僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

 北京五輪と24時間テレビ

2008年08月31日 | ニュース・時事

毎週木曜日は文春と新潮の2つの週刊誌が発売される日で、いつも木曜日の朝刊を広げると、まずその広告から見る。今回は北京五輪の特集が組まれているので余計に楽しみであった。文春のほうは「星野仙一、ヘボ監督の正体見たり!」がメインの見出しで、新潮のほうは文春ほど大きな扱いではないが、「日の丸を『屈辱』に染めた星野ジャパン『7つの大罪』」という見出しをつけていた。しかし文春の星野ジャパン批判の見出しの行列はすさまじい。これは買わなければ…

両週刊誌が発売されたのは8月28日(木)だったが、その日は、僕は仕事のほうで臨時議会というのが行われた日だった。これは年に1度、市議会の議長や副議長、議会運営委員会や各種常任委員会の委員長らが交代をするための議会で、僕らの間では「役選議会」と呼んでいる。議長らの任期は、申し合わせにより1年で、うちの議会は8月末に毎年議長らが交代することになっている。それには議会の議決が必要だから、臨時議会を開く、というわけだ。

この日は、毎年、各党派間で、議長や副議長などの役職ポストを巡ってめまぐるしく、かつ複雑怪奇な渦が巻き、僕たち事務方は、そんな党派エゴの渦に巻き込まれたりするわけだが、まあ、昔は徹夜は当たり前だったのが、最近はそういう傾向もなくなってきたのはありがたい。その日も、モメはしたけれど、ほどほどの時間に、新しい議長、副議長らも決まり、臨時会はめでたく終了した。

臨時会を終えて、夜に週刊誌2誌を買うためにコンビニへ走った。
1軒目、2軒目、3軒目とまわったが、週刊新潮は置いてあったが、
「星野仙一、ヘボ監督の正体見たり!」の大特集を組む週刊文春のほうは、すべて売り切れだった(やっぱり、みんな読みたがっているわけだね)。やっと4軒目の店で1冊だけ売れ残っていたのを見つけて買った。ついでに週刊新潮も買った。

文春記事の中身は、
田渕、山本浩二を配したお友達内閣では勝てない。
投手交代が遅いし、使う投手も岩瀬、川上と、星野と縁の深い投手ばかり
調子の悪い岩瀬を使い続けたことで、落合中日監督は激怒。『シーズン中でもあんな使い方はしない。岩瀬を潰す気か』
ダルビッシュは準決勝で先発をさせてもらえず、頭を丸めてまで意欲を示していたので死ぬほど悔しがっていた。星野はなぜダルを使わなかったのか。
予選のとき、藤川を使う場面で岩瀬を出したので、藤川は肩を落としていた。モチベーションが下がった藤川は、その後準決勝の韓国戦で同点に追いつかれた
田渕打撃コーチが、高めの球に手を出すな、あれもダメ、これもダメと消極的な指示ばかり出すので、選手が思い切ってバットを触れなくなった
エラーを続発して日本を敗北に引きずり下ろしたG・G佐藤は、落球の際、サングラスを目ではなく、帽子にかけていた

…ということが、まだまだいっぱい書き綴られていた。

おまけとして、
そのGG(ジージー)という発音は、中国語の鶏鶏(ジージー)と同じで、それは「おチンチン」の隠語なのだそうである。日本の応援団が「頑張れGG」「打て打てGG」は、「頑張れチンチン」「打て打てチンチン」と中国人には聞こえるわけ。「やってしまったGGポロリ」は、まさに「やってしまったチンチン、ポロリ」…となり、いずれにしても日本の野球は恥ずかしい結末となってしまった。

…すみません。ちょっとイヤラシかったですか。
日曜日ですから、大目にみてやってくだせ~まし。


そんな週刊文春に、「北京五輪・情けない男」特集に小倉智昭が載っていた。
ちょうどその朝ブログで小倉のことを書いたばかりだったので興味深く読んだ。
「フジのカネで『金メダルを全部見たと威張る小倉智昭』」との見出し。

口を開けば
「あれ、目の前で見ました」
「僕はメダルを取るって公言していたんだけれども」
「みんな、小倉さん、小倉さんって声かけてくれてねぇ」
と自分のことばかり。

「とくダネ!」は、特に教養もなく良識にも欠ける小倉を、あたかも偉いように見せるための刷り込みを絶え間なく続けるだけの番組。そのために、腰巾着界の金メダリスト・笠井信輔アナと、あからさまじゃないヨイショが上手い佐々木恭子アナを脇に配し、小倉はオレ様生活を満喫している…と書かれてある。

その小倉が北京に派遣され、
フェンシングの大田を「かねてから注目していたんですが」
ソフトボール競技を「中学の同級生に全日本のメンバーがいて、その時から注目していたんですが」
そして、優勝したソフトボール監督に「おめでとうと言ったら『小倉さんのおかげです』って言われました」
400リレーの銅メダルの快挙に「僕がリレーをやっていた40年前はバトンのアンダーパスはブームでした。伊東さん(元陸上選手の現解説者に向かって)もご存じないだろうけど」
…などと、言いたい放題。

チケットも移動も全部手配してもらい、ギャラまでもらって、「あれも見た、これも見た」と威張り散らす。「言っただろう、オレ言ってただろ、彼がメダルを取るって」などと自慢をし「小倉さんの予言、当たりました!」とまた笠井が騒ぐ騒ぐ。
メダル予想なんて、あれもこれもメダル候補、と可能性のあるものを全部言ってたら、どれかは当たるものである。当たったものだけを取り上げて自慢するって、まるで小学生並み。

と、まあ、そんな具合に書かれていました。
考えることは、み~んな同じようなものですね。

ところで、今回も、五輪実況中継の騒がしさが取り上げられていた。
アナが「やったぁ!」と絶叫…。
感情ムキ出しで叫び続けたアナと解説者が、たしかに多かった。
NHKでもうるさい人がいる…と思ていったら、民放と分担して伝えたので、NHKをかけていても、民放アナが実況している場合もあったのだ。
叫ばなくても、十分に視聴者に競技の緊迫感は伝わるのに、なぜあれだけ叫ぶのかと思うし、ギャーギャー叫んでくれない方が絶対にもっと楽しめるのに…と不思議で仕方ないのだけれども、しかし今回は僕はまだマシだったような気がするのだ。8年前のシドニーオリンピックのテレビ中継が最もひどかった。こんなアナの放送を聴かされながら見なければならないというのが、悲しかった。それから比べたら、アテネ五輪では少し改善されたし、今回もひと頃のような頭がガンガンするような騒がしさはなくなってきたように思う。

ただ、スタジオに選手を招いたときなどの、スポーツのバラエティ化は、とどまるところを知らない。面白さと悪ふざけとは違うことを肝に銘じなければならない。

スポーツ選手を相手にふるまうタレントの態度は、悪ふざけである。
スポーツ選手はあくまでもスポーツ選手として遇されることを望みたい。
テレビを見ていると、選手たちが主役であるはずなのに、芸能人がその主役の座を奪ってしまっている。この時点で、すでに番組が見苦しいのだ。

また、選手の方も芸能人に媚びたりしているのが時々感じられる。やはり若い選手たちはテレビに出ることがうれしくて、しかも引退後はテレビ関係で仕事を、と思っている選手などは、タレントやテレビ局に嫌われないよう、それらの好みに合わせた言動をしている。こうなるとお互いさまということになり、ますます救いようのない話になる。この路線は、今後もどんどんエスカレートするだろう。

   ………………………………………………………………………

いま、8月31日(日)午前8時45分である。
五輪と関係はないけれど…
日本テレビで、24時間テレビ「愛は地球を救う」が行われている。
時々チャンネルを合わせるだけで、じっと見ているわけではない。
僕はこの手の番組が、どうも好きになれない。

今、車椅子の少年のサッカーが取り上げられ、画面の左下にスタジオの女優やタレントたちがモニターを見ながら涙ぐんだりうなずいたりしているのが映っている。
取材対象となっている障害者の方の、ひたむきな生き方には敬意を表する。

しかし、なぜか、この番組は障害者を扱うことが多い。障害者の頑張っている姿を追う番組は、どこからも批判されないことをテレビ局はちゃんと計算しているわけだ。本気でテレビ局が障害者のことを思いやっているかどうかとはまた別の話である。本気で考えているなら、例えば「障害者自立支援法」が成立する前に、なぜテレビ局挙げて反対キャンペーンを張らなかったのか、と言いたくなる。障害者にとっては、そちらのほうが死活問題だ。そういうことには無頓着で、「視聴率アップ用」ドキュメントを商業ベースに乗せて感動を押し付けようとすることだけに熱心なのである。スタジオのタレントたちも、こんなときは、善意のかたまりのような一挙一動を見せている。

さらにこういうドキュメンタリー番組は、障害を持つ人も、努力さえすればみんなサッカー少年のように報われるのだ…という錯覚を植えつけてはいないか。どう努力しても、どうにもならないほど厳しい状況の中で苦悶の日々を送っている障害者の方が、数多くおられることを忘れてはならない。一握りの「努力が実を結ぶ」例をあげて、すべての障害者やその他の人々に希望の光を与えていると考えているのなら、それはテレビ局の傲慢である。

この番組の目玉とされるウルトラマラソンもよく似たものである。それだけの距離を走る…というか、24時間あればゆっくり歩いても100キロ以上は進めるので、テレビに映っているとき以外は、ほぼ歩いていると思うのが、まあ、たとえ歩いたとしても、大変な距離である。その根性は見上げたものだと言わなければならない。しかし、それも視聴者に感動を強要し、番組を盛り上げたいという、うわべのだけの効果を挙げることが目的なのだろう。

毎年、ラストで、疲労と激痛に耐えて武道館に駆け込んでくるランナーを、家族や仲間が涙で迎えるというお決まりのシーンで幕が閉じられる。ここで「さあ、感動しろ、どうだ、まいったか」というテレビ局の偽善が見える。すべてが商品化されているのである。そんなテレビ局の作為の中で「感動物語」が進められる。

エド・はるみ、という人が最後まで歩き抜くのかどうか知らないが、めでたくゴールしたら、今夜もまたその涙でフィナーレだろう。明日の日本テレビのワイドショーは、そのエドはるみのマラソンを繰り返し放送し、さらにその次の日ぐらいには特番まで組んで、ひとつのネタを何度も使うのであろう。むろん僕は見ないけど。

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…とボヤいてばかりいても、面白くありません。

さて、よい子のみなさん、今日は8月31日です。
明日から9月です。長かった夏休みも、今日でおしまい。
大阪も、やっと朝晩に涼しさが訪れました。

明日から学校という子供さんたちは大変ですね。
通勤電車も賑やかになりそうですし、通学路に児童・生徒たちの歩く姿、あるいは自転車姿があふれることでしょう。
しかも、いきなり月曜日からの始まりです。しんどい1週間だなあ。
宿題終わっていますか?

エド・はるみなんか見ている場合じゃありませんよ。
…ってか。

このブログを「よい子のみなさん」が読んでるわけなんてないじゃないか

 

 

 

 

コメント (6)
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