僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

退職の日

2009年03月31日 | 日常のいろいろなこと

退職をすることって、結構骨の折れることなんですよね。

1ヶ月以上もいろんな人たちからご好意あふれる送別会をしていただいた。
だから、どうしても飲みすぎになる。贅沢な悩みですけど

毎月血液検査をしてもらっている徳○会病院での、ガンマGTP(肝臓のアルコールによるダメージ度)の数値が、1月より2月、2月より3月と、グングン上がってきている。それでも、風邪気味の時はあったが、大幅に体調を崩すということはなく、昨晩、今月最後の送別会を楽しくに終えることができて、本当によかった。

28日の土曜日は、休日出勤して荷物を片付けた。

制服(事務服、作業服、防災服、合羽)は貸与されているので返さなければならない。しかし、人事課は、僕のネームの入った古い服を返してもらっても使い道がないので困るだろう。「適当に処分してください。まあ、市のマークも入った服だから軽率に扱わないようにだけはお願いします」とのこと。つまり、しっかり処分しておくように、ということだ。

29日の日曜日は、家で葉書の挨拶礼状を作ってプリンターで印刷した。
在職中、お世話になった皆さんに、お礼の言葉を書き、それだけでは愛想がないので、昭和58年に出場したニューヨークシティマラソンでのフィニッシュの写真をつけた。僕がゴールしている上には大きく「FINISH」の幕が写真に写っている。写真の下に「今回は38年間の公務員生活のFINISHです」とキャプションをつけた。

出すところは150枚ほどあった。
ところが、50枚ぐらい刷って行くと、だんだんと写真が赤みを帯びてきて、最後のほうは真っ赤に近い色になり、どうやってみても火事場のような写真になった。原因はわからない。仕方なく、途中から写真を大阪長居競技場でのマラソンのゴールの写真に変えて、「38年間の公務員生活のゴールです」と説明をつけた。そんなことで、29日は1日中、眼がかすむほどその作業に没頭した。

昨日の30日(月)は、市役所の7階から順番に下りて行って、下水道部、都市整備部、財政部、教育委員会、総務部、秘書室、市民生活部、保健福祉部へと、順番に回って、職員の皆さんに、お礼のあいさつに回った。
「長い間お世話になり、ありがとうございました」
「あ、ご丁寧に。長い間、ご苦労様でした」
これを、何10回と繰り返す。久しぶりに話す人もあって、全部回りきるのにかなりの時間がかかった。

職場に戻っても何人かの職員が訪ねて来て、餞別などをいただいたりした。

副市長は「長い間お疲れさま。これから退職しても、市の行事(たとえばハイキング大会や、美化キャンペーンなど)にはどしどし参加してや」と握手をしながら、言われた。市役所を辞めると二度と顔を見せない人もかなりいるが、僕はOB会の行事にもどんどん参加するつもりだし、役所へ顔を覗かせもしたいし、今回送別会などでいろいろお世話になった年下の人たちとは、今後も飲みに行ったりするつもりである。38年間在職すると、数多くの友人ができる。その付き合いは、これからも大切にしたい。

そんなことで、昨日は1日中、挨拶をしたり机を片付けたりしていると、なんとなく胸が熱くなってきた。退職なんてどうということはない、と思っていたのにね…。

夕方、職場を訪ねて来た一人の女子職員が、僕の前で涙を流した。

僕が役所に入ったときに同じ課だった女性で、ちょうど彼女は20歳の誕生日を迎えた頃だった。みんなでハッピーバースデーの歌を歌ったことを今でも懐かしく覚えているが、彼女もそういうことを僕の顔を見て思い出したようで、思わず涙をこぼしたのだった。こちらまで涙が出そうになった。
「あれから38年が経ったのですねぇ。早いですねぇ…」

夜、創作中華料理店で「山の会」(というグループ)の人たちが送別会をしてくれた。そのうちの2人は去年同じ役所を退職したばかりの人たちだった。その人たちとワイワイ話をしていると、昼間の、なんとなく感傷的になった気分も和らいできた。

でも、家に帰って、ベッドに入ると、やっぱり何かヘンだ。眠れない。退職をするということが、どういうことなのか、まだ、よくわからない。

もういくつ寝たら退職だろと指折り数えていたが
もういくつ寝てもずっと退職のままである。

スーツを着て、ネクタイを締めて出て行かなくてもいい。
どんな生活なんだ? と思う。
40年ほど前の学生生活みたいなものだろうか
あれはまあ、一応大学へ通っていた。
これからは、通うところもない。
どんなんだろう…?

そんなことを思うと、ほとんど眠れないまま日付が変わった。
午前3時には、もう起きた。起きて、このブログを書いている。

今日は9時10分頃に議長から「議会事務局出向を解く」という辞令をもらい、
9時半に市長室へ行き、市長から退職辞令をもらう。

健康保険証と職員証を人事課に返す。

そして職場に戻って、最後のあいさつをし、見送られて、そのまま帰る。
今日は議員さんたちが、僕を見送ってくれるそうである。

それで、38年間の役所生活のすべてが、終わる。

4月1日と2日は、モミィを連れて、妻と3人で和歌山県の白浜温泉へ。

3日は議会事務局の、新任の事務局長も含めての歓送迎会。

5日~9日は、妻と2人で「青春18切符」を使って、大阪から、東京~仙台~盛岡~青森~秋田と電車に揺られ、秋田から飛行機で帰って来る。


              

それでは、葉書の印刷は途中で失敗したNYマラソンの写真ですが、
ここでその写真を使わせていただき、皆様に退職のご挨拶を申し上げます。

明日から何の仕事も持たないフーテンおじさんになりますが、
ブログは続けますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

 

  

  1983年(昭和58年) ニューヨーク マラソンでの フィニッシュ。
  今日は、38年間の 公務員生活のフィニッシュで~す。 

 

 

 

 

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議会の最後は おまけつき

2009年03月27日 | 議会&役所

25日にとうとう議会が終わった。
通算26年間の議会事務局生活での、最後の議会だった。

その夜に行われた某ホテルでの送別会で、退職者を代表をしてあいさつをするという大層な役回りをさせられて、なんとかそれは無難に終えることができ、まあ、やれやれ、ほんとうによかった、WBCも日本が優勝したしなぁ…と、何もかもがハッピーエンドという、まことに幸せな気分に浸ったのである。


…こうして、最後まで勤め終えることができ、今日、このように華やかな舞台に立たせていただき、お世話になった皆様方に、暖かく見送っていただくことができますのは、本当に幸せなことでございます。WBCの日本連覇と同様、終わりよければすべてよし。まさに、ハッピーエンド、ハッピーリタイアという言葉のとおり、幸せな退職である、と、私どもは考えております…。今後におきましても、これまで役所生活で培わせていただきました数多くの経験を活かして、これから、充実した意義のある第二の人生を送ってまいりたいと考えておりますので、なにとぞよろしくご指導のほどを、お願い申し上げる次第でございます。
むにゃむにゃむにゃむにゃ…

  …………………………………………………………………………


前にも書いたが、僕が勤めている市では、この3月末に市民病院が閉院されることになっている。

市民病院が消えると住民の方たちが困ることは誰にでもわかっていることだけれども、医師不足や建物の老朽化など、深い問題が根底に横たわる中で、病院経営は悪化の一途をたどり、1日300万円近くの赤字を日々生み出してきていたのが現状だ。1日300万円だと1月9000万円、1年で10億以上の赤字が生まれ、すでに累積では40数億円の赤字を抱えている。

市民病院は、地域でそこにしか病院がないという環境であれば、行政の責任として、閉院は、住民にとって死活問題になってくるけれど、うちの市のように、他に大病院がいくつもあり(僕が毎月不整脈を診てもらっている徳○会病院もこの市にある)、医療環境が満ち足りている地域であれば、市民病院の果たす役割りは相対的に低くなり、それよりも、病院が生み出す膨大な負債によって市全体が赤字になり、その影響で他の住民サービスが低下する…ということを防ぐ方が大事な問題ではないかと思われる。そこで市長は、昨年11月に、断腸の思いではあったろうけれど、この3月をもって病院を閉院する、という苦渋の決断をされたのである。

千葉県銚子市では、市長が「公約を破って市民病院を休止にした」ということで、反対団体が市長のリコール(解職請求)の運動を行った。市内有権者の3分の1の署名が集まれば、市長をクビするか否かの住民投票に持ち込むことが出来る。銚子市では、その3分の1以上の署名が集まり、この3月29日に住民投票が行われることになっている。


http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/localpolicy/229628/



わが市でも、2月中旬に、病院閉鎖に反対する活動団体が「市長はけしからん」と、リコールの署名運動が展開された。運動期間は法律で1ヶ月間と決められているが、結果は、有権者の3分の1の署名は集まらず、リコールは不成立に終わり、銚子市のように住民投票には持ち込まれなかった。

しかし、うちの市長の任期満了は今年の6月であり、5月31日に市長選挙が行われることはすでに確定している。解職請求だの住民投票だと言っても、どうせ5月末に市長選挙は行われるのであり、それを思えば、今回のリコール運動は何のために行われたのか…という疑問は、大いに残るのである。


病院の問題については、僕は去年の9月に銚子市の例を挙げて書きました。
まだその時は、僕は自分の立場を隠していましたが、病院を閉鎖するということの考え方は、詳しくそこに書いています。

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20080912



さて、そんな背景の中で、25日、僕にとっても最後の本会議が開かれた。
3月定例会の最終日である。

事前に市長が、本会議の閉会直前に、進退を発表するということをマスコミに告げていたので、当日の本会議場にはテレビカメラが入り、新聞記者が何人も傍聴席へ取材に来ていた。

その場所で、最後に市長が発言席に立ち、市民病院の問題も一定の目処がついたので、次の選挙には出馬しない、ということを表明した。

…ということは、市長は、この議会が最後の議会になるわけだ。

僕も、この議会が最後の議会である。
立場は全然違うけれど、何となく不思議な縁を感じる。

市長の不出馬宣言は予想外であり、周囲に大きな波紋を投げかけた。
次の市長には誰が立候補するのかという問題である。
いま、わが議会ではその話題で持ちきりである。
おそらく、市議会議員の中から立候補者が出るだろう。
一方、病院閉鎖反対の団体からも、当然市長候補が出てくるだろう。
選挙の投票日は5月31日。あと2ヶ月しかない。短期決戦である。
まさに風雲急を告げている昨日、今日である。

そんな中で、僕は退職まであと5日となった。

あわただしい周囲の空気の中で、僕のほうはのんびりしたものだ。

机の中を片付けたり、送別会を開いてくれた人たちに、お礼の手紙とマクドナルドの券を配ったりしている。

WBCで日本選手が「世界をつかもう」という文字が入ったヘルメットを被っていたのをご存知の方も多いと思う。あれはマクドナルドの提供であった。日本のWBC連覇にちなんで、僕は妻にマックの券をたくさん買い込んでもらって、お世話になった方々へ、「世界をつかんでください」と、手紙の中へ何枚か入れてお渡しをしている。
「世界はつかめませんが、マックはつまめます」な~んて、若い人からお礼のメールをもらったりした。あはは。



 ~ おまけ ~

しかし、まあ、26日の朝刊を見たときはびっくりした。

市長が出馬しないという記事の横に写真が掲載されていたが、その写真というのは、市長が本会議場の演壇でしゃべっているシーンである。

演壇の後ろに議長席があり、その横に僕が座っているのだが、朝刊の写真をよ~く見たら、市長の右後方に小さく、ピントのボケた僕の顔が写っていた。

最後の最後の議会で、ピンボケ顔写真を新聞に掲載してもらって…
まことにしあわせな退職でございます。
ついでだから、その記事もここへ貼り付けておきます。

 

   
  市長の背後霊ではありません。 のん、です。(26日毎日新聞朝刊)

 

 

 

 

 

 

 

 

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WBC ・日本連覇!

2009年03月25日 | スポーツの話題

昨日のWBC決勝戦も、昼休みのあいだ、TVを見ていた。
何回か忘れたが、青木がランナーを置いてライト方向に大飛球を放ったときはホームランかと思って小躍りした…が、フェンス際で捕られてしまった。1点を争う息詰まる熱戦だ。なぜ、日本と韓国というのは、いつもこんな体に悪い試合をしてくれるのだ。午後の始業のチャイムがうらめしかった。

午前10時半ごろから試合は始まっていたようだ。
時々試合経過のメールが入ってきた。
仕事の合間に、携帯をこっそり見る。
「2回表、二死1、2塁もイチロー凡退。0対0」
またイチローがブレーキか、とメールを見ながら舌打ちをする僕。

11時半過ぎ。「3回。1対0で勝っている」というメールと、もう1本別に、「3回表、小笠原のタイムリーで先制。その後の1アウト満塁のチャンスは活かせず1対0」とのメールが入る。日本が先制したのか、よ~し。でも、日本はチャンスをつぶしているのも多いようだ。取れるだけ追加点を取っておかねば、1点ではいかにも頼りない。

そして昼休みにテレビを見たわけだが、日本は再三ランナーを出しながらも、あと一発が出ない。なんだか悪い予感の漂う試合展開である。

次にメールが来たのは1時半だ。
「8回裏、韓国1点取って2死1塁で岩隈から杉内へ。3対2で日本リード」

ん…? 試合はかなり動いている。

2時過ぎ。
「9回。3対2で勝っている。ダルビッシュ四球出しちゃった。危な~い」
この回を0点で抑えたら宿願の優勝だ。しかしダルが…。うぅ。頑張れ。

しかし…8分後。
「9回裏韓国同点。延長へ」
「だめ、追いつかれた。延長戦」
なんじゃそら。仕事も手につかなくなってくる。

2時半頃、「イチローのタイムリーで5対3」との報。
よ~し。と、携帯を握り締めた手に力が入る。
戦況は、そのまわりの人たちにも教えてあげる。
みんなも気になって仕方ないようだ。

そして2時41分、「やったぜ~!! 優勝」のメール。

職場のものに伝えると、小さな拍手が起こった。


             


夜、9時から2時間にわたって、TVで試合のダイジェスト放送を見た。
勝つとわかっている試合を見るのはなんとも心が落ち着き、いいものである。
水戸黄門を同じで、どんな危ないシーンがあっても、最後は必ず勝つのだ。

ところで…
延長戦に入った段階で、日本は12安打で韓国は5安打と、日本が圧倒的にヒットを打ちまくっているのに、なんで得点が3対3なのだと不思議に思った。
ダイジェスト放送では日本が得点したイニングを中心に放映していたが、映っていないところで、何度も何度も日本は絶好機を逃していたようだ。まあ、最後には勝てばいいのだが、9回裏、ダルビッシュがあと一人までこぎつけながら痛恨のタイムリーを浴びたとき、あのまま次の打者にもヒットが出て逆転サヨナラ負けなんぞ喫したら、日本のファンは、もう当分のあいだ、立ち直れないだろうと思う。よくあそこを踏ん張って三振にしとめたものだ。

そして最後は…やっぱり、イチローか。
負けたらこの大会の「戦犯」にもなりかねない崖っぷちに立ちながら、さすがイチローと思わせる見事な打撃を披露してくれた。

これで日本はWBCで堂々の2連覇だ。
前回は運が良すぎた感があり、「まぐれ」と思われるフシも多かった。
しかし、今回の優勝で、日本の実力は本物であったことが証明された。
北京での星野ジャパンの惨敗は骨身にこたえたが、これでようやく気分が晴れた。次のWBCまで、安心して過ごすことが出来る。これは大きい。

それにしても、イチローのことは、どう表現していいのだ。
まるで昔のプロレスの力道山を見ているみたいだ。
外人に反則なんかをされて、リングのコーナーにもたれ、されるがままにじっと耐える力道山。ファンの声援が悲鳴に変わるころ、すくっと立ち上がって急に空手チョップを連発し、たちまち形成を逆転して最後に相手を倒す…。

高倉健さんの仁侠映画もそうだ。
映画の前半から中盤は、健さんは悪いヤツにやられっぱなしである。
健さんはじっと耐えている。意気地のないやつだ、とも思わせる。
しかし、映画のラストについに健さんの怒りは爆発し、敵陣へ殴りこみをかけ、やっつけてしまうのである。ぱちぱちぱち。

今回のイチローは、力道山か「昭和任侠伝」の健さんの世界であった。

とにかく韓国を破って優勝を決めたことはサイコーである。
これで、大会中のいろんな不満もすべて帳消しだ。
「終わりよければすべてよし」とはよく言ったものだ。

今夜の某ホテルでの、送別会のあいさつの中でも使おう。
「終わりよければすべてよし。幸せな退職ができるのが一番です」

WBCに夢中になるとつい忘れがちになるが、今日は僕にとっての最後の議会である。今日の議会の最後に市長が、次の選挙に出るか出ないかを表明するということなので、今日はまた、テレビ局や新聞社が来るそうである。

議会が終わって、夜の送別会も終わったら、本当に一段落である。
退職まで1週間。早く明日の朝になれ~。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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やったぁ~ 

2009年03月24日 | スポーツの話題


               

                


              


           


        

    
            


                        

        



 

 

 

 

 

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もういくつ寝ると… 3

2009年03月23日 | 議会&役所

海の向こうの野球に血道を上げているうちにどんどん日が経っていく。
気がつけば3連休も終わり、今日は23日である。退職まであと9日だ。

昨日はWBC準決勝ベネズエラ・韓国戦が日本時間の朝10時から行われた。
テレビ放送もないのでインターネットで経過を見て行こうと思っていた。
そんなとき、関口宏の「サンデーモーニング」のチャンネルをそのままにしていると、次の「サンデージャポン」というバラエティ番組で、その野球の中継映像が入ってきた。な、なんと、韓国が1回の表から、ヒットや本塁打を連ねて5点を取っていた。ぎゃふん。

そのあと、インターネットの速報は、2回に韓国が2点を追加し、2回表の段階で7対0という数字を示していた。もうこれは、勝負が決まったも同然である。なんと味気ない試合であることか。ベネズエラの「大リーガーでかため、目下チームは絶好調」というふれこみはいったい何だったのか…? あほらしくなるような結果である。最終的には10対2のスコアであった。

だから日本はベネズエラとやりたかったのだ…と、また未練がましく組み合わせの運の悪さを嘆く僕なのであった。

…といっても、日本とアメリカはきょう、これから対戦する。まだ日本が負けたわけではない。守備も攻撃もボロボロだったベネズエラみたいなわけにはいくまいが、アメリカの力で押してくる投手を、日本の自慢の左打線が攻略する確率はかなり高い。イチローさえ打ちまくってくれたらゼッタイに勝てるものと信じている。頑張って欲しい。

きょうは、徳○会病院で月に一度の診察に行く日である。
本来なら、夜に行くのであるが、今日はどうしても断れない方から送別会をしていただくということで、やむを得ず、診察予約を午前中に変更してもらった。もう、間もなく支度をして、家を出なければならない。

野球の日米決戦は今日の午前9時からである。
僕は病院が10時半からの予約なので、たぶん病院の待合室のテレビでそれを断片的に見る…ということになるかもしれない。といっても、病院の待合のテレビでは、高校野球がかかっている可能性もあり、見られるかどうかもわからないけどね。まあ、仕方ない。あまりカンカンになって興奮していると、今日の検査で、血圧や脈拍数が上がっていたり、不整脈が出たりすると大変だ。ほどほどにしておこう…(と言いながら、やっぱり、とても気にしている)

さて、今週は25日が議会の最終日である。
これが終わると、おおかたの僕の役目は終わったと言える。
あとはデスクの回りの整理をするだけである。
書類の整理と、不要なものの処分。そして私物は家に持ち帰る。
お世話になった人たちへのあいさつも、漏れのないようにしなければ。

その25日の最終議会が終わったあと…。
夜は某ホテルで、全議員と、市長や副市長や教育長、それに幹部職員たちが全員出席して、退職者の送別会が行われることになっている。これは、毎年恒例の行事である。去年僕はこの会の世話役として、ホテル側と打ち合わせをしたりセレモニーの司会をしたりしたが、今年も同じくもう一人の総務担当者といっしょに僕も世話役をしている。…が、今回は見送られるほうでもある。

10人近い退職者たちを代表して、その席で、誰か一人、舞台に立ってお礼の挨拶をしなければならない。これでみんなモメるのである。
誰が挨拶をするかは、話し合いで決めるのであるが、
「お前がやれ」
「いや、それは困る。あいつにやらせろ」
「かんにんして。人前でしゃべるのはニガ手やから」
「ほかのことやったらするけど、これだけはなぁ」
などと、「謙虚」な人物ばかりであるからお互いに押し付けあって、誰も引き受けようとはしない。み~んな、いい歳をしているのに難儀なことである。

あれやこれやとしているうちに、僕は世話役をしている関係上、とうとう、誰もするものがいないということで、自分のところにその挨拶役が回ってきてしまったのである。まったく、もぉぉぉぉ~

おかげで、僕はそのための原稿を作り、いま、一生懸命それを暗記するのに追われているところである。他にしなければならないことがたくさんあるのに、とんでもない役が舞い込んできたものである。何よりも、25日の議会の本会議が終わったら、その瞬間にホッとしたい。なのに、まだその後の送別会でまた挨拶をしなければならないとは、気分が重い。

きのうからポケットに原稿を入れ、暇さえあれば取り出して読んでいる。


本日はこのように盛大な送別会を開いていただき誠にありがとうございます。
また先ほどは、市長様・議長様より心あたたまるお言葉を頂戴いたしまして、厚くお礼申し上げます。こうして無事退職のときを迎えることができましたのも、ひとえに議員の皆様方はじめ、職員の皆様方の暖かいご支援・ご厚情のおかげであると、心より感謝している次第でございます…。
むにゃむにゃむにゃむにゃむにゃ…


ああぁ、うまく覚えられるかなぁ。気が重い。
また耳鳴りの音が大きくなりそうだ。
脈も乱れそう…。
早く25日が終わってほしい~

 

 

 

 

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WBC・おらほの岩隈

2009年03月20日 | スポーツの話題

前日同様、昼のお弁当を食べながら日本・キューバ戦を見た。
岩隈が丁寧な投球で初回を0点に抑えたとき、「よっしゃ~」と叫んだ。
ピッチャーは、1回の立ち上がりが一番心配だもんね。

松坂もダルビッシュも、立ち上がりが不安定である。
松坂は大勝した東京での韓国戦でも初回は4番打者に2ランを打たれている。
先日のキューバ戦でも1回、いきなりピンチを迎えた。
そのときは松坂はさすがに後続を断って得点を許さなかったけれど、ダルビッシュの場合はボールが先行してリズムを狂わせ、いきなり3点を献上した。

野球は初回が大きなポイントになる。
そのためには、トップバッターが出るか出ないかの差が大きい。
おとといの韓国は、先頭打者がダルから1-3後にヒットを打ったあと、いきなり盗塁を成功させ、3点先取につなげた。だいたいああいう戦法は、日本のお家芸なのである。イチローがあたりがやらなきゃならない芸当なのである。なのに、相手にお株を奪われては、そりゃ勝つのはむずかしいわ。

昨日は昼休みに両軍とも点は入らなかった。
落ち着いた滑り出しであった。
昼休みが終わり、僕は、0対0のまま、テレビを消し、仕事に戻らなければならなかった。

実は僕の勤める市では、市長が昨年11月に、市民病院を3月末に閉鎖する、ことを発表した。
自治体病院の経営は非常に難しい。
累積赤字が膨大な数字に上り、このままでは本体の市自体も赤字団体に転落してしまう(つまり夕張みたいに)ということで、市長は苦渋の決断をしたわけだけど、病院閉鎖の議案が議決される12月の議会には、マスコミや反対住民たちが傍聴に殺到し、野次と怒号の中で議会が閉鎖案を議決したという経過がある。その様子はテレビニュースでも放映され、本会議場の中で、議長席の横に座っている僕の姿もテレビに映り、学生時代の友達から
「おまえ、テレビに映っとったなぁ」という電話をもらったりした。

僕が一時ブログを休止していたのは、体調の不良に加えて、仕事でそういう問題を抱えていたことにもよる。

その後、病院閉鎖に反対する勢力は、市長のリコール運動を始めた。
1ヶ月間で、市内有権者の3分の1に当たる約3万4千を超える署名を集めると、市長を解職するかどうかの住民投票が行われることになっている。その署名集めの期限が16日であった。そして昨日は、活動団体はその集計をして、新聞社に発表をするという日でもあった。

「あれ、どないなってんねん。リコールは成立したんかいな」と、昨日来た議員は異口同音にそんなことを尋ねる。
僕は選挙管理委員会に訊いたり、知ってそうなところに問い合わせたりしたが、夜にならなければわからない、という返事があるばかりだった。
とにかく、リコール運動の行方が、きのうの職場の最大の関心事だった。

そんな中で、午後1時09分にメールが入った。
長男からである。
「2死2・3塁から小笠原センターフライ。キューバ落球で日本2点先制」
お、やった~。先制は日本だ。しかも相手の落球とはラッキーな …

そのあと、何の音沙汰も無かったが、3時半ごろにじゃいさんから、
「9回表4-0で勝っている。ノーアウト1、3塁」
というメールが入ったかと思ったら、2分後に
「やった! 5-0。イチロー三塁打からの得点でした」
と、続報が入る。

イチローが長打を放ったのか…。
ずっと球に当てるだけの苦しいバッティングをしていたので、それは何よりの朗報だ。やはりイチローが打たねば話にならない。明日以降が楽しみだね~。

さらに10分後。
「岩隈→杉内 5-0で勝利!! 明日、韓国と対戦決定」

長男からも「5-0で勝ちました」とのメールが入った。

おらほの岩隈が、6回までキューバ打線を完封したという。これは大きい。
岩隈の安定した投球は、やはり日本のファンの期待通りであった。
ええぞ、おらほの岩隈。東北のみなさん、見てはりましたか~

…あぁ~、とにかくこれで、やれやれ、である。

僕は、昨日の夜はまた送別会があり、大いに盛り上がって二次会にカラオケなどにも行き、帰宅したのは夜中の2時であった。飲んでいる途中に電話が入り、リコールの署名数が法定数に届かなかったという報告が入った。

野球のニュースは、そんなことで全く見る機会がなかった。イチローの三塁打というのも見たかったが、まあそんな暇もなく、きょうこのあと10時から日韓戦があるので、そこに集中するモードに、僕はもう入っている。

これで祝日のきょう、ゆっくり家で日韓戦を見ることができる。
春分の日というものが、これほどありがたい日だったとは…。
なんとも値打ちのある祝日である。

今日の試合は、理屈で言えば、勝っても負けてもあまり意味がない。
勝てば準決勝でベネズエラと当たり、負ければアメリカと当たるだけ…。
その違いしかない。
どちらと当たってもいいんだけれど、アメリカはちょっとイヤな感じがする。
でも、韓国に勝つとアメリカと当たる。
ベネズエラと当たろうと思えば、韓国戦に負けなければならない。
ベネズエラと当たると、試合は22日の日曜日にある。
家でテレビが見られる。
アメリカと当たると、試合は23日の月曜日である。

ということは、今日は負けてもいいということか…?

いやいや。他の国なら、負けるのもいいだろう。
しかし韓国にむざむざ3連敗を喫するなどという醜態は見たくない。
なんとしてでも勝て。韓国を撃破せよ。それしかない。

日本の先発投手は、おらほの巨人・内海だそうだ。
こういう伏兵が、案外いいピッチングをしたりしてね。

…それにしても、眠い。
夜中2時過ぎに寝て、6時半に起きて、このブログを書く。
でも、眠くても朝刊を広げ、紙面で昨日の試合を楽しみながら、ブログを書くのはなかなかの快感である。(同じ新聞の地域版には、「署名数足らず、○○市長リコール断念」の記事もあった)。

さあ、4度目の日韓戦まであと2時間。
楽しみだなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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WBC・はらたつのり

2009年03月18日 | スポーツの話題

なんという結末であろうか…。

こんなことを二度も繰り返していいのか。
同じピッチャーにまたも抑えられ、安打も散発。
情けないのを、もう通り越してしまっている。カリカリッ。
まったく~。キューバ戦のあの勢いは、どこへ行ったのだ!

きょうの昼休み。試合開始はちょうど正午からだった。
職場の奥にある応接室のテレビのスイッチを入れ、僕は弁当を食べながら、WBC2次ラウンド・日本対韓国戦を見た。約50分間の昼休み中だけの観戦だ。

僕はいっしょに見ている若い職員たちに、
「先発ダルビッシュなぁ…。なんか打たれそうな気がするなぁ」
そう言うと、若手たちも、
「そうですね。な~んか、韓国を相手にするには、力強さに欠けますよね」
と、同調する。僕はさらに、
「それに、ダルは半分外国人やしなぁ…」と言ったら、
「あ、それは言っちゃだめです。差別になりますから」
とたしなめられた。

あのなぁ…それは深読みし過ぎやろ。誰が差別しとんねん。
宿敵韓国に対して絶対に抑えてやろう、という「ど根性」というか「大和魂」というか、そういうことは、日本人離れしたルックスで人気者のダルには
ピンとこないのではないか…という意味合いで言っただけなんだよん。

しかしまあ、それはそれとして…。
「ダルは不安や。岩隈を先発させたらええのに…」
試合が始まってからも、そうぶつぶつ言いながら、弁当をつついていると、
1回の裏、あれよあれよという間に3点を取られてしまったのである。
とほほ。

午後の始業のチャイムが鳴って仕事に戻り、僕は会議や打ち合わせで、その後の野球の経過はまったくわからなかったが、そのあと日本は1点しか取れず、8回に韓国にとどめの1点を入れられて結局4対1で敗れたという情報を、メールでいただいて知った。なんのことはない。要するに1回が全てだったのだ。昼の弁当を食べている間に試合が決まったわけだ。あぁ~あ。こんな試合、ずっと見ていなくてよかったわ~い。

打線がふがいなかったというよりも、1回裏の3失点がすべてだった。
3点もリードされたら、その後の攻撃がむずかしい。
無死1塁でも、バントもできないんだもんね。
だから強攻する。そうしたら、ダブルプレーになったりする。
そういうことだから、初回に試合は決まったといっていい。
(しかしイチローは今日もあかんかったみたいやなぁ。どうなってるねん?)

見たくもなかったが、夜のニュースで試合結果の報道が目に入った。

試合終了後、韓国はピッチャーマウンドに韓国国旗を立てているではないか。
あんなこと、して、ええんか。
なんか、竹島に国旗を立てているのと同じやないか。
くそっ。

はらたつ~。はらたつのり~。(もうええか)

とにかく、明日はキューバに勝ってくれ。
そして20日の祝日の朝10時から、もう一度、日韓戦を見せてくれ~


 

 

 

 

 

 

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もういくつ寝ると… 2

2009年03月17日 | 議会&役所


   ~ 花 束 ~


16日は早朝の5時からWBC2次ラウンド1組の日本対キューバ戦があった。
9日の韓国戦に完封負けを喫したショックは、僕はまだ癒えていなかった。
アジアを1位通過した韓国の相手は格下のメキシコだし、2位に甘んじた日本は世界一とも言われるキューバが相手である。どうしても僕の中では、悲観的な見方が先行してしまう。だが、日本は米大リーグ相手の練習試合で2勝して打撃も好調の兆しを見せてきた。なんとかいけるかも…という期待も持てるようになってきた。そして、16日早朝のキューバ戦を、首を長くして待った。

ところが…
前日の夕方から寒気がしてきて、体がだるい。
夕飯にお好み焼きを焼いたが、缶ビールを半分飲んだらもういらない。これは明らかに気分がすぐれない証拠である。明日からまた仕事だというのに、それに夜は送別会もあるというのに…えらいこっちゃ。

早い目に布団に入って8時半には寝た。
そのときには、野球のことはもう頭になかった。
僕の眠りはいつも浅いから、夜中に何度も目が覚める。
何度目かに目が覚めたら5時だった。まだ早い。もう少し寝なければ…。

次に目覚めたのが6時前だった。
起きようか、いやもう少し寝ていようか…寝ぼけながら迷っていた。迷いながら、いつもの癖で枕元の携帯電話に手を伸ばし、寝転んだままで何気なく開けてみると1通のメールが入っていた。目をこすりながら見ると、じゃいさんからのメールで、「WBC見てますか?」と書いてあった。僕は気がつかなかったが、5時半ぐらいにメールが届いていたのだった。

「うっ! 忘れてたぁ」と、あわてて僕が飛び起きたことは言うまでもない。
体はまだだるく、寒気を感じていたが、階段を転げ落ちるように下りて、居間に入り、テレビをつけた。

画面を見ると、3階の表、日本の攻撃で無死1、2塁の好機にイチローが打席に立っていた。得点は0-0。おお、なんといい場面から見たことか。

イチローがうまいバントを見せたが2塁ランナーの城島の下手な走塁で3塁アウト。あちゃ~。また悪い予感がするな~。
そう思っていたら、次の片岡がきれいに打ち返して1死満塁となった。
ここでキューバの164キロの左腕のエースが降板。別の左投手が出てきた。
眠気もふっとび、テレビ画面を食い入るように見つめる。

リリーフに出た左投手がまたお粗末で、青木を迎えていきなり暴投で3塁ランナーが返り、日本は労せずして先取点を奪った。そのあと青木のポテンヒットで2点目、さらに村田が今度はきちんと外野犠牲フライを打って3点目が入った。あわててテレビをつけてから、息もつかせぬ日本の攻撃であっというまに3点をリードした。ほんと、いい場面から見ることができてラッキー。ゆかりさんからも、「この調子でどんどん追加得点入れていってくれー」とメールがきた。朝早くから、み~んなこの野球を見ているんだ。

キューバは風と太陽光線に守備を乱されたところがあった。
この球場は右中間が深く、左バッターが引っ張ってホームランを打つのは難しいとされている。そのわりには左中間は浅い。しかしいつも風が強いので、本塁打は出にくく、投手有利の球場だと言われている。日本人の大リーガーたちは、この球場に慣れており、特徴をしっかり把握していたことも大きい。それにひきかえ、キューバは、青木の2点目のポテンヒットもそうだが、フライに対応できなかった。城島の高く舞い上がったフライも、キューバの外野手は球を見失い、二塁打にしてしまった。もっとも、イチローもライトのファールフライを落球するという珍しいミスを演じたが…。

5対0となった7回表、「おらほ」の岩隈が登場したところで僕は出勤しなければならなかった。これがもっと接戦だったら出勤できなかったところである。といっても、行かなきゃ仕方ないけれど…。

  注: 「おらほ」とは、楽天球団が本拠地としている東北地方の方言で、
       「うちの」という意味。ちひろさんに教えてもらいました。


さて、8時40分に役所に着いて、テレビを見たら、藤川が2塁打を打たれながらも後続を断ち、日本が6対0でキューバに快勝した。いよぉっ。ええぞ~。

…そんなことで、日本はまず1勝をあげ、次は18日に韓国・メキシコ戦の勝者と準決勝進出をかけて争うことになったが、その韓国・メキシコ戦は、僕としてはメキシコに勝って欲しかったのだが、残念ながら、韓国が8対2で大勝した。韓国も強い。あぁ~あ。これでまた、明日の18日は日本と韓国の試合だ。
やはり、韓国というのは避けて通れない関門なのだ

今日17日は、負けたもの同士のキューバとメキシコが敗者復活戦を行う。
これに、仮にキューバが勝ったとする。
明日18日は、日本と韓国が対戦する。
この試合に、もしも、もしもだよ、日本が負けたとすると…。
韓国は準決勝進出を決め、日本は19日に再びキューバと戦う。
これに負けたらその時点で日本は敗退だ。大会から姿を消してしまう。
勝てば準決勝進出が決まり、20日はまた韓国と1組の1位決定戦を行う。

そういう危ない橋を渡ってもらいたくないので、ここはあっさり、明日18日の韓国戦に勝って、さっさと準決勝進出を決めてもらわなければならない。

18日といえば平日、つまり仕事中である。
しかも試合開始は昼の12時。
昼休みにちょっとだけテレビを見られそうだが、そんなんじゃ未練が残る。
まことに、ざんね~ん。
これが来月なら、テレビなんか朝から晩まで見ていられるのにな~。

それにしても、日本が昨日のような赤と紺のユニフォームを着ると勝ち、白いユニフォームを着ると負ける…というジンクスがあるようだ。次の韓国戦では、日本はどちらのユニフォームを着るのだ…? それが大きな問題である。

    ………………………………………………………………

朝から野球でぐったり疲れた体に鞭打ち、仕事に出る。

議会のほうは3月の定例会の真っ只中で、忙しい。

いまは予算特別委員会というのが連日行われている。

    ………………………………………………………………

夜は阿倍野に出て、送別会をしてもらった。
メンバーは、4年前に大阪城から明石大橋まで往復する100キロウオークに出場した歩き仲間5人に加え、僕が昔総務課の文書法規係にいたときにいっしょに仕事をした男子職員と、女子職員の2人の、計7人だった。いちおう、全員顔見知りということで集まったそうだ。女子職員のほうは僕より年下だけど、5年前にひどい腰痛で歩けなくなり、退職をしていた。僕は5年ぶりに彼女に会った。腰はよくなり、体がとても細くなっていた。
「何かダイエットしたわけ…?」と聞くと、
「えへへへ~。してるわよ~」と、彼女は満面に笑みを浮かべた。

昨晩は缶ビール1本飲むのに精一杯だったが、この日は快調だった。
それでも、なるべく飲むペースを遅くして、量を控えた。
この次の送別会は19日にある。さらに23日、25日、30日と、まだ4回。
「体調を壊しまして…」と欠席するわけにはいかない席である。

宴もたけなわのころ、幹事をしてくれていた若い友人が、
「それでは、花束を贈呈します」と言ったので「え?」と思った。
いつのまにか、座敷の隅に花束が用意されている。

「退職、おめでとうございます…って言っていいんですか?」
と、とまどいながら、本日の「紅一点」が僕にその花束を手渡してくれた。
記念品はもらったことがあるけれど、花束なんてもらうのは初めてだ。
受け取る僕も、とまどってしまう。
パチパチパチと拍手があり、「何かひとこと」との声がかかる。

思わぬ展開に、僕はどうお礼を言っていいかすぐに思いつかず、

「はぁ、どうもありがとうございます。えぇ~っと、バレンタインデーのチョコレートにですね…、義理チョコと本命チョコがあるように、ですね…、送別会もさまざまな形があるわけですが、えぇ~っと、きょうお招きいただいた送別会は、本命チョコ送別会でありまして、たいへん感激しております」

と、わけのわからない挨拶をしてしまった僕である。

花束を抱えたまま電車に乗り、帰宅すると妻がさっそくそれを生けてくれた。


 

   

 


退職まであと15日。 大相撲1場所分だ。 がんばろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

    

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もういくつ寝ると… 1

2009年03月15日 | 議会&役所

 
  ~ 手 紙 ~


3月もちょうど半分が終わった。

先月くらいから、「あと少しですねぇ」と会う人ごとに言われながらも、なかなか実感が湧かなかったが、3月に入ってから、3日、4日、6日、8日、11日と送別会を兼ねた飲み会が重なっていくと、そのつど、「長い間ご苦労様でした」と労をねぎらわれ、「これから、どうするんですか?」と今後を尋ねられ、そんなことが何回も繰り返されると、やはり、もう終わりなんだなぁ…という感慨が、じわじわと身に沁み始めてきた。

あと半月の間、自分のこれまでの仕事人生を振り返りながら、定年退職のその時を迎えるまでの日々を、ここに書きとどめておきたいと思う。

僕が今の市役所に勤め始めたのが、昭和46年(1971年)の8月だった。

その年の3月に大学を卒業したのだが、卒業式のその1週間前に僕は結婚式を挙げていた。本来なら就職活動に走り回っているはずの大学4年生の時期の1年間、僕は自分の両親や相手の両親に、どうしたら結婚を認めさせることができるか、みたいなことばかり考えていたので、就職に関しては「どこでもええわ」と、ずいぶんいい加減だった。そんなことから、大学の時に邦楽のクラブで尺八や琴を演奏していたという理由だけで、求人募集でチラッと見た小さな和楽器店に応募し、そこへ勤めることにしたのだ。

その和楽器店から、阿倍野近鉄百貨店への出向を命じられ、百貨店の3階の片隅の、琴、尺八、三味線などを置く和楽器売り場コーナーで、一日中ボーっと立っていた。しかし、日曜日に休めない、一人でずっと立ちっぱなし、お客が少ないのでつまらない、小さな店だったので将来の保証がない…などの理由で、次の就職先の当てもないまま、そこは3ヶ月で辞めてしまった。

妻に「役所に勤めれば?」と言われていたが、役人など自分の性格に合わないと思っていた。だけど22歳で家庭を持ち、やがて子供もできるだろうから、そんなことを言っている場合ではなかった。1ヵ月後の7月、毎日新聞の求人欄に、小さく「○○市役所職員募集」の記事が載っていたので、とにかく受けてみようと思い、電車とバスを乗り継いで○○市の市役所を訪れたのである。

そして試験を受け、運よく採用され、8月から○○市役所へ勤め始めた。
その頃は、今と違って職員を大量に募集していた。僕は8月採用だったが、もちろん4月にも、僕と同級の多くの新入職員が一足先に入っていた。

結局、その昭和46年の8月から、今の平成21年の3月まで、37年8ヶ月、この市役所に勤務したことになる。…あぁ、長い長いと思っていたのに、今となってみると、あっという間だったなぁ~。

最初に配属されたのが、秘書課市史編さん室という風変わりな部署であった。
ここで1年8ヶ月仕事をした。この間に長男が生まれた。

次に昭和48年4月から、課税課固定資産税係というところに配属された。
ここで2年間仕事をした。この間に次男が生まれ、今の藤井寺へ引っ越した。

昭和50年から、議会事務局というところに配置された。
これは、後の上司の説明によると、僕が履歴書の資格欄に「速記3級」と書いていたから、議会事務局へ来てもらうことになった、とのことだった。
議会事務局では、会議の速記を取れる職員がいると都合がいいらしいのだ。
僕は大学2~3年のとき、玉造付近にあった早稲田速記学校というところへ、夜間に通っていたことがある。その時に速記の資格を取っていた。

市史編さん室は1年8ヶ月、課税課固定資産税係は2年と、わりに短期のサイクルで異動した僕だったが、3つめの異動先となった議会事務局にはなんと16年間もいた。昭和50年から平成3年まで、26歳から42歳まで、この部署で仕事をした。議会事務局に入ったときには3歳と2歳だった子供たちが、出るときにはもう大学1年生と高校3年生になっていた。

平成3年4月に、その議会事務局に別れを告げ、総務課の文書法規係というところへ異動した。

この部署は、市役所の法制を一手に引き受ける部署で、きわめて難しい。
市役所の弁護士、みたいな能力を要求されるところで、あらゆる法律問題に相談に乗り、法的判断もし、条例や規則などもすべてこちらで作成する。僕はこの複雑で困難な仕事の上に人間関係まで加わって、ノイローゼになりかけた。このままでは潰れてしまう、と、自分でもはっきり認識できた。僕は一介の係長にすぎなかったが、3月に入って意を決し、直属の上司には一切相談せず、自分の心境を、当時雲の上の存在であったK助役に直接手紙に書いて送った。

そのK助役に、僕の一念が届いたようだった。お陰で、月末の人事異動で、僕はその係から出ることができた。そして、次に配属されたのが広報担当、つまり市の広報紙を発行するのが主な仕事の部署であった。ありがたい。命拾いをした。僕はさっそくK助役に、心からのお礼の手紙を出した。

そこからは、順調すぎるほど、流れがよくなった。
広報での仕事は、自分にぴったり合っていた。

取材も写真撮影も、記事を書くことも紙面をレイアウトすることも、自分の得意の分野だった。取材を通じての市民の人たちとの交流には、これまでの職場になかった生きがいすら感じさせてくれた。約38年間の中で、この仕事に携わることがなければ、これといった変化もないままに公務員人生を終えていたのだろうな~と思う。この広報の頃の思い出話は山ほどあるし、また退職したら、いろいろ書いてみたい…とも思う。

そのほか広報では、パソコンによる広報編集システムも導入し、「社内報」の市役所版である「庁内報」も自分で創刊した。充実した6年間だった。

議会事務局を出てから、文書法規係2年、広報6年と、合計8年間を「外」で過ごした後、平成11年4月、50歳の時、僕はまた議会事務局に戻った。

そしてそのまま10年という歳月があっという間に過ぎ、僕は60歳になって、間もなく定年退職を迎えるのである。

こうして見てみると議会事務局での勤務が通算26年であり、他の部署に比べ、圧倒的に長い。3分の2以上が議会事務局である。その、慣れた部署で定年退職を迎えられる自分は、恵まれているなぁ、とつくづく思う。

  …………………………………………………………………………

4日前の3月11日のことである。
午前中に妻からメールが入った。
「Kさんからお酒が届きましたよ。『吉野の樽酒1.8、坂東男山1.8』と書いて あります」

Kさんというのは、先に書いたが、かつて僕がノイローゼになりかけたとき手紙を出した、当時の助役さんである。僕は、この方によって最大のピンチを救っていただいた。今でも変わらず感謝し続けていることは言うまでもない。

8年前に勇退され、今はご自宅で悠々自適の生活を送っておられる。
毎年年賀状の交換を続けさせてもらっているが、今年の年賀状には、「お陰さまで3月で定年を迎えます」と書いた。すると2月に入って電話があり、
「年賀状に書いてあったけど、冗談じゃなく、ほんまに退職なの…? 
 へぇ~、早いねえ。まだ50歳ぐらいかと思っていたのに…」
そう言って、笑っておられた。

その元助役のKさんから、僕の自宅にお酒が送られてきたというのだ。

僕は昼にKさん宅に電話し、厚くお礼を述べた。Kさんは、
「いやいや、ご丁寧に。まぁ、ほんの気持です。長い間ご苦労さんでした。
(お酒を)ちびちびとやってください」
と言ったあと、「ちょっと待って。嫁さんに代わるわ」
と言ったかと思うと、
「もしもし、Kの家内です」
と、歯切れのいい女性の声が、受話器から伝わってきた。

「以前、あなたから主人に当てたお手紙を、私はずっと手元に置いています。そして今も時々読み返しています」といきなり奥様がおっしゃった。

奥様の言葉に僕は驚いた。手紙…とは、当時助役に当てた手紙のことだろう。
手紙は2通出した。自分の心境を綴り、今の部署では精神的に持ちこたえられそうにない…と訴えた手紙と、その後異動によって別の部署(広報係)に変わったときのお礼の手紙の2通だった。もう15年以上も昔のことだ。その2通の手紙を、奥様が、今も手元に置いておられるのだそうだ。

「あのとき、あなたの手紙を私も読ませてもらって、涙が出ました。美辞麗句で飾られた手紙はたくさん読んできましたが、あなたの手紙は、飾らないあなたのお気持がそのまま出ていて、私は感激しました。あれほど正直に自分の気持を表わした手紙というのは、私はそれまで見たことがなかったものですからね。いま読み直しても、目頭が熱くなりますよ」
そう言っていただき「あ、それは、どうも…」と僕はうろたえ、恐縮した。

でも、確かにあのとき、僕は身を削るように、渾身の文章を綴った。
それは今でもよく覚えている。
これに自分の人生がかかっていると思ったら、体裁などかまえなかった。
そこを、奥様はよく読み取ってくださったようである。

電話を切った後、しばらくのあいだ、胸が熱かった。

そして昨晩は、いただいた「吉野の樽酒」の封をあけて、飲んだ。
プンと杉の香がして、とても口当たりのいいお酒だ。

長い間公務員生活を続けてこられたのは、K元助役をはじめ、まわりのいろいろな人たちに支えられ、助けられてきたお陰である…
今さらながら改めて、そのことをしみじみ思い、樽酒に酔う僕なのでした

 


 

 

 

 

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カンボジア襲来

2009年03月12日 | ニュース・時事

テレビのニュースを見ていると、ジーユーという衣料品店が全商品の8割をユニクロの半値以下の価格で売り始めた…というニュースが流れた。ジーンズなどは、なんと990円で売っているそうである。

ジーユーってなんだ…?
僕は知らないけれど、2、3年前に第1号店をオープンし、現在全国で56の店があるとのこと。でもなぜ、ユニクロの半額以下にまで値下げできるのか…?

ユニクロだって値段は十分に安い。
安いだけではなく、品物も機能的だし、悪くないでしょ。
僕はユニクロファンの一人である。
(モデルの紀香ちゃんもいいしなぁ。必要以上によすぎる感じもするけど)。

近所のユニクロへ、よく出向く。
フリースやポロシャツなどのカジュアルな衣料品は、ここが一番買いやすい。

それにしても、このジーユーなる店が、ユニクロの半値以下とは…。

その秘密は…
新聞記事によると…
カンボジアだった。

カンボジアでは、縫製のコストが、中国よりも、さらに安いのだそうだ。
ジーユーの衣料品は、そのカンボジアで縫製をしているという。
そ~ゆ~ことで、ユニクロの半値という驚異的価格が実現した。

ふ~む。カンボジアか…。
カンボジアと言えば、ルイ・ヴィトン…。
あの160円のルイ・ヴィトンの財布を思わずにはいられない。
カンボジア旅行をした人からお土産にもらったヴィトンの財布。

いくらニセ物でも、160円は安すぎる。
しかも、なかなか丈夫で、破れもせず、僕はまだこの財布を使っている。
yukariさんもおっしゃっていたように、カンボジアはきわめて安いコストで、なかなかいい仕事をするお国のようである。

いよいよカンボジアの時代が到来するのかもしれない。

しかし、なぁ…。いくらカンボジアの労賃が安いからと言って…。
そこまで安くしていいのか…という疑問も、残ることは残りますけどね。

 

 

 

 

 

 

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WBC ・ 腹立つ~ 

2009年03月10日 | スポーツの話題

一夜明けて少しは冷静さが戻り、試合を振り返るわけですが…

しかし試合を振り返ったらまた冷静さを失う。なんのこっちゃ。

前々回のブログでゲスト解説に出ていた古田のことを悪く言ったけど、
昨日は、古田のさすが~と思わせる解説があった。

唯一得点された4回の表のことだ。

1死一、二塁で4番バッターの金を迎えたとき。
岩隈の投げる球種とコースを見て、古田は、
「この球は、打っても三塁側へゴロのファールになるでしょう」
と言いながら、
「三塁手の村田がもう一歩ベース側に寄っておくといいと思います」
そう指摘した直後、金がぼてぼての三塁ベース寄りのゴロを打った。
村田がとびついたが届かなかった。
まさに、もう一歩ベース寄りに守っていたら楽々捕れた打球である。

う~ん、古田はやっぱり野球をよく知ってるんや、と感心した。

感心している場合ではないが…
1次ラウンドの1位通過も2位通過も大した問題ではないかもしれない。
アメリカへ渡って頑張ったらいい話かもしれない。
しかし、韓国にあれほどの大勝をしておきながら、
投手が変わるとまるで打てないというふがいなさ、
そして、韓国に敗れたという事実。これに腹が立つ。

試合を振り返れば、また腹が立つ。

腹立つ、腹立つ、腹立つ~

はらたつ。はらたつ。 はらたつのり~。

すみません。つまらないこと書いて。 

 

 

 

 


 

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WBC・日本 トホホの0点

2009年03月09日 | スポーツの話題

なんというなさけない結果に終わってしまったことか。

WBCのアジアの1位をかけた日韓戦の結果は、もう、サイテー。
おとといはあれだけ喜ばせておいて、今日の試合はいったい何だ?

1対0だったが、相手に5点ぐらい取られていてもおかしくない試合だった。

1点を先取した後の韓国は、雑な走塁で自ら追加点のチャンスを潰し続けた。
こういうときは、必ず追いつき、追い越すものなのである。なのに…
「さあ、ピンチのあとにチャンスありぃ~」と何度思わせたことか。
思わせるばかりで、結局最後まで零点で終わってしまったじゃないか。

あぁぁ~ 悔しくて悔しくて仕方がない。
前回14点を叩き出した打線はどこへ行ってしまったのだ

ヒットは出てもすべて単発。肝心のところで、もう一発が出ない。
村田は北京五輪の村田に戻ってしまったし…。

もう、何を言っても仕方がない。

昨日の記事にいただいたコメントへのお返事をしたいのに…

すみません。しばらくは、ショックが大きすぎて立ち直れませんわ

 

 

 

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参ったか韓国! WBC・日本怒涛の14点! 

2009年03月08日 | スポーツの話題

第2回WBCの序盤戦の大一番、韓国戦に、日本が7回コールド勝ちをした。
14対2。実に12点差をつけた。まさに圧倒的勝利である
この大勝を、歴史的勝利、と言う人もいた。
その先陣を切ったのは、やはりイチローである。
一人の選手が打つと、こうまでもチーム全体の空気が変わるのか…。

前回の中国戦では、勝つには勝ったが、5安打しか打てず、ランナーが出ても拙攻を重ね、不満がいっぱい残る試合をした日本。それもこれも、イチローの大ブレーキがチーム全体に悪影響を与えていたのだ。日本中の人たちが、イチローの調子が一刻も早く回復するように、と祈っていた。

昨日の韓国戦。そのイチローが初回先頭打者としてライト前にヒットを放たなければ、その後どうなっていたかわからない。今さらながら、イチローの存在の大きさに、プロ野球ファンのみならず、野球に関心の薄い人も、思い知らされたに違いない。

イチロー、中島、青木といきなりの3連打に、僕は早くもテンションが上がった。実はその前夜、僕は送別会をしてもらった帰りに、近くの韓国人ママのいるスナックへ、一人でふらりと入ってワイワイ騒ぎ、帰宅は深夜。おかげで土曜日は朝からひどい二日酔い状態で、胸がむかつくわ下痢はするわで、起きているのもままならぬ状態。ほとんど1日中ゲロゲロいいながら寝転んで過ごし、この野球もテレビの前にごろんと寝たままで見ていた僕である。対韓国戦を控えた前日に、韓国人のママのいる酒場で遊ぶなどとは極めて不適切であり、てきめんにそのバチが当たったような体調不良ぶりであった。とほほ。

それはまあいいのですが…。
初回、イチローからの3連打で日本はあっという間に1点を先制。相手の投手は、北京五輪で日本打線が完璧に抑えられた金広鉉である。若いサウスポーで、いつもヘラヘラ笑っているようなしまりのない顔をしているが、北京ではこの投手が全く打てなかった。村田などもきりきり舞いさせられていた。

さて、日本はいきなり1点を取ってなおも無死1・2塁。
ここや、ここやでぇ~。一気に行け行け~い! 
と手に汗握っていたら、4番の村田、5番の小笠原が連続三振に討ち取られ、たちまち二死となった。一転して悪い予感が走った。

なんじゃ、こら~。ここで追加点を取らなければ、金投手に立ち直られて、また北京五輪の二の舞になる。なんとかしてくれ~と祈るようにテレビを見ていると、この日6番に入った内川が、三塁線を痛烈に抜いて2点を追加した。これは、本当にうれしかった。値千金、とはまさにこのことである。

3点リードでピッチャー松坂。
しかし、相変わらず立ち上がりの悪い松坂である。
一死後、2番打者にヒットを打たれ、3番打者にも痛打を浴びる。
しかし、これは打ったランナーが二塁を欲張りタッチアウト。
なんとか二死にこぎつける。
しかし、次の4番打者に、超特大ホームランを打たれて2点を返された。

な~んや、そら。また負けるんちゃうか。

しかし、松坂は立ち上がりは悪いが、大リーグのシーズン中でも、不思議なことに、松坂が投げると味方打線が爆発する。松坂が点を取られても、それ以上に味方が点を取ってくれるので、彼は打たれはしても、なかなか敗戦投手にならないのだ。そのジンクスは、ここでも生きていた。

2回の表の日本の攻撃は、これはもう、溜飲を下げたというか、スカッとしたというか、しびれたというか、思い知ったかぁ!というか、あの北京五輪での星野ジャパンのみじめな敗戦の屈辱を、久方ぶりにぬぐい去ることができた。

韓国野球よ。日本の野球は、本気を出せばこんなものなんだよ。あはは。

北京五輪では星野ジャパンにGG佐藤という選手がいた。
韓国戦でのお粗末な守備で、一躍有名(?)になり、打撃もさっぱり振るわず、北京五輪での「日本のふがいない選手ナンバーワン」に挙げられた選手だ。それに負けず劣らずダメだったのが村田である。再三のチャンスに打席に立ちながら、三振と凡打を繰り返し、日本ファンにため息をつかせた。村田に一本ヒットが出ていたら勝てていた試合がいくつかあった。ほんまにもう…どこがホームラン王やねん、早よぅ、引っ込め…とGG佐藤以上にもどかしい思いをした選手である。しかしそのダメ男だった村田が、中国戦に続き、昨日も大きな仕事をしたのであるから、野球というものはわからないものだ。

2回表は先頭の城島がヒット。次の岩村がカウント2-3から微妙な球を選んでフォアボール。このフォアボールが大きかった。なんだか最後の球がストライクのような気がしたが、韓国のキャッチャーが球をはじいたので、審判もボールの判定をしたかのような印象を受けた。とりあえず、ラッキー。

無死1・2塁で再びイチローが登場した。
「ここはセーフティバントしかないなぁ」と僕は声を上げる。
マリナーズでは巧みなセーフティバントを何度も見せているイチローだ。
そのとおり、三塁側にちょこんと転がし、オールセーフで無死満塁。

「よっしゃぁ。さすが、さすが!」と寝転びながら拍手を送る僕。
しかし解説の古田が「まさか、ここでセーフティバントをやってくるとは…」
と言っていたのは、いささか理解しがたい言葉であった。
イチローが、ここでセーフティーバントをしなかったら、いつするねん!
この場面は、これしかないやろ~。
古田も試合に夢中になって、本業の解説がボケてきとるんと違うか…?

2番中島は押し出し四球で1点追加。続く青木が併殺崩れでまた1点。
この回2点目が入った。
一死1・3塁で登場した4番の村田が、ここで試合を決める3ラン本塁打を打ち込んだ。北京で手玉に取られた金広鉉への、強烈な報復弾であった。
よっしゃ、村田。これぞ男の中の男や。ええぞ~村田ぁ!

北京ではさんざん村田をののしっていたのに、僕もまあゲンキンなもんだ。

「村田って何者ですか?」と直後に長男からメールが来た。
「横浜の4番打者。セ・リーグの本塁打王です」と返事する。
セの本塁打王かどうか、はっきりは知らないけれど。

さあ、この回だけで5点目。合計8点だ。

さすがの金も、ノックアウトされて、ヘラヘラ顔が消え、降板。
試合は、おおかた、ここで決まった。

2回を終えて8対2となり、その後も日本は攻撃を緩めることなく、さらに小刻みに6点を取って、14対2で7回コールド勝ちという快挙を遂げた。

14点も取るなんて…信じられない展開であった。

あぁぁ~、気分がいい。
日韓戦というと、サッカーでも野球でも、異常に燃える。
そして、常にドラマのような接戦を演じ、勝つにしても簡単にはいかない。
それが、毎回のように得点して、7回まで実に韓国に12点差をつけてコールド勝ちするとは…、およそ考えられない結末となった。韓国戦で、これだけ安心して見ていられる試合なんて、これまで一度もなかったはずだ。

これでWBCの2次ラウンド進出一番乗りを決めた。
韓国は、きょう、中国と敗者復活戦を行い、たぶんこれには勝つだろうから、明日、再び日本と、A組の1位決勝戦を行う。

そうだ。昨日の試合だけではないのである。
日本対韓国は、明日9日に、また行われるのだ。
う~ん。この勢いをそのまま持ち込んでほしい。
もしも負けたりすると、せっかくの昨日の大勝がかすんでしまう。

ところで…
このWBCは、日本にとって当面の敵は韓国であるが、2連覇を狙うためにはアメリカという巨大な壁を突き破らなければならない。野球は自分たちの国のもの、他国に優勝はさせない、というアメリカのプライドは高い。前回、優勝できなかったことで、今年はなりふりかまわず向かってくるだろう。

気になることがひとつある。
審判の判定である。
韓国戦でも主審はアメリカ人であったが、日本の締めくくりに出てきた岩田投手の投球動作を「ボーク」と判定していた。古田も言っていたが、主審がまだプレーをかけていないので、岩田が一度プレートをはずしたところ、ボークを取られたのだという。こういう摩訶不思議な判定が、これからアメリカにわたると随所に見られるに違いない。前回のWBCでも、日本対アメリカ戦で、日本のタッチアップに対して、アメリカの審判は明らかに誤審をしていた。誤審というより、わざとである。

前回アメリカは、日本戦のみならず、メキシコ戦でも目に余る審判のアメリカびいきがあり、メキシコはそれに涙を飲んだ。怒ったメキシコは、決勝トーナメント進出の可能性がなくなってからのアメリカとの再戦で、死に物狂いでぶつかり、世界中が驚くまさかの勝利を収めた。そのおかげで、決勝トーナメント進出が絶望視されていた日本が、回り回って出場権を獲得し、最終的には準決勝で韓国を破り、決勝では、アメリカに勝ったキューバと対戦して、WBCの初代チャンピオンになったのである。奇跡の優勝、と言っていい。

これからアメリカでの試合は、審判に要注意である。特に前回優勝の日本はマークされている。日本におめおめ連覇させるわけにはいかないと思っている。あまり判定にこだわると、前回の星野監督のように「審判のせいにするな。おまえの采配が悪かったから負けたのだ」などと言われるかもしれないけれど、それでも、審判の判定が試合を決めることにもなるのだから、大きな問題だ。

星野といえば、昨日、彼が試合を観戦しているところがテレビに映っていた。
もう日本代表の野球など、二度と見に来ないかと思ったら、そんなこともないのだな~。日本がなんと14点もとって、宿敵にコールド勝ちをしたシーンを目の当たりにして星野はどう思ったのか…?

「イチローや松坂、城島らがいるのだから、強いのは当たり前じゃ」

たぶん、そう思っているんだろうな~。ふてくされながら…。

ではまた、明日、再び日韓戦を楽しみに。

本日はこのへんで

 

 

 

 

 

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トロントの風景

2009年03月06日 | 旅行

ナイアガラから車に乗せてもらい、1時間半でトロントへ着いた。
前々日、トロント空港からナイアガラへ行った道を戻ったことになる。
オンタリオ湖沿いを、ぐる~っとまわる道である。

途中、激しく吹雪が舞い散っていたが、トロント市内に入るとやんだ。

トロントは、人口で言えば、ニューヨーク、ロスアンゼルス、シカゴに次ぐ北米第4の都市だそうである。つまりカナダでは第一の都市ということになる。

カナダと言えば、夏期オリンピックが開かれたモントリオールや冬季五輪が開かれたカルガリー、同じく次期冬季五輪開催地のバンクーバーがよく知られ、さらに首都もオタワだから、トロントはどことなくイメージが薄い。

しかし実際の街をこの目で見ると、思っていたよりずっと大きな都市であった。高層ビルが建ち並ぶ外見も堂々たるもので、ここがカナダの文化、政治、経済の中心地であるということも、来て見ればよくわかる。

 
    トロントの街。オンタリオ湖畔に高層ビルが建ち並ぶ(ネットから転載)。

 

その昔、大西洋に注ぐセントローレンス川から英国人をはじめいろんな人種の人たちが川を上ってきて、最初に到着したのがオンタリオ湖畔のトロントであった。「トロント」というのは、原住民の言葉で「集まる」という意味を持っているそうだ。そうして集まってきた人々が、今日のトロントの隆盛を築いた…というのである。だから、トロントにはさまざまな民族が共存し、50ヶ国以上の言語が飛び交うと言われている。まさに典型的な多民族都市である。

何回かカナダに旅行に行ったことのある女性から旅行前にメールをもらったが、そこには「マーケットに行ってみるといいですよ。さまざまな野菜があり、多民族性がよくわかります。トロントの街は異色で、とても活気があり、私としてはもう一度行きたい興味深い街です」とあった。午前中にトロントへ着いた僕たちは、その女性のお勧めのとおり、まず、ホテルから1時間近く歩いて、トロントで一番大きいと言われているセントローレンスマーケットに行った。

マーケットは地図と磁石を頼りに歩いて行くとすぐに見つかった。
(余談だが、磁石だけは、どこへ旅行するにも絶対に欠かせない)。

中へ入ると、なるほど、さまざまな人種の人々で賑わっていた。
売っているものも、見たことのない野菜や果物などが多くあった。


 
 市場の中は活気にあふれていた。 人々の生活の匂いが充満している。


 
 
 むむっ。どんな味がするのだろう。一つひとつ試食してみたい気がする。


 
   
お惣菜屋さんは特に、よく繁盛しています。


 
 
マーケットから外へ出たとたんに、熱気はしぼみ、寒さが再び身に沁みる。

 

マーケット見学は、まあ社会見学である。それはそれでよかったのだが、僕はついでに、ここで、どうしても買いたいものがあった。ビールである。

ナイアガラの店には、水やジュースなどの清涼飲料水はいくらでも売っていたが、アルコール類は一切置いていなかった。レストランに入らなければビールを飲めない。部屋に持ち帰って飲むような缶ビールが売っていないのだ。窓の外の滝を眺めながら飲む缶ビールはさぞ旨いことだろう…。でもそれがナイアガラではできなかった…。これはあまりにも寂しいことではないか。

トロントは大都市だからコンビニくらいはあるだろう、と期待した。
期待どおりホテルの向かい側にセブンイレブンがあったので行ったが、肝心のアルコール飲料は置いていなかった(がっかり)。ならば「何でもある」というマーケットへ行けば、ビールやワインぐらいは売っているだろう、と思っていた。しかし、そのトロント随一のマーケットにも、アルコールはなかった。

「おかしいなぁ。なんで、どこにもビールが売ってへんね」

その夜も、ホテルのレストランで生ビールを何杯か飲んだけれど、そのあと部屋に戻ると何も飲むものがない。義姉が僕のためにと、日本からおつまみを沢山持って来てくれていたのに、それだけボリボリかじるのは味気なかった。

翌日、トロント半日観光に案内してくれた60歳ぐらいの日本人のおじさんガイドにそのことを尋ねた。

「あ、ご存知なかったんですか? このオンタリオ州では、アルコールは民間では販売できないことになっているんです」

「げッ。販売していない…? なんちゅう国やねん」
思わずこの国を非難してしまった。

「アルコール類はLCBOという政府直轄の店でしか売られていません」
とガイドさんは言った。

なんだって? へぇ~、厳しいんだなぁ。日本ならどこでもビールくらい買えるのに。スペインやイタリアなどは、マクドやミスドみたいな感じの店でも、ビールやマティーニなんかが置いてある。パリのレストランでは、ランチタイムでも、ワインのグラスが出ているのだよ~ん。隣席では昼間から美味しそうにワインを飲んでいる紳士の姿があるっていうのが、おフランスの流儀なんだ。それに引きかえ、ビールの「ビ」の字も店で売られていないのはナンでやねん。

おじさんガイドの説明によると…
トロントやナイアガラが属するオンタリオ州は英国系の州である(そういえばナイアガラにもイギリス国旗があちらこちらではためいていた)。英国系は厳格だからアルコールの販売は政府機関でしか売らないというのである。

「でもね、お隣のケベック州へ行けば、そこはフランス語圏ですから、ビールやワインなんかはどこにでも売っていますよ」とおじさんガイド。

ふ~ん…? 同じ国でも、洲によってこれだけ違うんだ。

そういうことなら仕方ない。とにかくLCBOとやらの政府直轄の酒類販売店に連れて行ってもらおう…とおじさんガイドに頼んだのは言うまでもない。

イギリス人はそれほど酒に厳しいのか…。知らなかったな~。
僕は一度ロンドンへ行ったことがあるが、わずか2日だけだったので、ビールを求めて走り回ることはなかった。だからそんなことには気がつかなかった。
ただ、オーストラリアのゴールドコーストの郊外だったと思うが、ある海鮮料理店へ入ってビールを注文したら、「ない」と言われたことがある。オーストラリアでは、飲食店でも客にアルコールを提供するには許可が必要で、その許可を持っていない店では、ビール1本すら置けない…ということを誰かから聞いたことがある。オーストラリアといえばイギリスの親類である。やっぱり、ここもアルコールには厳しい国だったんだろうか。

とまぁ、話はまたビールのことになってしまったのだ。


トロントの気温はマイナス10度前後であった。もちろん大阪では考えられないほど寒い…というより、冷たい。でも、想像を絶する寒さ…というほどでもなかった。なんとか耐えられる範囲だった。僕たちがトロントから帰った直後には、恐るべき寒波がトロントを襲ったと、じゃいさんが教えてくれたけれど、そんなことは想像もせず、僕らは、まぁ、カナダの冬はこんなものか…これならなんとか凌げなくもないな~とのんきに考えたものだ。

この街は地下道(地下街)が発達していて、外を歩かなくても街の主なところはどこでも地下街を通って行ける仕組みになっている。寒い冬にわざわざ外を歩かなくてもいいように、ちゃんと工夫がされているのである。僕らは外が寒くなったら、地下に降り、店も沢山並んでいる地下街の中をあちらこちらとうろついた。そこにはノースリーブで歩いている娘さんもいた。

外は寒くて人通りも少ないが、地下に入ると華やかな都会の風景があった。
それでも、やはり外を歩かなければ旅をしている気になれない。いくら寒くても、やはり外国では外を歩くのが楽しいことには違いない。

トロントの名所の一つはCNタワーというところだ。
僕たちのホテルの窓からも見えていたが、高さが553m もあり、つい最近、ドーハに建った564m の塔が出現するまでは、世界で一番高いタワーであったという。そのタワーにも、案内してもらい、展望台まで上ったが、別段そんなに高いタワーだという感じはしなかった。これなら昔、東京池袋のサンシャイン60に上がって最上階から景色を見た時の感激のほうがはるかに大きかった。
「ものすご~い高いでしょう。上から車を見たら、豆粒のようですよ~」
と興奮気味にタワーを紹介してくれたおじさんガイドには申し訳ないけれど。

おじさんガイドは、タワーのほか、イタリア街、中華街、韓国街、ギリシャ街などを車で回ってくれ、洲議事堂前では雪を踏みしめつつ記念写真を撮り、そのほか、トロントの街を車でぐるぐる回ってくれた。

驚いたことに、雪の道路わきのあちこちに、ホームレスがいた。
雪の上に身をすくめて寝転んでいる姿は、どうみても死体が転がっているとしか思えない。そんな光景を見るたびにギョッとする。コンビニの前にも、雪の中に埋もれるように座って物乞いをしている老人がいた。車窓から街を眺めていると、そういう姿がやたらに目に付くのである。

おじさんガイドが言う。
「こういうのを日本人のお客さんが見ると、不思議なんでしょうね。あの人たちはあのまま死んでしまいそうなのに、なんで誰も助けてやらないのか? …と心配されるんですよ。それを言われると我々も困るんです。このホームレスたちは、こういう形で自由に生きていくのを望んでいる人たちなんですよ。決してトロントの市民が冷淡なのではない、ということを、私はいつもお客さんに申し上げています」

話は変わるが、トロントの目抜き通りで「ヤング通り」という通りがある。
そのわりには、年寄りの人たちばっかり歩いている。
「どこがヤング通りやねん!」と言いたくなる。

「いや、ね、ヤングというのは『若い』の意味じゃなく、ヤングという歴史上の人物の名前からつけられたものなのです」とおじさんガイド。

このヤング通りが、ギネスブックに載っているという。
CNタワーがドバイの建物に世界一を奪われてしまったカナダっ子は、このヤング通りが今では自慢なのだそうである。この通りは、世界一距離の長い通りとして、ギネスブックに登録されているのだそうだ。
オンタリオ湖畔に、このヤング通りの起点があった。
そこに、何か記念碑のようなものが建っていた。

「この通りはね、ここから1900キロも続いているんですよ」

1900キロ! 世界一長いストリート!
1900キロといえば日本の本州の長さぐらいあるのではないか(知らんけど)。
それはすごい。
「すごいでしょう~!」
おじさんガイドは、大いに自慢気であった。
すご~い…と思っても、まぁ、それだけで終わる話であるけれど。

あぁ…、旅のことを書いているとキリがなくなる。
どこでどう記事を締めていいかわからない。

だらだらと書きましたが、以下、まただらだらと写真を掲載します。


 

 
    トロントの街には、長い長い地下街とショッピングモールがある。
 

 
 CNタワーのすぐ隣に、ロジャース・スタジアムがある。
 米大リーグのブルー・ジェイズの本拠地で、ヤンキース戦などは超満員になるそうだ。

 
    車を降りて、雪の中をCNタワーに向かって歩く。
 
 

   
    ついこの間まで、世界一の高さだったというCNタワー。

 

  
  タワーの展望台から、トロント市街とオンタリオ湖を望む。



 
  このCNタワーは、僕たちが泊まったホテルの窓からも見えていた。

  
   オンタリオ州の議事堂前で。おじさんガイドが撮ってくれた。

 

    
   僕たち3人は、この車でおじさんガイドに市内を案内してもらった。

 

 
  トロントは多民族都市である。おじさんガイドは、中華街、韓国街、イタリア街
  などを回ってくれた。写真のあたりは中華街である。
 

 
  向き合っている2つのビルは、トロントの市役所である。 ふわぁ~、カッコいい。



 
 トロント市役所の前の広場がスケートリンクになっており、大勢の人が楽しんでいる。
 日本のお役所も、こんなふうに、市民の憩いやレジャーを提供する場所を兼ねたら、
 もう少し、親しみがあって市民に愛されるお役所になれるのではないか…と思ったり。

 

 

 ナイアガラとトロントの旅は、それぞれ2泊ずつの短い旅でしたが、
 やはり海外旅行ならではの体験や勉強をすることができました。

 このブログに書けなかったことも、またご紹介したいと思います。




 さて昨日から野球のWBCが始まりました。もう、夢中になりますね。
 昨日の中国戦はまるでサッカー日本代表のような「決定力不足」で、
 思わぬ苦戦を強いられました。
 早くイチローが調子を取り戻し、明日の韓国戦には必ず勝ってほしいです。

 

 

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レインボーブリッジと国境と

2009年03月03日 | 旅行

ナイアガラの滝をひと通り見物するコースは午前中で終わった。
ヨン様似のガイドさんにホテルまで送ってもらい、別れを告げた。
このガイドさんは、車の乗り降りの時も、ステップが凍っているので、僕たちに丁寧に手を添えて、滑らないように気遣ってくれた。ハンサムだし、言葉づかいも上品で丁寧だし、よく気が回るし…と、妻たちもすっかりこのガイドさんが気に入っていたようである。しかし、そのヨン様とも、半日でお別れだ。

そろそろ昼食をと、通りがかったレストランに入ると、中が暗い。
しかも異様な雰囲気に包まれている。
何が異様かと言えば、広い室内全体がジャングルのようになっているのだ。
そばには大きなゴリラたちが睨みをきかせ、木々の生い茂る中には怪しげな鳥や巨大な蝶や蛾の姿があり、あちらこちらの枝に猿がぶら下がっていたり大蛇が巻きついていたりする。地面には象やキリンやその他の動物がいる。実物と見まがうような精緻な作りの模型である。

不気味な雰囲気の中で、3人でパスタやサンドイッチなどを注文して、僕は地元カナダのビール「ブルー」でのどを潤していると、突然室内にピカッと稲妻が走った。…と思う間もなく、ゴロゴロ~、ダバダバ~、ビチャビチャ~と、雷鳴が轟き、激しく風の音と雨の音が周囲に鳴り響いた。それを合図に、動物たちがいっせいに動きだす。ゴリラはボコボコ胸を叩いて雄叫びを上げ、鳥たちはキーキーと鳴き叫び、猿はキャッキャと狂ったように騒ぎ、象は低い地鳴りのような声をしぼり出す。これにはびっくり仰天した。それが2分ぐらい続いたろうか…。しばらくすると、騒ぎはピタリと止んで、動物たちはもとの動かない人形に戻った。

そして…
15分ほどすると、また同じことが繰り返された。
一定の間隔で、鳥獣たちが大騒ぎをするジャングルレストランである。

しかし、まぁ、ナイアガラは滝だけで成り立っている観光の町だから、周辺は、ホテルとレストランと、カジノも含めたゲームセンターと、お化け屋敷しかない町である。

レストランも、ありきたりの店では客を呼べないと考えているのだろう。
とにかく滝を目当てに世界中からやってくる観光客に合わせて、娯楽に満ちた施設・設備があふれているというのが、ナイアガラ滝の周辺の印象である。


   
     
ジャングルレストランの入口付近。


 
      
15分に一度、このゴリラたちは暴れ出す。

 

レストランから、歩いて数分のところにレインボー・ブリッジがある。

レインボー・ブリッジはカナダ側とアメリカ側を結ぶ橋のひとつで、ナイアガラ観光では最も有名な、また便利な橋である。アメリカ側からしても、歩いてこの橋をわたりカナダ滝を見られるのだから、そりゃ~便利だよね。

 

 
  
ホテルの部屋の窓から見たレインボーブリッジ。対岸がアメリカ合衆国。
   この右の方向にアメリカ滝があり、さらに右にカナダ滝が見える。

  

食事を終えた僕たちは、レインボーブリッジへ向かった。
橋を渡ってアメリカ側へ入るつもりはないが、いちおう対岸まで行ってUターンして帰ってくることにした。

橋への入り口は無人である。
自動改札のようなものがあり、そこで50セント硬貨を1枚入れると改札口が開いて通ることができる。小銭がなかったけれど、ちゃんと両替機がそばに備えてあったので、3人が50セントずつ入れて自動改札を通ると、橋の上に出た。

ポツリ、ポツリと人が歩いている。

橋の中ほどに近づくと、ナイアガラ滝がバランスよく見渡せる格好の撮影ポイントに来た。西洋人らしき3人連れが写真を撮り合っていたので、僕はその人たちに、「3人いっしょに撮ってあげましょうか」と言って、滝をバックに3人が並んだところを撮影してあげた。すると、一人の女性が「ありがとうございました」と上手な日本語でお礼を言ったので驚いた。

僕らも、ここで何枚か写真を撮った。

橋の真ん中に、カナダの国旗とアメリカの国旗がはためいていた。
ここが両国の国境となるのだ。

「ここからは、アメリカ、ゆうこっちゃね~」
な~んて言いながら、テクテク歩き、橋を渡りきったところに建物がある。そこでアメリカの入国審査をするのであるが、もちろんアメリカ入国の意思のない僕たちは、そこでUターンをした。

再びカナダ側を向いて歩く。
小さな赤ちゃんを乗せたベビーカーを押す若い母親がすぐ後ろを歩いていた。赤ちゃんに冷たい風が当たらないように、ビニールのようなもので完全防寒されているベビーカーである。お母さんもモデルみたいに美人だけど、くるくると真ん丸い目をした赤ちゃんも、お人形さんのように可愛い。

橋を渡り終えると、入ってきた自動改札から出ることができないので、矢印の方向に従って歩いて小さな建物の中に入る。そこを黙って通り抜けようとしたら、制服を着た男性がカウンターに座っていて「こちらへ」と手をこまねく。
「なに? なに? なんですか~?」

「パスポートを見せてください」
と、その制服の係官が事務的な口調で言った。
えっ…? あ、そうか。
ここは、カナダへの入国審査をする場所なのだった。

でもなぁ…。
僕たちは、ひとり50セントを払ってごく簡単にこの橋に出て、橋を向こうまで歩いたけど、アメリカには入らずUターンしてきただけである。ちょっとしたお散歩なのだ。それなのにこの、ものものしい入国審査は何なのだ! 元の場所に戻ってきただけではないか。

それにしても、パスポート…? ぎょぎょっ。持って来たかなぁ。
…あ、持っていた、持っていた。

パスポートはホテルの部屋の金庫には入れず、3人とも持ち歩いていた。
よかった~。いったんカナダから出たことには違いない。お散歩であろうが何であろうが、他の多くの人たちはアメリカからやってくるのだから、よ~く考えてみれば、ここでの入国審査も当然である。しかし、そこをまったく意識していなかった。要するに、軽く考えていたのである。

そういえば、昨夕、ホテルまで送ってくれた旅行社の人が、「レインボーブリッジを渡るときはパスポートを持って行ってください」と言っていた。僕はそれを、アメリカに入る場合のことを言っているものだと思ったので、まさか橋を往復するだけでまたカナダに入国審査をされるとは、考えも及ばなかった。

しかも係官はパスポートを確認するだけでなく、「カナダへ来るのは初めてか?」とか「何日間滞在するのか?」とか「宿泊はどこなのか?」とか、細かい質問をしてくるので、ちょっと緊張した。「行ってよろしい」と言われるまで、不安だった。海外旅行は少しでも油断をすると、こんなふうに、すぐに緊張の場面に出くわす。

橋の上が国境になっていると言えば、むかし、東南アジアに旅行したとき、マレーシアのジョホールバールからシンガポールに入るのに、同じように、徒歩の人たちが橋の上での入国審査を受けている光景を見たことがある。その時にも感じたことだが、日本という島国に生まれ育った僕たちは、「国境」というものが具体的にどんなものなのか、どうもピンと来ない。

川ひとつ隔てた目と鼻の先に外国があるということ自体に、僕たちは慣れていない。このレインボーブリッジでの入国審査のささやかな体験は、そのことを改めて感じさせられた出来事であった。

 

 
 
ぶらぶらと道路を歩いて行くと、やがてレインボーブリッジの入口にさしかかる。

 

 
  
橋が間近に迫る。このまま左へ進むと、橋に行く自動改札がある。
   50セントコインを1枚入れて自分で勝手に改札を通過できる。
   そこには誰も人がいないので、ごく簡単に橋には行けるのである。                     
   

 
  
橋の中間から見るナイアガラの滝は、なかなか絵になる光景である。



   
   
こちらは人物が邪魔して絵にならない。すんません。出たがりなもんで。


 

 
 
  橋のちょうど真ん中が、カナダとアメリカの国境だ(左車道、右歩道)


 

 
 
橋を渡りきるとアメリカの入国審査の建物がある。
  看板の Pedestrians は、「徒歩旅行者専用」 の意味。

 

 
  
アメリカ側の手前まで歩いて行って、またUターンしてカナダ側まで戻ってきた。
   入るときは写真の左側にある自動改札で橋に入ったのだが、
   橋から出るには、Canada と矢印のある方向へ行かなければならない。
   この中に、カナダの入国審査をする係官が座っていた。

 

  …………………………………………………………………………

 

国境に関する話をもうひとつ付け加えたいと思います。

携帯電話のことである。
僕は au の携帯電話を使っているが、これにグローバル機能というのがついている。説明書では、海外から日本にメールや電話ができると書かれている(もちろん逆も)。これはとても都合がいい。僕は説明書に書いてあるとおり、エリア情報というのをダウンロードした。そして、アメリカのデトロイト空港に着いたとき、操作をすると「ここはUSAです」と画面に出た。そしてそのとき、日本時間では深夜の1時か2時ごろだったが、ためしに長男にメールを打ってみた。すると間もなく長男から「着きました」という返事が来たのだ。

やったぁ。
これで家族や友達にメールができるぞ~。

デトロイトからナイアガラに異動して、また携帯のグローバル機能を操作したら、「ここはカナダです」と画面に出た。かしこい、かしこい。そして、ここでも日本へのメールができた。「今、カナダのナイアガラにいます」というメールを何人かの人たちに送り、返事ももらった。楽しかったな~。

そのあと、トロントへ異動した。
ここも、アメリカとの国境に近い都市である。

ここで携帯電話に異変が起きた。
デトロイトやナイアガラでは成功したメールが、できなくなった。
グローバル機能を操作すると、「ここはUSAです」と出るのだ。
「おいおい。ここはカナダのトロントだよん」と携帯につぶやく僕。
メールを送ろうとすると「送信できません」というメッセージが出るばかり。

とうとう、トロントからは一度もメールを送ることができなかった。
帰国して携帯に詳しい知人にそのことを話すと、
「国境近くだから、携帯は、ここがアメリカなんかカナダなんか、わからへんかったんんと違う…?」などと言う。すぐ目の前にアメリカが見えていたナイアガラでも「ここはカナダです」とちゃんと識別してメールも成功していたのに、なんでトロントではあかんかったんやろう。

わからへん。いまだに、わからへん。

 

 

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