僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

良いお年を!

2013年12月31日 | 日常のいろいろなこと

クリスマスの25日は、大〇前病院で耳鳴りのTRT療法へ行ったついでに、耳鼻咽喉科で喉と鼻の奥の痛みを診てもらった。鼻孔から喉にかけて細い棒のようなものを突っ込む検査には思わず「フンギャ~」と絶叫。痛みとクシャミをこらえるのにどれだけ苦労したことやら。そして、喉は大した腫れではありませんね、と女医さんが優しく告げてくれた。若い女医さんだったからよかったものの、コワいおっちゃん医だったら、もう二度と受けたくない検査でしたわ。


その日の夜は、怪しげな小屋で怪しげなメンバー6人が集まって鶏鍋を囲み、酒を飲んだ。家でのクリスマスパーティはその前々日に終えていたので、この日はモミィの許可を頂戴し、夕方から一人いそいそと出かけたのである。北海道へスキーに行っていたというメンバー唯一の見目麗しきAちゃんが、お土産に買ってきてくれた地酒とイカの塩辛も絶品であった。例によってどうして帰ったのかわからないくらい飲んだけれど、翌日Aちゃんから「声はしゃがれていましたけど、帰りはわりにシャキッとしてはりました」…とメールをいただき、何となく嬉しい思いをした僕でした。


27日から2泊3日で神戸に遊びに行きました。「冬休みはどこか旅行へ行こう」というモミィの要望に応えたものですが、あまり遠いところはしんどいし、本当は京都あたりに連れて行ってやりたいのだけれど、まだ歴史や神社仏閣には関心が持てないモミィは、「お船に乗ったり、ロープウェイに乗ったりしたい」と言う。それには神戸がちょうどいい。さらに、今年の夏に行った「キッザニア甲子園」にまた行きたいというので、これも大阪・神戸の間にあるので、結局また神戸めぐりということになった。


初日はポートアイランドにあるポートピアホテルを予約していた。朝の9時半に家を出て、神戸三宮に着いたのが11時半。サンチカの暖簾街にある「北ノ浜」という食堂でお昼ご飯を食べた。(僕は和定食とビール)。朝から天気はイマイチだったが、食事を終えて外に出ると冷たい雨が降っていた。ま、この日は予定がなかったので、駅前の百貨店に入り、大きな紀伊国屋書店があったので、モミィがECCで2月8日に受ける「児童英検」のCD付きテキストを買った。百貨店や地下街を歩いたりしているうちに2時を過ぎ、もうホテルへ行こうということになって、三宮駅前の神戸ミントというところから出ているホテルへのシャトルバスに乗って、ポートピアホテルへ行った。部屋の窓から神戸港と六甲山が見渡せる景色を眺め、途中で買った缶ビールをあけ、それをチビチビ飲みながら、知り合いの人にメールをしたり、買ったばかりの児童英検のテキストを出して、「では問題です」と、モミィにテキストの試験問題を読んで答えさせたりしているうちに、夕食バイキングの時間がやってきた。


 

  
  ポートピアホテルの窓から神戸港、神戸の街、六甲など。
  外は雨でしたけど…

 


翌日は9時35分ホテル発のシャトルバスに乗ってJR神戸に行き、まずその駅近くにある2泊目のホテルへ行って荷物を預けた後、身軽になって神戸港まで歩いた。そして「ロイヤルプリンセス」という遊覧船に乗って、神戸港のクルージングを楽しんだ。モミィも一度大阪城公園から道頓堀まで行く小さな水上バスには乗ったことがあるが、大きな船に乗るのは初めてで、大喜びしていた。天候もよくて海や港湾、六甲山などがキラキラと目に飛び込んできた。

http://www.feel-kobe.jp/sightseeing/spot/?sid=159

 

 
  「ロイヤルプリンセス」で神戸港クルージング。

 

  

 
 灯台に文字を書くのは原則的に禁止されているとのことだが、
 これは日本でただ一つ、文字が書かれている灯台だそうだ。



約40分間の遊覧を終えて、次は布引ハーブ園のロープウェイへ。


港からロープウェイまで、どう行けばいいのか、遊覧船のチケット売り場のおじさんに聞くと、地下鉄を乗り継いでもいいんだけど…と言いながら、あ、そうだ、あれに乗ってください! と、すぐそばのバス乗り場を教えてくれた。

http://www.kctp.co.jp/outline/car/cityloop/33/


この地図で言えば、僕たちは ① のポートタワー前・中突堤から、神戸市内の観光地をめぐるループバス乗った。これで地図 ⑪ の布引ハーブ園のロープウェイに行けるということだった。さっそくバス停で待っていると、緑色のループバスがやって来た。何となく、数年前に乗った仙台市内のループバスが頭に浮かんだが、昔々、妻と2人で北野異人館へ行った時、たしかこの神戸ループバスに乗ったことがあったことも思い出した。


ガラガラに空いていたバスだけど、三宮に着くとドッと人が乗り込んできてバスの中はギュウギュウ詰めになった。しかし北野異人館前に着くと、そのほとんどの人が降りてまたガラガラになった。その次の停留所が布引ハーブ園ロープウェイだった。山麓にある食堂街のうどん屋さんで昼食をとったが、朝のバイキングでまだお腹いっぱい状態だった僕は、ビールと枝豆だけ注文した。「のんちゃん、変やなぁ」と、それを見たモミィが、うどんをズルズル食べながら笑った。


ロープウエイは4人乗りぐらいの小さなもので、乗り場へ行くと、観覧車のように次々やって来て、お客が乗るときも止まらずに、ゆっくり動いている。僕たち3人も、係の人にサポートされながらひょいと飛び乗った。初めて乗るロープウェイに、モミィも大満足の様子。神戸港の船以上に興奮しているのがよくわかった。そりゃぁねぇ…。海に浮く船より、空中を浮遊するロープウェイのほうが、子供にとってはスリル満点ですものね~

 http://www.feel-kobe.jp/sightseeing/spot/?sid=342


ロープウェイの到着先のハーブ園は、寒くて寒くてとてもゆっくりしていられない。他のお客さんもみんな、土産物屋さんに入っている。僕らも、洒落たグッズが陳列されているその店で十分ぐらい過ごした。神戸港を眺める景色は抜群だったが、なにせ寒い。早々に下りのロープウェイに乗り込んだ。モミィはまた大喜びしていた。

 

  
   生まれて初めて乗ったロープウエイ。
   山上駅ではしゃぐモミィ。

 

  
   山上駅からロープウェイと神戸港を臨む。

 


三宮に戻り、そこから南京町まで歩くつもりだったが、道路に出ると雪交じりの雨が降っていた。さっきまで晴天だったのにね~。時計を見ると3時だった。じゃ~もうホテルへ行こう、疲れたなぁ…と言い合ってJRでホテルのある神戸駅まで行った。ちなみに、神戸は三宮駅が中心駅で、神戸駅もあるが、こちらはいささかローカルである。これが観光客には紛らわしいということで、「三宮」の名称を「神戸」に変えようという動きが最近あったけれど、地元の人たちの反対でそのままになった。確かに三宮があり、神戸があり、神戸元町があり…で、駅の名前を聞いているだけでは、どこが神戸の中心なのか、他所のものにはわかりにくいですけどね。ま、福岡にも「博多」があり、大阪にも「梅田」があり、地名には歴史があって、そう簡単に変えられないことは事実ですけどね。


さて、JR神戸駅周辺でお土産物を買ったりしながらうろついていると、ホテルに入った頃はもういい時間になっていた。もし三宮から南京町まで歩いていたら、クタクタに疲れていたのではないだろうか。まだ明日もあるし、今日はこれくらいでよかったなぁ、と妻とホテルの部屋でくつろいでいると、横でモミィが「ヒマやなぁ、バイキング、まだ始まらんの?」とぶつぶつ…。どうもこの子は、食い気一本なのである(笑)。


翌日は6時に起きて、7時からの朝食に一番に行き、支度を整え、ホテルを後にして阪神電車に乗り、キッザニア甲子園へ向かった。とにかく、未明から並んでいる家族も多いキッザニアである。なるべく早く行かなければ、人気の「お仕事」にありつけない。今年の夏、初めてここへ行って、モミィはとても楽しんだ様子だった。その時は隣の甲子園球場で高校野球の熱戦が行われていた。「またキッザニアに行きた~い」と、何度も言っていたので、この旅行でも、最後にそこへ行く予定を立てたのである。


今度は二度目だから要領もわかり、どういう「お仕事」をまわるか、妻とモミィがいろいろな作戦を立てていたようである。僕は今日は金魚の糞のように2人にくっついて行くだけだ。喉と鼻の痛みは少しマシになっていたが、体調は万全ではない。やれやれ…早く家に帰りたいな~と思いつつ、阪神甲子園駅に着き、クマのプーさんの絵が描いてある重いキャリーバッグをガラガラ引っ張りながら、早足で会場へ向かう2人の女をゼイゼイハアハアと追いかける僕なのでした。


キッザニアでのモミィは、ピザ作りをしたり、新生児をお風呂に入れる看護師さんをしたり、テレビ局のクイズ番組の司会者をしたり、俳優になって大勢の子供たちと「オズの魔法使い」を演じたり、ダンサーになって踊ったりと、いろんな「お仕事」を体験しました。それについてはまた改めて来年に詳しくご紹介したいと思います。



 
  キッザニアでテレビのクイズ番組の司会をするモミィ(左端)。


 ちなみに、前回のキッザニアの様子を書いたブログはこちらです。↓

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/15f861f704b6fd811d8fedc97ff2040a


 

今年も今日が最後ですね。このブログをお読みくださっている皆さまには、言葉では言い尽くせないほど感謝しています。今年は、途中でブログをやめようと思ったことがありましたが、皆さまの温かいお励ましがあって、また続けることができました。本当に、ありがとうございました。


また来年も(もう明日ですけどね~)、よろしくお願い申し上げます。


新しい年が、皆さまにとりまして、良いお年でありますように!

 

 

 

 

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ダラダラ日記

2013年12月24日 | 日常のいろいろなこと


一昨日の競馬、有馬記念のオルフェーブルは強かったですね~。前半からずっと後方から3番目ぐらいに位置していたのに、第4コーナーを回るときには一気に先頭に出ていた。ちょっと仕掛けが早いのでは…とも思われる展開だったが、そんな心配はこの馬には無用であった。後続をそのままぶっちぎって驚くべき圧勝。これで引退するということですが、みごとに有終の美を飾りました。


競馬といえばやはり年末の有馬記念が一番。ファン投票もあり、その年の最強馬を決める華やかなレースだ。昔、学生だった頃、競馬がスポーツの中で一番面白く感じていた時期があった。といっても馬券を買っていたわけではなく、純粋なスポーツとして見ていた。特に70年代の競馬にはいろんな思い出が詰まっている。その70年代のスタートの年の有馬記念が、また最高に見応えがあった。


今は皐月賞、ダービー、菊花賞の3冠に挑む馬は3歳馬と称されているが、以前(2000年まで)は数え年で表記されていたので、皐月賞、ダービーなどに出るのは4歳馬だった。つまり以前は生まれたときが1歳…と数えていたのを、0歳と数えるようになったので、1歳のずれが生じたわけだ。だから昔の4歳馬は今の3歳馬である。そして当時は5歳以上の馬を「古馬」と表現していたが、それから言うと、今は4歳以上の馬が「古馬」ということになる。


その1970年の有馬記念には注目すべき3頭が出走していた。当時最強と言われた5歳のアカネテンリュウ、菊花賞を制した4歳のダテテンリュウ、そして8歳という「高齢」ながら実績のあるスピードシンボリ…の3頭が優勝候補に上げられていた。僕はこのレースをテレビの前で固唾をのんで見守ったが、その結果は8歳の老雄スピードシンボリが勝ったのだ。2着はクビの差でアカネテンリュウ、3着はハナの差でダテテンリュウと、有力3馬がゴール前で死闘を繰り広げたあの名勝負は、今も忘れられない。


結局、8歳・5歳・4歳と、年齢の順番に入ったので、その時僕は、う~ん、競馬というのもやはり年功序列で、ここ一番という時は、トシの順でゴールするのかぁ…と妙な感心をしたものであった。一昨日の競馬を見ながら僕は、また40年以上も前の、あの有馬記念を思い出していたのだった。「独身最後の年でもあったなぁ」な~んてことまで、ふと思ったりして…


話はコロッと変わるが、同じ一昨日に行われたフィギュア全日本選手権の男子のほうだが…その結果は、羽生が優勝、2位町田、3位小塚で、応援していた高橋は残念ながら5位に沈んだ。選手たちを改めて見てみると、


1位 羽生結弦  19歳
2位 町田 樹 23歳
3位 小塚崇彦 24歳
4位 織田信成 26歳
5位 高橋大輔 27歳


…と、きっちり年齢順に並んでいる。70年のあの競馬の時に思ったのとはまったく逆である。やっぱり今は若いもん順なんだなぁ。年功序列の時代は終わったかぁ…と、事の本質とはナンの関係もない感慨にフケり、それにしても高橋大輔が五輪選考から落ちるのは残念だなぁと、大輔ファンである僕も妻もモミィも悔しがったのだった。しかし昨夜、高橋は、羽生、町田に次いで3人目の代表に滑り込んだのである。おお、やったぁ!


小塚選手には気の毒だが、オリンピックの日本チームに高橋の存在は欠かせない。他の選手たちにも好影響を与えるだろうし、自身も実力を発揮すれば金メダルも狙える。スケート連盟の満場一致のこの選考結果は嬉しいですね~


ということで、また話は変わりますが、今日はクリスマス・イブですね。クリスマスのイルミネーションが飾られる時期がどんどん早くなってきているので、もうクリスマスは終わったのか…と思ったりしましたが、これからが本番なのですね。今日はモミィも終業式で明日から冬休み。27日から2泊で近郊へ旅行に行く予定です。相変わらず喉が痛くて体調がイマイチですが、明日、耳鳴りのTRT療法で大〇前病院へ行くので、ちょうど耳鼻咽喉科の診察を受ける際に、喉のほうも診てもらおうと思っています。では、本日はこのへんで。 See you ~

 

 

 

 

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あまりと言えば…

2013年12月22日 | ランニング

2、3日前から喉が痛い。ツバを飲み込むと痛いし声はガラガラ声だ。以前病院でもらったうがい薬を出して使ったが、表示を見ると「使用期限・2013年1月」とあった。トホホ。ちなみに僕の人間としての「使用期限」はいつなんだろ? …もう過ぎていたりして。


さて…今年を振り返ってみて一番残念だったことは、11月3日にフルマラソンを走ろうと意欲を燃やしていたのに、本番が近づくにつれ体調がおかしくなり、結局キャンセルしてしまったことだ。その思いを引きずっていた時、ふと長居マラソンのことが浮かんだ。陸上競技場やセレッソ大阪の本拠地がある長居公園の周回道路を15周するフルマラソンである。僕はこの大会に過去3度出場したことがある。自己最高の3時間27分54秒というタイムもこの大会で出たものだ。何よりも、自宅から遠くなく、しかもコースが周回なので、いつでもやめることができる(笑)。11月のマラソンに向けて練習をしていたとき、何度か気分が悪くなったことがあるので、その意味ではここは安心して走れるコースである。


そこでまた、性懲りもなく、12月初めに長居フルマラソンに申し込んだ。レースが行われるのは来年の3月2日である。制限タイムは6時間とのこと。完走の自信は、ゼンゼンありませんけど。


…ということで、この冬はもう一度走り込みをしよう…と再び張り切ったのだけれど、何の因果か申し込んだ翌日の新聞の生活欄に「心房細動で運動してもいい?」という見出しの質問と医師の回答の記事が載っていた。心房細動といえば僕の持病でもある。それが元で2006年に軽い脳梗塞になり、カテーテル手術もし(失敗でしたが)、今も定期的に病院に通って検査をし、薬も毎日飲んでいる。


新聞記事の質問者は60歳の男性で、「2年前に心房細動と診断され運動が良くないと言われたので、趣味のサウナとウオーキングをやめ、体重が15キロ増えました。どの程度なら運動も大丈夫なのでしょうか」という質問だった。


これに対して東京警察病院長の白井徹郎さんという方が、「ウオーキングはまったく問題ありません。フルマラソンなどの激しい運動はよくありませんが、早歩で1日30分程度歩くなら、むしろ積極的にやったほうがいいでしょう」と回答されたのである。 


そ~か。結局フルマラソンは心房細動によくないということか…。こういう記事を読むと、やはり怖気づく。(同じ心房細動を抱えながら80歳でエベレスト登頂に成功した三浦雄一郎さんのような例もあるが、この人はいわばスーパー老人すぎて、何の励みにもならない)。


いつだったか、通っている病院の主治医に、フルマラソンに出たいのですが…という意味の質問をしたら「無理しない程度なら…」という答えが返ってきた。これは僕の尋ね方が少し曖昧だった。自分に都合のいい答えを医師から引き出させるような問い方をしたような気がするのだ。しかしこの新聞を見ると、フルマラソンなどは心房細動によくない、とはっきり書かれている。たしかに、11月のマラソン大会が近づいてきた頃、心房細動が出やすくなったような感じもする。


それにしてもねぇ。


長居マラソンに参加費を添えて申し込んだ日(12月2日)の翌日の朝刊にこれが載っていたのである。…あんまりなタイミングだと思いません?

 

 

   

   
 

 

 

 

 

 

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掃除・片付け・年賀状

2013年12月20日 | 日常のいろいろなこと

きょうは12月20日。2013年もあと10日余りを残すだけとなりました。それにしても寒い毎日ですね。先日ECCでお母さんの一人が「掃除や片付けをしたいのですが、寒くて寒くて…、体を動かすのが億劫ですわ」と苦笑いをしておられた。それを聞いて、あ、そろそろわが家も掃除・片付けをしなければ、と思い、一昨日と昨日の2日間、外は雨模様だったこともあり、ほとんど引きこもり状態で妻と家の中の掃除と片付けに精を出しました。


家の中の整理整頓をするとき、いつも頭を悩ますのが「不用なものを捨てる」ことに関してです。使わないものも多くあるのに、しかし一度に処分する度胸もなく、いつも思い切って捨てることができない。昨日も、少~しだけ捨てることにしました(一度に捨てればスッキリするのにね)。妻はわりに執着しないタイプなのですが、僕は未練がましい性格なので、つい物に対しても執着してしまう。世の中の多くも、妻は捨てたがり、夫は置いておきたがる…ということを耳にしたことがありますが、実際はどうなんでしょうか。


ところで、今は和室で妻と一緒に布団で寝ているモミィが、3年生になったら自分の寝る部屋がほしいと言い出した。これまではベッドで寝させると、寝相が悪いので落ちる心配があったけれど、もう大丈夫だろう。…と、ひとつ使っていないシングルベッドを置いてある洋室があったので、そこをモミィの勉強部屋兼寝室としてあてがうことにした。今までそこにミシンを置いて妻が洋裁をしたり、雨の日に洗濯物を干したりして「多目的」に使っていたけれど、今回はミシンを別の部屋に移動させ、他にもいろんなものを片付け、久しぶりにその部屋はスッキリした。


掃除・片付けは手をつけ始めるのが面倒だけど、やり終えてしまうとさわやかな気分になりますね。もっと早くしておけばよかったなぁ…と。なのに来年になると、また押し迫ってからしか動き出さないのです(笑)。


掃除・片付けのほか、12月の恒例といえば年賀状。その年賀状も昨日できあがったので、今日投函します。仕事をしていた頃から比べると、年賀状の数も4分の1ほどになりました。まぁ、毎年、少しずつ減らしているわけですが、やはり勤めている時は儀礼的な年賀状が多いですね。今では、現在もいろんな形でつながりのある人と、それがなくても、いつも年賀状に何かひとこと書き添えてくれている人に対して、送っています。


年賀状はパソコンで打ち、印刷しますが、送る相手によって文面を変え、それぞれの人やグループに対して、文章を考えながら打っては印刷し、打っては印刷し…を繰り返します。それでも枚数が減ったのでさほど時間もかからず、その人たちと対話する気持で、楽しんでやっています。


で、僕の年賀状の枚数は減ったのですが、モミィの分は増えてきています。仲のいいお友だちのほか、大好きなエレクトーン教室の先生、幼稚園時代の先生、小学校1年生の時と今の担任の先生などに送りたいというので、お正月のごあいさつと写真だけは印刷してやり、空白の部分に、モミィが自分でいろいろと考えて書いています。こんな感じです。 

 

 

  

  
 

では皆さま、良いお年を…


…まだ早いっちゅうねん!

 

 

 

 

 

 

 

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モミィの英語教室

2013年12月17日 | モミィの成長日記

昨日、今年最後のモミィの英語教室があった。4月から習い始めて26回目のレッスンだった(欠席は一度もせずに済みました)。昨日はクリスマスにちなんだ英単語を覚えたり、サンタさんの塗り絵をしたり、勉強とお遊びが半々くらい。子供たちは終始楽しそうに1時間を過ごしていた。


保護者たちは教室の外にある椅子に座って、ガラス越しにその様子を見学する。子供たちは7人だが、保護者のほうは、子供を送り迎えするだけの人もおり、途中から戻って見学する人もいるけれど、いつも5人前後が椅子に座っている。僕は最初から最後までレッスンの様子を眺めている。一度だけ、体調をこわして行けなかった日があって、妻が代わりに行ってくれたのだが、それ以外はすべてのレッスンをずっと見てきた。自宅で予習・復習をさせるためには、「今週はどういうことをしたのか」を、しっかり見ておかなければね。


モミイが通うECCには、僕も4年前に週2回通ったことがあるが、半年でやめてしまった。当時は退職した直後で「完全フリーの身」に嬉々としていた時だが、たとえ週2回でも、どうもこれでは時間に縛られるなぁ、と面倒くさくなってやめた、というのがその理由である。(…なのに、今ではモミィの習い事のおつき合いで、その何倍もの時間に縛られている)


モミィのクラスには小学3年生が3人、モミィと同じ2年生が2人、そして1年生が2人だ。「ホワッツ・ユア・ネーム?」「ハウ・オールド・アー・ユー?」「ウエア・アー・ユー・フロム?」などから始まって、今は「あなたは何時に起きますか?」とか、「土曜日の朝、あなたは何をしますか?」などという、結構長い文章を習っている。家でモミィがヒマそうにしていると、英語でそういう質問をして英語で答えさせる…というような遊びもしているので、結構お気に入りのようである。


これでモミィは、月曜日の英語のほかに、習い始めて3年目になるエレクトーン教室(水曜日)、ダンス教室(金・土曜日)、スイミングスクール(土曜日)に加え、新たに木曜日に体操教室にも通うことになった。来年はますます忙しくなりそうである。まあ、習い事はすべてモミィ自身が「行きたい」と言ったものばかりで、どれも楽しんでいる様子なので、いいんですけどね。


さて、モミィの英語教室で唯一僕が行けなかった日は、ちょうどハロウィンの時で、外国人講師も生徒たちも扮装をしていろんな遊びをしたようです。その時の写真を最近、事務所のほうから譲ってもらったので、掲載します。(ちょっと時期はずれですけど…。真ん中にモミィがいます)。

 

 

 

 

 

 


 

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言いまちがい

2013年12月12日 | 日常のいろいろなこと

言い間違いというのは、どんな人にも、つきものである。テレビのニュースでアナウンサーが言い間違えることも少なくない。しかしテレビとなると、その言い間違いが電波に乗って数えきれないほど多くの視聴者の耳に入るのが、僕たち一般人とは違うところだ。間違ったアナウンサーはそれを大いに恥じるのか、それともいちいち気にしていたら身が持たぬ…と最初から頓着していないのか知らないけれど、プロと言えども生身の人間のやることである。ついうっかり間違いもあるだろう。しかし…やっぱり、程度の問題もある。


いつかテレビニュースを見ていたら、ある殺人事件が報じられた時、男性アナウンサーがこう言った。


「警察では周囲の状況から、人見知りの犯行とみて捜査しています」


うむ…。「人見知りの犯行」…? 何気なく聞いていたらそのまま聞き流してしまうところだが、何だかおかしい。しっくりしない。そうだ、人見知り…というのは、子供などが見知らぬ人を見て泣いたり嫌がったりすることである。「この子は人見知りがはげしいから」などという言葉はよく耳にする。はは~ん、ではこの事件は何らかの状況からみて、犯人は、知らぬ人を見ると急に泣いたり嫌がったりする性格の人間だと警察は判断したのであろうか…? 


な~んてわけ、ありませんよね。それは「顔見知りの犯行」でしょ。ちょっとした間違いみたいだけど、意味、ゼンゼ~ン違うがな。


またかなり前のことになるが、大宅映子さんの講演会を聴きに行ったことがある。その時に司会を務めたのは、たぶんどこかのアナウンサーのような感じの、容姿端麗で爽やかな口調の女性だった。その女性司会者が、「大宅映子さんのご講演の前に、プロフィールをご紹介いたします」とメモを読み始めたのであるが、その中で「大宅さんは、国際きとくきょう大学を卒業され…」という言葉が出てきたのである。はぁ…? 国際“きとくきょう”大学。…?


“国際きとくきょう大学”とはどんな大学なんだ? と不思議に思っているうち、国際基督(キリスト)教大学だと気がついた。「キリスト」を漢字で書くと「基督」だもんね。それを司会者の女性はそのまま「きとく」と読んだわけだ。彼女はそのまま読み終え「それでは大宅映子さん、お願いいたします」と言って舞台の袖に引っ込んでしまった。


大宅さんはそのことに対して何も言わずに演壇で語り始め、時事問題についてひとしきり聴衆を魅了させてくれて、講演を終えた。


そのあと、またその司会者が出てきて「ここで改めてもう一度大宅さんのプロフィールをご紹介します」と言い、さっきと同じメモを読み始めた。今度は「国際基督教大学…」のところでは「国際キリスト教大学を卒業され…」と正しい読み方をした。そして全部読み終えたあと、一礼して下がって行った。つまり訂正した形だけれど、彼女は「訂正」とはひとことも言わなかった。さすがに恥ずかしく言えなかったのかもしれない。


…と、その世界のプロの人たちでも、しょっちゅう間違いをする。総理大臣でも踏襲を「ふしゅう」と読むのだから、僕らなんかは間違えて当たり前…と思えば気が楽である。僕は人の失敗を見て安心するタイプなのです(笑)


先週月曜日、コスパのプールで、顔見知り(人見知りではありませんよ)のおばさんたちとの雑談の中で、僕がウダウダ会というグループで明日ウオーキングに行く…という話をした。そして1週間後の月曜日にまたそのおばさんたちとプールで一緒だった。そのうちの一人の女性が「先週、歩きに行ってきはったんやねぇ、ダラダラ会で。どうでした?」と言われてしまった。「あの~、ダラダラ会ではなく、ウダウダ会ですわ」と僕は訂正したけれど、この場合は言い間違えた相手を責めてはいけない。相手にしてみれば、ウダウダであろうが、ダラダラであろうが、同じようなものなんでしょうから…。


とまぁ、人のことばかり言っているけれど、むろん僕も言い間違いは、いくらでもある。このごろはメールでもヘンな変換をして恥ずかしい思いをすることが増えた。スマホは文字を入力しにくいし、感度が敏感な分、ちょっと指がかすっただけで違う文字が出て勝手に変換してしまうから、しっかり見直してから送信しなければならない。


この間は、知人に「12月下旬に神戸に行きます」とスマホで入力し、送信しようと文面を確認したら、「こうべ」と打ったつもりが「こうび」と打っていたようだった。漢字もスマホが勝手に「交尾」と変換していた。これにはびっくりしましたがな~。


ま、危機一髪のところで気がつき、送信するまでに至らずホッとしました。


やれやれ…。「12月下旬に交尾に行きます」…って、どんなんやねん?


皆さん、言い間違いやメールの打ち間違いにはくれぐれも注意しましょう。

 

 

 

 


 

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一身上のことですが…

2013年12月10日 | 日常のいろいろなこと

これはちょっとした身の上話です。ま、大した話じゃありませんけど(笑)。


僕は京都市の上京区で生まれた。そこは母の実家だった。母の祖父母たちと一緒に暮らしていた。だから父はいわば「サザエさん」に出てくるマスオさんみたいなものであった。ところが僕が幼稚園ぐらいの時、父と母が離婚した。僕は母に連れられ京都の家を出て大阪で暮らすようになった。以来、実の父には一度も会っていない。顔も覚えていないし、今もどこかで生きているのか、あるいはもう逝ってしまったのか、知る由もなし…というところだ。


大阪に出てきてから急に記憶がはっきりするのだが、これはまぁ、イヤなことの連続だったからよく覚えているのだと思う。母は働くのに精一杯だったようで、僕を知人の家に預け、時々顔を見せに来るという生活が、一定期間続いた。たとえ母の知人であっても、僕からみれば見知らぬ人の家である。そんな中で過ごすことになったのだから、幼い身にはかなりの苦痛を伴う毎日だった。母と一緒に暮らせない理不尽な悲しみのようなものが、常に心のどこかに宿っていたような記憶が、今も心の隅に残っている。そして、やがてその家から近くの小学校に入学し、通うことになった。


小学1年生の夏休みだったと思うが、母が僕を引き取りに来た。母一人ではなく、横に知らない男性が一緒にいた(後の義父です)。そして3人で東住吉区に移り、僕は小学校も転校した。その後、僕が結婚して家を出るまで、ずっと3人暮らしの生活が続いた。


まあ、ざっとそういう生い立ちでした。
さて、ここから次の話に移るわけですが…


その中でひとつ、幼い頃の不思議な記憶があった。どこか田舎の大きな家に住んでいたのだ。それがたぶん、僕の人生にとって最初の記憶ではないかと思う。


京都から、母に連れられて大阪へ移っているのだから、そういう田舎の家に住んだことはなかったはずである。しかし、僕は微かに覚えている。田舎特有の大きな大きな家で、庭も広々としていた。その庭の木々の間に、外から流れ込んでいる小さな川もあった。庭一面が雪に覆われるという珍しい光景も目にした。


ある時、僕は庭でひとり遊んでいて、足を滑らせ、小さな川の中にドボンとはまった。小さな割には深く、流れも速かった。僕は必死でもがいて川から這い上がった。怖かった。とても怖かった。


それが一体どこなのか、誰と住んでいたのか、なぜそんなところにいたのか…。何もわからないままだった。母は離婚の話や京都を出て大阪へ来たことの経緯などは、僕が大人になってから時々語ったが、あまり詳しくは語らなかった。ただ、離婚の原因は父に生活力がなかったから、お金に困ったから…ということは言っていた。僕のほうは、何かそういう話題には触れてはいけないように思い、自分から母に詳細を聞くことはしなかった。だから、あのどこかわからない田舎のことも、尋ねずじまいだった。今年85歳になった母は、7年前に脳溢血で左半身が動かなくなり、車椅子生活で、現在は特別養護老人ホームでお世話になっている身である。あの田舎の家のことは、永遠に謎のまま埋もれてしまうのだろう…と思っていた。それが、最近「まさかの展開」を見せたのである。これには僕もビックリした。


1、2ヵ月前。妻との会話の中で僕の幼い頃の話が出た。僕は妻に、どこかわからない田舎の家の、庭の川に落ちた話をした。久しぶりに思い出したのだ。もう遠く夢になりかけていた記憶だった。あれは一体どこの話だったのだろうか、あるいは現実のものではなく夢でも見ていたのだろうか…ということを言った。すると妻は「その話はいつかお母さんに聞いたことがあるわよ」と言った。


「えっ…?」と僕は聞きなおした。「聞いたことがある?」
「ええ。お母さんは、京都ではお父さんがどんな仕事もうまく行かないので、3人で京都の家を出て、お父さんの実家へ行ったそうよ」
「へぇぇ」僕はそんな話は知らない。
「実家へ行った? 実家ってどこ?」

「実家は舞鶴やって言うてはったよ」
「えっ、舞鶴?」知らなかったなぁ。
そんなこと、嫁さんから聞いてどないすんねん(笑)


京都から母に連れられて直接大阪へ来たとばかり思っていた。それが京都を出た時はまだ離婚しておらず、3人で父の実家へ行った時期があったとは…
「そこで仕事を探そうということだったそうだけど」と妻は言った。
しかし、舞鶴の実家へ帰っても、父はこれといった仕事が見つからず、僕ら家族3人は居候同然で、母も長兄夫婦らに嫌がらせをされたりしたという。そして母は父と別れ、僕を連れて舞鶴を出て大阪へ行った…とのことだった。


夢になりかけていた記憶…。田舎の家。庭。そして川で溺れかけたこと。庭一面の雪。…あれは一体どこだったのだろう、という長年の疑問が思いも寄らぬ形で解けた。あれは舞鶴だったのだ。父は舞鶴の人だった…。


母は、僕には言っていない話を、妻にしていたのだ。やはり女性同士というのは、そういう話をしやすいのだろうか。母もその話を誰かに聞いてもらいたかったのだろうか。妻はその話を僕が「知らなかった~」と言ったら、「ほんと? 聞いていなかったの?」と驚いていた。


そんなことがあって1ヵ月も経たない頃、「ウダウダ会」から案内状が届いた。封筒を開けて、またビックリした。「12月のウダウダ会の行く先は舞鶴です…」と書かれていたのだった。


そのウダウダ会で初めて行った舞鶴の様子は、前々回のブログに書きました。いや、初めて行ったというのは誤りで、一度、幼い頃に短期間住んでいたということなので、「再訪」ということになりますか? 舞鶴の町を歩きながら、いろんな感慨が胸をよぎりましたが、何だかまだまだ夢のような気分で、ピンとこないまま、こんな身の上話を書いてしまいました。ど~も、失礼しました~。

 

 

 

 

 

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サッカーW杯日本はC組

2013年12月07日 | スポーツの話題

前回の続きとして、舞鶴について書きたいことがありましたが、今日未明、来年6月に行われるサッカーワールドカップの組み合わせ抽選会があったので、とりあえずそのことを書きます。


今日6日の午前零時から、BSで、ブラジルでの組み合わせ抽選会の生中継があったので、昨日それを録画し、今日の朝に見た。よくまあ録画で見たことである。リアルタイムで見ていた人はしびれを切らしたに違いない。日本のスタジオでは、延々と出場32カ国のプロフィールや過去の大会のトピックス、日本はどういう組み合わせが有利か、あるいは不利かなどを解説者が話し、抽選のシュミレーションまでしてみせたりと、とにかくなかなか始まらない。現地に映像が変わっても、舞台の上でさまざまなセレモニーが行われ、結局番組開始から3時間後ぐらいにやっと抽選が始まり、そしてそれはあっという間に終わったのである。深夜、ずっと生中継を見ていた人は、本当にお疲れさまでした。


この予選グループを決める組み合わせ抽選というのも、強い国が8つのグループにシードされていて、それから同じ地域が一つのグループに集まらないようにも配慮された複雑なシステムで、イマイチわかりにくい。まあ、それは仕方ないとして、要するに予選を突破するためには1グループ4カ国のうち、2位までに入らなければならない。だから、あまり強くない国のグループに入るのが好ましいわけで、この抽選会の結果をみたら、日本も決勝トーナメントに進出できるかどうかの見通しがほぼつく…というものである。


そして日本は、コロンビア、コートジボアール、ギリシャと共にC組に入った。コロンビアはスペイン、ドイツ、アルゼンチンに次ぐ世界ランキング4位というから強そうだけど、全体としては、まずまずよかったなぁと思う(このランキングもあまりアテにならないしね)。日本の決勝トーナメント進出も十分期待できるグループである。


コロンビアといえば、忘れられない出来事がある。


1994年のアメリカで行われたワールドカップ(日本はアジア最終予選の「ドーハの悲劇」で出場できなかった)で、コロンビアは優勝候補として期待されていた。それが予想外の予選敗退となり、国民は大いに嘆き悲しんだ。コロンビアはアメリカと対戦した時、エスコバルという選手がオウンゴールで相手に得点を与え負けてしまった試合があった。そして選手たちが帰国して間もない頃、エスコバル選手がレストランで食事を終えて外へ出た瞬間、一人の男が「オウンゴールをありがとう」と言い、エスコバル選手を射殺したのだった。


僕はその衝撃のニュースを見て、サッカーというのは本当に恐ろしいスポーツだと思った。応援の熱狂度が尋常ではない。こういう国のサッカー選手は文字通り命がけで戦っているのである。それを象徴するような悲惨な事件が、20年前のコロンビアで起きたのだった。


そのコロンビアがC組の最強チームとされるわけだけれど、「日本はギリシャには勝てるだろ」という雰囲気が早くも漂い始めている。しかし初戦に対戦するコートジボワールという国はなじみが薄い。聞くところではアフリカで最強国と言われているそうだが、日本はここに勝たなければ、たぶん予選落ちしてしまう。初戦に敗れたチームが決勝トーナメントに出る確率は非常に低いそうである。来年6月14日に行われるこの大一番が、今からドキドキである。


ところで、この抽選会を中継していたNHKテレビで、元セレッソ大阪の森島が解説に出ていた。抽選が始まる前に、アナウンサーが森島に「日本にとっていい形の組み合わせはどんなものでしょう?」と聞くと、森島はパネルに4つの国を書いた。「スペイン、日本、アルジェリア、ロシア」だった。


森島によると、スペインとは強いけれど、五輪でも勝っているし縁起がいい。ここと初戦を戦って善戦し、はずみをつけ、あとは…、口では言わなかったが、アルジェリアとロシアには勝てる、ということを森島は言いたかったようである。


そのことがまだ頭に残っていた時に、韓国が入ったG組を見て「あれ~?」と思った。韓国は、ベルギー、アルジェリア、ロシアと同じ組に入ったのである。森島は、日本はスペイン、アルジェリア、ロシアと一緒だったらいい…と言っていたのだが、日本ではなく、韓国のグループに、アルジェリアとロシアが入った。しかも、シード国は、スペインより格下のベルギーである。このH組が一番楽なグループのように思える。韓国はなぜかいつも運がいいんだよね。


半年後の本大会では連日熱くなることだろう。目標は、とにかく決勝トーナメントに進出すること、まずそれである。そのためには、初戦必勝。
頑張れニッポン!


ところでサッカーではありませんが、浅田真央ちゃん、優勝しましたね~
サッカーのワールドカップより先に、ソチ五輪が2月にありますよね。
こちらも、頑張れニッポン! 

 

 

 

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ウダウダ会、舞鶴へ

2013年12月05日 | ウォーク・自転車

本年最後のウダウダ会の例会が、12月3日、盛大(?)にとり行われた。出席者は13名(男性11名、女性2名)だった。この13という数字は、イエス・キリストの13人目の使徒ユダの裏切りによって不吉な数字とされているが、ウダウダ会はキリスト教よりも、ビール教、清酒教、焼酎教、ワイン教などの信者がいっぱいいるので、そんなことはいっこうに意に介しない。それよりギリシャ神話に出てくる酒の神・バッカスの信者ばかりなのだ(笑)。 

 
今回の行く先は京都府の舞鶴だった。大阪とは反対側の日本海に面しているが、便利な高速道路の発達で、マイクロバスに乗せてもらって2時間少し経ったらもう到着である。舞鶴湾に臨むこの街は、東舞鶴と西舞鶴とに分れている。(行政区域としては今は舞鶴市である)。地図をご覧になればおわかりのように、舞鶴湾は東湾と西湾とに、二股のようになって分かれている。東湾はかつては軍港、西湾は商港だったそうだ。僕らがバスから降りたのは東湾のほうで、地図で大きく「現在地」と書かれている場所で、そこには引揚記念館というのがあった。 

 

    
  バスは「現在地」と書かれている引揚記念館の前に止まった。


 

舞鶴といえば第二次世界大戦後の「引揚げ」で有名である。ソ連などに抑留されていた人々を乗せた引揚船が着く港だった。船が着くたびに、岸壁に立ってわが子の帰還を待ちわびていたという「岸壁の母」の舞台でもある。バスを降りたところがその引揚記念館の駐車場で、周辺には菊池章子や二葉百合子が歌った「岸壁の母」の曲が、ずっと流れ続けていた。

 

  
    引揚記念館

 

その記念館の下の方が、苦難に耐えて国外から戻った人たちが、祖国への第一歩をしるした引揚桟橋があったところだ。ウダウダ会一行は、見晴らしのいい場所に出て、その引揚船が到着したであろう場所をじっと見つめていた。

 

  

  

 
 

 

  
舞鶴といえば大阪が好天に恵まれていても、雨や強風や雪が降り、同じ近畿地方でもかなり天候の違う場所のイメージが強い。今回も、みんな寒さに備えて重装備をし、むろん傘や合羽もリュックに詰めてきた。しかし、空一面に青空が広がり、柔らかな日差しの中、風もなく絶好のウオーキング日和となった。澄み切った空気が、舞鶴湾一帯の風景を見事なものにしてくれていた。


この東湾は、かつては軍関係の諸施設がおかれ、軍都として栄えた名残りで、今でも遠くに軍艦のような船も見えたし、海上自衛隊もあり、「海軍ゆかりのみなとめぐり遊覧船」というのも出ていた。今は軍関係施設は民間の工場に転用されて、造船、車両、板ガラス、繊維などの工場が並んでいたが、かつての「軍都」などといわれても、昭和24年生まれの団塊世代の自分にはわからないはずだが、でも、何となくそういう雰囲気が漂っているような気はした。それにしても美しい海の風景だった。

 

 

 


途中、待機していたマイクロバスに乗り、次は西舞鶴の方向へ行き、道の駅で降ろしてもらい、そこから今度は城下町として栄えた西舞鶴の街並みを散策した。先ほどの広々とした元軍港の光景から一転して、古都の街並みのような風情のある道を歩いた。赤れんが博物館へ行き(庭で休憩しただけで入っていません)、そのあと、田辺城址まで歩いた。お城はないが、面影は残っていた。


敷地に立っていた説明パネルによると、田辺城は舞鶴城とも称され、16世紀、織田信長から丹後国をあてがわれた細川幽斎とその子・忠興によって築城された。その後、細川氏の後を受け、京極氏、牧野氏が城の拡張、改修をおこなったとのことである。


小さな資料館の中に入ると、細川幽斎の坐像があり、諸々の資料が展示されていた。細川幽斎といえば、その子・忠興は明智光秀の娘の玉を妻にした戦国武将である。本能寺の変のあと、明智光秀から味方についてくれと頼まれたが、忠興は父とともにきっぱりと断り、妻の玉(洗礼名・細川ガラシャ)の悲劇はそこから始まった。その細川親子が、この舞鶴に築城したのが田辺城だったという。


田辺城址の周囲はきれいに整備された公園になっており、母子連れが数組、ブランコや滑り台で遊んでいた。今は平和な世の中で本当によかったです。



  
     田辺城址

 


時計を見ると間もなく午後1時になろうとしていた。
「あぁ、腹が減ったなぁ」
「早くビール飲みたいなぁ」
という声がチラホラと聞こえ始める。


「では、皆さん。これから料亭へ案内します。すでにそこへ下見に来ていますが、素敵なおかみさんがおられる料亭です。お楽しみに!」


しかし会長のその言葉を信用するものは誰もいなかった。前回、比叡山を歩いた帰り、坂本駅の「料亭」を予約しているという触れ込みだったが、行ってみると小さなお好み焼き屋さんであった。だいたい、この会はそういう会なのである。場末の小さな食堂で手を叩くのが慣例なのだ。またそれが、このメンバーによく似合っているしね~


JR西舞鶴駅に近い商店街の一角に「料亭」はあった。「ごめん!」と暖簾をくぐって入ると、狭いスペースに細長いテーブルが並べられてあり、そこへ向かい合わせでぎっしりと椅子が並べられている。入り口に近いところから、奥の壁まで、いっぱいいっぱいである。そこへ鍋が4つ置かれていた。店にはあとはカウンタがあるだけで、そこで一人、ご老人がビールを飲みながらテレビを見ておられた。10人ちょっとのお客が入れる程度のお店である。


「とりあえず、ビールちょ~だい」と世話役が叫ぶ。は~い、とビンビールをどんどん運んできたのは、とても美人のお姉さんであった。う~ん、会長が口走っていた「素敵なおかみさん」と言ったのも、まんざらウソではなかったようだ。そのお姉さんの言葉遣いがまたよかった。「4つの鍋は、みんな違う味付けになっとるで、よろしく~」。それを受けてみんなが、「これは何の鍋?」「こっちは~?」などと言うと、お姉さんはてきぱきと、「これはポンズになっとるし、こっちは塩鍋になっとるで、間違わんように」と説明をされたのである。


若くてきれいな女性が「なっとるで(なっていますので…の意)」と歯切れよく応えてくれ、動作もてきぱきしていたので、場の雰囲気は一層盛り上がる。ではでは乾杯~! の声とともに、グイっと飲み干すビールの味は、もう、これは、いつものことながら、たまりませんでしたね~。


そこで約2時間、酒の神バッカスの信者たちの宴会が続いた。例によってタガが外れたようにくつろぎ、笑い転げ、飲んでしゃべって食べて、ダジャレを連発し、それをまた突っ込んで…と、それぞれの得意分野の能力を遺憾なく発揮し、早朝から今まで溜まっていたものをウダウダと晴らしたのである。もっとも…何が溜まっていたのか、よくわかりませんけど…

 

 


 

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お酒をめぐる暴険

2013年12月01日 | 雑記

ちなみにタイトルの「暴険」はアテ字です(笑)。
村上春樹さんの小説の題名にひっかけてみました。


さて、スポーツクラブ・コスパで、いつもよく話すTさんという70代前半の男性がいる。ユーモラスで、愛想がよく、僕にも敬語を使うような物腰の柔らかい人である。先日その人とロッカールームで話しているうちに、つい長話になった。内容は、お酒に関する話だ。


Tさんは若い頃サラリーマンをしていたが、お酒が大好きだった。そして、たまたま跡継ぎがいなくて店を閉じようとしていた親戚の酒屋を継ぐことにし、会社勤めをやめた。で、酒屋の主人になった。それで…「朝から晩まで飲んでましたわ。商売にも何もなりませんでしたね」と語るTさん。大の酒好きが酒屋の主人になり、まわりを酒に囲まれていると、そりゃぁつい飲みたくなるでしょうね。酒がヤマほどあるんだから。あとは自分の意志との闘いだけ。で、飲み始めると止まらない…というのは、僕もよ~くわかりますしね~(笑)。


「酒屋の主人の9割はお酒が好きではない人です」とTさんは言った。「酒屋でお酒好きな人は、自分が知っている限り、ほとんど身体を壊してはりますね」


僕はTさんの話を興味深く聞き続けた。


毎日、朝から晩まで酒を飲む…。体にいいはずがない。肝臓の数値はもとより、血圧、血糖値、尿酸値など、いろんな数値が基準値をはるかに上回り、また、酔って転んで怪我をしたことも一度や二度ではなかった。「ここ、見てください」と、Tさんがメガネをちょっと上げて、自分の目元を指でさわった。そこにはえぐられたような傷跡があった。「酔って自転車でコケましてん」。それが右目である。「それから、こっちが…」と次は左の目元を指して、「酔って溝に落ちたときに怪我しましてん」と小さな傷跡を見せた。


「ほどほどに飲むということが、できませんねん」
とTさんはしみじみ述懐する。
「それで60歳の時から3年間、酒を断ちました」
「えっ? さ、さんねんかんも!」と僕は驚いた。
「いろんな数値が正常に戻りましたわ」Tさんは笑った。
「…で、また飲み始めたのですか?」と僕。
「はい。また飲み始めて、かれこれ10年になります」
「ふ~ん。で、今はお体の調子はどうですか?」
「時々1ヶ月禁酒をしていますので、まずまず…」
現在も禁酒中で、12月中旬からまた飲むつもりだ、と言った。
「まぁ、お酒は飲みすぎたらあきませんわ」と、自分に言い聞かせるように言われたのだろうが、同時に僕に言われている気もした。
そんなことで、「ではまた明日~」と僕たちは分かれた。
(あ、書き忘れたが、Tさんは今はもう酒屋さんはやめておられる)


僕もお酒は好きだけれど、上には上がいるものである。世の中には信じられないほどの量のお酒を飲む人が大勢いるんだ。たいてい、一晩にどれだけ飲んだか…という話を聞くと、びっくりするほどものすごい量を飲む人がいる。


これは週刊文春の11月7日号に載っていた元横綱の武蔵丸(現武蔵川部屋の師匠)の話だけれど、こんな途方もない大酒飲みは、今まで見たことも聞いたこともなかったので、ついでに紹介しておきたい。


週刊文春のシリーズになっている「阿川佐和子のこのひとに会いたい」という対談記事の中で、武蔵丸は酒が大好きで、大関時代、毎日飲んでばかりいたので、なかなか横綱に上がれなかった…ということを打ち明けた。そして、「このままじゃいけない」と思って酒をやめたら、その四場所後に横綱になれた」ということだった。


この話を受けて阿川佐和子さんが「ちなみに、当時はどれくらい飲んでいたんですか?」と尋ねたら…


「ビールなら中ビン200本ですね」という答えが返って来た。
(中ビンは500ml。缶ビールで言えばロング缶です)


それを聞いた阿川さんが「ええっ、一晩で!」と仰天していた。


武蔵丸は一晩でビールの中ビンを200本飲んでいた!
ひとりで一晩に200本ですよ。

にひゃっぽ~ん! げぇぇぇぇぇえ~


人間ではなく「おばけ」である。こわ~い。

 


 

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