僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

思い出の ピサの斜塔

2024年05月31日 | 旅行

福山雅治の若かった頃の主演ドラマ「ガリレオ」が、今またテレビで再放送されています。
「ガリレオ」といえば、学校でガリレオ・ガリレイのことを習いましたね。
ピサの斜塔の上から、重い球と軽い球を同時に落とし、両方とも同時に地面に落下する、つまり、
「物体の落下速度はその物体の重さによらず一定である」
というようなことを証明して見せた舞台がこのピサの斜塔だったそうですね。そして、ガリレオご本人もピザの出身だったそうです。

先日、テレビの旅行番組でこのピサの斜塔が放映されていたのが懐かしかったので、過去のブログにも書いたのですが、もう一度、取り上げたいと思います。

今からもう20年近く前の2005年、妻とイタリア・フィレンツェに旅行した際、そこから列車で約1時間半で行けるピザの斜塔へ行ってみたわけです。

 


  ピザの駅に到着。

列車を降りて、ピサの斜塔のあるドゥオモ広場へ行くには、路線バスに乗るのが普通だったようですが、2、3キロ程度だったので地図を見ながら歩いて行くことにしました。

 

 

    
   ピサの駅前。右手の方向にバス乗り場があります。
   列車を降りたほとんどの人はバスに乗りました。

 
薄曇りの空。ウオーキングには最適です。
さて歩き始めようとしたら

白髪で小柄な爺さんが「英語は話せるか?」と近づいてきました。

「少しだけなら」とえらそうに答えた僕でしたが、
「あんたはフィリピーナかい?」と言われてしまった。

「フィリピン人? 違うで。ジャポーネや」と答えたら、
「そうかい」と頷いた爺さん。
「ピサへ行くんなら、〇番のバスに乗ればいいよ」と教えてくれました。

「ありがとう。でも歩いて行くから」と言えば、爺さんはまた頷き、「歩くんなら、この通りをまっすぐ行って県庁のロータリーを左へ行って」と、ナントカ通りをああ行ってこう行ってと、身ぶり手ぶりを交えながら親切に道を教えてくれたので、「グラッツェ(ありがと)」と言って離れようとしたら、グイと腕をつかまれた。

爺さんは、
「自分の家には病気の子どもがいて、金に困っている。いくらか恵んでくれないか」
と哀れな声を出したのです。な~んだ、それが目的だったのか。

「ごめん、僕もお金は持っていません」
と断り、妻の手を引いて斜塔へ向かい始めました。
外国旅行はこういうのが多いので、油断なりませんで。

街の中は、日曜日だったせいか(知らんけど)、車も人もほとんど見えず。
見渡しても、誰もいないひっそりした道路の端を、地図を見ながら、テクテク歩きます。途中、また別の老人が1人ポツンと立っていて、じい~っとこちらを見ていました。

むむっ、またヘンなことを言ってくるのではと警戒。 
するとその人は笑顔で「ボンジョールノ」と声をかけ、小さく手を振り、大きなあくびを一つした。
「あっ。ボ、ボ、ボンジョールノ」とあわてて僕は手を振り返した。

しばらく歩くと、アルノ川に出ました。橋から見る風景は、まるで絵画を見ているようで、しばらく立ち止まり、思わず見とれてしまった次第です。

もし、これまでの海外旅行の中で最も美しいと感じた風景は?
という、どうにも答えようのない質問をされたとしたら、
あえて言うとすれば、たぶんこの風景だと答えるでしょうね。


 
  アルノ川。まるで絵画のようですが、僕が撮った写真です。


このアルノ川を渡ると、ピサの斜塔のあるドゥオモ広場への標識がありました。


 

にもかかわらず、この後、道を間違えて遠回りをしてしまった。

道を間違ったということもこの時はわからず、テクテクひらすら歩き、
2、3キロのはずだったのになぁ、と思いながら1時間ほど歩きました。

あとから思えばずいぶん遠回りしていたようだけど、やがて車の走る広い通りに出て、さらに歩き続けると、やっとこの場所に出ました。ドゥオモ広場の入り口でした。


  
  右端に、壁をくり抜くような形で入り口があります。
 その向うに、ピサの斜塔があります。

思ったほど観光客で混雑していることはありませんでした。

 
 
 入口から、チラリとピサの斜塔が見えていますね。
 斜めに傾いているから、すぐにわかりますわ(笑)。
 
ピサの斜塔は1173年に着工されて、1350年に完成したとのこと。
建設中に、すでに片側の地盤が緩んで、傾き始めていたらしい。
それなら中止すればいいのに、傾いたままで建設は続けられた。
で、世界に稀な塔が出来上がったというわけです。


    
  斜塔を背景に。

 
ピサの斜塔は、中へ入って上まで行けるようになっています。
でも、大勢の人たちが並んでいたこともあって、僕らは中へは入っていません。
だいたい、僕は「並ぶ」というのが大の苦手なんですよね。


 
  こんな感じで行列が。

 斜塔の裏側にまわって、「根元」を撮影しました。
かなり、傾いているのがよくわかります。


 

 

ピサの斜塔は、20世紀に入ってますます地盤沈下が進み、
傾斜はさらに進行したということです。

そしてこの当時(2005年)から約25年前、世界各国の建設業者の智恵を結集して、堅固な側の地盤を掘削するという工法を中心に、大規模改修が行われた。

その間、公開は休止。10年にわたる作業が終わって、2001年から再び公開されたということです。

斜塔の見学を終え、再び歩いて駅に引き返した僕たちですが、「違う道を歩いて帰ろうよ」などと言いながら、またその道も道を間違えて遠回りをしてしまいました。

生きも帰りも道を間違えるってねぇ。
僕の方向音痴は、どうやら死ぬまで直りそうにありません(笑)。

 

 

 

 

 

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大相撲・尊富士の快挙と津軽・金木町の思い出 

2024年03月25日 | 旅行

貴乃花が引退してからは好きだった大相撲もほとんど見なくなった。

その後、朝青龍や白鵬、照ノ富士らに代表されるモンゴル勢が続々出てきたことで、大相撲への興味が薄らいだ。ただ、NHKで夜中に放送する大相撲ダイジェストだけは一応録画して見ていた。25分番組だから見やすいし。

その大相撲の大阪場所(春場所)の昨日の千秋楽。
ものすごい記録が生まれましたね~。久しぶりに興奮しました。

ご承知のとおり、尊(たける)富士という力士が、新入幕で優勝を成し遂げたのですが、新入幕の力士が優勝したのは1914年(大正3年)以来110年ぶりだという。なんとまぁ、110年ぶりだって!

おまけにこの尊富士、前日14日目に敗れた際、右足首を負傷し、車椅子で支度部屋へ運ばれて行った。この様子では千秋楽の出場は無理だろうと言われていた。もし休場なら不戦負け。優勝の可能性はかなり低くなる。

とまぁ、そんなことだったので、昨日だけは久々に大相撲の実況生中継を見た。そしてやがてお目当ての尊富士が土俵上に現れた。
結果は、足のケガも何のその、彼は全力を出し切って快勝し、優勝賜杯を手にしたのでした。

  
 優勝インタビューを受ける尊富士

これはすごいねぇ、とテレビの前で感心していたら、
「この優勝したお相撲さんは、モンゴルの人?」と妻が聞いた。

「えっ? う~ん、え~っとねぇ」
いやぁ、知らんわ~

なにせ先場所は十両で先々場所は幕下なんだから、今場所まで名前も知らなかった。それが日本人なのかモンゴル人なのか、全然
知らない。

「そやねぇ」と早速スマホで調べると、
「青森県出身」とあった。

妻にそう伝えた後、細かく調べて見ると、
「青森県金木町(現・五所川原市)の出身」とあったのです。
え~~!

僕はこれを見て、
「金木町」と言えばあの金木町?!」
「五所川原と言えばあの五所川原?!」
と、思わず口走ってしまった。

高校生の頃から、太宰治の小説に没頭していた僕は、20歳の時の自転車での北海道往復旅行の時に、青森県の金木町に行っていたのだ。そこには太宰治の生家があり、当時は「斜陽館」として旅館を営んでいた。旅行前からそれは知っていたので、僕はその太宰の生家で泊ることも決めていたし、予定通りそこで一泊した。その夜のことは、今もつい先日のことの様に覚えている。

「そうか、青森県の金木町出身の力士だったのか~」
そう思えば、尊富士が急に身近な存在に思えてくるのだから面白い。

青森県の津軽の金木町。そして現在は五所川原市に吸収。
この太宰治のゆかりの地で生まれ育った尊富士が、110年ぶりの新入幕優勝を成し遂げたのだった。

ホント、先場所まで全く知らなかった力士だったのに、
な~んか、うれしかったなぁ。


蛇足ですが
自転車旅行当時の写真を載せます。

 
 
  弘前から五所川原までの道路を走る。

沿道の景色は見渡すかぎりリンゴの木で埋まっていた。リンゴの実はまだ小さいように見えていたが、すべて丁寧に紙袋に包んであった。

 
  五所川原から太宰のふるさと金木町へと向かう。
  ガソリンスタンドの上に「金木」の標識が。
  金木まで、あと6キロの地点だ。

 
  とうとうやって来た斜陽館。
  値段は高かったけど、1泊しました。

 
  入口に自転車を置いてパチリ。



 ★今はもう旅館としての斜陽館ではなく、
  五所川原市の施設になっています。
  現在の斜陽館です。

太宰治記念館「斜陽館」 - 五所川原市 (goshogawara.lg.jp)

 



 

 

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モミィが東京ディズニーランドへ

2024年03月14日 | 旅行

モミィが仲良しのカナちゃんと2人で東京へ行っています。
主な目的は東京ディズニーランドですが、それ以外にも「おしゃれなカフェ」のような店をスマホで調べて、あちらこちらのお店に行くのが楽しみだ、と言っていました。

家を出発したのは12日(火)。
その日は2人で、間もなくモミィが一人暮らしをする梅田のワンルームマンションに泊まり、翌13日に新大阪から新幹線で東京に行き、その日は「東京巡り」をして、そして今日14日はディズニーランドで遊んだ、ということでした。

妻に入って来たメールでは、元気で楽しんでいる様子が伝えられていました。そして明日は、午後まで東京で遊んでから、帰途に着く、とのこと。

ふ~む、モミィが僕たち以外と宿泊の旅行をするのは、学校行事で行ったのを除いては初めてやなぁ、大丈夫かなぁ
と思ったとたん、忘れていたことを思い出しました。

去年の3月~4月にかけての一ヵ月余り、モミィはたった一人でロンドンに短期留学に行っていたのですよね。それを一瞬とはいえ忘れていたなんて、僕もええ加減なもんですわ。モミィはあの海外への一人旅を経験しているのですから、東京へ、しかも友達と2人で行くのに、もはや何の心配はありません。やはり「かわい子には旅をさせよ」と言いますが、本当にそのとおりだと思います。あの短期留学以上に心配するような旅行なんて、まずないでしょうからね。

ということで
結局12日から家を留守にしているので、
モミィのいない夜はホント、静かでした。
あれはよくしゃべるし、メチャメチャ賑やかな子ですから(笑)。

明日の夜は、東京の話で数日ぶりに大騒ぎの夜になりそうです。

 

 

 

 

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かつての中国人のマナーの話ですが

2024年02月10日 | 旅行

中国には「春節」というのがあって、「旧正月」のようなもので、時期は今の2月。その時期に入った最近、中国には海外へ旅行する人たちが何十億人もいるということで、日本へも大挙して押し寄せるので、日本人観光客がこの時期は旅行を避けるという現象も出ているそうです。

中国人といえば、マナーに関して強烈な印象が残っています。

ただ、これは1990年代の話なので今とは違うと思いますが、当時、北京へ旅行した時、それはそれはビックリの連続でした。マナーというか生活習慣が、あまりに日本と違い過ぎたのです。

公衆トイレでは「個室」を開けたまま、しゃがんで用を足している男性が何人もいた(一応、向こうの「個室」は、顏がこちら向きですが)。男子だけでなく、女子トイレでも開けたまましている人が何人もいた、と妻が驚いていました。

道を歩く人は所かまわず「カァッ~ペッ」と、タンを吐いてまわっている。
その「カァッ~ペッ」の音が実に大きいのです。
また、街を歩いているとあちこちで母親が、所かわまず子供におしっこをさせている。
僕がペットボトルに入った水を飲み終えると、そこへすかさず男が寄って来て、そのボトルをくれ、と言って持って行った。などなど

バス停では、大勢の客たちが列を作らず押し合っている。見ているだけで怖い。バスが来たら、われ先にと乗車口にドド~っと殺到する。ますます怖い。一方バスの方も、客がまだ全部乗っていないのに途中でドアを閉めて発車する。見るとドアに挟まれながら、バスにしがみついている人たちもいる。ホントに、ホントに怖い。

また、
ある書店で本を買った時は、レジの女からお釣りをチャリンと投げて返された。
普通、お釣りのコインをお客さんに投げますかね~

さらに、
あるレストランへ入った時は、ウエイトレスが僕らが座っているテーブルに、背後からお手拭きをポイポイと投げて行きました(投げるかぁ?)。

まぁ、それから30年ほど経っているので、今はずいぶん変わっていると思うし、日本へ来てもそんなマナーは悪くはないと思うけれど、この春節を迎えて、また日本へ多数の中国人観光客が来るだろうから、日本人観光客も春節の時期は出控え、それが終わって「中国人大移動」が一段落してから国内旅行に出ようという人たちが増えている、とテレビのニュースで言っていました。

そんなことで、中国といえば、その旅行の時のビックリ体験のことを思い出し、このブログにも何度か書いています(古い情報ですみませんけど)。

では、最後にこんなエピソードを。

  

これは中国にある楊貴妃の上半身裸の像です。
いつか、台に乗り、
体をさわりまくる観光客たちの映像が、
ニュースで映し出されていたのを見たことがあります。
なんだかねぇ。

 

  

「あたしのところには来ないでよ」と、
パリの「ミロのビーナス」も心配している?

 

 

 

 

 

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素晴らしい景色 アイガー北壁

2023年12月02日 | 旅行

テレビを見て、ついワクワクしてしまうのは、自分が行ったことのある海外のいろんな国や街の景色が映った時ですね。
「あぁ、懐かしい~」と思って、ついついテレビ画面に見入ってしまいます。

そして、時にはそのあと、アルバムを引っ張り出したり、パソコンに保存している写真を見たりして、その場所で撮った自分たちの写真を確認して、小さな満足感に浸ったりしています。

で、先日、ある番組でスイスの光景が映されていたのですが、そこで

「アイガー北壁」が出てきました。それを見て、あまりの懐かしさに(大げさですけど)茫然とテレビに見入ってしまった僕だったのです。

スイスには昔、一度行っただけですが、素晴らしい景色がいっぱいだった中でも、そのアイガー北壁の光景が僕にとっては最も強く記憶に残っていたのです。

その旅行は職場からの海外研修旅行だったので、妻とは行っていません。

なので、テレビでこれが出た時、
「このアイガー北壁はよかったよ~、本当に」
と妻に当時のその様子を話したのでした。

今日はその写真を掲載させてもらいます。
本当に、素晴らしい景色でした。

 

 

  スイスのアイガー北壁を背景に。
  1994年の10月でした。

 

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世界陸上のブダペストで思い出すこと

2023年08月28日 | 旅行

ハンガリーで行われていた陸上の世界選手権が終わりました。
僕は自分がマラソンをやっていたこともあって陸上競技が好きです。
だから、この大会もダイジェスト番組を録画し、毎日見ていました。
日本は女子やり投げで金メダル(素晴らしかったな~北口さん)が1個、男子競歩で銅メダルが1個という成績でしたが、入賞者数は歴代最多の11となって、よかったです。

ところで、
この大会はハンガリーの首都、ブダペストで行われたんですよね。

そのブダペストですが

以前、オーストリアのウィーンへ妻と旅行した時、ウィーンから列車に乗って日帰りで、国境を越えてハンガリーのブダペストに行ったことがあります。今回の世界陸上を見ていると、そのブダペストを思い出さずにはいられないんですよね。

ウィーンから約3時間でブダペストに着きます。

  
   ブダペストの駅で。2000年10月撮影。


ブダペストというのは、ブダ地区とペスト地区の二つの地区を混ぜての地名なんですが、その二つの地区を分けているのが、ドナウ川です。

美しい川ですよね~

ウィーン駅に着いた後、地下鉄に乗り、「モスクワ広場」という駅で下車し、そこから歩いてしばらくすると、ドナウ川が見えた。僕らはブダ地区からドナウ川を見たわけです。

 

 
  ドナウ川と国会議事堂。景色は抜群です。
  こちらがブダ地区で、川向うがペスト地区です。

そこから望むドナウ川と国会議事堂の建物は素晴らしかった。

だが、残念なことに、素晴らしかったのは景色だけ??

ドナウ川にかかる大きな橋(鎖橋)は、世界陸上のマラソンのコースにもなっていましたが、僕らがその橋を渡った時は、橋の上に物乞いが何人もいて、僕たちに近づき、金銭をせびる。まるで幽霊のような気持ち悪い表情の物乞いたちだった。

逃げるようにして橋を渡り、ペスト地区に入り、1件のカフェテラスに座った。

コーヒーを飲み終え、店員にお金を払う時、
小銭を持っていなかったので、お札を出した。
そして、その男の店員に「釣りをくれ」と伝えると、
「ダメ、釣りはチップだ」というようなことを言う。

「チップは釣りをもらってから渡すよ」と言ったら、
「ダメだ、釣りは渡さない」とこの若い男はえらそうに言う。
あのなぁ、代金よりも、お釣りのほうが金額が高いんだよ!

たとえて言えば、代金が400円だったとして、
僕が店の男に千円札を渡したとする。
そして600円のお釣りを受け取ってから
100円程度のチップを渡す

それが普通だ。
しかしこの男は頑として釣りは渡さないと言い張るのだ。

海外のチップの習慣も僕は知っているつもりだが、
こんな露骨に釣りを奪い取ろうとする店は初めてである。

これはもう何を言っても無駄だと思い、あきらめて出た。
まるでドロボーのような店員だったなぁ。

さらに、土産物屋などには、刺青をした男があちこちにいた。
どうも、街の雰囲気は、それとなく不気味である。

そのあと、国会議事堂付近を歩いていたら、一人の男がつきまとってきた。
何かを勧誘するようなことをごちゃごちゃと言ってくるので、
「急いでいるから、あっちへ行って」と追い払おうとしたら、
そこへ、す~っと2台の白バイのようなのが近寄って来た。
「警察だ。どうした?」と僕らに英語で尋ねたのである。

「この男がついて来るんで困っている」と言うと、
「警察」は男に何かを言い、そのあと僕に、
「パスポートを見せてくれないか」と手を出した。

僕が何気なくパスポートを取り出そうとした瞬間、
横にいた妻が、ギュッと僕の腕をつかみ、
「この人たち警察じゃない! 逃げよ!」
グイっとひっぱったので、反射的に僕は妻と一緒に走り出した。
すぐ近くに地下鉄への入り口があり、そこまで全力疾走した。

男たちはその場から動かず、しばらく僕らを眺めたあと、
向こうのほうへ遠ざかって行った。

ふうぅ。危ないところだった。

地下鉄に乗ってから、僕が、
「警官がニセモノだと、なんでわかったの?」
と妻に訊いたら、
ガイドブックに、ここにはニセ警察官が多いから要注意と書いてあり、

パスポートを奪い取る手口が載っていた、ということだ。
「パスポートを返してほしかったら金を出せ」と言うことのようだった。

妻のとっさの判断で、大事なパスポートを取られずに済んだ。やれやれ。

これに懲りて、僕らはもうどこにも寄らず、駅へ行ってウィーン行きの列車に乗り、そのままウィーンへ戻った。

ウィーンの駅のホームに降り立ったとき、
この国が、自分の母国のように懐かしく感じられた。
オーストリアへ戻れてよかった~

ということで、ハンガリーのブダペストといえばそのことを思い出すのです。

そんなふうに、あわててブダペストを離れたものだから、ハンガリーの紙幣がバッグに入ったまま。今でも、わが家の引き出しの隅に入ったままです(笑)。

 

 
  
  ハンガリーの紙幣「フォリント」です。
  捨てるのももったいないけど、使うアテもないしねぇ。


ということで、何かブダペストの悪口を書いたみたいになりましたが、20数年前の話なので、今はどうか、知りませんよ。世界陸上が開催されるくらいなのですから、治安もよくなっているのかもね~。

 

 

 

 

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ハワイ・マウイ島のラハイナが壊滅!

2023年08月12日 | 旅行

毎日毎日、暑いですねぇ~

先日の新聞のコラムで、毎年毎年どんどん暑くなっていくことについて、
「つまり今年の夏が一番涼しい、ということなのでしょうか」
とありました。
驚きの表現ですよね。

これから1年ずつ、もっともっと暑くなっていくということなら、
怖すぎる話です。

  …………………………………………………………………………

さて、この暑さと関係あるかどうかわかりませんが、
ハワイのマウイ島で大規模な山火事が起き、それがハリケーンの強風にあおられて、マウイ島の中心街であるラハイナで、多くの死者が出たことが報じられています。

今朝の朝日新聞によると、火元は明らかになっていないが、強風で火が広がってラハイナが壊滅的な打撃を受けた、とのこと。

ラハイナ!

懐かしい町です。

今から20年前。
2003年の7月のこと。

クイズに当選して、ハワイ旅行へ行けることになった。
それで、妻と2人でハワイのマウイ島とオアフ島へ行った。

ホノルルがあるオアフ島は日本人観光客も多く、むろん日本語も十分通じるのだけれど、マウイ島は日本語はほぼ通じない。ま、その分、マウイ島での印象が強かったと言えるんですけどね。

 
  マウイ島のホテルの近くの海岸で

そのマウイ島で、僕たちはホテルから海岸沿いを歩き、そこから「サトウキビ列車」に乗って、ラハイナへ行ったのでした。

 
これが「サトウキビ列車」です。
乗車中、ウクレレ演奏のサービスもあり、楽しかったです。

そしてラハイナの駅に到着。

   
 まぁ、こんな感じの小さな駅ですけど。

 でも、ラハイナの街は本当に印象深かった。

 
   ラハイナは海と山の街でした。

   
 ラハイナの街の中へ入るところです。

樹齢150年の大木もラハイナにあるというので、
そこを訪れるも楽しみの一つだった。

   
 これがその有名だった樹齢150年の大木「バニヤンツリー」。

今日の新聞によると、この大木も「被害を受けた」とあった。
その後のニュースを見たら、どうやら丸ごと燃えてしまったようだ。

 ………………………………………………………………………

そんな思い出のあるマウイ島・ラハイナの街が、燃えて灰になった。

あの思い出のラハイナが

 

 

 

 

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大阪1泊小旅行 ウエスティンホテルへ

2022年01月06日 | 旅行

今年のお正月は、去年みたいに、な~んにもなかったお正月とは違い

元旦は前回述べたように次男の家族が来て2年ぶりにケイの顏も見た。2日には長男が来て、お昼から夕方まで飲んだり食べたりして過ごした。そして3日・4日は一家3人で、大阪・梅田のウェスティンホテルへ1泊の「小旅行」をした
というのが今年のお正月でした。

さて、その梅田のウェスティンホテルへの「小旅行」のことですが。

12月3日のこのブログに書いたように「大阪いらっしゃいキャンペーン」というのがあって、大阪府民が大阪府内のホテルに宿泊したら、一人1泊あたり最大で5千円の割引と、さらにクーポン券3千円分がついてくる、というプランでした。で、実際、僕たちは、ひとりの宿泊料が14,000円ぐらいだったのが、そこから5,000円が割り引かれ、さらに3,000円のクーポンがついたので、とてもお安く泊まれた次第なんです。

で、予約日だった1月3日。
ホテルのチェックイン時間は午後3時から。妻とモミィはお昼前に家を出て、大阪・梅田の街の中をウロウロしたあと3時頃にチェックインするつもりだというので、じゃぁ僕はこの際、今年の「初歩き」として自宅から梅田まで歩いて行くことを決めました。そして朝の9時過ぎに家を出ました。

しかしねぇ
残念ながら、元旦から2日間、大した運動もせずに飲んでばかりいたせいか、この日は阿倍野まで歩くのが精一杯で、そこからはもう体力も気力も失せて、天王寺から環状線に乗って大阪・梅田まで行ってしまいました。

妻とモミィは梅田でいろんなお店を回っていたようですが、メールで僕が歩くのをやめたと伝え、待ち合わせ場所を決めて3時前に会いました。で、そこから3人でホテルまで歩いて、3時過ぎにウェスティンホテルにチェックインしたというわけです。

夕食は、ホテルのレストランではなく、阪神百貨店のデパ地下で、それぞれ食べたいものを買って、ホテルの部屋に持ち帰り、食べました。

ちなみにデパ地下ってすご~いおいしいお弁当がメチャ並んでますよね。いろいろあり過ぎて決めるのが難しい。僕はその中から「穴子ずくし」というのを買い、ホテルに帰って、ソファに座ってそれを食べたのですが、ビールを飲みながら、死ぬほど美味しかったですわ~

 
  僕らが泊ったのは21階。部屋の窓から見た梅田の夜景です。

そして翌日、僕は2人と別れ、せめて阿倍野まで歩こうと思ったのですが、昨夜に飲み過ぎたりしたこともあり、梅田から次の次、本町まで歩いて、そこから地下鉄に乗って阿倍野まで行き、阿倍野から近鉄電車でわが街f藤井寺まで行きました(なにそれ? ほとんど歩いてへんやんか)。

藤井寺のイオンで食材を買って、そこから家まで歩いて、なんとかわが家にたどりついた次第です(ゼイゼイ)。

妻とモミィはそれから何時間も経ってから、帰ってきました。

いやまぁ、それにしても、しんどかったなぁ。
でも、外泊は久しぶりで、とても楽しかったですわ~

 

 
  翌朝、ホテルの玄関前で、スタッフの方が撮ってくれました。
  左が妻、右がモミィです。まぁ、わかると思いますけど(笑)
   

しかしまたここ数日、コロナの感染が拡大しつつあります。
 僕らのこの小旅行は、ギリギリのところだったようです。
 今後また、当分の間、出て行けないかも知れません。

 

 

 

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サグラダファミリアがついに完成?

2021年12月13日 | 旅行

   
   サグラダファミリア(ウキペディアより)

先日、テレビでニュースを見ていたら、
スペインのバルセロナの大聖堂「サグラダ・ファミリア」が完成
との字幕が流れ、その映像が出たのでビックリしました。

「サグラダ・ファミリア」が完成! 
ほんまかいな?
にわかには、信じられなかった。

この大聖堂の存在を初めて知ったのが、1992年のバルセロナオリンピックの時だった。オリンピックのテレビ中継でバルセロナの街が紹介され、中でも世界的な建築家であるアントニオ・ガウディが設計したというサグラダ・ファミリアが何度も映し出されていたのです。

そして驚くべきことに、その建物は1882年に着工されてから110年が経つのにまだ建築中だということでした。

着工から110年でまだ建築中!
ウソやろ、と思う話ですよね。
でも、本当だった。まだ建築中だった。
そのことが今も強く印象に残っています。

そしてそのバルセロナオリンピックから約30年が経った今、テレビで、そのサグラダ・ファミリアがついに完成と言ったのだから、そりゃぁ驚きますよ。

しかし
よく聞いてみたら「完成」ではなかった。

この大聖堂には塔が沢山あるのですが、そのうちの一つ「マリアの塔」と呼ばれる新たな塔がこのたび完成したというニュースだったのです。最終的にいくつの塔が出来たら本当の「完成」になるのか知らないけど、サグラダ・ファミリアそのものは、まだ完成ではないということでした。

な~んだ。
まったく~。
紛らわしい字幕を出すテレビだ。

しかし、それでサグラダ・ファミリアを懐かしく思い出したこともまた事実でしたけどね。

 ………………………………………………………………………………

そのバルセロナ五輪から9年経った2001年。つまり今から20年前ですが、僕は妻とスペインへ旅行し、バルセロナにも行ってサグラダ・ファミリアを実際にこの目で見ました。これには本当に感激しました。


  
その時の写真です。
後ろに写っているのがサグラダ・ファミリアです。

で、実際にはいつ全部が完成するのかと調べてみたら、2026年に完成が見込まれているということです(この年はガウディの没後100年となるそうです)。

2026年といえば、あと5年ですよね。でも、新型コロナの感染拡大で、工事が一時中断していたということも言われているので、まだまだどうなるかわからないそうです。

それにしても、着工から140年経った今もまだ建設中というのだから、日本ではとうてい考えられない話ですよね。とてつもなく壮大なロマンを感じます。

 

 

 

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「旅サラダ」 で懐かしのスペイン・サンセバスチャンが

2021年10月10日 | 旅行

テレビを見ていて、思わず身を乗り出す時があります。旅の番組で外国の街や自然の風景が映り、それが自分が行ったことのある場所だったら、思わずテレビ画面に吸い込まれてしまいますね。

昨日の土曜日の朝の「旅サラダ」もそうでした。
スペインのサンセバスチャンが映ったのです。

1995年(平成7年)の秋、妻と二人でパリへ旅行し、そのついでに、当時、妻の甥のヒロユキが料理の修業で行っていたスペインのサンセバスチャンまで足を延ばしたことがあります(以前、このブログにも書いたことがありますが)。

パリからTGVに乗って南へ南へと向かい、約6時間でエンダイヤというところに着く。ここはまだフランスだけど、すぐ隣がスペインという国境の街で、そこからバスク鉄道というのに乗り換えて国境を超え、スペイン・バスク地方のサンセバスチャンへ行ったのでした。

この街は、コンチャ湾という風光明媚な海に囲まれ、「美食の街」だということです。

この街で甥のヒロユキと再会し、最初の夜に彼が連れて行ってくれたのが、旧市街地にある「バル」だった。

「BAR(バル)」という看板のかかった居酒屋のような店がいくつも軒を並べている。そのうち、ヒロユキがよく来るという「ホセ・マリ」という店に案内してもらった。お客さんたちは、みんなカウンターの前に立って、にぎやかに飲んだり食べたりしている。カウンターにズラリと並んでいるのは、薄切りのパンの上にサカナなどを乗せている、いわばパンのお寿司のようなもので、それをそれぞれ勝手に取って食べている。客たちは食べてはしゃべり、飲んではしゃべりしているので、とても騒がしい雰囲気である。このパンのお寿司のようなものはバスク地方の名物で「ピンチョ」と呼ばれているという。

ヒロユキが「どうぞ」とカウンターのピンチョを取って食べるよう、僕らに勧めてくれたので一つ食べてみた。「う~ん。これは、おいしい!」

パンの上にサーモンの乗っているもの、イワシの乗っているもの、エビの乗っているものなど、どれを取ってもおいしい。飲み物はワインで、地元のチョコリという白いワインや赤ワインをお代わりして気分は最高に!
妻も「おいしい、おいしい」と言いながら食べていました。

そのあと、もう1件、今度は店内で座って食べるところがいい、と僕が言ったので、ヒロユキは生ハムのおいしい店に連れて行ってくれ、そこでもハムやエビなどをアテにしてワインをグイグイ飲みました。いやぁ、最高でしたわ。

結局、サンセバスチャンで2泊したあと、ヒロユキと別れを告げて、僕らはパリに戻りました。

そのサンセバスチャンが、昨日の「旅サラダ」で紹介されていたのですから嬉しかったですね~

テレビの画像を写真に撮ったので、それを掲載しておきます。

 
スペインの旅 美食の街 サンセバスティアン」
 というタイトルです。


 
 サンセバスチャンのあるバスク地方の地図が映りました。
 フランスと隣接しているのが、この地図でわかりますね。
 この上のほうに、パリがあります。



コンチャ湾という美しい海に沿っている街です。

 
 そのコンチャ湾での、当時の僕たちの写真です。

 
 ズラリと「バル」が並んでいます。
 僕らもここで、2件だけですが「バル巡り」をしました。

 

 
 カウンターの前とか外で、飲んだり食べたりしている人たち。
 僕らもこんなところで立って食べて飲みました。

ということで、
テレビを見ていて、行ったことのある土地が映ると、すんごく嬉しいし、懐かしいし、当時のことを鮮明に思い出しますね~。妻も一緒に見ていたので、話に花が咲きました。

旅の思い出、というのは、僕らにとっては大きな財産です。


 

 

 

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チップはややこしい ~ブダペストの苦い思い出~

2021年07月05日 | 旅行

外国旅行をしていて、頭を悩ませるのはチップのことですね。チップを渡すという習慣は日本にはないので、何度外国に行っても、このチップにだけは悩まされました。とにかく、どれだけの額を、どんなタイミングで渡せばいいのかというのがむずかしい。国によってはチップの額や渡し方もちがうしね。

たとえば、タクシーに乗る。料金はメーターに出ているので、日本ではその額を渡せばいいだけですが、外国ではチップも渡さなければならない。そこで、お札を渡してお釣りをもらい、そこから10%~20%のチップを払う、というふうな感じです。タクシー料金が、まぁ日本円で言えば800円台くらいだったら、千円札を渡して「お釣りはいいです」と言って降りるのが普通です。でも、その料金が1,200円ぐらいの時は、2,000円を出してお釣りの800円を「チップです」とは言わない。多過ぎるから。そんな時は黙ってお釣りをもらい、そこから200円程度を「どうぞ」と運転手さんに渡すわけですね。

レストランや喫茶店は、日本のようにレジで支払うのではなく、テーブルで支払いますが、そこでウェイターさんかウェイトレスさんにチップを渡すか置いて行くか、というわけですね。勘定を済ませ、お釣りをもらったら、その中からいくらかのチップを渡す、あるいはテーブルに置いて出る、というわけです。

妻と2人で初めて外国旅行に行ったのは、パリでした。パリの空港に着き、タクシーに乗って、ホテルに着いた。そして料金メーターの金額の料金を支払い、車から降りてホテルに入ろうとしたら、タクシーの運転手がこちらに向かって怖い顔をして怒鳴ったのです。フランス語だから何を怒鳴っているのかわからないけど、とにかく運転手は怒っていた。あえて知らん顔してホテルに入りましたが、今から考えたらチップを渡さなかったことで怒っていたんです。大きなスーツケースをトランクに入れてもらったりしていたので、余計にチップをはずむべきだったのですね。これは反省です。運転手さんに悪いことをしました。

一方で、国によっては、逆に腹立たしいケースもありました。

ハンガリーの首都、ブダペストのカフェテラスに入った時のことです。

妻とコーヒーを飲み終え、店員にお金を払う時のこと。小銭を持っていなかったので、お札を渡した。日本円にたとえて言うと、代金が400円だったとして、僕が店員に渡したのは千円程度の札だった。だから一度お釣りをもらってからチップを渡そうと思ったのだ。

「お釣りをくれ」と言ったら、その若い店員は札を握りしめて「ダメ」と首を振った。「なんで?」と僕が聞くと、彼は「釣りはチップなんだよ」という意味のことを言った。

「チップは釣りをもらってから渡すから」とジェスチャー交じりで僕が言うと、
「ダメダメ。釣りは渡さない」と若い男は、態度を変えようとしない。

「あのなぁ、代金よりも、お釣りのほうが金額が高いんだよ!」と言いたかった
けど、なにせここはハンガリーだ。引き下がるほかはなかった。

しかしなぁ。まるでドロボーじゃないか。
僕がこれまで出会った中でも、最悪の店員だった。

と言っても、あの街では店員が言ったように、一度出した金は、残りは全部チップだという習慣があるのかも知れない。だったら、それを知らなかったこちらが悪い、ということにもなりますけど。ぶつぶつ。

そこで得た教訓は、外国旅行をする時は常にチップ用の小銭をポケットに入れておくこと、ということでした。

 

 
 
ブダペストの駅で


ハンガリーのブダペストに行ったのは2,000年10月です。
ウィーン旅行の際に、列車に乗って日帰りで行きました。

ブダペストでは、カフェテラスを出た後、1時間もしないうちに、国会議事堂近くを歩いている時、警官を装ったバイクの2人組の泥棒に遭い、もう少しでパスポートを盗まれるところでした。

もう、ハンガリーには行きたくな~い!

 

 

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人生いろいろ ビールもいろいろ

2021年06月17日 | 旅行

海外に行くと、日本の常識では計り知れないようなビックリすることばかりですけど、ホントにねぇ、ビールひとつ見ても、いろいろですわ。

★北京の街で、ある食堂へ入ってビールを注文した。しばらくしてテーブルにドンと置かれた瓶ビールをさわって驚いた。冷えていないのだ。
こんな生ぬるいビールを出すなんて何かの間違いじゃないかと思ったら、案内をしてくれていた日本人留学生の女の子が「こちらではビールは冷やさないみたいです」と説明してくれたので二度ビックリ。北京の食堂では、ビールは冷やさずそのまま出すという。後日ほかの人からも、中国は北京だけじゃなく、どこへ行ってもビールは冷えていない、と聞きました。まったくねぇ

★次はラスベガスへ旅行した時のこと。
まずサンフランシスコ空港まで行き、そこから乗り換えてラスベガスに向かうわけですが、空港での待ち時間にカフェに入り、カウンタでサンドイッチとビールとコーヒーを注文した。お金を支払い、妻がサンドイッチとコーヒーを受取り、僕は瓶ビールとグラスをもらった。しかし瓶ビールには栓がしたままだったので栓抜きなしでは開けられない。それで、レジの女性に栓を指差して「オープン・プリーズ」と言った。すると女性は「手で回せ」というジェスチャーをしたのです。「はぁ?」と首をかしげると、彼女は面倒くさそうに僕からビールを取り上げ、栓にタオルを当ててギュッと回すと、栓が開いたのでした。あれまぁ。瓶ビールがネジの栓とは。レジの女性は「そんなことも知らんのかい」という顔をしてました。知らんがな、そんなこと。瓶ビールの栓をペットボトルのフタのように回して開けるなんてねぇ。

★ま、しかし、アメリカでも「ビアー・プリーズ」と言えばそれでOKかというと、なかなかそうもいきません。
「ビア・プリーズ」
「あいよ!」
となればいいんですが、店の人からは「あいよ!」の代わりに、「ビアー? 何のビアーだね? ハイネケンかい? バドワイザーかい?」などと、辛気くさそうに聞き返されることが多いのです。ビールに限らず、外国へ行くとモノを買ったり、食事や飲み物を注文したりする時、たいてい愛想が悪いし、時には「はぁ? あんた、何言うてんねん?」のような顔をされたりと、いろいろ大変です。(その点、日本の店員の方の接客態度の良さは世界一ですよね)。

★それにしても、旅先のちょっとした出来事がいつまでも心に残るってこと、ありますよね。これは2005年1月、イタリアのフィレンツェに行った時の話です。

フィレンツェの街を歩き回ったあと、小腹が減ったので通りがかった小さなお店に入りました。そこにはお客さんはおらず、店のおばさんが一人いました。僕はそのおばさんに、いちおうイタリア語でビールを注文、「ビッラ・ペルファボール」と言ったのです。しかしおばさんはすぐに返事を返してくれず、「ビッラ? ムニャムニャ?」と何やら僕に尋ねるのです。何だろう?と考えていると、おばさんは通じないと思ったのか、今度はわかりやすくジェスチャーをしてくれました。

そのジェスチャーで「瓶ビールか生ビールか?」と尋ねてくれたことが判明したのです。それで、僕も身振りで「生ビールです」と伝えたら、おばさんはウンウンとうなずいて生ビールを持ってきてくれました。あ~、その生ビールのよく冷えていておいしかったこと!

飲みながら、こっそりイタリア語の辞書を出し「生ビール」がイタリア語で「スピーナ」だということを知りました。そして2杯目を頼もうと、またおばさんのいるカウンタへ行き、「ビッラ」と言いました。
おばさんがこちらを見た時に、僕は「スピーナ!」 と叫んだのです。

するとそのおばさんの表情が驚きになり、次に輝くような笑顔で、
「オー、スピーナ。ブラボ~ッ!!」
と、店中に響き渡るような声を上げ、喜んでくれたのです。
「ブラボ!」という叫び声が今も忘れられません。

まるで「アンタ。いつのまにその言葉を覚えたの。すごいわねぇ!」という表情でした。単語ひとつ覚えただけで、あんなに喜んでもらえたことって、これまでなかったことでした。

フィレンツェの街の中を流れるアルノ川の川沿いにあった小さなお店でしたが、本当に懐かしい思い出です。

ビール好きの方が海外旅行をされる時は、ぜひその国のビールの単語と、さらに「生ビール」と「瓶ビール」の言葉も覚えておかれるといいですね(笑)。

ど~も、失礼しました~!


 
 フィレンツェで最も有名な建物「ドゥオモ」の前で。
 ドゥオモ、失礼しました~(面白ないわ)。


 
 そしてこれが、スピーナ(生ビール)のお店です。
 結構いい気持になってきているようで、たぶん2杯目。

 

 

 

 

 

 

 

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ビールのことをスペイン語では何と言う?

2021年06月15日 | 旅行

今日もまたタイトルの中に「ビール」が入っていますが

コロナ禍では海外旅行などは夢のまた夢。いつになったらまた誰もが海外へ行けるようになるのか、と思うこのごろですが、僕はこれまで行った旅行の記憶をたどって楽しんだりしています。

海外旅行で楽しいのは、まず旅の計画を立てる準備段階、次が旅行本番の時、そしてその後に旅の思い出を楽しむという、3段階の楽しみがあります。今はもう、その3番目の楽しみしかありませんが、中でもよく思い出すのは、旅先でビールばかり飲んでいたなぁ、ということです。だから、旅行先で「ビールください」という言葉をまず覚えなければなりません(笑)。

「ビール」っていう外国語は

英語    → ビア
イタリア語 → ビッラ
フランス語 → ビエール
ドイツ語  → ビーア
韓国語   → メクチュ

中国語   → ビーチュー

というように、韓国語以外は「ビ」という音から始まるので「ビア」と言ってグイっと飲むポーズをすると、店の人にはほぼ通じます。でも、これまで行った欧米諸国の中で、スペイン語だけは「ビ」から始まらないのです。

きょうはそのお話で

むかし、フランスのパリからTGV(日本の新幹線のような列車)に乗って、スペインのサンセバスチャンというところまで行ったことがあります。列車の中ではビュッフェに行き、 「ビエール・シルブプレ」 とフランス語でビールを注文します。まぁ、英語で「ビア・プリーズ」と言っても通じるでしょうけど、そこは恰好つけちゃってフランス語です。へへっ。

さて、途中でローカル鉄道に乗り換えて、国境を越え、スペインのサンセバスチャンに到着しました。ホテルにチェックインしたあと、妻と二人でぶらっと外に出て、一軒のカフェを見つけました。そして店のドアに貼ってあったスペイン語のメニューを眺め、上から順に指でたどりながら、飲みたいものを探しました。妻はいつものようにコーヒー。これはスペイン語でも「カフェ」だからわかる。しかし、僕が飲みたいビールの文字が見つからない。考えてみれば、その時まだ僕は「ビール」のスペイン語の綴りを知らなかったのです。まぁ、でも、どうせ 「Beer」 とか 「Bier」みたいな綴りだろうと思っていたんですね。

しかし何度見ても、それらしい単語が見当たらない。そこでその場に妻を残したままホテルの部屋に戻り、荷物の中から「6ヶ国語会話集」を取り出して、それを持って再び店の前へ行きました。そしてその本で調べて初めてビールのスペイン語が「cerveza」(セルヴェッサ)だと知ったのです。

前述のように、欧米諸国の主要な言語では、ビールは、
「ビア、ビッラ、ビエール、ビーラ」
というよく似た綴りと発音なのに、なぜかスペイン語だけは、セルヴェッサ。
そして、その店のドアに貼られたメニューを再び目で追って行くと、ありましたねぇ「cerveza」(セルヴェッサ)の文字が。よっしゃ~!
いやまぁ、海外旅行中にこれほど嬉しい思いをしたことは初めてでした(少しおおげさ?)。

そして僕たちはその小さなカフェに入り、カウンタにいたお姉さんに、
「カフェ・ウノ、セルヴェッサ・ウノ、ポルファボール」
(ウノは数字の1、ポルファボールは英語のプリーズ)

と伝え、お姉さんの顔を窺うと、お姉さんは、「シー」(はい)と、ニッコリ笑ってくれたので、やった~、無事に注文は成功したのでした。

よく冷えたビールをもらって外の景色が見える席に座り、妻と歓談しながらグイっと飲んだ時のおいしさは、今も忘れられません。

海外旅行でのビールの思い出は山ほどありますが、まず最初に思い出すのはこの時のことですね。

では、次回はまた、ほかの国でのビールの話を
(ビールばっかりやがな)


 
赤いマークの場所がサンセバスチャンです。
フランスからスペインに入るとすぐ。
まぁ言わば「国境の街」ですね。

 

 
 サンセバスチャンは海と山に囲まれた、とても美しい街でした。


で、なぜここへ来たのかと言うと、今はアルゼンチンに住みレストランのシェフをしている甥のヒロユキが、当時はこのサンセバスチャンで料理の修業をしていたので、彼に会うため、パリに旅行したついでにここまで足を延ばしたというわけです。この写真もヒロユキが撮ってくれました。サンセバスチャンでは2泊して、また二人でパリに戻りました。

 

 

 

 

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ディズニーランドや万里の長城は コロナ解禁?

2021年05月02日 | 旅行

日本では新型コロナウィルスの感染がまた拡大し、東京、大阪など4都府県に緊急事態宣言が出されているところですが、アメリカと中国では制限が緩和されたというニュースが流れていました。

まずアメリカのカリフォルニア州にあるディズニーランド。去年の3月から感染者が急増したことでディズニーランドは休業していました。それから13カ月間という長い長い期間、休業が続いていたのですが、2日前の4月30日に久々に再開されたというニュースでした。1年以上も休業するというのは、やはり日本より徹底していますね。
 


 お客さんたちがメインストリートに入って行きます。
 スタッフの人たちも
待ち望んでいた再開でしょうね。
 
このディズニーランドには、僕たちも2016年の12月に行きました。モミィは小学5年生でした。その時、上の写真と同じメインストリートで撮影したのがこれです。

 
 僕はこの日、ここでインフルエンザにかかって、
 翌日は1日中、ホテルのベッドで寝ていました(泣)。

まぁ、ディズニーランドが再開されたと言っても、入園者数は定員の25%とし、マスクの着用は必須、入園前に体温測定も行われるとのこと。さらに、人気のパレードや夜のショーには人が密集するので、まだしばらくは再開されないとのことです。しっかりと感染防止策をとっているんですよね。

ところが
その次に中国の万里の長城の様子が報じられていたのですが、今度は正反対。テレビを見て思わず「わっ、何これ?」と声を上げてしまいました。

中国では昨日から大型連休を迎えたそうですが、この万里の長城では大勢の観光客が密集状態でひしめき合っています。しかもマスクを着けていない人も結構いますよね。メチャメチャ密集状態やん。


 


  
 ネットから引用した写真ですが、すご~い「密」ですよね。

なんだかねぇ。見ているだけで怖くなってきます。

今から27年前(1994年)のことになりますが、北京に旅行したことがあって、万里の長城にも行きました。その時の写真がこれですが

 

 

 人影はまばらです。
 さきほどの写真とえらい違いですけど、
 同じ「万里の長城・八達嶺」です。

 

 

 

 

 

 

 

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ブエノスアイレスのカミニートとマラドーナ

2020年11月30日 | 旅行

先日、心不全で亡くなったマラドーナ。まだ60歳の若さで、おそらく世界中の人たちが驚き、現役時代のスーパープレーの数々を偲んだことと思います。

マラドーナと言えば、1986年W杯メキシコ大会準々決勝のアルゼンチン対イングランド戦での「5人抜き」があまりにも有名ですね。そしてその時テレビ中継をしていたNHKの山本アナが、マラドーナがセンターラインの手前からドリブルで次々と相手をかわし最後にゴールを決めるまで、ほかのことは何も言わず、ただ「マラドーナ マラドーナ マラドーナ マラドーナ!」と名前を連呼しただけのあの実況は、今も伝説となっていますね。

  …………………………………………………………………………

2009年の秋、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスへ行きました。妻と妻の姉と3人で、ここに住んでいる甥のヒロユキ(義姉の次男)に会うのが目的だったのですが、もちろんいろいろと観光もしました。

 
 ボカ・ジュニアーズ・スタジアム(車の中から撮影)。

ブエノスアイレスで最初に行ったのがボカ地区のカミニートという賑やかな街でした。ボカ地区というのは、かつてマラドーナが所属していたボカ・ジュニアーズ・スタジアムというサッカー競技場があり、そしてこのカミニートはボカ地区でも最も観光客が多い街だという。サッカーやアルゼンチンタンゴの人形や絵があちこちにあって、カラフルで陽気だけど治安も悪いと言われているところでした。

 
 この中は休憩所兼お土産物売り場。
 建物がカラフルで、人形も面白い。
 右下にはサッカーの絵も。

 
 カフェテラスが並ぶ通りで。

そしてそこで、僕はマラドーナにバッタリ出会ったのです!

すでに引退していたはずの本物のマラドーナが、目の前にユニフォーム姿で背番号10番をつけて現れたのですから、それはそれはもうビックリ仰天しました。

 
 街頭にマラドーナが!

というのはウソで、そこにいたのはマラドーナのそっくりさんでした。観光客と一緒に写真を撮らせてお金をもらう、という商売をしていたようですが、それにしても驚くほどよく似ていました。

 
 
僕はこそっと写真を撮りました(笑)。

これは11年前の話なのですが、マラドーナのそっくりさんは今でもボカ地区のカミニートで「写真モデル」として稼いでいるのでしょうか?

「いよいよマラドーナは俺一人だけになっちまったか」

な~んてつぶやいているかも。

 

 

 

 

 

 

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