僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

 トイレは人生劇場??

2008年05月31日 | 旅行

パリ旅行中に疑問に思ったことが、帰国してから少しずつ解決していくのはなかなかうれしいことである。
これは、ブログを読んでいただいた方から詳しい情報がもらえるという、ネットならではのつながりのおかげであろう。旅行も、ブログのおかげで、ずいぶん実の多いものになってきた。

ルーブル美術館前の「トホホ」の像や、同美術館の中の「乳房の美しい女性」を描いた絵画の謎は、ネット仲間のじゃいさんが、恐るべき検索力でたちまち解明をしてくれ、コメント欄に当該サイトを貼り付けてくれました(このことはまた後日、あらためて記事にアップしたいと思います)。

そして、今度は元パリ在住で、今回の旅行でも多くのアドバイスをいただいたボワシエールさんが、嬉しいことに、僕の記事を読まれ「触発された」とのことでした。そして、フランスで過ごされた3年間を思い起こしながら、「パリ生活のあれこれ」を、ご自身のブログでつづっていかれるそうです。これまた、楽しみなことです。そのまず第一回目がさっそくアップされました。

ボワシエールさんのブログ → La Vie en Rose

記事は、トイレについての僕の疑問にさっそく応えていただいた形だった。

「男女兼用」というトイレの標示である。

その記事に書かれているように、トイレに「女性用」と「男女兼用」の2つが並んでいるというのは、パリではときどきあるそうだ。混んでいるときは男女混合で1列に並び、女性は両方どちらでも入れるが、男は男女兼用にしか入れない。じゃ、どっちみち両方とも個室なのだから、ともに男女兼用にしておけばいいじゃないか、と男の僕は思うのだが、フランスはこういうことからしても、女性への配慮を重んじている国であることがわかる。しかし日ごろトイレ(小さいほう)で並ぶことに慣れていない男は、こういうのって、つらい。

男子がおしっこをするのに、わざわざ個室は必要ない。日本の男子トイレには、一部例外を除くと、どこでも大小二通りの便器が並んでいる。これが僕たちのニッポンの常識だ。しかしパリには、男子トイレでも、個室だけ、というところが時々ある。だから、話は少し複雑になってくる。

先日のパリで、男子用のトイレのドアを開けると、洗面所で女性が鏡に向かい化粧をしていた姿が目に飛び込んできだ。見渡したところ、男子用小便器もない。
「あ、しまった!」と、自分が間違えて女子トイレに入ったと思い、いったん出てドアを確認したらやはり男子マークがついていた。首をかしげて、もう一度中に入って、よ~く見ると男性も2人ほど洗面所にいた。しかしやっぱり「男子専用」の小便器がないのだ。奥に4つほど個室があるだけ。それも、見た目には全部ドアが閉まっていた。どうしたものか…とためらっていると、奥にいた年配の男性が僕を見て、「ここ空いてますよ」と、親切に1つのドアを指差してくれた。それでやっと、どうにか個室まで行って、用を足すことができたのである。

手を洗おうと思ったら、隣では、さっきの女性がまだ化粧をしていた。
そこでまた、水道の水の出し方がわからず、あちこちさわったり、押したり、叩いたりしていると、隣の女性が「こうするのよ」と、蛇口の頭を2回ドンドンと強く押したら水が出た。メルシー。
次に手を乾かす温風器も、どこをどうしたら温風が出てくるのかわからず、押したり叩いたりしていると、別の男性が「こうするんだよ」と、ある部分を押して温風を出してくれた。メルシー。
やれやれ…。トイレに行くだけでも、ぐったりと疲れます。

ボワシエールさんが書いておられるように、高速道路のサービスエリアなどに行くと、男子トイレにも女性が殺到する。男子トイレが女性の行列で埋まり、それをかきわけて中へ入っていくのは、なかなか勇気のいることである。

僕も、モン・サン・ミッシェルの行き帰りのサービスエリアでそれを経験した。
女性たちが並んでいる男子トイレに遠慮がちに入り、女性たちのすぐそばで、なんの間仕切りもない場所でおしっこをする…というのは、これはまあ、他に比べようもないほど大変な苦行である。出るものも、出ない。とほほ。

まあ、考えたらこれも、男子トイレは「男子専用」ではなく、「男女兼用」みたいなものである。

また、カフェの中で、ごちゃごちゃと人の出入りが多いカフェでは、地下のトイレに通じる階段にロープを張り、進入禁止にしているところがある。客でもないのにトイレだけを使いに来る人間を排除しようということなのだろう。しかし、客であれば、もちろん使っていいはずだ。

あるカフェに入ったとき、ロープが張られている階段があったので「この下がトイレになっているんだな~」と思って眺めていたら、若い女性が僕の隣に来て、
「トイレに行きたいのだけど、ロープが張ってあったら行けないわねぇ…」
みたいなことを言うので、僕は、
「さぁねぇ…。わてには、よう…わかりまへんわ~」と答えるのみ。
そこへ店の兄さんが来て、女性に何かをしゃべり、自分のポケットから硬貨を一枚出してその女性に渡したのだ。女性はその硬貨を受け取ってロープをまたぎ、階段を下りてトイレに行った。兄さんは僕のほうには見向きもせず、どこかへ行ってしまった。
地下トイレは0.
5ユーロだかのコインを入れなければ開かない仕掛けになっているそうで、彼女はお客だったからコインをもらったのだろう。

しかし…
だったら何であの兄さんは、同じ客の僕にはコインをくれなかったのだろう(僕は別にその時トイレには行きたくはなかったんだけどね。それにしても…)。
…なんだかなぁ。
要するに、フランス人は、ゼッタイに女性に甘いのだ。
甘い、といえば叱られるかもしれない。
女性を大切にしている、ということにしておきましょう。
(異国の習慣に振り回される頼りない男も大切にしてくれえ!)

パリに関する本を読んでいると、男同士でトラブルが起きても、そこに女性が出てくるとすぐに解決する、という話がある。あらゆる局面で、男性よりも女性の方が、事がスムースに運ぶことが多いのだという。

では、最後に…
トイレの話のついでに、このことも書いておこう。
ボワシエールさんも知らない(…と思われる)話である。

ハッキリ言おう。
男性用小便器の背が高いのだ。高すぎるのだ。

僕など足が短いので、用を足すのに踏み台がいるのでは…と思うほどだ。
精一杯背伸びしてしなければならぬ。そんなケースが多かった(泣)。
フランス人の平均身長は、ロシア人やオランダ人のように高くはないのに、このアサガオの高さはナンなのだ。日本のように、隅っこに子供用があることもない。

物の本には「高いほうがハネカエリ(おつり)が少なくて良いからだ」とある。

ほんまですかいな…?

 

 

 

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 オ・ルボワール さよなら

2008年05月27日 | 旅行

…というようなことで、パリの「珍道中」は終着を迎えることになった。

旅の印象は、お天気によって天と地ほどの差がある。
パリへ来てから、ずっとお天気は安定していた。
その点、とても恵まれた旅行であった。ありがたいことだ。

帰国の日。目を覚ましてホテルの窓を開けると、雨が降っていた。
朝からバスで空港まで送ってもらうので、雨が降っても、もう困らない。

ホテルの窓から、外の風景を写真に撮った。


 
  ホテル3階の部屋の窓から、雨の朝の街を…

この旅行では、ブログ仲間のボワシエールさんにいろいろと教わったことが大いに役立った。紹介していただいたレストランにも2軒行った。

お店での注文の仕方やお会計の方法…
お店に入るときはカフェは自由に座るが、それ以外は案内されるまで待つこと…
お店の人がテーブルに注文を取りに来るのが遅くてもじっと待つこと…
サエテ?(どうでしたか?)と聞かれ、おいしかったら「トレビアン」と答えるのがいい…。
など、いろいろなことを事前に聞いていたので、まあ、恥ずかしい失敗もあったけれど、「何とかなるやろ」の気持ちで、とても貴重な経験を積むことができた。

はじめのお店は、魚のおいしいレストラン。これは先に書きました。

そして帰国前日のルーブル美術館見学のあと、もうひとつのレストランへ行った。

地下鉄でサンジェルマン・デ・プレへ行き、教えてもらっていた「オー・シャンパルティエ」という店を探し当てて入った。「大工」という意味の典型的なビストロとのことだった。もともと全国巡業する大工さんのための施設だったという。店の壁には大工さんの絵が貼られていた。

  
  ビストロの老舗と言われる「オー・シャンパルティエ」

 
  壁には大工さんたちの絵がかかっている。
 

ここのメニューを見ると、月曜日から日曜日までのランチがあった。難しいことはわからない僕たちは、その日の「月曜日のランチ」を注文した。「ワインは?」と聞かれたが「ノン・メルシー」と断り、3人ともミネラルウオーターだ(妻も姉もアルコールは全くダメである)。出てきたのは肉料理であった。
さほどの量はなかったように見えたのだが、不思議なことに、食べた後、何時間たっても、夕方になっても、…夜になっても、なかなかお腹が減らなかった。これまでもそうだったが、こちらの料理は味が濃厚で(それだけ美味しいのだが)、見た目以上にボリュームがあり、長い間、胃に残る感じがした。

あと、ボワシエールさんから、クレープについての情報をもらっていた。
クレープにも2種類あって、甘いクレープのほうではなく、そば粉の入ったガレットという、かたちはクレープと同じだが、チーズやハムなどが入って主食になるものである。これもおかげさんで、初めて食べた。よ~く口に合って美味しかった。

ホテルの近くにいつも行列ができているクレープやさんがあり、ある夜、そこに並んでチーズとハムの入ったものを注文した。「フロマージュ・ジャンボン・シルブプレ」と言ってお金を払って待つ。焼き上がったのをもらって「お持ち帰り」をする。ちなみに、フロマージュはチーズでジャンボンはハムである。パリではこの2つの単語を覚えることは必須科目であった。

そのアツアツのガレットをホテルへ持ち帰って食べた。道端でかぶりついたりしている人も多い。しかし、これも1枚6.5ユーロだったけど、ボリュームたっぷりで、これだけで満腹になってしまう。妻と姉は、1枚を2人で分けても、まだ持て余していたほどである。


  ホテル近くのクレープやさんには常に人の列。
  そのままかぶりつきながら歩いて行く人も多い。

僕たちは少しでもパリそのものの味を楽しみたいと思っていたので、なるべく地元の人たちの店を選んで入ったり、パリっ子たちと並んでスタンドで物を買ったりした。通りがかりのカフェにぶらりと入って、大好きなコーヒーを飲みながらゆっくりと過ごしたい…という妻たちの希望もかなえることができた。

苦労せずにお店で食事をしようと思えば、オペラ座界隈にある「日本人食堂街」に行けば、言葉の心配もないし、大きな失敗することもないだろう。でもわずか4,5日のパリ滞在なのに、日本食でお腹を膨らすのはもったいない、という観念があった。だから、そういうお店の前は何度か通り、中をのぞいたりもしたけれど、入ることはなかった。写真だけ撮った。

   
    オペラ座通りの裏通りに、日本食のお店が並ぶ。

 
  浪花ーYA というお店の表に貼り出されていたメニュー。

 

 
 街角のカフェで休憩して、ゆったりとした時間を過ごすのもパリの魅力。
 (サンジェルマン・デ・プレで)

 
  ここはサン・ミッシェルのカフェ。テラスは満席だったので奥に座った。
  その奥の座席から外に向けて撮った1枚です。
  


話は変わるが、外国へ旅行した人は、日本との習慣の違いをつくづく感じるであろう。特にトイレである。まず、個室へ入って鍵をかけるとき、日本であればタテが扉が開く状態になっており、閉める時は、内側の鍵を横にガチャと回して閉める。パリは逆で、ヨコが開く状態で、タテにガチャリとひねると鍵が掛かる。ちょっと勘が狂う。流すレバーも、ひとめで見てもどこにあるのかわからないことが多い。いろんな仕組みがあるので、狭いトイレの中できょろきょろしなければならない。

個室から出て、手を洗うのに、水道の水の出し方がわからない。
自動かな? と思って手を差し出してじっとしているが、水は出てこない。
コックみたいなものがないので、どこをどうやれば水が出るのかわからない。
蛇口の頭をグイと押さえると、ようやく水が出た。
そこを一度ではなく、二度押して初めて水が出る洗面所もあった。
みんな、横にいる人に教えてもらったのである。

トイレと言えば、レストラン「オー・シャンパルティエ」のトイレには驚いた。
「男性用」と書かれた狭い個室に入ると通常の便座と、その横に男性用の「朝顔」のミニ版が設置されていた。なんじゃこら…。こんな狭いところに2つ並べてもまさか2人いっしょに用を足すわけには行くまい。…どうも、意味がわからない。

モン・サン・ミッシェルへ行くとき、「マイバス」社で地下の階段を降りてトイレに行こうとした。日本人ばかりだったが、長い列ができていた。ほとんど女性ばかりの中に、男性が1人並んでいた。その先を見ると、個室が二つあった。二つに対して一列に並んでいるわけ。それはいいが…
一つは「女性用」。もう一つは「男女兼用」と書いてあった。
男女兼用…?? なんじゃ、そら。
女性に混じって並んでいた男性に、「男女兼用…って、ナンですか?」と聞いた。
「あ…。あの、つまり、男女が兼用で使えるってことですよね」
そんなこと、わかってるっちゅうねん。
他の女性たちは、僕らの会話には知らん顔して並んでいる。
男が並ばずにいきなり「男女兼用」へ入っていく、というのはいけないのか?
じゃぁ~どういう使い方をするんだろう…?
「わけ、わからんなぁ…」
女性たちに交じってこんな列に並ぶのは嫌だったので、あきらめて我慢することにした。今だに、あのトイレの使い方は、謎である。

 
 本文とは関係ありませんが、街角の公衆トイレ。もちろん有料です。


手を乾かすための温風が出る機器も、日本ならふつうは自動だ。
手を寄せるだけで「ゴォーッ」という音とともに温風が吹き出す。
しかしこちらではいくら手を差し出しても作動しない。あれぇ…故障かな、と思っていたら、後ろのおじさんが「上を押すのだ」と教えてくれた。機器の上にポコッと出ている部分があり、そこを押したら「ゴォーッ」という音が鳴り響いた。一定時間、温風が出続ける。その時間がわりに長い。だから、日本のように、次の人が並んでいたら早い目に切り上げるという気兼ねがいらない。温風が出ている間、ゆっくりと手を乾かすことができるし、待っている人も、決してせかすような態度はしない。これはむしろこうした手動のほうがいいのではなかろうか。


さて、パリの街は都市美の極致でもある。
壮麗・重厚な建築物が随所に建ち居並ぶ中で、普通の住宅には一戸建がない。
すべて集合住宅になっている。
そして、窓やベランダから洗濯物が干されているのを見たことがない。
あのイタリア・ナポリの下町の洗濯物のオンパレードを見て、腰を抜かしそうになったのとはえらい違いである。「ナポリを見てから死ね」といわれるほどナポリ湾の風景は美しいが、一歩路地に入ったあの満艦飾の洗濯物は「庶民生活的光景」を遥かに通り越し、ぐちゃぐちゃという感じであった。
パリはまさにその対極にある。
まったく洗濯物が外に出されていない。
住民の人たちは、どこで洗濯物を乾かしているのだろうか…。

しかし、またまた話が飛んで恐縮ですが、注意しなければならないのは道路を横断するときである。
こちらの人は、信号が赤でも、おかまいなしに渡る。
うっかり信号を見ず、みんなについて横断すると、けたたましいクラクション。
「うわっ」と走り出し、信号を見ればまだ赤のままだったことが何回かあった。
この信号蔑視の思想は欧米の特徴であるようだ。米国でもそうだった。
しかし、パリほどではない、と思う。ここは、すごい。
おまけに、広い道路で、四つ角になっていても信号のないところが多い。
こういうところは、自分の判断で渡らねばならない。
僕と妻と姉は、「今だ!」と陸上短距離選手のようにダッシュしてあちらへ渡る。
まったくもぉ~、命がけで横断しなければならないのである。

 
  信号のないところが多く、人は車の間をすり抜けて横断する。
  (ギャラリー・ラファイエット前で)

   
  すぐそばでドーンという大きな音がしたと思ったら、衝突事故だった。
  乗用車の右前輪がへしゃげている。


まあ、それやこれやで、パリ旅行の最後の日の夕方。
オペラ座からホテルまでの道を歩いていると、ちょうど疲れたなぁ、と思っていたときに、雰囲気のよさそうなカフェの前を通った。
「ここで休憩しましょ。これがパリでの、最後のカフェになりそうだし」
中に入らず、テラスに座って注文を取りに来るのを待った。

5分経っても店の人は来ない。
10分経っても店の人は来ない。

「ここに座っているのが、わからんのかなぁ…。中から死角になっているのかも」
と、つい、不安になって、ガラス越しに店の中を覗く。
「中が混んでいるから、忙しいのだろうね。そのうち来てくれるでしょ」
と、それとなく言い合って、じっと待つ。

ボワシエールさんから、
「お店の人がテーブルに注文を取りに来るのが遅くてもじっと待つこと…」
と教えてもらっていた。来ないのでアセって、日本のように、こちらから、
「すみませ~ん。早く来てくださ~い」などとは言わないこと。
どんなに時間がかかっても、かならず来るので、それまで待つこと…。
そう教わっていたので、じっと待った。

15分経った。
「ほんまに気がつかんのと違うか?」とさすがに落ち着かなくなってきた。
その時、「ボンジュール」とムッシューがやってきた。
ああ、やっぱり待っていて良かった~。来るんだよなぁ、必ず。

待つ…
このことは、パリでは最も大事な心得であると知らねばならない。

僕は、カフェ2つと共に、旅の終わりの記念にと、白ビールを注文した。
「ブランシェ(白ビール)をください」と言ったら、ムッシューは
「ナニ? ショコラですか?」と返事した。なんでやねん。発音、ちがうやん。
僕の顔を見て、ショコラ(ココア)を飲みそうだと思ったのか…?

「ビールですがな。このビエール・ブランシェどす」
今度は、ムッシューにガイドブックの見本写真を指さして言ったら、
「あ、そうか、わかった、わかった」とうなづいてくれた。

その白ビール(ビエール・ブランシェ)です。

   
   平たいグラスに、レモンが浮かんでいます。 おいしかった~
  

アルコール度の高いワインは、不整脈への懸念から、パリでは一度も飲まなかったけれど、軽いビールは飲んでいた。

あぁ~。うぅ~。さんざん待って飲んだブランシェの味は、格別であった。

締めくくりはやっぱりビールですね。
これがなければ、何も終わらないし、何も始まらない。ウィッ。


  

 

 

                  ~ おわり ~


 …とはいいながら、また「番外編」をいろいろ書きます。

 長ばなしにおつき合いいただき、ありがとうございました。
 

 

 

 

 

 

コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 ルーブル美術館

2008年05月24日 | 旅行

4月28日。旅も5日目、最後の1日である。
これまでと違って、空がどんよりとしている 
リュックに折りたたみ傘を入れて、8時過ぎにホテルを出た。

めざすルーブル美術館は午前9時に開く。
僕らのホテルからセーヌ川に向かってまっすぐ南へ行くとルーブルへ着くはずだ。
「3kmくらいだと思うから、歩いて行こうね」と3人で言い合う。
3人とも、歩くことが大好きな人間だ。姉も、妻も、驚くほど健脚である。
体調に問題を抱える僕が、一番危なっかしい存在だといえる。

8時過ぎにホテルを出て、モンマルトル通りを南へ南へと歩いた。
といっても、この通りは南東へ延びている。
何度も言うが、パリの道は斜めに延びているので、同じ通りを歩き続けていると思わぬ方向へ行ってしまう。
途中で何度かコースを修整しながら、南へ南へ歩いたら、フランス銀行に出た。
その南側がもうルーブル美術館である。開館の9時までには、15分以上あった。

「お、並んでる、並んでる」
ルーブル美術館の入口であるピラミッドに、ズラリと人の列。
その最後尾に並んだ。まだ開館していないから、列は動かない。
この程度の人数なら、動き始めたら、そんなに時間はかからないだろう。

 

    

 

9時になり、人々は前に進み始めた。

ピラミッドの中に入ると、いくつものチケット売場があり、人々がどどっと押し寄せるが、係員が空いているチケット売場にお客を分散させるように指示している。

チケットを買って、さあ入場だ。

 
  ピラミッドから降りていくとチケット売り場が何ヶ所かある。
   (↑ ↓ この2枚は帰る時に撮影したものです)

 


    
     入場料は1人9ユーロ(1ユーロは160円です)

とりあえず、モナ・リザとミロのヴィーナスのところへ行かなければならない。
人の流れについて行こうとしたら、いくつもの階段や通路があって、みんなそれぞれバラバラに行ってしまうので、どの方向へ進むか迷った。しかし地上階を適当に歩いていると、ミロのヴィーナスの場所に出た。
 

 

 


姉はじっと2mを越す大理石のヴィーナス像を見上げている。
「はぁ~。これが、ミロのヴィーナス…」
携帯電話を取り出して写真を撮っている。

開館直後の時間帯なので、まだ人の数は少ない。

ミロのヴィーナスとは4度目の対面となるが、今日が一番ひっそりしている。
やっぱり、僕はルーブル収蔵の大蒐集品群の中でも、これが一番好きだ。
じっと見つめていると、うっとりと、しあわせ気分がこみ上げてくる。

1964年、東京五輪を半年後に控えていた4月のこと。
僕が高校生になりたての頃であるが…。
このミロのヴィーナスが日本へやって来た。世間は大騒ぎであった。
東京と京都の二ヶ所の美術館で一般公開された。
テレビや新聞でも、ものすごい観客が押し寄せている様子を繰り返し報じていた。

高校の同級生が「家族でミロのヴィーナスを見てきた」と得意そうに話した。
僕は、いいなぁ、と思いながらも、うちの親はそんなことに興味は持っていなかったし、誘い合わせて行くような友人も知人もいなかったから、仕方ないわ、と諦めた。それが4度も会うことになるとは…。
まあ、せめてもう少し若い頃に会いたかったけど。

しばらくは至福の時間を楽しむ。

「では、次はモナ・リザへ…」
と、僕らは階段に向かって歩いた。
2階が「絵画コーナー」ということになっている。
あちらこちらに「モナ・リザ」への矢印があるのでわかりやすい。

階段にさしかかったところに、もうひとつの超有名な彫像「サモトラケのニケ」があった。ちょうど、階段の踊り場にあり、見物客を「ようこそ!」と歓迎する形で威風堂々とそびえている…という趣だ。

 
  サモトラケのニケ

階段を上がり、広い通路に出て、右側の部屋をのぞくと、沢山の人だかりが出来ていた。
突き当たりの壁に、小さなモナ・リザが掛けられていた。
 

 
  壁の中央にルーブル1の人気者 「モナ・リザ」が。

初めてルーブルに来たとき(14年前)は、モナ・リザは通路に掛けられていた。手を伸ばせばさわることもできた。それが、いつのまにか大きな部屋を与えられ、絵のまわりにはロープが張られて近づけないようになった。
そのわりには、ミロのヴィーナスは、今でも手を伸ばすと「おさわり」ができるようなところに置かれている。まあ、ここは紳士淑女の街・パリだからね。宝物にさわったりするような不心得者はいない、という前提ですべて成り立っているのかもしれない。

モナ・リザを見て一息つきながら、「民衆を導く自由の女神」「ナポレオンの戴冠式」「カナの婚礼」などの大作を堪能する。

 
   カナの婚礼(ヴェロネーゼ)

      
       民衆を導く自由の女神(ドラクロア)

今回は初めて3階まで上がった。
そこにはルーベンスやフェルメールなどの作品が展示されている。
お目当てはフェルメールの「レースを編む女」であった。

3階は静かで人影も少ない。
これまでで、最も落ち着いてルーブルを歩けたと言える。
しかし、隅々まで見て歩こうと思えば1週間はかかりそうだ。
僕らのような短期旅行では、ルーブルもヴェルサイユもオルセーも、弾丸超特急のスピードで回らねばならないのは残念だが、せめてここルーブルで、少しは静かに鑑賞ができたことは嬉しい。


 
  レースを編む女(フェルメール)

階段を降りて、またモナ・リザの部屋に戻ると、もうそこは大変な賑わいで、人が部屋からあふれ出ているほどだった。やっぱり、少しでも早く来てよかったな~。

言うまでもないけれど、モナ・リザは、ダ・ヴィンチによって約500年前にイタリアのフィレンツェで描かれた。
今から100年ほど前、モナ・リザが盗まれたことがある。
2年後に発見されて大事に至らなかったのであるが、犯人はルーブルに出入りして絵画の額を作ったりしていた木工大工であり、フィレンツェの人間だった。
「モナ・リザを故郷へ返したかった」と、動機を述べたという。

まあ、モナ・リザも500歳を超えたんだから、そろそろ故郷のフィレンツェに返してやってもいいんじゃないか、と、3年前にフィレンツェに行ってすっかりフィレンツェファンになった僕は思うのである。ルーブルにはあり余るほどの宝物があるのだから、モナ・リザの1枚くらい…と言ってはパリの人たちに叱られるか。なんと言っても世界で一番有名な絵だもんね。

 
  美術館の窓から、中庭を見る。

館内で何人か、模写をしている人を見かけた。
どの絵も、どちらが本物かわからないほどそっくりである。

   
    模写をする人たちも多かった。  

ただし、ひとつだけ、そっくりでないものがあった。
女性の上半身の裸体画を、模写している人の絵であった。
やや遠目に見てのことだけど、両者を比較すると…
顔はそっくりだったが、乳房の形が、本物のほうが断然よかったのでアル
(僕はこういうことには、比較的うるさいのです)。

本物の絵にもっと近づいて、美しい乳房を至近距離で見たかったし、ついでに画家の名や題名を見ようと思ったけれど、真ん前に模写している人が立ちはだかっているので、絵のそばに寄ることが難しい。無理にかいくぐって絵の前に行くのは、絵が絵だけに、いささか恥ずかしい気持ちもある。そんなときは、この人たちはちょっと邪魔。近くで見たくても、つい遠慮してしまうから  。

そのまま通り過ごしたが、今でも本物の絵のほうの乳房が気になって仕方ない。
あれは、何という絵だったのだろうか。
画家も題名もわからないので、ネットで見ようとしても検索のしようがない。
あ~~ん、残念だなあ  。

 
 僕たちは昼前にルーブル美術館を出た。
 一方、入口の回転扉からは、どんどんお客さんが入ってくる。

  
   ルーブル美術館にお別れを告げて…

ルーブルの入口であるピラミッドをあとに、コンコルド広場やシャンゼリゼ通りに通じるチュイルリー公園のほうへ歩いて行った。公園の手前に、カルーゼル凱旋門がある。
「えっ…?」と姉は、こんなところに凱旋門が現れたので、不思議な顔をした。
「凱旋門って、いくつもあるの…? ええ~~っ」


 
  ルーブルを出たところにあるカルーゼル凱旋門。
  このアーチを抜けるとチュイルリー公園があり、その先に、コンコルド広場、
  シャンゼリゼ通り、そして、一番よく知られた凱旋門がある。
  

カルーゼル凱旋門をくぐって、コンコルド広場やシャンゼリゼ通りに通じるチュイルリー公園をぶらついた。中央に広い散歩道があり、左右対称に作られた美しい公園である。

 
  チュイルリー公園内で。
  なんだか、東京の六本木ヒルズにも、こんなクモがおったような気がする。

 
  チュイルリー公園からルーブル美術館の方を向いて撮影。
  僕たちは、向こうからこちらへ歩いてきた。

公園の中をぶらつきながら、やがてこの池のそばまで歩いてきた。
姉は熱心に携帯電話をのぞきこんでいる。
先ほどのルーブル美術館で撮影した写真を、目を細めて眺めている。
ルーブルの興奮がなかなか冷めやらぬ様子である。

そして姉は僕に、「これ、見て…」と目の前に携帯電話を差し出した。
「ミロのビーナスも、こんなに小さくしか写っていないわ」
そう、つぶやいた。

僕は、その携帯画面を見せてもらい、少しためらったあと、小さな声で言った。
「アネさま。そ、それは、モ、モナ・リザでござります」  
         
   

「…?????」
「ミロのヴィーナスではなく、モナ・リザ…で、ごぜえますだ」

「あっ…? あっはっはっ。そう、モナ・リザね、モナ・リザ。あははは~」
姉ののどかな笑い声を聞いて、僕もつられて笑ってしまった。
そのとき、ちょうど道の横に立っていた彫像が目についた。
全裸の男の彫像であった。僕はそれを見上げた。

「むむっ。なんじゃ、これは?」
その裸の男の彫像は、きっと今の僕たちの話を聞いていたに違いない。

こんなポーズをとっていたのである。

          


 
  とほほ。 モナ・リザを … ミロのヴィーナスと 呼ばんといてね~」 

 

 

 * 追伸

   「とほほ」の像について、ご関心を寄せていただいているようです。
  「とほほ」の像は、こういう場所にあります。
  チュイルリー公園の噴水からみた写真ですが、一番左がその像です。
  この像について詳細をご存知の方は、ご一報くださいませ。

 
   一番左端に「とほほ」の像が建っています。

 

 

 

 

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パリめぐり観光バス

2008年05月21日 | 旅行

 

 
 
  これがカー・ルージュです。(後方はオペラ座)。

 パリの街を歩いていると、あちらこちらで見かけます。
 今日は皆さんと一緒にこれに乗ってパリ見物…というのはいかがでしょう。

     ………………………………………………………………

 ヴェルサイユから列車に乗り、パリ市内に戻ってきた。
 僕たちは往路で乗車した駅、アンヴァリッドで降りた。
 そして、アレクサンドル三世橋を渡った。
 セーヌ川にかかる橋の中でも最も美しい言われる橋である。
 この橋は、四隅の石柱に、金色の女神とペガサスの彫刻が輝いている。

 
  アレクサンドル三世橋。

 しばらく歩くと、シャンゼリゼ通りに出た。
 一昨日は朝の9時台だったので活気に欠けていたが、
 今日は日曜日の午後で人通りも多かった。
 天下のシャンゼリゼ通りなんだから、
 これくらいの賑わいはなければ…

 
  賑わうシャンゼリゼ通り

 シャンゼリゼ通りを凱旋門に向かって歩く。
 凱旋門の右手に、真っ赤な観光バスが停まっているのが見えた。

   
    右側にカー・ルージュが2台停まっている。
    後ろのバスの方に僕たちは乗った。

 僕たちはそのバスの乗り放題のカードを旅行社からもらっていた。
 「あのバスに乗って、市内見物を兼ねてノートルダム寺院まで行こう」
 3人で、停車中のバスに乗り込んだ。

 運転手にカードを見せて、上に上がらずそのまま奥の座席に座った。
 日差しが強かったので、妻と姉が2階席に上がるのをためらったからである。

 すると、運転手が僕らのほうを振り向いて、
 「2階へ行けばいいのにぃ!」  というジェスチャーをした。
 「なんでわざわざ景色の見えにくい場所を選ぶんだ?」 ということだろう。

 ハイ。 せっかくだから、じゃ~、お言葉に甘えまして…
 僕は2人を促して、バスの屋上である2階席へ上がった。 

 屋上席は、ほぼ満員であった。日本人は僕たちだけだった。
 姉と妻が並んで座り、僕はその後ろの空いていた一つの席に座った。
 バスがスタートし、凱旋門が後方へ遠ざかって行く。
 ここからノートルダム寺院までは、次のような経路をたどる。

                

  

 いちおうスタートの ① はエッフェル塔となっているが、
 グルグル回っているので、スタートと言ってもあまり意味はない。

 僕たちは ⑦ の凱旋門からこれに乗り、シャンゼリゼを右に下って、
 右折後南下。アレクサンドル三世橋をわたって西へ進み、
 また ⑧ のアルゴ橋をわたり、⑨ のトロカデロへ行く。
 ここでエッフェル塔を眺めたあと、塔の周辺 ① ② を巡回してから、
 ドーム教会のあるアンヴァリッドから、また北へ走ってセーヌ川をわたり、
 河畔の道路をまっすぐコンコルド広場から ③ ルーブル美術館の横を通り、
 ポンヌフという橋をわたってパリ発祥の地とされるシテ島へ入る。
 そしてシテ島にあるノートルダム寺院に至る…。そこで降りるつもりだ。

 パリ市内をクネクネと蛇行しながら名所を巡るこのバスは、
 10分から20分間隔で出ており、1周するのに2時間半かかるという。

 
  さぁ、凱旋門を背にして、出発。

 
 セーヌ川とエッフェル塔。撮影する位置が高いと風景も撮りやすい。

 バスはトロカデロに出て、エッフェル塔が見えるところで停まった。
 2日前、ここに来るつもりが、歩く方向を間違って来られなかった場所だ。
 ボワシエールさんが、
 「トロカデロから見るエッフェル塔が一番だと思います」
 と書いておられたとおり、華麗なるエッフェル塔が姿を見せた。

 
  トロカデロ広場。このあたり、かつてのボワシエールさんのお散歩コース。

   
  ボワシエールさん推奨。 トロカデロ広場から見たエッフェル塔の絶景。

 
  晴れた日曜日の午後。 列に並ぶ人… 広場でくつろぐ人…。

 
 アンヴァリッドのドーム教会。この地下にナポレオンの墓があるそうだ。

 さてここからバスは、またまたセーヌ川をわたって右岸へ行き、
 川岸の道をコンコルド広場からシテ島へ向かって走り始めた。

 僕の隣には、茶髪をなびかせたサングラスのお姉さんが座っていた。
 トロカデロ広場を出たあたりで、彼女が僕に何かを話しかけた。
 「ペラペ~ラ、ペペラペーラ、ペラペラペラのペラペーラ…!」
 全然わからない。何語をしゃべっているのか…すらわからない。

 すると、自分の手首を指でさした。あ、今何時か? と聞いているのだ。
 僕は左腕をにゅっと伸ばして、彼女に腕時計を見せてあげた。
 午後3時を少し回っていた。
 「ふんふん」とお姉さんはうなずいて、足もとのバッグから何かを取り出した。
 バサバサッと紙袋を開けるような音がしたので見ると、お姉さんは、
 袋からリンゴを取り出して、皮もむかずに丸ごとかぶりつき、
 ガリガリムシャムシャと食べ始めたのである。
 「ふ~む。3時のおやつかいな…」
 間食の時間が迫ってきたので、僕に時間を確認したのだろうか?
 どうやら茶髪姉さんは、一人で観光バスに乗っているみたいだ。

 そのあと、彼女は、また僕の方を向いて大声で何かを言った。
 観光案内を聞くためのイヤホーンを僕の目の前に差し出して、
 「これ、全然聞こえへんがな」  というようなことをうったえるのだ。
 乗るときに、ガイド用として運転手がイヤホーンをくれた。
 僕は足元に差込みがあったのを知っていたが、最初から使わなかった。
 彼女は懸命にそれを両耳にはめて聞こうとしているのだが、
 どうも聞こえないのか、聞こえが悪いのか、そんなふうであった。
 でも、それを僕に言われてもなあ…。

 ちょうど一番前の席が空いたので、 
 僕は
そちらの席のほうに移動した。

 
  コンコルド広場付近で。 ローラースケートで歩く(走る?)人が多い。

 
  左の建物はルーブル美術館。右にセーヌ川が流れている。

 
  セーヌ河畔の歩道は、出店で賑わっている。遊覧船も見える。

 
 バスはポンヌフにさしかかった。ポンヌフとは「新しい橋」の意味。
 でも実際はその逆で、現存する中では一番古い橋だそうである。
 映画 「ポンヌフの恋人」 を思い出す。ジュリエット・ビノシュがよかったな~。

  
  ポンヌフを渡ってバスはシテ島に入る。
  ここは、スケールこそ違うが、大阪で言えば中之島のようなところだ。
  前方に、ノートルダム寺院が見えてきた。

 
 僕たちはノートルダム寺院で降車して、楽しかったひとときを終えた。
 乗るときにはガラガラだったバスの1階席もかなり混んできていた。
 僕たちが2階から降りてくると、ぞろぞろと上に上がって行く。

   
   ノートルダム寺院の前も観光客でごったがえしている。 
   とにかくどこへ行っても、すごい人の数である。

   
   ノートルダム寺院の裏側は、絶好の撮影スポットになっとります。 
 
 寺院の表と裏で写真を撮ったりしたあと、その周辺を散策した。
 お土産屋さんやカフェやクレープやさんなどがひしめいている。
 このあたりはまた、格別の賑わいである。 

 そのあと、セーヌ川左岸のサンミッシェルのカフェに入ったりしながら、
 ぶらぶらと歩いた後、地下鉄でセーヌ川右岸に戻った。

 また歩いてバンドーム広場やホテルリッツを見物し、
 マイバス社の近くにある、僕の好きなジャンヌダルク像へ行った。


 その写真を掲載して、今日は終わりと致します。 

 いつもいつも、長い話におつきあいいただき、ありがとうございます。
 次回はルーヴル美術館です。よろしく~。
   
   

  
  写真を撮ろうとしたら、パリジェンヌがやってきてデンと前に座った。
  さすがジャンヌ・ダルクの末裔たち。カメラを構えても全然動じない。

 

                       

 

 

 

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 ヴェルサイユへの道

2008年05月19日 | 旅行

どこへ行っても失敗したりズッコケたりする僕だけど、以前ヴェルサイユに行く時も、列車を乗り間違えて大あわてしたことがある。最初にその時の話から…。

ヴェルサイユはパリの中心部の西南20キロほどにあり、行き方も何通りかある。
僕はRERという高速郊外鉄道を利用した。

サンミッシェルという駅の窓口で、ヴェルサイユへの切符を買ってホームへ。電光掲示板で次に来た列車がヴェルサイユ行きだと確認をした(…はずだ)。そして、その列車に乗って2階座席に上がり、靴も脱いでくつろいでいると、やがて、次々と停車していく駅名と手元の地図の駅名とが合わないことに気がついた。「変やなぁ」と窓の外を凝視していると、後部座席の若い女性が僕の肩をトントンと叩き「ヴェルサイユ?」と尋ねた。「ウィ」とうなづくと、女性は「この電車じゃないから、早く降りるのよ!」と言った。列車はどこかの駅に到着したところだった。
「わっ、大変。降りよう!」と妻の腕とリュックをつかみ、立ち上がって通路に出たら、靴を履いていないことに気がつき、あわてて靴を脇にかかえ、よろめきながら出口をめざして走った。しかし扉が閉まっている。「ゲェッ」と思ったが、そうだ、ドアは手で開けるんだとわかり、やっとのことでホームに転がり出た。
ゼイゼイ言いながら、「ここは一体どこやねん」と、泣きたい気持ちで、壁に標示されている読めないフランス語の駅名を、ぼう然と眺めたことを思い出す…。

    ………………………………………………………………

さて、今回、旅の4日目は3人でそのヴェルサイユ宮殿に行く。

今度こそ、乗る列車を間違ってはならない…と、にわかガイドの僕は、心ひそかに決意を秘めて、地下鉄のアンヴァリッドという駅で、前回と同じ高速郊外鉄道RERに乗り換えるために、降りた。

ホームに「RER」への案内標示が出ていたのでそれに沿って地下道を歩いて行くと、自動改札口に出た。RERの改札口だ。僕たちは地下鉄の切符しか持っていないので、そのままでは通れない。ここで切符を買い直さなければならないようだが、窓口らしきものはピタリと閉ざされ、どこで切符を買うのかわからない。駅員の姿どころか、お客の人影すらない。地下鉄には乗り慣れていたが、郊外への路線の接続に関しては何の知識もなかった。一度地下鉄から出て、あらためてRERに行ったほうが、駅員のいる窓口もあってわかりやすかったかもしれない。前回は切符は窓口ですんなり買えたのに、今回は、列車を乗り間違うどころか、なんと切符を買う段階からいきなりつまづいてしまった。

隅の方に、小さな自動券売機らしいものが2台置かれていた。パリの自動券売機は英語表示も出るが、タッチパネルの操作方法がとても難しい。そこへ中国人風の夫婦らしき2人連れがやってきて、券売機を操作しはじめた。じっと見ていると、旦那のほうが、「うまいこと、いかんがな」という顔で奥方を見た。奥方はしょんぼりしている。僕がその奥方に「ヴェルサイユへ行くのですか?」と聞いたが、「あたしは何にもわからないのです」という哀しそうな表情で黙っている。旦那は、また機械に挑戦している。そこへ、日本人の新婚カップルがやってきた。

「ヴェルサイユへ行くのですか?」と僕が尋ねると、「はい、そうですけど」と、2人は礼儀正しい口調で答えた。よし、この人たちに聞けばわかりそうだ。
「ここで切符を買い直すんですけどね。僕たち、買い方がわからなくって…」
「あっ…。そうですか。あのぉ…、私たちは、地下鉄の窓口でヴェルサイユまでの切符を買っているんですけど」と、ヴェルサイユ行きの切符を見せてくれた。
この駅からヴェルサイユまで、1枚2.8ユーロの切符である。

あ~あ。がっかり。
それ、1枚5ユーロで売ってくださ~い、とも言えないしなあ。

若い2人は券売機をあれこれ操作してみてくれて、「これは、こうだよね」「だけど、これが意味わからないね」などと2人で言い合いながら、パネルのあちらこちらをプッシュしながら熱心に調べてくれている。2人とも、とても親切でしっかりしている。これなら今後の結婚生活も大丈夫だろう(今はそんなの関係ネェ)。

でも、結局はやり方はわからなかった。仕方なく全員、となりの機械で、さっきからあきらめずに挑戦していた中国人の旦那の方へ移動して覗き込む。行く先のアルファベットを入力して、そして何とかかんとか、という複雑な操作を懸命に続けている。そして、ついに成功したようだ。あとはお金を入れるだけである(こちらの券売機は、行く先を指定してからお金を入れる)。やったぁ!

これで、僕達も同じような操作をしたら、念願の切符が手に入る。
そう思っていたら、意外にも旦那は両手を広げて泣きそうな表情を浮かべた。
手には、ユーロの札が握られている。それを挿入したらいいだけじゃないか?

「あれぇ…?」と新婚さんの男性のほうが画面の文字を読み、
「コインかカードしかだめみたいですね。お札はこの機械は使えないんだ」
中国人の旦那は、コインもカードも持っていなかったのだ。
あ~。なんちゅうこっちゃ。
気の毒に…肩を落として元の通路を引き返して行く旦那と奥方。

しかし、僕らもそれだけの額のコインは持ち合わせていない。
「カードがあるがな、カードが」と、さっきの旦那がそのままにしていた画面を、人数だけ2人から3人に変更し、財布からカードを出して、あとは画面の指示通りにピッピッと押していくとヴェルサイユまでの3人分の切符が出てきたのである。

まあ、とにかくよかったが。
…切符ひとつ買うのも大騒動である。

列車に乗って、終点のヴェルサイユ駅に着いたのは9時半であった。
所要時間は約40分である。

ヴェルサイユ宮殿の切符売り場は、これまた長蛇の列であった。
待っている間、係員が来て、大声で何かを僕らに告げた。
フランス語と英語だった。意味は、もちろん…わからん。
それを聞いて、列に並んでいた何人かの人たちが、前の方に移動して行った。
僕らのすぐ後ろのおじさんが、係員に
「イタリアーノ!(イタリア語でも言わんかい!)」と抗議していた。

何のことやらさっぱりわからない。僕たちはじっと我慢の子であった。

ようやく順番が回ってきて、日本語版のパンフレットを3枚取って、13.5ユーロの3人分、40.5ユーロを窓口で支払った。これでチケットは手に入れたけれど、入場口はまた別のところで、そこもまた、延々と行列を作っていた。しかも、不思議なことに、とても長い列と、わりに短い列の二通りがあった。なんの区別なのだ、これは。

短い方の行列に日本人の新婚さん風の男女が並んでいたので、僕はチケットを見せて、「ここへ並んだらいいのですかね」と聞くと、男性のほうが、
「僕らはミュージアム・パスなのでここですけど、普通のチケットなら向こうかなぁ…?」と長い行列を指差した。
「あ、でも、あの背の高い男性に聞いてください」と後方の係員を指差した。

そこで背の高い係員のところへ行きチケットを見せると、長い腕を振り上げ、
「ビハインド!」と叫んだ。「後ろへ行け」ということだろうけれど…。
それが長い列を指しているのか、短い列のほうなのかよくわからない。
とはいえ、多分長い列を指しているのだろうという察しはついた。
僕らは「予約客」ではなく、今チケットを買ったばかりの一元さんだから。
しかし…。あの長い長い列にはなぁ…。並びたくないなぁ…。
ガイドブックに「パリ・ミュージアム・パス」は絶対おすすめ!とあったが、これだと入場券は買わなくて済むし、並ぶ時間が節約される。やっぱり新婚旅行なんかだと、こういうのを買っておけば便利なんだね~。でも数ヶ所しか行かない僕らにはかなり割高だったので、このパスはパスした。…パルドン(すんまへん)。

ちょっと考えた後、「まあ、ええやろ」と短い列の最後尾に並んだ。
入口に行くまでに、制服の女性係官がチケットをチェックしていた。
僕たちがチケットを見せると、案の定この女性係官は、
「このチケットはあっちの列だ。ここへ並んではダメ」と怖い顔をした。
すると、後ろからさっきの背の高い係員が首を出して、
「あ、この人たちは僕がこの列に並べと言ったんだから、いいよ」
という感じのことを女性係官に伝えたので、そのままでいられた。
ありがとうね。助かりました。

そんなことで…
苦労に苦労を重ね、ようやくヴェルサイユ宮殿の中に入ることができた。
ほんとにまあ、ここへたどり着くだけで疲れてしまう。

ヴェルサイユ宮殿は、大きな、というより、バカでかい、という表現するほうがより現実的であろう。とにかく大きすぎて、何度来ても全体が把握できない。

礼拝堂、ビーナスの間、ダイアナの間、アポロンの間、王妃の寝室、鏡の回廊など、目も眩むような宮殿内の部屋部屋を見学して行っても、自分が今どこをどう歩いているのかさっぱりわからない。ルーブル美術館顔負けの豊富な絵画の展示をはじめ、、鏡の回廊の素晴らしさなどは口では言い表せない。帰ってきて、人から、どうだった? と聞かれても、「よかった」「すごかった」としか言いようがない。

宮殿から出て眺めた庭園も、絵画のように美しい。
ヴェルサイユについては、ネットでも本でもテレビでも、いっぱい紹介されているので、僕のつたない表現力ではどう転んでもうまい描写はできないので省略してしまうが、やはり、断然素晴らしいと思うのは、鏡の回廊である。これだけは強調しておきたい。

宮殿の裏側にある庭園から建物を潜ってまた最初のチケット売り場付近に戻る。
ベルサイユ宮殿の門を入ったところに、ルイ14世の騎馬像があったはずだが、その姿が見えなかった。工事中か? どこへ行ってしまったんだ、ルイ14世は…?

宮殿を出る頃は、切符売り場に並ぶ列はますます長くなっていた。
とにかく、人だらけである。

時間は12時ちょうど。
「あ~あ。お腹、減ったなぁ」
と、僕たちは毎度お決まりのセリフを口に出して、駅前まで歩く。
むかし妻と駅前のマクドナルドに入ったことを覚えている。
今回は、ちょっとランクを上げて、そのとなりのレストランに入った。
やれやれ、疲れたねぇ…と一息ついた。

ウェイトレスがやって来て、
「イングリッシュ? ジャパニーズ?」と聞く。
ぼっ、ぼっ、ぼくたちがイギリス人に見えるのか…? と一瞬思ったが、
「英語か日本語か、どっちのメニューがよろしいですか?」
と聞いてくれていたのだった。そらそ~やろ。どこがイギリス人やねん。
僕は意味がわかると、即座に「日本語!」と、英語で答えた。

さすがに大観光地である。日本語のメニューがあるとは…。
この旅行で、日本語のメニューが出てきたのは、ここだけだった。

ヴェルサイユ宮殿では日本人を数多く見かけたが、前回のマクドナルドでもそうだったが、そこから少し外れると、日本人の姿はほとんど見えなくなる。このレストランでも、日本人らしい顔は見なかった。みんな、観光バスでやってくるのだろう。

駅に戻り、パリ市内への電車に乗った。
車窓には、田園や住宅の風景が展開していた。
パリ市内の住居はすべてアパート形式だから、このへんの一個建て住宅が並んでいる風景を見ると、また格別の趣があった。

まだ半日が過ぎたばかりである。
「ミュージアム・パス…なぁ」とぼんやり考えていたら、ふと、パリに着いたその日、旅行社からパリ市内循環観光バスの乗り放題パスをもらっていることを思い出した。

そうだ、パリに着いたら、その無料パスを使って観光バスに乗ろう…
僕は、電車の乗り継ぎも、レストランでの注文もロクにできない頼りない「にわかガイド」だけど、いつも次の行程を考えるのに、頭の中はけっこう忙しいのである。



                       ~ 続きます ~

 

 

 
  
列車が終点のヴェルサイユ駅に到着した。 
 

 
  駅の大通りを少し行って左折すると、もう、遠くにヴェルサイユ宮殿
  が見える。歩いて10分足らずだ。
  

 
  宮殿へ、宮殿へと、人々は吸い込まれるように進んでゆく。


 
  宮殿の入口まで来た


    
    しかしもう、これだけのお客さんがチケットを求めて、
    長い長い行列を作っていた。


  
  この建物の中がチケット売り場。あと少し…
 

   
   これがチケット。ひとり13.5ユーロ(約 2,200円)でした。


 
  礼拝堂。


 
 中はさながら美術館のように沢山の絵画や彫刻がある。


 
  ヴェルサイユ宮殿の中でも最も豪華絢爛な「鏡の廻廊」


 
  庭園の一部。

 
  僕たちが帰る頃は、観光客はものすごい数に増えていた。


   
   ヴェルサイユの駅前のお店に入ってランチをとる。
 

  
  RERのヴェルサイユ駅。
  正式名称は「ヴェルサイユ・リヴ・ゴーシュ」
  パリまで約40分です。

 

 

 

 

 

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 モン・サン・ミッシェル

2008年05月15日 | 旅行

旅も3日目を迎えた。
今日はモン・サン・ミッシェル日帰りバスツアーの日である。
すでに日本から申し込んでいたものだ。

朝の6時にホテルのフロントで、あらかじめ用意してもらっていたパンとジュースとココアをもらって部屋に戻り、3人で朝食をとる。持参の電気ポットで沸かしたお湯を使って、日本から持ってきたコーンポタージュスープをすする。
う~ぅっ。お、おいし~い。2袋開けてしまった。

6時半にフロントにキーを預け、ホテルを出た。
こちらの国は、夜は9時ごろまで明るいのに、朝はいつまでも暗い。
6時半頃になって、ようやくうっすらと明けてくる。

30分歩き、オペラ座通りにある「マイバス」社へ7時に着いた。ツアー客はむろん日本人ばかりだが、大型バス2台分の人数がいた。僕たちは2号車に乗った。

バスは予定どおり、7時半に出発した。
ガイドさんは白髪の熟年男性で、シンドウさんと言った。

「おはようございます」とシンドウさんが最前列席でマイクを持って挨拶し、
「今日はね、フランス全土で、今年一番のいいお天気だそうですよ~」
と言って、にっこり笑った。「よっしゃぁ」と、小さく拍手をする僕。
「ここからモン・サン・ミッシェルまで360キロあります。今からですと、約4時間半くらいかかりますので、途中一度休憩をして、12時ごろには着けると思います」

360キロとは…大阪から言えば静岡、東京から言えば仙台までの距離に匹敵する。
運転手ももう一人、座席に待機している。

バスは、ノルマンディ海岸をめざして、西へ西へと走る。車窓からの眺めは、菜の花畑の鮮やかな黄色と、麦畑の見事な緑色とのコントラストが実に美しい。
高速道路から見える光景は、たまに市街地を通るほかは、ほとんどが緑色である。
看板一つない景色が、日本と違って、とても広々として清清しい。

車はスムースに進み、途中一度の休憩をはさんで、予定どおり、12時前にモン・サン・ミッシェルが見えてきた。バスの窓から、遥か彼方にそそり立つ、城塞のような修道院が視界に入ってきたときは、さすがに身ぶるいがした

おおっ、ついに見えたぞ。あれが噂のモン・サン・ミッシェルか~。


 
  バスの中から見えてきた…

 
 
  
だんだんと、近づいてきた。
  

 
  バスの運転席からのぞくと、モン・サン・ミッシェルは、もうすぐそこに…
 

モン・サン・ミッシェルは、最近はテレビの世界遺産シリーズ番組でも紹介され、人気急上昇中の観光地である。だが、そもそもモン・サン・ミッシェルとは何なのか…? 海の上にそそり立つ幻想的なお城のようでもあり、城塞のようでもある。実際は修道院だけど、そこにはさまざまな数奇な歴史が刻まれている。

西暦708年…というと、ちょうど1300年前のこと。日本では奈良時代に入るちょっと前である。その年に「岩の上に修道院を建てよ」と、戦いの天使・聖ミカエルが、なんとかという司教の夢の中に現れてそんなお告げをした…ということだ。聖ミカエルはたいそう勇ましい天使であったようで、ジャンヌ・ダルクにもお告げをして戦いに導いている。モン・サン・ミッシェルとは、「聖ミカエルの山」という意味だそうである。

で、そのときから、この場所への修道院の建設が始まった。966年に完成し、ベネディクト修道会の聖地として多くの巡礼者が訪れるようになって賑やかになり、その後建物は上へ上へと増改築され、今日のような複雑な建物になっていった。英国との百年戦争の際には、要塞として長期の包囲に耐えた。その後徐々に衰退し、18世紀には監獄として使われたこともあった。しかし、近年その歴史的価値が見直され、1979年(…といえばわりに最近であるが)に、世界遺産に指定されたとのことである。

まあ、そういう建造物である。

モン・サン・ミッシェルの入口にあたるところに駐車場がある。
バスがそこに停まり、僕たちは席を立ち、降りる態勢をとった。
「それでは、いま12時ですが、最終的にこのバスに集合するのは、3時半ということにしますので、よろしくお願いしま~す」とシンドウさんが一言、念を押した。



 
 バスが到着。 赤い旗はノルマンディー地方の旗だそうだ。

 
 バスを降りて、シンドウさんを先頭にさっそく島の入口の門をくぐる。


 

 

修道院の周辺はひとつの村になっており、民家もある。
僕らが案内された道は、グランド・リュと呼ばれるここの目抜き通りである。
とても狭い路地なのだが、ここが、まあ、メインの参道であり、狭い道の両側に、レストランや土産物屋、ホテルなどが集まって、多くの観光客がぞろぞろと歩いている。まさに門前市をなす賑わいで、日本人の店員の姿を見かけたりもする。

僕たちは、まず全員が、レストランに案内された。昼食の時間だった。
奥の方に用意されていた団体席が、あっというまに満席になった。
「シードルがついた昼食です」とツアーのパンフレットに書いてあったので、
「シードルというのは、ここの名物のビッグ・オムレツのことかいな?」
と思ってパンフレットをよく読むと、シードルとはリンゴのお酒のことであった。

日本のテレビ番組で紹介されて一躍有名になった巨大なオムレツは出るのか?
…と、別にオムレツなど食べたくもなかったが、話のタネにと少し期待した。
しかし、僕らに出された料理は、ごく普通の前菜・メイン・デザートであった。

レストランから出て、シンドウさんの説明を受けながら、修道院をめざして歩く。


 

 

 

 

  
  
シンドウさん(右端。「2号車」の「2」の旗を持っている)の説明を聞く。


「えぇ、すみませ~ん、皆さん…」とシンドウさん。
「参道を歩いて行くとものすごい人なので、ここで近道をしたいと思います」
と、急な階段を指さした。こちらのほうが、人の数が少ないから、という。
「大丈夫ですよね。もし、脚力に自信がなければ、そう言ってくださいね」
と言いながらもすでに階段を上がり始めたので、僕らもあわててついて上がった。

階段を上がっていくと、土産物屋さんなどに遮られていた視界が一気に広がった。

上がる途中、モン・サン・ミッシェル湾に広がる干潟が見えた。
そこに、一組の男女と犬の姿があった。
干潟にはズブッと埋もれてしまう場所などがあってたいへん危険なので、一般には立ち入りが禁止されているはずだと書かれてあったが…


 
  
修道院への階段から干潟を見渡す。人の姿もあった。

 
 さらに階段を上がっていく。
 けっこう体力がいる。


 


 どんどん階段を上がっていくと、修道院が近づいてくる。

 

 

 

 


 年配のお客たちはフウフウ言い、息を切らせながら上がっている。

 やっと修道院に到着した。
 ここがその上がり口である。


 

 
 修道院の窓から、僕たちが乗ってきたバスが見えた。

 


 だいぶ歩いた後、ようやくテラスに出た。
 

 
  半島の突端がシェルブール。 その向こうが、英国になるそうだ。

テラスに集まった僕たちは、北西に広がる干潟と海の景色と、反対側の修道院の荘重な建物郡の風景を交互を楽しんだ。お天気が快晴ということもあり、文字通り、360度の絶景である。そして、湾全体が潮が引いている光景は圧巻であった。
「この湾で、良質な牡蠣やムール貝が養殖されています」とシンドウさん。

シンドウさんはまた、干潟の向こうの海のほうにうっすらと突き出ている半島の先端を差して、
「みなさん、あそこがシェルブールですよ」と教えてくれたあと、
「あの向こう側がイギリスです」と、説明を続ける。
「ほぉ~。じゃ、特に見晴らしのいい日は、イギリスが見えるのですか?」
と、ツアーの中年の男の客が聞いた。
「あ、それは、見えません。ぜんぜん見えません」とシンドウさん。

テラスから教会と尖塔を見る。
もう、かなり上まで来ていると言うことがわかる。


 
  
テラスから教会と尖塔を見る。


さて、今度は修道院の中に入って、シンドウさんの説明を受けた。
モン・サン・ミッシェルの構造や成り立ちを、熱心に話してくれた。


 
  
礼拝堂。


 
  
食堂。


ひと通りの説明が終わったらそこでいったん解散した。
あとは自由行動ということになった。
集合時間の3時半まで、あと1時間余りある。

修道院の出口付近に、聖ミカエルの像があった。


外へ出ると、階段や見学に疲れたのか、のんびりと休憩する人たちが多かった。本当に気持ちよく晴れ渡っていてよかった。


 


参道を下って行くと、狭いところを上がってくる人との間で、身体をよけ合いながらすれ違わなければならない。この混雑ぶりを見ても、モン・サン・ミッシェルがいかに人気のある観光スポットであるかがよくわかる。


 
 
上がって行く人、下りて行く人。 人、人、人。


カフェに入ったり、土産物店を冷やかしたりしながら、ぶらぶらと参道を下っていたら、もう集合時間まであとわずかになっていたので、最後はあわててバスに戻った。

午後3時半。バスは僕たちを乗せて、再びパリに向かって出発した。

モン・サン・ミッシェルもこれが最初で最後なのだろうか?
また、来ることがあるのだろうか…?

 

 

 遠ざかって行くその姿を、往路と同じように、バスの中から写真を撮る。

 どんどん遠ざかる。
 風景をしっかりと目に焼き付ける。


 


 牛と羊たちとモン・サン・ミッシェル。

 おとぎの国のような一場面であった。

                           

 

 

 

 

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 エッフェル塔とレストランと

2008年05月13日 | 旅行

トロカデロ広場から見えるエッフェル塔が一番だと思います…とボワシエールさんが書いておられたそのトロカデロ広場に出るつもりで、パッシー通りから、地図と磁石を頼りに3人でテクテク歩いた。しかし、斜め斜めに延びる道路は、分岐点に来るとさらに斜め左右に分かれて行くので、正しいコースをたどっているつもりでも、やっぱり道を間違えたらしい。閑静な住宅街から下り坂になり、緑の美しい小公園が眼下に広がったと思ったら、いきなりセーヌ川に出て、目の前に巨大なエッフェル塔がそびえていた。

あとから地図を確認すると、トロカデロ広場はもう1本左の道を行かなければならなかったのだ。まあ、仕方ないだろう。トロカデロ広場からの景観は、帰るまでに再チャレンジしよう。



 
 
エッフェル塔を背にしてのショット。
  メリーゴーランドの向こうに見えるのがシャイヨー宮。その後方にトロカデロ広場がある。
  1本、道を間違えて、いきなりエッフェル塔へ来てしまったわけだ。


人通りの少ない住宅街の中を歩いて来たので、急に観光バスがズラリと並び、見物客の大群が目の前に現れると、ちょっとびっくりする。エッフェル塔の下は人・人・人で大賑わいだ。塔に上がるエレベーターの順番を待つ人たちで、長蛇の列が出来ていたし、階段で上がるチケット売場の行列も、かなり長くなっていた。写真はこちら側からだと逆光になるので、塔の向こうへ行って撮影することにした。

それにしてもすごい人の列だ。むかし、僕も一度エッフェル塔の最上部である第3展望台まで上ったことがあるけれど、その時はこれほど混雑していなかった。それでも、第1展望台へ行くと、次の第2展望台への行列がズラリ。ようやく第2展望台に上がると、今度は第3展望台への行列がウネウネと続いており、一番上まで行くのに相当な時間がかかったのを覚えている。むろん、ここで貴重な時間を潰すわけにはいかないので、僕たちはそのまま塔の下を歩き過ごした。



  

 

  
  展望台へ行く人たちがズラ~っと並んでいる。

 

 
  皆さん、黙々と列に並んで、根気よく順番を待つ。

 

「エッフェル塔と東京タワーはどっちが古いの?」と姉が質問する。
にわかガイドの僕は、エヘンと咳払いを一つして、
「エッフェル塔は100年以上前にできています。東京タワーは昭和33年建設だから、今年がちょうど50年ということになりますね、はい」
こういうやさしい質問なら、どんどんしてちょーだい、アネさま。

エッフェル塔の全景が写真に入るところまで来て、「はい、ポーズ!」と撮影をしていたら、すぐ横にアメリカ人ふうの若いカップルがいたので3人そろって撮ってもらえないかと頼んだ。「オーケー、オーケー」とひとりが快く応じてくれて、2枚撮ってくれたうちの1枚が下の写真である。3人で写っている写真は少ないので、貴重な1枚になった。

 

  

 

お返しに2人に「撮りまひょか?」と聞くと、「へぇ、頼んまっさ」と返ってきたのでカメラを受け取り、「は~い、行きまっせ~」と声をかけると、さすがアメリカンらしく、2人は派手に抱き合うポーズでこちらを向き、嬉しくてたまらんという表情を浮かべてカメラにおさまった。アツアツで湯気が出そうな仲良しカップルであった。

時計は11時半を少しまわっていた。
これからボワシエールさんが紹介してくれた、シーフードがおいしいというお店まで歩いて行けば、ちょうど12時過ぎくらいになるだろう。

僕たちはエッフェル塔のわき道を抜けてセーヌ川沿いに出て、ドゥビィー橋という歩行者専用のなかなか味わいのある橋を渡って、教えてもらったお店へ向かって歩いた。この辺からのエッフェル塔の眺めも素晴らしかった。

 

 
  僕たちが渡って来た ドゥビィー橋 と エッフェル塔。 


セーヌ川の対岸(右岸)に出て、エッフェル塔を背にして歩いて行くとアルゴ橋があり、メトロのアルマ・マルソー駅があった。アルゴ橋からジョルジュ通りという大通りが延びている。ボワシエールさんによると、ここからセーヌ川を背にして大通りを歩いて行くと、すぐにそのビストロがあるということだ。

「黄色と青のテーブルクロスがトレードマーク」のそのビストロはすぐに見つかった。時間はちょうど12時だった。どうやらまだ準備中のようだ。店の男性がテラスの各テーブルを丁寧に整えている。その人に、店は何時から始まるのか? とたどたどしい英語で尋ねたら、その人は僕に向かって、言葉ではダメだと思ったのだろう…両手をひらいて見せたあと、次に片手をひらいて見せた。
「ん…?」と、僕は何のことやらわからなかったが、妻と、妻の姉が、
「15分待て、ということやろね」と互いに頷き合いながら、そう言った。
両手が10で、片手が5…か? 足して15。15分待て…。
ふ~む、なるほど。女性の勘は、するどい。

実際そのとおりだった。
お店の前にあったベンチに座って3人で待っていると、15分後、男性はこちらを見て、「おいで、おいで」と手招きをした。



  
   まだ準備中だったので、僕たちは道端のベンチに座って時間の経つのを待った。
     ちなみに「POISSONS」とあるのは、「魚」の意味。
     妻はこれを見て、「 “毒”  みたい」 と思ったそうだ。
     それは 「POISON」である。 アンジェリーナ・ジョリー主演でそんな映画があったな~。

   
ちょっと緊張しながら中に入ると、別のお兄さんが「予約はしているか?」と英語で聞いてきた。「してませ~ん」と答えたついでに、「私はフランス語を話せません」とも言っておいた。こういうことは早い目に言っておかなければならないが、相手は「そんなこと、わかってるがな」という感じで、席まで案内してくれた。

さて、注文がむずかしい。緊張の瞬間だ。
おまけに周囲にはまだお客がいない。
店内がガヤガヤとしていて、お客さんがいろんなものを食べていたら、そういうのを見ながらだいたいの感じがつかめるのだが、なにしろ一番乗りである。店内は、不気味に静まり返っている。ドキドキ。

僕たちはランチコースではなく、それぞれ1品を注文することにしていた。
英語メニューがチョークで手書きされた黒板が運ばれて来て、前に置かれた。
これが、お勧めの品…なのだろうか?

英語と言っても、何が書いてあるか、皆目わからない。
しかも手書きだし…。
「どうする…? 何を注文する…?」と僕は尻込みしながら2人に相談する。
しかし、2人とも「おまかせします」という目で僕を見る。
こうなると、にわかガイドもさっぱり形無しである。

う~ん。困った。ちょっと恥ずかしいが、これしか方法はないだろう…。
僕は黒板に箇条書きにされている料理の上から順に、3品を注文した。
ひとつずつ、指で「これと、これと、これちょーだい」である。とほほ。

一番上には「COD FISH」のなんとか…。25ユーロ。
二番目には「SALMON」のなんとか…。21ユーロ。
三番目には「SKATA」の steam なんとか…。28ユーロ。

二番目のサーモンというのだけ辛うじてわかった以外は、さっぱりわからん。
フランス語のメニューはある程度わかっておかねばと、カンニング用にガイドブックのコピーを持ち歩いていたが、英語メニューの、特に魚の種類などは何の予習もしていない。こういう局面では、むしろ英語のほうがむずかしいと言えた。

やがて運ばれてきた3つの料理を、3人で分けながら食べた。
来たのは、サーモンと、タラと、そしてもうひとつ、何かわからないものだった。
「COD FISH」というのは、タラのことだった(勉強不足!)。
しかし、あとのひとつがどうしてもわからない。
とても美味しいのだけど、「SKATA」
の意味がわからないのだ。


   
   シーフードのおいしい店、という看板にたがわず、味はとてもよかった。


結局、「SKATA」の意味がわからないまま、お勘定をしてそこを出た。
代金はしめて82ユーロであった。
そのころは、もうお客さんがかなり増えていた。
よく繁盛している店である。

レストランを出たあと、何となく「高揚感」のようなものが湧いてきた。
パリまで来たのだから、こういうお店に入れてよかったなぁ~という感じ。
ボワシエールさんに紹介してもらったおかげである。

  

 
 僕たちは中で食べたが、店を出るときには、テラスのお客さんも増えていた。

 

ホテルへ帰ってから、部屋に置いたままにしてあった電子辞書で調べてみた。
「SKATA」というのは、「ガンキエイ」とあった。
ははぁ…。
エイだったのか。
そういえば、普通の魚の切り身の形はしていなかったなぁ。
味は、なんとも言えずまろやかで、トロリと美味しかった。
ぜひ、もう一度、今度はじっくりと味わってみたいものだ。

僕が辞書を見て「あれは、エイやったんや!」と言うと、
「何かそんな感じがしたよ。おいしかったねぇ~」と妻。
レストランの中では雰囲気に押され気味で言葉少なだった僕らも、ホテルに戻ると、あれやこれやの感想が飛び出してきて話が大いに盛り上がった。注文する時はどうしようもないほど緊張したけれど、3人でその日の出来事を振り返ってみると、このお店での話は、してもしても、尽きないほどであった。

この3日後にも、ボワシエールさんに教えてもらった別のビストロへ行き、ここでも貴重な体験ができた。ごく当たり前に時間を過ごすより、悩んだりつまづいたり、あるいはヒヤヒヤしたりしながら注文をしたり、どきどきワクワクしながら料理の来るのを待ったりするのは、終わってみたら実に楽しい思い出である。

「楽しい旅行ですわ。おかげさまで…」
姉は、しみじみとそう言ってくれた。
にわかガイドとしては、何よりもその言葉が嬉しく、心が安らぐのであります。

                                ~ 続きます ~


 

  
 
左手のシャイヨー宮の上がトロカデロ広場。
 そこへ行くつもりが、エッフェル塔前のイエナ橋へいきなり出てしまった。
 イエナ橋の隣がトゥビー橋。 ここを渡ってニューヨーク通りを右へ歩き、その次のアルマ橋へ。
 M (メトロ) のALMA MARCEAU から少し上がったところにそのレストランがあった。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 凱旋門からパッシー通りへ

2008年05月12日 | 旅行

一夜明けて4月25日。
ホテルの朝食はなかなか素敵だった。
各種のパンはおいしいし、バターもチーズもハムもジュースもみんなおいしい。

バイキング形式なのでなんでも自分で取るのだが、コーヒーだけは、従業員さんが各テーブルを回って入れに来てくれる。でも僕は、カフェインが不整脈に良くないので
、コーヒーはめったに飲まない。だから毎朝そのつど「ノン・メルシー」と断り続けたのだが、せっかく来てくれているのに断るのは心苦しくて仕方なかった。おまけに「朝食にコーヒーも飲まないなんてヘンなヤツだな~」と思われたのではないだろうか…とちょっと気にもした。

さて、お天気はよさそうである。
朝食の後、「では、まいりましょう。忘れ物など、ござりませぬように…」
と3人張り切ってお出かけである。

また地下鉄に乗って、とりあえずバスチーユ広場まで行った。
「火縄くすぶるフランス革命!」(1789=ひなわく…)
な~んて、世界史の年代暗記でよく言ったものであるが、1789年のフランス革命の発端となったこの場所が、地下鉄8号線で乗り換えなしで来られることから、まずここを今日のパリめぐりの出発点に選んだわけだ。
「昔、ここにあった監獄をパリの市民が襲撃して、フランス革命が始まりました」
写真を撮りながら2人に説明をする僕は、まるで旅行社のガイドのようである。


 
  バスチーユ広場


また地下鉄に戻り、1号線に乗って今度はコンコルド広場へ行った。

「ここが、フランス革命の時に、マリー・アントワネットとかが断頭台で処刑された場所でございます」と、にわかガイドはますます調子に乗ってくる。

「はぁ…。ここが、ワシントン広場ねぇ…」
「あのぉ、姉さん…。いま言ったと思いますが、ここはコンコルド広場です。ワシントン広場じゃありません。ニューヨークじゃないんですから」
「あぁ、そう…??」

姉は時々、どこまでが冗談でどこからが本気なのかわからないことを言う人である。旅行が終わったあと、姉から妻にメールが来て「あのバッキンガム宮殿は良かったね」とあったのは、ベルサイユ宮殿のことであった。「あの怪人二十面相の場所ね…」と言ったのは、オペラ座のことであった。(確かにどちらも「怪人」がからんでいるけれど…)。
こういう姉の雰囲気が、僕をなごませてくれるのだ。

僕がコンコルド広場へ初めて来たのは、14年前の1994年(平成6年)10月だった。10月の16日だったことまで、はっきり覚えている。

それは、マリー・アントワネットがここで処刑された日が、1793年の10月16日だったからであり、僕がここを訪れたのも10月16日だったからだ。1994年10月16日は、悲運の王妃が断頭台の露と消えた日から201年後ということだった。「う~む。去年のきょう来ていたら、ちょうど200年後ということになっていたんだなぁ」などと当時、思ったものである。
「それがどないしたん?」と言われたら、どないもしませんけど…。

そのコンコルド広場から、くっきりとエッフェル塔が見えた。
「あれに見えますのが、エッフェル塔でございま~す」
と、姉にその方向を示すと、
「あ、ほんまやわ。すごい!」と感動のまなざし。
「東京タワーと違いまっせ。通天閣とも、自由の女神とも違いまっせ」
と、よけいな念を押す僕であった。

 

 
  コンコルド広場。 左にエッフェル塔が見える。


広い道路を横切って、シャンゼリゼ大通りに入る。
コンコルド広場から凱旋門までの約2キロがシャンゼリゼ大通りだ。
直線道路の遥か彼方の先に、凱旋門が、チラリチラリと見える。
「こちらがシャンゼリゼ大通り。あちらが凱旋門になりま~す」
「うわ~。すごい」と声を弾ます姉。

シャンゼリゼは、まだ午前9時台ということで、華やいだ雰囲気はなく、人の数も少なかった。凱旋門でしばらく時間を過ごし、さて、次のコースに向かって出発である。ブログ仲間で、去年まで3年間パリに住まれていたボワシエールさんがお勧めの散策コースだ。

 

 
 コンコルド広場からシャンゼリゼ大通りを歩いて行くと、凱旋門が近づいてくる。
 まだ午前9時台だったから、歩道の人通りは少なかった。



 
  間近で見る凱旋門。

 

凱旋門からメトロの階段を下りて、6号線に乗る。
2つ目に BOISSIERE(ボワシエール)という駅があった。
あぁ、ここがボワシエールさんの住んでおられたところだったんだなぁ…。

次のトロカデロで9号線に乗り換え、2つ目のラミュエットという駅で降りた。
ここからが、ボワシエールさんのお勧めスポットであった。

パッシー通りというところからトロカデロ広場まで歩いて、「そこからのエッフェル塔の眺めが最高です」という景色を味わってみようという予定だ。

ラミュエットで地上に上がり、ボワシエールさんの記事をプリントしたものを取り出して、ついでに磁石も出し、方角を確かめる。パリは大阪や京都のように東西南北に道路が走っていない。あの道もこの道も、斜め斜めに延びているので、北や南にまっすぐ歩いているつもりでも、知らぬ間に東か西のどちらかにどんどんそれて行く。迷子にならない方がおかしいくらいである。だから、しっかりと通りの名前を標識で確かめつつ、かつ磁石でおよその方角を把握して進まなければ、必ず方向を見失ってしまう。

「あれは…?」と妻が指差す標識を見ると、「PASSY」という文字が見えた。
「お、あれや、あれや。あれがパッシー通りや!」と思わずうれしくなった。

パッシー通りはブランドのブティックが多く並ぶお洒落な通りだった。
なんとなく雰囲気が上品である。そういえば、このあたりはパリでも屈指の高級住宅街だとガイドブックに書かれていた。

ボワシエールさんが、
「パッシー通りを歩いていると、右手にマクドナルドがあるのですが、そこを右手に折れると常設のマルシェ(屋内)があります。また、マクドナルドの右手の裏通りには、八百屋さん、肉屋さん、イタリアンの食材店、コーヒーショップ、ワインショップ、ティーショップなどが立ち並び、ブラッスリーやクレープリエ(クレープやさん)、レストランなどもあります」

そう書かれていたとおり、右手にマクドナルドが現れた。
マルシェ(市場)もあったので、中に入ってぐるっと中を見学した。
そして今度は、裏通りへ入って行った。
そこには、旅行ではなかなか味わえないパリの生活の匂いが漂っていた。

八百屋さんの前を通ると、店頭にいたお兄さんが僕らを見て、いきなり日本語で、
「いち、にい、さん、しい」
と数を数え始めた。僕たちは立ち止まって、お兄さんの方を見つめる。
お兄さんは得意そうに笑顔を振りまきながら、
「ごぉ、ろく、ひち、はち、く~、…じゅう!」
と声を張り上げ、数え終えると、どうだとばかりこちらを見た。
「すごい、すご~い」と僕らはお兄さんに拍手をした。

通りを再び歩き、パッシープラザというところへ来た。
「パッシープラザの地下にある Inno というスーパーの入口のパンやさんのバゲットが私が一番お気に入りのバゲットでした」
そうボワシエールさんは書かれていた。

地下に降りてそのパン屋さんをのぞいてみた。
なるほど。おいしそうなパンが並んでいた。
0.75ユーロのクロワッサンが、特においしそうだった。

「そうや。ここでトイレに行っておこう」
と、僕たちはこのスーパーでトイレを探すことにした。
エレベーター前にトイレの標示はあったけれども、標示だけで「実物」が見当たらない。僕たちはきょろきょろするばかりで、わけがわからない。

そこへ中年の女性がやって来た。
「トワレ?」と言いながらトイレの標示を指差すので、「はい」と答えた。
すると、エレベーターの扉をさわって、「これに乗って地下2階で降りたらトイレがあるよ」と言い、わざわざ降下のボタンも押してくれた。親切な人である。

お礼を言ってエレベーターに乗り、地下2階で降りると、そこは駐車場の出入り口であり、警備員室もあった。トイレは警備員室の横にあり、掃除が行き届いた綺麗なトイレだった。パリの街を歩く際、難関のひとつはトイレなので、こういうところでいいトイレにめぐり合うと感動すらしてしまう。

再びパッシー通りに出て、僕たちは歩き始めた。
次の目的は、エッフェル塔である。
もう、そのすぐそばまで来ているはずだった。

                   ~ 続きます ~

 



 
  パッシー通りがすぐに見つかってよかった。



 
  マクドナルドのわき道には、パリの人々の生活の匂いに満ちていた。

 

 
  パッシープラザ。 パッシー地区は高級住宅街の代名詞だとも言われている。

 

 
 パッシープラザの地下にあるスーパー Inno 。 親切な人にトイレを教えてもらった。
  ボワシエールさんのお気に入りパンやさんも、降りたところのすぐ左側にありました。

 

  
  左の下がパッシー通り ・ パッシープラザ。 セーヌ川をはさみ、右下がエッフェル塔。
  地図の一番上、やや右のあたりに BOISSIERE という文字が見えます。
  ここが、ボワシエールさんのゆかりの場所ですね~。
  

 

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 オルセー美術館

2008年05月10日 | 旅行

    
  
     パリのメトロのカルネ(回数券)


昨日、パリの地下鉄のことを書いたとき、ひとつ書き忘れたことがあった。
9年前、妻と長男と3人でパリの地下鉄に乗ったときのことだ。
そこで僕は、大恥をかいてしまったのである。

地下鉄のドアを入ったところの左右に、折りたたみ式の小椅子がある。
つまり、補助椅子である。
使用していないときは壁面にへばりついた形になっている。
ラッシュアワーのような混雑時には使用は禁止だが、それ以外のときは誰でも使うことができる。椅子はバネ仕掛けになっており、使うときに椅子を起こして座るようになっている。立ち上がると、自動的にバタンと元の壁面に戻る。そんな小椅子である。

その、9年前の地下鉄の中でのことだ。
僕がその小椅子に座り、妻と長男は僕の目の前、つまりドアの前に立っていた。
3人で無駄話をしていたのだが、僕は妻から何かを受け取ろうとして立ち上がった。その瞬間に椅子はバネの力で元の壁面へ戻った。それに気がつかなかった僕は、またそのまま後ろにしゃがんで椅子に座ろうとしたわけだ。何もないところへ勢いよく下半身を落とした形になった。
「あわわわ~っ」
と叫びながら、ド~~~ン! と床にひっくり返ってしまったのである。
いやぁ、恥ずかしかったの何のって…。

妻と長男は、「あっ!」と声を上げたが、なすすべもない。
周囲を見回すと、かなりの乗客がそれを目撃していたはずだが、
「見ていないよ、見ていないもんね~」
という感じで、どの人も、僕と視線が合ったとたん、目を伏せた。
僕に対する、せめてもの配慮だったのだろうか。やさしいパリっ子たち~!
しかし、あの光景を思い出す度に、たまらなく恥ずかしくなってくる。


このバネ式の小椅子のことを、strapontin(ストラポンタン)という。

そして僕みたいにひっくり返って大恥をかいた人間のことを…
アンポンタン…というそうである。

             
   ………………………………………………………………………

            
閑話休題。
オルセー美術館へ行く話に戻します。

ソルフェリーノという地下鉄駅から地上に出て、セーヌ川の方向へ歩いた。
地図と磁石だけを頼りに、テクテク歩いて行く。妻と姉が後からついて来る。

順調にオルセー美術館にたどり着いたが、切符を買う場所がわからない。
黒人の警備員が立っていたので、どこで切符を買うのかと英語で尋ねたら、
ジロリと顔を見て「IN!」とだけ言って、建物の中を指さした。
「サンキュー」と笑顔を作ったら、相手が「ジャパニーズ?」と訊くので、
「そうですがな」とうなずくと、「コンニチハ」と愛想良く白い歯を見せた。

切符を買った時間は午後8時過ぎ。割引タイムが始まっている。料金を見ると、5・5ユーロとあった。8時までなら通常料金の7・5ユーロである。
1ユーロが約160円だから、ひとり当たり2ユーロ→320円の値引きか…。

しかし320円の値引きはともかく、閉館までの残り時間が少なくなっていた。
それはまあ、それは最初からわかっていたことだけど…。



   
  
オルセー美術館のチケット(実物大)。 割引で5.5ユーロだったが…。
   ちなみに、こちらの日付は日本と逆で、日・月・年の順で表記される。
 


オルセーにはこれまで学校で教わった有名な絵画が沢山展示されている。
しかし館内地図を見ても、なかなか目当ての作品に行き着かない。
そのうち(すでに書いたことだが)ドキドキドキ~ンと不整脈が出始めた。
飛行機で飲んだワインの影響や、24時間も続けて起きていることが原因だろう。
いきなり迎えた体調のピンチ。
薬を飲み、深呼吸をしたり、軽く身体をゆすったり、息を大きく吸って止めたりと、尽くせる限りの応急措置をとり、なんとか10分ほどで収まったのは幸いだった。

また、駆け足で館内を見てまわる。時間がないので、そのせわしいこと。

オルセー美術館に所蔵されているもので、日本でもよく知られている有名な作品は、主に次のようなものである。

ミレー「晩鐘」

ミレー「落穂拾い」

マネ「草上の昼食」

ルノワール「ピアノに寄る少女たち」

ゴーギャン「タヒチの女」

ゴッホ「自画像」

などなど…。
いずれも、学校の美術の教科書などに出てきた有名な絵画ばかりである。
時間がなく、じっくり見られなかったが、それでも本物に接すると感慨深い。

しかし、ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」や、
アングル「泉」…などは、どうしても見つけることが出来なかった。

おまけに僕らはお腹が減っていた。
19世紀の印象派の作品群も素晴らしいが、空腹を満たすことも必要である。

美術館の5階にあるカフェに入った。
店の黒人男性は、腕時計を見ながら、
「飲み物か? 食べ物か?」みたいなことを聞く。
「食べ物ですがな」と身振りで示すと、
「もう閉店間近や。食べ物なんか作っている時間はないで」と拒否された。
そこへ女性の店員が来て、黒人男性を押しのけるように、
「いいから、いいから。早くここに座って」
親切に席へ案内してくれたおかげで、カフェ・クライム(ミルク入りのカフェ)とともに、キッシュ
やラザーニャを注文して、とてもおいしい「夜食」を味わうことが出来たのだった。(日本での朝食から数えて、これが「今日の」何食目になるのだろうか…)。

しかし…。食べ終わるか終わらないうちに、カフェの照明の半分が消えた。
「間もなく閉館です…」という放送も、スピーカーから流れてきた。
よく言葉がわかったね…と言われそうだけど、それは日本語だったのだよ~ん。

館内全体が薄暗くなり、これはもう完全に「蛍の光」ムードになっていた。
「まだ9時半になっていないのになぁ。9時45分まで開館と書いてあるのに…」
ちょっと不満だったけど、仕方ない。

僕らはカフェを出て、美術館からも追い立てられるようにして外に出た。

あぁ~。無理して来たから、やはり駆け足に終わってしまった。
しかしまぁ、日程上、これが精一杯だった。やっぱり来てよかったな~。

美術館の前の、セーヌ川を中心にした夜景が美しかった。
ナイト・クルージングの遊覧船のあかりが、ひときわ川面に映えている。
左手のはるか遠くに、エッフェル塔らしきものが、キラキラと光彩を放っている。
寒くもなく暑くもなく、心地よいセーヌ川からの風が、頬をなでた。

今日は日本の24日の朝4時半に起きた。
今、パリでは24日の午後9時半。日本時間では25日の朝の4時半である。
ちょうど24時間、飛行機やら地下鉄やら美術館やらで過ごしてきたことになる。

長い長い一日だった。

「さ。ほんなら、また地下鉄に乗って、ホテルへ帰りましょか」

僕らは、再び地下鉄のソルフェリーノ駅に向かって歩き出した。

 

 

 
        
オルセー美術館付近地図

 

 
  セーヌ川側から見たオルセー美術館。 この3日後、観光バスから撮影したものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 パリの地下鉄

2008年05月09日 | 旅行


僕たち3人は、パリの空港から、旅行社の送迎車に乗せてもらって、午後6時40分にホテルに着いた。オペラ座から東へ歩いて10分程度の場所にある古いホテルだ。ホテル名は「ベルジェール・オペラ」という、何度聞いても覚えられない難しい名前である。

 

   



「お疲れ様でしたぁ」
車が到着すると、ホテルの前で旅行社の現地係員(日本人女性)が待っていた。
彼女は、僕たちをロビーに誘い、旅行中の留意事項を告げるとともに、最終日のホテルへの迎えの時間を書いた紙をくれた。さらに、市内巡廻観光バスの乗り放題のカード3枚と、地下鉄のカルネ(10枚入り回数券)を3束くれた。

この地下鉄の回数券は何を置いてもまず買わなければ…と思っていただけにうれしかった。ただ「アン・カルネ・シルブプレ」(カルネください)と地下鉄の窓口で言うのが、僕のこの旅での最初の「フランス語会話」だったはずだけに、そっちのチャンスが消えてしまったことは、ちょっと残念だったけれど…。

僕は旅行前に、必要と思われるフランス語会話のほんの少しだけを暗記していたのだけれど、そのうちのひとつが「アン・カルネ・シルブプレ」だった。

ちなみに、あと、いくつか必須の単語やフレーズを覚えたが、これだけは絶対に覚えておかなければならないという会話が一つだけあった。それは…

「ジュ・ヌ・セ・パ・パルレ・フランセ」

意味は、「私はフランス語を話せません」です。あはは。
でもね…笑ってる場合でもないのですよ。
初対面の相手にこれを言わないと、話が前に進みまへ~ん。

さて、パリのホテルは古い建物が多いというが、このホテルも、エレベーターひとつみても、電話ボックスに毛が生えたほどの大きさしかなく、今にも壊れそうなほど古ぼけて、おまけにドアを自分で開けたりしなければならない。
「このエレベーターは、いつ故障するかわからへんで。恐いわ…」
冗談半分にそう言っていた翌日、これが本当に故障して動かなくなり、それ以降ずっと別のエレベーターを利用した。冗談が冗談でなくなる…というのは恐ろしい。

部屋に荷物を置き、午後7時過ぎに、僕は妻と姉を促して慌しく部屋を出た。
これからオルセー美術館へ行くのだ。外はまだ、昼と同じ明るさだった。(午後9時頃にならないと日が暮れない)

いま日本時間では真夜中の2時だ。僕たちは朝からほとんど眠っていないから、ここは早い目にベッドに入って道中の疲れを取るべきであったが、にもかかわらず、ぜひ今日中にオルセーに行っておきたかった理由が、一つ半あった。

まず、一つの理由とは…。
僕たちは今回、パリで5泊することになっていた。これといってアテのない旅だとは言いながらも、スケジュールを組み立てていくと、丸々使えるのは第1日目の今日を除いて明日からの4日間のみ。その中で明後日は一日がかりでモンサンミッシェルへのバスツアーを申し込んでいたので、その日はつぶれる。残るは3日間である。だから行く先をうまく配分する必要があった。

パリが初めての姉に、ルーブル美術館とベルサイユ宮殿は案内しなければならないが、その2ヶ所はいずれも半日はかかるだろう。そこへオルセー美術館見学を入れると、気ままにパリ散策をする…という本来の目的が遂行できなくなってしまう。だからオルセーだけは強引に初日のうちに行ってしまおうと決めたのだ。僕はこれまでの3度のパリ旅行で、ルーブル美術館へは3度とも行ったが、オルセー美術館にはいろんな事情からまだ1度も行ったことがなかった。どうしても今回行きたかった。どんなに短時間でもいいから、訪れてみたかった場所なのである。

次に、あと半分の理由とは…。
そのオルセー美術館は通常は午後6時閉館だけれど、木曜日のみ9時45分まで開いている。しかも午後8時からは料金が安い。今日はちょうど木曜日。しかもいま、時間は7時過ぎ。これからだと割引料金で入れそうなのだ。じゃ~~~ん。


ホテルを出て、最寄りの地下鉄駅は、グランブルヴァールという、これも何度聞いても覚えられない駅名である。回数券で改札口を通り、やがて地下鉄がホームに入って来た。パリの地下鉄など、むろん初めて目にする姉は、なんだか緊張した様子であった。

電車が目の前で停止する。
「あれぇ…?」
車両の扉が開かない。

「あっ、そうや。自分でドアを開けなあかんねん!」

うっかりしていた。パリの地下鉄は、自分でドアを開けるシステムなのだ。
たまたま隣の扉が開いた。中から客が、扉を開けて降りてきたのである。
「そっちから乗ろう!」と、僕は妻と姉を開いた扉に連れて行って乗り込んだ。
乗り込んだとたんに、バタンっとドアが閉まった。
閉まるときだけは、自動で閉まるのである。

「そうなんや。ここの地下鉄は、手で開けるんやったんや」
と僕が、車内に入ってから、自分に言い聞かせるように姉に伝えると、
「へ~~~ぇ?? 自分の手でぇ…??」と姉は信じられない表情を浮かべた。
扉の内側と外側の両方に取っ手のようなものがついており、それを捻り上げたらドアが開く。内側からも開けられるし、ホーム側からも開けられる。内側から開ける人がいないと、ホームで立っていても、ドアが開かないまま発車してしまうわけ。

マドレーヌという乗換駅で停車したとき、僕は扉を開けようと、取っ手をグイと捻り上げた。しかし、扉は開かない。
「おりゃぁ~」と再び取っ手を捻り上げたのだが、やはり開かない。
「あ、どうしよう。えらいこっちゃ。降りられへんがな」
と言ってるうちに、うしろから金髪のマドモアゼルが、
「どいて、どいて」
という感じで僕らを押しのけ、取っ手をバーンっと、力強く跳ね上げた。
すると、扉がバカッと開き、僕たちは、彼女の尻にくっついてホームに降りた。
やれやれ…。

そうか。生半可な力では扉は開かないのだなぁ。
我々日本人のパワー不足は、野球やサッカーに限ったことではない。
地下鉄の扉ひとつ、日本人にはなかなか開けられないのだ。とほほ。

乗り換えた先の地下鉄の扉は、こんどは取っ手ではなく、プッシュボタン式であった。なんだかややこしいことだ。
こちらのほうは、丸いボタンをプシュッと押せば、ドアが開いた
これは取っ手方式よりも簡単だった。
「やったぁ!」
姉は大喜びして喝采し、妻はクスクス笑っている。

僕はパリが今度で4度目である…
な~んてえらそうなことを言っているが、実力のほどは、こんなものである。

「あの~、まだ動いているときにね…」と、地下道を歩きながら姉が言う。
「何が、まだ動いているときに…ですか?」
「地下鉄が止まる前でもね…。あのボタンを押したら、ドアが開くの?」
姉が、素朴な疑問を発した。
「まさか。それは、ゼッタイに開かないようになっているでしょう」
「でも、さっき乗っていた人、地下鉄が止まる前に押して、ドアを開けたわ」
「むむっ……」
「まだ動いているのに、その人はボタンを押して、そしたらドアが開いて、止まるか止まらないかの時に、もうホームに降りていたのよ」
「うむ。どうですかねぇ…。止まりかけたら、もうドアは開くのかな~?」
よもや走行中いつでもボタンを押したらドアが開く…ということはないだろう。
でも、仕組みがよくわからない。あんまり、聞かんといて。

後日、別の線の地下鉄に乗ったときである。
ドアに取っ手もボタンも見当たらず、今度はどうして開けるんだろう…と必死で扉を睨んでいたら、駅に着いたとたん、ガラガラッと勝手にドアが開いた。
「わっ。勝手に開いた!」
びっくりした。手動だけでなく、日本と同じ自動もあるんやないか…。

取っ手方式なら取っ手方式。
ボタン方式ならボタン方式。
自動なら自動…と、ちゃんと統一しておいてくれ~。

ほんまに、ややこしい。
ええかげんにしてほしいわ。

 

 
    地下鉄(メトロ)グランブルヴァール駅の入口。


   
    
 ホームで。

 



 僕たちのホテルは、オペラ座(中央からやや右上)の東側にあった。

 

 

 

 


 

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 飛行機の中はもうパリ?

2008年05月08日 | 旅行

しばらくご無沙汰しておりました。
大型連休はいかがでしたか?
いつのまにかすっかり夏の陽気になってしまいました。
皆様にはお変わりなくお過ごしのこととお喜び申し上げます。

今日から当分の間、パリ旅行のお話をさせていただきます。ただし…
どうでもいいような話ばかりですので、すみません。先にお詫びしておきます。
では、まずは初日。パリの空港へ着くまでのことを…。

     ……………………………………………………

 

4月24日(木)午前11時50分。
JL5051便は予定通り、関西空港を飛び立った。 

僕と妻、妻の姉の3人は、窓際からの座席に並んで座り、このときを無事に迎えられたことを喜び合いながら、機上の人となった。

JLとは言ってもエールフランスとの共同運航である。
関西空港に離着陸するパリ便はすべて共同運航であり、機体もエールフランスばかりである。JLといっても、名ばかりであるような気がする。
(マイレージはOKでしたけど)。
当然だが、乗務員も日本人よりフランス人のほうが圧倒的に多い。
放送もフランス語が先で、2番目に流れてくる日本語も、妙ちきりんなフランスなまり(?)だったりする。

大阪・パリ間の飛行時間は約11時間半だと、フランスなまり放送が言っていた。
ふむ。昔は13時間ほどかかったような記憶が残っているのだが。
最近は少しスピードアップしたのだろうか…?

シートベルト着用のサインが消えたころ…
周囲が妙にざわざわしていることに気がついた。
いつもの飛行機の中の雰囲気とは、なんとなく違っている。

ふと見ると、僕たちの前の座席、横の座席、後ろの座席にいるのは、すべて外国人であった。この人たちがペラペラとしゃべり合っているので、何となくざわめいている感じなのだ。前後左右の席に日本人が全く見当たらないというのも、ち~と不思議な話だ。な~るほど、さすがに国際便である…と、その雰囲気に、まんざらでもない気持ちになったりしたけれど、やがて、さらに奇妙なことに気がついた。

座席から立ち上がって、ぐるりと機内の様子を見まわしてみたら…。

見渡す限り…9割以上が外国人(フランス人)だった。大阪の空港から乗った飛行機なのに、日本人らしき姿はごくまばらで、フランス人だらけの機内であった。そういえば、空港の待合室でも、周囲にはほとんど日本人はいなかったなぁ~。

昼食が終わって1時間くらい経つと、フランス人のかなりの客たちは座席を離れ、トイレや乗務員用のキッチンの周辺にたむろして、セルフサービスのジュースを飲んだり、サンドイッチをパクついたりしながらワイワイと騒いでいる。まるでパーティかなんかのような賑わいようだ。

ふつう飛行機の中ではみんなおとなしく座っているでしょ? しかし彼らはじっとしていない。しょっちゅう席を立ってうろうろする。そこらの通路で、マダム同志がなにやら熱心に話をしているし、母と娘ふうの2人がこれも通路で顔をつき合わせて話している。老人が塾女に熱っぽく何かを語りかけている。列を隔てて、あちらの列の人に首を伸ばしてしゃべりかけている男もいた。どうも騒々しいこと甚だしい。でもまあ、最初はその雰囲気に僕たちは戸惑ったけれども、だんだんそれに慣れてくると、けっこう楽しい心地がしてきたことも確かである。

この人たちが通路に立ったまましゃべっているものだから、こちらがトイレに行こうと思ってもなかなか前に進めない。しかし話に夢中になっているおばさんに背後からひとこと「パルドン・マダ~ム」とか声をかけると、「オォ? パルドン!」などと言って、慎ましやかな笑顔で隅に寄ってくれる仕草と表情は、さすがにフランス女性だ。そこはかと無く気品が漂い、しっとりと優雅である。
(大阪のおばちゃんが下品で粗暴だと言っているのではありませんよ。念のため)

トイレに行くと、前に数人のフランス人男女が立ちはだかってペチャクチャおしゃべりをしている。トイレに並んでいるのか、単に会話をしているだけなのか、はっきりわからない。こちらがためらっていると、ひとりの男性がそれに気づき、「あ、ごめんごめん。トイレは空いていますよ~ん」という感じで、ニコ~ッと笑いながら戸を開けてくれ、どうぞ、というジェスチャーをした。一見、みんな無遠慮で騒がしいように見えるけれど、接してみるととても親切だし、礼儀も正しい。

機内はず~っとこんな調子で、何かお祭りみたいな空気の時間が流れて行ったが、それとなく見ていると、あちらこちらで、頭上の荷物棚が開けられるたびに、丸い笠が見えた。昔のお坊さんがかぶっているような丸い笠である。その笠に「白川郷」という白い文字が躍っているのが見てとれた。

はは~ぁ…。岐阜県白川郷のお土産なのだろうね。その「白川郷」の笠が、あっちの棚にも、こっちの棚にも…そこらじゅうの棚に入っていた。

あぁ、やっぱりフランス人の団体旅行だったんだ。白川郷をはじめ、日本の国のいろんなところを巡ってきた旅からの帰りの飛行機だったんだ…とナットクした。

つまり僕たちは、ニッポン見物を追え、フランスへ帰国する団体さんの中に紛れ込んでいた…というような感じだったのではなかろうか。

そんな楽しくも不思議な空間の中で、あっというまの11時間半が過ぎ、ほぼ予定通り、現地時間24日午後4時35分にパリのシャルル・ド・ゴール空港に着いた。

日本とフランスの時差は、4月から夏時間に入ったので、7時間となっている。
日本のほうが、7時間早い。
関西空港を出たのが日本時間の午前11時50分(パリは午前4時50分)。
パリに着いたのが日本時間の午後10時35分(パリは午後4時35分)。

さて、フランス時間午後4時35分に、無事に空港に着陸したけれど、飛行機が完全に止まってからも、かなりの時間、機内でじっと待たされた。乗客たちは「白川郷」の笠を背中にかついで、通路に出て立ったまま、静かに待っている。こういうときは、文句一つ言わず、黙って待っているのは日本人と違うところだ。

乗降口のドアが開けられないまま、15分ほどの時間が過ぎる。
原因は、フランスなまり放送によると、空港の職員がなかなか姿を見せず、ボーディング・ブリッジを取り付けるのが遅れている、ということである。
飛行機が到着したのに、職員が遅刻…? 
日本ではおよそ考えられない話である。
その悠然たる仕事ぶりに「さすがパリだ!」と、大いに感心させられたものだ。

やっと乗客が前方に動き始め、長い長い機内の通路を出口に向かって歩く僕たちを、乗務員たちはそれぞれの通路脇に立って見送ってくれた。
日本語の「さようなら」を意味する「オー・ホヴォワー」という言葉をかけてくれる。客のほとんどがフランス人なので、乗務員は数少ない僕ら日本人にも同じように「オー・ホヴォワー」と声をかけ、笑顔で見送ってくれるのだが、実際には、その発音は、辞書にあるような「オー・ホヴォワー」ではなく…
「オバー」「オバー」「オバー」
…というふうに聞こえるのである。

「オバァ」「オバァ」「オバァ」…

歩き進んで行くたびに、どの乗務員からもその言葉を投げかけられる。

「オバァ」「オバァ」「オバァ」…

「やかましいわ! だれが、オバァやねん!」

…と怒った大阪のおばちゃんは…いませんでした。念のため。

ま、そんなことで、無事にパリの地にたどり着いた僕たちなのでありました。

ところで、薬の話になりますが…。
僕は食前、食後、寝る前と、数多くの薬を規則正しく飲まなければならない身なのであるが、機内で出る食事やスナックのセルフサービスタイムの時に、
「え~っと、これは、食前だから今飲んだほうがいいかな?」
「あ、この薬は食後だけど、日本時間に合わして飲むべきだろうか?」
「寝る前って、いったい何時ごろになるんだろ?」(僕はほとんど寝なかった)
などと、日本時間とフランス時間とを、指折り数えながら頭の中でクルクルと考えを巡らしたけど、だんだん何が昼食でどれが夕食でいつが眠る時間で…ということがわからなくなり、おまけに2度の食事時にワインをかなり飲んだりして、普段の規則正しさはどこかへ消え、体内時計もぐちゃぐちゃになってしまった。

この日、ホテルへ着いた後すぐにオルセー美術館へ行ったが、そこでちょっと不整脈が出て気分が悪くなったので、さすがにこれに懲りて、
「この旅行中にはいっさいワインは飲むまい」…そう心に決めた。
薬の服用時間も、穏やかにフランス時間に移行させなければならない。
こんなところで不整脈が悪化したら、それこそ大変なことになる。
僕がダウンしたら、妻と姉が途方に暮れなければならない。
気を引き締めて、不規則・不摂生だけには要注意だ。
それを一番に念頭に置いて、旅のスタートを切った僕なのであります。

まあ、気を引き締めたわりには、失敗だらけの旅でしたが…


                           ~ 続きます ~

 

 

 

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする