僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

お伊勢参り

2015年03月29日 | 旅行

26・27日の2日間、家族3人で伊勢志摩へ行った。

モミィが春休みなので、どこかへ出かけなければ…
…と、妻が2ヶ月ほど前から、JTBに申し込んでいた。


お正月は東京ディズニーリゾートへ行ったけれど、
2泊3日だし、出発当日の朝も早いし、荷物も多い。
ディズニーシーとランドを2日間歩き回るので結構疲れる。

それに比べれば、伊勢志摩はずいぶん楽だ。
難波から近鉄特急に乗って約2時間。
1泊だから、荷物も少なくて済む。

初日は伊勢神宮に行って「お伊勢参り」をし、
早い目に鳥羽のホテルに入ってゆっくり温泉でくつろぎ、
2日目は、志摩スペイン村「パルケエスパーニャ」へ行く。

…そういう日程だった。


まず1日目「お伊勢参りの巻」です。


「お伊勢参りて、何やのん?」と聞くモミィに、
「昔から大勢の人が伊勢にお参りに行かはったんや」
…と、質問とまったくかみ合っていない説明をする僕。
モミィはいつも、ひと言で答えられない質問をするんだから。

そういえば、ウチの近所の旧街道(長尾街道というのですが)
の道路脇に、古い石碑の標識が建っていて、

そこに「右 いせ」と彫り込まれてある。

それぐらい伊勢は有名な場所だったのだ、と教えるが、
「そんな標識、どこにあるん?」という返事が返ってきただけ。
今度そこを歩いたとき、ちゃんと見せてやらなければ。


さて、その日の10時過ぎ、難波で近鉄特急に乗ったのだが、
JTBからもらった乗車券・特急券を見ると、
難波から宇治山田まで、とあった。

つまり宇治山田駅で降りて、伊勢神宮まで歩くわけ。

しかし列車が宇治山田の1つ手前の伊勢市駅に着くと、
車内放送で「伊勢神宮へはこの駅からが一番早いです」
と言っている。最寄の駅は、宇治山田ではなかったのか?

なんだかなぁ、と思いながら、予定通り次の宇治山田で降りた。

電車の中で、難波駅で買ったパンを少し食べたりしたが、
駅に着いたのが12時だったので、駅前で何か食べようと思った。
何か…といっても、名物「伊勢うどん」が目的だったんだけど。

ところが、伊勢参りの最寄り駅にしては賑わいがない。
駅の横に宇治山田なんとかプラザというのがあったが、
見ればほとんどの店のシャッターが閉まっている。

場末の食堂のような店が開いていて、
「伊勢うどん」と看板がかかっていたけれど、
あまりに狭く、人気(ひとけ)もないので、やめた。

仕方なく、伊勢神宮への標識のある道を歩いたけれど、
参道というものではなく、普通の道路で、店も何もない。

ガイドブックで確認すると、伊勢市駅からは参道がある。
やはり伊勢市駅での放送を聞いた時、降りるべきだった。

適当なところで右に曲がり、参道に出るはずの方へ向かった。

その途中「伊勢うどん」の看板の出た店があった。
「ここ、良さそうだから入ろう」と中へ入った。

愛想のかけらもないようなおばさんが注文を取りに来た。
みんな伊勢うどんを注文。

モミィは初めて食べる味に「おいしい」と言って全部食べた。

まあ言えば「素うどん」だけど、だしの味が良かった。

 


  
   左にチラッと見えるグラスは、ビールです。うふふ。

 

 「ごちそうさま」と言ってお勘定をするとき、
愛想のないおばさんは、僕らのお鉢に残している汁を見て、

「伊勢うどんはね、お汁がおいしいんだから、
 お汁を全部飲まないと、意味がないのよ」

…と言ったので、3人ともあわててお汁を飲み干した。

すみませんねぇ、何も知らないものですから。

「どちらからお越しです?」と聞かれたので
「大阪です」と答えてから、あ、そうだと思い、
「参道へはここから近いんですか?」と訊くと、
それまで愛想の悪かったおばさんは一緒に外に出て、
あの信号を左に曲がり、次の二又道を右へ…
…と、丁寧すぎるほど丁寧に教えてくれて、
「お気をつけて~」とにこやかに手を振った。

愛想が悪かったり良かったりと、ややこしい人である。


参道は、さすがに食堂やみやげ物屋などが並び、
それらしい雰囲気を醸し出している。

しつこいようだが、最初から伊勢市駅に降りたら良かった。


ところで、僕らは今日は伊勢神宮の外宮だけお参りである。

内宮はそこから4キロ近く離れており、バスが出ている。
でも、モミィが早くホテルに行きたいと言うので外宮だけにした。


思い起こせば、40数年前の新婚旅行で伊勢の内宮を訪れた。
五十鈴川のほとりで、妻の写真を撮ったのを覚えている。

「あれから40年!」

…とは綾小路きみまろの漫談だが、
まあ、本当に時の経つのは早いものである。

それよりまだ遡れば、小学校の修学旅行が伊勢だった。

息子も同様で、お土産に赤福もちを買ってきてくれた。

「昔は修学旅行は伊勢やったなぁ」とその話をすると、
モミィが「私たちも修学旅行は伊勢やで」と言った。
う~む。そうか。伊勢は「永久不滅」…なんだなぁ。


そうこうしているうちに、外宮に着いた。
標識を見ると、伊勢市駅からは350m。
そして宇治山田駅からは800mとある。

これを見ても、お伊勢さんへは伊勢市駅下車である。
宇治山田までの切符を発行したJTB、しっかりしてくれ~


「お伊勢さんには、天照大神が祀られてるんやで」
と、歩きながらモミィに教えてやったら、モミィは、

「アマテラスオオミカミって知ってるでぇ。
 イザナギノミコトの子供やろ~」

と、学校で習った神話の知識を披露した。

しかし僕らが今回来たのは外宮である。
天照大神が祀られているのは内宮のほうだった。
モミィに間違ったことを教えてしまっていた。

この外宮には、食物、穀物を司る神・豊受大御神が祀られているそうだ。

「お伊勢参り」とひとくちに言っても、なかなか難しいもんだ。

 


 

 

 


そんなことで、入り口でもらった地図を見ながら、
外宮の中を歩き、お参りをした。

 

 
  表参道火除(ひよけ)橋の向こうに鳥居が。

 

  
   鳥居の下で、モミィ。

 

 
  正宮(右)へ向かう。 

 

ものすごくいいお天気だったので、
歩いているだけで気持ちがよかった。

観光バスで来ている団体客が多かった。


帰り道はむろん降りた宇治山田ではなく、
伊勢市駅へ行き、そこから各駅停車に乗り、
約15分後、鳥羽駅に着き、徒歩3分の戸田屋へ行った。

 


  
     戸田屋へ。



チェックイン時間の3時少し過ぎた頃に入ったら、
フロントはチェックインのお客たちで満員だった。

モミィは「早く温泉につかりた~い」とはしゃいでいた。


実は、妻とモミィと3人で、初めて宿泊旅行をしたのが、
6年前、2009年の5月で、その時モミィは3歳半だった。

1日目に鳥羽の水族館へ行き、
2日目に、明日行く予定のスペイン村へ行った。

その時に泊まったのが、この戸田屋だった。
懐かしい宿である。

あの頃のモミィは可愛くてあどけなかったなぁ。

今では「天照大神はイザナギノミコトの子供やろ」
な~んて難しいことを言うようになりましたが。

 

 

 

 

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桂米朝さんはいなくなったけど

2015年03月25日 | ニュース・時事

 

 

先週19日に桂米朝さんが亡くなられた。
89歳だし、時々その姿をテレビで見たが、
ずいぶんお変わりになられた姿は、見ていて辛かった。


今週の22日と23日に、追悼番組をいくつか見た。

22日はNHK総合で、珍しい演題の「本能寺」が流された。
笑いの部分が少ないが、さすが米朝。上手やったなぁ。

同じく22日、読売テレビでの辛坊治郎司会の追悼番組では、
ゲストが沢山出ていて、その人たちがしゃべってばかりで、
結局、米朝の落語そのものは出てこなかった。
(そんな話は公共の電波を使ってせず、通夜の席でやれ)

つまらんおしゃべりより、米朝の落語を聴きたかったわ。


23日はMBSで「地獄八景亡者戯」が放映された。
68分10秒の長い長い話だが、僕の大好きな演目だ。
全編ノーカットで流してくれたのはうれしかった。

また同日、Eテレの「日本の話芸」では、
「どうらんの幸助」(これも面白い!)が流された。

やはり、いつ見てもいい。
気品と笑いに満ちた米朝落語である。


学生時代から落語が好きで、特にこの桂米朝が好きだった。
高座もよく見に行った。

1に米朝2に春団冶、3・4がなくて5に松鶴。
というのが、70年代の僕の好みの落語家だった。

米朝の弟子の枝雀(故人)は、正統派ではなく、異端芸だった。
言葉で笑わすのではなく、目をむいたり口を尖らせたりなどの、
派手な動作をして笑いをとる。だから僕はあまり好まなかった。

もう一人の弟子としても有名なざこばに至っては、
セリフも気ぜわしいし、いつまでも古典落語が下手である。


もう、米朝のような落語家は、この世に現れない。

今後、米朝を見たいと思えば、地獄へ行って、
「地獄八景亡者戯」に出てくる「地獄寄席」で、
松鶴らと寄席に出ているのを見るしかないでしょうね。


10年以上前になるが、図書館に米朝全集のCDが揃っていたので、
それを少しずつ借りてはカセットに録音して、かなりたまった。
何回も繰り返し聞いていたのだが、最近はカセットも古くなった。

そこで、改めて図書館のCDを借りてきて、
自分のCDにコピーして僕なりの「米朝全集」を作っていた矢先である。

米朝はこの世から消えても、米朝落語は消えない。

僕らの心の中では、ずっと生き続けてはります。


 

 

 

 

 

 

 

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特養の書類にサインしたこと

2015年03月24日 | 日常のいろいろなこと

ところで、前々回、母が病院へ行って、
それでどうなったのか書かなかったので、
その話を続けたいと思います。

特養の定期検査で、肝臓の数値がかなり上がったので、
こちらの病院で、さらに詳しく診てもらうということだった。


待合で看護師さんが母の血圧を測ろうとしただけで、
「痛い、痛い」を大声を出す母である。
「痛いことなんて、ないよ」と特養の看護師さん。
本当に、母は、小さな子どもに戻ったようである。

名前を呼ばれて診察室に入った。
車椅子の母のほか、特養の看護師さんと妻と僕が、
ゾロゾロと診察室に入った。


母はC型肝炎である。

若くてハキハキ物を言う、感じのいい女医さんが、
僕に、これまで母が入院した経験、手術した経験、
輸血した経験はあるか?…などを尋ねられたので、
僕は手術や輸血はしていないはずです、と答えた。


女医さんは、C型肝炎は、やがて肝硬変や肝がんに
繋がっていく可能性があるので、本来なら、
インターフェロンでの治療が考えられるが、
母のような高齢者は副作用に耐える体力がないので、
治療はできない、ということだった。


そこで女医さんが言うには、治療はできないが、  
CTによる精密検査などを行うことはできる、ということだ。
その結果によって今後の対応を考えればどうか、とのこと。

「来週になりますが、検査の予約をされますか?」
と聞かれた。

「ちょっとお腹を見せてね」と医師にお腹を触られたら、
母は、また「痛い、痛い」と身体をよじって暴れる。

そんな母が、おとなしくCTの検査などを
受けることができるのかどうか疑問である。

僕は、特養の看護婦さんと小声で話した。

CTの検査をしたところで、治療はできないという。
点滴しながら様子をみていく…ぐらいしかないそうだ。

「そういうことでしたら、検査の予約は結構です」

医師に、そう伝えた。

医師は「わかりました」と言い、
特養の医師に手紙を書いてくれた。


母は、看護師さんとともに、迎えの車で特養へ帰って行った。

僕と妻は会計を済ませてから、病院を後にした。


その後、僕は特養へ行き、そこの専属医師に、
今後、母が苦しむような検査や治療は結構ですので、
…と、改めて伝えた。

「何か、冷たいような言い方ですが、歳も歳だし…」
「もう、何があっても、覚悟は出来ていますので」

と僕が付け加えると、専属医師は、

いえ、はっきりおっしゃっていただいて有難いです」
「中には、最後まで治療を望まれるご家族もおられますので」
そう言った。


そのあとロビーへ移動した。
「生活相談員」という人がテーブルに、

3枚の書類を出してきて、説明してくれた。

いずれも、母に何が起きても異議はありません、
…という内容のものだった。

重篤な状態になった時も、病院に搬送せず、
当施設で酸素吸入の処置などで最善を尽くします…
などという文面もあった。

「ただし、怪我とか熱が9度以上出たとか、
 そんな場合は病院へお連れしますけど」
と、その相談員の方は言った。

僕に何の異論もなかった。
何が起きても、早くから覚悟はできている。

僕はためらうことなく、すべての書類にサインをした。

今以上に、母が良くなることはないので、
苦しむことだけはやめてほしい、という以外、何もない。

  ………………………………………………………

さて余談になるが、特養といえば、

いま、特養に入所待ちの人は全国で60万人近くいると聞いた。

母は7年半前に今の特養に入所できた。
それだけでも幸運だったと言わなければならない。


10年後、僕ら団塊世代がすべて75歳を超える。

一体どうなるんだろうか…と思う。

 

 

 

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「あへあほ」でおなかがへこむ

2015年03月22日 | 心と体と健康と

体重が増えているわけではないのに、
おなかがポッコリと出ているのが気になる。

ビール腹…というんだろうなぁ、こういうのを。

かといって、ビールをやめることはできない。

何とか長続きする方法でお腹が引き締まらないか…
といつも思いながらも、ジョギングもボチボチだし、
ジムでの筋トレもつい手を抜いてしまってるのだ。

そんなとき、

朝日新聞で「手軽におなかを引き締め」という記事を見た。

なんと、

あへ あほ

というかけ声に合わせて、
お腹をへこませたり、緩ませたりを繰り返すだけだ。
(アヘアヘ…ではありませんよ)

「へ」と「ほ」でお腹をへこませる。
「あ」の時はおなかを出すのではなく、元に戻すだけ。

こういうのが、案外長続きして、いいかも知れない。


この体操には「ドローイン」と呼ばれる

トレーニングが下地にあるという。
ドローインです。ドイロンではありません。
(特定の人にしかわからないギャグです。すみません)

ドローインとは、空気をゆっくり吸い込み、
息を吐きながら徐々におなかをへこませ、
最大限へこませた状態を約30秒間保つ運動だそうだ。

そのドローインをお手軽にしたものが「あへあほ」だという。

ウエスト引き締め、腰痛予防、姿勢の改善、ストレス解消、
などに効果があるといわれているので、
試してみるだけの価値はあるかも知れない。

1分間の「あへあほ」を1日3回やること。
座りながらでも寝ながらでも効果があるとのこと。

また、心の中で「あへあほ」をつぶやくやり方なら、
通勤電車やオフィスの中でもできるということです。


では、やってみましょう。

あへあほ あへあほ あへあほ

 

 簡単健康体操 あへあほ基本編 ↓

 

 

ネットの検索サイトで「あへあほ」と入力すれば、
もっといろいろと出てきますよ~。 

 

 

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母は僕の顔を見て…

2015年03月21日 | 日常のいろいろなこと

母が暮らしている特別養護老人ホームから電話があった。


特養で毎年行われる定期検査で、母の肝臓の数値が高かったので、
医師から○○病院で精密検査を受けるよう指示があったとのこと。

電話で病院行きの日時を決め、
その日、直接病院で待ち合わすことにした。

病院の玄関で待っていたら特養の車が来て、母が出てきた。
出てきたと…言っても、車椅子に乗ったきりの格好なので、
自動的に母が車椅子ごと車から降ろしてもらう仕組みだ。

母は眠そうに首をダランと下げ、小刻みに顔を振っていた。

特養の看護師さんが付き添い、受付で手続きをしてくれた。

あまり特養へ顔を出さない僕は、久しぶりに母の顔を見た。
見るたびに皺が増え、ボケも進んできているように見える。

診察まで、かなり待たなければならないようである。

そこへ、妻がやって来た。

妻は母に向かって自分を指差し「誰か、わかる?」と聞いた。
母は「えへへぇ~」と笑い、聞き取りにくい言葉で、
「わかるわぁ、美○ちゃんやろ」と妻の名を言った。

横にいた僕が、面白半分に「じゃぁ僕はわかる?」と言うと、
母はじっと僕の顔を見て「さぁ…だれやろ?」と首をかしげ、
「美○ちゃんのダンナさん…かぁ?」と甲高い声で言った。

「それ、あべこべやろ」と僕は思わず吹き出しかけた。


横にいた看護師さんが、クスッと微笑んだ。

「僕やで、僕。ほんまに誰かわからんの…?」
と僕は母に、面と向かって、念を押した。

母はしげしげと僕の顔を見て、
やはり「わからへ~ん」と首を振るのであった。

あぁ、ついに忘れられてしまったのだ。

いつかはこうなると思っていたけど。

まあ、あまり会いに行かないから、忘れられても仕方ない。

去年は「僕が誰かわかる?」と聞いたら、あははぁと笑い、
「そんなん、わかってるがなぁ」と言った母だったのに。


看護師さんによると、食欲はある、という。
ま、自力ではなく、ほぼ食べさせてもらっているが。

カラオケも、都はるみの「大阪しぐれ」を歌うそうだ。
ま、全部ではなく、同じところばかり歌うらしいが。

♪ ひとりで生きてくなんて、できないと~ ♪


まずまず、母は、施設で機嫌よくやっている。


ちなみに昭和3年生まれの母は、誕生日が来ると87歳だ。
名前を八重子という。
八月八日に生まれたので、八が重なる子→八重子、
…ということで、お爺ちゃんが名づけたそうだ。

今年、母は昔流の数え年で言うと88歳で、八が重なる。
来年は、満年齢で88歳である。

この2年間、八が重なる年が続く。
このあたりが母にはちょうど「いい頃」かも知れない。
そんなことも、つい考えたりしてしまう。

息子の顔は忘れても、たいしたことじゃないけれど、
食べて歌う楽しみだけは、死ぬまで忘れないように。

 

 

 

 

 

 

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ホワイトデーは恐ろしい?

2015年03月18日 | ニュース・時事

今日は小学校の卒業式ということで、モミィはお休み。
またどこかへの「お出かけ」を催促されそうです。

卒業式ねぇ…

モミィの卒業式まで、あとまだ3年あります。
早くそういう時期が来てほしいと思いますが。


モミィと言えば14日のホワイトデーまでうるさかったこと。

「知ってる? あさって、ホワイトデーやで」
「あした、ホワイトデーやで」
「きょう、ホワイトデーやで」

わかってますがな。

…ということで、「お返し」はちゃんとしました。


テレビなどでは、女性がホワイトデーで「お返し」を受けるのを、
「回収」と称して「平均回収率は75パーセントです」なんて言ってる。

「回収率」なんて言葉遣いは変だけど、
まあ、このごろはどんな言い方もアリですからね。


ところで…

そのホワイトデーに、お返しをくれなかったとの理由で、
女が、男の首を絞めたというニュースにはびっくりした。
男は首にけがをしたが、命に別状はなかったそうだ。

男の通報により、警察が出動。
女を殺人未遂容疑で逮捕したという。

大阪で起きた「事件」である。

実は、この男女は夫婦で、妻が夫の首を絞めたということだ。


それにしても、ホワイトデーでお返しをくれなかったことで、
腹を立てて首を絞めるとは、前代未聞の話ではないか。

夫もなんで警察へ通報したのだろう、と不思議に思った。
男なんだから、自力で収められそうなものだけどね。
しかも相手は自分の妻である。


詳細をみると、どうも妻はひどく酔っていたそうだ。
夫は妻をこらしめるつもりで110番したのだろう…
…と、TVのワイドショーで、誰かが言っていた。

まあ、そんなところかも知れないが、
それにしても、こんなニュース、聞いたことがない。


ホワイトデーにお返しをしなければ、首を絞められる?

男性の皆さん、注意しましょう。

 

 

 

 

 

 

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ウダウダ会 室津へ

2015年03月17日 | ウォーク・自転車

書こう書こうと思いながら、もう半月以上が過ぎた。
3月1日。「日本ウダウダ会」で兵庫県の室津へ行った時のことを。



  



室津は兵庫県たつの市にある港町だ。

港町として1300年の歴史があるという。

最も栄えたのが江戸時代だそうで、参勤交代で
西国からの大名のほとんどが船で室津に到着し、
ここから陸路江戸へ向かった…とのことである。

室津は海と陸の接点、宿場町として栄えたというわけ。

もっとも、広辞苑で「室津」を引くと、

「かつては瀬戸内海の要津で遊女町があったことで著名」

…とありましたけど。


その室津の近くで、ウダウダ会の一行はチャーターバスを降り、
ウオーキングを開始した。

この日は、あいにく朝から雨だったので、傘を差してのウオーキングだ。

 


 
 

 向こうに見える山をひとつ越せば室津に着く。
だいたい、1時間ちょっとで着くという。
「雨やから歩くのはそれくらいでいいやろ」
…と、ウダウダ会の面々。


歩くより「飲む」ほうが好き、というメンバーも多い。

 

  

 峠に、こういうのが建っていた。

 
そして、ひと山越えて歩いて行くと、室津の港が見えた。 


 

 道路がくねくねと曲がっている。

 この海沿いの道を通称「七曲がり」というそうだ。

 

 

海が間近に迫る。天気がよければ、さぞ絶景だったろう.

 

 


 

 宿場町として栄えた風情を残す室津の町並み。

 

そしてまた海に沿って歩いて行くと、カキの店が見えてきた。

室津はカキの養殖が盛んなところで、今が最盛だという。

これまで歩いてきた道では人の姿を見なかったが、
ここらへんに来ると、急に人と車が増えてきた。

 

 

 

 

 

こういう店が、沢山ある。

そのうちのひとつの店に入って、カキその他の海の幸に舌鼓を打ち、
ビールや熱燗をグビグビ。歩いているときは沈黙がちだが、
宴会になると、とたんにみんな元気モリモリになるのだ。

僕などはこの日、朝から体調が悪くて時々不整脈が出ていた。

バスの中でも、何となく体がだるい。
前に座っていたショーちゃんが「しんどそうやな」と。

歩いている時も、また不整脈が出て、ちょっと休憩。
みんなを待たせてしまったりした。

あぁ、それなのに、それなのに。

カキでビールや熱燗を飲み始めるととたんに元気が出た。

まったく、都合のいい体である。

店を出て、バスに乗り、帰路についても、バス中で
みんなで酒盛りをして、僕は記憶が飛ぶほど飲んだ。

気がつけば家に帰っていた…というよくあるパターン。

まだ夕食前の時間で、モミィから
「飲みすぎたでしょ~」と言われてしまった。

とほほ。

 


 

 

 

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写真を付け加えます

2015年03月15日 | 思い出すこと

被災地の名取市を歩いたとき、多くの写真を撮りました。
11日のブログでは、その一部を掲載させていただきました。

被災地から遠く離れた所にお住まいの方々に、
少しでも当時の惨状を知ってもらえたらと。

いただいたコメントを拝見しまして、やはり、
このことは決して忘れてはならないと、改めて肝に銘じました。


今日は、少し角度を変えた写真を付け加えておきたいと思います。

 

  
   仙台空港アクセス鉄道は、内部がほぼ壊滅状態に。
   全線が開通したのは10月1日でした。

 

 
  がんばっぺ! 北釜!! アルバム等集積所』の看板。
   名取市に北釜という地区があることは、後から知った。
  

 

 
  

   見渡す限り、人影はない。これも異様な光景だった 

 

 

 

 
   これは仮設住宅か。

 

  
  閖上大橋が近づいてきたところ。
  看板を見て「進入禁止」は車だけだと思っていたが、
  ずんずん歩いて行くと、閖上大橋の手前で、
  歩行者も「通行禁止です」と警官に
言われた。
  今から考えてみれば、当然のことだったが…

 

 

 

 

 

 

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石巻からの便り

2015年03月14日 | 日常のいろいろなこと

昨日、一通のハガキが届いた。
宮城県石巻市に住む知人男性からである。

知人と言ってもただの知人ではない。
どういう「知人」かというと…

北海道を自転車旅行している時(20歳の時)、
帯広駅前で、その人と出会った。

その人も自転車旅行中であった。
「ラーメンでも食わねぇか?」
と、駅前の店でラーメンを奢ってくれた。

その人は東京新宿の人で自転車日本一周をしていた。
年齢は僕よりいくつか上だった。
僕はその人を、「大将!」と呼んだ。

行く方向が一緒だったので、そこから2人で走った。

襟裳岬、苫小牧、函館と走ったあと、
本州に渡って下北半島の大間崎、恐山、
そして野辺地というところまで、9日間、2人で走った。


ある時、ボロボロの屋根付きのバス停で野宿した。

僕がベンチの上で、大将は下の地面で、寝袋にくるまって寝た。
夜中、僕がベンチから大将の寝ているところへドス~ンと落ちた。
「いてぇ~~~」と大将が悲鳴を上げ
「ごめぇん~」と僕は両手を合わせた。
そんなこともあった。
奇妙な2人旅だった。

野辺地というところで道路は左右に分かれていた。

右は国道4号線で、青森市へ通じる道。
左へ行けば、三沢、八戸方面に続く。
大将は右へ行き、青森から日本海側を通って西日本へ向かう。
僕は左へ行き、太平洋側を通って東京から故郷の大阪へ向かう。

「…ここで、お別れだな。道中、気をつけてな」
「大将も、気をつけてね」

手を振り合い、右と左に分かれて、
9日間の「ふたり旅」が終った。

46年前のことである。

その後大将は、宮城県石巻の女性と知り合い、
結婚して、東京から石巻へ移り住んだ。

「石巻で嫁さんの実家の花屋をしてるんだぜ。俺には似合わねぇかなぁ」

そんなハガキが来て「ほんまに似合わんわ」と思ったことを覚えている。


その石巻の花屋さんも、東日本大震災で壊滅。
大将とその家族は無事だったが、すべてを失った。

その後、何度もハガキをもらった。

花屋の家屋修理も終わり、何とか過ごせている…
という便りをもらったときは、うれしかった。

その大将から、昨日、またハガキが届いたのだ。


前略
あの日より4年。もう4年。まだ4年。
人それぞれにこの4年の月日があります。
石巻は復興は遅れに遅れていますが、
お蔭様で私共は、略(ほぼ)元の暮らしを送っています。
御支援・御激励に感謝した4年間でした。
本当に有難う御座いました。
今後共、宜しくお願い致します。
もう少しで春です。春になれば…

 

…と、いつものように丁寧に筆ペンで書かれてあった。


妹さんが陸前高田市に住んでおられるのこたんさんも、
前回の記事に対していただいたコメントの中で、
震災から丸4年が経ったのが、早い? 遅い?
…と書いておられた。


ふつうであれば、早い…と思うのだろうけど、
この災害に関しては、4年が早いという感じがしない。


なぜだかわからないが、大将のハガキにあったように、

あの日より4年。もう4年? まだ4年?

…という感じで、それも、どちらかといえば、

「まだ4年?」という感覚の方が強いような気がするのである。

 

 

 

 

 

 

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117歳まで生きたとしたら

2015年03月09日 | ニュース・時事

前回触れた話に関連してですが、

自転車旅行の時に、行く先々から妻に送った
下手くそな字での僕の何十通という手紙の束が、
結婚したとき、妻が持ってきたので、
今でもそのまま、わが家にあります。

滅多にしないことですけれど、たまに、
46年前の自分の手紙を読み返してみると、

顔が真っ赤になるほど恥ずかしいです。

クローゼットの奥の方に入れているのですが、
最近、いろいろ過去の物を整理しているので、
これもいつかシュレッダーにかけなければ…

…とは思っているものの、
なかなか踏ん切りがつきません。

でも、いずれは処分しなければねぇ。

 ………………………………………………………

さて、話は変わりますが…

3月5日に、大阪に住んでおられる大川ミサヲさんという、
世界最高齢者としてギネス世界記録に認定されている女性が、
満117歳のお誕生日を迎えられたというニュースを見ました。

大川さんがおられる大阪市東住吉区は、
わが家からそう遠くないところです。

その大川さん。明治31年→1898年生まれだという。
まだ勝海舟も生きていた時代だというから、すごいっ!

1964年の東京オリンピックの時は66歳だった。
…というから、今の僕と同年齢だ。

51年前ですよ。51年前に、今の僕と同じ年齢なのです。

僕はその当時、15歳で高校1年生でした。

51年前に66歳だった人が、今も健在なのです。
本当に、驚くべきことですよね。

     
   お誕生日を祝福してもらう大川さん。



TVで、その大川さんのインタビューを見た。

まだ、ちゃ~んとお話ができるのだ。

何かを召し上がられたあとだったので、
インタビュアーから「おいしかったですか?」と聞かれると、
「う~ん、(料理が)上手やねぇ」

「117歳ですね。ここまで長かったですか?」との質問には、
「…みじかかった」

そして「お婆ちゃん、長生きの秘訣は何でしょうか?」
と聞かれた時は、僕もどういう言葉が出てくるのか注目した。

すると、大川さんはしばらく間を置いてから、

「う~ん。…わからん」

…とおっしゃったにのは、思わず顔がほころんだ。
それこそが、最高の答えですよね。

僕など、あと何年生きられるのかわからないが、
運が良ければあと10年。運が悪ければ…あと20年。
…と思っている(なんや、そら?)


それにしても、117歳ですよ、117歳。

もし僕が117歳まで生きたとしたら…

今、9歳で小学3年生のモミィは、60歳になる。

モミィが60歳の還暦を迎えるのを、
僕は見ることになるのである(笑)。
どんなんやろね~?

あはは~と、テレビを見てそんなことを言いながら、
妻と笑い合っていると、そばで
それを見ていたモミィが、

「のんちゃん、あと100年生きてぇ~」

…と、マジメな顔をして言った。

 

 

 

 

 

 

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結婚記念日と「1年半待て」の不思議な関係

2015年03月07日 | 思い出すこと

いきなりで恐縮ですが、今日は僕たちの結婚記念日です。

ちょっと恥ずかしいですけど、
昔のことを振り返ってみます。


20歳の時の70日間大阪⇔北海道自転車旅行の出発の日、
雨の中を見送ってくれた彼女と離れるのがつらかった。

彼女とは速記学校で知り合い、ま、今ふうに言えば、
「友だち以上、恋人未満」というような間柄だった。


旅を終え、大阪に帰ればまた彼女に会える…
そんなことを考えながらペダルを踏んでいた。

行く先々から、その日の出来事を手紙に書いて出した。


8月末に無事大阪に帰り着き、彼女と会った。

僕はその時、まだ大学3年生だった。
彼女の方は兄の病院で事務を執る社会人だった。

数日後2人で、僕の生まれ故郷の京都へ遊びに行った。


京都の知恩院のベンチに腰掛けて、
僕は彼女に、心の中を打ち明けた。

自転車旅行中に、すでに彼女と結婚したいと考えていた。

それを伝えたら、旅先からの僕の手紙の様子で、
そのことは何となく感じていた…と彼女は言った。

「じゃぁ…」と、僕はちょっと緊張して、
「1年半、待ってくれますか?」と言った。

大学卒業まで、あと1年半残っていた。
卒業したら結婚してください…という
いわゆるプロポーズである(あぁ、恥ずかし)。

彼女は微笑んで、うなづいてくれた。


それだけのやりとりだった。

あとは、知恩院のベンチに座ったまま、景色を眺めていた。


僕がまだ世間を知らない20歳の学生ということで、
当然、僕や彼女の両親・親戚らに反対されたけれど、
その反対も、それほど強いものでなかった。


そして1年半が経ち、卒業式の直前に結婚式を挙げた。

ただでさえ若く見られていたので、式場で、
新郎の控え室にいたら、係の女性が来て、
「まあ、可愛いらしい新郎さんですこと」
と言われたことを、今も思い出してしまう。


…そういうことで、「1年半待ってくれますか?」
という言葉が、僕たち夫婦の出発点となりました。


ところで、去年だったか、テレビのBSで、
「松本清張特別企画ドラマ」という再放送があって、
たまたま番組欄を見ていて目に付いたそのタイトルが…


「1年半待て」


というものだったのだ。

 http://www.bs-tbs.co.jp/genre/detail/?mid=DRT1006100


いやまあ、これには驚いた。
松本清張は、大昔にそういう題の短編を書いていたのだ。

もちろん、録画をして、そのドラマを2人で見た。
卒業まで1年半待て…というストーリーではなかった。
(当たり前やがな)

でも、なかなか面白いドラマだった。


…さて、結婚してから今日で44年になります。
22歳で結婚したので、ちょうど人生の3分の2です。


知恩院で「1年半待ってくれますか?」
と言って待った1年半はとても長かったですが、

その後の44年間は、あっという間に過ぎました。

 

 

 

 

                                  ファンキーノン気~  もよろしく!

 

 

 

 

 

 

 

 

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ついに耳鳴りが治る…と「ためしてガッテン」は言うが

2015年03月05日 | 心と体と健康と

昨日の夜8時からのNHKテレビの「ためしてガッテン」で、

ついに! 耳鳴りが治る 原因解明&治療最前線

という、番組があった。

「ついに耳鳴りが治る」とは、いくら視聴率を意識したものとはいえ、
言い過ぎである。耳鳴りが「ついに治る」なんて、ウソに決まっている…

新聞に載っている健康雑誌の広告などにも、どれだけ
「この方法で耳鳴りが治る」という記事があふれていることか。

たとえば、これは今日の朝刊の書籍広告欄だが…

              

  

 

とまあ、こんな感じで、自信満々の宣伝ぶりである。

しかし、事実はそんな安易なものではない。
治るとしても、一過性の耳鳴りが少し良くなるぐらいのことだ。

僕らのように24時間、キーンという音が脳に響き渡る耳鳴りは、
「まず治らない」とされ「治すより慣れる」ことが大事と言われる。

その耳鳴りが「ついに治る」というのだから、
耳鳴り持ちの人は「ほんまか?」と怪しみながらも、
昨日の「ガッテン」は、見逃せない番組だったろう。

詳しい内容については次の通りです。
ま、ご覧になった方も多いと思いますが…。


 http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20150304.html


このページの左側「今回のメニュー」の一番下、
「今回のお役立ち情報」というところがわかりやすいです。


この中で、治療のポイントになるのは補聴器だそうだ。

僕は、最近は少し遠ざかっているが、
7年前からTRT療法というのを受けている。

TCIという補聴器に似た器具があり、耳穴に装着する。
それがザワザワ~という音を出して耳鳴りへの意識をそらす…
そういう治療法なのであるが、着けているとよく補聴器と間違われた。

    
    僕が使っているTCI


昨日の番組では、TCIではなく、補聴器そのものが、
耳鳴りを「ついに治す」切り札として登場したのである。

「多くの耳鳴りは加齢などによる聴力の低下が原因」

ということで、僕にはむずかしい理屈はわからないが、
聴力が低下すると、蝸牛が振動を信号にして脳に送れなくなり、
その影響を受け、脳がキーンという音を作ってしまうそうである。

それを補聴器で補えば、耳鳴りは消える…
と、簡単にいえばそういうことらしい。

じゃぁ、聴力が低下していない若い人にもなぜ耳鳴りが起こるのか、
という疑問が出てくるし、どうも全面的には納得できない。

僕だって、耳鳴り発症の頃は聴力に何の問題もなかったしね。

だから、この治療法は、耳が遠くなった年配の人のためのもの、
と考えたほうがいいかも知れない。

あるいは、それと知らずに聴力が低下していたとしたら、
補聴器を使い、聞こえない音域をカバーすると、
ひょっとして、少しは耳鳴りがマシになるのか?


僕が耳鳴りで通っている大○前病院へ、一番最近に行ったとき、
「今はもうTCIは製造していません」
…とシーメンスの会社の人から伝えられた。

そろそろ新しいTCIに買い換えたいと考えていた僕は、
「えっ? 無くなったら困りますがな」
と言うと、

「新しく、補聴器とTCIを兼ねた器具が開発されました」
とのことだった。スイッチを切り替えて使うのだろうか。

その話を聴いたとき、両方を兼ねた器具って、
変な話だなぁ、と不思議に思ったものだけど…


その話と、昨日の番組の話と、
何となく共通するところがありますよね。
補聴器とTCI…


一度、また大○前病院へ行き、昨日の番組の話を出して、
補聴器について聞いてみようか…とも思っています。

まあ、ダメで元々ですけどね。

 

 

 

 

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在職中へタイムスリップ

2015年03月03日 | 議会&役所

そこへやって来たのが…
40年来の付き合いがあったK田君であった。
これまた、びっくりするような偶然だった。


…ということで、前回は終わりました。

K田君のことを僕は友ちゃと呼んでいたので、
このあと、彼のことを友ちゃんと表記します。


退職してから、友ちゃんとは一度も会ったことがなかった。
彼もまた火災保険でやって来て、今から帰るところだという。

コバヤシ君がその場を離れて、今度は友ちゃんとの立ち話だ。


彼は10年少し前、役所仕事のストレスで心の病にかかった。
それまでの彼は、とても明るかったので、信じられなかった。

彼も僕も映画が好きで、土曜日の午後は2人でよく映画館に行った。

その中には…

「『宮本武蔵』5本立て」とか

「『人間の条件』6本立て」とか、

「『仁義なき戦い』5本立て」…とかも

見に行ったなぁ。

こんな特別上映の時には、ほぼ1日映画館にいる。

弁当とワンカップを映画館に持ち込んでね。

2人だけの「映画友の会」を結成していた仲である。

彼が心の病で長期休暇に入った時は、さすがに驚いた。
僕なんかより遥かに明るい性格だったはずだ。
それでも、何かの拍子でそういう病気になるんだなぁ…と
これまで思いもしなかった感覚にとらえられたものだった。


しかし、この日、6年ぶりぐらいに会った彼は、
「もう病気はよくなったみたいや」と自分から切り出した。

聞いてホッとした。


「あれは51歳の時やったから…治るまで10年かかったなぁ」
そう言って、友ちゃんは目を細めた。
やはり、ウツ的な病は、簡単には治らないのだ。

「近所の人が言うには、あの時は肩を落として歩いていたけど、
 このごろは、前向いて歩いているなぁ…と言われるねん」

そんなことも言った。

「また、飲みに行ったり、映画に行ったりしたいね」
と、僕と友ちゃんは、懐かしく語り合った。


「ところで…これから、家に帰るの?」と僕が聞くと、
「いんや、阿倍野へ出て、パチンコでもしようと思ってる」

それでは…と、2人で役所を出て駅に向かった。

2人で松原の駅までゆっくり歩きながら、
いろいろな積もる話に夢中になっていた。


駅が近づいたとき、「あっ」と、急に僕は思い出した。

「僕は役所へ自転車で来たんやった」
友ちゃんに会って、僕はすっかりそのことを忘れていた。

友ちゃんは、また目を細めて、
「あ、そうかいな。…じゃ、役所へ戻らないとねぇ」

僕らは歩道の真ん中で足をとめた。
ここでお別れである。

立ち止まったまま、もう少ししゃべった。

そこへ、一人の女性が通りかかった。
そして「あれぇ」と言って僕の肩をたたいたのだ。
見ると、2年ほど前に退職した美○子さんだった。

6年前…僕が退職した日に、帰宅すると、
彼女からの花束が届いていた…。

その後彼女は、定年を待たずに退職した。そして、
今では、毎年の年賀状で、互いに冗談を書き合う間柄だ。

友ちゃんと話していたので、彼女はそのまま行ってしまった。
せめて少しでも話したかったけれど、まぁ仕方なかった。

話は尽きなかったが、友ちゃんと別れた。
友ちゃんは松原の駅に向かい、

僕はまた歩いて役所へ引き返し、
自転車に乗って帰途についた。

役所へ行ったのは9時半で、用件を終えると、
そのままスポーツジム・コスパへ行くつもりで、
大きなリュックも持っていたのに、気がつけば昼を回っていた。


時間を見て急にお腹が減ってきた。

そのまま家に帰って、お昼ごはんを食べた。
結局、コスパには行かなかった。


でも、この半日は、
多くの懐かしい人たちとの会話があった。

タイムスリップして、在職中の日々へ戻ったような感覚だったなぁ。

 

 

 

 

 

 

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年に一度の市役所へ

2015年03月01日 | 議会&役所

2月23日の月曜日、1年ぶりに元職場へ行った。
元職場と言うのは、大阪府の松原市役所である。


在職中から加入している火災保険があって、
退職後も引き続いて加入していることから、
年に一度、掛け金を払わなければならない。

現金書留で送ってもいいのだけれど、
やはり直接行っほうが手っ取り早いので、
年に一度だけ役所へその用件のために出向く。

それ以外のことで、市役所には行ったことがない。
行っても、たぶん職員たちに嫌がられるだけである。

で、僕はその日も、人事課で支払いを済ませた後、
例年ならそのまま帰るところだったが…

この日はなぜか、足が議会事務局のほうに向いた。


僕はこの役所で38年間勤務したわけだけれど、
そのうち、26年間、議会事務局で仕事をした。
(一般の方々には何の仕事かわからないでしょうね)

26歳の時から42歳までの16年間と、
51歳の時から60歳の退職までの10年間、そこにいた。
最後の2年間は、議会事務局長もさせていただいた。

でも、退職して6年目ともなると、
職員たちの顔を見ても、ほとんど知らない人だ。
議会事務局にも、もう何年も顔を出していない。

「何年ぶりだろ?」
と思いながら、議会事務局の前まで歩いて行った。

見知らぬ女子職員が出てきた。
「どちらさまでしょうか?」

自分の名前を言っても、相手にはわからないだろう。

議会事務局長をしているY君とは懇意にしていたので、
「○○というものですが、Y局長さんに会いにきました」
そう言うと、女性は中へ通してくれた。

ちょうどY局長がいてくれてよかった。


しばらくY局長と2人で雑談を交わした。

議会事務局だから、議員も出入りする。

今も年賀状を交わしている女性議員が来たので、
「どうも。お久しぶりです~」と言うと、
「まぁ、悠々自適ですね~」と満面に笑顔。
この人は、とても好感の持てる議員さんなのです。
(…と言うと、好感の持てない議員もいる…
 ということになりますが、それは言えません。がはは)
 
そこへ、また一人の男性議員がやって来た。

僕が退職する時に議長を務めていた人だ。
いろいろと、お世話になった。

僕の顔を見て「いよぉ~、珍しいやないか」
と笑い、僕の隣にドカッと腰掛けた。
「こんちわぁ。いつまでもお元気そうですねぇ」
「あはは~。ワシはずっとこんなんや」

局長を交えて3人でしばらく話したあと、僕はそこを出た。


そして6階にいるマラソン友達のK島君を訪ねて行ったが、
あいにくと「現場に出ています」ということだった。
そう教えてくれたのは、F君で、これも馴染みの顔だ。

では、そろそろ帰ろう…とエレベーターを待っていると、
やってきたエレベーターから、副市長のK君が出てきた。
一応僕の方が年上だから、彼は「へへへっ」と愛想笑いした。

K副市長は、職員たちを怒鳴り散らすということで評判が悪い。
いろいろ話を聞くと、今、はやりの「パワハラ」みたいなものだ。

しかし、僕が議会事務局長をしていた時、彼は財政部長で、
その時、いろいろ、予算配当で配慮を加えてもらった。
気が利いて、テキパキと物事を処理する人物だった。
決してそんな嫌われる人間とは思えないのだが…
う~ん、むずかしいんだなぁ、人間関係は。

さて、エレベーターから降りたら先輩のMさんに会った。
同じく、火災保険の支払いに来たという。

立ち話をしていると、酒好きのN君がやって来た。
これも、火災保険の用件でやって来たのだ。

2月末で火災保険の申し込みが締め切りなので、
この時期は、大勢の役所のOBが役所にやって来るのだ。

N君に「元気?」と聞いたら、ドンと胸をたたき、
「元気でっせぇ。元気すぎて困っとるぐらいですわ」

「相変わらず、飲んでる?」と聞くと、
「当たり前ですがな。あ、そうや、これから行きまひょ」
「行くって、どこへ?」
「決まってますがな。酒を飲みに、ですがな」
「まだ昼前やで。あかん、あかん」
「久しぶりにのんさんの顔を見たのに、行かんわけには、いかん」
「何言うてるねん。ほんなら帰るで。さいなら~」

と、その場を逃げるように離れたら、
入り口から、先ほど訪ねて不在だったK島君が戻ってきた。
ちなみにK島君は定年後、再任用で今も役所で働いている。

「あぁ、さっき寄ったんやで。現場に行ってたんやね」
「そうですねん。で、一杯飲みのお誘いですかいな?」
と、K島君もまたそんなことを言う。

「いや、そうではなく、ちょっと顔を見たかったから」
どうも、僕の顔を見ると、すぐに酒の話が出るので困る。

彼ともしばらく立ち話をしたあと、帰ろうと思ったが、
議会事務局の後輩で仲の良かったO君のことを思い出し、
彼のいる職場に顔を出して、少し話をした。

最後は「また誘ってくださいね」とこれまた飲む話。

その時、通りがかったのが女子職員のSさん。
今年もらった年賀状に、
「のんさんのように、楽しんで仕事せなあきませんね~」
と書き加えてあったおもしろい人である。
「あらまぁ、お久しぶりですぅ。お元気そうですね~」
と言いながら、彼女は書類を持ってそそくさと立ち去った。

さあ、今度こそ帰ろう…と出口に向かうと、
敬愛するコバヤシ君とバッタリ顔を合わせた。
このブログにも、時々コメントをくれている。

コバヤシ君とまた立ち話が始まる。
新しいブログを見てくれていて、
「いろんなとこへ、行ってはりますねんねぇ」
またしばらく、立ち話。

そこへやって来たのが…

40年来の付き合いがあったK田君であった。

これまた、びっくりするような偶然だった。


…とここまで書きましたが、もう午前5時半を回りました。
今日はウダウダ会で兵庫県たつの市の室津へ行きます。

そろそろ準備をしなければならないので、続きはまた明日。


では皆様、良い日曜日を…

…と言いたいところですが、外は雨です。

ウダウダ会のハイキングも、ほとんど歩かず、
いきなり宴会ということにならないか心配です。

…というか、楽しみです。あはは。

 

 

 

 

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