僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

パラリンピック女子マラソンと僕の記録を比べたら

2021年09月13日 | ランニング

東京パラリンピックが終わって1週間が経ちましたが、五輪競技の中でも僕はマラソンが一番好きで、特に今回、パラリンピック最終日の女子マラソン(視覚障害のクラス)は、テレビから目を離せませんでした。

結果は日本の道下美里選手が見事に金メダル。30キロ付近からスパートをかけて、終盤は独走。圧勝でした。伴走者の人も、大したものですね~

  
  先頭に立ってゴールをめざす道下選手。

144センチと小柄な体で、軽快なピッチ。ゴールした道下選手の満面の笑顔を見ていたらとても童顔だったので、44歳という年齢を聞いてビックリした。
そして5位に入った藤井由美子選手は56歳でこれまたビックリ。

さらに8位に入った西島美保子選手は、なんと66歳ということだった。

ぎょえ~っ。 66歳でマラソン8位に入賞!
彼女は日本選手団(全種目)の最年長選手でもあったそうです。

 
 8位でゴールした西島選手66歳。いや~お見事でした。

3選手のゴールタイムを見てみますと
優勝した道下美里さんは3時間0分50秒。
5位の藤井由美子さんは3時間17分44秒。
8位の西島美保子さんは3時間29分12秒。

ちなみに僕も30代~50代の頃に、フルマラソンの大会に20何回か出ていますが、自己ベストは、38歳の時に出した3時間27分54秒でした。まぁ僕はごく平凡な市民ランナーでしたけど、それでも3時間半を切れた時はどれほど嬉しかったことでしょう。ということで、38歳のその頃が、僕のマラソンに関しての最盛期だったと言えます(えへへ)。

それでも、44歳の道下選手、56歳の藤井選手の記録には及びません。
そして66歳の西島選手の記録とは、ほぼよく似たものです。

視覚障害がありながら、皆さん、この記録!

しかも、金メダルの道下選手は、2時間54分13秒の世界記録を持っているということです。僕がず~と夢に見ながらも、最後まで夢に終わったサブスリー(3時間切り)じゃん。

本当に「すごい!」という言葉以外、見当たりませんわ。

こんなこともあってか、今回の東京オリ・パラは、オリンピックよりパラリンピックのほうが印象が強かったです。

 

 

 

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大阪国際女子マラソンは長居の周回コースで

2021年01月31日 | ランニング

きょう、大阪国際女子マラソンが開催され、僕もテレビ中継を見ました。しかし、コロナ禍のため、コースはいつものように大阪市内をめぐるコースではなく、長居公園の中の周回コースで行われ、観客はゼロというレースでした。

国内の主要なマラソン大会でこれほど短い周回コースでのレースは初めてということでしたが、実はこの長居公園の周回コースというのは、僕のマラソン人生には欠かすことのできない重要な場所だったのです。

僕は30代から50代まで、マラソンが趣味というよりも、生き甲斐の一つにもなっていました。フルマラソンは海外(ニューヨーク)を含め20数回走り、100キロのウルトラマラソンもサロマ湖、四万十川、赤穂の3つの大会に出ました。勤務先の松原市役所ではランナーズというクラブを作り、多くの走る仲間と一緒にレースに参加したり、駅伝チームを作っていろんな大会に出たりして交流を深めました。

そんな仲間たちと、毎週土曜日になれば、必ずと言っていいほど午後から長居公園へ行き、周回コースでランニングをしました。そして、毎年3月にはここでフルマラソン大会が開催されるので、僕も何度もこの大会に出場したのです。

そして、まあ、僕は平凡な市民ランナーでしたから、タイム的には大したことはないのですが、自己最高タイムである3時間27分54秒を出したのも、この長居の周回コースで行われたマラソン大会でした。

そんな思い出深い長居公園の周回コースは、1周が2・8キロ。ですから、15周すればフルマラソンの距離になるわけですよね。当時の自分の「マラソン日記」を読み返すと、「明日は長居で10周をめざす!」などと書いています。長居公園は僕にとって最も心身が躍動する居場所だったのです。と同時に憩いの場でもありました。公園の中なのでトイレもあるし、水飲み場もあるし、売店もある。目の前で多くの人も走っている。なので気持ちよく走れ、心もゆったりと落ち着くんですよね。



 何年か前に長居公園へ行った時に撮った写真です。
 周回コースでランニングをしている人が沢山います


 
 長居公園周回コースでのレース(40歳前後の頃)。
 左にチラッと見えるのが長居スタジアム。
 ゼッケン202番を付けているのが僕です。


というわけで
きょう、初めてその周回コースで大阪国際女子マラソンが行われたわけですが、「国際」と言っても、いつものように外国人選手が出ているわけでもなく、レースは、東京五輪マラソン代表に内定している一山麻緒さんと前田穂南さんの一騎打ちというのがもっぱらの見どころでした。

そしてレースはスタートし、予想どおり2人の選手が飛び出しましたが、テレビ中継では、解説の増田明美を中心に、五輪のメダリストの高橋、野口、有森をはじめ、千葉や渋井など、昔の女子マラソン選手がワイワイと出てきて、レースそっちのけで自分たちの話をぺちゃくちゃとしゃべるので、そちらのほうがうるさくて困りましたわ(苦笑)。

結局、一山さんが優勝しましたが、期待されていた2時間20分を切って日本記録更新、ということにはならず、残念でした。

このコースならフラットで走りやすいし、今日は風もなく穏やかな天候だったし、さらに元「公務員ランナー」として知られる川内ら3人の男性のペースメーカーもついて、これ以上ないほどのお膳立てでしたが、ダメでした。やはり記録というのはそう簡単には出ませんね。

それにしても、長居の周回コースでのフルマラソンは、テレビで見ているとあまり面白くありません。マラソンというのは「旅」のような側面もあるけれど、今回は沿道や街の様子、たとえば大阪城や御堂筋なども出て来ず、ただ周回コースをぐるぐる15周回るだけ。テレビ中継でも「1キロ3分何秒です!」とか「1周何分何秒です!」とか叫ぶだけで、マラソン大会というより、単なる「記録会」のような雰囲気でした。

僕自身は何度も走ったことのあるコースなのでその点では興味深く見ましたが、そうでない人たちには、テレビを見ていても、例年のレースよりも面白くなかったのではないかと思うんすけどね。このコースは、自分が走るにはいいんですけど、「国際マラソン」の舞台としてはねぇ。まぁ、とは言え、これもコロナ禍の状況下だから止むを得ませんけれど。でも、せめて実況中継だけはもう少しマジメにやってほしかったな。

 

 

 

 

 

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北海道マラソンの思い出

2019年11月02日 | ランニング

東京五輪のマラソンと競歩が札幌で実施されることが正式に決まったようです。なのでもうこれ以上、この問題には触れないで、今日はにわかに注目を浴び始めた北海道マラソンに関する僕自身の懐かしい思い出をつづります。

今から23年前のことになりますね~

1996年(平成8年)8月25日に行われた第10回北海道マラソンに、当時47歳だった僕も出場しました。妻と2人で旅行も兼ねて行きました。

北海道マラソンは全国ネットでテレビ中継されるほど大きなレースで、この前年の大会では、故障で低迷していた有森裕子が久々に出場して優勝し、その実績を買われてアトランタ五輪の代表に選ばれました。そして翌96年7月に行われたアトランタで見事に銅メダルを獲り「自分で自分をほめたいと思います」という言葉が大きな話題になりました。

僕はこんな本格的なレースに出るのは初めてで、夏のレースに出るのも初めて。しかも制限時間が4時間。僕にとってはかなり厳しい条件でした。(現在の北海道マラソンは制限が5時間で、参加者も大幅に増えています)。

コースも、当時は真駒内陸上競技場からスタートして、札幌市内を時計と反対方向にグルっと回り、最後は大通りを走って中島公園がゴールでした。今は大通り公園がスタート地点で、コースも大幅に変わっていますけど。

さて、レース当日、真駒内陸上競技場へ行くと、入り口付近に、当時エスビー食品陸上部の監督だった瀬古利彦さんが一人で立っていた。妻も僕も、現役時代の瀬古選手の大ファンだったのでビックリ仰天。僕はとっさに妻に「瀬古さんのところへ行き!」と背中を押し、妻がそちらに向かった時、「瀬古さ~ん」と僕は声をかけ、瞬時にカメラを出し「妻と一緒に写真を撮らせてください」とお願いし、そして妻は素早く瀬古さんの横に立った。瀬古さんは「へぇ?」という顔をしたが、僕は待ったなしにシャッターを切った。

 
 これがその時の写真です。瀬古さんは、
 「へぇ?」という顔をしていますね(笑)。
 ど~も、失礼しました。

そして妻はスタンドへ行き、僕はランニングシャツとパンツ姿に着替えてトラックへ行くと、そこには、ゲストとして、去年の北海道マラソンで優勝した有森裕子さんが来られていて、僕らのすぐ目の前で「頑張って下さ~い」とやさしく声をかけてくれました。この時はつい1ヵ月前のアトランタ五輪で銅メダルを獲ったばかりなので、その有森さんに直接会えるとは思いも寄らず、これまた大感激でした。

さて、レースはお昼の12時05分にスタート。競技場のトラックを半周して外に出ましたが、ふと後ろを見るとほとんど人がいない。男女合わせて2,300人の出場者の中でも、僕はほとんど最後尾を走っていました。

季節は8月なので、札幌と言えども暑い。翌日の北海道新聞によると「正午のコース上の気温は27度。終盤には31度まで上がる厳しいコンディションだった」と書かれていました。

どれだけ暑かったか、今ではよく覚えていませんが、僕の頭の中は、4時間以内にゴールすることしかなかった。札幌の人たちは沿道から熱い声援を送ってくれていましたが、そんな中で時間ばかり気にして走っていたわけです。

ハァハァと走りながらようやく35キロ地点に来ると、大会係員が、 「ここはあと2分で閉鎖します。急いでくださ~い」 と、拡声器で叫ぶ。

交通規制を早く解くため、レースでは5キロごとに制限タイムが設けられているのだけれど、鈍足の僕はどのポイントでもずっと制限タイムギリギリのところを走っていた。ゴールにおける関門閉鎖は3時間59分だ。きわどい!

大通公園へ出るとますます観衆の姿が増え、いよいよゴールの中島公園が見えてきたときは必死だった。周りにも多くのランナーが走っており、みんな時計をにらみながら走っている。そしてゴールイン! タイムは3時間57分09秒だった。ホント、すれすれでの完走でした。

人混みをかき分けて来た妻が「よかったね」と声をかけてくれた。あぁ何とか完走できたぞ~。そう思ったとたん、寒気がしてガタガタっと体が震え、思わずそこにしゃがみ込んでしまった。

ゴール直後にここまで体調が急変したのは、長いマラソン人生でこの時だけでしたが、しばらく休んでいるうちに少しずつ回復し、事なきを得ました。レース中、あまり暑さは感じなかった気がするのですが、翌日の新聞によると、約2,300人の出場者中、完走したのが1,850人だったそうで、やはりそれなりに過酷な条件だったのでしょう。

この時の古い写真を引っ張り出してみますと


 
これが真駒内陸上競技場でのスタート風景。
妻がスタンドから撮ってくれたものです。
僕はこの大集団の最後尾にいました。

 

 
 やっとゴールして、しばらく休んだ後です。
 まだ「あぁしんど」という顔をしていますね。


 
 レースの翌日の北海道新聞1面。
 女子の部で優勝した安部友恵選手が大きく載っています。
 男子の部では外国人選手が優勝していました。


そして同じ新聞のスポーツ面では、2ページにわたり完走者全員の順位と記録が掲載されていました。僕は3時間57分09秒で、男子の完走者1681人中、1597位でした。ギリギリでゴールインした人たちがこれほど沢山いたとは

 
 一番左が順位でその右はゼッケン番号です。


翌日から妻と一緒に、富良野~帯広~釧路などを観光し、旅行気分も満喫しました。マラソンで完走できたので、期待していた以上に楽しい旅行となりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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マラソンランナーの知られざる弱点?

2019年07月08日 | ランニング

昨日、オーストラリアのゴールドコーストで行われたマラソン大会で、日本の設楽悠太(したらゆうた)選手が優勝した、というニュースを見ました。2時間7分50秒の好タイムで、ケニアの強豪選手らを制しての優勝は、日本マラソン選手の久しぶりの快挙であると言っていいでしょうね。

ところで、ニュースの中で、 「設楽選手はユニフォームが擦れて出血しながらも見事に優勝を飾りました」 という説明があったのです。

え? ユニフォームが擦れて出血? どれどれ と、テレビ画面をよ~く見ると


 

これはネットに載った設楽選手のゴールの写真ですが、わかりますか?  両胸が赤く染まっていますよね。

つまり「ユニフォームが擦れて」というのは、具体的に言えば、乳首が(あぁ恥ずかし)ランニングシャツに擦れて血に染まったということでした。でも、それをそのままニュースでは言えないですわねぇ。だから「ユニフォームが擦れて出血しながらも」という遠回しの表現になったんでしょう。

これを見て僕は「ある、ある!」と自分の経験から大いに納得したのです。

何しろマラソンを走っている間は、ずっと両腕を振っているわけですよね。だからどうしてもシャツと乳首が擦れます。擦れて擦れて擦れ続けます。

僕もそれで、あるマラソン大会のレースを終えた時、ひどくヒリヒリと痛むなぁと思ってシャツを脱いでみたら、両方の乳首が赤くうっすらと血がにじんでいたことがありました。

仲間に話すと「よくあること」という返事もありました。個人差もあって、皆が皆、そうなることはないようですが、少なくとも僕はそうなったのです(どんな個人差やねん)。

「そこに傷テープを貼って走っている人もいるよ」という仲間の話を聞き、僕もそれからは乳首に(何回書くねん。メチャ恥ずかしいわ)、バンドエイドとか絆創膏を貼って大会に出ることにしました。

ある時、レース後にそれを剥がすのを忘れたまま夜になり、風呂に入る時に鏡に移った自分の胸を見てビックリした、ということもありました(笑)。

貼ったものは、用が済めばすぐに剥がしましょうね(何のアドバイスや)。

ゴールドコースト・マラソンで優勝した設楽選手は、次回は9月に行われるグランドチャンピオンシップ(MGC来年の東京五輪代表を決める重要レース)に出場するということですから、今度は必ずその部分にテープを貼って走ってください。あれは痛~いですからね~、ホントに。

 

 

 

 

 

 

 

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初マラソンと丹波篠山

2018年11月21日 | ランニング

先ごろ兵庫県の篠山市で「丹波篠山市」への市名変更の賛否を問う住民投票が行われましたね。僕も篠山市とはいささか縁があるので、この件に関しては注目をしていました。

「篠山市」が「丹波篠山市」になったら、何が変わるのか? なぜ「丹波」を上につけるのか? と思われる向きもあるかと思いますが、いろいろな背景や事情があるようです。

さて今回の「騒動」の発端は2004年(平成16年)でした。「平成の大合併」で「丹波市」という名の市が誕生したのです。兵庫県の氷上(ひかみ)郡というところの6つの町が合併して市になろうという時、新市名を公募したところ、1位が旧の郡の名前をとって「氷上市」だった。そして2位が昔は丹波の国だったことから「丹波市」。3位が当節流行のひらがなの「ひかみ市」。しかし合併協議会は1位の「氷上市」を選ばず、2位の丹波市に決めた。そのほうがブランド力があるから、というのが理由だったそうです。

しかし丹波の国は兵庫県の東部一帯だけでなく、京都府の中央部や大阪府の一部も含まれており、「丹波市」誕生の当時から、篠山市だけではなく、京都府などからも非難されたそうです。つまり「丹波市」といえば、丹波の本家本元に聞こえるので、その名前を独占するな。丹波を付けたければ「丹波〇〇」とかにせよ、と。実際京都には「京丹波町」というところもありますしね。

そして丹波市が誕生したことで、篠山市が産地で「丹波産」として出荷していた黒豆など有名な生産商品が、「丹波市産」と勘違いされることになり、篠山市は大きな打撃を受けてきた、ということもあるようです。

そんなことで、今回、篠山市の上に「丹波」をつけて「丹波篠山市」にしようという動きが盛り上がって、住民投票になったというわけですよね。しかし、住民投票というのは投票率が50%を上回らなければ成立せず、それ以下なら開票もしない、ということになっており、まずは勝敗より投票率に注目が集まったわけですね。

新聞、テレビなども、先日18日の住民投票の投票率はどうなるのか? 
と、盛んに報じていましたが、フタを開けてみると70%近い投票率で、しかも賛成派が反対派を上回りました。これを受けて、市長が市議会に市名変更の条例を提案して、議員の賛成多数なら「丹波篠山市」が誕生する、ということになります。まぁ、住民の意思が賛成多数なんだから、住民の代表たる市議会も反対はしにくいと思いますけど

僕も「丹波」と言えば、やはり篠山を思い浮かべますね~

冒頭に、僕もいささか篠山市とは縁がある、と書きましたが、それは、僕が初めてフルマラソンを走ったのが「篠山ABCマラソン」だったからです。1982年(昭和57年)の3月。33歳の時でした。

それ以来、50歳代前半まで、フルマラソンは20回完走し、ウルトラ100キロマラソンも3回完走しました。中でも初めてのマラソンが、この地、篠山での大会だったので、一生の思い出の場所となっています。

当時は今と違って、マラソン選手以外の素人ランナーが出場できるマラソン大会は全国でも数えるほどしかありませんでした。まぁ、ランニング人口も少なかったですし。そんな折に、当時はまだ市ではなく篠山町でしたが、1981年(昭和56年)に誰でも参加できるマラソンの大会が新たに誕生したのです。その頃は毎朝仕事に行くまで、ラジオの朝日放送「おはようパーソナリティ」を聞いていたので、道上洋三さんがその第1回の大会に出て見事に完走されたことに刺激を受けました。

よ~し来年の第2回大会には出ようと、その時決意したのでした。フルマラソンどころか、5キロや10キロのレースにも出たことがなかったのに

そしていよいよ翌年の3月。朝早くに妻と2人の小学生の息子たちと家を出て、梅田から篠山へ直行するマラソンバスに乗り、会場へ着きました。

繰り返しますが、この時は第2回大会でした。そして来年の3月は第39回だそうです。もう、そんなになるんですね~。びっくりしますわ。

スタートの号砲で、初マラソンの僕はノロノロと走り出したのですが、みんなむちゃくちゃ飛ばすのでビックリしましたが、それはスタート直後だけで、しばらくすると周囲のスピードも落ち着いて、初めて経験する「レース」の感覚にかなりの興奮を覚えました。沿道では地元の人たちが応援してくれるのも、とても元気づけられました。

折り返し地点から元の道を走り、登り坂では走らずに歩き、タイムなど関係ない、めざすのは完走のみ、と何度も言い聞かせながら、だんだんゴールに近づいてきたときは胸が躍りました。

そしてスタート地点と同じゴールへ戻ってきたら、当時9歳だった長男が僕を見つけて、満面に笑みを浮かべたことも、はっきり覚えています。

そしてゴールイン。

タイムは4時間23分でした。ゴールの場所では、地元の方たちが、「デカンショ節」を歌いながら踊って、ランナーたちを迎えてくれました。

♪ デカンショ~デカンショで半年暮らす ヨイヨイ 
あとの半年 寝て暮らす ヨーイヨーイ デッカンショ 

♪ 丹波篠山 山家の猿が ヨイヨイ 
花のお江戸で 芝居する ヨーイヨーイ デッカンショ 

♪ 丹波篠山 山奥なれど ヨイヨイ 
霧の降るときゃ 海の底 ヨーイヨーイ デッカンショ

今も耳に残っているこの歌です。

続いて、翌年の3月もまた篠山マラソンに出ました。もう、この頃は、僕は篠山が大好きになっていました。

2度のマラソンを篠山で完走した自信を得て、その年の秋、3度目のマラソンとして、思い切ってニューヨークシティマラソンに行きました。こうして、丹波篠山を第一歩として、僕のマラソン人生が始まったのです。

こう書いていても、
やっぱ
り「丹波篠山」というほうが、雰囲気が出ますよね~

 

  
 1982年の初マラソンのゴール直後。
 無事に完走できて、とても嬉しかったデス。

 

 

 

 

 

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ニューヨークシティマラソンの思い出

2017年11月05日 | ランニング

きょう11月5日はニューヨークシティマラソンが開催される日です。

と、まあ、いきなりアメリカで行われるマラソンの話などを出して恐縮ですが、実は僕は1983年(昭和58年)に行われたこのレースに参加しました。その時は34歳だったのですが、あれから34年が経ちました。34歳の時から34年経ったということで数字が揃ったので(笑)、きょうはこのニューヨークシティマラソンの思い出を、少し記してみます。

またこの旅行は、僕が生まれて初めての海外旅行でもあったので、どんな些細なことでも強烈な印象を受けたものです。たとえば

ニューヨークの街を歩いていると、前を歩いていたおじさんが後ろを振り向き、二本の指を口に当て「ピュ~~!」と口笛を吹いてタクシーを止めたのを目の前で見て、「へぇ~、カッコええなぁ。さすがアメリカやなぁ」と、すご~く感心したものです。

また、賑やかな路上で男女が抱き合ってキスしている。「チュ~!」という音がまわりに聞こえるほどの派手なキスを延々と続けている。それを間近で見て「うむ。さすがぁ」と感心しました。当時の日本では見たことのない光景でしたからね。

とにかく、どんな細かいことにも目を見張り、仰天をし、外国ってこういうものなんだ~、と感心ばかりしていた旅でした。

さて、ネットで見ると、昨今のニューヨークシティマラソンの参加者は5万人を超えています。僕が参加した時は1万7千人で、それでも超特大の規模のマラソン大会だという印象が強かったのですが、何と今は5万人規模とはねぇ。この大会も益々盛況になってきているようです。

僕はこの前年の3月に初めてフルマラソン(丹波篠山マラソン)を走りました。その頃、朝のラジオ番組「道上洋三のおはようパーソナリティ」で、その道上さんが篠山マラソンを完走したので、「あれなら僕でも走れるのでは」と思って練習を始め、翌年の篠山マラソンに出たというわけ。で、無事に完走できました。

次の年の3月にまた同じマラソンに出たあと、さて次はどの大会に出ようかと思っていた時、たまたまランニング雑誌で「ニューヨークシティマラソンツアー」の募集記事を見つけました。ツアー代金も何十万という高額で、2人の小学生の息子を抱える身でもあり、悩みましたが、どうしても海外を走りたいという気持ちを抑えることができず、妻に打ち明けたところ、快く行かせてくれたのは嬉しかったです。

まあ、マラソンを走ると言っても、僕などは記録も4時間台で完走するのがやっとという程度でした。このニューヨークでも約4時間半かかり、順位も完走者が1万3千人くらいの中で1万2,227位と、ほぼビリに近い順位でした。それでも、ニューヨークの街をゆっくり眺めながら走れたので、むしろ「お得」でした。同じツアーで行った人の中には、自己記録めざして頑張り過ぎて沿道の風景はほとんど目に入らなかったと言ってました。これではもったいないですよね~

このレースはニューヨークの5つの全ての区を走る片道コースになっています。スタートがステッタン島という一番南側の区で、そこからベラザノ橋を渡ってブルックリン区に入ります。ここは黒人のほか、プエルトリコ、ギリシャ、イタリア、ユダヤなどの系統の人たちが居住しており、そんな人たちが声援を送ってくれました。その次がクイーンズ区で、この辺からマンハッタンの摩天楼が視界に入り、中間地点を過ぎてクインズボロ橋という美しい橋を渡ってマンハッタン区に入り、いったんブロンクス区に入ったあと、再びマンハッタン区に戻って、さらに黒人街のハーレムの真ん中を走り、最後は5番街からゴールのセントラルパークへと続きます。まさに「NY観光コース」でした。

また、この日はスタートからゴールまでずっと雨が降っていたのですが、にもかかわらず沿道は大観衆で埋まり、僕が胸に日の丸とJAPANの字が入ったシャツを着ていたので、あちらこちらから「ヘーイ、ジャパ~ン!」という応援を受けました。握手やハイタッチを求めてくる人も大勢いました。日本の沿道の観衆よりとびきり陽気だし、大声で声援を送ってくれるので、それはもう、賑やかだったこと!

そんなことで、毎年、この季節になると思い出深かったニューヨークを思い出します。それでもブログにはあまりそのことは書いてこなかったのですが、34歳の時から34年が経ったという記念の年(?)なので、ちょっと書いてみました。

もしニューヨークシティマラソンをテレビ中継してくれたら、沿道の光景なども改めて思い出せるのでしょうけど、当然ですがそんな中継もありませんよね。

本棚の奥にマラソンに関するいろんな資料を詰め込んだファイルがあったので、今朝は久しぶりにそのファイルを引っ張り出してみました。その中から、この大会の完走証を見つけたので掲載します。34年の歳月を象徴するかのように、紙も変質してきて、隅っこの方は黄ばんでいますけどね~


  


右側の真ん中あたりに黒い字で僕の名前があり、その下に4時間28分26秒というタイムと、12,227位という順位が書かれています。これを見るのも、たぶん34年ぶりのことだと思います。ブログをしているおかげで、こんなものも探し出し、ここに残すことができるので、いい記念になります。

 

  


で、これは過去に一度載せたことがありますが、ゴールの瞬間です。僕が死んだとき、この写真を棺の中に入れてもらおうと思っています。今ではもう、なかなかランニングを続けるのは難しいですけど、死んでからまたゆっくり走ろうと思っていますので(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

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スカイランニングの吉住友里さん

2017年05月31日 | ランニング

 

スカイランニングってご存知ですか。

標高2000m以上の急峻な山岳を走るスポーツで、コースの多くは険しい岩場であったり、時には雪の上や氷河の上も走ることがあるそうです。上の写真を見ても分かる通り、メチャメチャ恐ろしそうなランニングのレースです。

先日、テレビを眺めていたら、スペインの何とかという島で開催されたスカイランニングのレースの世界大会・女子の部で、日本の吉住友里という選手が優勝し、世界タイトルを獲得した、というニュースが流れました。日本選手の快挙です。とりあえず、こちらをご覧ください。

 http://skyrunning.jp/2017/05/13/yuri-transvulcania/


と、こんなレースなのですが、何とも雄大な背景ですね。

ところで、そのニュースが流れた時、僕は、
「えっ、吉住さん?」
と、身を乗り出し、テレビにくぎ付けになりました。なぜなら、この吉住友理さんは、わが町藤井寺出身で、かつては息子たち、そして今はモミィが通っている小学校の卒業生だったのです。つまり息子たちの小学校の後輩でモミィの先輩、ということで、その実家もわが家の近くのようでした。テレビに映ったのはその吉住さんだったのです。

吉住さんのことを知ったのは、5年前の10月、藤井寺の広報紙に載っていたのがきっかけでした。この年の北海道マラソンで吉住さんが優勝したという記事でした。

北海道マラソンといえば僕も参加したことがあるので、そのレースの規模の大きさはよく知っています。かつて有森裕子さんがこの大会で優勝してアトランタオリンピックへの出場権を得、そのアトランタで銅メダルを獲得して「自分で自分をほめたい」という名セリフを残したことはよく知られています。その大会で優勝したのですから、吉住さんも大したものです。そして、世界選手権の女子マラソンの代表の座も視野に入ってきたということでした。

マラソンをしていた頃は、近くにある大和川の堤防をよく走りましたが、広報紙を読むと、吉住さんもそのあたりをランニングしていたというので、ひょっとしたら何度かすれ違ったりしていたかもしれないなぁ、などと想像を巡らしたりして、親近感を持った次第です。

そして翌年の北海道マラソンでは、事前に新聞の大阪版に、
「駈ける27歳市民ランナー、北海道マラソン連覇狙う」
という吉住さんの記事も載って、期待が膨らんだのですが、残念ながら5位に終って連覇はならず、世界選手権の代表の座も逃してしまいました。それ以来、吉住さんに関する記事とは巡り合うことはなかったのですが

そんなときに、テレビでスカイランニングという種目で世界タイトルを獲った吉住さんのことを知り、いやぁ、ホントに懐かしかったです。スカイランニングという新しい境地で、彼女の努力が再び実を結んだというこのニュース。何だか僕も勇気づけられた気がします。

吉住さんは近年一度母校の小学校へ来られたことがあったようで、モミィがそう言っていました。一度と言わず、どうかまた来てください。次の日曜日は小学校は運動会なので、ぜひゲスト出演などをしていただければ、見学する僕たちもうれしいんですけどね。ま、お忙しい身だから、無理でしょうけど。

 

終わりに余談ですが、ヤフーの検索のところで「藤井寺 小学校 吉住友里」と入力したら、自分のブログが出てきました。「僕のほそ道~のん日記~」と出たので、へぇっ? という感じで、ちょっとびっくりしました。


藤井寺 小学校 吉住友里

 

 

 

 

 

 

 

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いま話題の人と四万十川ウルトラマラソンとの奇妙な関係

2016年11月12日 | ランニング

毎日いろんな世界のいろんな出来事が次々と起きるので、
新聞、テレビ等のニュースも連日、大忙しのことだろう。

その一つに、山本有二という農林水産大臣の話題がある。
ま、「話題」というより「問題」というべきだろうけど、
10月中旬の某政治家のパーティでTPP承認案をめぐる
「強行採決」発言をして「不適切だ」と責任追及をされ、
謝罪をした後、また今月1日の某政治家のパーティでは、
「冗談を言ったらクビになりそうになった」
と凝りもせずに、それをネタにした発言をして、
またまた野党などから大批判を浴びることとなり、
あげくに2日前、国会で不信任決議案を出されて、
まあ、それは与党が数の力で否決したけれど、
「よくもまぁ、アホなことばっかり言うわ」
…と、世間で評判になっている人物である。

そして、この人物の名前を最初に聞いた時、
「あっ、あの、高知県の山本有二か!」
と、口に出してしまうほど、思い当たることがあった。

あれは1996(平成8)年のことだから、今からちょうど20年前である。
30代から50代までの僕のマラソン人生の中でも、特に印象深いレース、
高知県の四万十川ウルトラマラソンに出場した時のことである。

今年は10月16日に開催されたようで、第22回だった。
僕が走ったそのレースは、96年の10月20日に行われ、
当時はまだ第3回で、参加者も今ほど多くなかった。

そしてそのレース当日は、衆議院議員総選挙の日だった。
(これが、今日のテーマと密接に関係しているのです)

四万十川ウルトラマラソンは、100キロを走り抜くマラソンである。
午前5時にスタートして、僕のタイムは13時間余りだったので、
ゴールしたときは、午後6時を過ぎていた。
スタート時は日の出前で、ゴールした時は日が暮れていた(笑)。
そのあいだ、ず~っと走り続けるのである。気の長い話ですよね。

コースは次のようになっている 

http://www.shimanto-ultra.jp/course/

くねくねとしたコースで、いくつもの山中や村を通り抜ける。
30キロ地点を過ぎたところで、四万十川が見えてくる。
そこから、川沿いの道をトコトコと走り続けるのだ。

なにしろ13時間も走り続けるのだから、これほど単調なことはない。
脚にはどんどん疲労がたまってくるが、頭の中は常にヒマである。
ボンヤリしたり、完走後のビールを楽しみにしたり、
まわりの人たちを見て「みんなしんどいねんで」と、
自分に言い聞かせたりして、ひたすら黙々と走る。

そのとき、衆議院議員選挙の高知選挙区候補者のポスターが、
あちらにもこちらにも、いっぱい貼ってあるのが目についた。

たいてい、そんなものは無視するのだが、
一人、目についた候補者がいた。
それが「山本有二」だった。

なぜなら…僕は中学の頃から大学の頃にかけて、
本ばっかり読んでいたのだけど、中でも山本有三の、
「女の一生」とか「路傍の石」とか「真実一路」とか、
そういう小説に魅せられて、何度も繰り返し読んだものだった。

だから「山本有三」の名前を見るだけでハッとするのだ。
そこへ「山本有二」という4文字が目に飛び込んできたのだから、
最初は「あの山本有三か」と思って驚いた(そんなわけないやろ!)。

それから、長~い長~いコースをひた走りながら、
僕はどれだけ多くの「山本有二」のポスターを見たことか。
走っても走っても「山本有二」のポスターばかり目につく。
70キロ、80キロと走り続けていると疲労も激しくなってくる。
するとそんなポスターも、目ざわりな存在になってくるのだ。

だからこの名前は、僕の記憶の奥底に染み込んでいたのだろう。

…そんなポスターのことは、忘れていたはずなのに。

あれから20年…

その山本有二という人が農林水産大臣になったのも知らなかった。
もう、すでにその名前すら、すっかり忘れていたのでね~

知ったのは、今回の「失言騒動」があってからである。

初めてこのニュースでその名前を耳にしたとき、
「はぁ? これって四万十川の山本有二じゃないか」と思い、
ネットで調べたら、やはり高知県から出ている国会議員だった。

やれやれ…。こんなことで「20年ぶりの再会」だなんてね~

この人は自民党の衆議院議員として、すでに9期も務めている。
政治家として大ベテランで、こうして大臣にもなっているのに、
なんでそんなつまらないことを言ったのだろうか、と思う。
長いこと「先生、先生」とチヤホヤされていると、
知らず知らずに気が緩んでくるんでしょうかねぇ。

ま、おかげでこのブログにひとつネタができて、
四万十川の思い出にも浸ることができましたけどね。


さて、終わりに、せっかくですので、
(何がせっかくなのかわかりませんが)

その時の写真を載せます。

山本有二のポスターは写っていませんけど(笑)

 

 
 40キロ地点の給水所で。この時はまだ余裕がありそう。
 同行した妻か長男かどちらかが撮ってくれた写真です。

 

 
  ここが何キロ地点なのか、よくわかりませんが、
  
主催者が撮影してくれたのを購入した写真です。
  

 

 

 

 

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滝畑ダムで車が転落死亡事故

2016年05月30日 | ランニング

マラソンをしていた頃、大阪府の南にある河内長野市の奥の奥、和歌山県との県境も近い滝畑ダムへよく行った。河内長野の市街地から山間道路を約10キロ行くとそのダムがあり、周りの景色もよく、キャンプ場も整備されて、なかなかの人気スポットだ。僕にとっても、数々の思い出が詰まった場所である。

 

    

今は廃止されたようだが、以前、滝畑ダムを周回するコースで駅伝大会が開催されていた。1周約5キロのコースで、僕たち「松原ランナーズ」のチームも、毎年これに参加していた時期があった。

この駅伝は、高校生から一般まで、すべて一緒に走る。ある時は「〇〇高校野球部」のユニフォームを着た高校生と競り合ったこともあった。中年の身で高校生と競り合うというのが、とても痛快であった。

次男が高校の陸上部に所属していて、その学校も出場した大会があった。その時、僕も出場していたので「親子対決!」と、はしゃいだものだった。

100キロマラソンにチャレンジしていた頃は自宅から、河内長野を経由して、約30キロ先となる滝畑ダムまで走った。河内長野から滝畑ダムまでは登り道だったが、これが特に脚力を鍛えてくれた。そして、駅伝の時には人で埋まっているダム周回コースもその時は人影もなく、そこを一人でトコトコ走り、また同じ道を家まで走って帰った。

その自宅から滝畑ダムへの往復約60キロランが、練習の総仕上げだった。これを完走したら準備はOK。あとは本番の100キロマラソンのスタートラインに立つだけだった。


そんな思い出深い滝畑ダムで、昨日、信じられない事故が起きた。


   
    今朝の朝日新聞の1面です。

男性6人乗りのワンボックス車が、ダム湖に落ちて、乗っていた男性6人のうち5人が死亡したというニュースが報じられたのである。

なんということだろうか。

あの辺は、そういうことが起きないよう、十分に安全にできている。車が車道から外れて、あのフェンスを破ってダムへ落ちるなど、およそ考えられないことだった。よほど異常な運転をしたとしか思えない。バーベキューをした帰りというのだから、運転手はお酒でも飲んでいたのだろうか…?

ゴールデンウィークから、ずっと車の大きな事故のニュースが続いている。車の運転には十分過ぎるほどの注意を払わなければならないことは、みんなわかっているはずなのに、毎日のように悲惨な事故が起きる。


同時に、かつてその滝畑に住んでいた〇北君という友人のことを思い出した。

彼は滝畑ダム近くのキャンプ場で、子どもさんと一緒にローラースケートを楽しんでいた時、足を滑らせて転倒し、頭を強く打った。そして、まだ30代の若さで亡くなったのである。今から30年ほど前のことだけれど、その知らせを受けた時のショックを、昨日の事故のニュースを見て、また思い出した。

本当に、世の中、一寸先は闇である。

 

 

 

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走る仲間たちといっしょに

2015年12月04日 | ランニング

一昨日の夜は久しぶりに「らんなーず」の仲間たちと共に飲んだ。

場所は日本一高いビル「阿倍野ハルカス」の中の1軒のお店で、
集まったのはドイロン君の他、幹事を務めてくれた飯○君始め、
東○、丸○、高○、多○、秋○…らの諸君と、僕の8人だった。
いつも顔を出す北○君は、都合が悪くて欠席。少し残念だった。

久しぶりに会ったので、話が大いに弾んだ。
ま、何と言うことはない話ばっかりですが。

酒豪の丸○君は「ここまで走ってきました」と言った。
家は富田林だから、この阿倍野までかなりの距離である。
若い頃からランナーとして素質が抜きん出ていたけれど、
50歳を過ぎた今でも、相変らず元気バリバリのようである。
阿倍野に早く着いたので立ち飲み屋で一杯やってきたそうだ。
(お酒好きは相変らずやなぁ)

メンバーの中で今も市役所で現役で働いているのは、
この丸○君と、高○君だけである。

市民病院の検査技師だった秋○君は、
今は和歌山の病院で働いているという。
通勤は、片道で2時間もかかるそうだ。
61歳だけれど、頑張っていますね~

このブログに時々登場するドイロン君は、早期退職をしていたが、
「60歳になったので、やっと世間の人並みになった気分ですわ」
と笑っていた。定年の歳を迎えやっと気持ちが落ち着いた…と。
でもドイロン君は今はライターとして多忙な日々を送っている。
(僕みたいに毎日ぶらぶらしているわけではありません)

そのドイロン君はこの秋、きわめて危険な病魔に襲われた。
でも、回復が早かったので、少し顔がふっくらしていたが、
いつもと変わらず、明るく、元気そうだったので安心した。

現役で仕事をしている高○君は、今月の奈良マラソンに出るという。
仲間たちがレースに出ることも少なくなったが、彼は頑張っている。

幹事の飯○君は毎日堺市の大泉緑地というところを走って、
走り終えるとスポーツジムの風呂に入るのが日課だそうだ。

そういえば、去年の10月、ドイロン君のお誘いで旧街道を歩いた時、
飯○君も入って3人で歩き、そのあと居酒屋で飲んだものだった。

「街道をゆく…な~んちゃって」 

………………………………………………………………

思い返せば、この仲間たちとはもう30年以上、
マラソンなどを通した付き合いが続いている。

僕が33歳だった1982(昭和57)年のこと。
まだランニングがブームではなかった頃だが、
丹波篠山マラソンに出て4時間台のタイムで完走した。
翌年も篠山マラソンに出た後、海外を走りたくなった。
それまで海外旅行をしたことがなかったので、
同じ行くならマラソンで行きたい…と思ったわけ。

で、当時サラザールという選手が世界記録を出した
ニューヨークシティマラソンのツアーに申し込んだ。
小学生の息子たちがいたので、行ったのは僕一人だ。

そのレースも無事に完走できて、帰ってから、
職場(市役所)の「職員組合ニュース」というのに
「ニューヨークマラソン完走記」を数回に分けて書いた。

それがきっかけで市役所の人たちに知られることになり、
「前からフルマラソンを走りたかった」という有志が次々に現れ、
では同好会を作ろうとなり「○○らんなーず」が誕生したわけだ。

それ以降、多くの走る仲間が集まり、いろんなレースに出た。

僕は一応「先駆者」だったというだけで、記録は平凡である。
仲間たちはみな、あっというまに僕の記録を追い越して行った。

北○君はフルマラソンを2時間30分台で走り、
トライアスロンも国際大会で活躍するほどだった。

ドイロン君もフルマラソンやトライアスロンで実績を残し、
萩往還250キロ(3日間走りっぱなし)のレースを何度も完走した。
250キロですよ。「走りながら眠るのです」と彼は笑っていたが、
250キロを走り続けるなんて、人間ワザとは思えないですよね。

今から20数年前、その北○君、ドイロン君、丸○君と4人で、
北海道のサロマ湖100キロマラソンに行ったことも思い出深い。
4人のうち、僕が一番完走が危ぶまれていたこともあって、
僕が最後にゴールしたら、3人が我が事のように喜んでくれた。

東○君と2人で茨城県の勝田マラソンに行った時は、
前日の昼の列車の中からビールなどを飲み続け、
夜も飲み続け、レースの朝はひどい二日酔いだった。
そういう、今では笑ってしまう思い出も少なからずある。

 …………………………………………………………………

一昨日は、ビールや焼酎の水割りなどを飲みながら、
ワイワイ騒ぎ、つい時間の経つのも忘れてしまった。

共通の思い出があまりにも多いから、
いくらでも話題が飛び出してくるのだ。

本当に楽しいひと時を過ごすことができた。

最近、人前に出ることが面倒になってきていたところだが、
やはりこうして気の合う友人たちと過ごす時間というのは、
胸がざわざわと高鳴り、心の中がポカポカと温かくなる。

こういう集まりは自分の人生に必要なものなんだ…としみじみ。

 

 

 

 

 

 

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リハビリをする人 される人

2015年11月06日 | ランニング

9月22日の夜、突如左のふくらはぎが痛み、3日目ぐらいからさらに痛みがひどくなり、26日に整形外科病院へ行ったら「肉離れです」と診断された…という話を、9月29日のブログに書きました。

それ以降、毎週リハビリに通い、6週目にあたる一昨日、ようやく完治し、リハビリ担当の人から「終結宣言」をしてもらった。

今回、僕を担当してくれた若い男性の理学療法士さんは、
「もう大丈夫でしょう。あとはご自分で、これまでリハビリで行ってきたストレッチや患部の筋トレを続けられて、徐々にジョギングなどを始めてください。肉離れは癖になることもありますので、運動後は、ストレッチや筋トレで必ずケアしてくださいね」
ストレッチはまぁわかるが、運動後の筋トレもケアのひとつとは知らなかった。…ということで、病院通いもひとまず終わった。

思えば、発症した頃は、かつて経験したことないほどの痛みだった。最初は患部を冷やすことから始まって、週を追うごとにリハビリ内容も、患部のマッサージや各種ストレッチから、後半になると両足や片足でピョンピョン跳んだり、右足を浮かし左足だけで爪先立ちを繰り返したり、同じく右足を浮かして左足だけで膝の曲げ延ばしをするスクワットなど、かなりきつくてバランスも取りにくい運動も、指示されるとおり何とかできるようになり、この度の「卒業」となった。

で、その翌日に当たる昨日は、スポーツクラブも休みだったので、回復度を確かめたくてウズウズしていたこともあり、自宅から大阪城まで歩いてみようと思い立ち、9時ごろに家を出た。ざっと15キロほどの道のりである。

大和川を渡り、長居通りを歩き、かつての大阪女子マラソンのコースだった今里筋から勝山通り、そして桃谷に出てから、JR環状線に沿って鶴橋、玉造と歩き、その次の森之宮に大阪城公園があるので、そこをゴールと決めて歩いた。しかし…

数日前までの涼しさから一転して、昨日はまるで夏のような強烈な日差しが照りつけ、その暑さにバテてしまった。おまけに足も重い。どうにか鶴橋まで歩いたけれど、あと環状線の駅2つ…まで迫りながらダウン。ちょうど大型スーパーがあったので、冷房の効いたその建物に入って椅子に座り、やれやれ…あぁしんど。妻にメールをしてから、電車に乗って帰宅した。「無理してはダメよ」と妻から返事が来た。

目標の9割以上は歩けたというのに、ゴール目前での中止。これまでの自分なら、ここまで来たのだからもう一息頑張ろう…と思ったはず。それを思いとどまったのは「進歩」かも知れないが、それにしてもだ…「徐々にやっていってください」とリハビリ師に言われていたのに、いきなり長い距離にチャレンジしてしまった。この調子乗りの性格はなかなか直りませんわ。というより、もう直らんか?


さて、話はそのリハビリ師さんのことになるのだが、20代後半か30代前半の男性である。初めてリハビリを受けた時、パソコンで僕のデータを見て「ランニングをしておられるんですね」と言ったので「いや、まぁそれは昔のことで、今は歩くか軽いジョギング程度です」と答えた。
「マラソンのレースには何度か出られたことあるんでしょう?」と彼。
「えぇ、30代から50代の前半まで出ていました」と僕。
と会話を交わすのだが、彼はその間、僕のふくらはぎをなでたり押さえたりしている。マッサージをしてもらいながらの会話である。


「へぇ、そうなんですか。どんなレースに出られました?」
「最後は52、3歳の時、赤穂の100キロマラソンに出ました」
「えっ? 100キロマラソン? すご~い」彼の目が輝いた。
「それと、北海道マラソンとか、ニューヨークマラソンとか…」
ちょっと自慢しちゃいました。彼はそのたびに、「へぇ」と驚いた様子。

彼にはそれなりの理由があったのだ。
「僕もですね…実は12月に初めてフルマラソンに出るんですよ」
ということだった。

なるほど。そういうことで、僕の話に強い関心を示したわけだ。

「えっ? そう。どこの大会ですか?」と僕が聞く。
「12月13日の奈良マラソンです。今からドキドキしているんですよ」

それから、合計6回、リハビリを受けたけれど、僕がリハビリの指導を受けて、必要なことがひと通り済んだあとば、彼は僕の足をいろんな角度で持ち上げたり、押さえたりさすったりしながら、話はマラソンのことに終始した。

「レースには何回くらい出られました?」と彼。
「そうですね、20回数回ですかねぇ」
「えぇ、そんなに。どれくらいの記録をお持ちですか?」
「自分のフルマラソンの最高記録は3時間27分です」と僕が言ったら、
「そんなに速いんですか!」と驚いていたようだ。

今でこそマラソン大会の制限タイムは6時間とか7時間で、4時間台、5時間台で走ったらいいわ…という雰囲気があるが、僕らの時代は「サブスリー」(3時間を切る)のが市民ランナーの夢だった。2時間30分台で走った友人がいるし、ここへコメントをくれるドイロン君も、ほぼ3時間ジャストという記録を何度か出している。

3時間台前半の記録を持っている友人は沢山いる。だから僕の自己記録など、そんな友人たちの記録から見れば平凡なものである。だから、あまりいろんなことを質問されてもなぁ。えらそうなことは言えない。

その若いリハビリ師は「何とか5時間を切りたいです」と言う。
まあ、それなら何とか僕の経験でも、お役に立つかもしれない。
(奈良マラソンの制限時間は6時間です)

そして「どういうペースで走ればいいんですか?」とか、「練習ではどれくらいの距離を走ったらいいのですか?」とか、「空腹に備えてチョコレートとか持って走った方がいいですか?」とか、いろいろ質問をしてくるのである(チョコレートは溶けてしまうで~)。

僕は…
「そうやねぇ、最初は飛ばしたくなるけど、我慢して抑えてね」とか「練習では、やはり30キロは走っておいたほうがいいでしょね」とか、いろいろ答えるのだけど、僕だってド素人である。あまり参考にはなりませんよ…と一言添えておく。

そんなふうに、リハビリ師さんが僕にいろいろ走ることに関して質問して、僕が逐一それに答えていると、そばにいた人たちから見ると、どっちがリハビリをされているのかわからへん…みたいな雰囲気でしたね~(笑)

で、マラソンの「先輩」である僕の話が終わると、今度は「では立ってください。スクワット、やってみてください」と言われるまま、僕は「はい。こんな感じでいいですか」と聞き「あ、そうです、いいですよ~」という返事をもらう。ここで立場が普通に戻るのである。


一昨日、最後のリハビリを終えて、その人とはお別れとなった。

「12月の奈良マラソン、完走されることを祈ってます」と僕。
「ありがとうございます。頑張ります!」とリハビリ師さん。
この言葉で、彼との6週間の「お付き合い」は終わった。
それにしても、彼の奈良マラソンの結果、気になりますね~

頑張ってくださ~い。

でもレースの翌日、足を引きずって病院へ出勤したら、
リハビリを受けに来た患者さんと間違われまっせ~(笑)

 

 

 

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外国人ランナーとの “再会”

2014年12月11日 | ランニング

ランニングを趣味にしていたおかげで
いろんな人と知り合えたのは、
自分の人生にとって大きな収穫だったと思っている。
今も、毎日ではないが、近くの大和川の堤防に出て、
チョロチョロ走ったりウオーキングをしたりしているけれど、
懐かしい顔に出会うこともある。先月のことだが、
向こうから前かがみの独特のフォームで走って来る姿を見て
「あっ、あの人や」とすぐにわかった。
金髪で青い目をした外国人男性である。


もう20年以上も前のことになるが、
同じ大和川の堤防コースでよく顔をあわせた。
年齢は僕と同じぐらいと思われた。
ここで外国人が走っているというのは珍しかった
…というより、この人だけだった。
遠目からもすぐにその人とわかる。
大柄だし、夏場は常に上半身裸で走っていたことと、
両手に小さなダンベルを握っていたこと。
そして、前述のように、フォームが極端に前かがみの姿勢で
走っているので、遠くても「あ、あの人だ」とわかるのだ。


すれ違うとき、お互いに軽く会釈して、ニコッと笑う。
外国人…特に西欧人は愛想がいい。
海外旅行で見知らぬ街を歩いているとき、
通りすがりの人がこちらを見て、
目が合うとニコッと笑ってくれることが多い。
そういう文化なんだと思うが、日本人は、
見知らぬ人と目が合ってニコッと微笑みかける
…ってことはない。西欧諸国の人たちの
「目が合うとニッコリ」という習慣は旅行者にとっては心が和む。
堤防で会うその外国人男性も、そういう人の一人だった。


いつの頃からか、彼の姿を見かけなくなった。
本当はちょっと話しかけたかったのに…。
藤井寺市内にお住まいなんですか? 
お国はどちらですか? 
ずっと日本におられるのですか? など。
相手が日本語ペラペラなのか、カタコトなのか、
あるいはほとんど理解できないのか、
その辺がわからなかったが、
僕にもう少しの英語力と度胸があれば、
すれ違いざまにクルっと反対向きになって彼と並び、
一緒に走り始め、まずは英語でそのような話を切り出して
「お友だち」になれたのにな~と思ったりしたけれど、
生まれつき大人しくて遠慮深い僕には、
それはできなかった(誰がじゃぁ~!)


その外国人男性の姿を先月、
大和川で走っているのを見たときは本当に驚いた。
「わっ。あの人や」。何十年ぶりだろう。
寒くなりかけていたのでさすがに上半身裸ではなかったが、
それでもランニングシャツ1枚の軽装。
そして記憶に焼きついているあの前かがみの姿勢。
ダンベルは持っていなかったが、間違いない、あの人だ。
向こうから走ってきた。近づくにつれ、彼が以前に比べると、
体がぶよんぶよんになっているのが見えた。
つまりかつての精悍な体つきではなく、太っていて、
お腹もポテポテに出ていた。金色の髪もかなり薄くなっていた。
顔もずいぶん老けてきたのは、まぁ当たり前といえば当たり前だけど。


すれ違う時、昔と同じくお互いにニコッと笑い、僕は軽く手を振った。
その人は「オハヨウゴザイマス」と言った。
僕も「おはようございます」と返しているうちに、もう離れてしまった。
よ~し。僕たちは堤防のコースを行ったり来たりしているのだから、
また会うぞ。その時、これまでできなかった会話を交わそう。
これだけ長く日本にいるのだから、普通に日本語で話せるはずだ。


そう思いながら、川に橋がかかっているところで、
いつものようにUターンをした。反対側に向かって走る。
すると…。やがて、これまた向こうの橋のところから
Uターンしてきた「前かがみのランナー」が走って来る姿が見えた。
あと数十メートルのところまで近づいたとき、
彼は土手から河川敷へ下りる細い道のところで止まり、
向きを変えて下へ降り始めた。僕はペースを速め、
下って行くその人の背中に向かって「エクスキューズミー」
と声をかけた…というのはウソで「あのぉ~」と中途半端に呼びかけた。
(こんな状況の時、日本語では何と呼びかけたらいいのだろう?)


男性は振り向いた。そしてまた白い歯を見せた。
僕は「ずっとずっと昔、よくここで会いましたよね~」
と英語で言い、そのあと、英語圏の人とは限らないので
スペイン語で言い直し、さらにイタリア語でも同じことを伝え、
次にドイツ語でしゃべり……(もうええわ!)。
もちろんウソです。日本語で言いました。


彼は満面に笑顔を浮かべ、「イイお天気デスネ。ガンバリマショウ」
と手を挙げ、次にその手を振って「サヨナラ」と言い、
河川敷のほうに降りて行った。
今度は河川敷の芝生のところを走るようだ。


ちょっと噛み合わないやり取りだったけれど、
その後姿を眺めながら、数十年ぶりに会った彼は
これまでどうしていたのだろうか? 
母国へ帰っていたのか、大和川の堤防を走ることを
ずっとやめていたのか、あるいは僕は午前中しか走らないけれど、
午後とか夕方に走っていたのだろうか…? 
いろんなことを想像しながら、またひとりでチョロチョロと走り始めた。
振り返って河川敷を見下ろすと、
前かがみのランナーの姿が徐々に小さくなっていた。


それが先月(11月)中旬頃の話である。
あれからまた1月近く経つが、一度も姿を見ない。
また会うことができるだろうか。
“また会う日”まで、英語、スペイン語、イタリア語、
ドイツ語を勉強しておこう(もうええっちゅうねん!)。

 

 

 

 

 

 

 

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交友賛歌

2014年03月27日 | ランニング

月曜日はdoiron(ドイロン)クンから、また西高野街道でも歩きませんか、ついてはその作戦会議を開きましょう…ということでお誘いを受け、1年ぶりに会って大いに語り合った。


そして昨日は、doironクンと同じランニング仲間であるK島クンと会って飲んだ。これもまた、doironクン同様、1年ぶりの再会である。


これまでも書いたけれど、あの250キロを何度も走ったdoironクンもすごいけれど、K島クンのほうも、僕らの友達の中ではマラソンナンバーワンの実力者である。昔、まだランニングがブームでなかった頃、僕が篠山マラソンやニューヨークマラソンに出て、4時間台のタイムで完走したことが勤め先の市役所で話題になった。常々マラソンを走りたいと思っていた人たちが僕のところへ来て「教えを請う」みたいな形でさまざまな質問をされたことがあった。僕は大した記録でもないし、そこはまぁ、適当に返事したり、アドバイスめいたものをしていたのだけれど、「じゃぁ、一緒にレースに出よう」ということになって5キロや10キロを走り始めると、そういう人達はみるみる記録を伸ばし、僕は置いていかれるばかりだった。その中でもケタ外れのスピードを持っていたのが4歳半年下のK島クンだった。


1人やり出すとまた1人、また1人とマラソンを目ざす人間が輩出してきて、いつのまにか職場で「ランナーズ」という組織ができ、年長で海外マラソンの経験もあった僕が「会長」ということになった。それ以来、勤めている役所の中では、僕は「ランナー」というかなり固定したイメージを職員の人たちに植え付けたようであった。現在、退職しても、たまに役所に用事で顔を出すと「走ってはりますか?」というのが、僕に対する挨拶代わりの言葉になっている。


ところで、K島クンは、市民ランナーとしては、ダントツの実力の持ち主であった。別大マラソンに出場して2時間30分台の記録を出したこともある。当時、別大マラソンといえばエリートマラソンで、出場資格も厳しかった。そこに出るだけでもすごかったのに、さらに2時間30分台という、プロの実業団クラスのタイムで完走したのである。僕の周辺でこれほどのタイムを出した人間は他にいない。僕などいくら頑張っても3時間半を切るのが精一杯だったので、これには驚いた。


そのあと、トライアスロンに進出したK島クンは、世界的にも有名なハワイや琵琶湖の国際大会に出場し、驚くほどの好成績をおさめている。うちの市役所のみならず、南大阪一帯でも「K島」の名前は響き渡り、僕など大和川堤防を走っていると、顔だけ知っている人から「K島さんはどうしていますか?」と今でも聞かれる。彼は地域でも「有名選手」だったのだ。


元々大阪府大(作家・東野圭吾の先輩に当たる)で、山岳部に入っていたK島クンだったから、僕を山歩きにも連れて行ってくれた。六甲山脈を須磨から宝塚まで、山をいくつも超える恐怖の「六甲全山縦走」にも誘われたし、彼の車に乗り、白山へのゼロ泊弾丸登山も誘ってもらった。マラソンでは、1992年、サロマ湖100キロマラソンにdoironクンも含めて遠征をして、K島はレース後のテレビにも映ったほど先頭グループに近いところを走って好成績をおさめ、一方僕は、当時、制限時間が12時間半だったところ、12時間27分のギリギリのタイムでヘトヘトになりながらゴールした。ゴールから少し手前のところで、K島は僕に抱きついて「よかったよかった~」と、涙ながらに僕の頭をなでてくれた(よほど心配してくれていたのだろう)。4歳半年下の男に頭をなでてもらったのは、わが人生でこれが最初で最後である(笑)。その時、僕も涙が出た。


僕は後年、サロマ湖以外にも、四万十川や赤穂の100キロマラソンにも出場したが、その練習には必ずK島クンに伴走をお願いした。70~80キロを一緒に走ってくれる仲間なんて、そうザラにいない。その点、〇島クンがあまり練習をしていない時期でも、快く僕のパートナーを勤めてくれ、一緒に朝早くから夕方まで、にこやかに長い長い距離を付き合ってくれるのであった。


だから、K島クンとは、マラソンでも一緒にいろんなところへ行っているし、普段も長居公園などで5キロのタイムトライアルをして刺激をもらっていた。つまり、よき「師匠」であった。昨日、ビールを飲みながら、話がそういうところに及ぶと、懐かしいそんな話がズルズルズルと出てきて、話の尽きなくなる2人だった。そういう話をしているときが、一番幸せなんですよね~


さて、言い遅れたが、そのK島クンは、僕が勤めていた役所で、今は環境関係の部長職なのであるが、今月で定年退職を迎える。…ということは、あと仕事に出るのは…明日と明後日、そして土日をはさみ月曜日の3日間だけである。


「そうですねん。あと3日ですわ…」
K島クンは目を細め、感慨深そうに言った。
胸の中を去来するものは、いろいろあるのだろう。


5年前、僕が退職する際に、「走る会」で送別会をしてもらい、リュックとウェストバッグを記念品にいただいた。その段取りをしてくれたのがK島クンである。あれから5年経ち、退職者が相次ぎ、走る会も現職で残っている人間のほうが少なくなり、誰も送別会の世話をする人間がいなくなった。おととい、doironクンに「K島も退職やで」と言うと「大丈夫、私がいてますやん」と心強く言ってくれた。段取りをしてくれるそうだ。さすがに頼りになるdoironクンである。


みんなで退職祝をするのも大いに良い。僕は僕で、ランニングや山登りで、あまりにも大きな影響を受け、とてつもない経験までさせてもらったK島クンに対しては、ささやかだけれど、個人的にも30数年間勤めてきた労をねぎらいたかった。で、昨日は〇島クンを誘って、形ばかりだけれど、僕の気持として、〇島クンの退職をお祝いの真似事をさせてもらったわけである。


「体調は大丈夫ですか? 無理せんといてくださいね」


別れ際、K島クンはそう言って笑顔で手を降り、駅に向かった。


それを見送りながら、これまでいろんなことに誘って僕に無理させたのはお前やろ~と、僕はつぶやいた。(あはは~。冗談です。彼には感謝しています)。一昨日のdoironクンといい、このK島クンといい、僕は本当に良い友人に恵まれたなぁと、帰り道に、しみじみ思った。


最近、人と会うのが億劫に感じ始めていたので、この3日間で最も親しい2人と会って心ゆくまで話せたことは、僕に大きなプラス思考をもたらしてくれた。


先日ちひろさんがくださったコメントに、
「お友達と会う、というのは気持ちがとても浮き立つことですね」
という言葉がありました。本当にここ数日で、すっかり気持が浮き立ちました。

 

 

 

 

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幻の「50」

2014年03月07日 | ランニング


「永遠の0」の次回作は「幻の50」に決まったようです。…というのはウソです。えへへ。小説・映画の話ではなく、僕のマラソンの話です。


去年12月に、大阪長居公園の周回コースで3月2日に行われるフルマラソン大会に申し込んだ。そして、その申し込んだ翌日の新聞に、ある医師の意見として「フルマラソンなどの激しい運動は(心房細動に)よくありませんが、早歩きで1日30分程度歩くなら、むしろ積極的にやったほうがいいでしょう」という記事が載っていた。参加費を添えてマラソン大会に申し込んだ次の日にそれを読んだものだから、僕はガクンとなって、そのことを12月22日のブログにも書いた。去年あたりから、持病の心房細動の発作がわずかだが出やすくなってきたようで、その記事はとても気になった。


その前には、11月の淀川マラソンに申し込み、暑い夏に走り込みを繰り返し、現地へ下見まで出かけて行った甲斐もなく、レース10日前から体調を壊して結局欠場せざるを得なくなり、悔しい思いをしていた。なんとかその無念を晴らそうと、3月初めに行われる昔なじみの長居フルマラソン大会に再度挑戦しようと、申し込んだわけだった。


まぁ、せっかく申し込んだのだから、完走できなくても周回コースなんだから行けるところまで行って、もうダメだと思ったらリタイヤすればいい…という気だったが、やはりそういう怠惰なことを考えていると練習にも身が入らない。おまけに1月から2月にかけて体中のそこらじゅうにトラブルが発生し、結局は11月の淀川マラソンに続き、またも参加費を払って申し込みながら欠場する…という、恥ずかしくて人に言えないような結末となった(言ってますけど)。

 

 

 

 

  これは、長居のフルマラソン大会の1週間前に、大会本部から送られて来た封筒の表書きである。中には案内文が入っていたが、大会当日は、この封筒と引き換えにゼッケンをもらうことになっていた。そのゼッケンナンバーを見ると「50」とあった。これまで僕がマラソン大会でもらったゼッケンはほとんどが4ケタか5ケタぐらいまであって、中途半端な番号ばかりだったけれど、50番という区切りのいいのは初めてだった。あぁ、惜しいなぁ。このナンバーをつけて走りたかったなぁ…なんて思っても、走れないんだから仕方がない。


現在もウオーキングなら長い距離も大丈夫だが、走って心拍が上がると、脈が飛んだり、乱れたりして具合が悪くなる。情けないですなぁ、ほんまに。


フルマラソン大会への申し込みもこれが最後なんでしょうね。たぶん。


僕の好きな田辺聖子さんが、エッセイの中でこんなことを書いておられる。


若さや栄光を失うとき…われわれは乗り換えしなければいけない。新しい行く先を求めて。「体力低下、気力減退線にお乗換え願いま~す」その連呼を耳にとめて、人ははっと我に返る。いつまでもこの線でいいと思っていたのは、誤りだった。ここから別の線に乗り換えて生きなくてはならないのだ。…そうやって、乗り換え乗り換えして乗り継ぎをしつつ、終点までやってくるのが、人間の一生かもしれない。


この言葉が、このごろ特に、胸にジンと沁みてくるのでございます~

 


 

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あまりと言えば…

2013年12月22日 | ランニング

2、3日前から喉が痛い。ツバを飲み込むと痛いし声はガラガラ声だ。以前病院でもらったうがい薬を出して使ったが、表示を見ると「使用期限・2013年1月」とあった。トホホ。ちなみに僕の人間としての「使用期限」はいつなんだろ? …もう過ぎていたりして。


さて…今年を振り返ってみて一番残念だったことは、11月3日にフルマラソンを走ろうと意欲を燃やしていたのに、本番が近づくにつれ体調がおかしくなり、結局キャンセルしてしまったことだ。その思いを引きずっていた時、ふと長居マラソンのことが浮かんだ。陸上競技場やセレッソ大阪の本拠地がある長居公園の周回道路を15周するフルマラソンである。僕はこの大会に過去3度出場したことがある。自己最高の3時間27分54秒というタイムもこの大会で出たものだ。何よりも、自宅から遠くなく、しかもコースが周回なので、いつでもやめることができる(笑)。11月のマラソンに向けて練習をしていたとき、何度か気分が悪くなったことがあるので、その意味ではここは安心して走れるコースである。


そこでまた、性懲りもなく、12月初めに長居フルマラソンに申し込んだ。レースが行われるのは来年の3月2日である。制限タイムは6時間とのこと。完走の自信は、ゼンゼンありませんけど。


…ということで、この冬はもう一度走り込みをしよう…と再び張り切ったのだけれど、何の因果か申し込んだ翌日の新聞の生活欄に「心房細動で運動してもいい?」という見出しの質問と医師の回答の記事が載っていた。心房細動といえば僕の持病でもある。それが元で2006年に軽い脳梗塞になり、カテーテル手術もし(失敗でしたが)、今も定期的に病院に通って検査をし、薬も毎日飲んでいる。


新聞記事の質問者は60歳の男性で、「2年前に心房細動と診断され運動が良くないと言われたので、趣味のサウナとウオーキングをやめ、体重が15キロ増えました。どの程度なら運動も大丈夫なのでしょうか」という質問だった。


これに対して東京警察病院長の白井徹郎さんという方が、「ウオーキングはまったく問題ありません。フルマラソンなどの激しい運動はよくありませんが、早歩で1日30分程度歩くなら、むしろ積極的にやったほうがいいでしょう」と回答されたのである。 


そ~か。結局フルマラソンは心房細動によくないということか…。こういう記事を読むと、やはり怖気づく。(同じ心房細動を抱えながら80歳でエベレスト登頂に成功した三浦雄一郎さんのような例もあるが、この人はいわばスーパー老人すぎて、何の励みにもならない)。


いつだったか、通っている病院の主治医に、フルマラソンに出たいのですが…という意味の質問をしたら「無理しない程度なら…」という答えが返ってきた。これは僕の尋ね方が少し曖昧だった。自分に都合のいい答えを医師から引き出させるような問い方をしたような気がするのだ。しかしこの新聞を見ると、フルマラソンなどは心房細動によくない、とはっきり書かれている。たしかに、11月のマラソン大会が近づいてきた頃、心房細動が出やすくなったような感じもする。


それにしてもねぇ。


長居マラソンに参加費を添えて申し込んだ日(12月2日)の翌日の朝刊にこれが載っていたのである。…あんまりなタイミングだと思いません?

 

 

   

   
 

 

 

 

 

 

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