僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

閖上 (ゆりあげ) 復興支援のブログ

2011年05月29日 | 心と体と健康と

一昨日、このブログで、被災地のひとつ宮城県名取市を歩いたことを書いた。

そこで、閖上 (ゆりあげ) というところまで歩いたけれど、
現場にいた警察官の指示で引き返したことも書いた。

その閖上 (ゆりあげ) という忘れがたい地名を、偶然にも、
昨日の朝日新聞夕刊の 「窓 ~論説委員室から~」 のコラムで見つけた。

「閖上より」 という一文が掲載されていた。

そこに紹介されていたのは、閖上の自宅が津波で壊された男性の話である。
荒川洋平さんという29歳の男性だ。

弟が亡くなり、母親はまだ見つからないまま、という状態で、
他県で暮らす兄から、電話があって、
「6月11日でお母は死亡扱いになるから、葬式やるから」
と言ってきたが、言われた方の洋平さんの複雑な心境などをめぐる哀話が、
このコラムに書かれていた。

「様々な復興プランや政治の動きといった、大文字で報じられるニュースとは別に、
 被災者が日々、泣き笑いする小文字の生活誌がある」

と、コラムの筆者は書き、最後に、この男性のブログ、
「名取市閖上(ゆりあげ)復興支援ブログ」
のことが紹介されていた。 

早速、そのブログを読ませてもらった。

新聞、テレビ等の報道ではわからない、リアルな疑似体験を突きつけられる。
脱力感と、明日への希望や勇気とが、混沌として、胸をかき乱す。

今、原発を巡る政治家や東電の責任のなすりつけ合いや、菅内閣の不信任問題、
一方では、被災地へ有名人が激励に行く 「微笑ましい」 ニュースが満載である。
それはそれできちんと報じなければならないのは当然だけれども、
しかし、こういう、被災者の人たちの 「日々、泣き笑いする生活誌」
というものにも、もっと目を向けなければならないのでは、と思う。

名取市閖上へ行き、何の役にも立たずに帰ってきた僕ですが、
このブログのことを、新聞記事の二番煎じということを承知の上で、
のんブログをお読みくださっている皆さまにご紹介することで、
せめてもの報いになれば … と思っています。

           ↓               

http://blog.livedoor.jp/coolsportsphoto/   

 

 

 

 

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被災地を歩いたこと

2011年05月27日 | 心と体と健康と

3月11日に起きた東日本大震災と津波の凄まじい被害の報道をテレビで見ながら、
それを自分のこの目に焼き付けたいという思いが、胸の中でずっと渦巻いていた。

「ボランティアで被災地へ行ったらどう…?」
と言ってくれる人たちもいたが、しかしそれは無理な話だった。
僕は車の運転もできないし、重い物を持ち運んだりする腕力もない。
不整脈や腰痛などの持病を抱え、何種類もの薬を飲んでいる身でもある。 
ボランティアとしては何の役にも立たず、邪魔になるだけの人間なのだ。
しかし、行かねば… という衝動は募る一方で、もはや抑えられなかった。

5月19日。
僕はリュックひとつ下げて、大阪阿部野橋から出る夜行バスに乗った。
数人しか乗客のいないバスは、午後8時に発車し、仙台へと向かった。 
翌日の午前8時27分に到着予定である。 

12時間以上もバスに乗るなんて、昼夜を問わず、初めての経験だ。
しかし、これまで、飛行機にはそれぐらいの時間は乗っているので、
12時間座っていても、それで腰痛が出たりはしないだろうと思った。

バスの座席は飛行機よりはるかに快適で、思ったとおり腰痛は出なかった。

予定より30分ほど早く、バスは仙台駅前に着いた。
青空が広がるさわやかな杜の都の朝だった。

コインロッカーにリュックを預け、小さなバッグに食料と貴重品を入れた。

東北本線で名取まで行き、そこから仙台空港行きのバスに乗った。
バスには 「代行バス」 と表示がされていた。
仙台空港アクセス鉄道が被災したので、その代行ということだろうか。

仙台空港に到着したのは午前9時半ごろだった。

空港からは、ひたすら、歩いた。

空港から沿岸部を北東の方角に歩き、名取川を渡り、
そして仙台市の若林区に入って、そこから内陸部の仙台駅方向へ…
そういう計画を立てていた。 20~30キロぐらいだろうか。
6時間ほど歩けば、計画通りに行程がこなせるはずだった。
体調に多少の不安はあったが、自分の脚力を信じることにした。

言うまでもないが、僕の手には、地図が握られていた。
しかし、歩けども歩けども、地図にある道路がわからず、
逆に、地図に載っていない広い道路があったりした。
どこを歩いているのか、いくら地図とまわりを見比べても、わからない。
こんなことなら磁石を用意してくるべきだったと気がついたが、すでに遅い。

それにしても、どこを向いて歩いているのか定かではなかったが、
道路の左右の尋常ではない光景に、だんだん背筋が寒くなってきた。

この荒れはてた光景は、どんな言葉を尽くしても表現できない。
散らばった瓦礫。 壊れた家屋。 ひしゃげた車。 転がる舟。
そして、茫漠とした荒れ野が視界の全てを占めるような光景も…。

この目に映った荒涼たる図は、夢の中をさまよい歩いているようで、 
さながらSF映画のロケーションのような、異様な光景であった。

震災から2ヶ月以上が経ち、瓦礫はかなり撤去された様子だった。
それでもこれだから、被災した当初は、想像を絶するものであったに違いない。

僕が歩いている道は、車が行き交うだけで、人影はほとんどなかった。
そんなとき、ひとり、自衛隊員風の若い男性が立っていた。
僕を見てお辞儀をされたので、慌てて 「お疲れ様です」  と、僕も頭を下げた。

少し先の道路がちょうど十字路になっていたので、その男性に道を訊いた。
名取川を渡って仙台市に入りたい、と言ったら、
「これをまっすぐ行くと海に出てしまいますよ。 こちらへ行かれますと…」
と、男性は左手を指して、
「○○ (地名らしかったが聞き取れなかった) へ出ますので、
 そこへ行けば、仙台市の若林地区へ入れると思います」
澄んだ目をした、優しい言葉づかいの若者だった。

教えてもらったその道を、また、テクテク歩いた。
相変わらず人影はない。 
どこをどう眺め回しても、歩いている人はいない。

車が1台、後方からやって来て、僕の横で止まった。
車の中には、年配の夫婦らしき男女2人が乗っていた。
助手席の奥様らしき婦人が窓を開けて僕に呼びかけた。
「ごめんなさいね。 キタガワさんのお寺へはどう行けばいいのですか…?」
「は…? あのぉ、すみませんが…」
道を聞かれた僕は、戸惑い、この土地の者ではありませんので、と詫びた。
軽装で歩いているので、地元の人間と思われたのだろうか。

しばらく行くと、バス停があった。
高柳、という名の停留所だったので、また地図を広げた。
あ、あった。 地図に高柳という地名が…。

初めて地図上で、自分の歩いている場所を知ることができた。
いま僕が歩いている道は県道129号で、閖上港線という名称がついている。
「閖上」 とは難しい地名だけど、 「ゆりあげ」 と読むそうである。
この道をそのまま歩いて行けば、閖上大橋というところで名取川を渡れる。

すでに12時を回っていた。 空港を出発してから、3時間近く経っている。
歩きながら、パンを食べ、水を飲んだ。
なぜか道路脇に座って落ち着いて食べるという気にはなれなかった。

やがて閖上 (ゆりあげ) 大橋の手前まで来た。

道路の真ん中に立って車の交通整理をしている警官が3人ほどいた。
僕は歩行者だから関係ないだろうと思い、そのまま通り過ぎようとしたら、
女性の警官が、「どちらへ行くのですか?」 と訊いてきた。
先ほどの自衛隊員風の若者とは違い、険しい顔つきだった。
僕は、閖上大橋を渡って仙台市若林区に入るつもりだと言った。

「この先は、関係車両以外、行けません」 と女性警官がきっぱり言った。
僕はその気迫に呑まれた。
それなら、と、左側に行く道があったので、
「じゃあ、そちらの道を行きます」 と言うと、
「その先は通行止めです」 と、また、きっぱりと言われた。

僕は途方に暮れた。 
「では、この道を引き返すしかない…ということですか?」
という僕の言葉に、女性警官は、そうだ、とうなずいた。
「でも、空港から歩いて来たので、名取駅への行き方が…」
よくわからないまま歩いて、また、どこかで道に迷うかも知れない。

「この道をまっすぐ戻れば名取駅に出ます。 歩きでは大変でしょうが」 
と女性警官はそう言い残して、交通整理に戻って行った。

まっすぐ戻れば名取駅…。
今朝、僕は仙台から電車で名取駅まで来て、そこからバスに乗った。
バスで仙台空港まで来て、そして道に迷いながら、ここまで歩いてきた。
だから、名取駅は知っているけれど、そこまでの距離が不明である。

地図を見ると、確かに名取駅への道は一本道でわかりやすかった。
しかし、現在地からはずいぶんと遠い。 

本来なら名取駅へ行く路線バスが走っている道路である。
バス停があるのだから、間違いない。
しかし、現在そのバスは運行されていない。 
つまり、名取駅まで、何の交通手段もないのである。

バス停に、名取駅までの停留所名がすべて表示されていた。
僕はそれを 「ひとつ、ふたつ」 と数えてみたら、全部で12あった。
名取駅まで、バス停が12ヵ所もあるのだ。 
この地域のバス停からバス停までの距離は、結構長そうだ。
それを12ヵ所通過して行かなければならないと思うと、急に足が重くなった。
引き返す…というネガティブな思いが気力を奪い、よけいに疲労感を強くした。

でも仕方ない。 すべて自分の責任である。
ここまで歩いて来た道を、またトボトボと戻り始めた。

スニーカーではなく、頑丈な登山靴を履いてきたのが逆効果となった。
気力が萎えたとたんに、この登山靴の重さが気になってきた。

僕の神経が正常だったのは、ここまでだった。 

僕の中で、何かが、キレてしまった。

  

 

 



 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

    
 名取駅が近づいて来ると、コンビニも営業していた。 

                                          

 

                

 

 

 

 

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宮古 釜石 気仙沼

2011年05月25日 | 旅行

高校生の頃から東北にあこがれていた。
大好きだった 「おくのほそ道」 の影響もあった。
太宰治にも、大きな影響を受けた。

20歳の時に自転車で放浪の旅に出たのも、東北へのあこがれからである。
このとき、往路は日本海側を走り、復路は太平洋沿岸を走った。

しかし、八戸からは三陸海岸を通らず、盛岡、花巻、一関の国道4号を走った。
そして、一関から石巻に入り、仙台湾を下って松島、仙台、岩沼、相馬と、
今回の大震災で甚大な被害を受けた地域を走った。

そして、沿岸部である国道6号を走った。

相馬では、食堂でご飯を食べていると、見知らぬおじさんが
「おお、君じゃないか。いま、ここを走っているのかね」
と声をかけてきたのに驚いた。
青森の八戸の時計屋さんで何泊かお世話になったとき、僕と会ったそうなのだ。

相馬から南下して、原町というところで、また食堂に入った。
ここでカレーライスを注文した僕は、生涯忘れられない思い出を得た。
ここのカレーライスに入っている肉の多さにびっくりたまげたのだ。
お皿からはみ出るほど、ゴロゴロとカレー肉がご飯の間や上に乗っていた。
常にひもじい思いをしていた僕は、このカレーの肉への感激が、今も忘れられない。

そして、いわきで泊まったユースホステルでは、知り合った女の子が、
僕が早朝に自転車で出発する時、伊豆の踊り子のラストシーンのように、
姿が見えなくなるまで、屋上から手を振ってくれたことも忘れられない。

今回の震災報道で、相馬や原町、いわきが映ると、そんなことを思い出す。

福島に最初の原子力発電所ができたのは、その2年後のことである。

 

       
       20歳の時(1969年)に走った東北のコース (復路)


2年前、60歳で定年になり、妻と2人で青春18切符を使い、東北旅行をした。
このときも、東京から常磐線に乗り、水戸~いわき~原町~相馬~岩沼
~名取~仙台と通過した。
その日は仙台で1泊し、翌日は松島を巡り、平泉から、盛岡へ行った。

このときも、自転車旅行の時と同様、三陸海岸は通らなかった。 
なかなかチャンスに恵まれなかったのだ。

 ♪  みなと~、宮古・釜石・気仙沼  ~

森進一が歌って大ヒットした 「港町ブルース」 の良港を、いつか巡りたいと思っていた。

それが、こんなことになろうとは … 。

 

 

 

 

 

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エレクトーン教室

2011年05月16日 | モミィの成長日記

先週からモミィが駅前のヤマハ音楽教室に通い始めた。毎週火曜日、午後4時半から約1時間。 幼児教室2年間のコースである。

それに先立ち、教室の斡旋を受けて、エレクトーンを購入した。以前にも書いたけれど、お値段は20万円。途中で辞めるな~んて言わないでよ、モミィ。

先月に体験レッスンというのがあり、僕と妻の2人が付き添った。何人かの幼児が来ていて、横にそれぞれママがついている。始まる時、講師の女性の方が僕たちを見て、
「あ、おひとり、モミィちゃんの横に座ってあげてください」
そう言うと、妻が僕に「お願い、行ってよ~」という目をした。仕方なく、僕がエレクトーンの前に、モミィと並んで座った。妻は、後ろの見学用の椅子に座って、僕たちを見ていた。

ということで、
いつのまにか、僕がモミィのエレクトーン教室係になってしまった。

そして先週の火曜日の午後4時半。大雨が降りしきる中、合羽を着せたモミィを自転車に乗せ、教室のある駅前のビルへ走り、第1回目のレッスンに臨んだ。

「は~い、みなさ~ん、はじめましてぇ」 
と、中年の女性講師の先生が笑顔でごあいさつ。

教室を見渡すと、モミィを含めて7人の幼児がレッスンを受ける。横に座っているのは僕以外はみんなママである。中には2~3歳の小さな子を抱きかかえて座っているママもいる。

レッスンが始まった。といっても、すぐにエレクトーンのふたをあけて鍵盤を叩くってことはしない。

「ぷらいまりー1」  というテキストの最初の曲 「だいすき!」 という歌を全員で合唱する。 その前にCDがかかり、続いて先生のエレクトーンの伴奏で、合唱に入るのだが、その際は 「お母さん方もごいっしょにお願いしま~す」ということで、子どもたちにまじって、大人たちも合唱に加わるのだ。お母さん方 … ってなぁ。まぁ、いいけど。

ちょっと恥ずかしいけど、そうも言っていられない雰囲気である。

♪ なんてすてきなんだろう いっしょにきいてるだけで こころにきぼうが~♪

という歌だけど、不幸なことに、僕はこの歌を知らない。

体験レッスンの時にもらった簡易テキストとCDに、この歌が入っていた。だからモミィは事前に家で聴いていて、この歌を知っていたけれど、僕はダメ。細川たかしや沢田研二なんかの歌謡曲なら、目をつぶっていても歌えるのに。こういう歌は、カラオケでも歌ったことないしなぁ (当たり前やがな)。

曲を聴きながら音符つきの歌詞をにらみ、それに合わせて何とか合唱に加わる。横でモミィが、大きな声を張り上げて、「ららら だいすき~ ららら…」 と、外れた音程で一生懸命に歌っている。やっと歌が終わって、ふう~っと大きなため息が出た。脈拍が乱れそうである。

「はい、では次に 『しゅっぱつ ぷらいまりー』 のページをあけてください」
はぁ? それって、どこ? どこ…? 何ページ
僕はキョロキョロ周囲を見て、他のママたちがそのページをあけているので、「え~っと、どこでしたっけ?」  と、近くのママに尋ねる始末。それを見て、先生が 「大丈夫ですかぁ…」 と心配して声をかけてくれる。

ようやくページが見つかったときには、先生はもう次のことを言っている。
ということでね、み~んな、このロケットのシールをここへ貼ってみようね」

「ん…? ロケットのシール…? どこ…? ロケットのシールってどこ…?」
先生がまた「大丈夫ですかぁ…」 と心配そうに声をかけてくれる。
「あ、すみません。 そのシールは、どこにあるんですか?」と僕はアセる。
「この本の、一番後ろのページにあります。それを、貼ってくださいね」
他のママたちは子どもに指示をして、すでにシールは貼り終わっている。

あぁ、僕だけがついて行けず、みんなの足を引っ張っているのである。                                        


「できましたかぁ。 じゃぁね。 み~んな、前に出てきてくださ~い」
子どもたちだけがぞろぞろと前に出る。そして、自分たちの名前を言って自己紹介をしていく。このあと、まさか、保護者の自己紹介なんて、やらないだろうなと、心配したが、それはなかった。 やれやれ。
 
それからようやくエレクトーンのふたを開け、スイッチをONにする。ドレミのドの位置を覚える練習だ。
「はい、ド・ド・ド~」 
「もういちど、はい、ド・ド・ド~」
先生の声に合わせて、子どもたちはドの位置をポンポンポンと叩く。

そして次は音楽が流れ、そのある部分が来ると、「はい、ここで、ド・ド・ド~と押します」 と説明を受け、音楽を聴きながら、その部分が来るとモミィに、「はい、ド・ド・ド~」 と言って、ドの鍵盤を叩かせる。

そのほか両手の指の動かし方など、いろいろなことをした1時間であった。ず~っと嬉しそうな顔をしていたモミィより、僕の方がはるかに疲れた。

付き添い、というから、横で座って見ているだけでいいのだと思っていたが、そんな気楽なものではなく、僕自身がレッスンを受けているかの如くである。うっかり聞き逃すと、たちまちわからなくなり、モミィに指示をしてやれない。

レッスンが終わった時、先生がニコニコしながらやって来て、
「これからもずっとパパが来られるのですか?」 
と、僕に尋ねた。パパ ??? 
しかし、すぐにはそれを否定しない僕であった。

「ええ、そうです。僕が毎週来ます」 と答え、「でもね~、ちょっと、ついていけませんね~」 と苦笑いした。
「まぁ、そんなことおっしゃらないで」 と先生はさらに目を細め、「何でも構いませんので、ご遠慮なく聞いてくださいね」 と言ってくれた。

教室を出るとき、僕は先生を呼びとめ、耳元でささやいた。

「あのね。僕はパパではありません」
先生は、「はぁ…?」 という顔で僕を見た。
「僕は、パパのパパなんですぅ」
「え~? あらぁ、まぁ、お若いのに
「シーっ。 内緒、ですよ」 
と僕は人差し指を自分の口に立てた。

先生は大笑いし、僕もゲラゲラと笑った。

 …………………………………………………………………………

明日はまた火曜日。 2度目のレッスンの日だ。この1週間は、僕もテキストに目を通したり、エレクトーンの説明書を読んだり、レッスン中に戸惑わないように、今度はそれなりの予習をして臨むつもりだ。

もちろんモミィにも、毎日CDを聴かせ、エレクトーンのドの位置の練習をしたりと、次回に備えて、いろいろと慣れさせることを重点的に復習・予習をさせている。

夕飯を終え、モミィが妻とお風呂に入るまでの間、最低30分間は、毎日、エレクトーンに関する練習に時間を費やすことにした。

また新しい日課がひとつ増えた。

 

 

 

 

 

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ともだち ~ 奥さんからの手紙 ~

2011年05月14日 | 思い出すこと

5月7日。 高校時代の親友 Kが6年前に亡くなっていたという話を、
このブログに掲載したあと、僕はすぐに、Kの奥さんに手紙を書いた。

Kという男が、もうこの世の中にいない、ということが、ピンと来ない。
自分としては、そのうち会えるわと、のんびり構えていたことを後悔している。
でも、Kの思い出を楽しそうに語る奥さんを見て、何となく安堵感を覚えた。
いい奥さん、いい娘さんたちに見送られて逝き、今も懐かしんでもらえる。
Kはつくづく幸せ者だと思った。
人は、長く生きるだけで幸せを得る…とは限らないから。

そういうことを、思いつくままに書いた。

そして、その日のブログ 「ともだち」 も印刷して、同封した。

それと、高校時代、Kと2人でハイキングに行ったとき、
セルフタイマーで撮った2人の写真も1枚入れた。

数日後、すぐに奥さんから返事の手紙が届いた。

Kの様子をもっと早く知らせるべきだったのに、当時は心のゆとりがなく、
残念で、後悔しています … と冒頭に書かれてあった。
しかしそれは、連絡をしなかった僕の方にも言えることであった。 

奥さんは僕のブログを読まれ、Kと僕との高校時代のエピソードに、
「主人らしいなぁと思うエピソードですね」
「私もそこに居合わせているような風景でよみがえります」

「思わず吹き出してしまいました」
と、感想を述べられていた。

「生前、主人の楽しかった思い出話の中に、必ずのんさんの名前が出てきました」 
とも書かれていたが、わが家でも、高校時代の思い出話をするときには、
必ず Kとふざけていた時のことを、面白おかしく妻に話したものである。
同じようなことが、2つの家庭で展開されていたのだなぁ、と感慨深い。

また奥さんの手紙には、Kにはいつまでも少年のようなところがあったけれど、
僕にもきっと Kと同じようなところがあるのでしょうね、とも書かれていた。
… そのとおりです。 僕は今でも、子どもみたいなところが、いっぱいあります。

「先日、お会いした時、いい年の取り方をされているなぁ、と感じました」
との奥さんの文面には、少々戸惑った。 うむ。 いい年の取り方 … なぁ。
こういうことを言われたのは、初めてである。

僕が同封した写真については、
「高校時代の主人の写真を見ると、孫の顔とそっくりでびっくりしています」
… とあった。 へぇ、そうなんだ。 写真を送って、
よかった。

「お体に気をつけて、早く逝った主人の分まで、
 これからもいろんな事に挑戦していってください」

最後に、そう締めくくられていた。

何度も繰り返して手紙を読んだ後、折りたたんで、封筒に戻した。

封筒の表の宛名が、涙で、にじんで見えた。

 

 

 

 

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震災対策副本部長がゴルフ

2011年05月11日 | 議会&役所

今年2月ごろの話だけど、僕が以前勤めていた松原市議会で、
市議会議員の不祥事が問題になり、そのことが新聞に載った。

それは、某ベテラン議員が、議会の委員会を欠席して、
ゴルフ旅行に出かけていた、ということが発覚し、
不謹慎だと非難を浴びた…というような記事だった。 

この議員は、過去に議長経験もあり、もちろん僕もよく知っている。
「あの人のやりそうなことやな」 と、新聞を見た時、僕は思った。

議員としての公務の大切さを、あまりわかっていない人であった。

この議員が議会運営委員長をしているとき、議会事務局の僕に、
自分は何日から何日まで、どこそこへゴルフに行くんで、
議会運営委員会の通常の日程を、変更してくれないか、
…という要請があったとき、僕は、
「何を言うてはりますねん。 ゴルフで委員会の日程変更なんか、あきまへんで」
と言って、断ったことがあった。

議員という人種はなぜこんなにもゴルフが好きなのか、不思議である。

 ………………………………………………………………………

議員とゴルフといえば、まさに今、この問題に触れなければならない。

あの、石井一という民主党の副代表には、はらわたが煮えくり返る思いだ。

日本が未曾有の大災害に襲われ、混迷をきわめているこの時期に…
「日本・フィリピン友好議員連盟」 とやらでフィリピンへ行き、
そこで現地の経済人らとゴルフをしていたというではないか。

石井一は、今回の東日本大震災対策本部副本部長なのである。

あきれてものも言えない…とはこのことだ。

万を超える死者を出した災害で、数多くの肉親を亡くされた遺族の皆さんや、
つらい避難所生活を強いられている人々の気持ちを、まさに踏みにじる行為だ。
よくもまぁ、今、こんな時期に、ゴルフをやろう … という気になれることだと思う。

国会議員なんぞに国を任せることはできない … と言われて当然だ。

こんな低俗な人間が震災の対策本部の副本部長とは、
いかに民主党の政府首脳がアホ・バカたちの寄り集まりか、
これひとつみても、十分にわかろうというものだ。

石井一は、現地で取材しようとする報道陣に向かって、威圧的な態度で、
「内緒で来とるんやから、撮るなよ。 つまらないことを報道するなよ」
などと、ぬかしておった。 
そのシーンがそのままテレビニュースに映し出されていた。

各方面から非難を浴びた石井は、「迷惑をかけ議会人として反省している」
などと謝罪を口にして、震災対策副本部長は辞任すると表明した。
しかし、辞任表明させる前に、党の上層部は石井を即刻クビにすべきだった。
政治家たちの、あれもこれも … まことに情けない連中ばかりである。

たが、そのあと石井の言ったことがまた腹立たしい。
「ゴルフだったら悪いのか…? じゃぁ、テニスだったらいいのか…?
 水泳だったらどうなんだ。 いいのか…?」 

自分は間違ったことはしていない、という恐るべき開き直りであり、
反省など、これっぽっちもしていないことは誰の目にも明らかである。

そして、民主党の副代表の方は辞めないという。 

しかしこれは石井ひとりの問題ではないだろう。
 
こういう人間が、現に存在するということは、
政府首脳たちは、大なり小なり、今回の大災害に対して、
この程度の認識しかないのではないか、と思いたくなる。

本当に、この民主党という組織は、いったいどうなっている…?

 ………………………………………………………………………


5月8日の朝日新聞に、主な被害状況が掲載されていた。
各被災地の死者、行方不明者、避難者の数、住宅倒壊数などである。

この数字は各県の発表であり、実態の不明なところがまだまだ多い。

たとえば、宮城県の南三陸町の場合である。

元々この町に住んでおられた町民約1万8千人のうち、
約5740人が避難。 508人が死亡。 約660人が行方不明 …とある。

この数字を見ていると、町民約1万8千人から、避難者、死者、
行方不明者の合計数を引いても、まだ1万1千人以上の数が残る。

この人たちは、どこへ行ってしまったのか…?

政府は相変わらず原発問題一辺倒だけれど、
こういう被災地の実態の調査・解明に、もっと力を入れてほしいと思う。

それにしても、こんなときに震災対策副本部長が外国でゴルフとは…

重ねて言うが、信じられないような自覚のなさである。
歳費 (議員の給料) をさっさと返して国会議員を辞めろ、と言いたい。

国民の大切な税金がドブに捨てられているようなことを、
このまま見逃しても良い、な~んてことは、誰も思わないはずだ。
 

 

 

 

 

 

 

 

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くたばれ ガンマ・中性脂肪

2011年05月10日 | 心と体と健康と

2ヶ月に一度、不整脈をはじめ糖尿病、尿酸値、肝臓数値など、
わが体内に潜む異端分子たちの暗躍状況を調査・検分するため、
松原市の徳○会病院に通っている。 昨日がその検査日だった。

不整脈は薬の調節が奏効して、まずまず順調に経過している。
しかし飲み過ぎると、その夜に不整脈が出ることが間々ある。

昨日の検査結果で最も問題があったのは、肝臓の数値だった。
ガンマ、すなわちγGTPが、約1年ぶりに高い数値にはね上がった。

肝臓はアルコールを分解し、無害な物質に変えて全身に送り出す。
しかし飲む量が多いと分解しきれず、アルコールは全身をめぐる。
これが脳や神経に作用して、働きが鈍くなり、酔うわけですよね。

γGTPの数値というのは、肝臓がアルコールでダメージを受け、
肝臓の細胞が死んでいくと、そのぶん数値が上がるそうである。

僕の場合、これまで、禁酒や節酒をすると数値が下がっていた。
だから、アルコールによる肝障害であることは、ほぼ間違いない。

こんなことを繰り返していると、やがて禁酒をしても治らなくなる…

5年前に、不整脈が止まらず、深夜に病院に転がり込んだとき、
当直の医師だったのが、今の循環器科の○井医師であった。
それ以来、定期的にここへ通い、身体のチェックをしてもらっている。

この日、ふだんは意見がましいことは言わない○井先生が珍しく、
「アルコールは不整脈の発作の原因にもなっているようですし、
 糖尿病も治ったわけじゃないし、肝臓の数値も高いですね。
 いわゆる生活習慣病には、十分気をつけて摂生されることが大事です」
と言った。 肝に銘じておかなければならない。

それ以外にも、今回の検査で初めて中性脂肪が基準を超え、高い数値を示していた。

今月に出場するつもりだったマラソン大会が、開催地の震災被害のため中止となり、
数ヶ月間なんとか継続してきたジョギングの習慣が、震災を境に、途絶えた。
コスパの水泳へも、行かない日が増え、ウオーキングもほとんどしていない。
明らかに運動不足である。
それなのに、相変わらずビールやチューハイは飲み続けている。
食事時の飲む量が増えると、知らず知らず、食べる量も増えている。

震災被害のニュースばかり見ていると気分が塞ぎ、生活リズムが暗転する。
生活リズムが狂うとついアルコールに依存する…相変わらず弱い性格である。
これまで気がつかなかったが、この1ヶ月半ほど、やはり酒量が増えたようだ。

これでは肝臓も悪くなるし、中性脂肪だって増えるだろう。
しかし、中性脂肪が基準を超えたというのは僕の健康診断史上、初である。

打倒 γGTP!
くたばれ 中性脂肪!

これを果たすには、運動量を増やし、アルコール量を減らすのみ。

次回の検査&診察は7月25日である。 あと2ヶ月あまり。
この日までに、γGTPも中性脂肪も、やっつけてしまわなければならぬ。

 

 

 

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ともだち

2011年05月07日 | 思い出すこと

高校時代、K という、飛び切り仲の良い友人がいた。
僕が通った高校は私学の男子校で、3年間クラス替えがなかった。
だから、その友人ともずっと同じクラスで、3年間、毎日のように交友を重ねた。

まず、趣味がよく合った。
お互いにハイキングが好きで、年中、毎週のように六甲山へ歩きに行き、
連休の時などは、キャンプで1泊したことも何度かある。

僕が、自転車で京都へ行こうかと誘うと、「ええで」 と乗ってくる。
当時の、変速機も何もない普通の家庭用自転車で、大阪~京都を往復した。

彼は時々、僕の家にも遊びに来た。
彼がわが家の小さい風呂に入ったときのこと。
シャンプーを切らしていたことに気付き、僕が風呂の外からKに、
「おまえ、頭は何で洗うてんねん?」 と聞いてみたら、
「そら、手で洗うてるに決まってるやないか。 タコやあるまいし、足で洗えるかいな」
と、大きな声で答えたものだから、裏にいた隣家のおばさんたちに聞こえたらしく、
「この子らおもしろいわ。 漫才みたいなこと言うてるで」 とケラケラと笑っていた。

そんなふうに、僕たちの会話は、いつも漫才だった。
彼がボケで、僕が突っ込み、という役どころだった。

とにかく、ハイキングへ行くときも、2人でふざけっぱなしだ。

あるとき、バスに乗っていて、降りるところが近づいてきた。
僕が席を立ち、運転席の後ろまで行き、棒をつかんでいると、
そこへ後ろから片手がグイと伸びてきて、僕が持つ棒の上の方をつかんだ。
Kの手だ。 よし驚かせてやろうと、その手の指を、僕はカリっと噛んだ。
「痛い!」 と声を上げたのは、Kではなく、見知らぬおじさんだった。
「あれぇ?」 と思って振り向くと、Kはそのおじさんの後ろに立っていた。
「何すんねん、ほんまに」 とそのおじさんは、怒るというより、気味悪がった。
「すんません、すんません」 と平謝りの高校生を見て、アホらしくなったのか、
そのおじさんは、「けったいなヤツやで…」 と言いながら、バスを降りた。

この話を思い出すと今でも笑ってしまう。 人に言うと、さらに大爆笑される。

また、僕たちは2人とも、日曜日夜のテレビ 「シャボン玉ホリデー」 が大好きだった。

父親のハナ肇が病に伏しているところへ、双子の娘のザ・ピーナッツがやってきて、
「おとっつぁん… 元気を出してね」と慰める、毎週定番のあのコントがなつかしい。
「お前たち、いつもすまないね~」と、今にも息絶えそうな震え声でハナ肇が礼を言う。
「そんな…、おとっつぁん、水臭いこと言わないで」と、思わず涙を流すザ・ピーナッツ
哀愁に満ちた音楽が、バックで流れ、しんみりとした空気が漂う。 
…と、そのあと、いきなり爆笑ギャグが展開されのである。

あぁ、これを知っている人って、今はめっきり減ってしまっただろうな~。

植木等の「お呼びでない…? こらまた失礼! どひゃ~ん」
…というのにも、毎週お腹を抱えて笑っていた。
僕がテレビの前でひとり大笑いをしていると、父と母は顔を見合わせ、
「何がそんな面白いねんやろ。 けったいな子やなぁ」 と僕を眺めていた。

「シャボン玉ホリデー」 の翌日の月曜日は特に、K と会うのが楽しみだった。
教室で顔を合わせると、お互いに開口一番、
「見たか~、見たか~、きのうのアレ」 と、2人でコントを再現する。
そして、「げへへへへへ~」 と大笑いする。
それが、月曜日朝一番の最大の楽しみであった。

  …………………………………………………………………………………

そんな漫画みたいな3年間を終え、僕たちは卒業した。
卒業後、しばらくして、Kは大阪市内のとある駅前の、
自宅で営んでいた洋傘店を継いだ。

僕が学生だった頃、よくその店を訪ねて行った。
Kは、「お、よく来たな~」 と喜んでくれ、いつも近くの喫茶店に誘ってくれた。

Kが結婚したとき、奥さんと2人でわが家に遊びに来てもらったことがある。
奥さんは活発な明るい人で、しっかりしておられるなぁ、という印象だった。
どこかとぼけた味のある K とは対照的で、バランスのとれたいいカップルだった。

やがて僕も就職して家庭を持ち、会う回数も減り、年賀状のやり取りが主となった。

年賀状といえば、思い出すのは、1995年に僕がパリへ行ったとき、
早朝、エッフェル塔を背景にジョギングしている写真を、同行の人に撮ってもらった。
その写真を年賀状に使ったのである。 誰が見てもエッフェル塔だとわかる写真だった。

しかし、翌年、K から来た年賀状には、
「去年の、通天閣をバックに走っている写真はなかなかよかったね」 と書かれてあった。

そして次の年、僕はKへの年賀状に、
「あれは通天閣やおまへんがな。 おフランスのパリのエッフェル塔でっせ」 と書くと、
さらに次の年、Kからの年賀状には、
「あれは、どこから見ても通天閣やで」 とまたまた書いてきたのである。

4年がかりで、僕とKが交わした「会話」だった。

やがて彼からの年賀状が来なくなり、僕たちの交友も途絶えた。

 ……………………………………………………………………………………

ことし、大型連休の初日だった4月29日は、いいお天気に恵まれた。
僕と妻とモミィは、大阪市内の公園へ遊びに行こう、と電車に乗った、

降りた駅が、偶然にも K が出している洋傘店のある駅だったことを思い出した。

あ、そうそう。 K とはもう10年以上も音信不通である。 
元気にしているのだろうか、と、急に顔を見たくなった。

「ちょっと待っといて。 K の店をのぞいて、びっくりさせてやってくるわ」

…と、妻に告げて、駅前の商店街の一角にあるKのところへ走った。
シャッターが下りていることなく、すっかりお洒落になった洋傘店があった。

こんにちは~と店に入ると、奥で女性が向こうを向いて書き物をしていた。
「あ、いらっしゃいませ」 と女性が振り向く。
「あのぉ…」 と、その女性を見て、遠い記憶がよみがえってきた。
K の奥さんである。

「わたし、K 君の高校時代の友人の…」
とまで言ったら、奥さんは目を丸くして、
「あらぁ、○○さんですよね! いやぁ、お久しぶりですぅ」
そう言って、こちらへ飛んできた。

「主人から、あなたのお話は何度何度も伺っていました」
と、奥さんは懐かしむような目で、僕を見つめ、
「年賀状もいただいていたのに、一度お手紙を出さなくてはと…」
と、話を続けたのであるが、僕が一番聞きたいのは…
「あ、それで、K は…元気にしていますか?」 ということだった。

しかし、奥さんの話は、どこかおかしい…と思った。

「主人は、6年前に亡くなりました」 と聞かされたのは、その直後だった。

「は…?」
「胃がんだったんですけど、最後まで痛がらずに、すーっと、眠るように…」

言葉が出なかった。

でも、奥さんは、6年の歳月が癒してくれたのか、楽しそうに K のことを話した。
そして、店の隅の棚から写真のアルバムを出してきて、
「亡くなる10年前から胃がんを宣告されて、病気と闘う生活でした。
 でも、その10年間で、思い切り旅行もしましたし、楽しかったですわ」

6年前に亡くなり、その10年前からがんを宣告されていた…
ということは宣告されたのが16年前で、例のエッフェル塔の年賀状を出した年だ。

 …………………………………………………………………………………

Kは、病気と闘いながら、「あれは、どこから見ても通天閣やで」
などと、年賀状に書いていたのか…。 

ちょいと店をのぞいて、「おい、K よ、僕や。 びっくりしたやろ」
と驚かせ、 そのあと 「お呼びでない…? お呼びでない…? こらまた失礼!」
と、ギャグを飛ばしてやろうと思っていたのに…。

K よ。 ちょっと早いこと、逝き過ぎたんと違うか…?

それからな。 あの年賀状の写真は、ほんまに、通天閣と違うねんで。

 

 

 

 

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キタやミナミや阿倍野橋

2011年05月05日 | 日常のいろいろなこと

 
                                     ( 5日の朝日新聞より )

 
4日にグランドオープンした 「大阪ステーションシティ」  へ行ってみましたが…

   

大型連休という言葉は、退職した僕にとっては、今や実体の伴わぬ死語に等しい。

しかし、モミィは幼稚園が休み、世間もほぼ休みで、確かに空気がいつもと違う。

曇りがちだった3日、モミィはパパの高校時代の友人の畑へイチゴ狩りに招待されて、
真っ赤に熟したイチゴを摘み、友人のお母さんが作ってくれたおにぎりを頬張っていた。



   

 

        

 

その頃、僕と妻はここをチャンスとばかり、モミィのいない間に阿倍野へ出かけた。

長い間、近鉄百貨店の西側の向いの地区は、スラムに近い密集地帯だった。
その地域を、長い期間をかけて大規模開発され、この4月26日に商業施設がオープンした。
「キューズモール」 という施設である。 そこを見てみようということになったのだ。

 同モールのHP →  http://qs-mall.jp/

施設の説明によると…
関西初出店となる10代後半から20代前半をターゲットにした、
レディスウエアを中心に、35店舗で構成された「SHIBUYA109ABENO」。
日本最大級の総合手芸材料専門店 「ABCクラフト」。
キッチン&ヘルスビューティー  「東急ハンズ」 。
大阪市内初出店の地域密着型総合スーパー 「イトーヨーカドー」。
ライブホールにカフェなどを併設した「ROCKTOWN」。
巨大クレーンを操作できるキッズアトラクションを併設した「セガ」 など。

また、飲食では、和洋菓子専門店12ブースが集積した「おやつギャラリー」。
有名たこ焼き・ラーメン店など11店舗がそろうフードコート「キューズ kitchen 」。
辻製菓技術研究所が展開する全国初の教育コンセプト型
スイーツショップ 「P.L.T. (パティスリー・ラボ・ツジ) 」。
ドーナツ 「クリスピー・クリーム・ドーナツ」 など。

…ということだ。
まあ、若い人向けだろうけれど、イトーヨーカドーやフードコートもあるので便利だ。

久しぶりにモミィ抜きの夫婦だけで、阿倍野の新施設を見に行ったわけだが…
オープンしてまだ間もない時期のうえ、連休が重なったので、大賑わいであった。
キタ(梅田)やミナミ(難波)に比べると、人の数では及ばない阿部野界隈だけれど、
この日は違った。 地下鉄や近鉄の駅からあふれ出てくる人、人、人…。
あまりにすごい人ごみに、こういうのがニガテな僕は、アップアップする。
まだ午前11時過ぎだというのに、広いフードコートはすでに超満員。
レストラン街にもずらりと若い人たちが並び、順番を待っている。

僕は行列に並んでまで食事をすることなど、できないタチの人間だ。
他に食べる所がなく、やむなく並んだのは、東京ディズニーランドの時だけ。

この様子ではどの店も超満員だろうと諦め、JR天王寺駅方面へ歩き、
駅の隣にある M I O のビルに入り、11階のレストラン街へ行った。
さすが~ここには行列はなく、 「ハゲ天」へ入って天ぷらでビールを飲んだ。

    ………………………………………………………………

翌4日は朝から天気予報で 「今日は絶好のお出かけ日和です」
なん~て調子で、視聴者に 「ささ、どこかへお出かけなさい」 とそそのかす。

今日のモミィはフリーである。 何の予定もない。

最近、モミィはプリキュアのDSや 「トムとジェリー」 のDVDに凝っており、
今日はそれらを楽しみたかったようだったが、お出かけ日和に家ごもりはよくない。
視覚、聴覚、脳細胞などを刺激するためには、やはりお出かけが大切である。
(僕は、本当は1日中ごろごろして本でも読んでいたいのだけど…)

「どこへ行きたい?」 と聞いたら、モミィもよくわからないみたいだ。
「どこ~って? どんなとこ…?」
「何か、食べに行きたいところでもある…?」 と質問を変えてみたら、
「う~ん。 スイーツパラダイスへ行きた~い」 と言い出した。

げっ。 スイーツとは…。 僕の一番弱い分野である。
しかし、今日はモミィの言うことを聞いてあげよう。

梅田のスイーツパラダイスへ行くことにした。

折も折。
大阪の新しい玄関口「大阪ステーションシティ」が、今日、グランドオープンする。
関西ではこのところ毎日、新聞やテレビでこれが大々的に報道されている。

         http://osakastationcity.com/

昨日行った阿倍野のキューズモールは、オープン後1週間も経っていたのにあの人出だ。
新しい大阪駅周辺は今日がオープンの日で、規模でも人出でも、昨日の比ではないだろう。
行列嫌い、人ごみ嫌いの僕は気が進まないが、少~し現場の雰囲気を感じてみたい気もする。
目的が 「スイーツパラダイス」 なので、それを思うとまた腰が砕けてしまいそうだけど。

さて、地下鉄東梅田駅で降りて歩き出すと、人の数が、それはもうあきれるほど多い。
いくら大阪の玄関口とは言え、これほどの人の数を見たことがあるだろうか。
早くも息がゼイゼイハアハアとなりかけていた。

地下街の曽根崎署の左側の通路をぞろぞろと、流れにまかせて進んで行く。
両脇に多くの居酒屋があり、大勢のお客がカウンターでビールを飲んでいる。
まだ、お昼の12時にもなっていないが、1人で3本も4本も瓶を空けている人もいる。

それを横目で見ながら歩き、外へ出て、ヘップファイブというところにあるはずの
「スイーツパラダイス」を探す。
細い道を入って行くと、それ
はすぐにわかった。
ずら~っと若い女の子たちが長蛇の列をなしていたので、あ、ここだと思った。
「スイーツパラダイス」 はビルの2階にある。
それが、1階入り口から外の歩道まで列がはみ出しているということは…

とりあえず、最後列に並んだら、店の男性がすぐ前の女性に、
「最低で1時間は並んでお待ち願わなければなりません」
「時間予約は、3時からの分でしたらご予約できますけど」
と言ったので、後ろでそれを聞いていた僕たちは顔を見合わせた。

「1時間以上、待つんやで~」 と言う僕に、モミィは、
「ええよ。1時間、待ったらいいやん」 とこともなげに言った。
まだ1時間という時間の長さが、はっきりわかっていないのだろうか。

うむ。冗談やないで。僕がショートケーキやゼリーを食べるために、
こんなところで1時間も待てるはずがありませんがな。
…と、列を離れた。 モミィも、それ以上は言わなかった。

本日オープンした 「大阪ステーションシティ」 を遠目で見ながら、
周囲の、あまりにすさまじい人込みに恐れをなした僕は、
とりあえず地下鉄に乗って、もっと人の少ないところへ行こうと決めた。

「ビックラポンのお寿司でもええよ」 と椛が言ったので、
結局、ナンバの中心部から歩いて10分ぐらいの中途半端な場所にある
「くら寿司」 に入って、ようやく一段落した次第である。
ここは、僕がシティウォーキングをするとき、一人でよく入る店なのだ。
やれやれ…。
梅田の喧騒が、ここへ来ても、まだ耳の中でこだまのように響いている。
(こだまなんだか、耳鳴りなんだか、よくわかりませんけど…)。

「スイーツパラダイス」 が 「くら寿司」 に変わっても、モミィはご機嫌で、
大好きなタコと鉄火巻きとウナギを自分でタッチパネルで注文し、
そのあとまたタコを注文して食べてから、デザートを注文した。
モミィのお楽しみ、「ビックラポン」 は、残念ながら全部 「はずれ」 だった。

僕は、店の冷蔵庫のビールを自分で取りに行き、栓を抜き、グビッと飲む。
あぁ、疲れたぁ…と言って、また1本。 まだ1時過ぎだった。

そこを出て、ナンバの道頓堀などを歩いて(モミィはこの歳にしてはよく歩く)、
再び地下鉄に乗り、前日に行った阿倍野の 「キューズモール」 へ、
2日続きでまた行って、3人で雑踏の中を歩いた。

フードコートは、前日からさらに人の数が増え、あちらこちらで長い行列。
もう、とにかく、どこもかしこも、行列、行列、行列ばっかりである。
みんな、こういう新しいところが好きだから、ドド~ッと押し寄せる。
少し時間が経てば、がら空き、とまでは言わないが、落ち着くのだろう。

その時期が来るのを待って、今度はここでゆっくりしようね~
…と、モミィに言って、次は3時のおやつの時間が迫ってきたので、
近鉄百貨店隣の都ホテルの2階まで歩いて行き、
そこにひっそり開いている、小さなフードコートへ入った。

モミィはキンキラ飾りのついたソフトクリーム、妻はホットコーヒー、
僕は、スーパードライを買って (う~ん。ビールばっかり飲んでるなぁ)、
「あぁ、疲れたけど楽しかったネェ」 とつぶやきながら、のどを潤す。

家に帰り着き、いつもの夕食時間の6時になっても、お腹はパンパンだった。
それでも、冷蔵庫から何やかやと有り合わせのものを出して並べ、
プッシューッとビールの缶を抜く僕だった。

「のんちゃん、ビール、飲み過ぎ~」 と
モミィが、大好きなソーメンをツルツル口へ入れながら、叫んだ。

連休なんか自分に関係ないわ…と言いながらも、
連休やからぎょうさんビール飲んでもええやろ…

などと、相変わらず自分に都合のいいことばかりつぶやきながら、
体調が良くないにも関わらず、ビールをやめられない僕なのだ。

「のんちゃ~ん。 ビール、飲み過ぎやで~」 
と、モミィは、ソーメンの切れ端をアゴにくっつけて、まだ叫んでいる。



  

                     

 道頓堀久しぶりに歩いた。 どこへ行っても、この日はすごい人出だった。

 

 

 

 

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心のコントロール

2011年05月03日 | 日常のいろいろなこと

「退職したら、想像以上に生活が激変しますよ」
退職前に、何人もの人からそう言われたことを、今になって、改めて思い出す。
あれから、2年が経った。

たしかに変わった。 それも、言われたとおり、「激変」 した。
通勤しなくてよい、ということは、それだけで宇宙人にでもなったみたいだった。

今年あたりから、その 「激変」 が、少しずつ身に堪え始めてきた。
何か、作り物の世界の中で、当てもなく浮遊しているような感覚が襲うのだ。
戸惑い、ふさぎがちになり、何に対しても関心が向かなくなってきた。

そんなとき、東日本大震災が起きた。

連日、テレビで被災地の様子を見ていると、ますます人生の無常とか、
命のはかなさとか、そういうところにばかり思考が偏り、いよいよ気鬱になった。

仕事に行っていれば、職場でいろんな人たちと意見を交わすことができるけれど、
家にいると、あまり人と話す機会はない。緊張もしないし、気分もピリッとしない。

それなのに、知人からの飲み会や歩く会や、旅行のお誘いを断ったりして、
最近、何となく、他人との接触を避けたいと思う自分がいるのだ。
この錯綜した気分は、自分でもどう説明していいのか、わからない。

しかし。
被災地の人たちの生活を見ていると、これこそ本当の 「激変」 であろう。
ウダウダ言ってるような暇はない。 生きることだけに全力を尽くす毎日だ。
震災前までの平穏な人生を、根底からくつがえされた人々の、苦悩と闘い。
どれほど大変なものなのか…、とてもではないが、僕などには想像が及ばない。
そう思うと、自分の身辺の変化なぞ、取るに足らない小さなことに見えてくる。

日々、被災地の惨状を映像で見ていると、結局、僕の生活の変化の程度など、
とても激変などと呼べるほどの大げさなものではない…と悟るのである。

今回の大震災で、自分が甘ったれた人間であることを痛感させられた。
自分の感情をコントロールできず、依存心が強い。 トホホな人間である。

先日、世界フィギュアスケート女子で優勝を飾った安藤美姫さんが、
「最近、安定感が増しましたね」 とインタビューで訊かれたとき、
こう答えた言葉が、印象に強く残っている。

「今までは自分の気持ちがそのままリンク上で出てしまったけど、
 調子が悪い中でもスケートを心から楽しんで演技できるようになった。
 心のコントロールの仕方を見つけたことが大きいと思います」

心のコントロールなぁ…
何をどうしたら、その仕方を見つけられるのだろう。

 

 

 

 

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