僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

 大阪府知事選とマスコミ

2008年01月31日 | ニュース・時事

もう4日前になるが、27日の日曜日、大阪の街は大いに沸いた。

ひとつは、その日が府知事選の投開票日だったこと。
しかしまあ、最近はまだ開票もしていないのに、出口調査とかなんとかで、びっくりするほど早い時期に当選確実の字幕がテレビに出るんですね~。

投票の締め切り時間は午後8時だったが、8時過ぎには橋下弁護士の当選確実が、早くもテレビで伝えられた。投票所で受付業務をしていた僕の友人の自治体職員は、8時になるとすぐに票の入った箱を、開票場所である市民体育館へ車で運んで行ったのだが、その車の中で橋下弁護士の当確を知ったという。
「おれは何のためにこれを運んで行くねん?」
友人は、拍子抜けもいいところだ…と苦笑していた。

まだ一票も開票していない段階で、マスコによって当確が伝えられ、テレビでは橋下陣営のバンザイ風景が映し出されている中、開票の担当職員たちはそのバンザイを見てから開票作業に入る…という、なんとも奇怪な話が、今ではごく当たり前のことになりつつある。
最近の選挙速報は、ずっとこんな具合なのですね~。

迅速かつ正確な開票のため、全力を挙げて作業に入る自治体職員たちも、先にバンザイが放映されると、やる気も低下し、張り合いもなかろう。

結果は橋下弁護士の圧勝に終わったが、やはりテレビの威力はすごい。若者層の票の多くが橋下氏へ流れたのは、どう考えてもテレビの影響だ。ウチの地域の選挙管理委員会の職員が、「投票場に今回ほど若い人が沢山来たのは初めて」と言っていたし、期日前投票(以前は不在者投票と言っていた)では、14日の成人の日に晴れ着を着て、選管事務局へ投票に来た新成人の姿があまりにも多かったのでびっくりした、とも言っていた。

若い人たちの投票率が、とても高かったわけである。
おなじみのタレント弁護士に一票を…ということだったのだろう。

マスコミ、特にテレビと言うのは、本当に大きな影響を持っている。

たとえば、ハンドボールだってそうだ。
ついこの間までマスコミは見向きもしなかった。
それが、「中東の笛」事件で、再試合が日本と韓国の間で行われるとなると、とたんにテレビ・新聞は大騒ぎし、その影響で、切符は売り切れるわ、BSテレビの中継はあるわ、ラジオ実況中継はあるわ、結果が一般新聞の一面に載ったりするわで、一躍花形スポーツへ浮上した。普段から、いろんなスポーツを公平に取り上げないから、こんな偏った過熱現象が起こる。これをきっかけに、ハンドボールが注目され続ければいいが、一息ついた頃にはもう知らん顔するのがマスコミの常である。この悪癖は、いつまで経ってもなおりそうにない。

さて、その27日は、大阪女子マラソンが開催された日でもあった。

そのことについてはまた明日、投稿します。

 

 

 

 

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 近い将来の話

2008年01月29日 | 日常のいろいろなこと

2008年が始まったばかりだと思っていたら、もう1月も終わりだ。
2月などはあっという間に走り去り、3月もあわただしく過ぎるだろう。
こんな調子だと、来年の3月など、すぐにやって来る…。
そのとき、いま勤めている事業所を定年で退職になる。
2009年3月末で定年退職…。

あ~あ。退職したら、どうするの…?
それが、僕の重要な将来問題としてこの身に迫りつつある。
まあ、たいした将来でもないけれど…。

同世代の仲間と、最近はそういう会話を交わすことが多い。
「ここ、辞めたら、どないすんねん…?」という感じ。
「さぁな。まだ考えてへんけどな。そうも言うてられへんしなぁ…」
だいたい、こんなことで会話は途切れて、終わる。
しかし、退職まであと1年余り。もう、カウントダウンである。
悠長には構えていられない。

かねてから僕が持っていた退職後の夢も、最近では少し狂いかけている。
耳鳴りに悩まされ、集中力が出なくなってから、長年思い描いていた自分なりの夢の実現にむけて努力する意欲が、ちょっとへたり気味なのだ。読書も「耳鳴り」とか家庭の医学に関する本以外はまともに読めない(あるいは関心が持てない)
ような状態だから、「勉強しよう」という気力も湧かない。その日その日を過ごせたらいい、という感じの毎日だ。いつまでこんなことが続くのかわからないが、「夢」へのモチベーションは、耳鳴り発症前に比べればガタ落ちである。あ~ぁ…。

じゃぁ…仕事を辞めたら、いったい自分は何をすればいいのか? 

やりたいことはさまざまに浮かぶのだが、なんだか、とりとめがない。
頭の中で整理ができないうえ、体に自信ないことが不安を増大させる。

そんな中で、先日、ふと考えたことがある。
これまで思ってもみなかった選択肢…今の事業所に残る、という発想を視野の中に入れてみたのである。

わが事業所には「職員再任用制度」というのがある。

これは、年金制度と密接に関係した制度である。

僕たちの年金は、2つの部分に分かれている。
60歳で定年退職すると、年金の「比例報酬部分」というのがまず支給される。そして、昭和24年生まれの僕の場合は、64歳から年金の「基礎部分」の支給が開始され、そこで初めて「年金の満額支給」を受ける、という仕組みになっている。

そうした社会背景の中で、この60歳から64歳までの間、つまり年金がまだ満額支給されない期間中、今の事業所で「再任用」と呼ばれる嘱託職員のような形で再雇用される制度が、何年か前にできたのである。

タクシー運転手のデ・ニーロ君の話では、年金の満額受給前、つまり「谷間」の数年間だけ、タクシー運転手をして収入を補っている人たちが圧倒的に多いという。だから、今、そういう世代が、年金の「谷間」の期間だけ仕事をしたい、という希望がとても増えてきているのである。

それならば、慣れない仕事に就くより、自分の働いてきた職場で再雇用されるほうが、何かと都合がいいような気がする。

しかし、当初、ウチの事業所ではこの再任用に応募する職員は少なかった。
それもそうだろうなぁ…と思われる理由はあった。
60歳の高齢で、それなりの肩書きもあった管理職なんかが、いきなりヒラ職員の扱いになるのだから、心理的抵抗が強い。それに、まわりの職員だって困るはずだ。この間までは「○○部長」というエラい地位にあって、直接口も利いてもらえなかったような人が自分の職場へ再任用でやってきたら、若い職員も、その人を○○さ~ん、と呼んで、単純作業を頼んだりもしなければならない。そういうのって、なかなかやりにくいことだ。

そんな、周囲の微妙な雰囲気を感じ取りながら、つい昨日まで部長や課長をしていた人が、顔見知りの多い中で、いっさいのプライドを捨てて諸々の仕事に打ち込めるのかどうか…
そんな点が壁になって、この制度が十分活用されてこなかった。
退職者たちは、再任用なんてカッコ悪い、という雰囲気だったのだ。

だから当初は、再任用システムは、有名無実になっていた。

しかし、時代は変わり、再任用に対する見方も変わってきた。
どんどん、退職後の再任用に応じる人が出てきたのである。
部長級や次長級で退職する人も、再任用を申し込むようになった。
そうなると、「あの人に続け!」とばかりに、一気に増えてくる。

先日も同年齢の友人のエノさんという男性と、その話をした。
エノさんは、これまで、
「若い職員やこれまで部下だった職員の下で働くというのは、どうもねぇ…。ワシにはできそうにもありまへんなぁ」
ずっとそう言っていたのに、先日は全く違うことを言った。

「ワシにはまだ高校一年の娘がおりまんねん。退職したら、生活がでけへんようになりますしなぁ…」
そう言って、自分は再任用を申し込もうと思う、と言ったのだ。

エノさんだけはそれはないだろう、と思っていたから、僕は驚いた。
すでに、それだけ再任用を申し込む人が増えてきているのだ。

エノさんにつられたわけではないのだが…
僕も、これについて考えてみようかという気になり始めている。
ためしに家族に話してみると、もちろん賛成であった。
家でゴロゴロしているより、そりゃぁ、働くに越したことはない…
そして、ウイークデーにも1日休みがあって、週休3日制だから、自由な時間も今より増える。やりたいことがあれば、けっこうその範囲内でできそうだ。役職が外れた分、責任が軽くなり、それだけ気も楽だ。不必要なプライドを捨てて、それはそれ…と割り切ることさえできたら、再任用を受けるのも悪くない。

ふ~む。
再任用なぁ~
ちょっと、抵抗はあるけれど…。
考えてみる余地は、十分にありそうだ。

 

 

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 現役バリバリ 乳児クン

2008年01月28日 | モミィの成長日記

 

口内炎をわずらって、ミルクや離乳食が摂れず、ずっと病院で点滴を受けていたソラですが、ようやくそれも癒えて、通常の食生活に戻ることができました。
お医者さんによると、何か硬くてとがったもの(おもちゃ類か?)を噛んだ拍子に、口の中が傷ついて、そこが化膿して口内炎になったのでは…ということでした。歯も生えていないのに、なんでそんなことになるんだろ?…と思ったけど、歯グキで思い切り噛むらしいです。すご~い。

思わぬところから、突拍子もない疾病が発生するものですね。

ウチにも、このところずっとわが家に寝泊りしているモミィがおりますので、妻はそれにかかりっきりです。家の中は、ひっくり返っています。

乳児や幼児を持つ親御さんは、毎日大変ですね~。
あの、テレビや新聞のニュースなんかで報道されている、お母さんの「育児ノイローゼ」というのも、何だか気持ちがわかるような気がします。

    ………………………………………………………………

ところで…
乳児とか幼児という言葉を何となく使っていますが、いったい何歳までが乳児で、何歳から幼児なのか…。また、その根拠は何なのか…。ちょっと調べてみました。

調査の結果、児童福祉法が根拠であることが判明しました(大げさやな~!)。

同法によると、生後12ヶ月未満、つまり1歳未満を乳児と呼び、1歳から小学校に就学するまでの間を幼児と表現するのだそうである。…ふむふむ。

昨年5月15日に生まれたソラは、今で8ヶ月だから、まぎれもなく乳児である。
青春真っ只中、という言葉を借りるなら、「乳児真っ只中」ということになる。
つまり、今、彼は現役バリバリの乳児なのだ。日々、どんどん変化していく。
バリバリの乳児だから「変化」はイコール「著しい成長」と言い換えられる。

僕などは、へろへろのオジンだから、変化と言えば、目の下のクマが増えたとか、小さな文字が読みにくくなったとか、昨晩何を食べたか忘れてしまったとか…何と申しましょうか…「変化」イコール「老化」ということになる。シクシク。

そのソラであるが、この間まで一枚の座布団に寝転がって手足をバタバタさせていたかと思うと、寝返りをうち始め、うつ伏せになると這いずり回り出し、いつのまにか座るようになって、気がつくと、物をつかんでニョキッと立つようになった。

冒頭の写真は、椅子につかまって、立つ直前である(1月27日撮影)。

こ~ゆ~感じで、よっこらしょい! と、なんとか立ち上がったのである。

             ↓

  

                 ↓

  



は~い、成功。
ぱちぱちぱちぱち。

そのうち、何もつかまずに立ち、次に歩くようになる。さらに走る。そして、転んで泣く。やがて筋の通ったことを話し始め、自分の要求をはっきり伝える…。

すべての領域を、あっという間に通り過ぎて行きそうな、バリバリの乳児である。

乳児生活の残りはあと4ヶ月。
ソラよ…。時の流れはあっという間である。
しっかりと足を地に付けて、貴重な残りの「乳児時代」を楽しんでくれ。

そういえば、こんな歌もあった。

    乳児時代が 夢なんて
     後からほのぼの 思うもの~  ♪
  
(この歌のわかる人も、けっこうオジンですね。あはは)

…と、つまらないことばっかり書いています。

 

  

で、こちらは姉で「ヒト科・幼児属」のモミィ。

26日。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの入口附近で撮ったものです。
2歳数ヶ月なので、まだ「バリバリの幼児」の域には到達していないのか?
少しは歩くのだけど、何やかやと理由をつけて「抱っこ」を要求する。

おかげで、翌日、へろへろのオジン
は、両腕が痛くて大変なのです(泣)。

 


 

 

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 耳鳴り・TRTのスタート

2008年01月25日 | 心と体と健康と

一昨日の23日、大手前病院へ行った。
待ちに待ったTRTの第1日目である。
TRTとは、Tinnitus Retraining Therapy の略で、耳鳴りの再訓練療法、あるいは順応療法、といったような意味なんだそうだ。ちょっとカッコいいなぁ。
…な~んて冗談を言っている場合ではない。これは、人生を賭けた勝負なんだ。

「キーン」と頭の中に響き渡る高周波の耳鳴りが発症して4ヶ月。
24時間休みなしに鳴り続ける。夜に眠るのも一苦労である。

これまで、内科、耳鼻科、循環器科、脳外科、心療内科などを渡り歩き、CTやMRIなどの諸検査で異常なしと言われ、ウツ病ではないか、などとも言われ、医師に処方してもらった血流を改善する薬や、「耳鳴りが治る!」というふれこみの市販の薬もさっぱり効かず、その後は精神安定剤のみを服用し、気分を落ち着かせるだけの日々が続いていた。

これといった治療法はなく、これを飲めば治る、という薬もない。
何をどうすればこの苦痛から逃れられるのか?
耳鳴りを消すことができるのなら、どんな苦労も厭わない…
そんな切実な気持ちも、冷酷な現実の前に、霞のように消し飛ばされる。

耳鳴りというのは、何とも形容しがたいほどに辛いものなのだ。

…とまあ、耳鳴りのことになると、つい愚痴っぽくなる。
それというのも、耳鳴りに一方的に支配されるばかりで自力でどうにもならず、とにかく「慣れること」「順応すること」が最も現実的な治療だと言われているように、すべてが受け身なのである。自分で積極的にこの症状と闘う、という医療システムが確立されていない分野なので、ただただ悩まされるだけで時間が過ぎる。
「順応」といっても、この大音響に順応できるかどうか、はなはだ心もとない。

そんなとき、僕の最後の切り札として存在していたのが、TRTであった。

TRTを実施しているのは、大阪でも限られた病院だけである。
僕が大手前病院を選んだのも、TRTが行われているのをネットで知ったからだ。

去年10月に大手前病院に行って、さっそく担当医にTRTのことを持ち出したら、「聴力や脳血管をちゃんと検査をしてからです」と軽くいなされてしまった。だから、今回、やっとTRTがスタートして、とてもうれしい。

予約日の1月23日午前11時。
大手前病院の「言語聴覚療法室」の前で座っていると、名前を呼ばれ、部屋に入った。そこで専門の技師さんが、そもそもTRTとはどういうものかを、一から丁寧に説明してくれた。

「この療法の目的は、耳鳴りを消すのではないですよ。あくまでも、耳鳴りに対する苦痛度を軽減し、順応させることを目的とするものです」
このことを、技師さんは何回も繰り返した。
僕は、ネットやTRTの冊子に何度も目を通しているので、技師さんの言うことは予備知識としてほぼ備わっており、話の内容はよ~く理解できた。

説明は1時間近く続いた。
説明の後、実際に耳に装着するTCIという機器を見た。
部屋の中には、技師さんのほか、背広姿のTCIのメーカーの社員がおり、その人が、機器を出して、僕の耳に装着してくれた。
前回も書いたけれど、TCIというのは、補聴器のような超小型の耳鳴り制御機器で、それを耳に装着して、そこから流れるザーザーという音を聴きながら、徐々に耳鳴りに対する意識を薄れさせていく、というものである。
一定の効果が出るまで、約2年かかるという。

僕は小さなその機器を、耳鳴りのきつい左耳の方につけたもらった。
ザーザーという雨のような? 滝のような? せせらぎのような? …なんだかそれらをごちゃごちゃにしたような音が流れてくる。それが、耳鳴りの音と混ざりあって、最初はちょっと変な感じである。

技師さんが、パソコンからの操作で、音の種類や音の高さなどをいろいろと変えてくれる。ザーザー音が大きくなると、当然耳鳴りも聞こえにくくなる。でも、ザーザー音の大きさが耳鳴りと同様か、あるいはそれ以上に大きくなってはいけないそうである。耳鳴りの半分から7分ぐらいの音が、治療に適しているそうだ。

「どうですか? これで耳鳴りはまぎれますか? この音はどうですか? もう少し大きくしましょうか? これでどうですか?」
ザーザー…。ザーザー…。ザーザー…。
いろいろと試してくれる。
このザーザー音を快く感じるか、不快に思うかによって、治療効果はまったく違ってくるという。なにしろ2年間ほど続ける訓練である。しかも、毎日8時間以上聴かなければならない。ザーザー音が不快であれば、そんな長期間、続くはずがない。だから、2種類のノイズ(ホワイトノイズ=音が少し荒いが、耳鳴りは紛れやすい。ピンクノイズ=音はソフトだが、耳鳴りが紛れにくい)を聴かされても、どちらを選ぶのか、迷いに迷う僕であった。結局、「心地よさ」を優先して、ピンクノイズを選んだ。

このTCIはデモ機として、2週間、貸し出してくれる。
僕はその期間、これを装着して生活をし、様子を見る。
2週間で耳鳴りが順応するとか、そういったものでは、もちろんない。
装着していて、心地よく感じるか、不快になるかをまず試すのだ。
2週間後に、正式に購入手続きをする、という段取りなのか。
ちなみにこの機器は、ひとつ6万3千円である。

1人の患者におよそ1時間ほどかけてくれたのはありがたい。
それだけでも、心が落ち着くというものである。
ただし、今回は初回だから、次回にはもっと短時間になるのだろう。
TCIを使い慣れてくると、ここへ来るのは2ヶ月に1度くらいでいいという。

さっそく、左耳にデモ機をつけて、病院をあとにした。

検査室ではザーザーがよく聴こえていたが、外に出て、雑踏に入り、地下街を歩いていると、ザーザーはまったく聴こえなくなり、耳鳴りだけがキンキン響く。これなら、つけてもつけなくても同じではないか…と、さっそく不安になってきた。
しかし、帰宅してTRTの冊子を読むと、
「通常、人との会話中は聞こえない位の、ただ静かな時に聞こえる位がちょうど良いとされています」とあり、安心した。
「聞こえない位静かな音」が適当らしい。かすかな音のために、聞こうという気持ちになるから良い、という。
このザーザー音のような無意味な音を聞き続けることによって、やがて脳は耳鳴り音よりもこのザーザー音を感知するようになり、耳鳴りへの意識が薄くなって、気にならなくなる…という仕組みなのだ。

なんと言っても、まだ、使い始めたばかりである。
どう展開していくのか予想できないが、あきらめず、最後までがんばろうと思う。


ところで…

その大手前病院で、時間が来るまで待合の廊下をうろうろしていたら、
「のんさんですか?」と女性から声をかけられた。
「え…? あぁっ…」と僕は息を呑んだ。
このブログにコメントを寄せてくださっているゆかりさんであった。

「でも、まぁ、よく僕だってことが、わかりましたねぇ」
と戸惑いながら言うと、ゆかりさんは、
「ブログの写真を、目に焼き付けてきましたから」
そう言って、さわやかに微笑まれた。

はあ~。このブログの写真は小さいけど、わかるんだなぁ…。
まぁ、写真と実物が同じようなものでよかった。
この写真は「厳選」した結果に載せたものだからね。あはっ。
「写真とずいぶん違いますねェ」ではちょっと格好つかんもんなぁ(笑)。

さて…
ゆかりさんも、僕の1ヵ月後に耳鳴りが発症し、紆余曲折を経てこの大手前病院で診察を受けておられた。そしてこの日からTRTを開始されたのだった。お互い、最初のTRTが23日であることはコメントのやりとりで知っていたけれど、ゆかりさんは9時からで僕は11時からだったから、すれ違いになるものと思っていた。

ゆかりさんは、もうTRTを終えられたあとだった。
横にお母さんがおられ、僕たちは11時前まで廊下に立ったまま話が弾んだ。

ゆかりさんのお母さんは、娘さんのことをとても心配しておられる様子だった。
それも当然であろう。ゆかりさんのような若い女性が、何の因果でこんな耳鳴りみたいなものに取りつかれたのだろう…。まことに不運で気の毒というほかない。
「ずっと落ち込んでいて、最近ようやく仕事にも出られるようになりました」
とお母さんがおっしゃった。
これまでのゆかりさんの3ヶ月の苦悩は、将来のある身として、僕なんかよりも、はるかに悲壮で辛いものだっただろう。

しかし、お母さんを交えての3人の立ち話の中で、「耳鳴りに効く」と聞けば、どんなことでも意欲的にチャレンジし、自分を奮い立たせて積極的に克服しようというゆかりさんの姿勢には、むしろこちらのほうが勇気付けられたほどである。

そんなことで…
TRTによって、一人でも多く救われたら…と切に願うばかりである。
まずもって、自分がこれに成功すれば、ほかの人たちに希望を与えられる。
そのためにも、挫折しないように、気長にこのトレーニングを継続していきたい。

 

 

 


 

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 芸人もいろいろ

2008年01月23日 | 日常のいろいろなこと


 ~ タクシードライバー デ・ニーロ君の運転日誌 2 ~


デ・ニーロ君はタクシー運転歴も半年になり、今では土地勘も鋭くなった。
新米の頃は「○○ホテルへ行ってよ」と言われても、
それがどこにあるのか分からず、お客さんにいちいち聞きながら走った。
今でも「○○ビルへ!」と、地名ではなくビル名を言われると戸惑う。
それでも、毎日あちらこちらを走っていると、どんどん道や場所を覚えていく。
慣れてくると、この仕事もずいぶんやり易くなり、緊張も和らいでくるようだ。

有名人も、何度か乗せたことがあるという。

いつか、歌手の山崎まさよしが、肥後橋から乗ってきたそうだ。
行く先はナンバだったけれど、とても紳士的な雰囲気だったという。
ちなみに、デ・ニーロ君はカラオケが好きで、僕もいっしょに行ったりする。
そのときは、デ・ニーロ君に、山崎まさよしの
「One more time, One more chance 」
という歌を、リクエストして、歌ってもらう。
デ・ニーロ君はまだ35歳なので、こういう歌が得意である。
僕はこの歌を聴くのが好きなので、リクエストする。

え~っと、まぁ、それはそれとして…

関西以外ではあまり知られていないけれど、北野誠も、ウェスティンホテルからハートンホテルまで乗せたことがある。
この人は、お笑いタレントだけど、車の中では、ふだんのテレビの表情は見せず、なかなか真面目な感じで、礼儀正しい人であったという。

ウェスティンホテルからハートンホテルまでは、何通りかのルートがあって、
御堂筋を走ったほうが距離は近いが、混雑しているので時間がかかることがある。
なにわ筋は、距離は少し遠いが、時間的には早かったりするときがある。
「どちらを走りましょうか?」と、デ・ニーロ君が問うと、北野さんは、
「なにわ筋を行って下さい。それから、○○橋を超えて、××通りを行くコースで結構です。よろしく」
とても丁寧な人だった…と、デ・ニーロ君は北野誠の好印象を述べた。

おとなしいと言えば、今田耕司、ホテル阪急インターナショナルから谷町九丁目の交差点まで乗せたが、行儀良く黙って座っていたので、停車するまで、彼とはわからなかったという。
降りるとき、「領収証はどうしますか?」と訊いたら、
「『今田道場』と書いてくれる?」
と言ったので、そこで初めてそのお客さんが今田耕司とわかった…ということだ。
「せやけどなぁ、今田耕司くらいやったら、顔見たらわかるやろ?」
と、僕がつっこむと、デ・ニーロ君は、
「そのとき彼は風邪を引いてたみたいで、ゴホンゴホンと咳き込んでた。それに、マスクしてたから、顔がようわからんかったんや」
それを先に言え。
マスクをしていたら、わからんかったのも当然やろ。それに、風邪を引いて咳き込むくらいだから、おとなしく座席に座っていた…というよりも、ぐた~っとしていたんと違うんか?
なんのこっちゃ。

まぁ、芸人と言っても、タクシーの中ではたいてい普通のおとなしい人なんだ。

…そう思って聞いていたら、いやいや…絵に描いたような高慢ちきな芸人もいた。

最近乗せた芸人で、驚くほどえらそうにしていたのが1人いたという。
「誰や、その芸人ちゅうのは…?」と僕が訊いたら、
「池乃めだかや。あれはもう、メチャえらそうにしてるでぇ~」

吉本新喜劇でおなじみの、池乃めだか、である。
このおっちゃんが、ものすごくえらそうにしていたそうである。

ふつう、有名人が乗ってきても、デ・ニーロ君は声をかけない。
タクシーに乗るのはプライベートだから、それを尊重するのだ。
しかし、池乃めだかの場合、
「おぉ、これは池乃めだかセンセイですか? いつも拝見しています」
…と運転手から言われなかったのが気に入らなかったのか…?

日本橋1丁目から乗ってきた池乃センセイは、むすっとした口調で行く先を指定。行く先は塚本だったが、車内ではずっと不機嫌な様子で、塚本にさしかかると、
「あの赤い看板があるやろ。あそこや」と指を差した。
見ると、飲み屋らしい店が数軒並び、一番手前の店に赤い看板が掛かっていた。
その隣の2軒目店には、オレンジ色の看板が掛かっていた。
さらにその次の3軒目の店には、また赤い看板が掛かっていた。
赤・オレンジ・赤との3つの看板が掛かった飲み屋が3軒並んでいたわけだ。

「ええか。あの赤い看板のとこやぞ」
そう言われ、デ・ニーロ君は1軒目の赤看板の掛かっている店の前で停車した。
すると…
「違う。ここと違うがな。ナニ聞いとんねん。あの赤い看板やろっ」
と、池乃センセイは腹立たしそうに向こうを指差した。
「ほんまにぃ…、どこ見とんねん」と、池乃センセイは、デ・ニーロ君を責めた。

2軒目の店はオレンジ色の看板だったから、ここは素通りした。そして…
次の3軒目の赤い看板の前で車を停めたら、池乃センセイはまたまた激怒し、
「アホか。通り過ぎたやろ。何にもわからんやっちゃなぁ、こいつは」
センセイは、真ん中のオレンジの店を「赤い看板」と言っていたわけだ。
人を人とも思ぬような傲慢な物の言い方だったと言う。
「ほんまに、わけのわからん奴や…」
めだかセンセイは、さんざんデ・ニーロ君をなじりながら降りて行った。

池乃めだかと言えば…
極貧の少年時代を送った苦労人で人情味あふれる人、と言われていたが…。
少なくとも、デ・ニーロ君の前ではそうではなかったようである。
身体は小さいが、態度はデカい、というところであろうか。

「池乃めだかは最悪やった。あんなえらそうなお客、見たことないわ」
話しながら、またそのときのことを思い出したのか、
「あの顔がテレビに出てきたらチャンネル変える。二度と見たないわ」
普段は温厚で、怒ったことのないデ・ニーロ君であるが、このときばかりは、珍しく眉をひそめ、この吉本新喜劇の人気者を、ひどく嫌った。
よほど、不快だったのだろう。

お客さんもいろいろ、芸人もいろいろ。
タクシーの小世界は、やっぱり「人生劇場」である。

 

 

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 「船場吉兆」 と鉢合わせ

2008年01月22日 | 日常のいろいろなこと


 ~ タクシードライバー デ・ニーロ君の運転日誌 ~


僕のごく親しい知人で、去年からタクシーの運転手をしている男性がいる。
名前は、デ・ニーロ君、ということにしておく(もちろん、日本人です)。
タクシーの運転手は24時間勤務の不規則な生活だけど、彼は以前から車の運転が好きだったから、案外この仕事が性に合っているようだ。

デ・ニーロ君から、乗せたお客さんに関するいろいろな話を聞いていると、まことに興味深いものがある。しかしまあ、次々と見知らぬ人を車に乗せるという仕事は、人疲れする僕にはストレスや不安が強すぎて、とうてい出来そうにないが(それ以前の問題として、僕はぺ-パードライバーだ)、それが苦にならなければ、タクシー運転手というのは、平凡なデスクワークよりもはるかにスリリングで、興味の尽きない仕事だとも言える。

タクシーの後部座席の小空間は、まさに人生劇場そのものだ。…と、僕は、デ・ニーロ君の話を聞きながら、いつも思うのだ。

デ・ニーロ君に「いろんな人を乗せて走っていると、イヤな思いもするだろ?」
と水を向けると、そんなに表情を変えることもなく、
「まぁね。いちいち気にしていられないし、お客さんあっての仕事だしね」
そう言いながらも、ちょっと困るお客さんはいるよ、と教えてくれる。
その最たるものは、若い女性の、次のようなタイプらしい。

携帯電話をしながら車に乗り込んできて、ひとこと行く先だけ告げてまた携帯電話で話し始める。ずっと大声で話している。こちらは言われた場所に車を走らせているが、しばらくすると、その女性は突如電話を中断して、
「ちょっと、あんた。道が違うわよ。わざと遠回りしているのんと違う?」

と運転手に抗議するのだそうである。

目的地へのルートが何通りかあれば、運転手は、お客さんに希望のルートを尋ねるのだが、行く先を告げただけですぐに携帯で話し続けるお客に「どの道を行きますか?」と聞くタイミングはなかなかつかめない。だから最も効率的なルートを自分で考えて走ると、突然、後ろから「遠回りしてるのんと違う?」と文句を言う…そんな若い女性がいる、という。
ふ~む。聞いているだけでなんだか不愉快になってくるけれど…。
僕なんか、すぐお客さんと口論してしまいそうである。

…とまあ、いろんなお客さんを経験をするタクシードライバーなのだ。

先週18日(金)の昼ごろ、そのデ・ニーロ君からメールが入った。

「今夜のテレビニュースを見てください。僕が映っているはずだから」
そう書いてある。

テレビに映る? デ・ニーロ君が…?

何事かと思えば、その続きのメールによると、こういうことだった。

淀屋橋で手を上げる人があったので、デ・ニーロ君が車を停めると、ドドド~っと大勢の人たちがこちらへ向かって走って来た。報道陣らしい人たちが、ワイワイと2人の人物を取り囲み、何台ものテレビカメラがそれを追いかけ、あたりは大混乱している。報道陣に取り囲まれながら、デ・ニーロ君のタクシーに乗り込もうとしていたのは…
あの、「船場吉兆」の社長母子であった。

何台ものテレビカメラは、たがいに押し合いへし合いしながら、タクシーのドアのところまで接近し、2人を撮っていた…。
その様子が、テレビニュースで放映されるだろう、というメールだった。
運転手のデ・ニーロ君は、自分の顔も、テレビで映っているはずだから…。

そこで僕はその日の夕方、あちらこちらのニュースをチェックした。

相次ぐ擬装表示問題の中でも、まさかと思われた「船場吉兆」の偽装は、ことのほか大きく報じられてきた。いつかの記者会見で、隣にいる息子である社長に「頭が…真っ白になった…と言いなさい」とささやく女将の声がマイクに入り、「ささやき女将」などと揶揄されたのは記憶に新しいことだ。

民事再生法の適用を申請した船場吉兆は、この18日の午前に淀屋橋で債権者説明会を開き、そこへ報道陣が殺到したというわけだ。そして、その場から逃げるように立ち去ろうとした元女将の社長と息子が、道路へ出て急いで拾ったタクシーが、偶然にも、デ・ニーロ君が運転するタクシーだったわけだ。

そして夕方、テレビを見ていると、そのニュースが始まった。

説明会が終了したあとの映像が流れる。
社長の元女将とその息子の元社長らの記者会見があり、それが終わると母と息子の2人は、報道陣にもみくちゃにされながら外に出て、デ・ニーロ君のタクシーに乗り込もうと、もがいている。一歩ずつタクシーのドアに近づき、なんとか報道陣を振り切って乗ることができた。その前部座席、つまり運転席に、デ・ニーロ君がいる。目を凝らして見ていると、チラッとだが、見覚えのある顔が映っていた。ほんの一瞬だった。

テレビは、デ・ニーロ君のタクシーがその場から遠ざかっていくところを背後から映したあと、画面が切り替わって別のニュースになった。

わずか1秒あるかないかの「テレビ出演」だったデ・ニーロ君。
車はかなりの時間映っていたけれど、運転手の姿はチラっとだけ。

翌日、デ・ニーロ君に会ったとき、
「横顔と後姿が、チラッと一瞬だけしか映ってなかったよ」
と言うと、デ・ニーロ君は、
「そう…? いっぱい友達にメールしたのになあ…」
そう言って、笑っていた。

 

 

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 今年もよろしく

2008年01月20日 | モミィの成長日記

 

          ~ モミィとソラの成長日記 ~

モミィにとっては3度目の、ソラにとっては初めての新年を迎えました。

いろんな言葉を次々に覚え、一日中しゃべっているのは2歳3ヶ月のモミィ。
わが家の階段の壁に、いくつか西洋画のミニチュア額が掛けてあるのですが、
「これは何?」と指差すと、「モナリジャァ~」と言います。
「では、これは何」と指差すと、「ノードルダメビーン」とか言います。
前者は「モナリザ」、後者はパリの「ノートルダム寺院」の絵です。
毎日、階段の上がり下りをするときに教えると、やはり覚えるのですね。
本人は何を言っているのかわからんのでしょうけど…。

弟のソラは、去年の5月生まれですから、今で8ヶ月。
自分で座ることができますが、最近は姉のモミィのところまで這い進み、
モミィの身体に触れた次の瞬間、つかまり立ちをしたりします。
そんなとき、つかまれたモミィは
「ぎゃ~ん」と、泣きます。

そのソラに、きつい口内炎ができ、ミルクや離乳食を受けつけなくなり、
昨日、病院へ診察に行きました。
血液検査では異状なしでしたが、1時間、点滴を受けて帰ってきました。

そんなモミィとソラですが、今年もよろしくおねがいします。


 

     
     お正月。 モミィのパパの友達とその子供たちが遊びに来たとき。
      友達は、パパの家ではなく、僕らの家に毎年遊びに来ます。




        
        早く立って歩けるようになったらいいね。

      

 

 

 

 

 

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 ダイヤモンド・ヘッドの謎

2008年01月18日 | 旅行

    シェラトンホテルの プールサイドから見た ダイヤモンド・ヘッド

 

ホノルルへ着いた日は、寝不足やトラブルで疲れ切り、体調が悪かった。
しかし、幸いというか不思議というか、2日目には元気な身体に戻っていた。
寒がりな僕の身体に、ここの暖かい気候がうまく合ったのかもしれない。

そこで、この日の午前中はダイヤモンド・ヘッドに登ろうということになった。
5年前、妻と2人で来たときにも、そこへ登った。
山頂からの眺めは、それはもう…素晴らしいの一言に尽きた。
ハワイが初めての義姉にもそれを見せてあげたいので、3人で登ることにした。

ルックJTBからもらう『‘OLI‘OLI カード』を持ってさえいれば、街の中を走る『‘OLI‘OLI トロリーバス』に自由に乗り降りができる。僕たちはホテルのビュッフェで朝食をとった後、そのトロリーバスに乗って、ダイヤモンド・ヘッドの登山口まで行った。




                      登山口からダイヤモンド・ヘッドを望む


登山口にインフォメーションセンターがあって、1人1ドルを払う。
ここは洲自然記念公園になっているので、入園料がいるのだ。
5年前に来たときには、この辺で懐中電灯なんかを売っている業者たちがいたが、今日はその姿は見えなかった。

なぜ懐中電灯かというと、登山コースの最後のほうにトンネルや螺旋階段があって、そこが真っ暗だから懐中電灯が必要だった。そのことを事前にガイドブックで読んでいたので、そのとき僕たちは、自分たちで懐中電灯を用意して行った。

でも、今回は持って行かなかった。ネットで調べると、その後、トンネルに電灯が設置されたので懐中電灯はいらなくなった、ということである。だから、懐中電灯を売る業者も「失業」したのだろうか? 

 

        
              登山口にある モニュメント



美しい緑の景色に囲まれて、ゆっくりと歩いて行く。
最初はごくゆるい登り…というよりほとんど平坦といっていい道だ。
しかも舗装されているので、とても歩きやすい。
おまけに、あまり暑くもなく、絶好のハイキング日和となった。
「来てよかった…」と、この旅行で初めて思った瞬間でもあった。

 


                      向こう正面にダイヤモンド・ヘッドの頂上が見える


そして、だんだんと道幅が狭くなり、坂道も険しくなり始める。
降りて来る人たちと道を譲り合いながら、目が合うとニコッと笑顔を交し合う。
よ~く観察してみると、ニコッとするのはたいてい日本人以外の人たちだ。
日本人といえば、むつ~っとした表情のまま、すれ違う人が多い。
特に若い新婚カップルの女のほうが、その傾向が強い(みたいに思う)。
新婚の男のほうは笑顔も見せているが、女はほとんどブスッとしている。
(街角やエレベーターなんかでもそうだ。なぜか女のほうが不機嫌な顔なのだ)
まあ、そんなことはどうでもいいんだけど…。

 




                 道幅が だんだん 狭くなる  

 

途中、小さな展望台があり、そこで休憩している人も多い。

山頂が近づいてくると、目の前にコンクリートの階段が現れる。
まず一つ目の階段。かなりの急勾配である。
手元のパンフレットによると、76段あるそうだ。
これを上りきると、最初のトンネルに入る。
ゼイゼイ…
「休憩しましょか?」
と、トンネルの中で立ち止まり、息を整える。
5年前はここからが真っ暗で懐中電灯が必要だったのだけれど、今回は随所に電灯がついているので危なくない。

トンネルのあとは、また階段がある。
今度は99段。これもまた、急な勾配だ。





     2つめの階段。 
     急な勾配を見上げて、「げぇっ…」 とみんながのけぞってしまう場所である。


この階段も、よっこらよっこらと、手すりを持ちながら上がっていく。
するとまたトンネルになって、そこで再び立ち止まり、息を整える。

そのあとトンネルは突き当たりとなり、右側の螺旋状の階段を上がる。
ここも前回は真っ暗だったが、今は薄明るいので足もとは安全だ。




          螺旋階段を上から見下ろしたところ

螺旋階段を上がりきると、身体を縮めないと出られないような狭い出口がある。そして、その出口を這いつくばるようにしてくぐり抜けると、外へ出る。

「おお~っ!」
と、思わず唸りたくなるような美しい海の風景が視界に広がる。

そして、最後の階段を上がって行くのだ。

 

 

この階段を上がりきったところが、ダイヤモンド・ヘッドの頂上の展望台だ。

所要時間は登山口から30分程度だったろうか。

真っ青な海とワイキキの街並みが広がる絶景中の絶景である。





  ダイヤモンド・ヘッドは、かつては (今も?)   軍事用の重要な要塞であり、
  この展望台も、パンフレットには 「観察所」 と表記されています。
  ご覧のとおり、ここは オアフ島の沿岸防衛に、理想的な場所なのです。

 


    このダイヤモンド・ヘッドをワイキキ側から見るとこうなります。
    山のてっぺんに、展望台があります。


360度のパノラマを満喫した後、同じ道を下って登山口に戻った。

…ということで、ダイヤモンド・ヘッド・ハイキングの話は、これでおしまいです。

                          ~ The End ~


  ………………………………………………………………………………


な~んだ、たったそれだけのことかぁ…
…ってことになりますよね。
じゃぁ、今日のタイトルの ダイヤモンド・ヘッドの謎」 て何なのだ?
何が「謎」なのか? それを明らかにしなければならない。

そうです。
この話にオチをつけなければ、ここまで我慢強く読んでくださった皆さんに申し訳ありませんから、その「謎」に関する話で締めくくります。


登山口まで戻り、トロリーバスが来るのを待つ間に…
僕たちは、その「謎」を発見したのである。

トイレのそばに、小さな休憩所があった。
そして、そこに、こんな貼り紙がされていたのである。

         

 

写真の右端にある休憩所へ近づいて行くと…。

そこに、この貼り紙が…。
まあ、読んでみてください。
あ、英語のほうじゃなくて、日本語のほうですよ。


 


 ここの、日本語で書かれている文章の一部分ですが…
 な~んだか、ちょっと、妙ちきりんでしょ。
 これが…僕らが発見した 「ダイヤモンド・ヘッドの謎」 なのです。

 すみません。 バカみたいな話で…。

 

 

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 ホノルル空港の謎

2008年01月16日 | 旅行

1月10日の夜から14日まで、3泊5日でホノルルへ行ってきた。

妻と妻の姉と僕の3人旅である。
これは、かなり以前から決めていた旅行である。

ところが、年末から正月にかけて、風邪や耳鳴りや心身症で僕の体調が最悪の状態となり、出発直前まで、行けるかどうか甚だ不安なままに日が過ぎて、ギリギリまで迷い、悩んだ。でも、義姉らは何ヶ月も前からハワイを楽しみにしている。その期待を、自分の体調のせいで一挙に暗転させるわけにはいかない。

旅行は中止し、この3連休は家で静養すべきではないか…?
もし、向こうでダウンするという事態になったらどうするのか…?

あれやこれやと思案し不安を抱えながらも、8日ごろから体調は少し回復し始め、なんとか10日午後10時、関西空港を発つ便に乗れたことは幸いであった。

やれ耳鳴りだの心身症だのと言いながら病院通いをしている生活の中に、突如ハワイ旅行が入るのだから、自分でも妙な感じだった。しかしそういう予定になっていたのだから、何とも仕方がない。とにかく、体調を維持して無事に帰国しなければならない…。旅行のチラシでは「現地で病気になったとき」の項目ばかり読んでいた。とにかく旅先では身体に最大限の注意を払い、無理せず過ごさなければ…。

な~んて感じで、わりと悲壮な決意をして、臨んだ旅行であった。
だから今回は、旅行前の、あのシビれるようなワクワク感というのはゼロ。
14日、健康な身体で大阪に帰ることだけしか念頭になかった。

1月10日(木)。
関西空港を午後10時に離陸して、ホノルル空港に到着予定は午前4時20分。

所要時間はわずか6時間20分である。

それなのに、JALは離陸1時間後、つまり午後11時に「夕食」を出した。ボリューム満点の食事だったらしい。…らしい、というのは後で妻から聞いた話で、僕は食事を断りすぐにアイマスクをして眠る態勢に入ったからだ。しかしザワザワガヤガヤとしてなかなか眠れない。飛行機の轟音の中でも耳鳴りははっきりと聞こえる。耳鳴りとは音の高さが違うので相変わらず「キーン」と頭の中で響いている。家のベッドでもなかなか眠れないのに、飛行機の座席で眠るのは至難のワザだ。しかし眠らなければ、明日に影響が出る。元気な時ならいいが、今はわずかな寝不足でも日中の体調に影響が出る。とにかく眠らなければ…

…が、安定剤を飲んでも眠くならず、アセると余計に眠れない。目をつぶっているだけの状態で悶々と姿勢を変えたりしているうち、アイマスクを外すと、やがて暗かった機内に照明がついた。時計は午前3時過ぎ。到着の約1時間前だ。

ここで「朝食」のパンが出た。
わずか6時間余りのフライトなのに、2度も食事が出るんだ。
乗客は眠っているヒマなどない。

日本とハワイの時差は、19時間である。ハワイが19時間遅い。
日本時間10日の午後10時に大阪を発ち、翌11日の午前4時20分にホノルル空港に着いたが、ホノルル時間は10日の午前9時20分であった。19時間というとややこしいのだけれど、要するに日本時間に5時間足した時間がハワイの時間なのだ。ただし、日は前日に戻る。だから、僕たちは10日午後10時から6時間ちょっと飛行機に揺られて、日本時間の11日午前4時20分、現地時間の10日午前9時20分にホノルルへ着いたことになる。

ちなみに、行きは6時間20分でホノルルへ着いたのだけれど…
帰りは、ホノルルから関西空港まで、なんと9時間半もかかった。
旅のしおりを見ると、往路は7時間、復路は9時間40分と書かれている。
5年前にクイズに当たってマウイ島とオアフ島へ行ったことがあるけれど、そのときは、それほど往復の所要時間が違っていたようには思わなかったなぁ~。
なんで行きと帰りが3時間も違うのか…謎である。
どなたか知っておられる方は教えてくださ~い。

さて、ホノルル空港に到着して、狭い座席から立って通路に出た。

あぁ~、眠い。今日はしんどいだろうなぁ…
今が夜だといいのになぁ…。ならすぐにホテルで眠れるのだけれど。
午前9時20分ではなぁ…。
そんなことを思いながら機外へ出て、入国審査の場所に向かう。


ホノルル空港でのその入国審査のとき、思いも寄らぬ事態が起きた。

入国審査の列に並んでいた僕たち3人。
やがて順番が来て、僕と妻がいっしょに審査を受けた。
「シンコンリョコウデスカ?」
検査官は大声で僕らにそう言って、グワッハッハァと笑った。
僕らも大声を出して笑った。
そこまではよかった。

僕がまず顔写真(目の写真)と、指の指紋をとられた。
以前はなかったことだが、何年か前から審査が厳重になってこんなことをする。
僕の次に妻が顔写真と指紋を…。
指紋は、スキャナの上に左右の人差し指を順に乗せる。
妻がどちらかの指を乗せたとき、検査官が「チョットマッテ」と言った。
そして、日本語のできるスタッフを大声で呼んだ。

ん? なんだ、なんだ。何かモンダイがあったのか?

日本語のできるおばちゃんが走ってきて、検査官の話を英語で聞いたあと、
僕たちに向かって、
「奥さんの指紋が合わないから、一緒に別の場所に行ってください」
と言った。

なぁ~~~にぃ~~~…??????

「指紋が合わない…?」
僕と妻は顔を見合わせた。
なんのこっちゃ?

1昨年、ロスアンゼルス空港の入国審査で僕たちは指紋押印をした。
その妻の指紋が、その時のものと合わない…という意味なのであろうか?
検査官がブースから出てきて、「こっちへ」という仕草をする。
僕たち3人は、わけがわからないまま、誘導されて歩いて行く。
なんだか、「連行」されるみたいな、いや~な気分である。

そして、廊下の向こうの左側の部屋に、妻は連れて行かれた。
妻のパスポートは、検査官がしっかり握っている。
僕もついて行こうとすると、別の検査官の男が、
「ダメだ」というジェスチャーをして僕の前に立ちふさがった。
「なんでやねん!」と叫んだけれど、ここらの検査官に日本語は通じない。
「私は彼女の夫である。だから一緒に行くのだ」
と、心配で胸が一杯の僕は、カタコト英語で言うのだが、相手は非情にも「ノー」と言うだけで取り合おうとしない。

妻の姿が消え、僕は蒼ざめた。
義姉も僕の後ろでぼう然としている。
いかにハワイとはいえ、ここはすでに外国である。
何があったのかも定かではない。
「指紋が合わない」というだけで、どこに連れて行って何の調べをするのか、何の説明もしてくれずに、あちらへ行け、というのだ。
それって人権侵害じゃぁないのか。
もっとわかるように理由を言え、理由を!
…と言ってもここは日本ではないので、どうしようもない。
妻がひとり連れて行かれるのを、何もできずに見ているだけなんて…。

…とイライラして廊下に立っていると、その検査官の男は、
「ここにいてはだめだから、下へ降りろ」と言う。
「イヤだ。ワイフがそこにいるから、私もここにいる」
と突っぱねると、
「ダメだ、ダメだ。早く下へ行け」
と身体を軽く押し始めた。
そこへ、アロハシャツを来たさっきの日本語のわかるおばちゃんが来て、
「下へ降りて荷物を取って、税関の前で待っていなさい」と言った。
「妻はいつ戻ってくるの?」と僕は日本語でおばちゃんに聞く。
「たくさんの人たちがいるからね、順番があるから、いつになるかわからないよ」

いつになるかわからない? そんな無責任な答えがあるかっつ~の。
まったく~。

隣では検査官の男が早く行け、としつこく促す。
どこまでもイヤな奴だ。
「じゃあ、そこで待っているけど、絶対ワイフは戻るんだろうね」
と、おばちゃんに念を押す。頼れるのはこのおばちゃんだけなんだから。
「いつになるか時間はわからないよ。でも税関の外へ出ちゃだめよ」
そう言って、さぁ、早く、というように、せかす動作をした。

あれだけ大勢の人が並んでいた入国審査場に、乗客は一人もいなくなっていた。

僕と義姉は、重い足を運び、エスカレーターで降りた。
降りたすぐそばに、ターンテーブルがあった。
そこに、僕たちの荷物だけがポツンと2つ、取り残されたように置かれていた。
あたりに乗客らしい姿はない。みんな何事もなく出て行ったのだろう。

荷物を取り、またエスカレーターの下まで行って、妻を待つ。
誰も、エスカレーターから降りてこない。
義姉にそこにいるように言い、また僕は上に上がった。
さきほどの部屋に少し近づいた。
数人の検査官が雑談をしているが、今度は咎められなかった。

あまり近づくと、また例の男が来そうだったので、遠くから眺める。

じっと立って妻が戻ってくるのを待つのだが、誰も出てこない。
たしか「たくさんいるから、順番があるから、いつになるかわからない」
と、おばちゃんが言ってたけれど、誰も出てこない。
ということは、最後に入った妻が出てくるのは、いったいいつになるの?
不安は膨れる一方だ。

あぁ~
途方に暮れる、とはまさにこのことである。
僕は、天井を仰いだ。
もともと良くない体調が、ますます崩れそうになる。
なんだか、絶望的な気分になってくる。
不整脈の前触れのような動悸もし始めた。
あわててウエストバッグの薬を探す。
いや待て。今は何時なんだ?
時差があるので、薬を飲む時間がわからなくなってきた。
でも、そんなことは言ってられない。不整脈の薬をグイと水で流し込む。

せっかくの旅行だと言うのに、なんというスタートなんだ。
僕はまたエスカレーターで下に降り、義姉と2人で椅子に座る。

海外旅行にはアクシデントがつきものだけど…

ブダペストでは数人に取り囲まれてパスポートを奪われそうになった。
イタリアではフィレンツェ空港に着いたはずが、ボローニャ空港だった。
パリでは、帰国時の空港を間違えて大慌てしたことがあった。
サンフランシスコからの帰国便では後部のドアがはずれて、途中Uターンした。

まあ、いろんなことがある。

でも、今回のように「公権力」で妻と引き離される事態など、初めてのことだ。

いろんな妄想が頭をよぎる。

タイへの卒業旅行で知らぬ間に麻薬をバッグに入れられ、空港で捜査官に逮捕され懲役刑を受けたアメリカ女性2人の実話を描いた映画「ブロークダウン・パレス」のシーンなんかを思い出してしまう…。ずっと昔に見た映画で、すっかり忘れていたのに、縁起でもないそんな映画がこんなときに限って浮かぶ…。映画の中の、主人公のクレア・デーンズの恐怖におののく悲鳴が、耳に響いてくる。ぎゃぁ~。

妻が、何かの間違いで逮捕された! なんてことに…。
でもここは東南アジアではない。ハワイだからなぁ。そんなアホなこと、あるわけないだろ。いや、それでも外国のことだ。何が起こるかわからない。ぎゃぁ~。

…何をバカなことを考えているんだ、と気を取り直して、じっと待つ。

どれくらいの時間が経過したのか、よく覚えていない。
多分、1時間も待たなかったと思うが、その時間は永遠のように思われた。

エスカレーターから降りてくる妻の姿を見たときは、へなへなとその場に座り込みそうになった。

「ああ~、よかった。無事でよかった」
僕は妻に駆け寄った。
妻は比較的冷静な表情で、中の様子を語った。

部屋の中には20人前後の日本人や外国人がいて、数列の長椅子は満席。
妻は後ろで立っていたという。
奥にカウンタがあり、係官が誰かの名前を呼ぶ。
呼ばれた人がカウンタに行くと、「英語は出来るか?」とか聞かれている。
そしてまた、長椅子に戻る。
次に呼ばれた人も、何事かを言われてまた長椅子に戻る…。
そんな感じで、誰も退室を許可されるものはいなかった。
(そういえば、僕が待っている間、誰も出てこなかった)
やがて、ドアの後ろから妻のパスポートを持った者が来て、妻の名を呼んだ。
そして、妻にパスポートを渡し、行ってよろしい、ということになったという。

結局何が何だかわからないままだったけれど、身柄の「拘束」は解けた。
一番あとのほうに部屋に入った妻が、一番先に出てきたことになる。
何にしてもよかった、よかった。

税関の出口はすでにロープが張ってあったが、担当官が僕たちを見て、外へ出してくれた。税関を出て左側に団体出口がある。やれやれ、と安堵しながら出口を出ると、JTBの現地係員が僕らを見て、「○○さん、ですか?」と名前を呼んだ。
ずっと待ってくれていたのだろう。
「そうです。遅くなってどうも…」
と僕は現地係員にあいさつをして、
「実は、妻の指紋が合わないということで足止めされていたんですよ」
と、当局を非難する口調でボヤいた。
「なんであんなことするんやろなぁ、ほんまに、腹立つでぇ」
と、思わず大阪弁も出た。

「あ、そうでしたか?」
と、僕の話を聞いた若い女性の現地係員は、流暢な日本語で
「よくあるんですよね、そういうことが」とうなづいていた。
「えぇ…? よくある?」
「そうです。奥様の指がひび割れしていたんじゃないですか? そうすると、指紋が合わないということで、一応チェックされるんです。お客様の中にも、そういう方がたくさんいらっしゃいますよ」
「ひび割れ…??」
僕は妻を見たあと、思わず自分の人差し指を確かめた。
人差し指のひび割れが原因…??

一時は妻が逮捕されるのではないかとまで心配した僕は、拍子抜けした。
それにしても、ひび割れ → 指紋が合わない → 取調室…
なんという連鎖であろうか。

みなさん。
冬場にハワイへ行かれるときは、両手人差し指のお手入れをお忘れなく。

…とまあ、こんなふうなオチで、この話は一段落して、僕たちは空港からバスに乗ったのである。

それにしても…。
妻はすぐに「解放」されたけれども、そのほかの20人ほどの人たちは、どういう理由で長時間、取調べの部屋に足止めされているのであろうか。

謎である。

 

 

 

 

 

 

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 耳鳴り・TRT療法というもの

2008年01月09日 | 心と体と健康と

 
 
今年の1月4日は、僕の耳鳴りが始まってから100日目だったそうです。
 ~だったそうです…というのはまるで他人事のようですが。
 誰がそう言っていたのか?

      ↓

 1月4日のテレビニュースがそう言っていました。

…とまあ、新年早々ボケた話から入るわけですが、むろん「のんさんの耳鳴りから100日が経ちました」とテレビが伝えるはずはないけれど、実は、僕の耳鳴りが発症したのは、昨年の9月26日のこと。この9月26日というのは、自民党の福田さんが内閣総理大臣に就任した日と同じ日なのである。

そのおかげ(?)で、新聞やテレビを見ていると、
10月26日には「福田首相、就任から1ヶ月…」
11月26日には「福田政権2ヶ月目を迎えて…」
12月26日には「福田総理3ヶ月の成果は…?」
…などと、毎月26日が来ると首相就任何ヶ月目、というニュースが報じられるので、それと同じ日から耳鳴りが始まった僕は、「あぁ、耳鳴りからもう2ヶ月かぁ」とか、「3ヶ月なぁ、う~む、この先いったいどうなるのか…」などと、なんとも言いようのない感慨を抱いて、僕にとってはこの上もなく忌まわしい9月26日という日を、思わず振り返ってしまうのである。

…そんなとき、1月4日のニュースで、「福田政権100日の歩み」という特集なんかをやっていたので、

 あ~、耳鳴りからもう100日か…

となったわけで…。
ただそれだけの話です。わけわからなくて、すみません。

でもね。この先、福田政権がどれくらい続くのか知らないけれど、福田内閣より僕の耳鳴りのほうが「長期政権」になるかもしれない。いやだなぁ…。


さて、それから4日過ぎた昨日の1月8日。つまり耳鳴り発症から104日目に当たる日、僕は、大阪城公園の隣にある大手前病院へ行った。昨年10月以来、耳鳴りでこの病院へ行くのは4回目か5回目くらいになる。

年末はいろんな都合で行けなかった。
薬をもらわなければならないので、妻に代わりに行ってもらった。
その際、妻に、医師への手紙をことづけた。
「次回はTRT療法をお願いしてもいいですか?」という短い内容の手紙だ。
それに対して医師は「では次回にそのお話をしましょう」と言ってくれたそうだ。

だから今回はちょっと「意気込み」が違うのだ。
「今日こそは、医師にTRT治療のことを直訴しなければ…」
そう心に決めての病院行きだった。

(TRT療法とは慢性耳鳴りの治療法のひとつ。後ほど詳細を…)


しかしまあ、9連休だったというのに、なんとも冴えない年末年始だったなあ。
休暇中、僕の耳鳴りの症状は、まったく改善する兆しはなかった。
それどころか、風邪をこじらせて体調が悪かったことも関係していたのか、左側の耳鳴りは今までよりもさらにキーンと高く鋭い音に増幅し、右耳の側もそれに呼応するかのように高くなり、苦痛度がいよいよ増してきた。「慌てるな。怖がるな。
焦るな。気にするな。どうっていうことないねんから…」と懸命に自分の心に言い聞かせ、それによって心身症を起こさないように努力をするのだけれど、数日間は吐き気と疲労感と食欲不振が続いた。まあ、飲酒も原因になっていたのだろうけど、9連休で数キロ痩せ、仕事始めの日に履いたズボンはブカブカであった。

さて、昨日の1月8日のことに話を戻す。
午前中だけ仕事の休暇をもらって、僕は朝から病院へ行った。

病院の耳鼻咽喉科の待合で、僕の前の男の人は、鼻血が止まらず苦しそうだった。その前の人は、強いめまいがして仕事ができない、と嘆いていた。
病院を訪れる人たちは、みんな、それぞれ大変なんだ。
ま、それはさておき…
40分少し待って、僕の順番が来た。

診察の前に、二重の扉に仕切られた聴力検査室で検査を受ける。
検査が終わってから診察である。
聴力は、高音部の難聴が少しあるという、これまでと同じ結果だった。

これまで、病院へ来て、医師の診察を受けても、聴力検査をして、デパスという安定剤をもらうだけだった。しかし、今日はこれでは引き下がれない。
医師に現状を細かく伝えて、
「少しでも苦痛の度合いを軽くしたいので…」
ということで、本格的な治療をぜひお願いしたいと訴えた。

「前回は奥さんが来られまして、TRTというご希望でしたね…」
医師は落ち着いて、カルテを見ながら、
「では、そういうことにしましょう」
と言ってくれた。

医師が僕の症状について理解を示してくれたことがうれしかった。
医師は、耳鳴りは数ヶ月間で慣れる人も多いので、これまで様子を見ていたけれども、そういう状況であれば、今後はTRT療法に切り替えましょう、と言ってくれたのである。あ~、いい医師に当たってよかった。

やっと耳鳴りの治療への出発点に立てたという気持ちであった。

TRT療法とは、耳鳴りを意識しないように訓練するという治療方法で、比較的新しい療法だそうである。TCI(Tinnitus Control Instrument)という耳鳴り制御機器があって、超小型の耳かけ形の補聴器のような形をしたものなのだが、これを耳にはめる。その機器からノイズを発生させ、耳鳴りに対する意識レベルを下げる訓練であって、最終的に耳鳴りを消すのが目的ではなく、あくまでも「意識しないように」訓練をするものである。

1日にかなり長時間装着し、しかも効果が出るまでには1年以上かかると言われている訓練なので、生半可なことでは続けられそうにもない。だけど、耳鳴りの苦痛は、それ以上に生半可なものではなく、その苦痛を少しでも軽減できるのならどんな苦労も厭わない、という気持ちも、耳鳴りで悩む人たちの真情である。

さて、医師の診察を終えた後、TRTに関する予備検査というのをした。
検査技師さんが僕の隣に座って、まず、
「今現在、耳鳴りの大きさは、ゼロから100までのうち、どれくらいですか?」
と尋ねてきた。
「えっ…? 今、ですか?」
と僕は一瞬考える。
その時もキーンと鳴り響いている耳鳴りだが、果たしてこれがいつもと比較してどの程度の大きさなのか?
今は病院へ来ているという安心感とか、TRTに関する対話に集中しているとかの心理が働いているから、めっちゃ大音量だという感じはしない。普段の方がもっと音が大きい。しかし、今はゼロから100までのうちどれくらいか、と言われるとなぁ~。むずかしい。
「…そうですね。70くらいでしょうか…」
と、ここは自信なく、適当に言わざるを得なかった。

そのあと、機器を使って、耳鳴りの高さや、大きさの検査をした。
ヘッドホーンをつけると、「ピー」とか「プー」とか「ジー」とか「キーン」とかの音が繰り返される。
「どの音が今の耳鳴りに一番近いですか?」と技師さんが尋ねる。
「キーン、です」と僕は答える。
その次は、ヘッドホーンをつけたまま、そのキーンという音が少しずつ大きくなるのを聴く。
「耳鳴りの音と同じくらいの大きさになったら言ってください」
これで耳鳴りの音量を計るのである。
耳鳴りの種類や音量は客観的に計測できないので、すべて僕自身の主観だ。
ちょっと頼りないが、まあ大体この辺だろうというところで「はい」と答える。

次に「ザ~ザ~ザ~」というノイズの入ったイヤホーンをつける。
それで耳鳴りの音が消えるまでボリュームが上げられる。
これがTCIと呼ばれる耳鳴り制御機器と同種のものなのだろう。
それをつけて、1分間じっと目を閉じ、「ザ~ザ~ザ~」を聴く。
1分後にイヤホーンを取ると、耳鳴りはピタリと止んでいる。
…が、数秒したらまた「キーン」と小さく響き始め、すぐに元の音量に戻った。
「あ、聞こえない。あ、聞こえてきた。あ、今、元の音量に戻った」
と、そのつど、技師さんに伝えるのである。

そのあと、耳鳴りに関する問診票のほか、精神分析や性格テストみたいな内容の用紙を何枚かもらった。
「次回までに、書き込んでおいてくださいね」
と検査技師さん。

次回は1月23日と決まった。

その時にTRT療法のより具体的なことを教えてもらえるのだろう。

まあ、とにかく、耳鳴り発症後104日目に、ようやく本来の治療に向かってレールが敷かれたことにいささか安堵している。耳鳴りが強くとも、「耳鳴りを克服する訓練が控えている」と思えば、それを心の支えにして耐えることもできるだろう。

まずはお正月だから、これを「おめでたいこと」としておこう。
あとは、頑張るしかないけれど…。

 

 

 

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