僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

 花のパリ

2008年04月21日 | 旅行

4月9日に、大阪城のそばにあるKKRホテルという場所で会合があった。
大阪府下各市の、僕と同じ部署にいる人たちが参加する新年度の会合であった。
4月の人事異動で多くの顔ぶれが変わり、その人たちと名刺交換をした。

そのとき一人の男性が、名刺を交換した際に、僕を見て、
「やぁ、あなた、やっぱりあのときの!」と、場ちがいな大声を出した。
「へぇ…? あのとき、と言いますと…?」と、僕は、その人の顔をじっと見つめて必死で頭の中の記憶を検索した。…でも、思い出せない。
「私ですよ。覚えていませんか? 海外研修で一緒だった○○市のTです」
そう言われてみて、はじめてわかった。
「ああ、あの海外研修の時のTさん! そうでしたね~、一緒でしたね」

あの海外研修…。
関西空港が開港したばかりの94年(平成6年)、僕は、大阪府下の自治体職員たちの合同ヨーロッパ研修に参加した。宝くじの収益で運営される大阪府市町村振興協会というところが主催する毎年恒例の行事で、大阪府下の市町村から1名ずつ、合計50人近い団体で実施される研修旅行であった。

それが僕にとっての初めてのヨーロッパ旅行で、オランダ、オーストリア、スイス、フランスの4カ国を訪問した。いろんな市役所へ行ったり、施設を見学したり、現地の大使館職員の講演を聞いたり、その合間にグループ単位で独自研修をしたりと、慌しく過ぎた2週間だった。

そのとき一緒に参加したのが、今の○○市のTさんだったのである。

「いやぁ~、なつかしいですねぇ」
Tさんとは、14年ぶりに再会したわけである。
会合が始まるまで、その場で立ったまま当時の思い出話に花を咲かせた。

旅というものは、行って帰ってハイ終わり…ではないな~と、つくづく思う。
旅が終わったあとも、それが縁でさまざまな人々との交流が始まり、予想もしない多彩な展開をたどって行く。それがまた、人生に芳醇な香りを添える。

その時のTさんと交わした会話で、すっかり忘れていたような出来事も思い出したりして、14年前の旅の記憶がまざまざとよみがえってきた。それと同時に、お互い歳は取ったけれど、Tさんとは、旅行期間中のわずか2週間だけの付き合いで、しかもその後14年間のブランクがあったのに、それが嘘のような懐かしさを覚え、まるで何十年来の知己のように思えてきたりしたのである。(Tさんとはその後10日間ほどで、一緒に飲んだり、電話で仕事に関する相談をし合ったりしている)

その研修以来、僕は完全にヨーロッパに魅せられてしまった。
中でも、特に印象が鮮やかだったのが、最後に訪れたパリだった。
それまでのどの街も素晴らしかったが、パリの魅力には及ばなかった。
セーヌ川やエッフェル塔や凱旋門を見ただけで、ブルブルっと震えた。
しかし、あくまでも団体の研修旅行だったので、何かと制約が多かった。
行きたいところにも勝手に行けない。どうしても行きたければ、時間を決めて、班長に許可を得なければならない。まあ、研修会という性質上、それも仕方のないことだったけど。

「よ~し。来年にはゼッタイ自分でパリに来るぞ」そう心に決めた。
そして翌年の秋、休暇をもらって妻と2人でパリへ出かけたのだ。
現地にはいっさい係員がつかない、まったくの個人旅行だった。

夜にホテルに着いたので、実質のパリ探訪は、翌日が第一日目であった。
当時の記録を読み返すと、その第一日目には、地下鉄の回数券を買ってあちらこちらと巡っているのがわかる。日が暮れて、エッフェル塔の夜景を見ようと、地図を確かめ、地下鉄に乗ってトロカデロという駅まで行った。エッフェル塔の手前、シャイヨ宮の庭の大噴水が、ザザッ~っと華やかに、ライトアップされた夜空に舞い上がった。これはもうびっくりするほどの華麗なる光景であった。
「うわ~、すごい。写真を撮ろう!」
と大急ぎでカメラを出すと、なんとフィルムが無くなっていた。
こんちくしょう、と思いながら、慌ててフィルムを入れ替え、さあ撮ろうと構えたら、チョロチョロ~ンと水の勢いが弱くなり、やがてピタリと噴水は止まった。
あぁ…。

そんななつかしい思い出に浸りながら、自分の書いた記録を読んだ。
そして、そのエッフェル塔の夜景を見たトロカデロという場所を、今またパリの地下鉄路線図を広げて、確かめていたときのことである。

その駅のすぐ隣に「ボワシエール」という名の駅があった。

ボワシエール…。

知る人ぞ知る。ブログ仲間のボワシエールさんが住んでおられたところである。
パリで3年間生活しておられたボワシエールさんは、ブログ仲間ならよくご承知のように、去年7月にパリでBebeちゃんを出産され、9月にご家族で帰国されて、現在ママとして子育ての大奮戦中である。

僕が初めてブログを始めたのが2005年の夏だったけれど、そのときに「外国語」か何かをテーマにしたブログを書いたとき、検索でたまたまボワシエールさんのブログを見つけ、コメントを送らせていただいたのがきっかけだった。

当時は「BOISSIERE 20」というお名前で、僕のところにもコメントのお返事をいただいた。ブログを始めてまだ日の浅かった僕は、こうして、居ながらにして外国に住む方と知り合いになれたことに感激し、ネットやブログというものの持つ威力に、ホントにすごいなぁ~、と大いに感心したのであった。

  ………………………………………………………………………

長い長い前置きになってしまいましたが…。

今週後半から、その、大好きだったパリへ行きます。
過去3度行きましたが、もう9年ほど行っていません。

ボワシエールさんにお伝えしたら、おいしいお店を紹介していただきました。
あまり高級なフランス料理店というのは、マナーもよくわからないし、金額もずいぶん高そうなので、気軽に入れるようなお店のほうがいいです…とお願いしましたら、2回にわたってご自分のブログにいろいろと書いてくださったのです。
方向音痴の僕のことですから、教えてもらった場所がうまく探し当てられるかどうかわかりませんけど、そのボワシエールさんの2回分の記事を印刷して、ガイドブックにはさみ、該当場所近辺には地図に印をつけました。

また、レストランやカフェにおけるパリの「流儀」も懇切丁寧に教えてもらいました。無我夢中で歩いた昔のパリ旅行では、行き当たりばったりで、習慣の違いがわからないことから何度も失敗したことを覚えています。今回は、おかげで少しマシな旅行ができるのではないかと期待しています。

10数年前の旅行の時には、後にボワシエールさんが住むことになる場所のすぐ近くまで行っていたり、また今回の旅行に当たっては、ブログ仲間として、ご親切に詳しいパリ情報を教えていただいたりと、こういう“ 縁 ”というものに不思議さを感じます。

先日の会合でのTさんとの思いがけない再会もそうでしたが、本当に旅というものは、それをきっかけに、後々になっても、あらゆる形で人と人との交流につながってくるものだなぁという思いを、いっそう強くしたものでした。

ボワシエールさんに書いていただいたパリ案内です。

         

   パリのレストラン案内その1 

   パリのレストラン案内その2 


 

           しばらくブログは休みます。

           ではまた5月の連休明けに

 

 

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 てんつるしゃん

2008年04月19日 | 雑記

本日のタイトルは、「ちりとてちん」ではありません。
「てんつるしゃん」ですのでお間違いなく。

大学生のとき、「邦楽研究会」というクラブに入っていたことがある。
そこで、尺八を習った。あの、時代劇で虚無僧が吹いている尺八である。

今はホラを吹くが、昔は尺八を吹いていたのだ。(なにを言わすねん!)

尺八は、唇を剃刀のように薄くしてヒューっと吹かなければ、音が出ない。
なかなか、最初は難しいけれど、音が出始めると面白いものである。

西洋音楽は七音階で日本音楽は五音階だと、むかし学校で習ったことがある。
具体的に言うと、尺八は「ドレミファ…」ではなく「ハチレツロ」で表す。
たとえば、尺八の音階で宮城道雄の「春の海」をあらわしてみると、

 ♪ ハロー ツーロハチー レチー というふうになる。

さて、その「邦楽研究会」には、尺八の部とお琴の部があった。
男子学生は尺八で女子学生はお琴、というふうに分かれていた。
別に、そう決められていたわけでもなかったが、まあ自然な形だった。
そして練習は、尺八の部とお琴の部で、いつもいっしょにした。

あるとき。
僕が尺八の練習の合間に、となりのお琴の先生(女の人です)に冗談で、
「僕にも、お琴、教えてください」
といったら、その先生は
「ほんと? いっぺん弾いてみる?」と本気で言った。
それがきっかけで、僕はお琴まで習い始めた。

お琴のほうは、大学のクラブではなく、先生が一般のお弟子さんを教えている会に入会して、そちらで習うことになった。

母に「琴を買うから、お金出してや」と言うと
「あんた、女みたいなもん習うねんなぁ」と不思議な顔をされた。


   当時の写真を引っ張り出してきました。
                   

  


  

 
2枚とも、演奏会での写真です。
1枚目は、お琴の後ろで尺八を吹いています。右側が僕です。
右端で黒い着物を着ているのが、僕のお琴の先生だった人です。
2枚目は、右隅の方で小さく写っているのが僕で、お琴を弾いています。

モノクロのなつかしい写真です。
僕もこの時は19歳でした(そんな時代があったんや!)。

ところで…。

NHKの「ちりとてちん」は、三味線の音をあらわしたものだった。

お琴の場合は、「てんつるしゃん」とか「ちんとんしゃん」とか言う。

お琴と尺八の合奏の練習のとき、先生が、みんなに、
「いいですか、いきますよ~。はいっ、てんつるしゃん!」
とオーケストラの指揮者のように音頭を取りながら指導していく。
だんだんノッてくると、
「てんつるしゃん てんつるてんつる てんてんつるつる つるてんしゃん」
と、声も大きくなり、テンポもだんだん速くなってくる。

一度、こんなことがあった。

お琴の人たちと尺八の人たちが合同で練習していたとき。
前に5人ほどのお琴の女性たちがいて、後ろに尺八のおじさんが2人。
そのおじさんの一人は、ピカピカの禿げ頭だった。

女の先生が、
「いいですか、いきますよ~。はいっ、てんつるしゃん!」
と威勢のいい掛け声で練習は始まった。
そのうち、
「てんつるてんつる、てんてんつるつる」
と、先生も熱を帯びてきた。
「てんてんつるつる つるてんつるてん ハイッ つるてんつるてん」

「つるてん つるてん つるつるてんてん つるてん つるてん…」

先生の掛け声はますます大きくなってきたそのとき、
尺八を吹いていた禿げ頭のおじさんが、急に吹くのをやめ、

「センセイ、ええ加減にしなはれ」と声を上げた。

みんな、演奏をやめておじさんのほうを見た。
先生も「はぁ?」と、口をあけたまま。
その場が、シーンと、異様に静まった。

「…なんでんねん。さっきから黙って聞いてたら、つるてんつるてん…て、ワシの頭のことを言われてるみたいでんがな! ワシの頭がつるてんピカピカで、えらい悪ぅおましたな!」

おじさんは涙を浮かべんばかりに抗議し、そのまま帰ってしまったのである。

…いかがですか? 
このお話は、ホラではありません。
すべて事実であることを、つるてん大明神さまに誓います。

では、おあとがよろしいようで。 てんつるしゃん!

 

 

 

 

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 睡眠薬をもらったけど…

2008年04月17日 | 心と体と健康と

大手前病院で耳鳴りのTRT療法を始めたのが1月23日だった。
それまでは、その病院の耳鼻科で診察を受けていた。
しかしTRTを始める前から数えて3ヶ月間ほど診察を受けていない。
まあ診察といっても、聴力検査をするぐらいで他に大したことはしていないけど。

診察を受けたら、抗不安剤のデパスを6週間分もらえる。
デパスは、やはり、今の僕にはなくてはならない薬なのだ。
耳鳴りの苦痛に少し慣れたといっても、まだ体に微妙な影響を与えている。
朝、デパスを飲むと、なんとなく気分が落ち着く。
夜も、寝る前に飲むと、副交感神経が働くということで、安らげる。
この薬をずっともらうためには、たまには診察も受けなくてはならない。

3月に一度、薬だけもらった。
「次は診察を受けてくださいね」と、そのときに受付の人に言われた。
その薬が、そろそろなくなりかけている。
次回のTRTは6月初旬なので、まだずいぶん先のことだ。薬をもらうためにも診察に行かなければなぁ…、と思っていたが、仕事が忙しくてなかなか半日休暇もとれずにいた。で、昨日の16日に、やっと午前中に仕事に余裕が出来たので、大手前病院に行った。

病院に行った目的は、デパスのほかに、もうひとつあった。
別の薬をもらおうという下心があったのだ。

実は、1週間ほど前から、睡眠障害のような症状が出ていた。
寝る前にデパスを飲むおかげか、寝つきは悪くないのだけど、3時間ほど経つと目が覚め、そこから眠れない。たとえば11時に寝ると、2時ごろに目が覚める。そこから、ず~~~っと、眠れない。4時、5時まで、寝ているのか起きているのかわからないような状態が続いて、仕方なく、その頃には起きてしまう。これが辛い。日中に眠くなる。仕事中に、睡魔が襲う。あくびが出る。我ながら情けない。

昔から僕は、眠りが浅いほうだったけれど、このごろそれがちょっとひどいので、睡眠薬のようなものをもらえたらなぁ、と思い始めたのだ。
まあ「睡眠薬」といえば、なんとなく抵抗がありますよね。
中毒になったりしないか…という心配もあるし…。
でも、先週、ある友達の話を聞いて、その抵抗はなくなった。

その友達は、スキーなんぞに行くとき、夜行バスに乗るのだが、そのときにぐっすり眠りたいからということで、かかりつけの医者に、
「旅行に行くので睡眠薬くれますか?」
と言ったら、すぐにくれたそうなのだ。
「え…? 睡眠薬って、そんな簡単にくれるの?」と僕が聞くと
「旅行に行ったら寝られへんからちょーだい、と言ったら、すぐにくれたで」
そんな答えが帰ってきた。

そして友達は、夜行バスに乗って、それを飲むと、ぐっすり眠れて、目覚めもすっきりして朝は軽快な気分だった、と言っていた。別に中毒になっている様子もない。すんご~~~~い。
「へぇ…。それなら僕ももらおう」
そういう魂胆も秘めながら、今回、大手前病院の耳鼻科へ行ったのである。

診察室から名前を呼ばれて、ひさしぶりに医師と会う。
「今日はどうしましたか? 何か変わったことでも…?」と医師。
「いえ。どうもしませんけど…。薬も無くなりましたし…」と僕。
「は…? 薬は、デパス、でしたね…?」と、医師。
「はい。デパスです。飲んだら、落ち着きますから…」
「はぁ、なるほど。それ以外で、何か変わったことはありませんか…?」
「いえ。あの~。TRT療法をやってますけど…」
「それはわかってます。え~っと…。そのTRTはどうですか?」
「順調だと、検査技師さんがおっしゃってます」
「検査技師さんが…ねぇ。あなたとしては、どうなんですか?」
「はぁ。僕も、最近は耳鳴りに、少しだけ慣れてきたような…」
「あぁ、そうですか。なるほど。では、順調ですね」
「まあ、順調だと思います。でも…」
「でも…、なんですか?」
「このごろ、夜中に目が覚めるのです。寝つきはいいんですけど、目が覚めて…」
「ふむ。ふむ。…で?」
「目が覚めたあと、眠れないので困っています。何か薬をほしいのです」
思い切って言ってみた。すると、医師は、
「それは…途中覚醒、ということですね。…うむ」
と、少し渋るような表情を見せた。
「はぁ…?」
「つまり、寝つきはいいんだけど、途中で目が覚めてそれから眠れない…」
「そうです。今、そう言いましたけど…」
「う~ん。ふつう、睡眠薬というのは寝つきをよくする薬ですからねぇ…」
「寝つきはいいのです。本を読んでも、2ページくらい読んだらすぐ寝ます」
「はぁ…なるほど。寝つきはいいのですよね…。でも、途中覚醒なんだ」
「そうです。いったん目が覚めると、もう寝られないのです」
「う~ん。ま、とりあえず、聴力検査をしてください。薬のことはその後で…」

聴力検査の結果はいつもと同じだった。
左耳の高音部が聴こえない…ということ。
左耳は耳鳴りがひどく、キーンという音が響くので、おなじような音は聴こえないのに決まっているよね。ずっと、同じ結果が続いているわけで、今日も別段の変化はなかった。そんなことで、検査を終え、また診察室に戻った。

医師は、パソコン画面を眺めながら、
「デパスはいつもどおり(6週間分)出しておきます」
「はい。ありがとうございます」
「で…、不眠症の薬ですが、途中覚醒のしにくい薬を20錠出しておきます」

お~。やったぁ~。

そんなことでもらったのが、「マイスリー錠」という薬だった。
「途中覚醒の場合は、薬ではなかなか難しいのです」
と、さっき、医師は言っていたが、やっぱりあることはあるんだ。
なんでも言ってみるもんだな~。

…ということで、生まれて初めて「睡眠薬」というものを手に入れた。
「不眠症の治療剤」と書いてあるけど、いわゆる睡眠薬だもんね。
注意書として「この薬はあなただけに処方されたお薬です。親、兄弟、姉妹、友人にもあげたり、もらったりしないでください」と書かれている。

でも、まだ飲んでいない。
まだ飲んでいないので、昨晩も10時半過ぎに寝て、さっき1時過ぎに目が覚めた。そこから眠れない。

眠れないので、ムクっと起き上がって、パソコンのスイッチを入れた。
そして、こんなブログを書いているうちに、今はもう午前3時を過ぎてしまった。

う~ん。
まだ、眠くならない。
早く寝なければ、と思いながら、目は冴える一方である。

いまこの睡眠薬を飲んだら、今度は朝起きられずに仕事に遅刻しそうだし…。

困った。困った。あ~ぁ、困ったなあ…。

 

 

 

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 モーツァルトと耳鳴り

2008年04月15日 | 心と体と健康と


去年の9月に耳鳴りが発症したときは、本当に辛かった。目の前真っ暗。何とかしなければと焦る日々。来る日も来る日もネットや本で、耳鳴りが消えてくれそうな情報はないかと模索した。

そんな、必死になっていた頃に見つけた1冊の本が、

「アマデウスの魔音の癒し 耳鳴り・難聴が治った」

という本だった。著者は埼玉医科大学短期大学の和合和久という教授だ。

モーツァルトを聴いたら耳鳴りが治った、という本である。

もちろん僕は、その本の存在を知るが早いか飛びついた。モーツァルトの音楽はあらゆる病気に効くという説も根強くあるのだから、これは期待できるのでは…と、真剣に思った。

本書のモーツァルトで耳鳴りが治るという理由は、次のようなものだった。

音波が一秒あたりに振動する数を周波数といい、単位はヘルツである。
ヘルツの数が大きいほど振動の速度が速く、脳には高い音と認識される。
私たちが聞き取れる周波数は16~2000ヘルツと言われている。
3000から8000ヘルツ以上を高周波音と呼んでいる。
この高周波音が脳神経系を刺激し、知能や記憶力を高める作用を発揮し、ホルモンを出す器官の働きを調整したり、免疫力を高める作用につながる。また耳や聴神経とも深いかかわりがあり、耳の障害を改善する働きも備わっている。モーツァルトの音楽には、この高周波音が縦横に駆使されているので、聴けば体内は活性化し、自律神経のバランスが整う。そして、それによって免疫力が強まる。
そういう因果関係であった。

本にモーツァルトのCDがついていた。
著者が特に耳鳴りに効くと推奨した曲がいくつか収録されている。

僕はベッドに入って毎晩このCDを流して寝た。
数ヶ月間、それを続けた。

そのCD収録曲は、次のようなものであった。

ただし著者は、漫然と聴くのではなく、聴きながらイメージトレーニングをしなさい、と注意書きをし、それぞれの曲に対するイメージを具体的に記述していた。

①ホルン協奏曲第1番 ニ長調 第1楽章 
 絶対に治るのだと決意して、ポジティブな自分を思い浮かべよう。

②ピアノ・ソナタ第15番ハ長調 第1楽章、第2楽章
 モーツァルトを信じ、耳を回復させるモーツァルトを余すところなく感受するた め、全身に音楽を浴びている自分を思い浮かべよう。

③ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調 第3楽章
 耳鳴りが回復して喜びにあふれ、至福のときを感じる自分を思い浮かべよう。

④弦楽4重奏曲第17番「狩」変ロ長調 第1楽章
 耳鳴りが回復した喜びを他者と共有している自分を思い浮かべよう

⑤交響曲第29番イ長調 第1楽章 
 耳鳴りが治り、新しい自分の誕生だ。「セカンド・バースディ」ともいえる真 新しい自分の出発を思い浮かべよう。

そして、終わったら、目を閉じて、耳鳴りから解放されて、家族や友人たちと穏やかな生活を楽しむ日々を強く思い描こう…。

そう書いてあった。

毎晩、僕はこのCDを聴きながら眠った。
眠らずに最後まで聴くこともあったが、大体④ぐらいまでには眠ってしまった。
いつのまにか、モーツァルトが睡眠薬代わりになった。
しかしイメージを思い浮かべるのは、すぐに飽きてしまった。
それよりボヤ~っとモーツァルトの曲に身を任せて眠るほうが気持ちよかった。

結論から言って、数ヶ月聴き続けたが、耳鳴りはよくならなかった。
イメージを思い浮かべるのを怠ったからか…? それは、どうかわからない。
でも、イメージを浮かべてこれを聴いても、耳鳴りが治るかどうかは疑問だ。

このCD以外にもモーツァルトのCDは前から何枚か持っていた。今回、それも全部に聴くようになったので、モーツァルトが体内で熟成し始めた気配であった。

先日、テレビのバラエティで「人生最大の衝動買い」という番組があった。
ある女性が10万円の電子ピアノを衝動買いした、と紹介されたときである。
バックに流れてきたのが、ピアノ・ソナタ第15番ハ長調の第1楽章であった。
「お、モーツァルト。ピアノ・ソナタ第15番やなぁ」と、思わずつぶやいた。
これは「耳鳴りが治る」本についていたCDの中でも、最も好きな曲である。

テレビCMのBGにも、時々モーツァルトの音楽が流れる。
「あ、モーツァルトや。この曲はえ~っと、なんやったっけ…」
と心で自問したりする。

結局、この本のうたい文句である「耳鳴りが治った」というわけにはいかなかったけれども、数ヶ月間、毎晩モーツァルトを聴く生活ができ、その素晴らしい音楽に親しめたことで、まあ、それはそれで良しとすべきだろうと思っている。 

 

 

 

 

 

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 「古墳」でお花見

2008年04月11日 | モミィの成長日記

 

僕たちが住んでいるのは大阪府の南部にある藤井寺市というところである。
むかしは駅前に、近鉄バファローズの本拠地、藤井寺球場があった。
(ちなみに球場跡は、四天王寺学園の小学校が建設される予定である)

この藤井寺市の周辺は、古市古墳群と呼ばれる数多い古墳が点在し、日本でも有数の大型古墳が密集する地域として知られている。

手元の電子辞書の百科事典で「古市古墳群」を引いてみる。

大阪府藤井寺市から羽曳野市に分布する、4世紀末から5世紀の古墳群であり、国内で第2位の大きさをもつ応神天皇陵や、津堂城山古墳をはじめ、100mを超える前方後円墳、円墳、方墳、帆立貝式古墳など、大小約100基で構成される。百舌鳥(もず)古墳群とならぶ大古墳群。

ここに出てくる津堂城山古墳というのが、僕の住んでいる場所から歩いて数分のところにある。応神天皇陵のほか、允恭・仲哀・安閑・清寧などの大きな天皇陵が数多くあるが、立ち入り禁止となっているそれらの古墳と違って、この津堂城山古墳は、最上部を除いて自由に出入りができる。

ここは、子供たちの遊び場にも近所の人たちの散歩コースにもなっている。それと同時に、桜の名所でもある。5月は菖蒲、秋にはコスモスが咲き乱れて、訪れる人は多いが、やはり最も賑わうのは桜の季節である。

6日の日曜日。この津堂城山古墳にモミィを連れて行くことにした。
朝に「きょうはお花見に行こうね」と言うと、それからずっと、
「おはなみ、おはなみ、行きまちゅよ~」と喜んで跳ね回る。
昼まで時間があるのに、「おはなみ、行くねん」とやかましいので、
「では、先に下見に行こう」と、モミィと2人でぶらりと出かけた。

すでに桜の木の下には、青いシートが敷かれていて、あちらこちらに「○○町会」などという立て札が立って、場所を確保している。
そのシートにモミィは土足で踏み込もうとするので、
「だめ、だめ。ここはよその人たちの場所や」
「どこぉ? もみ~のばしょは、どこぉ?」
「敷くものは何も持ってきてないから。あとでまた持ってこような」
「どこぉ? もみ~のばしょは、どこぉ?」
「今はまだ場所はないねん。あとでって言うてるやろ」
「どこぉ? どこぉ? もみ~の…」
「もうええっちゅうねん。人の話、聞いてへんのかいな」

いったん帰宅して、お弁当などを持ち、妻と3人で再び出かけると、モミィはいよいよ大喜び。僕も缶ビールをクーラーボックスに詰めて、ワクワク気分である。

弁当を広げる場所を探していると、ばったりと勤め先の女性と会った。
夫らしい男性と、2人の老人を連れている。
その女性は、僕とモミィを見比べて、
「あら、若いカノジョ連れてますね~」と笑った。
「ええ、まあ、歳は離れているけどね、カノジョです」と、僕。
うしろにいたその女性の母親らしきお年寄が、
「お、お孫さんなの…?」と、僕をじぃっと見て、しゃがれた声で尋ねた。
「えぇ、まあ…」(まあ…とはどういう意味だ?)
「本当に…? あなた、おじいちゃん? まあ、若いおじいちゃんねぇ」
なんて腰を抜かさんばかりに驚いている。

あのぉ…。
決して自慢してるわけじゃないのですが、僕はかなり若く見られるのです…。

と、まあ、そんなやりとりのあと、女性たちと別れ、適当な場所を見つけてシートを敷いてお弁当となった。モミィはおにぎりののり巻きが好きだ。パクパクと、あっというまに空っぽにしてしまう。ふだんから食欲が旺盛である。ウィンナー、チーズ、サツマイモなど、どんどん食べる。
「おはなみ、おはなみ、たのしいなぁ」と大声を上げるモミィ。
(食べてさえいれば、何でもいいみたいだけど)

缶ビールを飲みながらそれを眺めている僕。
桜の花びらが一枚、舞い落ちてきて、ふわりと弁当箱の中に入る。
青空の下で、桜の花と、楽しそうに団欒する人たちに囲まれてのビールは、至福の時間を与えてくれる。気持ちいい~。

 

  

 

食事を終えて、3人で古墳内を歩く。
広場に作られた舞台の上では、地元町会が主催するアトラクションが繰り広げられていた。カラオケやコントをやっている。
「もみぃも、あそこで、うたうねん。タラオケ、うたうねん」
と、歌の好きなモミィは意欲を見せる。
カ行がうまく発音できず、カラオケはタラオケになるんだけど…。

 

 
    
「あそこ(舞台)でうたうねん」 と はしゃぐモミィ (右下)

 

モミィは歌が好きで、家にある子供用カラオケセットで
「あめあめふれふれ母さんがぁ~」
なんて大きな声で歌うのが得意な子だから、そろそろ観客を前に歌いたくなってきたのだろうか…?。
「またお家に帰ってから、カラオケで歌ったらいいやん」と言うと、
「おうちにかえってから、タラオケでうたったらいいやん」
とオウム返しの答え。このごろ、このオウム返しがやたらと多いモミィ。

家に帰るとモミィは休む間もなくさっそくおもちゃ箱から「タラオケ」を引っ張り出してくる。僕は疲れてぐったりしているのに、横でマイクを握り「ニヒヒヒ~」と満面に笑みを浮かべるモミィを見ると、ますます疲れる。ため息が出る…。

子供ってなんでこんなに元気なんだろう…としみじみ思うのである。


  ……………………………………………………………………
 


 

 ↑  1歳半だった去年の春、同じ津堂城山古墳で撮った写真です



 

     また来年も、お花見に来ようね。 バイバ~イ。

 

 

 

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 春うららかな大阪城

2008年04月08日 | 日常のいろいろなこと

この前の土・日曜日は、絶好のお花見日和でしたね。
でも翌日の月曜日には、お天気は一気に崩れてしまいました。
この雨で、大阪の桜はだいぶ散ってしまいそうです。
いつもこの季節、桜が満開になると必ず雨が降るのですね。

 ♪ 咲いた花なら~ 散るのは覚悟 
   見事散りましょう 雨のため~ ♪

こんな歌があったような…? 違いましたか…?

大阪の最大の桜の名所の一つが、大阪城とその近くにある大川沿いの桜です。
実際にこの界隈には「桜ノ宮」という地名もあります。

5日の土曜日。
梅田の茶屋町にある土佐料理の店で、親戚から昼食の招待を受けていました。
妻はモミィをママの家に連れて帰ったり、他に用事も多かったりしたので、
ヒマな僕は、妻より一足早く家を出て、大阪城から梅田まで歩くことに…。

地下鉄谷町四丁目で降り、府庁のすぐ横を通って大阪城へ向かった。
大阪城公園に入ると、今が真っ盛りの桜が咲き満ちている。
公園の南側を、東へ歩いて行く。このあたりが、桜の最も多い場所だ。
まだ午前10時半前だというのに、歩道はすでに結構な人出だ。

 

 

 

 

 

桜の木の下にはびっしりと青いシートが敷かれてあり、場所取りは全て完了。
昼からなのか、夜からなのか、あるいは昼夜ずっとなのか…
ここで花見の宴が景気良く繰り広げられるのであろう。
すでに宴会を始めていたグループもあるが、この時点ではまだ人影まばら。
「本番」まで、座ったり寝転んだりして場所の確保をしている人もいる。

                    

 



驚いたことに、公園内を「遊覧汽車」まで走っている。
何年か前から桜の季節にはこれが走るようになったらしい。
へぇ~~、こんなもんが大阪城を走っていたなんて、知らんかったなぁ。
料金は大人200円、こども100円と書いてあったような気がする。

 

 



それにしても、大阪城公園は、アジア諸国からの観光客が多い。
特に中国人観光客の多いこと、多いこと。
すれ違う人たちの半分近くが中国人ではないかと思うほどだ。
外見では日本人と区別がつきにくいが、じっと観察すればよくわかる。
とにかく大声でしゃべるし、動作が小ぜわしいうえに、態度がでかい。
園内遊覧汽車に乗っているのも、半分ぐらいが中国人ではないか。
これだけ中国人に囲まれると、なんだか北京の紫禁城へ来たような感じだ。
(うむ。無理があり過ぎるなぁ、このたとえは)

遊覧汽車に乗ってちょうどいいくらいに大阪城公園は広い。
ぐるりと一周歩いていたら、間違いなく1時間以上はかかる。
僕はウオーキングが目的なのでテクテク早足で歩く。
薄着して出てきたが、それでもリュックを担ぐ背中がじわっと汗ばむ。

玉造口から上がって、しばらく歩くと桜門が右手に見える。
桜門の正面に立つと、大阪城がくっきりとその姿を現した。

 

 

 

門をくぐると、人の数は益々増えてくる。お城のそばまで近づいて行って、
カメラを構え、アングルを思案していると、団体さんに声をかけられた。
「すみませ~ん。写真、撮っていただけますか~」
以前から僕は、旅先でもどこでもよく見知らぬ人から写真撮影を頼まれる。
昔、広報課で仕事をしていたときは、写真撮影も仕事のうちだった。
だからその経験が、動作に出ているのかもしれない。
カメラを持って位置を確かめている姿が、相手をして信頼させるのか…?
「あ、この人に頼んだら、いい写真撮ってくれそ~」
そう思われているんだと、僕はひそかに信じ込んでいるのだが、
「あんたはいつもヒマそうに見えるから、相手も写真を頼みやすいんやろ」
そんな憎たらしいことを言うヤツもおる。

 

 

 

お城のまわりには、中国人観光客をはじめ、家族連れ、修学旅行(?)の高校生たち、観光バスでやってきたツアー客、アベック、老人クラブご一行様からおばちゃんの団体、おじちゃん仲間まで、ワサワサと群れを成し、賑やかに春の日和を楽しんでいた。1人で歩いている人は、あまり見かけなかった…。

お城の左をぐるりと半周して内濠にかかる極楽橋を渡る。

 

 
    内濠をはさんで、桜とお城がいい感じで撮れた一枚。

 

京橋口から、公園を後に、外へ出た。
出て少し歩くと、すぐ前方に大手前病院が見える。
耳鳴りのTRT療法のため、毎月通っている病院である。
このブログでも、何度も出てくるおなじみの病院だ。
「あ、そうだ。せっかくの機会だから写真を撮ろう」
いつも病院へ行くのに、カメラなど持たないものね。
陸橋から、その大手前病院を撮影した。

それが下の写真です。
いつもコメントを下さるyukariさんも通っておられる病院です。



 



病院の前を通ると、つい玄関口へ足が向きかけるが、今日は関係なし。
そのまままっすぐ歩いて、突き当りを左に曲がる。
ここは毎年1月に行われる大阪国際女子マラソンのコースだ。
左折してまっすぐ行くと御堂筋に交わり、マラソンでは御堂筋を南下する。

僕はここから梅田をめざしたので、北に進路をとる。
大阪城のすぐ北を流れる大川は、桜並木の最も美しいところ。
中旬から下旬にかけては、有名な造幣局の桜の通り抜けもある。

http://www.geocities.jp/countrymiku/zouheikyokutoorinuke.htm

天満橋をわたるとき、大川沿いに満開の桜並木が見えたのでパチリ。

 

 



…ということで、ここから梅田までは地下鉄で2駅分である。
それでも歩いて30分近くかかった。
梅田茶屋町の土佐料理「司」というところへ着いたのは、
約束の12時ぎりぎりで、もう少しで遅刻するところであった。

妻の両親が高知出身なので、親戚には高知の人が多い。
この「司」という店は、土佐料理のおいしいお店だ。
ウオーキングのおかげで、ビールが格別においしかった。
う~~。たまらん! ご馳走様でした~。


ついでにそのお店もご紹介しておきます。

http://r.gnavi.co.jp/k375200/menu1.htm

 


 

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 奇跡の連続逆転劇 

2008年04月06日 | スポーツの話題

昨日、PL学園の桑田のことを書いているうちに、今も僕の思い出に残る「PL学園・奇跡の逆転劇」のことが浮かび、これをどうしても紹介したいという衝動に勝てず、今日もまた同じような話題になりました。

PL学園は1976年(昭和51年)の夏、甲子園2度目の出場で大健闘し、決勝戦進出を果たしたが、東京の桜美林という高校に惜敗して初優勝を逃した。
甲子園に出る大阪の代表校の中でも、僕たちの住んでいる街から近いPL学園には特に深い愛着があった。

そして78年(昭和53年)の夏の大会を迎えた。
桑田・清原が甲子園に登場する5年前のことである。

初優勝をめざしていたPL学園。
準決勝まで進み、あと2勝で全国制覇のところまできた。
準決勝の相手は愛知の中京高校。
その日、8月19日は土曜日で仕事は休みの日だった。
僕は友人の家に招待され、そこでビールを飲みながらTV観戦した。

しかし…
4回、6回、8回と、中京は1点ずつ小刻みに得点をする。
PL打線は相手投手の前に沈黙を続けゼロ行進。
9回の表も、中京はまた1点を挙げて4対0になった。
「あ~あ。もう、あかんなぁ…」
僕と友達は、肩を落としてテレビを眺めていた。
そこから「奇跡」は起こった。

9回裏、PL学園の攻撃。
まず先頭打者が三塁打。続いて二塁打。…1点を返した。
次は内野ゴロで一死三塁に。そこから2本ヒットが続く。
2点目を奪って4対2となり、なお一死一、二塁。

「わっ! ええぞ、ええぞ、行け行けぇ…!」
と、僕も友人もビールを一気にあおって、テレビに向かって絶叫する。
スタンドは騒然となり、アナウンサーは声をからす。
次打者はうまくバントを決めて、ランナーを二、三塁に進めた。
2点追う場面でツーアウト二、三塁となった。
胸がドキドキしてくる。

PL応援団の興奮が、TVに怒涛のように伝わってくる。
もう僕たちは声も出ない。息を呑むとはこのことだ。
「うぅ~ぅ、頼む。打ってくれ…」念仏のようにつぶやくのみ。
大声援を受けた打者は、結局四球で出塁して二死満塁だ。
PLの生徒応援団は、男子も女子も泣きながら声援を送っていた。

一球一球に胸が詰まる。心臓が止まりそうである。
とうとうツースリーのフルカウントになった。
中京の投手が投じた最後の一球。
PL学園の打者が放った痛烈な一撃は二塁を強襲した。
ランナーはいっせいにスタートを切っていたので、2人が生還。
土壇場でPL学園は、ついに同点に追いついたのだ。

「やった! やった、やった~!」
僕は友人と抱き合い、再びビールで乾杯した。

そして延長12回裏、PL学園は押し出しの四球でサヨナラ勝ちした。
5対4。奇跡的な決勝進出であった。
「かんぱーい!」
と、僕たちはこの日何度目かの乾杯をして、野球にも酒にも酔った。
そばにいた友人の4歳のお嬢ちゃんを抱き上げてぐるぐる回し、喜んだ。

そして翌日。8月20日。
決勝戦は、優勝候補の呼び声の高かった高知商が相手である。

3回の表に高知商が、二死満塁からのタイムリーで2点を先取した。
PL学園は、高知商の森投手に完璧に抑え込まれたまま、9回を迎えた。
この日は日曜日だから、むろん僕はテレビに釘付けだ。
「う~ん。今日こそ、もうダメかなぁ。悔しいな~」
そう思いながらも、昨日を思い出して9回裏の反撃を待った。
しかしまあ、人生と言うものはそんなにいいことばかりは続かない。
たぶん今日はだめだろう…と半ばあきらめてテレビを見ていた。

だが、そこでまた「奇跡」が起こった。

先頭打者安打と四球とバントで、一死二、三塁の同点機を作る。
ここで、後に阪神に入団する捕手の主将・木戸が、犠牲フライを打ち上げる。
1点を返して、二死ではあるが二塁に走者が残っていた。
なんとなく、昨日の再現が予感され始めた。

次に打席に立ったのがエースで四番の西田(後に広島へ入団)。
その一撃は一塁線を破る長打となり、二塁走者が生還して同点になった。
これでもう押せ押せムードは最高潮。
次打者の打球が左翼手の頭上を越えたとき、試合が終了した。
3対2の逆転サヨナラ勝ち。
PL学園が初めて甲子園で優勝した瞬間である。

ここから桑田・清原の時代をはさんだ10年間で、春夏7度、全国制覇をした。
PL学園の黄金時代は、この奇跡の連続逆転劇から始まったのである。

1987年(昭和62年)の春夏連覇を最後に、優勝からは遠ざかっている。
大阪は、今では中田翔(日ハム)らを輩出した大阪桐蔭高の全盛時代だ。

しかし、あのPL学園の奇跡の連続逆転劇は、今でも思い出すと興奮する。


今からちょうど30年前のことになるのですね~。
抱き上げてぐるぐる回した友人のお嬢ちゃんも、今は2児の母親です。
なんだか、昨日の出来事のように思ってしまいます。

  
   1978年(昭和53年)8月20日 毎日新聞 


   





  
     翌日の毎日新聞。

 

  
   

 

ちなみに、うちの次男のお嫁さんは高知商の出身でした。
昨日のブログにコメントをもらって、初めて知った次第です。
今日の記事は、高知商を引き立て役で登場させてしまって、ごめんね  

 

 


当時の新聞記事を保存していますので、ぜひ皆さんにも見てほしいです。

 

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 桑田投手のこと

2008年04月05日 | スポーツの話題

選抜高校野球で沖縄尚学が2度目の優勝を飾った昨日、現役引退を表明した元巨人の桑田真澄投手がロサンゼルスから帰国した。生え抜きの投手として巨人に20年間も在籍したのは、この桑田だけである。僕は今の巨人には愛想をつかしているけれど、桑田全盛時代の頃までの巨人はよかった。応援にも力が入ったなぁ。

桑田といえば大阪府八尾市の生まれで、彼の実家はわが家から車で5分くらいのところにある。僕の長男の友達の兄が、桑田と小中学校の同級生だった。高校時代はPL学園のエースとして清原とともに甲子園で大活躍したのはあまりにも有名だ。

改めて調べてみると、PL時代の桑田は、1983年(昭和58年)夏から甲子園に春夏5回連続出場して、そのうち83年と85年の夏に優勝し、準優勝も2回。つまり5回のうち4回も決勝戦に進出しているのである。しかも桑田はピッチングだけではなく打撃も一流で、甲子園では6本の本塁打を放っており、清原に次ぐ歴代2位の記録を持つ。守備もうまかったし、桑田は昨日のインタビューで自ら言っていたが、まさに「野球をするために生まれてきた」男だった。

彼が活躍したPL学園は、富田林市というところにあり、これも僕らの住んでいる街の近隣にある。かつて甲子園の常連で、「PL」と聞けば、それだけで対戦相手は萎縮した。僕らも、高校野球が始まると、職場でも家庭でも、PL一色になるほど熱くなって応援した。そしてPLは、必ずその期待に応えてくれた。

富田林市にはPL教団が所有する広大な丘陵があり、むかしはそこに「PLランド」という遊園地があって、子供たちが小さかった頃、一家揃って自転車で遊びに行くのが、休日の主な過ごし方でもあった。8月1日には日本一と言われる規模の花火大会も開かれる。地域にとって、PLはひとつのシンボル的存在でもある。

PL学園の清原と桑田のKKコンビがいよいよ3年生の秋を迎え、それぞれの進路を発表した。清原はプロ入りを希望。憧れの巨人に入団したい、と明言していた。一方の桑田は、プロ入りを否定し、早稲田大学へ進学する、と表明していた。

その1985年秋のドラフト会議が行われた日。
僕は香川県の小豆島にいた。

「マラソンと痛風の怪しい関係」のところでも書いたけれども、ひと月前に痛風を発症しながらも、なんとか小豆島のフルマラソンに出場できるようになって、仲間と共にやってきたのだ。その小豆島マラソンの前日だったか当日だったか忘れたが、スポーツ新聞を買って読むと、一面にデカデカと「桑田、巨人が指名!」とあったので、ぎょぇ~っと、びっくりした。僕も同行のマラソン仲間もお互いに熱烈な巨人ファンだったので、この記事に驚くと共に、「お、桑田が巨人か!」というゾクッとするような喜びと、なんだか世間をだまし討ちにしたような巨人球団と桑田サイドのやり方に対する不信感とが複雑に交じり合った気持ちだった。もちろん、進学を主張していた桑田だから、他球団はどこも彼を指名しなかった。彼はすんなりと巨人に入団した。早稲田大学はこのやり方を猛然と非難した。

子供の頃からの憧れであった巨人に指名されず、記者会見の席であふれる涙をこらえることができなかった清原に日本中の同情が集まり、逆に桑田は、世間から大きな反感を買った。桑田はこのときから、ダーティなイメージがつきまとうようになった。

僕はむかしから、阪神ファンの友達や親戚から、
「お前はなんで大阪に住んでいるのに、巨人みたいなもん応援するねん?」
と言われた。それは…子供の頃から長嶋が格好よかったし、王が素晴らしかったし、彼らに胸をときめかせながら大人になったから、しゃ~ないやんか、と返事するしかないのである。
だから、高校野球は地元の大阪を応援するけれど、プロ野球は巨人を応援してきた。(重ねて言うが、現在は巨人を応援していない)。

そして桑田は、地元大阪の高校で活躍し、巨人へ入団した。
本来なら、大阪の巨人ファンにはたまらない進路である。
ただし、その入団の仕方が、いかにもまずかった。

どちらかといえば、巨人に入ってからの桑田は、あまり好きではなかった。入団のいきさつもあったし、女性スキャンダルも多かった。さらに、「投げる商売人」などと言われるほどビジネスに凝り、多額の借金を抱えるなど、「品行」としては今ひとつの印象があった。巨人での「晩年」は、衰えぶりが激しかった。
「桑田。見苦しいぞ。早よう引退せぇよ」
テレビでマウンドに立つ姿を見るたびに、そう思った。

それが去年大リーグへ行った。
日本で通用しない選手がなんで大リーグを…とあきれたけれど、その意欲だけは大したものだと思った。普通の選手には決断できないことだ。少し桑田を見直した。

春のキャンプから、桑田はパイレーツの投手として、評判を高めていった。
開幕メジャー入りが濃厚だったオープン戦の試合中に、不運にも審判と激突して足首を故障し、開幕メジャーはならなかった。しかし、彼は不屈の闘志を見せ、ついに6月にメジャーに昇格、夢の大リーグのマウンドを踏んだ。以後、中継ぎとしてなかなか味のあるピッチングを見せた。

しかし年齢から来る衰えは隠せず、結局2ヶ月ほどで戦力外通告を受けたけれど、力が衰えてからでもあきらめず、最後に大リーグのマウンドを踏んで小さい頃からの夢を果たしたことには、多くの野球ファンを感動させたに違いない。
心から拍手を送りたい。

昨日、帰国してインタビューに応じていた桑田を見ると、相変わらずモッチャリとした話し方だったが、幾多の風雪に耐えてきた男の心意気というものを感じさせられた。そして悔いを残さず野球人生に終止符を打てた男のさわやかさがあった。

またPL学園時代の桑田投手を思い浮かべてみる。
そして、昨日のインタビュー。
40歳になったばかりの男の、いい表情だったなぁ。

 

 

 

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 平安高校、消ゆ

2008年04月02日 | 思い出すこと

4月は何かと模様代わりする季節。

僕の勤め先でも、一昨日までいた人が退職でいなくなり、昨日4月1日は、あちらこちらの部署で人事異動による職員の引越し風景が目立った。新しい職場に就いた者は、机の上に書類を山と積んで整理に汗を流すなど、慌しい空気を漂わせていた。人事異動のなかった僕は、わりに気楽にそんな動きを横目で眺めていた。

昨日から後期高齢者医療制度も始まり、僕の勤めている市役所でも、かなりの混雑があった(注:僕はチホウコームインです)。
75歳以上の人を従来の国保から切り離すという制度に根強い批判がある。
「後期高齢者とは何事だ。老人を前期と後期に分けるな!」
そんな怒りの声も出る中で、困った政府は、せめて名前だけでもと、
通称として「長寿医療制度」というネーミングを使うと発表した。

後期高齢者医療制度 → 通称・長寿医療制度

なんだか、心にもないお世辞…みたいな、わざとらしい呼び方だ。
ハッハ…ハ~ックション! (春だというのに、毎日寒い)

さて、寒いけれども桜が咲き誇り始めた4月。
野球も満開である。

海の向こうでカブスの福留が、9回3点リードされたところで同点3ランをかっ飛ばした。暴風吹き荒れた仙台では、楽天が破竹の5連勝で2位に浮上。一方、巨人は開幕以来勝ち星なしの4連敗。いちおう今も巨人ファンである僕だけど、アホらしくてテレビも見ちゃおれない。だいたい開幕のヤクルト戦より次の中日戦を重視しすぎ、開幕戦にエース上原を先発させなかった原監督の采配が間違っている。ヤクルトを舐めてかかるから、こういう目に遭うのだ。もう、巨人など二度と応援してやるものか!

ところで、今日の主題は高校野球のほうである。
昨日、京都府代表の平安高校が、準々決勝で埼玉県の高校に8対0で大敗した。
そして、この日、4月1日から、平安高校は「竜谷大附属平安」に名前が変わった。ナインや監督は、「平安」の名で1日も長く戦いたかった、という思いを秘めていたというが、校名が変わったその日に、甲子園から姿を消すことになった。

この平安高校は、僕にとっては、特に思い出のある高校である。
実は僕も平安高校野球部の出身で、かつて甲子園大会に出場したことがある。
…と書いたらみんな驚くだろうなぁ。それは真っ赤な嘘です。すみません。

もっと些細なことでの思い出ですが…

僕は京都市の上京区で生まれ、幼稚園までそこに住んでいた。
生まれ育った家は母親の実家で、祖父が自転車店を営んでいた。
大阪へ移った後も、小学校の頃は僕ひとりで、春休みや夏休みに京都の実家へ行って、休み中の期間をほとんどは自分の生まれたその家で遊んで過ごした。

自転車店といってもほんの小さな自転車屋さんである。自転車が売れたところなどは見たことがなかった。祖父の仕事の大半はパンクの修理であった。僕は祖父が自転車のパンクを修理している光景を見ながら育ったとも言える。そして、大人になってから、僕は自転車で日本全国を旅することになるのだが、しかし未だにパンクの修理ができない。これはいったいどういうわけなのだ…??? 

その祖父の大きな楽しみが、高校野球であった。
店内に、甲子園からのラジオ中継が響き渡っていた。
(貧しかったので、まだテレビが買えなかった)
その頃は京都と言えば必ず平安高校が代表校であった。
祖父は、熱狂的な平安高校のファンであり、ラジオから平安の試合の実況放送が流れ始めると、仕事も何もほっぽり出して、じっと耳を傾け、一喜一憂したのであった。それがこちらにも伝染して、僕もやはり、耳はラジオに吸い込まれ、息を潜めて平安の勝利を願った。平安は強かったので、たいていは勝った。しかし、やはり負ける時もあったので、そんなときの祖父の落胆ぶりは、傍から見ていても気の毒なほどであった。祖父の喜ぶ姿が見たかったので、負けると僕も落胆した。

小学生だった僕の頭の中には、それ以来、高校野球と言えば反射的に「平安」が浮かぶほどの強いイメージが刷り込まれたのである。

今でも、平安高校が出てくると、地元大阪の高校と同じくらい気になる。
その「平安高校」の名がなくなるのは、やはり寂しい。

わが家に祖父の位牌がある。
「おじいちゃん。平安という名前が、今日からなくなるんやて」
昨日、いちおう、そんなふうに報告をしておいた。

 

 

 

 

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 もぎたてアイドルと現役○○

2008年04月01日 | ニュース・時事

先日夜、電車の改札口を出てエスカレーターを降りたところで若い男性からティッシュペーパーをもらった。ペチャンとした中身の薄いティッシュだった。バスに乗って発車を待ちながら、ポケットからそのティッシュを出し、何の宣伝だろうかと確かめると、全員同じセーラー服を着た大勢の女の子たちが、笑顔で手を振る写真があった。女の子たちは、数えたら20人いた(わざわざ数えたんか…?)。

これが、問題のそのティッシュだ。(別に宣伝しているわけじゃないけど)


     


いわゆるフーゾク店の宣伝なんやろね。

写真の周辺にいろいろなことが書かれております。

上の段には…

2008年ガールズアイドルニュース3月号
もぎたてアイドル(入店1ヶ月未満)336にん デビュー
08.3.13thu → 31mon 

下の段には…

今年初来店のお客様に限り22:00までのご入店で
35分 税サ込み 980yen 指名料0円 ビール飲み放題
イベント期間終了後もこのティッシュ持参でセット料金半額とさせて頂きます。
(10時までに入店の方に限ります)

35分間ビール飲み放題で、え~っと、なんやて…? 
税サ込み 980円…? (税サの「サ」がどんなんか知りたいけど)
それに…もぎたてアイドルの指名料が0円…?

しかしなぁ…
このティッシュのどこを見ても、店の名前が書いていない。
わが町にそんな店があったんか…?
それとも、どこか遠いところにあるんか…?
どっちにしても、店の名前とか場所を書いておかなければ、駅前で熱心にティッシュを配っても、しゃ~ないのと違うか? なんか、けったいな話や。謎やなぁ…。不思議なティッシュやなぁ…。

ウチに帰って、妻に見せ、「こんな店、ほんまにあるんかな?」と言ったら、妻は黙って笑いながら、そのティッシュの袋をビリッと破って一枚抜き取り、横で水洟を垂らして暴れている孫のモミィの鼻の下をぬぐっていた。


この20人の女性たちの写真の下の方に、職業らしいものが小さな字で書いてある。

現役ショップ店員
現役看護婦
現役OL
現役保育士
現役モデル
現役短大生

おわかりのように、みんなアタマに「現役」がついている。
別に、ショップ店員、看護婦(看護師)、OL、保育士、モデル、短大生…
それだけでよさそうなものだが、わざわざ「現役」をつけるところが、怪しい。
それでも、「現役」をつけることが、やっぱりそれなりに意味があるのだろうか。

新聞の投書欄の職業では、「元教諭」とか、「元団体役員」とかあるけれど、「現役美容師」とか「現役派遣社員」などとは書かないであろう。こういうフーゾク世界では「現役」をよく使っているようだが、まあ、「現役」という言葉を前につけると、語感がピリッとして、イキの良さというか、若々しさみたいな印象を与えることは事実であろう。
そういえば、僕の次男もブログをしておるが、そのタイトルは、
「現役住宅営業マンのつぶやき」
というものだ。まさか、怪しい仕事をしておるのではないだろうな…。

しかしね~。
な~るほど。
「現役」なぁ…。

フーゾクのティッシュを眺めながら、「現役」という言葉に思いを馳せる。

僕は今の勤務先で37年近くの間仕事を続けてきたけれど…
来年3月31日で定年退職を迎える歳になった。

今日は4月1日である。

エイプリルフールだなんて…
そんな浮かれたことを言っている場合ではない。

つまり、今日は新しい年度の始まりなのだ。
今日は、「現役」最後の1年がスタートする記念すべき日だ。
そうです。もう僕は「現役」といえるのは、この1年だけなのである。

今年はいっちょう、「現役で~す」を乱発するか。

このブログも「現役・のん日記」ではどうや…?。(何の現役やねん!)

それとも…

「もぎたて・のん日記」 


   (ええかげんにしぃや~)  
 

 

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