだ、ひどい水ぶくれになっていて、我ながらびっくり。ランニングシャツなので、肩がむき出しになっていた。僕はその場でリュックから半そでシャツを取り出し、それに着替えた。麦わら帽子のおじさんは、よしよしと頷き、「気をつけてな」と言い残して去って行った。

ふ~む、親切な人もいるもんだ。大阪なら、そういうことを言われることは、まずないだろう、と思う。

今治まであと5キロというところで、急に空が真っ暗になり、ポタリと雨粒が落ちてきた。直後、ザザーという音とともに周りの景色が一変した。うわぁ、大雨だ~。とても走っていられる状態ではない。急いで民家の軒下に逃れ、そのまま30分間、じっと立ちんぼうで雨がやむのを待っていた。ぐすん。

やがて小降りになってきたので、この旅行で初めて雨合羽を着用して今治に向かった。

今治市に入った頃から雨がやみ、やがて青空も見えてきたので、今治駅に着いた時は安心して缶ビールを買って飲んだ。うまい! あと20キロ。1時間程度で最終地の東予の港に着くだろう。旅もいよいよフィナーレを迎えるのだ。

僕はすっかり旅を終えたような気になって、ルンルン気分で自転車に乗り、最後の20キロに臨んだが、信じられないことにまた豪雨が襲いかかり、さらに今治と東予を隔てる山中では、雷がゴロゴロ~っと鳴り響いた。今度は逃れる民家などない山の中である。怖がりの僕は、息をするのも忘れるほど夢中でペダルをこぎながら、落雷で死ぬのではないか…と、大げさではなく本気でそう思い、生きた心地がしなかった。

それにしても、天に心の油断を見透かされたような雷雨の襲来であった。

あぁ、早くフェリー乗り場に着きたい。大阪へ帰りたい。家が恋し~い。

最後の最後に荒々しい洗礼を受けながら、やっとの思いで東予市に入った。

東予港のフェリーの乗り場がわからず、まごついたりして時間を費やしながら、ようやく見つけて到着した時は、午後5時だった。雨はもう上がっていた。

フェリーの出航時間は午後8時50分。時間は十分ある。ゆっくり日記などを書きながら、缶ビールで祝杯を上げよう。もう、油断してもいいだろね。

とりあえず自宅に電話をして、妻に無事ゴールインしたことを報告した。

自転車走行距離は、676kmだった。

 

 

  
   この旅行で最後の峠となった犬寄峠から「下界」を見渡す。

 

 
 北条市付近で。 ゴールが近づくと、景色もまた格別の味わいがある。
 
 

   
   雨も上がってやれやれ。
  もうゴールまでスイスイ~…と思っていたら、
  このあと、雷雨に見舞われて、あわてふためく一幕が…。



 
 青息吐息で東予港のフェリー乗り場に到着。
 あぁ~、この瞬間をどれほど待ち望んでいたことか。
  

   
   東予~大阪までのフェリーのチケット。
  上が自転車、下が人間です。  
  (昭和53年(1978年)7月12日)

  

 

 

 

 


 

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四国自転車旅行 ⑤10円玉

2010年09月10日 | ウォーク・自転車

 

 

 西海町から宇和島を通り、大洲まで ~

四国を走っていて目につくのは、やはり「お遍路さん」の姿である。
あの独特の姿…手甲・脚絆をつけ、菅笠をかぶり、金剛杖をついて歩く人たちをこの旅行中、何度も見た。遠目では、そういう格好をしているので年配者に見えていても、近づいて顔をのぞくと案外若い人も多い。今は四国八十八ヵ所霊場札所の巡礼が、一種のブームになっているのかも知れない。

しかしこの炎天下を歩くのは、相当な苦行であろう。それに比べれば自転車旅行など、楽なものだぞぉ、…と自分に言い聞かせながら、テクテク歩いているお遍路さんを追い越して行ったりする。

自転車で走っていると、時々、追い越して行く車の中から身を乗り出して「がんばってねぇ~」と手を振って声援を送ってくれる人がいるが、この場合は、自転車の僕がお遍路さんを追い越すときに、「がんばってねぇ~」と声をかけてあげたいほどである。だけど自分の走行で精一杯なのでその余裕はない。逆にお遍路さんから「お前のほうこそ、がんばれよ~」と言われそうでもある。

さて、西海町を出て、西海スカイラインという景色のいい、しかし起伏の多い有料道路を走って国道56号に戻り、まず宇和島に向かった。

津島町というところを過ぎて、まもなく宇和島というところで、前方に山が立ちふさがる。また峠である。まったく、もう~、なんでこんなに坂道が多いのだ。

歯を食いしばって、えっちら・おっちらとペダルをこぐが、たまらず降りて自転車を押して歩き出す。宇和島が近づいてきたせいか、車の数が急に増えてきて、狭い道路が混雑する。暑さに加えて車の騒音と排気ガスの中で、ひたすら押す。押す。押す。あ~、苦しい。

やがて、待望のトンネルが見えてきた。登りはそこまでである。やれやれ。
トンネルの入り口には、「松尾トンネル」と標示されていた。

そのとき、自転車を押している僕の目に、何かチラっと光るものが道路に落ちているのが見えた。1枚の10円銅貨だった。僕はそれを拾い上げた。車に踏みにじられた10円玉は、へしゃげて埃だらけでボロボロになっていた。僕は10円玉を親指でこすったあと、ポケットに入れた。この苦しさを今後忘れないための大切なお守りにしよう、と思ったのだ。

今のつらさと苦しさ、それでも「負けへんで~」という心意気を、いつまでも忘れずにおきたい。くじけそうになればこの10円玉を見て自分を奮い立たせる…そういうお守りにしよう。

思わぬ「収穫」を得たあと、松尾トンネルを抜けて宇和島市に入った。



  
  松尾トンネルの入り口。この手前でボロボロの10円玉を拾った。


まだ、午前8時半である。南海荘を、愛想のない女性に見送られて出発したのが5時45分だから3時間も経っていないのに、なんだか一日中走り続けているような錯覚を起こす。そして、9時10分に国鉄宇和島駅に着き、自転車を置いて待望の休憩時間となった。

駅前食堂でいなり寿司と冷やしうどんを食べたあと、駅の売店で2種類の新聞を買って待合のベンチに腰掛けて、サイダーを飲みながら新聞記事を読む。

日常生活が恋しくなってきた。
う~ん、早く家に帰りた~い。

 

 
  宇和島の和霊公園で。



      
       宇和島駅。


宇和島駅を出て、市街地を抜けると、国道56号はまた車の数が減った。吉田町に入り、徐々に上り坂になってきた。

宇和島から、その日の宿泊予定地の大洲までの間に、これもまた恐ろしき苦行の場となりそうな法華津峠という地名が地図に載っているが、ぼちぼちその峠に差しかかっているようである。法華津峠…とは、名前を聞いただけで悶絶しそうである。

しかし、どれほどの難所であろうか…と大いに警戒した割には、トンネルがいくつもあったおかげで、さほどの急坂を登ったりすることはなく、一度も自転車から降りずに走り切ることができた。

峠を越えると宇和町に入った。

さらに鳥坂トンネルという長い長いトンネルを抜けて大洲市に入った。


 



大洲市の中心部に入ったのは午後1時ごろだった。

市内をぶらぶら走っていると、「おはなはんの生家」という場所に出た。

「おはなはん」というのは、1966年4月から1年間放送されたNHKの連続テレビ小説で、愛媛県大洲が舞台となった高視聴率のドラマであった。(まあ、「おしん」みたいなものである)。そのヒロイン「おはな」は実在の人物で、今、目の前にある建物が、おはなが生まれた家…ということである。別にそれを探していたわけでもなかったが、偶然に通りかかったわけだ。どこでも、うろついていると、いろいろなものに出会う。



 
  おはなはんの生家。

 
 
  「おはなはんの生家」の周辺の風景。
  大洲市内には古い町並みが多かった。




2時ごろに、予約をしていた大洲市内の国民宿舎「臥竜荘」に入った。
指定された部屋は5階だったが、部屋の前には「歓迎○○様・1名」と、僕の名前が書かれている札が上がっていた。

部屋に入ってクーラーをつけ、押入れから布団を出して昼寝をしていると、窓から、どひゃ~んというすさまじい雨の音が聞こえてきた。びっくりして飛び起き、外を見ると、嵐のような激しい風雨である。道路を走っている時でなくて幸運だった。

…そういえば、この旅行ではまだ雨に遭ったことは一度もない。
日頃の「おこない」が良いと、まぁこうなるわけで。うふふ~。


ところで松尾トンネル前で拾った10円玉であるが、その後、旅行を終えて仕事に戻ったとき、自分の事務机の引き出しの中へ大切に保管しておいた。

引き出しを開けるたびに、それが目に入る。そして猛暑と騒音と排気ガスの中、急坂を懸命に自転車を押して上がったあの松尾峠のつらかったこと、苦しかったことを思い出すのである。あれを思えば日常のどんなことでも軽い軽い…と自分に言って聞かせる…。まことに貴重な「お守り」となった。

10年以上、その「お守り」は僕に力を与えてくれていたが、やがて人事異動や何やらで、いくつかの課を渡り歩いているうちに、引き出しの整理の時に紛失してしまったのか、いつの間にやら、なくなっていた。

もっとも、歳月の流れとともに10円玉の存在が重さを失ってきたことも事実である。変化に乏しい日常生活に慣れてくると、徐々に「心意気」が自分の中から遠ざかる。夢中でペダルをこいでいたサイクリストも、根は平凡なサラリーマンだ。結局、時間がたてば、生来の怠け者の僕に戻るのである。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の文句ではないけれど…
お守りにも「賞味期限」があるのかも知れない。

…な~んてこと言うと、バチが当たりそうですけどね。



 


  
  右上が大洲市内の国民宿舎「臥竜荘」。手前の川は肱川。
  この川の「鵜飼」は大洲の名物で、今がその季節だそうだ。 

 

  
  この日は宇和島を通過して大洲まで。そして、明日は旅の最終日。
  大洲から北条、今治を経て、夜、東予からオレンジフェリーに乗
  って翌朝に大阪南港へ着く予定である。

  

 

 

 

 

  

 

 

 

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四国自転車旅行 ④愛想のない人

2010年09月06日 | ウォーク・自転車

 
  赤印の四万十が当時の中村。そこから宿毛を経由して左端の赤印
 西海町まで走ったが、距離が短いので午前中に着いてしまった。

 

「自分は元気にしているから、純吉や大阪の皆さんによろしく伝えてね」
中村のカズおばさんはそう言って、「気をつけてね」と僕を見送ってくれた。

午前7時15分に、カズおばさんの家を出発。

四万十川を渡り、平坦で走りやすいコースを、しかも追い風の中、宿毛まで実に気持ちのいいサイクリングを楽しめた。

今から考えてみれば全コース中、この中村・宿毛間が最も快適に走れた。加えて徳島を出発してからほとんど人との接触がなく、なんとなく気分が滅入っていたところに、カズおばさんたちとの交流があって、それが心のリフレッシュになったこともあったのだろう。この朝は、特に気分爽快であった。

宿毛高校の横にある聖神社というところで休憩。
カズおばさんが水筒に詰めてくれた「きしまめ」というお茶を飲む。
中村ではみんなこのお茶を飲んでおり、体に良いという。
一口飲んでみたが、何だか妙な味である。うぅ、普通の麦茶がほしい~。

宿毛から篠川沿いに延びる国道56号。静まり返った山間部を通り抜けて行く。
海沿いの道もいいが、川沿いの道にも醍醐味がある。

午前9時半。その篠川の橋を渡ったところで愛媛県に入った。

県が変わっても、急に景色が変わるわけじゃないけれど、やはり感慨はある。今回は香川県は走らないので、この愛媛県が最後の県になる。

 

 
  篠川に沿って国道56号が延びる。車も人も見えない。

       
        ここから愛媛県。旅も後半に入った。

およそ1時間走った後、いったん国道56号と分かれて左折する。

左折して、西へせり出す半島の先端にある西海町の外泊(そとどまり)という場所に向かう。そこにある共済会館南海荘というところで、今日の宿泊を予定している。あと1時間程度で着くはずだ。

まだ10時半なので、昼前に宿泊所に着くことになる。ちょっと早いな~

なぜ、こんな早い時間に着くことになってしまったのか…?
それは…言うまでもなく、足摺岬をカットしたからである。

本来なら、前日は足摺岬まで行く予定だった。
そして、今日は足摺岬からこの西海町まで走るはずであった。
そんなことで、それ相当の時間を見ていたのだが、中村からそのまま一直線に西海町まで走ったものだから、こんな早い時間になってしまったのだ。

まあいい。楽なことは大好きな僕なんだもんね。ゆっくり景色を眺められて、気持ちにゆとりも出てきた。こちらが正解だったのでしょうね~。

 

  
  この日のコースは中村から宿毛、そして地図の左上付近に
  ある西海町の外泊(そとどまり)まで。最南端の足摺岬を
  カットしたので、これだけ距離が短くなった。
  

国道56号から外れると、とたんに道幅が狭くなり、車はまるで見当たらず、周りにはうっそうと木が生い茂り、走っていても気味悪い。しかも見たこともないようなデッカイ蜂が近づいてきて、自転車と併走するようにすぐそばでブーンと恐怖の羽音を立てて飛んでいる。刺されるのでは…と気が気ではない。
「こらっ、寄るな。あっちへ行け!」と、タオルを振り回して追っ払う。

やがて視界が開けて、内泊(うちどまり)という小さな集落が、海辺に寄り添うように軒を並べている風景が見えた。

ひとつ峠を越えると、次は中泊(なかどまり)という集落が、同じように海辺に寄り添っている。

またひとつ峠を越える。
かなりきつい坂道であったが、気合を込め、息を詰めて一気に登り切り、その気合と緊迫感を、下り道で風を浴びながら心地よく解き放つ。

このあたりは、民宿が軒を連ね、夏休みには海水浴客でごった返すだろうとことは想像に難くない。しかし今日はまだ7月10日だ。人影はほとんど見えない。


  
   西海町の海の風景。

西海町の北側の先端にある外泊に着いたのは、11時半少し前だった。
外泊の中心部と思われる漁港で自転車から降りる。

素晴らしい眺めである。
このあたりは、足摺宇和海国立公園というのだそうだ。
海水が見事に透き通っていて、キラキラと美しい。

前方、道越鼻と呼ばれる陸の突端は小高い丘になっており、緑の木々の間から白っぽい建物が姿を見せている。これが今日の宿泊地である共済会館南海荘だ。
あぁ、久しぶりに時間が余って、何もすることがない。
こういう手持ち無沙汰って、ワクワクするほど嬉しい。

小さな売店で牛乳を買い、店の若い女性にこの西海町の景色の美しさを絶賛したのだけれど、女性は「そうですか」とも言わず、知らん顔をしている。僕が牛乳を飲み終えて「ごちそうさま」と言ったか言わないかのうちに、店の奥に消えて行った。なんだか愛想がないなぁ。

…まだ11時半である。ワクワクしているだけでは時間が経たない。
しかし、南海荘にチェックインするには、いくらなんでも早すぎる。

僕はしばらく思案したあと、ここよりも少しは賑やかだった中泊まで、また峠を越えて引き返した。そこで1軒の小さな食堂に入り、焼きそばと御飯とビールを注文してから、南海荘に電話をした。もう中泊まで来て昼食をとるところだけど、そのあとそちらへ行ってもチェックインできますか…と尋ねると、電話の向こうで女の人が「はい、いいです」と言ってくれた。

その日の南海荘の宿泊客は、僕ひとりだった。

出迎えてくれたフロントには、中年女性が一人いただけだった。
その人がチェックインから部屋の案内から施設の説明まで全部してくれた。
例のごとく「大阪から自転車で来ました」と言ったけれど、ここでもまた無視されてしまった。その女性も、牛乳屋さんの若い女性に輪をかけたような愛想のない人だった。この辺はみんなこういう人たちばかりなのだろうか…?

しかし、部屋から見える景色は素晴らしかった。岬の突き出したところにこの建物があるので、部屋のベランダに立つと、目の前に絵に描いたような海や島々がドカ~ンと見渡せる。これだけの景色を独り占めするのはもったいないほどだ。

それにしても静かだった。
外から聞こえてくる波の音以外は、物音ひとつしない。
部屋にごろんと寝転がって、ボンヤリと時間を過ごす。

しばらくして、ふと我に返り、妻への手紙のほか、カズおばさんにお礼の手紙を書き、そのあと、純吉兄にも「無事、中村へ行き、おばさんにお世話になってきました」との手紙を書いた。

浴場はかなり大きかったが、たった一人の客のために沸かしてくれたようだ。
なんだか、肩身が狭くて申し訳ない…という感じである。
もっと他にお客がいてくれたらよかったのに。

食堂へ案内してもらうと、これも大きな食堂だったが、見渡すと、ポツンと1人分だけの食事がテーブルの上に用意されていた。テレビでは大相撲名古屋場所が放映されていたが、その音声だけが食堂全体に響き渡っている。

相撲中継を見ながら、ビールを飲んで、意外と豪勢な料理に舌鼓を打つ。

ちなみに、フロントで応対してくれた愛想のない中年の女性が、部屋に案内してくれ、風呂にも案内してくれ、食堂にも連れて行ってくれ、ビールも運んでくれ、洗濯物を干すのならここに干しなさいと教えてくれ、結局この人以外の姿は、最後まで見ることはなかった。

静かな静かな一夜が明けた。
翌朝も早朝出発である。

例の女性にお会計をしてもらい「お世話になり、本当にありがとうございました」と心からお礼を言って別れを告げた。女性は黙ったまま軽くうなづいた。

自転車に乗って建物を離れ、数百メートルほど走ったあと後ろを見ると、その女性が玄関前に立っており、ずっとこちらを見ていたようだった。

そして僕が振り向いた時、意外にも大きく手を振ってくれたのである。

「うっ…」
思わず涙がこぼれそうになった。
僕も振り向きながら手を振り返した。
バランスが崩れて自転車がぐらつき、危うくひっくり返りそうになった。

本当に親切な人って、こういう人のことを言うんだなぁ。
昨日の昼から今朝にかけて、彼女一人に何から何までお世話になったのだ。
余計なことはしゃべらないし、ニコニコすることもなかったけれど。

愛想のない人ほどいい人である…という僕の人間観は、このときに生まれた、…と言っても、言い過ぎではないだろう。

(ちなみに、僕はとても愛想のいい人間です。ニコニコ)

 

     

  

 写真おまけ  国道56号で。
         ただし、愛媛県に入る前か、入ってからか…
         どこで撮ったのかよくわからない写真です。

 

  

 

 

 

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四国自転車旅行 ③幻の足摺岬

2010年09月03日 | ウォーク・自転車

  
    当時の高知駅。僕の自転車が小さく写っています。


 

高知市では高知県市町村職員共済会館に宿泊した。
隣に県庁や市役所があり、後方には高知城もある。

翌日もよく晴れた朝であった。

そこから有名な「はりまや橋」まで遠くないというので、自転車で寄ってみた。しかしまぁ、…これがなんとも道路の隅っこの方にちんまりと存在する小さな橋だったので、驚いた。真っ赤な欄干もさほど目立たない。僕は橋に気がつかず、2回通り過ぎ、3度目に同じ場所戻ってきて、初めてわかったほどだ。

「♪ 土佐の~高知の はりまや橋で~」の「よさこい節」であまりにも有名だから、遠くからでもひと目でわかるような、目立つ橋だと思っていたのになぁ。

「日本三大がっかり」と言われる名所がある。
その第一位が、はりまや橋だと言われたりもする。

ちなみにがっかりの第二位は札幌の時計台と言われているが、これは建物そのものは雅趣に富むが、なにせ周囲がビルだらけなので、日本最古の時計台もビルの谷間に隠れてしまって精彩がない。それで損をしている。

(がっかり第三位は諸説のあるところで、定まっていないそうです)

…とまあ、はりまや橋にがっかりしながら、この日の目的地である足摺岬を目指してペダルを踏み始めた。

偶然にも「坂本龍馬生誕の地」の記念碑の前を通ったので、写真を撮った。
この場所で坂本龍馬が生まれたのか…

 

  

  

龍馬は1835年に生まれ、32歳で凶刃に倒れた。あまりにも短い生涯であった。
(NHK大河の福山クンは40代で老けすぎぜよ。イメージが合わん)

最近、生きているかどうかわからない超高齢者の住民登録のことが大問題になっているが、この龍馬(生きていれば175歳)よりまだ年上の人が「戸籍上」生きていることになっていた、というニュースを聞いてびっくり仰天した。

さてさて、そんなことを言っている場合ではない。

今回の旅行はこの3日目が最もハードで、高知~足摺岬は160キロ以上ある。
僕の脚力では120キロぐらいが限度だ。おまけに道中はとても起伏が多いらしい。

妻の3番目の兄は純吉という人だが、僕が高知~足摺岬を走ると聞き、
「高知から足摺…? おまえなぁ、何キロある思とるんじゃ」
あきれた表情で眉をひそめた。
「それに、須崎から窪川へ行く道は、ワシも何度も車で走ってるがなぁ。すごい坂道で、雲が下の方に見えるんやぞ。道路が雲の上を走っておるのだ」
そんなことを言っては、僕をビビらせるのであった。
この純吉兄は、現在は大阪に住んでいるが、高知の中村で生まれ育ち、中村高校の野球部員だった人だ。

今も中村には妻の親戚がいるし、純吉兄の養母(純吉兄は養子に出された)も、一人で暮らしているという。
「中村に行ったら、おかん(養母)に言うとくから、必ず家に寄るんやで」
純吉兄は、そう言って「がんばりや」と激励してくれた。

よ~し。今日は、とにかく気合を入れていかなければならない。

高知市街を抜けて、国道56号と33号の分岐点が近づいてきた。
国道33号は松山まで116キロとある。
国道56号のほうは中村まで110キロ、足摺までは162キロだ。

中村110キロ。足摺岬162キロ…。

あたかも「足摺岬までこんな遠いんだよ。中村までにしておけば…?」
と、その標識がささやいているようにも見える。

 

  

 

しかし、足摺岬にはぜひ行きたい。
この旅行では、最大の見所だと思っている。
すでに「足摺洞門閣」という旅館に宿泊申し込みをして、予約金1,000円も払い込んでいる。なんとしても今日は足摺岬まで走らなければ…。

午前8時20分。須崎に着く。ここまでは、道路の舗装が悪くて走りにくかったが、起伏はそれほどでもなかった。もっとも、兄が僕をビビらせたのは須崎から窪川までの「雲の上の道」である。勝負はこれからぜよ。

当時の日記をそのまま書き写すと…

須崎から窪川までの間は、純吉兄が言った「雲が下の方に見える」のはいささかオーバーであったけれど、9年ぶりのサイクリングの苦痛がありありと蘇ってくる難路で、いくつトンネルを過ぎても、いくら上り坂をカーブしても峠のてっぺんらしいところは見えてこない。道路の遥か彼方はここよりまだまだ高くなっていて、その高い山の雑木の中を、斜めに一筋の白いガードレールが斜めに延びている。あんなところまでまだ走るのかと思うと、苦しさよりも馬鹿らしさが先立つ。ボタボタと汗がハンドルを濡らす。真夏の陽光は容赦なく照りつけ、喉はネバネバ、犬のように舌をだらりんと出して、よっこらよっこらと走る。一度自転車から降りてしまうと、癖になって、少しのことで降りて押してしまう。すっかりダラケた走行になってしまった。

…と、そんな具合に書いている。

しかし、その苦しみも、やがて頂上らしいところに着いたとたんに、一気に吹き飛んでしまう。

駐車場付きの展望場があり、ふと見ると、若くてきれいなお姉さんがアイスキャンデーを売っていたので、ためらうことなく買い、しゃぶりついた。ついでにお姉さんにもしゃぶりつきたいところであった(何を言うてるねん…?)

ここから窪川に向かって、下り坂であることは違いないのだが、思ったほどスリリングに下る…というふうにはならない。ゆる~い下り坂だ。

窪川のスーパー「みやた」というところで自転車を止め、冷やしソーメンパック、コロッケ、ジュース、オレンジゼリーなどを買い込み、道路脇の日陰の場所を選び、そこへ座り込んで食べる。

こんなことをしているけれど、いま僕の職場ではみんなネクタイを締めて仕事をしているのだ…と思うと、なんだか不思議である。自分だけが、別次元の世界をふわふわ漂っているのである。

まあ、あと1週間もしないうちに、また、毎日を判子で押したような変化のない勤務生活に戻らなければならないのだから、今を楽しんでおこう。…とはいえ、あのクーラーの効いたオフィスに早く戻りたいなぁ、とも思ってしまう軟弱な僕なのである。

さて、窪川からずっと下るものだと思っていたら、以外にも、また上り坂になった。どないなってんねん! と叫びたい気持ちだ。

上り坂がだんだん激しくなったと思ったら、「峰の上峠」というところに到着した。ここが正真正銘のヤマ場だったのだ。やったぁ、ついに登りきったぞ~、バンザーイ…と快哉を叫ぶ。

胸のすくような下り坂をスイスイと下り、12時半にようやく山の中から出て、海岸線に沿った道になった。

浜辺に自転車を放り出して、海水パンツに着替えて海の中へじゃぶじゃぶと入る。しかし下は砂ではなく、岩ばかりだった。一人ではしゃいでいるうちに、足の裏を何ヶ所か切ってしまったので、あとはじっとして、露天風呂に入っているような具合で、30分間ほど海水に浸かっていた。

入野松原というところでジュースを買うと、店のお婆さんが「学校へ行ってるだか? 中学生か? 高校生か?」と聞いてくる。「勤めてますねん」と答えると、お婆さんは「ほ…?」と意味不明の言葉を吐いた。

中村駅には午後2時15分に着いた。
前回も書いたが、現在は四万十市となって、中村市の名称は消えた。
市町村合併で次々と思い出のある地名が消えていくのは寂しい。

 

 


  

中村の中心地の商店街に、純吉兄の「竹馬の友」という男性がスポーツ店を経営しているそうである。
「まず、そこに電話したらええ。おかんの家、教えてもらえるから」
と純吉兄から言われていた。
僕は駅から、その「竹馬の友」というタムラさんに、電話をかけた。
電話に出たタムラさんは、純吉兄から話は聞いていたらしく、
「よう、早かったなぁ。まずうちへおいで」と声を張り上げた。
スポーツ店の場所を教えてもらい、そこへ行って、タムラさんに、純吉兄の養母カズおばさんが住んでいる家まで連れて行ってもらった。

カズおばさんは、ちょうどお昼寝中だったが、タムラさんに起こされた。
「来られましたよ~、お客さんが」
タムラさんの声で目を覚ましたカズおばさんは、ニコッと笑い、
「あ、よく来てくれましたね。とにかく今夜はここへ泊まりなさい」
と、すばやくタオルと石鹸の入った風呂桶を出してきて、向かいの方向を指差し、「あそこにお風呂屋さんがあるからね。さ、早く汗を流しておいで」
そう言って、僕の自転車を自分の家の中に入れるのであった。

「え~、あの~、僕は、あ、あしずり…」
「え、足を…? 足をすりむいたの…?」
「いえ、違います。きょうは、あの~、足摺岬まで…行く予定で…」
「何を言ってるの。あんな遠いところまで、自転車では行けんよ」
カズさんは全然取り合ってくれず、僕はこの瞬間、足摺岬はあきらめた。

その日の夕方、どれだけのご馳走を呼ばれたことだろう。
肉の炒めもの、ヨコワのお造り、目玉焼き、「小僧寿し」で買ってくれたお寿司、ソーメン、その他、テーブルに並びきらないほどの食べ物が出た。しかもカズおばさんは、体が悪いからと、ほとんど何も食べない。
さらに「純吉が来たときしか開けないので」と、冷蔵庫からビールの大瓶を何本も出してきて、次から次へと栓を抜いてくれる。

食事を終えたときには、しばらくその場を動けなかったほどだ。
社会人になって、これほどの量を食べたのは、おそらく初めてだろう。

夜、おばさんに連れられて、僕の妻の親戚夫婦が入所している近くの老人施設を訪れた。おばさんは、その親戚夫婦に「やっちゃんの旦那さんやで」と僕を紹介してくれた。やっちゃんとは、僕の妻のことで、この人たちも妻の小さい頃からよく知っているそうだ。しかし、親戚の夫婦は口をそろえて、「おお、そうかい、シズちゃんの旦那さんか…? それはそれは…」
と言うので、おばさんは、
「シズちゃんと違う。やっちゃんやで、やっちゃんの旦那さんよ」
シズちゃんとは、妻の姉である。
「おお、そうか、シズちゃんと違う…? ユキちゃんの旦那さんか…?」
ユキちゃんというのも、妻の姉である。
「ユキちゃんと違うのよ。やっちゃんや、やっちゃん。この人はやっちゃんの旦那さんよ」
「おお、そうか……やっちゃんか」

施設を出て、帰り道、一条神社というところに寄り、おばさんは、僕が無事に大阪に帰れるように、と祈願してくれた。

 ………………………………………………………………………………

足摺岬まで、あと40キロだったが、旅館はキャンセルした。
翌日は、そのまま中村から宿毛を経由し、宇和島方面へ向かった。
結局、足摺岬は、この自転車旅行では幻に終わった。

それから18年後の1996年。四万十川100キロマラソンに出場したとき、レースを終えた翌日に足摺岬まで行って1泊し、やっと念願を果たせた。

ちなみに四万十川100キロマラソンは、中村がスタート&ゴール地点である。
しかし、そのときはすでに、カズおばさんは亡くなっていた。

行きたい場所へは、またいつか行ける日も来るだろう。

しかし、人との出会いは、そういうわけにはいかない。

カズおばさんに中村で泊めてもらった一夜は、その時でなければ経験できなかったものであった。無理をして足摺まで行かなくて良かったと思う。

 

 

 

 

 

 

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