僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

O(オー)型連休

2013年04月29日 | 日常のいろいろなこと

 

世間はゴールデンウィーク一色である。テレビではおなじみの国内外へ旅行する人々の様子を映し出し、新聞・雑誌もゴールデンウィークにちなむ記事を掲載し、スーパーのチラシも「ゴールデンウィーク特集!」とか「GWおでかけ特集」などと大きな見出しを掲げて食料品の大バーゲン実施中…という具合だ。


ちなみに、これだけ使われている「ゴールデンウィーク」という言葉をいっさい使わないメディアがひとつある。NHKである。ここはテレビであろうがラジオであろうが「ゴールデンウィーク」の「ゴ」の字も言わない。必ず「大型連休」という表現をする。お気付きの方も多いだろう。


この「ゴールデンウイーク」(黄金週間)という言葉は、昭和20年代後半に、当時全盛期だった映画業界が連休で特に観客の入りがよかったため、この期間中に大作をぶつけるようになり、その宣伝も兼ねて作り出された言葉だという。したがってこれは業界用語であるため、NHKは決して使わない…ということだそうである。元NHKに務めておられた方から、そういう話を聞きました。


まあ世間でいくら大型連休だと言っても僕なんぞは死ぬまで「チョー大型」の連休が続くわけだから、別段の思いも湧いてこない。…が、小学2年生のモミィを抱えていると、どこへも出かけないというのも愛想がない。宿泊を伴う旅行は春・夏・冬の休み期間中に行くことにしているので、それはいいのだけれど、家でばかり過ごすのもちょっと沈んだ空気になるので、この連休はモミィの希望も聞いて近くへお出かけするという形で2日が過ぎ、今日はその3日目である。


初日の土曜日は「ねぇ、どこか外へご飯食べに行こうよ」というモミィの一声でファミリーレストランに行った。その帰りにスーパーの書店に寄って、かねてからモミィにと思っていた国語辞典を買った。普通の辞書よりも大きくページ数も1,300ページ以上あり、字も大きく、すべて振り仮名つきで読みやすい「チャレンジ小学国語辞典」というやつだ。


モミィはこのごろ、テレビのニュースなどでわからない言葉が出てくると僕らに意味を聞きまくるので、困ってしまう時がある。たとえば「地方分権」などとテレビで言うと、「何のこと?」と聞く。7歳児に「地方分権」とか「中央集権」を教えるのは難しい。「そのうちわかるようになるわ」で済ますこともあるけれど、が、せめて「地方」の意味くらいは…と考えるが、これとてどう説明すれば…? そんなとき、さっそくこの国語辞典を引いて見せてやると…


地方…①ある広がりをもつ地域。例→東北地方
   ②首都や都会から離れた土地。例→地方出身者 対語→中央


…というふうな感じで載っており、この場合は①にあてはまるので、地方というのは東京とか大阪とか九州のどこそことか、北海道のどこそことか…日本の国のそれぞれの場所のことを地方と言うのだよ…という説明を加えてやる。するとモミィは「じゃぁ、大阪も地方?」というので、「ここではそういう意味になるね。ひとつの言葉でも、いろんな意味を持つことがあるんだからね」と言ったら、それでうなづいた。何もなしに講釈するよりも、辞典を見せながら話すと、子どももそれなりに納得するみたいだ。これからこの辞典は「救いの神」になりそうである。


さて2日目の日曜日は、僕のほうからモミィに「カラオケに行く…?」と誘った。このごろモミィは歌のレパートリー(童謡ばかりだけど)が増えてカラオケ好きになりつつある。毎週通っている音楽教室でも、エレクトーンの演奏力と並んで歌唱力も問われるので、歌も上手にならなければならない。モミィは2年ぐらい前まではひどい音痴だったので心配していたが、ここの指導のおかげで高い声も出るようになり、カラオケでもさほど音程はズレないようになってきた。


「カラオケ? 行くわっ! やったぁ~」とモロ手を挙げて喜ぶモミィだが、「じゃぁ、カラオケへ行く前に、今日もお外でご飯食べるやろ」と、また食べる話を始める。とにかく食い気一本なのである。「ええよ。どこで食べる?」と聞くと、モミィは「マクドのハッピーセットがいいわ」と答えた。


マクド…? そこはちょっと…苦手なのだ。もっと普通の食事処へ行こうよ。


と言って「駕籠の屋」というところへ行ったら、ちゃんと子どもセットもあるので、モミィはお寿司とおうどんのセットを注文して、美味しそうに食べていた。


食事を終えてから、カラオケへ行く途中でマクドに寄り、「ハッピーセット」を買ったらもうモミィは100パーセントご満悦である。ハンバーガーやフライドポテトは、カラオケの部屋の中で3時のおやつとして3人で食べた。カラオケ店は食べ物の持込は原則禁止なのだけど、来た時、満室ということで30分以上もロビーで待たされたのだから、それくらいはいいだろう(理由になってない?)。


そんなことで昨日の1日は終わった。


そして今日が3連休の最後の日だ。


休みの日の午前中は、モミィは学校の宿題や勉強、エレクトーンの自宅レッスン、ECC英語教室から出されている宿題などをする。学校関係は妻が付き添い、エレクトーンと英語は僕が付き添う。…ということで、自由時間は11時ごろからであり、今日もまたそれくらいの時間から出かけるつもりである。妻が少し遠い場所にある大型商業施設へ行ってショッピングをしたいと言うし、モミィも買い物は大好きなので、それで話がまとまりそうである。


それにしても家族サービスというのもなかなか疲れるものだ。…で、いきなり血液型の話になって恐縮だけれど、僕は血液型がA型で、妻とモミィはいずれもO型である。このO型の2人に対して3日間サービスする僕としては、この連休のことを…


「O型連休」


…と呼びたい気分なのである。

 


* 陰の声 → 苦しいオチだにゃ~

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳴門海峡春景色

2013年04月25日 | ウォーク・自転車

  ~ ウダウダ会、鳴門へ ~

 

先週の中ごろ、午後から突如クシャミが出て止まらなくなった。僕は元々アレルギー性鼻炎で、2年前の3月に鼻が詰まり、ひと月ほどクシャミが出続けて収まらなかった時、初めてアレルギーの検査を受けた。すると医師が「これほど高いとは…」と驚くほど高い数値を示すほどのアレルギー体質だったことがわかった。そのうえ、それまで縁のなかった花粉症までも指摘された。


あれから2年。去年はそうでもなかったが、今年、またその症状が出たようだ。翌々日には8度近い熱まで出た。アレルギー性鼻炎に鼻風邪まで重なるという好ましくない状態を抱えながら、21日の日曜日には「日本ウダウダ会」の定期ハイキングに出向いたのである。


今回のウダウダ会の行く先は、淡路島と徳島県鳴門市の間にある鳴門海峡だった。そこの名物「うずしお」を眺めつつ、酒を飲むのが今回の目的であったが、まず歩くコースが設定されていた。それが2~3時間ぐらいの距離だということだったので、その程度なら大丈夫だろうと思って参加したのである。


ウダウダ会も徐々にメンバーが増えてきて、この日の参加者は13名であった。これまでは、フルメンバーで11人だったけれど、今回3名の「新人」が参加した。ひとり前市長さんのみ欠席だったが、それでも13名が集まったのである。これぐらいの人数になると、バスをチャーターして行く方が安くて楽チンだということで、行き帰りはずっとバスに揺られっぱなしであった。


 

 
       スタートはJRの鳴門駅


ということで、バスが神戸淡路鳴門自動車道の大鳴門橋を渡り始めたとき、眼下に大きく渦巻く「うずしお」が見えた。そしてJR鳴門駅までバスに乗って行った。そこから僕たちは、主に海沿いの道を歩いて大鳴門橋まで戻るコースを歩き始めたのである。


最初は街の中の平坦な道を歩いて行った。鼻炎と風邪とで、3日間ほど外出しなかったせいか体は重かったが、ウダウダ仲間と交わす口は軽かった(笑)。

 

 

 


鳴門海峡へ向かって歩いていると、道が途切れ、目の前に海が広がった。つまりここは、渡し船で向こう岸まで行かなければならないのだ。船の本数がきわめて少なかったが、それほど待たなくて済んだのは幸いだった。

 

 
   渡船の待合所。船は無料だった。


一行が船に乗り込んだところへ、ひとり暗い表情で自転車を引いて乗ってきた男性がいた。自転車を見ると黙っていられない僕はその男性に「どちらへ行かれるのですか…?」と尋ねた。しかし男性はムッとした表情でしばらく沈黙の後、「ムニャムニャ、ペニャポニャ、ムニャ~」…と、何かを言って、プイと横を向いた。すみません。外国の方だったんですね。たぶん、「わしゃ日本語わからんのじゃ。話しかけんといてくれ」と言われたのではないかと推測するばかりです。

  
   
 

 
  渡し舟に乗り込むウダウダ会の一行。



さて、僕たちが船に乗り込んだのは岡崎というところで、下船した向こう岸は土佐泊というところだった。僕たちは土佐泊の村の中を歩き、やがて海沿いの道に出た。ウダウダの面々は砂浜に降りて、波打ち際を歩き始めた。はるかかなたに大鳴門橋を望む美しい景色である。


しかし…


強い風がまともに前から吹き付けてくる。風とともに白い砂が混じってこちらへ襲いかかってくるので、砂が目に入る。風が強くて、なかなか前に進めない。おまけに僕は体調を崩しているので、体に力が入らない。足元は砂浜なので一歩一歩右足と左足を代わる代わる前に進めるのが大変つらい。いつもはウダウダ会でも健脚を誇る(?)僕だけれど、今回は本当につらかった。風と砂の抵抗を受けながら懸命に歩くのだが、仲間たちはどんどん遠く離れて行く。ようやく浜辺の道から堤防へ上がって、ちょっとした休憩所のような場所で待っていてくれたみんなと合流したときは、もうフラフラになっていた。

 

 
  風邪気味の体でこのコースはきつかった。
  メンバーは徐々に豆粒のように小さくなって行く。
  右のほうに大鳴門橋が見える。景色は最高だったのだが…


 

バスが待っている場所はまだ先であったが、メンバーはその場所でレジャーシートを敷いてそろそろ「くつろぎ態勢」に入っていた。もうここで宴会をしよう…という声も多く、僕などは真っ先にその意見に賛成した。


これ以上歩けない。あとは酒を飲んで気勢だけでも上げなければ、ここまで来た甲斐がない…な~んて言いながら、メンバーの一人がリュックに入れていた日本酒をみんなで飲み、そのうち、連絡を受けたバスが近くまで来てくれて、積み込んでいた缶ビールやチューハイ、それにアテなどの食べ物がレジャーシートにばらまかれ、ここで大宴会となったのである。(あぁ、また酔った~)


おかげで翌22日は、二日酔いと鼻炎と風邪の三重苦に、四苦八苦した。

 


 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヤマハ幼児科は今日で修了

2013年04月23日 | モミィの成長日記

2年間通ったエレクトーン教室の「幼児科グループ」(9人)が、今日の夕方のレッスンで修了する。入った頃、モミィは幼稚園児になったばかりで、はたして不器用なモミィにエレクトーンなど弾けるのかと心配したが、やはりどんな子にも順応力はあるもので、すぐに鍵盤に慣れたようである。


その後、先生に勧められて個人レッスンを併せて受けた時期もあったが、さすがに2つも抱えると、教材も2倍になり、自宅のエレクトーンの練習量も、当然ながら2倍の時間がかかる。モミィが通う教室に付き添い、家でもほぼ毎日練習をさせる役割を務めてきた僕自身も、それが精神的な負担になり始めたので、先生にお願いして元の「幼児科グループ」だけに戻してもらうことにした。ほかにも多く習い事があるので、時間の余裕がなくなってきたことも事実だった。


そのころモミィは、週1回のスイミングがあり、週2回のヒップホップダンスがあり、土・日・祝には地域のキックベースチームにも入っていた…というわけで、ゆっくり休んだり遊びに行ったりする時間がなかった。
「少し整理しなくちゃね…」あるとき、妻がそう言った。


去年、まず3年間通ったスイミングをやめた。幼い頃から水への恐怖心が強かったモミィだが、スイミングスクールで指導を受けるうちに、背泳ができるまでの級に上がったので、これならもう水泳が苦手種目にはならないだろう…というところで退会した。おかげで小学1年生だった去年の夏は、プールの授業が大好きになっていたので、やはり3年間のスイミングスクールの効果は大きかったようである。石の上にも3年…とはよく言ったものだ。


次に、キックベースだけど、これに付き添うのが僕は最も苦労した。とにかく土・日は必ずと言っていいほどあるので、普段より早く起きるし(これには妻も辛いようだった)、試合の時など朝5時30分に学校前に集合というのもあった。おまけにモミィは最年少だからめったに試合に出ないわけで、やむを得ぬとは思いながらも、試合を応援していても何となく脱力感に見舞われる。練習日は半日、試合日は丸1日という時間が、何もしないままに経っていくのは、モミィより僕のほうが堪えられなかった。結局7ヶ月でやめてしまった。


「石の上にも3年」は、キックベースでは挫折していまいました(笑)。


モミィが小学2年生になったら英語を習わせよう…と以前から考えていた。それまで「小学生の簡単英語」みたいな本とCDを買って、遊び気分でモミィを英語に慣れさせていた。が…やはり外国人講師と接する機会を与え、カタコトでいいから会話が交わせるようになってほしいなぁと願いながら、今月から、僕も4年前に学んだことのある駅前のECCに通わせ始めたのである。


そして4月15日がECCの最初の日だった。僕たち保護者は教室には入れないが、窓越しに授業の様子がよく見えていたし、見学用の椅子も置いてある。教室からの声も少しは漏れ聞こえて来るので、中の様子がわかる。子どもたちの関心をひきつけながら、いろんな遊びを入れて英語に慣らせていく外国人教師の楽しいアクションには、さすが~、アメリカ人は違うなぁ、と感心した。


帰宅してモミィに「アメリカの人って陽気で楽しいやろ?」といえば、
「あのひと、アメリカ人ちがうで。イギリス人やで」とモミィに言われた。
「えっ…」
「アイム・フロム・ユーケーって言ってたもん」
「ユーケー? それがイギリスってなぜわかるんの?」
「あとから先生が、イギリスのことや、と言ったから」

ユーケー。つまり「The UK」というのは、イギリスの長い長い正式名称の前2つの頭文字(United  Kingdom ~)を取ったもので、イギリス人は自分たちの国のことをそう呼ぶ。


ま、とにかく英語教室はとても面白そうである。モミィも心から楽しそうにしている。家で英語教材のDVDを見て、わからない言葉があると「『〇〇』ってなんのこと?」と突然質問したりするので油断ならないが、こちらとしても、子どもにもわかるように説明できるだけの英語の基礎力や単語力などは強化しなければなぁ…と思っている。

 

最後に再び音楽教室の話に戻るが、冒頭で述べたように、今日の夕方のレッスンが、2年間いっしょにエレクトーンを勉強してきたお友だちとは最後の日になるのである。今日は最終回を記念して、一人ずつ前に出て、好きな曲を弾き、好きな歌を歌って2年間の成果を披露する…ということになっている。その姿をしっかりこの目に焼き付けておきたい。それと、この2年間、いろいろとお世話になったお母さん方に、心からお礼申し上げたいという気持ちでいっぱいです。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

TV英語講座を見ている途中で

2013年04月19日 | 日常のいろいろなこと

英語をモノにするのはとても難しい。でもこの頃は便利な「教材」があちらにもこちらにも出ているので、そういう恵まれた英語環境の中で、それらをうまく活用すれば、英語力が身につくかなぁ…と、過去に何度も英語の挫折を繰り返してきた僕は、ためいき混じりに思うのだ。


今の僕にとって、最も有難いのは、NHKラジオ(NHK第2放送)で放送された語学番組を、インターネットで1週間分まとめて聴けることである。


https://cgi2.nhk.or.jp/gogaku/english/


この画面の左側がテレビで、右側がラジオでの英語番組の一覧だ。ラジオは基礎英語1から数えて10前後の数多くの講座がある。そのうち、どれでもクリックしてみたら、その講座が現れ、下のほうに「番組を聞く」というコーナーがある。日にちをクリックしたら、1週間遅れで週5回放送された番組がそのまま流される。たとえば今なら…、今日は4月19日だから、インターネットの番組は、現在4月8日から12日までの5日分が聴けるようになっている。ただし、聴くためにはID番号とパスワードで登録をしなければならない。でもまあ、僕でも出来るのだから簡単だ。


僕はその中から「基礎英語3」と「ラジオ英会話」の2冊のテキストを買った。そして毎日、出来る限り時間を割いて、テキストを見ながら、パソコンから流れる番組の音声を聴く。


モミィが今週からECCの英語教室に通い始めたので、それをきっかけに、自宅で少しでもモミィに英語を教えられるようになってやりたいとの思いもある。


もともと僕は4年前にECCに通ったこともあり、勉強のやり方はわかっているつもりだ。しかしわかっているだけではダメで、それをいかに粘り強く継続するかがむずかしい。僕は英語の最終目標として「洋画を日本語字幕なしで見たい」という大それた考えを持ち続けているわけだけど、それは別としても、モミィに英語力を高めさせるためも、僕も今回がラストチャンスと肝に銘じて英語の勉強に注ぐ時間を大幅に増やす決心をしたのだ。


あ、ところで、もうひとつラジオのテキスト「まいにちスペイン語」というのも買った。アルゼンチンにレストランのシェフとして住んでいる甥が、一緒に暮らしている彼女(アルゼンチン人)と毎年日本に来るのだが、来年は彼女のお母さんも来るというし、そのお母さんの友だち夫妻は、今年も来られたが、次回もまた一緒に来られるようなので、今度こそ、カタコトでいいからスペイン語で何か内容のある会話ができるようになれば…と願う一心で、これもインターネットで前週1週間分の番組を、テキストを睨みながらせっせと聴いている。


https://cgi2.nhk.or.jp/gogaku/spanish/kouza/


話を英語に戻すが、NHKのEテレビでも語学番組は多い。まあ、どちらかと言えばラジオのほうが充実しているような気もするが、それでもテレビ講座は見ていて楽しい構成になっているので、こちらもなかなか捨てがたい。今、テレビで継続して見ている語学番組は「大人の基礎英語」である。


これは月曜から木曜日まで、1日10分ずつやる。でも土曜日の午前5時20分から6時までの40分間、その週の4本分がまとめて再放送される。僕はそれを録画しておいて、自分の時間の都合に合わせて後から見る…というのがここ1ヶ月ほどの習慣になっている。


この番組にはタレント・女優の坂下千里子(ちりこ)さんが出ていて、出演者の中でたったひとり、英語にはそれほど強くない人の立場で出ているので、感情移入ができて親しみが湧く。それに彼女は天真爛漫で表情がとても魅力的な人である。テレビではそのほか「ニュースで英会話」や、モミィ向きの「プレ基礎英語」「リトル・チャロ」なんかにも手を出してみたいなと思うけれど、一度に沢山抱え込むのはよくないので、とりあえずこのくらいに…と、今のところは思っている。


ところで、今週の月曜日(15日)のことであるが…


その前々日の13日の土曜日、午前5時20分から10分刻みに「大人の基礎英語」4本分を録画していたが、それを2日後の月曜日に見たのである。


まず1本目を見終えた。次に2本目だ。登場人物の女性がニュージーランドへ旅行し、現地で知り合った女性とともに、英語で会話をしながら名所の大聖堂へ行くシーンである。「じゃあ、入りましょうか?」と言ったそのとたん…


ピポ~ン、ピポピポ~ンという音とともに、いきなりテレビの画面の真ん中に地図と文字が出た。「緊急地震速報(気象庁)。播磨沖で地震。強い揺れに警戒」と出て、場所は「近畿地方」とあった。と同時に、「緊急地震速報です。強い揺れに警戒してください」と緊迫したアナウンサーの声が、何度も繰り返された。しばらくして「大人の基礎英語」は途中から、地震速報番組に切り替わってしまった


テレビの前で僕は凍りついた。「げぇっ、また地震だ!」とうろたえかけたが…でも家はぜんぜん揺れていない。えぇっ…? あ、そうだ。突然のことで「録画」の放送を見ているということをすっかり忘れてしまっていたのだ。


そういえば、これは4月13日の録画だった。13日の午前5時20分から10分刻みで録画していた「大人の基礎英語」の2本目。それが3分余り経過したとき、つまり午前5時33分に、突如、緊急放送が入ったのだ…ということがわかった。この英語番組の放映中に、あの大きな地震が発生したのだった。


あの日、地震発生の瞬間にはベッドにいたのでむろんテレビは見ておらず、それから1分近く経ってから見たはずである。地震の瞬間というのは、NHK総合だけではなく、Eテレ(教育放送)でも、こういう場合は報じるものなんだなぁと思った。


僕はそのあとも、この録画での地震速報を見続けた。すでに終わった後なのに、見ていると、やはり体が固くなってっくる。今週、また三宅島や宮城県で立て続けに地震が起きているのも不気味なことである。


結局、先週の「大人の基礎英語」は、尻切れトンボのままに終わってしまった。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あのボストンマラソンが…

2013年04月17日 | ランニング

「前代未聞」というのはこういうことを言うのだろう。ボストンマラソンのゴール付近で起きた爆破事件は実にショッキングな事件であり、マラソン大会でこんなことが起きるなんて、誰も想像がつかなかったに違いない。まさに“驚愕”の出来事であった。


ボストンマラソンといえば、市民ランナーにとっては憧れの的だ。僕は33歳で初めてフルマラソンを走ったあと、どうしても海外のマラソンを走りたいという思いを強く持った。そして真っ先に思い浮かべたのがボストンマラソンだった。世界に数あるマラソン大会の中でも、ボストンマラソンがずば抜けて有名だったし、マラソンに関心のない人でもボストンと言えばマラソン、マラソンと言えばボストン…という具合だったから。


しかし当時のボストンマラソンは、今のような大規模な市民マラソンではなく、レベルの高いランナーのみが参加できる大会だった(…と記憶している)。だから、たとえばホノルルマラソンのようなマラソンツアーも当然のことながらボストンにはなかった。そこでいろいろと調べた結果、ニューヨークシティマラソンにはツアーがあり、完走制限時間も5時間ほどあったことを知ったので、そこへ参加することに決めた。1983年(昭和58年)、34歳の秋だった。当時は瀬古利彦が全盛の頃であり、ボストンマラソンでも優勝していたし、84年のロス五輪マラソンの有力な金メダル候補に上げられていた。そんな時代だった。


ニューヨークマラソンに参加した後、僕は勤め先のいろんな人から、「あんた、ボストンマラソンに出たそうやねぇ」と言われた。「違いますがな。ニューヨークマラソンですわ」と何度も説明しなければならなかった。やはり、海外のマラソンといえばボストン…というイメージが強かったのだろう。


そして後年、村上春樹さんがボストンマラソンを走った。その時の様子が書かれた文章が、とても面白くて印象深かった。


村上さんは、沿道のさまざまな楽しい声援を浴びながら走るのであるが、在米韓国人から「コリア、コリア」と声援を受けたので、ニコッと手を挙げて応えたそうである。そして「経歴詐欺みたいですが、やはり応援されるとうれしいもので…」と書かれていた。そうだ、そうだ。僕もニューヨークマラソンで沿道から「ニーハオ」と声援を受けて手を振った。やはり声をかけてもらうと、中身を問わず、うれしいものだ。


村上さんの話で一番傑作だったのが、ヒラリー・クリントンさんの出身校でもあるウェルズリー女子大の前を通過した時のことだった。その周辺で、数多くの女子学生が、ランナーたちに熱烈な声援を送っていた。中には「Kiss Me!」とか「Hug Me!」などと書かれた札を持った女の子がいたそうである。そして、ヒマなランナーは本当にキスしたり、ハグしたりしていた…と書かれていた。


それだけではない。その中に「Flash Me!」という札を持った女の子もいたという。これは「露出して見せて」という意味だそうである。村上さんは「大胆な方です。さすがに露出するランナーは見かけませんでしたが…」と、読む者を笑わせるのである。


そんな楽しい声援を味わえるボストンマラソンなのである。僕もぜひ走ってみたかった大会だ。そして…。栄光の瞬間とも言えるゴールをいよいよ目前にしたその場所に、爆発物を仕掛けて無差別に人々を殺傷しようなんて、およそ考えられないことであり、卑劣の極みである。そして、爆発が起きた時刻はスタート後4時間10分くらいのことで、これは市民ランナーの標準的タイムでもあり、僕もだいたいこれくらいの記録が多かった。この時間帯が最もゴール者数が多い…という計算も含まれていたように思われる。


むろん、どんな場所でもテロ行為は許されるものではないけれど、ボストンマラソンという、ランナーが夢にまで見る憧れの大会、そして100年以上も前から行われている伝統のあるマラソン大会が、このような形で血塗られた歴史を刻むことになったのは、本当に残念でならない。怒りとともに、言いようのない悔しさがこみあげてくる。

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村上春樹について語るときに僕の語ること

2013年04月15日 | 読書

村上春樹の久しぶりの長編小説「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」が出た。例の如く発売前から話題となり予約注文が殺到するという、前回の長編小説「1Q84」と同じ現象が、今回も起きているようだ。


この「1Q84」のBOOK1からBOOK3まで出たときもそうだったが、僕がこれを読んだのは、BOOK3の発売後1年ほど経ってからである。村上春樹の新作ならぜひ読みたいという気持ちはむろんあるが、発売前から予約するほどは急がない。まだ読んでいない村上さんの短編やエッセイなども沢山あるし、既読の作品のいくつかも読み直してみたい。焦ることはない。ぶら~っと本屋に入って、この「色彩を持たない…」を本棚で見つけ「あ、そうだ。この本をまだ読んでいなかったんだ」と気づいた時の喜びも、捨てがたいものなのだ。


それにしても「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」とは、長いタイトルだ。もっとも、村上さんも長編小説を出すたびにこれだけ騒がれるのだから、凡作であってはならないのはむろんのことだが、発売されるまでタイトル以外ストーリーはいっさい明かさないので、ファンにとって作品の唯一の手がかりとなるタイトルにはすごくこだわっているはずである。「1Q84」も意表をつく題名で、ナンなのだ?と興味を引きつける。今回の長い題名も、そうだよね。


この題名を見て、僕は以前に読んだ村上さんのマラソンについて書かれた本、「走ることについて語るときに僕の語ること」という長いタイトルを思い起こさせた。まあ、今回も、いかにも村上さんらしいタイトルだと思う。


その「色彩を持たない…」について、昨日の朝日新聞の読書欄に、けっこう詳しくストーリーや解説が盛り込まれた書評が載っていたので、丁寧に読んでみた。村上さんの作品の魅力は筋書きや評論だけでは到底わからないのだけれど、この書評にはなんとなく「匂う」ところはあった。


「色彩を持たない」という意味は、主人公の多崎つくるクンが高校生の頃、男女2人ずつの親友がいて、その4人は姓に色が入っており、それぞれ「アカ」「アオ」「シロ」「クロ」というあだ名で呼ばれていたが、多崎クンの姓だけが色を持っていなかった…というところから来ているそうだ。


そして多崎クンは20歳になる頃、その親友の4人から突然、身に覚えもない絶縁を宣告され、死にたいほどのショックを受ける。その絶縁の真相を確かめるために、彼の「巡礼」の旅が始まる…というストーリーのようである。


「巡礼」は最後にはフィンランドの片田舎へ向かうということだが、そういえば「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でも、「博士」がフィンランドに行っちゃうシーンがあったなぁ、なんてことをふと思ったりした。しかし「文章は平易だが物語が難解」と言われるように、一筋縄ではいかないのが村上さんの小説である。やはり新聞でこういう解説を読むと、「そこにどんな謎が隠されているのか…? う~ん、早く読みたい」とも思ったりしますね。


で、ここからは蛇足ですが、村上さんに関することで、書こう書こうと思っていたことがひとつあります。3年ぐらい前に映画化された「ノルウェイの森」のことですが…


「ノルウェイの森」が映画になると聞いたとき、この小説を映画にするというのは、どう転んでも無理ではないかと思った。だから映画化されたあとも、見ないままに来たのだけれど、去年の大晦日にBSでそれが放映された。見ても失望するだけだろう…と思いながらも、やはり気になったので、とりあえず録画だけしておいた。そして録画して3ヵ月ほど経った先日、その映画を見たのである。


予想どおり、何の見どころもないつまらない映画だった。まさにヤマなしオチなしイミなし…であった。映画が始まる前、字幕で「過激な表現がありますが、原作を尊重し、そのままで放映します」みたいなことが出ていたが、ほんとに、登場人物が発する卑猥な言葉がこの映画の中心を成すように見えた。俳優では、松山ケンイチは少し甘えん坊っぽい演技が気になったが、さほど悪くはなかった。しかし直子を演じた菊地凛子が不適役で、小説に登場するイメージのカケラもなかった。もう少しそれらしき直子を演じられる女優はいなかったのだろうか。


映画自体も小説の断片を寄せ集めたような構成で、原作を読んでいない人にはさっぱりワケがわからない映画だっただろうし、原作を読んでいる人には、何か小説のダイジェストを映像で見せられているようで、これが映画としてどんな感動を呼び起こすのか…? 戸惑うばかりだったのではないか。


しかしまあ、考えてみれば、映画の出来としてはこれが精一杯だったのかもしれない。元々、映画化するのは無謀だったのだから。…今ごろ3年前の映画についてとやかく言うのもナンですけどね。


蛇足のそのまた蛇足 


2009年(平成21年)6月17日のこのブログで「ノルウェイの森」を再読した感想文を書いているが、そこで少しだけこれの映画化について触れている。ちょうど映画化されることが決まった時期で、「あの物語がどんな映画になるのだろうか…。見当もつかない」と書いている。しかしまあ、これは少し控えめな表現であって、実は「どうせロクな映画にしかならないだろ」と思いながらも、遠慮してそう書いたような記憶が残っているのでありマス。

 

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/f7a82871ded923c5e691f3d4815ab1d1

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地震だっ!

2013年04月13日 | 日常のいろいろなこと

今から3時間ほど前(報道によると午前5時33分)、布団の中でそろそろ起きようかと思いながらもグズグズして、またウトウトしていた時だった。


ゆら~っと部屋が揺れた。僕は3階の自室で寝ている。この部屋は普段からよく揺れるのだ。近くに高速道路が通っているのでその振動で揺れることもあるし、強風の時も揺れる。その都度「あっ、地震か!」とビビるのだけれど、単に揺れていただけ、ということばかりだった。これもまたその類の揺れだろうと思ったとたん、ガタガタガタッと異様な揺れ方がした。いつもと違う。これは本物の地震に違いない。…と、思う間もなくガタガタガタ~ッと強烈な音を伴った揺れに襲われた。うわぁ!


家が倒れるかも知れない…


怖がりで心配性の僕は、咄嗟にそう感じた。えらいこっちゃ。あわてて階段を降りながらも、「ここで取り乱したら階段から転げ落ちるぞ。落ち着け落ち着け…」と自分に懸命に言い聞かせながら、2階の和室で寝ている妻とモミィのところへ降りて行った。妻が眠ったままのモミィを布団の中で抱き寄せていた。そのとき、揺れは収まった。


時間にして、10秒ちょっとぐらいではなかったか。短くてよかった。阪神淡路大震災の時は、もっと揺れている時間が長かったし、棚に置いてあるものがほとんど床に落ちた。しかし僕が地震でこれほどの恐怖を感じたのは、まさしくあの18年前の大震災の時以来である。


リビングへ行き、テレビをつけた。画面に出ていた地図を見ると、震源地は淡路島付近で、淡路島は震度6弱。大阪府内は一部が震度5弱で、あとは全域に震度4という数字が出ていた。そのあと、各市ごとの詳しい震度が字幕で流されたが、それによると僕が住む市は震度3であり、隣接する市は4だった。「震度3か4で、これほど揺れるのか…?」と、僕は不思議な思いに捕らわれた。


テレビでは各地で怪我をした人も出るなど、いろいろな被害は報じられていたが、大災害…というところまではいかなかったのは、不幸中の幸いであった。


しかし震度3か4であれだけの揺れを感じて周章狼狽した僕である。それを思ったとき、2年前の東日本大震災では、住民の人々の恐怖はどれほどだったろうか、と改めて心が痛んだ。


大阪は大きな地震が起きない所だから…と、僕の気持ちの中に妙な迷信みたいなものが宿っていたけれど、こういう目に遭うと、否応なしに「地震は恐ろしいものだ」と痛感せざるを得ない。穏やかに晴れ渡った土曜日の朝だけれど、まだ今も、胸騒ぎが収まらないままでいる。

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年齢確認…?

2013年04月11日 | 日常のいろいろなこと

居酒屋チェーン店の「庄や」が、神奈川県で未成年者に酒を飲ませていたことがわかり、警察が家宅捜査した…というニュースを見て、ふ~ん、こういうのが全国ニュースとして大きく報じられるんだなぁ、と、未成年者への飲酒に対するわが国の厳しい姿勢を改めて認識した。良いことである。酒は時には分別がある(はずの)いい大人も狂わすのだからね(誰のことじゃ…?)


でも、中・高生ぐらいの子が、街のあちらこちらでたむろして、タバコを吸っている風景をよく見かけるが、この国は、未成年者の飲酒には厳しくても、タバコには寛大なのか…? と複雑な思いがしないでもない。


それはさておき、「未成年飲酒」で連想したのが、店で酒を買うときのレジでの「年齢確認」のことである。


かつて、こんなことがあった。かなり今でも強く印象に残っているのだが…


駅前のスーパー・ジャスコの食品売り場レジで、僕のうしろに小学生上級ぐらいのおとなしそうな男の子が並んでいた。僕がレジを終えてそこを離れようとしたとき、係員の女性が、男の子に「それはダメなのよ」と言う声が聞こえた。見ると、男の子は手に、紙パックの900mlのお酒を持っていた。


レジのおばさんは、「お酒はね、20歳以上の人しか買えないのよ」と続けたが、男の子はモジモジしながらもその場を動かず、「お母さんに買って来いと言われたから…」と泣きそうな声でささやいた。「それじゃぁ、お母さんに来てもらってね」とレジの女性。それを見て僕は、なんだかその子が気の毒になり、横から「よっしゃ、そのお酒、おっちゃんが買うたるわ!」と言おうか思ったほどであった。肩を落としてお酒を置きに売り場へ戻る男の子が不憫だった。でもまあ、これは仕方のないことであろう。この子の話が本当なら(嘘とは思えなかったが)、子どもに酒を買いに行かせる母親がいけないのだよね。


その後に登場したのが「年齢確認パネル」だった。


コンビニなどでビールを買うと、レジで、お姉さんが「すみません。ここ押していただけます?」と言って、「私は20歳以上です」みたいな字が出ているパネルを指し、僕は「はい」という部分を指先でピッと押す。「ありがとうございます」とお姉さん。そんなことをやるような時代になったのである。


ジャスコは、これまでそういうことはしていなかった。でも最近になって同じパネルが登場し、僕など買い物に行くたびに缶チューハイや缶ビールを買ったりするものだから、レジの前でボヤボヤしていられなくなった。お酒の番が来ると、パァッとパネルに「私は20歳以上です」の文字が出るので、レジの人が「お願いします」と言うと同時にその下の「はい」を押すのである。このごろは慣れてきて、そこへ来ると素早く「はい」を押す。レジの人が、えっ?と驚くほどの早業を見せる僕なのである(笑)。


ま、いたずら好きな僕だから、こんなことも妄想したりする。コンビニで年齢確認パネルを押す直前に、「あっ」と叫び、「すみません。ボクって19歳だったんだぁ」とアタマを掻く仕草をしたら、相手はどういう反応を示すのだろうか…な~んてね。バカにされるのに決まってますけど。


この「はい」を押すパネルで思い出したが、パソコンのアダルトサイトでも「私は18歳以上です」「私は18歳未満です」という2つのボタンがあって、「18歳未満の人はこちらを押して退出してください」というメッセージが出てくる。「誰がわかるねん」と思わず笑ってしまいますが。


さて、お酒とは関係のない話だけれど、先日モミィを連れて行った海遊館は入館料が大人2,300円だったが「シニア割引」というのがあった。チケット売り場で並んでいると「60歳以上の方は2,000円です」という表示が目についたのだ。それを見た僕は、コンビニと同じように、窓口の横に「私は60歳以上です」「はい」というパネルでも出ているのだろうと思って、ドキドキワクワクしながら、少しずつ列の前に進んで行った。しかし、窓口にたどり着いたとき、そんなパネルはどこにもなかった。


窓口で「子ども1枚と、シニア1枚です」と言うと、「身分証明書をお持ちですか?」という言葉が返ってきた。「あ、免許証ですね」と、僕はあわてて財布から運転免許証を取り出して示した次第である。今は車の運転はしないのに、ちゃんと免許証だけは更新し持ち歩いていることが、こんな時に役立つのである。


それにしても、シニア割引のように直接お金にかかわる年齢の確認は、コンビニやパソコンのアダルトサイトじゃあるまいし、ボタンを押すだけでOKだったら、いくらでも悪用する者が増えるだろ。だから海遊館なんぞに「60歳以上です」「はい」のパネルなんか…あるわけ、おまへんわなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春休み ~フォト日記 2 ~

2013年04月08日 | モミィの成長日記

 ~ 誰がマツコ・デラックスやねん ~

 




中之島緑道を御堂筋の淀屋橋へ向かって歩いていた時、
モミィが、
「あ、マツコ・デラックスみたいなん、おるで」と言った。
えぇっ? と思って、見ると… これでした。


          

 

 

 

これモミィ。な、なんという無礼なことを!
これは「花の天女」という優れた彫刻なのです。
岩手県出身の彫刻家・北田吉正さんという方の作品で、
天女の手には、大きなひまわりの花が抱えられています。
この「花の天女」を「マツコ・デラックスみたい」とは…
いっしょにしたら、花の天女はんもガッカリしはりまっせ。
ま、ちょっと似ている感じも、しなくはありませんけどね~

 

………………………………………………………………

3月30日。薄曇りの中、近くの城山古墳公園へ行き、
3人でお弁当を広げて、お花見としゃれこみました。

この古墳公園はわざわざ遠方から来る人たちも多く、
地域の人気スポットになっています。小さな山もあり、
そこから桜が眼下に広がるのを楽しめるのもいいです。
   

 

 
…………………………………………………………

さて、4月4日はモミィの小学校の入学式でした。
あれから1年経ったんだなぁ…と感慨深いですね。
去年、モミィの入学式に出席したときに見たのが、
2年生の微笑ましい歓迎セレモニーだったのです。


小学生になってからの1年間のいろいろな出来事を語り、
最後は皆で「ドキドキドン1年生」の歌を合唱してくれました。


今度は、それを新2年生となったモミィたちがする番です。
その練習風景を先月に、僕たちも見せてもらったのですが、
本番の入学式は、1年生の保護者たち以外は入れないので、
残念ながらモミィらの歓迎セレモニーは見られませんでした。

なので、去年の写真を掲載することにします。

 このようにモミィたちは2年生から歓迎してもらいました。

 

今年は2年生として、1年生の前でこれと同じことをしました。


これは先日のリハーサルの1コマです。
モミィは最後列左から5番目にいます。
 


そして今日からモミィの2年生の新学期のスタートです。
明るく陽気で、楽天的な子に育っていってほしいですね。

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春休み ~フォト日記~ 

2013年04月06日 | モミィの成長日記

先週から今週にかけてのいろいろな出来事をブログに書いているうちに、モミィの春休みも明日で終わりである。2週間余りの春休みなんて、終わる頃にはあっという間だったなぁ…という感じだけれど、しかし学校が休みの間は当然モミィは一日中家にいるわけだから、普段に比べてうるさいと言えばうるさい(笑)。


幼稚園や小学校に通う子どもさんをお持ちの世のお母さん方も、この時期は特に大変なのに違いない。僕が通うコスパのプールにも、小学校低学年の子どもさんがいる女性が、毎日熱心に泳ぎに来られているが、彼女も「お休みに入るとなかなかプールに来れなくて。早く学校が始まってほしいです」と笑って言う。


その春休みも明日で終り、月曜日からモミィは2年生となってまた学校へ通い始める。こんな調子で早く6年生になって卒業して、中学生になってくれ~と思うけれど、一方こちらはどんどん歳を取るばかりである(泣)。まあ、それはしゃ~ないですけど。


春休みのモミィのフォト日記を作ってみました。
まず、モミィが通う音楽教室の合同発表会の様子から。


3月27日に大阪府八尾市のプリズムホールで行われました。
真ん中の列が、モミィたちの仲良しクラスのメンバーです。
オープニングで「大好き」という歌を熱唱しているところです。
(左から4人目がモミィ)


   

   
     

今回はモミィが演奏の開始の合図をする役でした。
右手を上げて「さぁ、行きま~す」とモミィ。

  

   
 

 

5月からクラスのお友だちとはお別れなので、
これが最後の舞台での合奏になります。
 



    

翌日、千里阪急ホテルに「お泊りバイキング」へ出かけました。
ホテルに行く前に、大阪湾に面した海遊館へ寄りました。




   
 

愛用の「ジュエルポッド」で魚の写真を撮るモミィ。   

 

こちらはクラゲです。

 

 
大好きな「お泊りバイキング」は、千里阪急ホテルへ。
モミィの旺盛な食欲はとどまるところを知りません。
大人・子ども共に宿泊料金は一緒ですが、納得!

 

 

 翌日、大阪駅でいったん降りて、四ツ橋筋を歩き、
 新築間もない中之島フェスティバルホールを見学に。
 4月10日
開業で、先日開業記念式典が行われました。
 1階の入り口から2階のエントランスホワイエに至る、
 赤いじゅうたん敷きの大階段は見事でしたね。

 

 

 

このビルはフェスティバルホールの上に企業が入る超高層ビルで、
途中の階に展望スペースがあり、誰でも見学することができます。
幸運にも土・日・休日を除いて、テラスも開放される…とのこと。
金曜日だったので、緑豊かなテラスに出て、眺望を楽しみました。


 


フェスティバルホールを出て、御堂筋の淀屋橋に向かいました。
川沿いに中之島緑道という遊歩道があり、そこを歩くのですが…

 

 

中之島緑道は大阪市制100周年記念事業で、中之島の淀屋橋から
肥後橋まで、
土佐堀川沿いにつくられた遊歩道です。道の横には、
いろいろな彫刻がありますが、そのひとつの彫刻を見て、モミィは…
「あ、マツコ・デラックスみたいなん、おるで!」と言った。

見ると、そこには本当にそんな「物体」が立っていたのである。


                         (次回に続きます)

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽しいことやら困ったことやら

2013年04月03日 | 日常のいろいろなこと

先週はいろいろなことがあった1週間だった。


アルゼンチンからやって来たヒロユキたちとの交遊は、前回書いたようなことであるが、モミィの通う音楽教室のエレクトーン発表会も、先週に開催された。


2年前から通い始めた音楽教室の「幼児科クラス」も間もなく修了し、5月から次の「ジュニア科クラス」に進むことになっている。今のクラスの子どもたちのメンバーでは最後の舞台となるこの演奏会だったが、曲がなかなか難しくて、1月頃からほぼ毎日その曲の練習を積み重ねてきた。モミィもよく頑張ったけれど、横で付き添い、発破をかけ続ける僕としてもかなり疲れる。早く終わってほしい…というのが偽らざる心境であった。


そしてそれが無事に終わった翌日から、1泊でモミィの好きな「お泊りバイキング」に出かけた。泊まったのは近くて便利な千里阪急ホテルだったが、1日目はかねてからモミィが行きたがっていた海遊館へ連れて行った。


ところでこの時、妻が風邪で体調を崩しており、ヒロユキたちと会う時は無理をして出かけたけれど、演奏会の日はとても症状がひどかったので、僕一人でモミィを連れて行った。ホールに着いて「舞台衣装」であるドレスをモミィに着せるのであるが、その着せ方が僕はよくわからないので、同じクラスのお母さんに着せてもらった。やはりこんな時は、男一人では頼りない。他のお母さん方にいろいろとお世話になり、恐縮した。


そして翌日の「お泊りバイキング」1泊小旅行では、まず僕とモミィだけが家を出て、2人で海遊館へ行ったのである。僕らは夕方に千里阪急ホテルに着いたのだが、妻は家から直接ホテルへ来ることにした。まぁそれなら、ホテルに来て食事をして寝るだけなので、妻も負担は軽かったようだ。翌日はかなり元気を取り戻していた。3人で、最近オープンした中之島フェスティバルホールの高層ビルの中を見てまわったりして、帰途の寄り道を楽しんだ。


30日の土曜日は、4月中旬からモミィがECC英語教室へ通うことになっており、そのオリエンテーションがあったので、駅前のECCへ行った。週1回、外国人講師からモミィは英会話を習うわけだが、むろん英語は毎日少しずつでもやらなければなかなか身につかない。「保護者の方のご尽力が子どもさんの上達には欠かせませんので…」ということから、年間スケジュールや教材の使い方、自宅学習のやり方などのいろいろな説明を、その場で受けたのである。


また、31日の日曜日には、モミィにせがまれるまま、近くの城山古墳公園へお花見に出かけた。今年は何だか、気がつけば急に桜が満開になっていた…みたいな感じですよね。お弁当を広げ、ちょいとワンカップなどを飲みながら、のんびり桜の花を眺め、妻の風邪やらアルゼンチンやら演奏会やら海遊館やらお泊りバイキングやらECCやら…と、いろいろあった1週間を振り返った。


…そして翌4月1日の月曜日。新しい年度の始まりだ。さぁ、また生活リズムを元に戻して頑張ろう…と、張り切りモードで、久しぶりにコスパへ泳ぎに行く支度をしていた午前9時半ごろ。


ツルルルル~…と、電話が鳴った。


母が世話になっている特別養護老人ホームの看護師さんからだった。母は6年前に脳出血で倒れ、半身麻痺の車椅子生活となり、この特養施設で暮らしている


看護師さんは、「昨晩から(母が)熱を出して苦しがっていますので、病院へ行く段取りをしているところです。付き添っていただきたいので、お願いします」と言った。


「わかりました。すぐに行きます」
…と、僕は自転車で約10分ほどのところにある施設へ駆けつけ、車椅子で運ばれる母とともに、車に同乗して病院へ行った。


母の診察や検査には長い時間がかかったが、僕は待合で待機するように言われていたので、ずっとソファに座って所在無く過ごした。ようやく名前を呼ばれて診察室に入った僕に、医師は検査結果を説明し、レントゲン写真も見せて「肺炎ですね。しばらく入院してもらうことになります」と言った。


エイプリルフールの冗談で終わってほしいような話であった。


やれやれ…

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

超初級! スペイン語講座

2013年04月01日 | 日常のいろいろなこと

 

     ~ アルゼンチンからのお客さま ~

 

先週、1年ぶりにアルゼンチンからやってきた甥のヒロユキたちと会った。これで2010年(平成22年)から4年連続で、ヒロユキは彼女のソルちゃん(28歳)を連れて日本に「一時帰国」している。その都度、僕と妻とモミィも呼んでもらい、祝宴を開き、そのあとカラオケで盛り上がる、というのが恒例となった。

 

妻の姉の息子であるヒロユキのことは、先日も書いたし、去年やってきたときのことも当時のブログに書いた。あれから1年で、ソルちゃんは25キロやせたという。そういえば、これまでよりほっそりとして、一段と美人になった。「ダイエット、シマシタ~」と、カタコトの日本語で笑うソルちゃんであった。甘いものがとても好きなソルちゃんだったが、それを食べるのを控えたのだろうか…

 

また、アルゼンチン在住の見知らぬ日本人女性の方が、たまたまブログに書いておられたことだけど、ブエノスアイレスでヒロユキがシェフをしているそのレストランへ行って感激され、ヒロユキのことを「私の身近にもこんなに素晴らしく、評判の良いシェフがいたとは嬉しい限りです」とほめてくださった文章があるので、そのブログも紹介しておきます。

 

こちらです

 


 

 
 
 3年半前にアルゼンチンに行った時の写真。
    場所は、ヒロユキが働くレストランの厨房。
  中央にソルちゃん、右下にヒロユキがいる。
  ソルちゃんの隣がヒロユキの母(妻の姉)、
  その隣が妻そして僕。皆さん陽気ですね~。
  


ところで、今回は、ソルちゃんのママも初めて一緒に日本に来るはずだった。そのうえママと仲良しのご夫婦(50歳代)も一緒に来るということを聞いていた。ところが、運悪くソルちゃんのママが病気で来られなくなった。それでも、ママの友だちのご夫婦はやって来た。だから、今回はソルちゃんを含め、3人のアルゼンチン人の人たちとの友好を深めることになる。特に、日本語が全くわからないご夫婦とは、少しぐらい会話も交わして盛り上げたかったので、以前勉強したことのあるスペイン語を、本棚からテキストを引っ張り出し、わずか1週間ほどだが集中特訓をして、何とかカタコトの日常会話を暗記したのである。

 

約束の場所は大阪の京橋である。義姉夫妻とヒロユキとソルちゃん、そして、初めて会うアルゼンチン人のご夫婦と対面して、まずソルちゃんがいつものように僕に顔を寄せ、頬をくっつける親密な挨拶をしてくれ、その後、初対面のお2人のうち、まず奥様のほうに向かって「ムチョ・グスト(はじめまして→英語の Nice to meet you )」と言ったら、とても嬉しそうに握手を求めてくれた。それを横で聞いていた旦那さんのほうも、とたんに笑顔になって「ムチョ・グスト」と言って僕の手を握った。ほんのカタコトでも、自国の言葉で挨拶してもらえれば、本当に嬉しいものだ。僕たちも海外で経験しているのでよくわかる。

 

レストランへ行き、それぞれ席についた後、ご夫婦は手帳をちぎった紙に名前を書いて僕たちに差し出した。旦那さんは ROBERTO、奥さんは ANA さんだった。そしてモミィにも紙を渡し、名前を書いてくれという仕草をした。しかしモミィはローマ字がまだ書けないので、平仮名で書き、妻が「MOMI~」と書き添えた。

 

お礼を言うとき僕は「グラシアス」と言い、アナさんたちは「アリガトウ」と言うのが、何となくおかしい。続いて僕はソルちゃんに「コモ・エスタ?(英語の How are you ?)」と言い、ソルちゃんは「ビエン(Fine)」とほほ笑んだ。僕はロベルトさんとアナさんに向かって「メ・アレグロ・デ・ベールレ」(お目にかかれてうれしいです)と言うと、2人はパチパチと手を叩いて何事かを叫んだ。通訳のヒロユキに聞くと「自分たちは日本へ来ても日本語を話せないのに、あなたはスペイン語を上手に話す。すばらしい」という意味のことを言われたそうだ。いや、まあ、それほどでも…えへへ。

   


  
  左から、ヒロユキ、ロベルトさん、アナさん、ソルちゃん。




モミィにも多少のスペイン語を教えていた。数字はウノ、ドス、トレス…と、1から10まで教えていたのだが、たまたまアナさんがモミィに何歳かと訪ねたら、モミィはなんと「シエテ(7)」とスペイン語で答えたものだから、これまた大いに座が盛り上がった。「ついでに1から10まで言うてみ」とモミィに耳打ちすると、「ウノ、ドス、トレス、クワトロ、シンコ…」と最後の10まで言い切ったので、ロベルトさんとアナさんだけでなく、ソルちゃんも、ヒロユキも、義姉夫婦も、み~んな大拍手だった。これですっかり僕たちは打ち解けた。

 

食事の後、カラオケへ行った。 ロベルトさんとアナさんは歌わないが、ソルちゃんがカラオケ大好き人間なのだ。しかしヒロユキやヒロユキの母である義姉、そして僕の妻はカラオケはいっさいやらない。歌うのは主にソルちゃんと僕である。そして時々、義姉の旦那さんが演歌を歌った。

 

ソルちゃんは曲目の中にスペイン語の歌が少ないのが不満そうだったが、英語が達者なので、もっぱら英語の歌を歌った。僕も、日本の演歌など歌ってもアルゼンチンご夫婦には面白くないだろうと思い、せめて英語で、と、大好きなザ・ビートルズの「レット・イット・ビー」を歌ったりしたが、ソルちゃんが、アルゼンチンでも盆踊りが盛んなので、「ボンオドリのウタ、ナニかウタッてよ」というので、中村美津子の「河内おとこ節」なども歌った。

 

 

  
     ソルちゃんが歌っている間、踊るモミィ。
   

 

 

 

   
    大好きな歌 「チューリップ」 を歌う。

 



その間を縫って、モミィが2曲か3曲、こどもの歌を歌い、拍手を浴びていた。ソルちゃんの歌に合わせてタンバリンを叩いたり、踊ったりもしていた。僕も調子に乗って「セニョリーナ」とか「マニァーナ」とかのスペイン語が出てくる橋幸夫の「恋のメキシカンロック」や、スペイン風のノリで歌える西郷輝彦の「星のフラメンコ」(古いなぁ~)など、久しぶりに気合の入ったカラオケとなった。モミィが僕の横に立って、ロックやフラメンコにあわせて、ヒップホップダンス教室で習っている踊りを披露するので、 ロベルトさんとアナさんも終始笑いながらステージを見つめていた。むろん、拍手をもらったら「グラシアス」とお礼を言う。

 

そんな中でも、何より大受けしたのは、「ベサメムーチョ」のスペイン語版である。僕はこの歌はザ・ビートルズの英語での歌しか聞いたことがなかったが、オリジナルは、昔、トリオ・ロス・パンチョスというグループがスペイン語で歌っていたように思う。カラオケでそのスペイン語版を探し当てて、かけた。

 

前奏が始まり、ソルちゃんをステージに呼んでデュエットした。歌詞のスペイン語にはカタカナがついているので、僕はそちらを見て歌う。「ベサメ~ ベサメムーチョ~」…すると、アナさんが急に立ち上がり、満面の笑顔で手拍子をして、踊り始めたのである。 ロベルトさんも嬉しそうに聞いている。歌い終わったらみんな大喝采であった。実は、この曲も、インターネットでひそかに練習していたのである。その成果があってよかった。

 

そんなふうに、お昼からの半日はあっというまに過ぎた。

 

 

 
 お別れの時が近づいてきた。ロベルト夫妻とソルちゃんと。

 

カラオケも終り、僕たちは環状線の京橋駅に来た。そこでお別れである。


ロベルト夫妻にもお別れの言葉を告げなければならない。スペイン語で「さようなら」は「アディオス」であるが、これは永遠に会えないという意味も含んでいるそうである。だから僕は、「アディオス」とは言わず、「アスタ ルエゴ」と言った。英語で言う「 See you (じゃ、またね~)」 という感じだ。そして、「ロ・エ・パサード・ムイ・ビエン(とても楽しかったです)」と言い、「メ・グスタリア・ベールレ・オトラ・ベス(またお会いしたいですね)」とも付け加えた。


僕たち3人が改札に入り、ホームに通じるエスカレーターに乗るまで、ロベルト夫妻やヒロユキ、ソルちゃんらは、ずっと手を振り続けてくれていた。「楽しかったネェ」とモミィも満足げだった。


帰宅すると、義姉からメールが来ていた。「とても盛り上げてもらい、ありがとうございました。鬼が笑うかもしれませんが、来年もよろしくお願いします」


来年は、今回来られなかったソルちゃんのママも来るだろう。その友だちのロベルト夫妻もきっと来られるだろうと思う。その日に向けて、今度は1週間の短期集中レッスンではなく、1年間の長期計画で、あの人たちともっと会話が交わせるようになれるようにスペイン語を勉強しなければなぁ…


と思っています。会話ができたら、本当に楽しいですもんね。


ではまた…


アスタ・ルエゴ~ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする