僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

「幸せな老後」 とは

2012年05月30日 | 読書

養老孟司さんの「養老訓」という名著がありますよね。
団塊世代の僕たちには身につまされる話が満載です。

読まれた方も多いかと思いますが…

そこに、こんな一節がありました。

「幸せな老後」 という言葉は少々おかしい。
老人になるということは、人生が終わると言うことですから、
身体は駄目になってくるし、目は見えないし、みんなはバカにするし。
何が 「幸せな老後」 だと思います。

あまり大きな期待はしないほうがいい。

そうしたら思いがけないことですごく幸せを感じるかもしれない。
それには感受性が大事です。

…というくだりです。

な~るほど。 感受性ですよね~

そういえば、意識はしていませんが、僕がこのブログを続けているのも、
感受性を衰えさせたくない…という気持ちが作用しているのかも知れません。。

ま、それはそれとして。
この本には次のようなことも書かれてありました。

老後に本当に必要な資産はお金ではありません。根本は体力です。
きちんと歩けるほうが財布に100万円入っているよりも、ずっと幸せです。
体が元手で、お金が元手ではありません。
老後資金より、老後体力を考えるべきなのです。

…と。

説得力のあるお話です。

でもね…
財布に100万円入っているというのも、かなりの魅力ですよね~  
                                        

 

 

 

 

 

 

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小学生に完敗。おまけに怪我まで…

2012年05月27日 | 日常のいろいろなこと

前述のように、入団したばかりのキックベースチームが、翌日の大会で、
いきなり優勝し、モミィにも金メダルを与えられた時から1週間が経った。

その地域キックボールチーム「ミ〇キー」の練習が昨日の土曜日にあった。
モミィは先週に続き、この練習には二度目の参加である。

モミイを自転車に乗せて練習場の小学校に連れて行こうと思ったけれど、
最近自覚が芽生えてきたモミィは、「わたし一人で歩いて行くわ」と言う。
いくらなんでもそれは…と思い、モミィを先に行かせた後、
自転車でゆっくり後を追いかけることにした。
が、途中で僕がスマホを忘れたことに気がつき、取りに帰った。
再び学校に向かって通学路を走ったけれど、
モミィの姿はすでにどこにも見えない。
あれれれ…?
不思議だな~と、ちょっと心配しながら学校へ急ぐと、
向こうの方に小さい体で大きなリュックを背負ったモミィの後姿が…
ほとんど、学校の校門へ着く直前だった。

コーチが門の前で待ってくれていたので、モミィは走って入って行った。

柔軟体操から始まった練習は、バラエティに富んでいる。
ランニングもモミィはだいぶ遅いけれど、誰かが手を引いてくれている。

日陰のベンチに座ってモミィの練習風景を見ていると、
相変わらずボールを投げても目の前にポトリとしか落ちず、
蹴っても力なくボールが転がり、おまけに5回に一度は「からぶり」したりする。

それでも、チームメイトやコーチの方がモミィに丁寧に基本動作を教えている。

男のコーチがこちらへ来たときに、
「楽しそうにやっていますね~」と言ってくれた。

最初の頃は体力がついていかず、苦痛の表情を浮かべる子も多いという。
その点、モミィは嬉しそうにやっているので、コーチも喜んでくれる。
しかしまあ、その分、進歩が遅い点は確かにあると思うけれど…
でも急ぐ必要はない。6年生までやるのだから、ボチボチ慣れて行けばいい。
モミィは、何事においてもコツコツ努力型の子どもなのだから。

「おはようございます」と選手のお母さんたちとも挨拶を交わす。
そのお母さんたちがどの選手の親なのか、まだよくわからないけれど…

お母さんたちは、折りたたみ椅子や飲み物や救急箱、タオルなどを用意。
子どもたちが休憩に戻ってくると、世話をする役をしてくださっているのだが、
モミィが「トイレに行きたい」というと、連れて行ってくれたりする。

お母さん同士の会話を聞いているととても面白い。
今どきの若いママ同士の会話はこんなに面白いのかと思うほど、
快調なテンポで、次々とさまざまなことが話題にあがる。

中学校1年生の子どもさんを持っておられるママが、
先日あった中学に入って初めての中間テストについて…

「誰でも平均90点は取れる…て誰かが言うとったのに、ウチのアホは60点や」
「そんなん、しゃ~ないで。平均90点て、あんなんウソやがな」

そこへ小学5年生くらいの選手の女の子が割って入り、
「そやけど、〇〇のお姉ちゃんは、平均で90点取ったそうやで」
「ふ~ん? ほんまかいな?」

な~んていう会話が続く。

それをじっと聞いている僕のほうを向いて、ママは、
「中学のテストの結果を見たら、親はみんなショックを受けるそうですよ」
と言う。なぜなら、
「小学校の時は親も子も勉強が良く出来ると思っているのよ」
「ところが、中学の最初の中間テストでその自信が飛んでしまうの」
「あたしも、子どもが初めて中間テストを受けたときは心配だったわ~」
そんな会話である。

へぇ~
そういうものなのかなぁ。
自分の息子たちはどうだったんだろう…?
と思い返しても、今僕たちがいるこの小学校に通ったはずだけど、
息子たちのそのころの中間テストがどうだった…など、何も覚えていない。

…と、まあ、そんな感じで見学席のママたちの会話がはずむ。

やがてお昼近くになり、もう練習も終わるのかと思ったら…

「これから、おかあさんチームと選手たちの練習試合をしま~す」
と、コーチが、日陰の見学席にいる僕たちを手でこまねいた。

「え~、つっかけ履いてるんやで、私。こんなんでボール蹴られへんがな」
としり込みするママもいれば、「よっしゃ、ちょっと蹴ったろか~」
と意気込みを見せるママもいた。

僕など、止まっているボールを蹴るくらい簡単なことだ、
よ~し、一発外野手の頭上を越してホームランを蹴ってやろう…
と、日ごろ足腰を鍛えている自信から、思わぬ親子交流戦に闘志を燃やした。

ところが…である。
お母さんチームの主力であったはずの僕の第一打席は、ボテボテのゴロ。
懸命に一塁に走ったけれど、簡単にアウトにされてしまった。
相手は小学生の女の子なのに、うぅ、残念。

次の打席も、助走をつけて「うりゃぁ~」と蹴ったがまたボテボテ。
一塁に着くはるか手前でアウトにされてしまった。

よ~し、それでは守備で見せてやろう…
ママたちの父親ほども年齢が上の僕だけど、ジョギングで鍛えた足腰だ。

ママさんたちは前のほうを守っていたので、僕は外野へまわり、
内野を抜かれたり、頭上を越されたりしたボールを取りに、
ライトからセンター、レフトへと、外野中を走り回った。
(走るのは、まあ得意ですからね)

そのうち、子どもチームの「主砲」の6年生女子が出てきた。

この子がバーンと蹴ったボールは空中高く舞い上がり、
野球で言えば右中間の大飛球となった。

センターにいた僕は、懸命にボールを追いかけた。
そして…

ついにボールに追いつき、イチローのような華麗な守備でヤッタ~…
と思った瞬間、足をすべらせ、ボールをつかんだままグラウンドに転倒した。
ボールは手から離れ、右肩を強打し、右ひじをイヤというほど地面にすった。

わ~という子どもチームの歓声の中、
すぐに起き上がってボールを内野に返したものの…
いててててててて~

半袖のTシャツを着ていたので、モロにすりむいたひじからは血が吹き出し、
みなさんから、「大丈夫ですかぁ??」と心配されてしまった。

あぁ、年には勝てませんねぇ。

傷口を水で洗い、救急箱から消毒液を出してジャジャ~とかける。
それでも、ひじの血は簡単に止まらず、ジワジワと湧き出してくる。
僕は脳梗塞予防のための血液サラサラ薬・ワーファリンを飲んでいるので、
どうやらその影響で、血が止まりにくいのだ。
日常の行動は慎重にしなければならないのに…
子ども相手の試合でもつい一生懸命になってしまう僕なのだ。

そんなことで、子どもチームはポンポン蹴り、大人のほうは守備が悪いので、
なかなかアウトをとれず、いくらでも相手に点が入っていく。

「敵方」のモミィも何度も打席に入ったが、蹴って一塁へトロトロ走っても、
誰もモミィをアウトにしようとせず、わざと遅れて一塁へ投げたりするのだ。
だから、この練習試合のモミィの成績は「全打席内野安打」であった。

さて、最後のお母さんチームの攻撃がやってきた。

そしてまたも簡単に2アウトになり、僕にまわってきた。
僕は唯一のオトコの面目をかけ、右ひじから血を滴らせながらも、
最後の蹴りは三遊間をライナーで破り、やっとヒットが出た。

ず~っと三者凡退に討ち取られていた試合なので、
最後にヒットが打てて、大人チームとして、まあ、よかった。
(これを 「焼け石に水」 というのでしょうけど…)

相手が小学校の女の子だからとあなどってはひどい目に会う。
「プロ」と「アマ」の差みたいなものを見せつけられた。

…やれやれ。
大人たちはみんなクタクタであった。

練習日程が終り、解散となった。

僕はモミィを自転車に乗せ、そのままモミィの好きな回転寿司へ行き、
妻にも来るように連絡しようというつもりをしていたけれど、
強打した肩と、血がとまらないひじに、すっかり意気消沈し、
そのまま自宅へ帰り、妻にもう一度傷の手当をしてもらって、
そ~っと缶ビールのフタを開けたのだった。


    
    帰宅して、モミィが撮ってくれたひじの写真。
    日曜の朝からお見苦しいものを見せて恐縮ですが。

 ……………………………………………………………………………………………

そして、昨日に続き今日・日曜日もまたチーム「ミ〇キー」で、遠足がある。
親子どもども、大阪・和歌山の境にある岬公園というところへ行くそうだ

「子どもさんだけの参加でも全然大丈夫ですよ」
と言ってもらったので、モミィだけ行かせてもらうことにした。
先輩女子たちが親切で、モミィの世話をしてくれるので、安心だ。

このごろモミィは急に一人で行動したがるようになった。
そろそろ「親離れ」の傾向が出てきたのは大きな成長である。

いろんな活動を経験させるうちに、あの頼りなかったモミィが、
徐々にたくましさを身につけ始めていることはまことに喜ばしい。

いろいろな人たちとの交流…

これが人生で何よりも大切であることは、
最近、
人との交流がめっきり減った僕として、
つくづく実感するところである (とほほ)。

さて、今は午前6時前だ。

そろそろ、モミィの遠足用の弁当を作らなければ…

 

 

 

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キック ベース 鮮烈?デビュー

2012年05月22日 | モミィの成長日記

  
  いざ、キックベースの試合開始。 この中に、モミィがいます。
   (5月20日。 市内の中学校の校
庭で)


先月、モミィが小学校に入って間もなく、近所の女の子から、
地域のキックベースチームに入らないかと、誘われていた。
小学生の女の子たちだけで結成されているチームである。

桜が満開になった頃、そのチームの子どもたちや保護者、監督らが、
近くの公園でお花見をするので、来ませんか…とのお招きを受けた。

僕と妻とモミィの3人で公園へ行き、モミィは小学生の先輩たちに遊んでもらい、
僕たち夫婦は、監督、コーチらに「ぜひモミィちゃんをチームに!」と誘われた。

ビールを呼ばれながら、僕は妻と顔見合わせ、
「いいよね」 という感じで、お互いにうなずき合った。

ただ、モミィがチームに入るには、2つの問題があった。

チームは、毎週土曜日の午前中に小学校の校庭を借りて練習する。
土曜日の午前中といえば、モミィがスイミングへ通う時間帯だ。
まずこのスイミングを、別の曜日に変更しなければならない。

もうひとつの問題は、モミィはお世辞にも運動神経がいいとは言えず、
特にボールを投げたり蹴ったりというのは、まるで苦手な子なのである。
キックベースチームに入れてもらっても、チームの戦力になるかどうか…?

「まだ小学生になったばかりじゃないですか。大丈夫ですよ」
と、監督さんは、今年は新1年生のチームへの加入がゼロなので、
ぜひともモミィに入ってほしい…と、熱心に僕たちを口説いたのだった。

そういう経過で、結局、土曜日に通っていたスイミングを、
5月半ばから水曜日の夕方に変更することで調整がつき、
先週の土曜日、モミィは初めてキックベースの練習に参加した。


ところで、このキックベースだけど、ルールなど僕もよく知らなかった。

ウィキペディアには、こんなふうに説明されている。

ドッジボールと野球とサッカーが入り混じったようなスポーツである。

また、大阪市鶴見区のキックベース大会の動画があったので、
興味のある方は、どうぞご覧ください ↓

 http://www.youtube.com/watch?v=9nLNsh2VWeg

 

そして、いよいよ、先週土曜日の初練習の日が来たのである。

モミィが毎日通う小学校の校庭を借りて練習が行われるので、
僕はモミィを連れて行き、練習風景を見学させてもらった。

冷たい飲み物や折りたたみ椅子やテーブルなどが並び、
選手のお母さんたちが、何かとお世話をされている中で、
子どもたちと監督、コーチが運動場に出て、練習が始まった。

モミィはたったひとりの1年生なので、中でもひときわ小さく、
激しく走ったり、ボールを受けて投げ返したりする選手たちの間で、
まごまごしたり、コーチからマンツーマンで指導してもらったり…

遠くから見ても、結構楽しそうにしているのがわかる。
まあ、これなら長続きしそうだな~、と一安心した。

9時から12時まで、みっちりと練習が行われた。

モミィは、先輩女子に手を引かれ、何度も休憩に戻ってきた。
チームの女の子たちみんなが、モミィの世話をしてくれる。
「お茶、飲む…?」
「トイレに行きたくない…?」
と、女の子たちが、モミィを気遣ってくれていた。

こういう、年齢を超えた交流が、モミィにとってはきっとプラスになるだろう。
その経験を踏まえ、来年以降はモミィが年下の子を世話するようになる…

そんなことを想像すると、このチームに入れてよかった、と思う。

これで土曜日は、朝の9時からキックベースの練習日となった。
そして日曜日には、月に1~2回、いろいろな試合があるという。

火曜日はエレクトーン、水曜日はスイミングと隔週でエレクトーン、
木曜、金曜はダンス教室
…と「稽古事」でとても忙しくなってきたけれど、
当のモミィは全然嫌がらず、むしろこういう多忙を楽しんでいるみたいだ。

  ………………………………………………………………………

…そして、翌日、日曜日。
さっそく地域のキックベース大会があり、
モミィも「選手」として参加させてもらうことになった。

世話役の方から、前日に試合用のユニフォームと帽子などを届けてもらい、
日曜日の朝、僕はモミィとともに早朝から待ち合わせ場所に行き、
みんなで試合場である近くの中学校へ向かった。

試合用のユニフォームは6年間使うものである。
だから、モミィが着ると大きすぎて、ドレスのように長い。

それを見て、お母さんたちが、
「うちの子も、最初は“ドレス”でしたよ。懐かしいです~」
そう言って、ぶかぶかのユニフォーム姿のモミィに目を細めた。

試合場の〇〇中学の運動場には、さまざまなユニフォーム姿であふれていた。

開会式の入場行進でも、モミィは一番小さかった。
他のチームのお母さんたちも、モミィを見て、
「あの子、可愛いね~。まだ1年生やろね~」
と話しているのが聞こえた。

試合は地域のチーム対抗で、午前中は予選リーグ3試合が行われ、
午後から、予選順位による決勝トーナメントが行われる日程だ。
この1日で、なんと、6試合も戦うことになるのだ。
選手たちにも大変なスタミナが必要である。

モミィのチーム「ミ〇キー」は予選を2勝1敗で決勝トーナメントに進んだ。

その予選の試合で、一度だけ監督さんがモミィを「代打」で出してくれた。
相手チームの関係者や選手たちが 「ん…?」 という顔でモミィを見た。

プロ野球の試合に、急に子どもが打席に入ってきたような雰囲気である。

審判の合図を受け、モミィがボールを蹴った。
コロコロと、いちおうボールが前に転がった。

当然、1塁へ走らなければならないが、モミィはじっと立ったまま。
すると相手の監督さんが、「走るんだよ~」とモミィのそばへ行き、
一塁方向を指すのを見て、そうかという顔で走り出したがむろんアウト。

僕はお腹を抱えて笑ったが、他の人たちもみんな笑顔になり、
一瞬、試合の緊張がほぐれたようでもあった。

昨日、初めて練習に参加し、今日、いきなり試合デビューとは…

それだけではない。
午後からの決勝トーナメントで、このチームは連勝し、
ついに決勝戦まで進出したのである。

さらにそれだけではない。
決勝戦も、追いつ追われつの大激戦の末、
昨日、モミィが入ったばかりのこのチームが、
最後に逆転して7対6で勝ち、みごと優勝したのである。

ぱちぱちぱちぱち。

午後4時過ぎから行われた表彰式で、
チームに優勝旗とカップが手渡された。
そして、選手たちの首に金メダルがかけられた。

モミィにも、金メダルがかけられたのである。

昨日初めてチームに入って、
まだキックベースの 「いろは」 もよくわからないうちに、
地域の大会に参加し、しかも金メダルを授与されるとは…

なんとも、まあ、運のいい子である。

 

  
   試合開始前。 背番号7の小さな 「選手」 がモミィである。
   ひとり、ユニフォームが 「ドレス」 になっちゃってる~

 

  
  試合中はアウトカウントのパネルを持って、
  チームメイトを応援するモミィ。

 

  
   ついに試合にデビュー。
    ボールを蹴ったモミィ。 しかし蹴るだけで、走らない。

   相手チームの親切な監督さんが飛び出してきて、
   「一塁へ走るんやで~」
と言われ、
   あわてて走り出すモミィであった。  

 

   
    優勝の瞬間。 モミィ(右端)もベンチから飛び出して喜ぶ。

 

 

  
   優勝旗といっしょに記念撮影。 モミィも金メダルをかけてもらった。




 

 

 

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結婚相談所…?

2012年05月19日 | 日常のいろいろなこと

昨日(18日・金)の夜のことである。

午後9時少し前。
妻とモミィは、いつもより遅いお風呂に入っていた。

僕はリビングで一人、テレビをかけながら週刊誌を読んでいた。

そこへリリリーンと電話が鳴った。
電話はテレビの近くにあるので、僕はリモコンでテレビ音声を消し、
週刊誌を置いて、今ごろ誰…? と思いながら電話に向かった。

家族、親戚、知人などとはほとんど携帯でやり取りをしている。
家の固定電話にかかってくるのは、勧誘など迷惑な電話が多い。
しかしそれはたいてい日中であり、夜の9時というのは、あまりない。
ひょっとすると、何か重大な連絡かも知れない。
ちょっと緊張した手で受話器を取った。

「もしもし~」と、聞こえてきたのは知らない女性の声だ。
声の調子から、若い女性ではなく、中年以上のおばちゃんと思われた。

そのおばちゃんは、僕が「はい、〇〇です~」と言うと、
「あ、あのぉ、こちらは、神戸ムニャムニャ…というところですが…」
早口なのでよく聞き取れず「はぁ? 神戸…なんですって?」と聞き返す。

「神戸ムニャムニャ…」と、その横文字のような部分がわからない。
おばちゃんはまたムニャムニャ…と言ったあと、
「…という、結婚相談所です」と続けた。

「はぁ? 結婚相談所…?」
何の電話やねん、これ。

そしておばちゃんが言うには、
「お宅さまに独身の方がおられましたら…ということで…」
で、電話をさせていただきました…ということなんだそうだ。

「わが家に独身者がいるかって…?」 と僕。
するとおばちゃんは、こう言った。
「ええ、そうです。 28歳から58歳の独身の男性の方、いらっしゃいます?」

ふ~む。
どうもわけのわからない電話である。
こんな時間に、「結婚相談所」から電話で、わが家に独身の、
…それも、28歳から58歳までの男性がいるか…な~んてね。

アホくさ、と思ったとたん、いたずら心が芽生えてきた。

「へぇ…。28歳から58歳まで、と決まってるんですか?」 と僕。
「はい、そういうことでお尋ねさせていただいています」 とおばちゃん。

「ううぅ~、残念やなぁ…」 と僕は悔しそうな声を上げた。
「はぁ…?」 と今度は相手が戸惑った様子。
僕は続けた。
「58歳まで? 惜しいなぁ。僕はもうちょとだけ歳がいってるのですが…」
僕の悔しそうな言い方に、おばちゃんは戸惑いから解放されたように、
「えっ? そうなんですか? で、独身でいらっしゃいますか…?」
と急に元気づいて、電話に出た僕自身に興味を持った様子だった。

僕がつつましく黙っていると、おばちゃんはいよいよ声を弾ませ、
「独身でいらっしゃるのですか?」 と、その質問を繰り返した。

一呼吸置いてから、僕が、
「いいえ。 孫もいてますねん。 えへへ~」

そう言うと、今度はおばちゃんのほうが沈黙 (絶句?) した。

そして、そのままひとことも言わず、ガチャンっと電話が切られたのだった。

なんだかねぇ…

自分から一方的に電話をかけてきたくせに、
せめて何かひとこと言って、切ればいいのに… (ぶつぶつ)。



 

 

 

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禿げるのはイヤ! という人に

2012年05月15日 | 日常のいろいろなこと

昨日の朝日新聞の夕刊に「髪のエイジング」という記事があった。
フサフサした髪をいつまでも、と願う人たちのための記事だった。

その記事によると…
若々しい髪を保つためには、食事と睡眠、頭皮ケアの継続…
と、この3つが大事だそうであるが、まあ、食事と睡眠は、
髪の毛に限らず、あらゆる健康の源なので、それはいいとして。
(タバコは血流を悪くするので禁煙は必須、とのこと)

頭皮ケアの継続、というところが肝心だと思われる。

今日は、それについての僕の体験を、ちょっと書いてみます。

僕は以前からよく頭髪のことを質問されてきた。
「のんさん、髪の毛、染めているのですか…?」と。

答えは、「染めてません。そのままですけど」
チラチラと白髪は生えているけど、染めるほどじゃないもんね。

「全然、髪の毛、薄くないですね~」
…とも、現役時代から今日に至るまで、よく言われてきた。
(いや、別に自慢じゃないですよ、ホント)

年のわりには、髪の毛は、まあ、若い。

小柄で童顔に加え頭髪がそれだから、全体に若く見られるのだと思う。

若い人から中高年までの幅広い年齢層で、髪の毛で悩む男性は多い。
その点だけは、今だにそういう悩みを持たなくていい僕なのです。
(ほかの点は、ロクでもないことだらけですけど…)

でもね…
僕は学生時代から髪の毛が少ないというか、ほそいというか、
友人たちに比べると、頭髪のボリュームに欠けていましたね。

20代半ばを越えると、髪を洗うたびにどんどん毛が抜けるので、
うむ、これは30歳になるまでに禿げるのではないか…と結構悩んだ。

そこである時から、何かで読んだことを実践するようになった。
頭皮に刺激を与えるため、お風呂で冷水を頭からかぶる方法だ。

具体的に言いますと…

熱いめのお湯に、のぼせるほど浸かる。

体からそして頭から、汗がどっと噴き出してくる。
そこで湯船から出て、冷水を頭からかぶるのである。
全身にかぶるのだが、特に頭部には大量に冷水をかける。
そして再び湯船に浸かり、また噴出すほど汗を出して水をかぶる…
水分補給をしながら、これを数回、繰り返す。

その刺激で血流がよくなり、毛根が元気になる (…ということですわ)。

そんな入浴法を、四季を通じてず~っと実践し続けてきた。
何事も長続きしない僕としては、珍しいことであった。

ジャンプーするときは、地肌をマッサージする感じで洗う。
風呂からあがるとサクセスという育毛トニックでまたマッサージ。
そして、素早くドライヤーで髪を乾かす。
髪が湿ったままにしておくのも良くないらしいので…

実は僕はこの入浴法を、主に夜ではなく朝にやっていた。
毎朝早起きしてジョギングに出る習慣があったので、
帰宅して風呂に入り、これを実践していたのだ。

朝風呂、朝シャンをしてから仕事に出ていたわけですね。

まあ、これに科学的根拠があるのかどうか知らないけれど、
頭皮の血流がよくなることは間違いなさそうである。

長年のこの習慣が、髪の毛を維持することに繋がったのかな~と思う。

そして、それを裏付けるような話を競馬の武豊騎手がしていたのだ。

武騎手が言うには、競馬の騎手に頭の禿げた人はいない。
(ほんまかいな?)

それは、騎手は減量のために日常的にサウナを使い、
サウナから出て冷水に浸かる。 その際、頭から冷水をかぶる…
それを繰り返しながら体重を減らしていくのだが、
毛根や頭皮の新陳代謝もそれで自然によくなる。
だから騎手は禿げない…

…そんなことを言っていたのである。

まあ、頭髪は遺伝もあるようだから、一概には言えないだろうけど、
この武騎手の話を週刊誌で読んだ時、僕はぽんと膝をたたいた。
「やっぱりそうやったんや~」 みたいな感じで。

別にサウナでなくっても、お風呂で十分です。
頭髪でお悩みの方、あるいは薄毛の予防に、
お試しされるのもいいかも知れません。

ただし、この方法に慣れていない年配の方は無理されないように。
僕も、最近はこの「冷水入浴法」の回数をちょっと減らしています。

「年寄りの冷や水」 な~んて、シャレになりませんからね~(笑)

 

 

 

 

 

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おしとやかモミィ…?

2012年05月13日 | モミィの成長日記

モミィは他人の目からは「おしとやか」に見えるようである。

毎日モミィといっしょに小学校へ通う児童のママから、
「モミィちゃんはどんな習い事をしているのですか?」
と尋ねられたので、妻が、
「スイミングとエレクトーンとダンスを習っています」
と答えたところ、そのママは、
「へぇ~、ダンスも、ですか? 活発なんですね」
とちょと驚いた様子であったという。

「おうちでおとなしくお習字の稽古でもされているのかなぁって」
みたいなことを、そのママは思っておられたそうである。

家の中では決しておしとやか…なんかじゃないのに。

そういえば、エレクトーン教室でも、生徒のママから、
「モミイちゃんって、純日本調という感じですよね」
と、いつか言われたことがあった。

動作がゆっくりめで、話し方もおっとりしているので、
なんとなくそういうイメージがついてまわるのだろう。

しかし、今習っているヒップホップダンスを見ていると、
純日本調な雰囲気などどこにもないような、
シャカシャカとした動きを見せている。

週2回、近所のスタジオへ通い、1回はダンス、1回は体操を習う。

モミィは小さい頃から運動神経がイマイチだったけれど、
最近になって、ブリッジがしっかりできるようになった。
今は主に側転にチャレンジ中である。

先日、スタジオへ迎えに行った時、モミィたちが踊っているところを、
スマホで撮影させてもらったのが、この写真である。 ↓


    
   右手前がモミィ。

 

新年度に入って、そのダンス教室が生徒募集のチラシを出した。

それを見せてもらうと、キッズヒップホップの写真の中に、
他の子どもたちに混じって、モミィの姿も写っていた。



  

        


 
  真ん中の赤いのがモミィ。


そんなことで、モミィはダンスのレッスンもお気に入りである。

4月から小学校へ通い始め、先生や友だちともすっかり馴染み、
そのかたわら、音楽、ダンス、水泳などでの稽古事にも励むモミィだが、
今月から、地域の少女たちのキックベースチームにも入ることになった。

次の土曜日が、練習への初参加となる。
チームの少女たちはみんな、男の子も顔負けの活発さである。

どうも、今後ますます、「おしとやか」から遠ざかって行きそうである。

 

 

 

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ロンドン五輪へ聖火燃ゆ

2012年05月11日 | スポーツの話題

   
                         NHKの画像より

 

昨日、ギリシャでロンドン五輪の聖火の採火式が行われた。

この採火式を見るたびに必ず思い出すことがある。

中学生の頃(…といえば1960年代初期の頃だけど)、

学校から「映画鑑賞会」で、難波の映画館へ行ったことがあった。
そこで見たのが「ローマオリンピック」というドキュメンタリー映画だった。

それまでプロ野球か大相撲ぐらいしか関心のなかった自分が、
スポーツというものに初めて魅せられたのが、この映画だった。

ちなみにローマ五輪は1960年(昭和35年)に行われたので、
この映画が公開されたのはその1年後くらいだったのだろうか。
たぶん、僕が中学1年生の頃だった…と思う。

その映画の冒頭のシーンが、ギリシャでの聖火の採火式だった。

白い衣装に身を包んだ女性が、鏡を使って集めた光から、
たいまつのようなものに火を採取する。
まぶしいほどの美しい映像だった。

当時は聖火という存在そのものも、あまり知らなかったけれど、
こういう方法で火をつけるなんてことは、もっと知らなかった。

それ以降、4年に一度の採火式をテレビで見るたびに、
中学1年生だった頃の自分の記憶をたぐり寄せて感慨に浸った。

昨日もまた、あぁ、北京五輪からもう4年経ったのか…
と心の中でつぶやく僕なのであった。

さて、その「ローマオリンピック」の映画のことだけど、
この映画の中で一番見ごたえがあったのは、マラソンだった。

レースは今のように日中ではなく、夜に行われていた。
夜のローマの石畳をヒタヒタと、裸足で走るアベベ選手が、
最後に優勝してしまうシーンは、あまりにも印象が強かった。

なにせ50年ほど前のことなので、細かくは覚えていないけれど、
このアベベの他にも、様々なシーンに感動したことは確かだ。

映画のラストシーンのひとつに、次回開催地の紹介があった。

その次回開催地というのが、わがニッポン(東京)であったことも、
世の中のことを何も知らなかった僕には「初耳」であった。

で、4年後の東京オリンピックの時、僕は高校生になっていたが、
そのころはアマチュアスポーツの大好きな少年になっていたわけで…

東京は、ローマの20年前、1940年の五輪開催予定地だったが、
翌年の太平洋戦争につながる不穏な情勢の下で、返上をした。
代わりにフィンランドのヘルシンキで行われることになったが、
これも第二次世界大戦の影響で、中止になってしまった。

続く1944年も、ロンドンで開催される予定がやっぱり中止になり、
次の48年(昭和23年)に、やっと同じロンドンで開催される運びとなった。
しかし、日本は「戦犯国」の扱いで、この大会には参加していなかった。

翌年、1949年(昭和24年)は僕が生まれた年だったけれど、
この年に、日本が次のオリンピックに参加することが決まった。

先日、僕が市役所に就職した当時、連日中之島の図書館に通い、
仕事で明治時代からの新聞をずっと閲覧していたことを書いたけれど、
その時に、僕が生まれた昭和24年1月の新聞の社説だったと思うが…
そこに日本が3年後の五輪に参加することに決まった、と書かれていた。

3年後、つまり1952年の五輪…とは、

かつて戦争で中止になったヘルシンキ大会だった。

…昨日、たまたまロンドン五輪の聖火の採火式をテレビで見て、
そんなことが次々と思い浮かんだので、きょう、ここに書いてみた。

ロンドン五輪は7月27日から始まる。

オリンピックは大好きだ。
過去のオリンピックの新聞記事は、大切に保存している。

僕にとっては、
五輪は世につれ世は五輪につれ、という感じである。

あのオリンピックの頃にはこんなことがあり、
あのオリンピックの頃にはあんなことがあったなぁ、と、
4年に一度だから、自分史と重ねて記憶しやすいのである。

う~ん。
いろんなことが頭の中に渦巻いてきますね~

いつか、オリンピックと自分史について書きたいな~と思っています。

 

  
   1972年(昭和47年)のミュンヘンオリンピックのスクラップより。
   この年、わが家に長男が誕生した。 

 

 

 


 

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心臓感謝の日

2012年05月09日 | 心と体と健康と

不整脈や耳鳴りに加え、最近は首・肩の痛みと左腕にしびれが出てきた。
体に起こるさまざまなトラブルは増える一方で、減ることはない。

さらにこの歳で花粉症になったのか、鼻がつまり、目が痒くて困っている。

こうした体の不調は、間違いなく老化のきざしなのだろう。

ふと、…死んだらこれらのすべてから解放され、
永遠の休息に入ることができる…と思うことがある。

でも、まあ…
そう思うからこそ、今は辛抱して生きていられるんでしょうけどね。

そんな中で、不整脈(心房細動)について、少し考えてみた。

これは自分の持病として、今では何の疑問も抱かなくなったけれど、
振り返って考えてみれば、30代から20年以上マラソンを続けていて、
人間ドックの心電図でも心臓に全く異常はみられなかったのに、
まさかこんな持病を抱えることになるとは夢にも思わなかった。

初めてきつい不整脈の症状が出たのが9年前だった。
心臓がパクパクして、いったい何が起きたのかわからなかった。

そのときに初めて心臓のエコー検査というものを受けた。
その画面をこの目で見たときの驚きは、今でも鮮明によみがえる。

自分の心臓があまりにも激しい動きで収縮しているのに仰天した。
ものすごくダイナミックな収縮活動であった。僕の身体の中で心臓が、
片時も休むことなく、これほどの力仕事をこなしていたのかと思うと、
自分の「持ち物」であるはずなのに、畏敬の念すら感じた。

血というのは心臓から全身に送り出され、また心臓へ戻ってくる。
1分間に60回から80回、全身に血を送り、また寄せ集める。

1分間で3600ミリリットル。
1時間で21万ミリリットルもの血液の量を動かすと言われる。

心臓は黙々と、その作業を繰り返すのだ。

その、自分の心臓が懸命に働いている姿を画面で見たとき、
僕がおしゃべりをしているときも、寝ているときも、
ボンヤリしているときも、落ち込んでいるときも、
ビールを飲んでいるときも、ず~~っと、ず~~っと、
このような激しく動いてくれているのだと知ったとき、
あらためて自分の体の神秘と感謝の念が湧き上がってきたのである。

かなり以前だけれど、日本で自殺者が急増してきたことに対して、
作家で医師の渡辺淳一氏が、ある雑誌にこんなことを書いておられた。

心臓が日々、懸命に激務をこなしていると知ったら、
誰でも自分の心臓に頭を下げたくなるだろう。
「ありがとう、心臓君、僕のためにそんなに頑張ってくれて」と。
そしてこれは心臓だけではない。
体内すべての臓器が昼夜を分かたず、
懸命に働いていることに気付いたら、
自殺などしてはいけないことも、
自ずとわかるはずである。
全身がこんなに頑張って前向きに働いているのに、
頭だけの判断で自殺するのは、
すべての臓器と細胞への裏切りだよ。

…と。

この言葉は、今も心に中にしみこんでいる。

あの、エコーの映像で見た自分の心臓の健気な働きぶりを思い浮かべた時、
僕たちは自分の体に生かしてもらっているのだ、ということを強く感じる。

時々、そういうことを意識するのも必要かも知れない。
そうすれば、体調不良を嘆いたりもしなくなり、
前向きの姿勢をとることもできそうである。

時には不整脈を起こして僕を脅かす心臓君だけど、
日々の「勤労」に対する感謝は、決して忘れてはならないと思ってます。

…ということで、国会議員のエライ方たちへのお願いです。

勤労感謝の日、という祝日があるのですから、
心臓感謝の日、という祝日も、作ってくださ~い。

 

 

 

 

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「毎日が日曜日」 は退屈か?

2012年05月07日 | 日常のいろいろなこと

ゴールデンウィークも終わり、今日から大抵の人は普通の生活に戻りました。
僕は「毎日が日曜日」だから、連休が終わっても生活はあまり変わりません。

後輩の人たちが「いやぁ、うらやましいですね」と言ってくれたりします。

確かにリタイアして自由な時間が一気に増えるのは魅力的ですね。
ただ、それはやがて退屈に変わる…とも、よく言われることです。

先日もこんな文章を読みました。

 実際に毎日が日曜日だったら、退屈なことだろう。
 時間をもて余すことも時には必要だろうが、それが毎日だと大変である。
 日ごろ働いているからこそ、休息日としての日曜日に価値がある。

…という意見でした。

ま、そういうことも、たしかな意見として受け止める必要があります。

毎日をどう過ごすかによって、つまらなくもあり、楽しくもあるのですから。

日本人は定年後のためにお金を貯めたりするのは熱心ですが、
(まぁ、それもとても大事なことですが…)
心の準備がおろそかになっているのではないか、と言われています。

イギリスにはサードエイジ(第三の人生)の大学が全国にあり、
多くの定年退職後の人たちが学んでいるそうです。

定年後の人生は人生の収穫期であると同時に、自分の限界や不完全さを知り、
再び旅人として歩き出すときでもある、ということで…
それだからこそ、心の準備が必要なのだ…という文章がありました。
これはまだ現役時代に何かの本で読んだのですが、
この部分には感じるところがあったのでメモしておきました。

退職後はすることがなくて困っている、という人は、
現役時代から心の準備が出来ていなかった人ではないかと思います。

僕の知り合いの女性に、その意味ではお手本になるような人がいます。
同じ役所に勤めていた人で、同じ係で仕事をしたこともありました。

彼女は40代後半から、それまで得意でもなかった英語を勉強し始めました。
何事にも熱心な彼女は、仕事が終わると英語の勉強に精を出し、
やがて夜のECCの教室に通い始めました。

ちなみに、僕も退職直前の時期、彼女に紹介者になってもらい、
同じくECCに通ったことがありましたが、尻切れトンボでした。

今年の3月末、職場でいろいろあったようですが、
彼女は、定年まで何年も残して、惜しまれながら退職しました。

聞けばECCのジュニア教室を開講するとのこと。
仕事の傍ら、熱心に努力を積んだことがいよいよ実を結び始めたわけですね。

仕事をやめてもったいない、という声もあったようですが、
中途半端に仕事を続けるのは人生の浪費ですから、
彼女は思い切った決断をした…と僕は思っています。

自分の人生設計をこれほど周到に立て、その目標に向かって、
こつこつと勉強を重ね、着々と実現へと歩む彼女は、
僕にとってもお手本のような存在です。

やはり、幸せな定年ライフを送っている人というのは、
大体40代から助走を始めて、定年後に花を咲かせる、という人が多いですね。

僕の敬愛する上野千鶴子さんの「おひとりさまの老後」という本にも、
そういう人というのは…

「人生半ばにして会社とは距離を置いて仕事と半身で付き合っている」

…と、書かれていました。

もちろん、仕事で手抜きする、ということではありません。
仕事を離れたら何も残らないという人生が淋しいってことですよね。

でも、絶対に何かをしなければならない、ということもありませんよね。
退屈しながら過ごすのも、それなりの楽しみがあると思いますけど。

僕自身のことを言えば…
毎日が日曜日でも、退屈することはありません。

目標も夢もあります。

目標は…

ジョギング、ウオーキングで健康を維持し、
ビールを控えてもうちょっとお腹をへこませて、
英語の勉強を継続し、本ももっともっと読みたいです。

また、モミィに付き添ってエレクトーン教室に行っているので、
最近はエレクトーンも、1日1時間程度練習していますが、
いろんな曲が弾けるようになればな~と思っています。

これが、今のところの僕の目標です。

で、夢は…というと、

フランスで毎年秋に開催されるメドックマラソンに出場することです。

メドックマラソンって何…? という方に説明しますが、
フランスでも屈指のワインの名産地ボルドーで行われるマラソン大会です。

収穫間際の美しいブドウ畑を走ります。
フルマラソンなのですが、普通のマラソンじゃありません。

なんと…

20ヵ所を超える給水ポイントで、ワインが振舞われ、飲み放題なのです。
おまけに生ハム、生ガキ、ステーキ、チーズ、アイスクリームなど、
フランス料理のコースのように食事が提供されます。

これで42.195キロを走り切ろうというのです。

走りながらワインを飲むって、まことに夢物語ですね。
でも、なんとか出たいものだなぁ、メドックマラソン…

そんな体力が残っているのかどうか、甚だ疑わしいですが、
まだ100パーセント諦めているわけじゃありませんけどね~

 

 

 

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中之島公園など

2012年05月01日 | 日常のいろいろなこと

それにしても、悲惨な交通事故が相次ぐ。
今度は高速道路でツアーバスが防音壁に激突、
7名もの死者と、約40名の重軽傷者を出した。
これもバスの運転手の居眠り運転だという。

人を何人も死なせておきながら「過失」で軽い刑…というのも、
こういう事故が後を絶たないひとつの原因になっているのではないか。

勤務体系などの構造的な問題点がさまざまに指摘されているが、
それ以前の問題として、やはり運転手個人に大きな責任がある。

ハンドルを握る人たちは、本当に細心の注意を払ってほしい。

居眠りはもっての他だが、猛スピードで狭い道を走る運転手などは、
日常生活の中でも、ちょっと外出するとあちこちで見かけるわけで、
やはり運転無神経者…とでも言う人間が少なくないのは事実である。

人を死なせてから、いくら後悔しても絶対に元には戻れないのだから。

…と、まあ、書くつもりはなかったのですが、
あまりにも続くので、ちょっと書いてしまいましたけど…

 ……………………………………………………………………

さて、ゴールデンウィークたけなわ…ですが、
昨日はモミィが「バイキングを食べたい」というので、
妻が姉とよく行くという大阪梅田のマルビル1階にあるレストランへ行った。

昔から人気のある店だし、連休中だからさぞ混雑しているだろうと思ったけれど、
予約もせずに行ったのに、意外にも並ぶことなく、すんなりと入ることが出来た。

JR大阪駅周辺も、北側がどんどん発展しているうえ、
新駅ビルには三越伊勢丹や専門店街の「ルクア」が入り、
人の流れが大きく変わったようで、マルビル界隈に昔の賑わいがなくなっている。

久しぶりに行ったレストランのお客の入りを見て、それを実感した。

しかし、まあ、バイキングは僕にとっては落ち着かない感じがするんだけど、
モミィは大好きで、食事を終えると、次はデザートを求めて歩き回っていた。

妻とモミィと3人で、お腹がはちきれそうになるまで食べた。
(僕はビールまで飲み、帰る時、ズボンのベルトがギンギンで苦しかった)

大阪の梅田に出たのは久しぶりのことで、しかも沢山食べたあとなので、
少しでも「消化」させるため、運動がてら歩こうということになった。

ちょうど雲っていたので暑くもなく、歩くのにはちょうどよかった。

梅田新道の交差点を南へ歩いて大阪市役所の手前へ出て、
そのあと、中之島公園を天満のキャッスルホテルまで歩いた。

これがなかなかの美観で、しばらく来ない間に、
中之島公園もずいぶん様変わりして、
とてもいい公園になっているな~という印象を受けた。

途中、中之島図書館(府立図書館)の前を通った。
ここは僕が市役所に勤め始めた頃の思い出の場所である。

昭和46年、松原市役所に就職した時、最初に配属されたのは…
…市史編さん室という、風変わりな職場であった。

「松原市史」というものを発行するために新設された部署で、
僕が初代の職員となり、専門家の嘱託職員さんのお手伝いをする…
そんな仕事であった。

そして、最初に命じられたのが、中之島図書館に通うことであった。

図書館の閲覧室で、明治時代から出ている新聞をず~っと目を通し、
その中の松原と周辺の河内地方に関する記事をピックアップするのだ。
たとえば「河内木綿、今年は豊作」といったような記事を見つけるのである。
集めた記事を元に、執筆者の大学教授らが松原の歴史を綴るというものだ。

だから最初の半年間くらいは、ほとんど市役所へは出勤せず、
朝から夕方までこの図書館へ来て新聞を閲覧する日が続いた。

市役所に入って、まさかこんな仕事に回されるとは…
思いもよらないことであった。

…今は昔の物語であるけれど。



 
       中之島図書館(資料写真)



 
     中之島公園から、大川沿いに天満橋方面へ。



で、その中之島図書館を横目で懐かしく眺めながら、歩いた。

有名なバラ園のバラはまだだったが、手入れの行き届いた公園内を、
モミィは元気に走り回り、僕らも歩いていると気分が安らいだ。

横に流れる大川には観光客を乗せた水上バスが行き来している。
川岸の桜はすっかり終わったけれど、これで桜が満開だったら、
まるで絵に描いたような風景になるのだろうな、と想像した。

天満橋から地下鉄で阿倍野へ出て、今度はこちらの新名所、
「キューズモール」へ行って、妻がモミィの夏服などを買った。

モミィも少しずつ大きくなっていくので(当り前だけど)、
服やズボンや靴など、しょっちゅう買い替えなければならない。

最近は阿倍野周辺も人の数が驚くほど多くなった。
これで、現在工事中の近鉄百貨店が最終的に完成したら、
梅田や難波に負けないくらいの一大繁華街になるんだろうね。

歩いたり買い物をしたりで、すっかり疲れてしまったが、
藤井寺駅に着いたとたんに雨が降ってきた。

あわてて自転車置場まで走り、雨に濡れながら家まで走った。

「大形連休」の前半は終了し、今日と明日はモミィは学校である。

学校へ行くのをつい忘れそうになってしまうほどだけど。

こういうのはむしろ「大型連休」とはいわず、
「飛び石連休」とか「途切れ連休」とか言うのでしょうね…??

 

 

 

 

 

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