僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

コンサートとドレス

2012年02月29日 | モミィの成長日記

モミィの通うヤ〇ハ音楽教室の生徒たちが出演するコンサートは、
3月29日に行われるので、今日がちょうど1ヶ月前に当たる。
モミィにとっても、初めての舞台でのコンサートである。

そのコンサートには「舞台衣装」を着て演奏する、と最近に知った。
全員(といっても8~9人だけど)お揃いのドレスを着るのだそうだ。

先生から「衣装はどうなさいますか?」と尋ねられた時、
「は…? 衣装がいるのですか?」と僕は思わず聞き返した。

強制ではないが、ほとんどの子はお揃いの衣装を作るのだという。
まさかそんな場で、ひとりだけ私服を着せて出すわけにもいくまい。

そして前回のレッスンの時、生徒のお母さんが型紙を作ってくださり、
僕は型紙と生地を受け取り、完成したドレスの写真を見せてもらった。

もちろん、こうした仕事は僕には無理である。妻の出番だ。
帰宅して妻に一部始終を伝え、生地を手渡した。
「なんだか、むずかしそうね」
モミィの布かばんや雑巾などは縫ったことはあるが、ドレスは…
はたして自分に出来るのかなぁ、という妻の様子であった。

その型紙を作り、生地を渡してくれたNさんという若いママは、
クラスの中でも最も親しくさせてもらっている人だったので、
これまで、いろんなことで何回もメールのやりとりをしていた。

そこで「むずかしそうですね…」とNさんにメールを打った。
他のお母さんたちも、生地を切って縫ってドレスを作る…
なんてこと、できるのかなぁ、という疑問もあった。

すぐに返事が来て、「わかりにくかったですかあ」
と、若いママなので絵文字をいっぱい入れたメールで、
やはり作り方がわからないという母親たちが大半だったらしく、
「次回のレッスンが終った後で、みんなでやってみますね~」
そして、完成品の写真と作り方の写真がメールに添付されていた。

Nさんからの「作り方」の写真を、スマホからパソコンに送り、
それを読みやすく拡大して印刷したものを妻に見せると、
「あ、これなら何とかわかりそうだわ」
と妻がホッとしたように言った。

「わかりそうだと妻が言ってましたよ。ありがとうございました」
と僕はまたNさんにメールを打った。
Nさんはいつもすぐに返事をくれる人で、このときも数分後に、
「わかりそうだと言っていただいてうれしいです。
 これで次回、皆さんの前で落ち着いて説明ができそうです」
と、絵文字いっぱいの可愛らしいメールが来た。

その「次回のレッスン」が昨日の火曜日だったのだ。

モミィがヤ〇ハに入会して以来、ずっと僕が付き添ってきたが、
月曜日から体調を崩して2日間寝ていた僕に代わって、
昨日は初めて妻がモミィをレッスンへ連れて行った。
レッスン後にドレスの作り方の「講習」があるので、
妻が行ってくれてちょうどよかったのかもしれない。

ところで…
クラスにお孫さんを連れて来ている女性がひとりおられるのだが、
昨日、妻がクラスに行ったとき、その女性と会って驚いたという。
昔、幼稚園の役員を一緒にやって馴染み深い仲の人だったそうだ。
その人も妻を見て「あらまあ~」とよく覚えてくれていたという。

「へぇ、じゃああの人(僕のこと)は、あなたのご主人だったんだ。
 男の人なのにずっと付き添ってエラいなあって、家で言うてたんよ」
…ですって(笑)。

と、まあ、そんなことで、妻も知り合いがいてよかった、よかった。

レッスンが終わった後、別室にお母さんたちが集まり、
Nさんらから、ドレスの作り方の説明があったそうだ。
妻はわずかに洋裁の心得があったので、最初の説明だけ受けて、
「ありがとうございました」とお世話いただいた人たちにお礼を言い、
皆さんより一足先にモミィを連れてその場を出た。

「ドレス、可愛いなぁ。早く着てみたいわぁ」と、はしゃぐモミィ。

しかし、楽器を習うと、コンサート用のドレスまでいるとは…

わが家は2人とも男の子だったからわからなかったけれど、
女の子を育てるというのもまた、いろいろ大変なことである。

以下は、Nさんが写メールで送ってきてくれた写真です。

              

 

  

  ドレスが完成したらこうなる(背中側ですけど)



 

  こんな感じで縫っていく…

 

 

   詳しい作りかたも、写メールで送っていただいた。

 

 

 

 

 

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オー 脳 !

2012年02月26日 | 心と体と健康と

大きな病気にかかっていても、
精神的におちこまないで、

平気で暮らしている人と、
少し身体に痛みが出ただけで、

「ああ、どうしよう…」と深刻に悩む人がいる。

僕はどちらかと言えば後者ではないか、
…と、(思いたくはないけれど)思っている。

このブログのモットーは「のんき こんき げんき」
の3つを生きる力にしたい、というものだけど、
自分のそんな性格への反省を込めた気持ちでもある。

 ………………………………………………………………

左の首から肩にかけての痛みは相変わらず続いている。
整形外科で検査をしてもらい重症ではないことはわかった。
脊柱の一部が狭くなり、それが神経を圧迫しているそうである。
整骨院でも、こういうのは長くかかるということを言われている。

まあ、医者や整骨院へ行ってたちまち良くなるとも思っていないけれど。

腰痛の方は以前の小さな痛みの程度に戻ったので、
それだけでもよかったな~と思っている。

ただ、パソコンの前に座って何時間も休まずキーを打つことが多い。
不自然な姿勢でも、おかまいなしに長時間続けるという悪い癖がある。

こういう生活習慣は、これを機会に改めなければ、と思っている。

ところで、何週間か前にNHKの「ためしてガッテン」という番組で、
手の痛みや腰痛が取り上げられていたので、興味深く見た。

そこで出てきた専門家が、腰などの痛みは脳で感じているものなので、
脳の感じ方によって激痛にもなるし、何も感じなくもなる、と言った。

はぁ~。 脳…ねぇ。

そういえば…
左首・肩の痛みも、何やら忙しくしている時には、
ふと痛みを感じていないのに気がつくことがある。
まあ、無理な姿勢をとると、
何をしていても痛っ!とは思うけれど…

でも、これって、耳鳴りとよく似ているんですよね。

耳鳴りも相変わらず、ジーン、キーンと頭の奥で響き続けているが、
何かに集中していたり、酒を飲んでワイワイ言っているときは、
そちらに気を取られて、すっかり消えている(忘れている?)。
「あれ…?」と意識したとたん、また鳴り出すのである。

すべて脳が支配しているのである。 

やれやれ… やっかいな脳である。

冒頭で触れたように僕は結構心配性なのだけれど、
それにしても、耳鳴りや身体の痛みなどを、
あまりにも感じ過ぎではないのか? この脳は。

自分の脳なんだから、ボヤいても仕方ないけれど…

でも、時々、そんな自分の脳に向かって叫びたいこともある。

「オー ノー !」 と。

 

 

 

 

 

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やだな…

2012年02月25日 | 日常のいろいろなこと

言うまでもないことですけど…
言葉というものは、大きく分けてふたつの機能を持っていますよね。

ひとつは、情報を伝えること。
もうひとつは、自分の気持ちを伝えること。

いずれにしても、その言葉は、相手に伝わらなければ意味ありません。

きょう、前回のブログを読み返してみたのですが、
「ホルムズ海峡砂景色」とタイトルをつけたものの、
それがその文章の根幹をなすテーマでもなく…
あれやこれやと思いつくままに書いたわけですが、
情報としても何の値打ちもなく、気持ちの表現としても意味不明…

結局何を言いたかったのか、自分が読んでも理解しがたい文章でした。

読んでいただいた人も、ほんと、わけが分からなかったでしょうね。

ボケてきたのかな? やだな…

 


 

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ホルムズ海峡砂景色

2012年02月23日 | 雑記

いきなり国際情勢で恐縮ですが、イランの核開発をめぐり緊張が続いています。
イランは、欧米諸国の制裁に対して、ホルムズ海峡を封鎖すると脅しています。

ホルムズ海峡は原油輸送の大動脈であるところから、
最近にわかにこの場所が注目を浴び始めたことはご承知のとおりです。
わが日本国にとっても、原油が入ってこなくなると天下の一大事です。
今やホルムズ海峡という名を知らない人はないと言ってもいいほどです。

ところで、3日前の20日にあるお方から、
「ホルムズ海峡砂景色」という歌の存在を教えてもらいました。
言うまでもなく「津軽海峡冬景色」の替え歌ですが、
かつて中近東に赴任するビジネスマンの間で歌われていたそうです。
日本から遠く離れた砂漠の国での勤めを嘆いた替え歌だった…とか。

それが、ホルムズ海峡が一躍注目を浴び始めた昨今、
その替え歌が息を吹き返し、静かな人気を呼んでいるそうです。

元歌の「津軽海峡冬景色」は、僕の大好きな歌のひとつです。
誰もが口ずさむ歌だと思いますが、一応ここへ出しておきます。

上野発の夜行列車 おりた時から
青森駅は 雪の中
北へ帰る人の群れは 誰も無口で
海鳴りだけを きいている
私もひとり 連絡船に乗り
こごえそうな鴎見つめ泣いていました
ああ 津軽海峡冬景色

ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと
見知らぬ人が 指をさす
息でくもる窓のガラス ふいてみたけど
はるかにかすみ 見えるだけ
さよならあなた 私は帰ります
風の音が胸をゆする 泣けとばかりに
ああ 津軽海峡冬景色

さよならあなた 私は帰ります
風の音が胸をゆする 泣けとばかりに
ああ 津軽海峡冬景色
         (東京音楽出版)

そして、3日前に教えてもらったその替え歌というのは…

~ ホルムズ海峡砂景色 ~

成田発の夜行飛行機 おりた時から
アブダビ空港は 砂の中
南へ下る人の群れは 誰も無口で
砂鳴りだけを きいている
私も一人 ひたいに汗して
つまらなそうなラクダ見つめ 泣いていました
ああ ホルムズ海峡砂景色

ごらんあれがオマーン岬 北のはずれと
見知らぬ人が指をさす
砂で曇る窓のガラス ふいてみたけど
下には砂漠が 見えるだけ
さよならアラブ 私は帰ります
砂の音が胸をゆする 泣けとばかりに
ああ ホルムズ海峡砂景色

…というものなのだそうです。

さて、話は「替え歌」から「元歌」に変わります。

この石川さゆりが歌う「津軽海峡冬景色」は、
日本の演歌史の中でも屈指の名曲ですよね。
作詞が阿久悠で、作曲が三木たかし。
 
ある資料によると、石川さゆりはNHKの紅白歌合戦で、
この曲をこれまで6回歌っており、うち3回がトリでの歌唱。
紅組で、同じ曲でのトリの回数では最多記録なんだそうです。

いかに人々に愛された歌かということがわかりますよね。

僕は3年前、2009年(平成21年)の3月末に定年退職し、
フリーの身となった4月に、妻と東北旅行に出かけました。

青春18切符で大阪から列車を乗り継いで4日目に青森に着きました。
そのとき、つい「ああ 津軽海峡冬景色」と口ずさんでしまいました。

そして「津軽海峡冬景色」の歌碑があると聞き、歩いて行きました。

旅の様子は、当時のブログに詳しく書いています。

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/393fdf83d73e3a4f0c8acbe14b2fdfe9


これらは、その時に撮影した写真です。 



  

 

 

 

 



 ………………………………………………………………………


さて、20日に替え歌「ホルムズ海峡砂景色」の歌詞を送ってもらい、
ひとしきり笑わせてもらったあとに、実は不思議なことがありました。

翌21日の夜のことです。
僕はある知人の方に「こんな替え歌を教えてもらいました」と、
「ホルムズ海峡砂景色」の歌詞を書いたメールを送りました。
すると、その翌日のこと。
早朝に起きた僕は、パソコンを開け、自分のブログを見たら、
パソコン画面の右側のコメント一覧の一番上に、
Unknown という匿名の方からのコメントが入っていました。
(今もその欄を見ていただいたらわかると思いますが…)

その匿名の方は、なんと3年前の青森へ行った時のことを書いたブログに、
コメントを寄せていただいていたのでした。これにはびっくりしました。
「津軽海峡冬景色」の歌碑の写真も載せた、先ほど紹介したブログです。

「ホルムズ海峡砂景色」のことを知人の方にメールしたとたん、
3年前の「津軽海峡冬景色」を書いた自分のブログへコメントが入る…。
なんというタイミング。これって、偶然…?

メールを送った相手の人がくれたコメントではありません。
僕がその人にメールを送ったのが21日の午後9時54分。
コメントがブログに投稿された時間は午後9時53分でした。
わずか1分違いでしたが、それもまた不思議な気がします。

Unknown さんがどなたなのか、まったく見当がつきませんが、
コメントの中身を読んでみますと、

「青森駅周辺にセブンイレブンはどれくらいありますか?
 青森でセブンイレブンによりましたか? 」
…という、ひっくり返りそうなコメント内容でした。

単に通りすがりの冷やかしコメントなのかなぁ、とも思いますし、
普段だったら無視するか、削除するかのどちらかですけれど、

それにしては、あまりにもタイミングが良すぎるというか、
偶然なのか、ちょっと気になったわけです。

Unknown さんは、なぜ3年前の津軽海峡のブログにコメントを、
それも、このタイミングに、しかも「セブンイレブンありますか?」
な~んて意味不明なコメント送ってこられたのか…?
青森のセブンイレブンの数なんか、知らんっちゅーねん(笑)

摩訶不思議な話である。

Unknown さん。
もし、これをお読みでしたら、何とか言ってくださいな。

 

 

 

 

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不良な人たちは荒野をめざす

2012年02月20日 | ニュース・時事

先日急死したホイットニー・ヒューストンの死因は何か…?
さまざまな憶測が飛んでいる。

薬物の過剰摂取が原因でバスタブで溺死したのでは…
と言われていたが、まだはっきりした原因はわからないという。

クセのありそうな旦那との関係や自己破産(考えられないですけどね~)や、
お酒や薬にハマっていたとか、さまざまなトラブルを抱えていたのですね。

人から夢みられる存在であっても、やはり彼女も生身の人間の一人であり、
病気やお金や人間関係の苦労から逃れられないことを、改めて知らされた。

 ………………………………………………………………………………

かつて「不良なひとたち」というふうな題名の本を読んだことがある。

古今東西の一流の芸術家には「不良」が多い、というような本だった。
具体的に、有名作家などがいかに「不良」であったかが描かれていた。
そのほとんどが酒か薬か女性におぼれる人たちであったわけだけど…。

晩年のヘミングウェイは完全なアル中でズキズキするほどの不良老人だった。
そして61歳のとき、散弾銃を口にくわえて自殺した。
北原白秋は隣家の人妻と密通し、太宰治は女にだらしないことこの上なし。
川端康成はガス管を加えて自殺。お手伝いの女性への片思いが一因だった。
ベートーベンはアルコール性肝炎で死に、ソクラテスもアル中で死んだ。
シューベルトは15歳のときから酒におぼれ、晩年は指に痺れができた。
オスカー・ワイルドはアブサンで死んだ。
モーパッサンは麻薬の常習者でゲーテはワイン中毒だった。
島崎藤村は姪と肉体関係を持って台湾に追いやり「新生」を書いた。
そして、佐藤春夫と谷崎潤一郎の夫婦交換…は有名な話である。

まあ、いくらアル中でも薬物中毒でも色狂いでも、歴史に名作を残し、
多くの人々に感動を与えてきた偉大な人たちであることには違いない。

品行方正な人より不良な人のほうが、その種の才能ははるかに上だろう。
奔放な生き方から、怪しげな魅力が生み出される…ような感じだもんね。

そんなことを物語る数々のエピソードだと思う。

ホイットニー・ヒューストンの死について考えていたら、
こんな話に飛躍してしまった。


 

 

 

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自己保存の人生

2012年02月18日 | 心と体と健康と

2月17日(金)。
この日も幼稚園にモミィを送った後、駅前の整骨院へ行った。
「おはようございま~す」
男性2人、女性1人のスタッフの人たちは、とても愛想がいい。

まず、ベッドにうつ伏せになって電気治療を受ける。
「首いきまぁす…ビリビリ。 肩いきまぁす…ビリビリ。
 背中いきまぁす…ビリビリ。 腰いきまぁす…ビリビリ」

ホカホカ、ピリピリ、気持ちが良い。眠くなる。

時間が来て電気が終わると今度はマッサージだ。
頭、首、肩から背中、腰、ふくらはぎ。
グイグイと、ものすごい力で揉んでくれる。
力のいる仕事だなぁ、と揉まれながら思う。
次は仰向けになり、頭をひっぱる。
首をグリグリ揉んでくれ、またひっぱる。
「座って、あぐらをくんでいただけますか」
そのとおりにすると、次は両手を上にひっぱる。
背中を反らせるストレッチだよね、これは。

そのあとも、足のストレッチをしてくれ、
別のベッドに移動してローラーというのを寝転びながらかけてもらい、
さらにそのあと、首の牽引をしましょうと、次々やってくれる。
最後は、女性の方が「サービスで手もみもやっていますのでどうぞ」
と、僕がソファに座ると、両手をクリームのようなものを塗り、
「手は、脳にいいそうですよ」とやさしく微笑みながら揉んでくれる。

1時間以上かけて、そういうことをしてくれるのだけど、
最後に院長先生が、「鍼をしましょう」とまた言った。
「鍼は痛いから、イヤです」と僕がはっきり言うと、
院長先生は笑って、これですよ、と壁に貼っているポスターを指した。
「パイオネックス」という、まあピップエレキバンみたいなものだけど、
でも先は鍼になっている丸い絆創膏なのである。
「0.3ミリですから、痛みは感じません。風呂も運動もOKです。
 あなたの首の痛みに、これを一度やってみましょう」

…そう言われ、5か所、「鍼」を刺された…というより、貼られた。
たしかに、痛くない。これならまあ、いいか。 

これを、2、3日張っておくのだそうだ。
風呂も運動も、OKだという。


    
    なんでも記録しておこうと、
    帰宅後、妻に撮ってもらった。

  

髪の生え際まで貼ってあるので、服を着ていても人から見える。

実はその夜、元勤めていた人に飲み会のお誘いをいただいていた。
その人たちの中にもこのブログを読んでくれている人がいるので、
久しぶりに会っても「首と肩はどうですか…」と尋ねられる。
僕は待ってましたとばかりに 「ほら、こんなんやねん」と、
首から肩にかけて5枚貼られている鍼を、ちょっと自慢げに見せた(笑)。

「えぇ? 鍼が突き刺ささったままなのですか」と後輩。
「いや。針と言っても0.3ミリなので、痛くないよ」
なんだか、この鍼の宣伝しているみたいな僕だった

  …………………………………………………………………

飲み会の前に、堺の高島屋の大きな薬局へ行った。
腰痛、首・肩こり、背中痛から膝痛まで、いろんな薬がある。
どうしても薬局でもその種のコーナーへ行ってしまう。

そこで、久美浜のおばちゃんに勧めてもらった「ロイヒつぼ膏」と、
ちひろさんに勧めていただいた「あずきの力」の2つを買った。

今やもう、僕は健康依存症になっています。
耳鳴りも相変わらず苦痛だし…。
 
なんとか、この不快な状態から抜け出したい。
健康が損なわれると、集中力が欠け、大切なこともどうでもよくなる。
首・肩が痛んでから、この数ヶ月間一日も欠かさなかった英語の勉強も、
サボったままだ。こんなことではダメだけど、そんな気持ちになれないのだ。

時々、ジョークで、健康は命よりたいせつ、ということが言われる。
健康が人生の第一目的で、ほかのことはどうでもよくなってしまう。
死んでもいいから、健康でなければ…な~んてね。
僕もその心境ですわ~(笑)。

でも、健康ということを突き詰めて考えていくと、
必ず何のための健康かという問題にぶつかってくる。
何のための健康か…、なんのための養生か…。
ここをおさえておかなければね。
(僕の場合、モミィが大きくなるまで生きなければと…)

生きること、というのは、目的を持って生きる…
そういうことですよね。

でも、生きることだけに頑張っている人もいるじゃないか。
生きているだけで、人生の目的は果たされている…。

生きる目的、…う~ん。 目的はとりあえず横に置いておこう。
とにかく自分を保存することがいちばんだ。

そんな言葉もチラチラして、
ちょっと怠け心がついているこのごろの僕です。

でも…
体調が崩れたときは、自分を保存するために生きているのだ…

そう信じて毎日を過ごす方が、今の僕にはいいのかも、と思っている。

 

 

 

 

 

 

 

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食物アレルギー

2012年02月16日 | モミィの成長日記

火曜日の午後4時半、いつものようにモミィを音楽教室に連れて行った。
教室に入り、エレクトーンの前に座ってレッスンが始まろうとしたとき。
急にモミィが顔をしかめた。え、なんだろう…?と思ったら泣き出した。
「どうしたん…?」 こんなことって、今までなかったので、びっくりした。 
「お腹、いたい」モミィはお腹を押さえて、弱々しい声を出した。

教室から連れ出してトイレに行ったが、それでもおさまらないらしく、
「いたい、お腹、いたい」と涙をポロポロこぼして泣く。 えらいこっちゃ。

廊下のソファに座らせ、家に帰るか? と聞くとこっくりとうなづいた。
僕一人で再び教室に戻り、先生に事情を説明して荷物を持って出た。
「お大事にね~」と先生やママたちの声が、背中から聞こえてきた。

そのままモミィを家に連れて帰り、あとは妻に託した。

家でもトイレに入り、下痢症状が出ていたそうだが、
そのあと妻が和室に布団を敷き、モミィを寝かせた。

僕は夕食の支度をし終えて妻が来るのを待ったが、
部屋からなかなか出てこないので、僕のほうから行ってみた。

妻は横たわっているモミィのそばで心配そうな顔で座っていた。

「身体中にジンマシンが出ているし、顔が赤く腫れているわ」
と言うのでモミィの顔を見ると、なるほど頬が赤く腫れ上がっている。

「お医者さんに連れて行かないとね」
と深刻な顔で言った。

すぐにタクシーを呼び、かかりつけの医院へ連れて行った。
幸いなことに、車の中でモミィは徐々に元気を取り戻してきた。

医院に着き、妻とモミィは診察に入り、僕は待合で待った。

しばらくして、2人が出てきた。
医院を出て、薬局へ寄って薬をもらい、帰途に着いた。

僕は「どうだった?」と妻に訊いた。
妻によると、診察室で医師が、
「何か普段と違うものを食べませんでしたか?」と尋ねたそうだ。
そこで妻は「そういえば、あれ…」と、あることに気がついたという。

3時のおやつのとき、モミィはカシューナッツを一粒口に入れた。

僕がビールのツマミに買ったカシューナッツが袋の中に残っていたので、
妻がコーヒーのアテにつまんでいたら、横からモミィが一口食べたという。

これまで、モミィはカシューナッツは一度も口にしたことがなかった。
妻は「今まで一度も食べたことのなかったナッツを食べました」
と、そのとき、医師に告げたのだった。

「典型的な食物アレルギーですね。下痢もそこから来たのかも知れません」
と、医師は慎重な口ぶりでそう言ったという。

モミィはもともとアレルギー体質で、今でも2ヵ月に1度、羽曳野市にある、
「大阪府立呼吸器・アレルギー医療センター」というところに通院している。

2~3歳くらいまでは、大豆をはじめ、さまざまな食物アレルギーがあった。
しかし、ここ数年は、モミィは何を食べても大丈夫になった…はずである。
それが、カシューナッツを食べて顔が腫れるほどのアレルギーが出たのだ。

「顔が腫れてきたときはどうなることかと思ったわ」と妻が言った。
「ぐったりと、本当にしんどそうにしていたから」とも言った。

ちょうど新聞で「アナフィラキシーショック」のことが連載されていた。
その記事を読んでいた妻は、ひょっとしてそれではないかと思ったそうだ。
「アナフィラキシーショック」というのは、食物アレルギーから湿疹が出て、
顔が腫れて、ひどいときは呼吸困難に陥るという恐ろしい疾患なのだそうだ。

でもまあ、モミィの場合、それは杞憂に終わったことは幸運だった。

その夜は遅い晩御飯になったが、モミィにあまり食欲はなかった。
でも翌日はすっかり元気になって、幼稚園へ行った。

幼稚園の先生にもナッツを食べてアレルギーが出た報告をしておいた。

それにしても、カシューナッツというのは、恐い食べ物である。
食物アレルギーについていろいろ調べてみると、カシューナッツは、
ソバと並んで最も警戒すべき食べ物のひとつだ、とも書かれていた。

食物アレルギーは、呼吸困難の症状を引き起こすことまである…と。
そんなことを、僕は初めて知った。いろいろあるんだなぁ~
今更なんだけど、子どもを育てるって、ほんと大変ですね。

あれから2日経ち、もうモミィはすっかり元に戻り、走り回っています。

やれやれ…

 

 

 


 

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京丹後 とんぼ返り

2012年02月14日 | 日常のいろいろなこと

京都府京丹後市の、亡くなった叔父のお悔やみをするため、
首・肩の痛みを抱えて日帰りで出かけたのは2月10日だった。

整骨院から帰って午前10時過ぎに、あわただしく家を出て、
バス、地下鉄を乗り継ぎ、
大阪駅に着いたのは11時過ぎだった。

大阪から城崎温泉行きの特急に乗ると、2時間半余りで豊岡に着く。
そこから北近畿タンゴ鉄道宮津線に乗り換え、15分で久美浜だ。
この日本海に面した美しい町・久美浜に、亡くなった叔父の家がある。

予定を早めて家を出たので列車の時刻はわからないままだった。
しかし、ここでスマートフォンが大いに役立ってくれた。
「乗り換え案内」というアプリをダウンロードしていたので、
大阪駅に向かう途中で、乗換えを含めた時刻が全部わかった。

城崎温泉行き特急で、大阪11時11分発というのがあった。
しかし、間に合うかどうか…

大阪駅に着いてすぐにホームへ走ったら間に合いそうだったが、
乗車券もないし、指定席券も購入しなければならない。
次の12時11分発にしようと決め、みどりの窓口に向かった。

これに乗ると、久美浜には午後3時06分に到着する。
スマホを使って、帰りの時刻も検討してみた。
久美浜5時46分発の列車に乗り、豊岡から特急に乗り換えると、
午後9時に大阪に着く。10時半までには家に帰れるだろう。

しかし、みどりの窓口へ行くと、長蛇の列をなしていた。
「なんだ、これは…?」と立ちすくんでいると、
JRの制服を着た案内係らしき若い女性が近づいてきて、
「切符のご購入でございますか?」と声をかけてきた。
「はい。でも、すごい人ですねぇ」と僕がため息をつくと、
「自動券売機が空いておりますのでご利用ください」と言う。
見ると窓口の横に、何台かタッチパネルの機械が並んでいた。
「いや、でも、操作ができるかどうか…」と僕は尻込みする。
女性は「どうぞ」と、僕の困惑顔に対して笑顔で応えながら、
「わたくしがさせていただきますので、大丈夫です」と言った。

僕はスマホに保存していた列車時刻をその女性に伝えた。
まず、大阪~久美浜の往復乗車券。次に特急券。

「12時11分発…は『こうのとり9号』ですね。豊岡まで…」
と、タッチパネルを押しながら、指定座席表を表示すると、
「あっ」と言いながら女性は顔を曇らせた。
「申し訳ございません。指定席は満席でございます」
「えぇぇ~ 満席だって? じゃ自由席か。座れるかなぁ?」
「当駅の始発ではなく、新大阪発ですので、どうでしょうか」

そ~か。新大阪で、すでに自由席が満員になってしまったら、
大阪駅でホームの先頭に立って待っても座ることができない。
今も、立っていると左の首と肩や腕が、ズキ~っと痛むのだ。
席に座って楽な姿勢をとらなければ、長時間は耐えられない。

「困ったなぁ」と思案していると、女性は、
「グリーン車になさいますか?」と言った。
おお、そうだ、グリーン車があったのだ。ちょっと高いけど…。
でもこの際、お金のことなど言っていられない。
「それ、それ。グリーン車をお願いします」
「承知しました」と彼女はまたタッチパネルをピコンと押した。
「あ~、よかった。1席だけ、空いていました」
画面を見ると、座席図が出ていたが、ほんとだ…
車両の一番前のC席(一人掛け)だけが空いていた。
ほかの席は全部埋まっていた。

帰りの列車の指定席のほうは、ガラガラだったが、
その女性のおかげで無事に往復の切符を購入することができた。

しかし金曜日の午後…
なんでこんなに乗客が多いのだ?
…その答えは、たぶん「カニ」である。
僕が乗る列車は城崎温泉行きだから、
そこで今が旬のカニを楽しもうという乗客が多いのだろう。
城崎温泉は大阪からの「カニ旅行」が人気の観光地だもんね。

で、乗客のほとんどの人たちは城崎温泉カニ旅行だろうけど、
僕のほうは、バッグに香典袋と数珠を入れたひとり旅である。

グリーン車なので座席もゆったりし、膝にかける毛布もある。
僕は車両の一番前の一人掛けの席で、お弁当をあけた。

もちろん、その横に缶ビールを置いて…

福知山を過ぎると、窓の外は一面に雪景色となった。

 

 


2時43分。ほとんど誰も降りない豊岡駅でぽつんと降車して、
同じ構内にある北近畿タンゴ鉄道宮津線の西舞鶴行きに乗り、
従兄弟が迎えに来てくれている久美浜へ、予定時刻に着いた。

亡くなった叔父というのは、僕の母の妹の旦那さんだった。
享年81歳だったが、母の妹のほうは16年前に亡くなっている。

少年時代は夏休みのたびにこの久美浜へ遊びに来ていた。

だからこの日会ったほとんど人たちとは面識があるけれど、
なにせ大昔のことである。40年~50年ほど会っていない。

「のぼるちゃんか…?」と懐かしそうに声をかけてくれる人たち。
しかし、顔を見ても誰が誰だかわからない。
名前を聞いて、はじめて、
「あ、〇〇おばさんですか…?」とか
「え…? 〇〇ちゃんか…?」という具合だ。
当り前の話だけど、み~んな歳をとったなぁ…

亡くなった叔父はきれいな顔でお棺におさまっていた。

2時間ほどいると、もう帰りの列車の時刻が迫ってきた。
お通夜が始まる1時間前にその場を辞し、久美浜駅に向かった。

周囲が雪に覆われた道を歩いていると、体が固まるような気がした。
首と肩が、みしみしと痛む。早く家に帰ってごろんと寝転びたい。

無人の久美浜駅から列車に乗ると、間もなく、日が暮れた。

でも、長い長い一日は、まだ終らない。

 


 



 


 

 

 

 

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いざ整骨院へ

2012年02月12日 | 心と体と健康と

1月24日のブログで「四十肩五十肩そして…」という記事を書いたときは、
まさか首・肩の痛みがここまでひどくなるとは想像もできないことだった。
いま書いたものを読み返してみると、ずいぶん楽観的だったなぁ、と思う。
万事にいい加減な自分の性格が、こんなところにも現れているんですね。

1月25日から整形外科へ通い、痛み止め注射を毎日打ってもらったが、
激痛こそある程度やわらいだものの、それ以上は良くならなかった。
2月6日を最後に整形外科に通うのはやめた。
両腕の血管部分に、注射針を刺した跡が、どす黒いアザになっていた。
効き目があるならまだ我慢もできようが、こんな注射はもうイヤや~。

そして…
たまごさんが勧めてくださった整骨院へ行ったのが、3日前の9日だった。

なじみの整骨院などなかったので、駅前の、適当な整骨院を訪れた。
そして、首と肩、さらにそれに関係してか腰も少し痛むことを伝えた。
先生はそれを聞いたあと、あちらこちらを押さえて体の「点検」した。
むろん、僕のほうも整形外科でレントゲン検査をしたことも報告した。

先月22日の朝、寝違えたみたいで、それから痛みがひどくなった…
そう伝えると「寝違えたとき、お風呂とかで身体を温めましたか?」
と質問された。「いいえ、別に…」と答えると、「そうですか…」と、
先生は一呼吸置いたあと「温めるとむしろ悪化しますからね」
と、意外なことを言われた。
痛みが出ると風呂で温める人が多いけれど、それが治りを遅くするそうだ。
「症状が出た直後は、冷やした方がいいのです。温めるのはいけません」
ただしそれは痛みの症状が出た時の話であり、症状が落ち着いたら温める。
でも、僕は、発症直後に患部を温めることなどしていない。
しかし…思い当たることはあった。

痛みが出てから2日ほど経つと、比較的調子が良くなってきたので、
モミィを幼稚園に送ってから、リュックを背負ってウオーキングに出た。
帰り道に大きなスーパーがあったので、ついでに食料品を買って帰った。
しかしモノを多く買い過ぎたようで、リュックがパンパンに重くなった。
それでも、背中に担ぐとなんとかいけたので、そのまま歩いて帰った。

激しい痛みが出たのは、その翌日だった。

整骨院の先生にそのことを言うと、先生は「なるほど」とうなづき、
「汗もかかれたはずだし、体がずいぶん温まったのでしょうね。
 しかも肩に負担をかけたので、痛みがこじれたのでしょう」
まあ、そういうことを言われたのである。

ベッドにうつぶせて、まず電気治療をしてもらったあと、
痛む首・肩部分を中心に、腕の先から足の裏までマッサージ。
それが終ると今度は全身にマッサージ器を当てる。
次にベッドに仰向き、頭、首をぐ~っと引っ張ったり押さえたり。
整形外科に比べると、はるかに、やってくれることが入念である。
最後にベッドに座って、首を後ろへそらす。
これをやると、首と肩の奥が強烈に痛むのだ。
(だからペットボトルの中身を仰向いて飲み干すことができない)
「どうですか?」と先生。
「い、痛い~です」と僕。
すると先生は「う~ん、じゃぁ、鍼を打つか」とひとりつぶやき、
いまだ経験したことのない鍼を、あっという間に打たれてしまったのだ。
どんな鍼を打っているのか見えないけれど、首や肩が、チクチクしたり、
ズンズンしたり、グゥ~っとさし込むように痛んだり…不気味であった。
「これが鍼というものなのか…」
鍼など予想もしなかったので、考えるいとまもなく打たれてしまった。
「鍼を打ちましょうか?」と聞かれたら、きっと断っていたはずなのに。

ずいぶん長い時間、身体にいろいろなことをしてもらった。
首・肩の痛みは変わらなかったが、腰がやや軽くなった気がする。

鍼の不意打ちを浴びたものの、先生はよさそうな人だし、
ここならまずまず信頼できそうであった。

まだ、じっとしていても、首と肩の周辺が痛む。
でも寝ると、寝返りを打たない限り、痛まないのでありがたい。
辛いのは自転車に乗っている時で、どんな動作をしても痛む。

 ………………………………………………………………………………

整骨院から帰ってきたら、京都府・京丹後市に住む従兄弟から電話があった。
従兄弟の父、つまり僕の叔父さん(義理の…だけど)が亡くなったとの連絡だ。

明日(10日)がお通夜で、明後日が告別式だという。
「遠くだから、連絡しようかどうか迷いましたけど…」と、
10歳近く年下の従兄弟は、申し訳なさそうに言った。

京丹後市は、豊岡や城崎温泉の近くで、日本海に面したところだ。
僕も、少年時代、夏休みになれば、ここへ遊びに行ったものである。
最近は交流がないけれど、それでも血を分けた従兄弟からの電話だ。

「いや、連絡してくれてありがとう」僕はちょっと考えてから、
「明日の夕方にそちらに着くようにするから」と言って電話を切った。

翌日の10日、モミィを幼稚園へ送った後、整骨院へ行った。
昨日と同じように、入念にマッサージなどをしてもらい、
また、首を後ろにそらすように言われ、そうするとやはり痛い。
(この痛みはそう簡単に取れそうにもない)。

「鍼をしますわ」と、また先生は僕の背後から鍼を突き刺した。
そのあと「どうですか?」と聞かれ、首をそらしたがやはり痛い。
「う~ん。治るまで時間がかかるかも知れませんね~」と先生。
もとより、長期戦になることは覚悟の上だ。
「明日(11日)は祭日ですけど、日祭日も午後だけやっていますので、
 もしよろしければどうぞ。無理せずに、患部は安静にしてください」

整骨院から帰ったら、昼食をとってから京丹後市に行く予定だった。
場所は久美浜というところで、わが家を出て列車を乗り継ぎ、
久美浜駅に着くまで、待ち時間を入れておよそ5時間かかる。
6時半からのお通夜に間に合えばいい。
そして、告別式は翌11日の10時からなので、午後の列車に乗れば、
その日の夕方には大阪に帰って来られるだろう…と考えていた。

でも、このあたりは日本海側なので、連日、ものすごい雪だそうである。
寒いだろうなぁ。首と肩が痛むのが、なんだかずいぶん気になり始めた。
旅先で激痛が襲ってきたらどうする?

お通夜から告別式が終るまで、ひょっとしたらずっと眠れないのではないか。
ほとんど何十年ぶりかに会う人たちばかりの間で、のんきに寝られるだろうか…。

痛む首・肩をごまかしながら、一晩を座ったまま過ごせるのだろうか。
翌日夕方に自宅へ着くまで小康状態が保てるという保障はどこにもない。

う~ん。やむを得ない。
今すぐ出発して、午後に到着し、挨拶とお悔やみだけさせてもらい、
お通夜が始まる前に式場を辞して、今日中に帰ってくることにしよう。
現地で、夜中に痛みが激しくなったりしたらかえって周囲に迷惑をかける。

整骨院から帰ったら、妻に、「今すぐ出るわ。今日中に帰ってくるから」
と言い、用意していた礼服を置いて普通の服装で家を出たのである。

…また、続きは次回に書きます。

★これまでパソコンを打っていると徐々に左肩がだるくなってきたのですが、
ペタンと座椅子に座り、モミィの小さく低いテーブルにパソコンを置いて打つと、
パソコンの位置が高くなり、首がまっすぐになって腕も肩と同じ位置となり、
頭ごと座椅子にもたれて打てるので、痛みを感じず、すごく楽になりました。
「ラクしてパソコンが打てる」という一大発見をして喜んでいるところです。

 

 

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窮余の一策

2012年02月09日 | 心と体と健康と

肩と首の痛みはなかなかとれない。

8日の火曜日、モミィのエレクトーン教室があった。
モミィのいる幼児教室は8~9人の生徒がいる。

3月末にホールを借りてコンサートを開くというので、
演奏曲をそれぞれ4つのパートにわけて譜面を与えられ、
各自で練習をしてきたが、その日は初めて合わせる練習をした。

モミィのパートでは、伴奏の時、エレクトーンのペダルを踏むところがある。
教室のエレクトーンにはむろんペダルもついているのだが、
モミィはまだ小さいので、足がペダルに届かない。
そういう子がほかにも何人かいて、ちょうどカバーをかぶせるような形の、
ペダルの補助器具があって、それを倉庫から運んできてペダルにはめ込むのだ。

しかし、たまたまモミィの前にあったエレクトーンは小型のものだったので、
補助器具の高さを調節するネジを外してからはめ込まなければならなかった。
これが思った以上に骨の折れる作業であった。特に首と肩の痛い僕には…。

慣れたママさんたちに手伝ってもらって、しゃがみこんで6本のネジを外した。
そして、不自然な格好でエレクトーンの下にもぐり、補助ペダルをはめ込んだ。

その一連の動作をしていると、左の首と肩が、たまらなく痛んだ。
でも人前で、いててて~とも言えないので我慢して作業を終えた。

そのあと、1時間、先生の指導でエレクトーンの練習が進められたが、
もたれるところもない丸い椅子に座って、僕は必死で痛みをこらえていた。
どんな姿勢で座っていても、左の首と肩は痛み、左腕も重く、そして痛い。
家の中なら身体を動かしたり、痛くない姿勢を探ったりできるのだが…。
音楽教室の中で過ごした苦痛の1時間であった。
終ってから補助器具のネジを元通りにするのも一苦労だった。

モミィを乗せて帰る時の自転車では、ハンドルを支える左肩がズキズキした。
行くときとは比べ物にならないくらい、痛みはひどくなっていた。
家に帰ると痛みはいよいよ高じ、食事も口に入れる気にならない。
両手を上げたり、肩をまわしてみたり、身体をひねってみたりと、
いろいろなポーズをとったり体操をしたりしても痛みは消えない。
さらに、何か体の内部にも異状があるように気分まで悪くなってきた。

今夜一晩、無事に過ごせるのか…
…と不安を感じながら、左の上腕部を揉んだ。
無意識にしていたのだろう。その部分も筋肉が凝っていて揉むとよく効いた。
「あれ…?」
そのとき、少し首・肩の痛みが弱まったように感じた。
僕は右手でさらに左上腕部を強く揉んだ。
腕が痛くなるほど揉むと、確かに今までの痛みがゆるんだ。
同じ左腕の、肘から下の部分もグリグリと揉んでみた。
痛みがさらに弱まった感じがした。
グリグリ、グリグリ。

そのうち、「首が大事」ということを思い出し、本棚から、
以前買った体のツボに関する本を出してきて、首のツボの部分を調べた。
いくつかあったが、左側の首の付け根あたりを思い切り指で押してみた。
ツーンと心地よい痛みがやってくる。もっときつくそこを押す。ツーン!
痛いのをがまんして押していると、首・肩の痛みが本当になくなってきた。
押すのをやめても、あの痛みが半分以上も消えている。

やっと、あの耐え難い痛みから解放された。

まだ痛みはあるけれど、食事もして、家族と話ができる余裕も戻った。
「どうしたん? どうしたん?」と横でモミィが話しかけてきたのが、
さっきまではうっとうしかったが、もう普通の受け答えができる。

窮余の一策、とはよく言ったもので、それからというもの、
思い出すたびに首のツボを押し、痛みをまぎらわすことに成功した。
ま、その場しのぎだけれど、それを知っただけでも大きな前進だったと思う。

今日も朝から、首のツボ押しや肩や腕のモミモミを忘れずにやっている。
ぐるぐる首を回しても、昨日の夕方ほどの激しい痛みは感じなくなった。
あぁ、奇跡のようだ。神様仏様たまご様、ありがとうございました。

とりあえずピンチは脱した…
と思うけれど、油断するとまた戻るというのがこの種の痛みだから、
たまごさんがおっしゃったように、メンテナンスをお忘れなく…

…と自分自身に言い聞かせています。

整骨院を探して、今日からでも通おうと思っています。

ところで、この数日、首・肩などの痛みに気を奪われて、
耳鳴りのことをすっかり忘れていました。

まあ、そういうものなんでしょうね~

 

 

 

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せっかく年をとるのだから…

2012年02月06日 | 日常のいろいろなこと

  

    

   NHK大河ドラマ「平清盛」で璋子を演じる檀れい。

 

去年の夏、平安王朝を舞台にした渡辺淳一の小説が刊行された。
「天上紅蓮(ぐれん)」という題名の長編小説である。

平安中期の頃、権力の絶頂にあった白河法皇と、
藤原璋子(たまこ。後の待賢門院)の愛を描いた物語である。

…と、こう書けばいかにも読んだみたいだけれど、まだ読んでいない。
あの頃、渡辺淳一の「孤舟」という小説にハマったばかりだったので、
同じ著者だからいつか読もうと思って、新聞の書評を切り抜いたまま…
だから、この小説は、あらすじ以外の詳しいことは知らない。

読んでもしないこの本を取り上げたのは、今の大河ドラマの影響である。

というのも、大河ドラマ「平清盛」では、藤原璋子の役を、
僕の好きな女優さんである檀れいが演じているからである。
そうか、あの「天上紅蓮」の璋子なのか、と最近になって気がついた。

で、「八日目の蝉」や「美しい隣人」で檀れいの大ファンになった僕としては、
この大河ドラマを見ていても、どうしても璋子のことが気になるのである。

小説「天上紅蓮」の方は、白河法皇と璋子の性愛がテーマだ(…そうである)。

白河法皇という人物は、19歳に天皇に即位し、33歳で譲位して上皇となり、
初めて院政を開き、さらにそののち、出家して法皇になる。

譲位のあとも、堀河、鳥羽、崇徳の3代43年にわたって実権をにぎった…
…というから、天皇の時代と合わせて60年近くも権力の座にいたわけだ。

その白河法皇と璋子の関係は、もちろん夫婦ではない。
「天上紅蓮」の中で法皇と璋子が最初に関係を結ぶのは、
なんとまぁ、2人がそれぞれ62歳と14歳のときであった。

…げげぇ~っ。 歳の差が、48歳! 
加藤茶も顔負けの年齢差である。
う~ん。 まことに、どひゃ~んな話ではないか。

法皇は璋子を皇后にするため、自分の孫である鳥羽天皇に璋子を嫁がせる。
そしてその上でさらに関係を続け、法皇は璋子に自分の子まで産ませるのだ。
そんな関係は、白河法皇が77歳で亡くなるまで続いた…ということである。

ふうぅぅ~(ためいき)。
もう、何も言うことはおまへんわ。

昨日放映された「平清盛」でも、檀れいの「璋子」が、夫の鳥羽上皇に、
夫の祖父である白河法皇と自分との関係を明かす場面があったなぁ。

檀れいもずいぶん難しい役どころを演じているものだと思うけれど
ブログ友だちで歴史やドラマにも詳しいちひろさんが、ご自身のブログで、
この檀れいの璋子(待賢門院)のことに触れ、
「道徳観とか倫理観がどっかにぶっ飛んでる綺麗なお人形みたいな感じ」
と実にうまく表現されていたので大いに感服し、共感をおぼえたものである。

あぁ、しかし白河法皇も、48歳も年下の女性となぁ…
なんだか、すさまじい執念のようなものを感じてしまいますわ。

78歳になる渡辺淳一先生は、この小説の意図をこう語っている。

「男が女を、女が男を追いかける気持ちは、いやらしいものではなく、
 生きる情熱の源だと信じている。老いのわびしさばかりを描くのではなく、
 生きていく喜び、愛する喜びを伝え、高齢者に元気が出る小説を書きたい」

いやぁ、それはけっこうな話ですよね~ たのんまっせ~渡辺先生。

それにしても、何度も繰り返して恐縮ですが…
48歳差の愛…とはねぇ。 

「自分のことを振り返っても、62歳は燃えさかっている」
と、渡辺先生は続ける。
「70を超えても、女性への好奇心は尽きない。
 人間は意外と変わらないものだというのは、
 年をとって初めて分かる」

そして、
「せっかく年をとるのだから、わくわくしないともったいない」

…ということだそうです。

そ~か。
今週あたり、檀れいのような女性が、ひょいと目の前に現れるかもしれない。

わくわく。

でもなぁ…
その前に整骨院へ行って、
老化現象(?)で痛む首と肩と腰を
治療してもらわなければ…

 

 

 

 

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整形外科やら整骨院やら

2012年02月04日 | 心と体と健康と

左の首が痛い。左の肩が痛い。腰が痛い。特に首と肩…。
先週の水曜日の朝が、特にひどかった。

朝起きるときの痛さもさることながら、
顔を洗おうと両手で石鹸を泡立て、その手を顔にあて…
顔をゴシっと始めたとたんに、左首肩に激痛が走った。
いててて…と思わずしゃがみこんだ。
仕方ないので両手をじっと顔に当て、顔の方を上下に動かす。
他人が見たら、絶対に吹き出してしまいそうなポーズである。

ドライヤーを当てるのも一苦労だった。
右手を上げると左首肩が鋭く痛み、左手も角度によっては痛む。
うぅぅ~、髪をセットするだけなのに断末魔の苦しみを味わう。
洗濯物を干すのにも、歯を食いしばらなければならなかった。

整形外科へ行き、先生に症状を訴えた。
「どのあたりが痛みますか?」
そう問われてみると、左の首から肩にかけて…としか言えない。

「ここですか? ここ? それともこのあたり?」と、
先生があちこち押さえるのだが「あの痛み」は感じない。
腕や首を動かすと「その部分」が激しく痛むのだけど、
痛いのは首から肩にかけての身体の奥のほうなので、
どの部分が痛い?と指で押されても、よくわからないのだ。

とほほ。

最初の日は首・肩のレントゲンを撮ってもらい、
次の日は腰のレントゲンを撮ってもらった。

首・肩も、腰も、特に目立った症状は認められず、
先生の説明によると、頚椎も腰の骨も、
骨と骨の「すきま」が狭まってきているとか、
軟骨がすり減っているとかの話ばかりで、
要するに加齢による骨のポンコツ化が進んでいる…
ということなのかなぁ? …と思うよりほかなかった。

何よりもまず、この痛みを緩和してもらわなければならない。
痛み止めの薬がほしい…。 

しかしそれには問題があった。
僕は血液サラサラにする薬のワーファリンや、痛風の薬、
そして不整脈を抑える薬、さらに安定剤のデパスなど、
いろいろな薬を服用しているので、それを先生に伝えると、
「だったら痛み止めの薬は飲まないほうがいいですね」と言った。
それらと一緒に飲むと悪い作用が出るかもしれない、ということだ。

そして先生は「注射は嫌いですか?」と僕に聞いた。
「はぁ…?」
注射の好きな人って、おるんかいな?
特に僕は怖がりで、痛がりで、注射は大嫌いなんだ。
でもそんなことは言っていられない。
「い~え。痛みが止まるなら注射だってナンだって」
と答えたことは言うまでもない。

注射は「ノイロトロビン注射液、生理食塩液」の静脈注射だ。
痛いんだなぁ、これが。

そのあと、首・肩と腰に低周波をかけてもらう。
まわりはお年寄りばかりである(自分も年寄りのくせして)。

…そんなことで、初めて医者へ行った先月の25日以来、
休診の日曜日を除く毎日、注射と低周波の治療を受けた。
注射は血管に突き刺すので、やがて両腕はアザになった。

朝8時25分にモミィを連れて家を出て、幼稚園へ送った後、
その足で駅前まで歩いて行き、9時過ぎに医院に着く。
そして治療を受ける…という日課だった。

腰の痛みは「通常の違和感」程度にゆるみ、
左の首・肩はまだだるく、痛みはしつこく残っているが、
一時のように首も回らず、右手も上げられず、という状態からは脱して、
なんとか痛みをごまかしながら日常生活を続けられるところまで回復した。

今日はもう医院へは行かない。
コメントをくださった「たまごさん」に整骨院を勧めていただいたので、
来週からは、医院の注射と低周波の治療回数は減らし、
良さそうな整骨院を探して通おうかと思っている。

一昨日、整形外科からの帰途、そんなことを考えながら、
整骨院があると、ちょっと玄関を覗いたりもしてみた。

それにしても、こう意識してみると、整骨院って沢山あるなぁ。

これまで整骨院にはあまり縁がなかったので、一から探すのだけど、
これだけあちらこちらにあると、どこがいいんだか、さっぱりわからない。

テクテク歩いていると、こんな看板が目に付いた。




  


う~ん。
ちょっと、もろた整骨…なんて、
なんだか、骨がもろくなりそうな、そんな気がしたりするなぁ。

さらに駅前に近いところを歩いていると…

なんと、手抜き療法…という看板が目に飛び込んできた。

て、て、手抜き療法…????  どんな療法や!

よ~く見ると、



  

  
手技療法、だった。 あはは。
  
でも、手わざ療法、ということだけど、この字を読むと、
なんとなく、手抜、と読んでしまうではないか。

チラッと見る看板なんだからね~。
「手わざ」とか書いた方がわかりやすいのでは…
と、老婆心ながら思う。

まあ、どうでもいいことですけど。

また来週、ほかの整骨院を探してみま~す。


               (写真は、いずれも2月2日、スマホで撮影したものです)

 

 

 

 

 

 

 

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