僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

耳鳴りが発症した頃 (再掲)

2011年03月25日 | 心と体と健康と

このブログも、早いもので、始めてから3年4ヶ月が経ちました。
その間、耳鳴りで苦しむ方たちから、多くのコメントをいただきました。

ブログの第1回目(2007年12月1日)に、自分の耳鳴りについて詳しく書きました。
昨日、それを読み返して、耳鳴り発症当時のことを生々しく思い出しました。
あの不安感というものは、今ではとても言い表せるものではありません。

ブログはしばらくお休みをしますが、耳鳴りで悩んでおられる方々に、
何かひとつでもご参考に供することがあれば…と思い、ここに再掲載しました。

…とはいえ、ほとんど愚痴を並べているだけなので、
やっぱり何の役にも立たないかも知れませんけど…。

  ………………………………………………………………………………………………

~ 2007年 (平成19年) 12月1日 ~

今年の8月下旬、K大学附属病院で、持病の発作性心房細動(不整脈)の手術を受けました。

カテーテル・アブレーションと言って、管を血管内に入れて心臓部にある患部を焼き切る治療ですが、手術途中に、不都合が生じ、危険な事態に陥る可能性がある、ということで中止されてしまい、8日間も入院したというのに何の成果もなく、失意の中で退院する…ということになってしまいました(ガッカリ)。

これについては、生まれて初めての入院・手術という体験談としてまた詳しく書く機会があると思いますが、とにかく結果は思いも寄らぬ残念なものに終わりました。

それ以後、K大学附属病院には行かず、約1ヵ月後の9月21日、この分野では最高峰と言われている国立循環器病センターに出向き、再手術に関する相談をしたところ、僕の現在の心房細動の状態では、あえて危険な手術をする緊急性はない…、という所見が示されました。そして当分の間、薬で様子を見る方がいいのではないか、ということになりました。

今後、心身ともに生活改善をして薬治療を続けようと決心した一方で、手術を勧めるくれる人たちもあって、それでまた迷ったりして、心が揺れ動きました。その上さらに、いろいろなことも重なってストレスが高じたのか、…いったい何が原因だったのかわかりませんが、9月26日に突如、身体に、かつて経験したことのない異変が起こりました。

その日の午後9時ごろでした。
風呂の湯舟に浸かったとたん、ジーンというかキーンというか、高い音の耳鳴りが、左耳の奥のほうでし始めたのです。セミの鳴く声のようでもあり、金属音のようでもある大きな音量が、頭中に響きます。その夜は、やかましさと不安に加え、動悸と吐き気までして、一睡もできませんでした。

次の日も、その次の日も、頭の奥で響くキーンという音は鳴りは止みません。同時に動悸が激しく打ち、吐き気が続きます。いつもの主治医のところに駆け込んでも
「耳鳴ですかぁ…。う~ん、治るのはむずかしいですね~」
と腕組みをするばかりです。普段正常な血圧も、この時は上がっていたことから、降圧剤と吐き気止めをもらって帰るだけでした。

次に耳鼻科へ行くと、
「聴力は悪くないです。神経から来ているものでしょう」
とあっさり言われ、ビタミン剤を出してくれただけ。
さらに、吐き気が止まらないので胃腸科へ行き、初めて胃カメラというものを飲んで検査をしてもらいましたが…これも異常なし。

別の日、近くにある大きな病院の循環器科へ行くと、「不安症でしょう」と言われて精神安定剤を出され、脳外科のほうへ行くとCT検査の結果も異常なしで、「うつ、自律神経失調、男の更年期…みたいなものでしょう。心療内科の診察を受けることを勧めます」と言われる始末でした。僕は「耳鳴り」の治療に出向いているはずなのですが、医師から返ってくる言葉は、それと何の関係があるのか?? と思われるようなことばかり。

うつ…?
自律神経失調…?
男の更年期障害…? 

なんで僕がうつなんだ。 冗談ではありませぬ。

でも、2人の医師から安定剤を飲めと言われ、心療内科を勧められた。
精神安定剤って、何のためにそんなものを飲むわけ?
「…僕の症状は精神病ですか?」 と医師に聞きました。
「いいえ、心療内科は、精神病院のようなところとはまた別です」
と医師は説明した。
「でも、この耳鳴りが精神的な病気なんて…」
なんだか、納得がいかない。
でも、医師によると、たとえば頭痛でやってくる患者の半分以上は自律神経の乱れなどが原因であり、耳鳴りも同じ原理で心身症として現れる。だから、心療内科で診てもらうのがいい、と言うのです。

そこで、次は、近くにある心療内科を、インターネットで探して出かけて行きましたが、たどり着いた先は、廃屋のような建物の怪しげな診療所でした。ヌーっと姿を現した無口で不気味な医師は、
「耳鳴り? う~ん。難しいよ、これは…」
とぶつぶつ言いながら、僕の喉元と耳の後ろに2箇所の注射をしましたが、なんか、ちょっと怖かったです。…それによって耳鳴りは一時的には静まったものの、1時間ほどすると、またジーンキーンと大きな音が響き出しました。
「耳鳴りは耳鼻科では治らんよ。1年ほど経ったら慣れるそうだけど」
無表情に言い切る医師。
「治らん…? 1年経ったら慣れる…? ……??」
僕はがっくりと肩を落として、診療所を出ました。
なんだかなぁ…。

それで…
いよいよこの耳鳴りが、ただごとではないことを感じ始めました。
これは、大阪市内の大病院に行って診察してもらわなければなるまい。

そして、10月9日に、大阪城のそばにある大手前病院へ行き、そこの耳鼻科で診察を受け、医師から「CT検査だけではわかりませんから」と言われて、数日後に脳のMRIの精密検査も受けたのですが、やっぱりこれも異常なし。脳の病気から来ている耳鳴りではなく、命に別状はない、ということでした。そして、精神安定剤やビタミン剤、血流のよくなる薬など、何種類かの薬をもらいました。

僕の耳鳴りは、「耳を澄ませば聞こえる」程度のものではなく、かなりの音量で、ず~~っと鳴り続けています。この苦痛は、耐えがたいものです。不整脈は、発作が出たときだけは苦しいですが、普段は何もありません。しかし、耳鳴りは、休む間なしに鳴り続けるのです。

脳血管に異常はないと言われて一応は安心しましたが、原因がわからないので、この先どうなるのかという不安が、いよいよ募るばかりでした。

大手前病院での診察は現在も継続していますが、耳鳴りはいっこうに止みません。経験のない人にはわかり難いでしょうが、24時間休みなく、頭中をキーンという強烈な音が響きわたり、本当に煩わしいものです。気にしてイライラしてくると、本当に気が狂いそうになります。しかし、外からは音も聞こえないし、音量も人にはわからない。だから、医師にも、この苦痛の度合いは、よくわからないのではないかと思います。

耳鳴りのおかげで集中力も注意力も湧いてこず、何事にも根気がなくなり、やる気も失せて、仕事も半分以上手がつかない状態が続きました。
注意力が散漫になるので、物忘れも激しくなり、毎日、あれをどこに置いたのか…?、家や職場でうろうろすることの連続です(とほほ)。

僕の耳鳴りは、脳が何かの拍子に意味のない音を感知して、そこに回路ができてしまい、そのためずっと鳴り響くという、最も治りにくい部類に入る耳鳴りの症状なのだそうです。脳で感知している音が響くのだから、たとえ耳を切り落としても、この耳鳴りは治らない、というものなのだそうです。

原因が不明だから、治療の施しようもないっていうわけ。

発症して2ヶ月以上が過ぎましたが、それまで左耳だけだったのが両耳に響くようなり、さらに最近また音が大きくなってきたような気がします。地下鉄に乗っていても、耳の奥の「キーン」とか「ジーン」とかいう音は、響いています。これだけ医学が進んでいる時代でも、耳鳴りを治すことは至難の技とされているという事実を、僕はこれまで、まったく知りませんでした。世の中には、いろんな病気で苦しんでいる人がいる、ということを、この年になって、初めて、わが身をもって知ることになったのです。

苦痛を少しでもやわらげるため、デパスという安定剤(抗不安剤)を服用しています。昼に1錠、夜寝る前に1錠飲んでいます。

耳鳴り、という言葉はよく聞いていましたが…
あの、飛行機の中でツーンとなるような、そんなんじゃありません。
耳の中よりも、頭の中がキーンと響き続けるのです。
耳鳴り、というより、頭鳴り、です。
こんな「病気」が世の中に存在していたのですね。
耳鼻科もお手上げ。

あとは、音が気にならないようにするため、心療内科、精神科の受診を考えるべきである、ということが家庭医学書には書かれています。カウンセリングなんかが有効だ、ということも言われています。要するに、治るのは難しいけれども、「慣れる」ことは可能である、ということなんでしょうね。

悶々とした日々が続きました。

「夜明けの来ない夜はない」と言いますし、「止まない雨はない」とも言います。しかし…。耳鳴りのない、静かな日は、もう自分の人生には戻ってこないのかも知れない、と思ったりします。そう思うと、不安が高じて、また動悸がしたり、吐き気がしたりするのです。今はただ、この耳鳴りによって引き起こされるストレスで心身のバランスが崩れ、それがまた耳鳴りを大きく感じさせるという悪循環にだけは陥らないように、何とかストレスをためず、意識的にリラックスをするように心がけています。

自分をリラックスさせ、自律神経を制御する方法としては…

自律訓練法
筋弛緩法
認知療法
ヨーガ
瞑想
座禅
などなど…いろいろあるみたいですが…。

つまり、耳鳴りが気にならないようにするには、セルフコントロールが大事なのだそうです。まあ、こんな大きな音が気にならないわけないだろ、と思っていますけど、ビールを飲んだりしてワイワイ騒いでいるときは、耳鳴りを忘れることがあります。だから、何か、耳鳴りを意識から封じ込めると、苦痛を感じなくなる、という理屈になるのだと思います。耳鳴りは治らなくても、それとうまく付き合って行くわけですね。まあ、そんなことができるようになるかどうか、まだわかりませんけれども。

今のところは精神安定剤に頼る日々です。

抗不安剤のデパスは、飲むとたしかに気分が落ち着いて、わずかですが耳鳴りの苦痛がやわらぎます。夜も、少しだけ、眠りやすいような気がします。こういう薬に依存するのは怖い感じもするのですが、でも、副作用が少なくて安全な薬だというし、耳鳴りは静まらないけれど、飲むと何となく心地よくなるので、最近はけっこう気に入ってきています。

そんなことで、ずっと、毎日毎日、耳鳴りとの格闘でした。この2ヶ月間、職場では表面上は辛うじて平静を保っていましたが、心の中はどん底状態でした。仕事の書類作成で日付を間違えたり、単純ミスを繰り返し、同じことを何度も部下に尋ねたり、意味のない指示を何度もしたり、自分でも情けないなぁ、と思いました。休みの日は、ベッドで横になったまま、何もしないで過ごすこともありました。何もしたくない。どこへも出かけなくない。ただ、布団をかぶって寝転んでいるだけ…。うつ病にかかった人の気持ちが、わかるような気がしました。

2ヶ月余り経った今では、ちょっと落ち着いてきたようです。
耳鳴りが弱くなったのではありません。
「仕方ないじゃん…」という気持ちが徐々に湧いてきました。
とにかく、この頭の中で響く音を気にしないようにしたいのです。

気を紛らわせるために、せっせと身体を動かすようにしています。

気分に多少の起伏はありますが、ここのところようやく気持ちにわずかなゆとりが出始めたかな~、という感じになってきました。夜も(安定剤がよく効いた時は)眠れる時間も出てきました。それでも、耳鳴りは益々うるさく鳴り続けています。もうひとつの心房細動(不整脈)のほうは、薬のコントロールがうまく効いて治まっているのが、せめてもの救いです。

「日はまた昇る」は、自分の名前をもじった単純なタイトルですけれども、まあ、考えてみれば、この言葉も自分の支えにはなるかな~と思っています。耳鳴りはキーンキーンと響いていても、気にせず、共存できる日が来ることを信じて、文字通り「日はまた昇る」ことを期待し、「まあまあ、そこそこ、楽しく」過ごせるように、自分を変えていきたい…という思いを込めて、今回このブログを立ち上げることにしました。これが、日々の生活を楽しむ快適なリズムの一環になってくれたらいいな~と思っています。

初回から思い切り泣き言を並べてしまいました。
おまけに、同じことばかりだらだらと繰り返し…

自己紹介…とは言いながら、自分の心と体のことばかりを書き連ね、読んでくださった皆さんは不快な思いをされたかもしれません。次回からは気分を一新して楽しい話題を取り上げて行きたいと思いますので、気軽に遊びに来てくださることをお待ちしています。

長々とした愚痴につきあっていただき、ありがとうございました。

くどくど書くだけ書かせていただいたおかげで、少し気分も軽快になってきました。 

  
* 文章はすべて掲載した当時のままです。
          

 

 

 

 

コメント (23)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪から仙台へ

2011年03月24日 | 日常のいろいろなこと

仙台市内では、まだガス復旧の見通しが立っていないという。
昨日、大阪ガスが、一日も早い復旧支援のため、仙台へ向かった。

同じく昨日、自転車の街でもある大阪の堺市からは、
「パンクしない自転車」  というのを大量に仙台市に送った。

今回の未曾有の大惨事の中では、ほんの小さなことかも知れないけれど、
こういう積み重ねが、少しずつ被災地の復興の礎になるのだろう。

大阪に住む者にとっては、こういったニュースはうれしい。

  …………………………………………………………………………

震災のあった前日、3月10日のブログに、マラソンのことを書いた。
「フルマラソンの練習問題」 というタイトルをつけた。

「少し遠い場所だけど、5月中旬に開催される頃合な大会」 
…があるので、そこに出場するつもりだと書いた。

その 「少し遠い場所」 というのは、仙台だった。

仙台市内にある台原森林公園の中を周回するコースだ。

仙台鉄人会、というところが主催する大会で、
5時間走、10時間走や駅伝、そしてフルマラソンの部など、
競技種目はバラエティに富んでいて、制限時間もゆるい。
地元のマラソン愛好者の人たちの、暖かい手作りの大会に違いない。
僕はこの大会をネットで知り、ここなら頑張れるだろうと思った。

そして、10年ぶりにフルマラソンをこの仙台で走ることに決め、
衰えた体力に鞭打ちながら、練習計画を立て、走り込みを続けた。
それを3月10日のブログに書いて、決意を新たにしたのである。

東北関東大地震が起きたのは、その翌日だった。

僕が走るはずだったマラソンコースの仙台・台原森林公園は、
被災者の物資配給の場として、テレビニュースに映っていた。

そして、一昨日、大会事務局のホームページを開けたら、

  本大会は、東北地方太平洋沖地震の影響により、
  開催中止となりました。

と、書かれてあった。

やっぱり…
大勢の人の命が奪われた震災の地で、マラソン大会もないだろう。
開催日は5月中旬とはいえ、仕方のないことである。

「大阪から仙台へ」 の小さな夢は、夢のままに終わってしまった。


http://www.sportsentry.ne.jp/event.php?tid=24985



しばらくの間、ブログはお休みをさせていただきます。

いつもお読みいただいている皆さまに、心から感謝申し上げます。
  

 

 

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石巻からの電話

2011年03月21日 | 日常のいろいろなこと

今回の大震災で、まだ連絡がつかない知人のことが心配だった。
その人は石巻市に住んでいて、奥さんと花屋さんを営んでいた。 
ここも街全体が大きな被害を受け、まだ通信が不能だと報道されていた。

石巻に住むその人とは、20歳の頃の自転車旅行中に知り合った。
1969(昭和44年) のことだ。 あぁ、もう42年も昔の話である。

西○さんという男性で、北海道帯広の駅前で出会った。
東京・新宿で働いていたが、数ヶ月間の休職をして、自転車日本一周に出た。
僕より2~3歳年上で、剛毅な性格から、僕は彼を 「新宿の大将」 とアダ名した。

「新宿の大将」 とは帯広から9日間、一緒に自転車で走った。
襟裳岬、苫小牧、函館から本州の下北半島にわたり、大間崎、恐山と走った。
野辺地、というところで、道路は右と左に分かれていた。

大将は右へ行き、青森から日本海側を通ってはるか彼方の西日本へ。
僕は左の八戸方面へ行き、太平洋側を通って東京から故郷の大阪へ。

「…ここで、お別れだな。 無事を祈ってるぜ」

その後、大将は宮城県の石巻市の花屋さんの女性と知り合い、
結婚してそこに住むことになったと、ハガキが来た。

ずっ~と年賀状だけのやりとりが続いた。

自転車旅行から27年後の1996年。
突然、新宿の大将から職場に電話があり、
所用があって夫婦で大阪へ来たが、これから新幹線で宮城へ帰るところだ。
少しだけ時間があるが、会えないか…という電話だった。
僕は上司にわけを話して早退させてもらい、新大阪駅で大将と奥さんに会った。
実に27年ぶりの再会で、僕たちは抱き合った。 奥さんも横でニコニコしておられた。

1時間ほど食事をしながら歓談して、2人を新幹線のホームまで見送った。
「ぜひ一度、石巻へ来てくださいね」 と大将の奥さんはそう言って手を振った。

あれからさらに15年の歳月が流れたのだが、相変わらず年賀状は続いている。

数年前の年賀状で、僕が自転車旅行のブログを書いたことを知らせた。
すると大将から 「読んだよ。 懐かしいなぁ。 娘も熱心に読んでた」 
と手紙で返事が来た。 大将は携帯電話は持っているが、ほとんど使わないそうだ。
しかし、いちおうメールもできるんだぞぉ…と、威張ってアドレスを書いて寄こした。

震災が起きた翌日、僕は大将へ、「大丈夫ですか?」 と携帯メールを送った。 
しかし、返事は来なかった。 そうして、それから1週間以上経った。

あるいは … と思い始めていたとき。

昨日、僕の外出中に、わが家に電話があった。
午前11時半ごろ。 妻が出た電話の相手は、新宿の大将であった。

大将は、妻に
「ご心配をかけていますが、当方はみんな無事です。
 電話がつながらなかったので誰にも連絡できなかったのです。
 1階の花屋は全滅ですが、2階でなんとか生活できています。
 『新宿の大将はがんばってるぞ~』 と伝えておいてください」

僕が出したメールを見ていたのかどうかわからないけど、
大将…、わざわざ家に電話をしてきてくれて、ありがとう。
みなさんご無事とのこと。 これで、やっと気持ちが落ち着きました。


今から約3年半前、自転車旅行ブログで、大将とのことを詳しく書きました。

        ↓

http://d.hatena.ne.jp/domani07/20070905

 

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

混乱の連鎖

2011年03月19日 | 日常のいろいろなこと


1995年1月の阪神大震災を身近で経験した時、僕は46歳だった。
6,434人もの死者が出るような災害は、今後自分が生きている間には絶対ない…
阪神大震災が起きた後、そのことを、微塵も疑うことはなかった。

去年、阪神大震災から15年経った日、ブログで当時の新聞記事などを掲載した。

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/68d8cb215911aee5953bd1e43016d329

自分が生きた時代の最悪の自然災害として、記録しておきたかったからだ。

それが、16年後に、まさかそれ以上の途方もない大災害が起きるとは…

東北関東大震災が発生して昨日で1週間経った。
すでに確認された死者は6,900人以上と発表された。
さらに2万人前後の安否不明の人々もいるという。
犠牲者の数は、まだまだ増えるものと見られている。

復興へ向けた動きも出始めたようだが、被災者の人たちの生活はまだまだ厳しい。
孤立し援助を待つ人たち、避難所でつらい日々を送る人たち。

そんなとき、首都圏でモノの買占めがエスカレートしてきた、という。
東京のコスタクルタさんや横浜のちひろさんからのコメントやメールでは、
スーパーの棚は空っぽで、必要なものが何もない…という状態だそうだ。
その話を裏付けるように、テレビでも、その様子が映し出されていた。

被災地仙台に住んでおられるじゃいさんの場合は、もっと悲惨である。
あるスーパーが営業する…との情報を得て、朝早くから並んでいたら、
途中で 「本日は営業しません」 との貼り紙が貼られた。
氷点下の気温で横殴りの雪の中、3時間以上もスーパーの外で並んだが、
それでも、米などの食料品は購入できなかった

生きる権利も人権も何もあったものではない。 
凍え死んでしまう。 飢え死にしてしまう。
とてもじゃないが、いまのこの時代のこの国の出来事とは思えない。

それにしても、東北の人たちは我慢強い。 頭が下がる。
これが大阪なら、暴動が起きているかも知れない。

当局は、全力を挙げて豊富な物資を被災地へ届けてほしい、と願う。

そんな状況が人々の不安を煽るのか、はるか彼方の大阪でもある傾向が出ている。

一昨日、大手前病院へTRT療法へ行き、雪が舞う帰り道を2時間ほど歩いた。
雪が強まってきたので、阪急百貨店とイオンが一緒になった大型商業施設へ入った。

その食料品売り場を見て、驚いた。
米の売り場に、一袋の米も見当たらない。
そのスペースだけ、不自然にがら~んと空いている。
水や懐中電灯、電池なども品切れ状態。

昨日、僕が住んでいる藤井寺駅前のイオンの食料品売り場を見た。
だいたいのものはそろっていたが、米は通常の4分の1か5分の1くらい。
即席ラーメン売り場では、チキンラーメンだけが売り切れていた。
それと、トイレットペーパーが、全部売り切れたのか、ひとつもなかった。

さらに、近所の小さなスーパーへ行くと、米は十分に売り場に積まれていた。

大阪は、都会の大きなスーパーになるほど、米などの売り切れが目立つ。
藤井寺のような田舎町のスーパーでは、あまりモノは無くなっていない。

普段からある程度の備えをしていれば、急に買占めに走る必要もないだろう。

阪神大震災のあと、僕たちは防災リュックにいろんなものを押し込んだ。
水や長持ちのする食料、ティッシュ、ラジオ付懐中電灯、各種電池の予備、
タオル、胃腸薬や風邪薬、などなど。 それを枕元に置いて寝る。

僕はそれ以外に、貴重品用バッグを常に手元に置いている。
財布、携帯電話、携帯ラジオ、ウォークマン、毎日服用する薬1ヶ月分、
携帯電話の電池充電器、耳鳴り治療器、パソコンデータの入ったメモリ、
などを入れて、家の中のどの部屋に行くときでも持って歩く。

こういう癖をつけておけば、いざというとき、慌てなくて済む。
阪神大震災が教えてくれた、貴重な教訓だった。

今朝の朝日新聞には、被災者を全国で受け入れるという記事が出ていた。
大阪府でも、府営住宅などに1万人程度の人たちを受け入れる予定だという。
全国の自治体が、一丸となって救助の手を差し伸べるのは素晴らしいことだ。
管政権は原発問題一辺倒で、各地の被災者への切迫した使命感に欠けている。
原発以外では、どこかのんびり構えているように見えるのは気のせいだろうか。

また一方では、膨大な電力消費を伴うプロ野球ナイターが開幕されようとしている。
東京ドームでナイターを1試合すれば、6,000世帯分の電力を消費するという。
節電、節電と言いながら、野球のためならそんなの関係ねぇ…ということか。
「選手は野球が仕事なんだ」 と、ナベツネが強弁を張っているけど、
これこそ、石原東京都知事が言っていた「我欲」にほかならない。
巨人ファンとして、つくづく恥ずかしい思いだ。

それと、話はバラバラですが、チェーン・メールという、あれって、なんですか? 

震災のあった日の翌日、ある知人からメールが来た。
それによると、関西電力で働いている友達からのお願いですが、
関東の電気の備蓄が底をつくらしく、中部電力や関西電力からも、
送電を行うらしいので、なるべく節電してください。
そして、このメールを多くの方に送信お願いします。

…とあった。

電気というのは備蓄できないそうである。
そのことからして、関西電力で働いているわりにモノを知らない社員である。
おまけに他の電力会社から東京電力に送電するのは周波数が違うので簡単にはできない。
変換が必要で、それをしても、大量は無理。 つまり、現実性は薄いということ。
節電を勧める善意は理解できるが、それをこの時期に、というのが問題である。
このメールがあちらこちらに飛び交うこと自体が、本当に大事な通信を妨げるのだ。
もし仮に、送電できるとしたら、関西電力からテレビを通じて節電を呼びかけるべきで、
個人がメールで次々に送り広げていくような問題ではないだろう。

ボランティアにも、行きたがる人が多いが、ごく一部を除いて今はまだ迷惑になる。
受け入れ態勢が整ってから応募してほしい…ということだ。

被災地の親戚に会いに行きたいが…という要望も多いそうだ。
しかしこれも、専門家は、緊急車両の妨げになるので控えるべきだ、と言う。
とにかく、今はまだ混乱の最中である。 救援はプロに任すほかないのである。

じっと見守り、募金する、というのが、今の僕らのできる精一杯のことだろうと思う。

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早く救命・救援を

2011年03月16日 | 日常のいろいろなこと

岩手県の宮古市、山田町、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市。
宮城県の気仙沼市、南三陸町、東松島市、女川町、石巻市、多賀城市、
そして仙台市、名取市、仙台空港。 
福島県の新地町、相馬市、南相馬市、福島第一・第二原発、いわき市。

テレビで次々と映し出される各被災地の惨状は、ただただ、痛ましいばかりだ。
津波の瞬間の陸前高田、気仙沼、釜石、南三陸等の映像も、恐ろしく、凄まじい。

   ………………………………………………………………

この東北関東大地震に関して、3月16日午前4時のNHKテレビ二ユースで、
死者・行方不明者合わせて1万人を超し、これは戦後初めてであると報じられた。

死者3千何百人というのは、警察が検視等で確認した数であろう。
あくまでもこれは公の数字で、実態はもっとひどい、ということは、
宮城県だけで1万人を超えると知事見解が出されていることでも想像がつく。

行方不明者の数に至っては、宮城県南三陸町だけでも約8千人が所在不明である。
行方不明と安否不明と所在不明は、何がどう違うのかよくわからないけれど、
実際には何人の人たちが行方不明なのか、まだ誰にもわからない状況だ。

加えて福島の原発で爆発が起こり、世界中を震撼させる緊急事態となった。
また、首都圏での停電騒動や交通マヒ、あるいは東京株式市場の大幅下落など、
地震の影響は、計り知れないほどの広い範囲に及んでいるが、それにしても、
詳しく知りたいのは、岩手、宮城、福島を中心とした被災地の状況である。
何がどうなっているのか…。 毎日同じ情報ばかりで、ほとんど進展がない。

数多い遺体が見つかったと言われているのに、なかなか収容されない。
1万人以上を救出した自衛隊などの作業ぶりは、あまり報じられない。
安否不明の人たちの情報が、何日たってもそれ以上明らかにならない。
孤立している人たちへの救助の対策はどうなっているのかもわからない。
避難所での飢え、渇き、トイレ、寒さ、病気などの悲惨な状況も改善しない。
地震発生から今日で6日目になるのに、救援物資が乏しすぎる。

亡くなられた方々は本当に気の毒だが、助かった人たちにも厳しい試練が続く。

いま、約2,400ヵ所で44万人余りの人たちが、寒冷地で避難生活を強いられている。
避難生活は免れた家庭でも、町にモノがなく、食料や生活必需品が調達できない。
電気、ガス、水道のライフラインがいつ復旧するかもわからない不安。

しかし、いくら嘆いても、僕自身もテレビを見ているだけで、何の役にも立てない。
できることと言えば、市役所へ、気持ちばかりの義捐金を託すことぐらいである。

宅配や郵政事業者は、東北6県を中心とする地域へ送る荷物の受付を中止している。
車で移動したくても、ガソリンがない。
たとえガソリンがあっても、特別の許可がなければ入れない地域が多い。
交通網は寸断され、罹災したひとたちは、ほとんどの自由を奪われている。

各地で孤立している人たちに、一刻も早い救助の手を差し伸べてほしい。

そして、助かった人々には、早く安心できる生活をさせてあげてほしい。

 

 

 

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東北関東大地震 大津波

2011年03月12日 | 日常のいろいろなこと

昨日の夕方の5時前にテレビをつけるまで、何も知らなかった。
テレビの画面は異様な光景を映し出していた。
何気なく見ただけでは、それが何の映像か、わからなかった。

ニュースキャスターの話に耳を傾けると、原発がどうの…と言っている。
放射性物質が漏れた、というニュースなのか…?
でも、それと、いま映し出されているこの映像と、どう関係があるのか。
僕はテレビのボリュームを上げ、ニュースに集中した。

映像は、泥のようなものが広い範囲でひたひたと地面を這い進んでいる。
何だ、これは…? 
下にテロップが出た。 「仙台空港」 とある。 えっ、仙台空港…?

キャスターが、「大きな津波です」  と言った。
その映像は、日本では見たことのないような光景を映し出していた。

2時46分ごろに大地震があり、津波が仙台空港に押し寄せている映像だという。

震源地は宮城県沖で、マグニチュード8・8は日本観測史上最大とのことだ。
「最大? 史上最大?」 にわかには信じられない話である。

その津波が仙台空港を呑み込んでいく映像を見ているうちに、
地震そのものの被害はどうなっているのかと思い、チャンネルを変えた。
それで、宮城県のほか岩手県や福島県などで大きな被害が出ていることを知った。
さらに、茨城、千葉、東京、横浜…と、地震は驚くべき広い範囲にわたっていた。

この地震のエネルギーは、阪神大震災の180倍に相当するというのにも驚愕した。

津波の脅威は、海外ニュースでは時々見るが、日本で見るのは初めてである。

僕がテレビを見始めた昨日の夕方は、画面右上に 「死者17名」 と出ていた。
その数字が、見る見るうちに増えていった。
行方不明者の数も出ていたが、行方不明かどうかもわからない人たちも多いはずだ。
仙台の若林区で、200人から300人の遺体が確認されたようだ、とも発表された。
時間がたつにつれて、とてつもなく大きな被害が明らかになっていく勢いだった。

報道は、仙台を中心に行われていた。 
仙台駅のプラットホームが、半分潰れていた


僕は、仙台市内に住んでおられるじゃいさんが心配になり、メールした。
横浜在住で、ご実家が宮城県にあるちひろさんにも、メールをした。
東京に住む姪にも、同じようにメールした。

いずれも、返事をもらえなかった。 ますます心配になってきた。

ニュースで、被災地では携帯電話はほとんど通じなくなっている、と伝えていた。
メールは、自粛すべきだったのかも知れない。

昨夜は少し眠っただけで、ほとんどテレビの前に釘付けになっていた。

先ほどパソコンを開けてみたら、じゃいさんから
「無事です」 と、待ちかねていた連絡のコメントが入っていた。
相次ぐ余震に生きた心地もなく、今も不安の時を過ごしておられるのだろう。
そう思うと、胸が痛む。 でも、とにかく無事でなによりだった。

きょうはブログを書く気分ではなかったが、
じゃいさんから無事のコメントをもらったのを読み、書くことにした。

被害の全容は、まだまだわからない。

何も手につかず、ただ、テレビから流れるニュースを見守るばかりである。

 

 

 

 

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フルマラソンの練習問題

2011年03月10日 | ランニング

長年走っていないフルマラソンをめざして練習を始めているが、
なにせ長年走っていないものだから、 「こんなはずでは…」
…という現象が、あれやこれやと起こる。
あぁ、やっぱり歳には勝てないんだろうか…と、嘆きの日々である。

少し遠い場所だけど、5月中旬に開催される頃合な大会をネットで見つけた。
その大会は、制限タイムがかなり (…というより、めちゃめちゃ) ゆるい。
というのは、それはウルトラマラソンを中心とした大会で、
そこに、フルマラソンの部もおまけのようにつけられているからだ。
制限時間がウルトラマラソンに合せてあるので、ゆるい…というわけ。

さらに、そこのコースは、一周3キロの公園内を周回するコースなので、
途中、走れなくなってリタイヤするのにはまことに好都合である。
(こんなズボラなことばかり考えている)

さて、これに出場するとなると、5月中旬まであと2ヶ月。
完走をめざすには、今はどんどん走り込まなければならない時期である。

2月22日に、久しぶりに20キロを走った。
また翌日から5日間、10キロから15キロを続けて走り、
そろそろ走り込みも調子が出てきたな~と気分も高まってきた。

ただし、超スローなジョギングである。
ある時、調子に乗って少しだけスピードを上げたら、不整脈が出た。
分不相応なことをすると、たちまちわがハートから警告が発せられる。
身体全体が衰えてきているのだから、あまり無理をするのはよくない。

1週間ほど走り込むと、もう足が重くてだるくて、たまらない。
自宅の階段を上がるのも、足がもつれるありさまだ。
そして、その疲れがなかなか取れない…どころか、たまる一方で、
続いてコスパで水泳なんかすると、夕方にはぐったり死んだようになる。
最近は、コスパではプールで泳がず、主にジムでストレッチをしている。

3月に入って再び20キロ走に挑戦したが、13キロでダウン。
ここ数日は、風が強く、寒い日が続いたので、走るのをサボった。
まあ、休養も練習のうち…と思っていたら、昨日、なんと腰痛が突発した。
何年も前から軽い腰痛はあり、時々痛みが激しくなる時があるのだが、
それが、昨日、出た。

あぁ~、…とため息。

しかしまあ、これまでの経験からいけば、すぐに治るはずである。

何とか練習を重ねて、5月のフルマラソンで完走したい。
いや、完走できなくても、スタートラインには立ちたい。

プロスキーヤーで登山家でもある三浦雄一郎さんのことを思う。
三浦さんは3年前、75歳でエベレストに登頂してギネスブックにも載った。
この人は不整脈を持ち、カテーテル手術もされている。
僕は1回しかしていないが、三浦さんは数回の手術をされている。

それを克服しての快挙であった。

三浦さんは、60歳くらいのとき、運動もせず飲んだり食べたりの生活で、
すっかり心身が弱ってしまったので、一から身体を鍛え直したそうだ。

「あの時にやり直したことが、今の私の身体を作ったのです」

今年78歳になる三浦さんのこの言葉が、僕の今の気持ちを支えている。

…と、まあカッコいいこと言っているけど、
三浦さんと自分と同じように考えるなんて大きな勘違いだよ~ん、
…と、自分の中のもう一人の自分が、そっとささやくのである。

う~む。 そう言われると、ミもフタもないよね。

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春 まだ浅き日に

2011年03月08日 | 日常のいろいろなこと

3月7日。
「恒例」 の松原徳洲会病院の循環器科への検査&診察に行った。
最近は不整脈も糖尿病も肝臓の数値もわりあい安定しているので、
去年まで毎月行っていたのを、2ヶ月に1回に減らしてもらった。

小雨の中、8時40分にモミィを幼稚園に送って行き、
その足で駅に向かい、近鉄電車に乗って河内天美まで。
その駅から病院までは、歩いて5分の距離だ。
9時半に採血をし、待合で1時間余り待って、名前を呼ばれた。

年末年始の飲み過ぎが原因で不整脈がひどかった時期も、
なんとか切り抜けたようで、今は薬でうまく調整できている。

診察室でも、主治医と笑い話を交えながら談笑する…という雰囲気だ。
深刻めいた会話は皆無で、診察もすぐに終わる。 まあ、結構なことだと思う。

会計を済ませ、番号札をもらって投薬窓口で待つこと約30分。
ようやく自分の順番が来たが、僕の薬の量は他の人の平均量の何倍もある。
不整脈薬、尿酸値薬、ワーファリン、睡眠導入剤、精神安定剤…。
それらが各々60数日分出るわけで、薬剤師さんがひとつひとつ丁寧に説明するので、
僕の後ろにズラ~っと並んで待ってくれている人たちが気になっていたら、
「後ろの方、どうぞ、こちらのほうへ」 と、窓口にもう一人の薬剤師が現れた。

ビニール袋いっぱいの薬をリュックに入れて再び近鉄電車で藤井寺に戻った。
12時をちょっと過ぎている。 さて、これからどうするか…?

コスパでサウナにでも入ってから家に帰り、ビールを飲むのも悪くないな。
なにせ、きょうは特別な日なんだからな~ とぶつぶつ独り言を言いながら、
コスパのビルへ歩いて行くと、その入り口に、スーツ姿の男性が立っていた。
そして、その男性は、何かを懐かしむような目で、僕をじっと見つめていた。

「誰だろ…?」
と、最初はその人物を識別できなかった。
つい先日も、何十年と会わなかった人から声をかけられたことがあった。
その時も 「のんさんだよね。 ○○です」 と言われるまで誰だかわからなかった。

そしてこのときも 「ん…? 誰…?」 と思って、頭の中で記憶を検索した。

近づいてきた男性を見て、それが誰かとわかるのに3秒ほどかかったろうか…。

「これからコスパへ行くん…?」
そう声をかけてきた男性は、次男だった。 
要するに、僕の息子だったのである。 とほほ。

後でその話を妻にしたら 「なんで自分の息子がわからないの?」 と笑われた。

次男も藤井寺市内に住んでいるのだから、いつ会ってもおかしくないのだけれど、
思いも寄らぬときにいきなり目の前に現れても、ピンと来ないものなのだ。
しかもスーツにネクタイ姿なんてイメージにないので「誰やのん…?」 となる。
こっちはいつものリュック姿だったので、次男はすぐに僕とわかったという。

「な~んや。 誰かと思たがな」 と僕は少し照れた。

藤井寺市内の建設会社に勤務する次男は、昼ご飯のためここへ来たという。
「昼ご飯、どこで食べるの?」 と僕は聞いた。
「そこへ入ろうかと思ってる」 と次男が、目の前のカレー店を指した。
「CoCo壱番屋」 の看板が上がっている。

僕は毎日のようにこの店の前を通るが、一度も入ったことがない。
外食では必ずビールを飲むので、カレーや丼の店には入る機会がないのだ。
しかしたまには食べてみたいと思う気持ちは、少しある。
よし、決めた。 今日の昼はビールを断念して、ココイチのカレーを食べよう。

「いっしょに食べよう」 と言って、二人でカレー店に入った。

何年ぶり…。
いや、次男が大人になってから、初めてではないか。
いつも、まわりに家族の誰かがいたから。
こうして2人だけで、昼食を食べるな~んてことは、まずなかった。

次男の子どものケイは1歳8ヶ月になる。
人見知りが強く、わが家に遊びに来ても、僕たち夫婦の顔を見ては泣く。
そのくせ、モミィが近づいたときには泣かず、むしろうれしそうな顔をする。
ケイも相手が子どもだと、安心するのだろうか。

「あした、会社休みだから、みんなで夜ご飯食べに行ってもいい?」
「ええよ。 モミィが喜ぶよ。 ところで、ケイは何が好きなんや?」
「このごろ何でも 『イヤ~』  と言って、食べないものが多くなって…」
「ふ~ん。 まあ、わが家に来たら気分が変わって、また食べるかも」
「だったらいいんだけどね」

そんな他愛ない話をしながら、昼食が終わり、彼は自転車で会社へ戻った。
僕は満腹になり、コスパへ行くのをやめ、そのまま歩いて家に向かった。

風が強く、冷たかった。

40年前の今日は、暖かく穏やかな春の一日だったなぁ、…と遠い日を思った。

今日は、僕たち夫婦の40回目の結婚記念日だった。

 

 

 

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「美しい隣人」 の結末は ?

2011年03月06日 | 映画の話やTVの話など

NHK大河ドラマ 「江 ~姫たちの戦国~」 には失望した。
信長が実は光秀を自分の後継者と考えていた…という真情を吐露するシーンは、
朝日新聞TV欄 「キュー」 の執筆者である島崎今日子さんもあきれていたが、
いくらドラマといえ、歴史をメチャメチャに歪めてしまうのは、どうかと思う。

江の人物像を中心に、脚本が史実からあまりにもはみ出し過ぎているのでは?
3姉妹の絡みも、江だけが際立ち、 「そんなはずないやろ」 というシーンが多い。

放送が始まった頃には、今年こそ12月まで楽しめるぞ~と思っていたけれど、
見ていても、不満が先立ち、ドラマに感情移入できるところがほとんどない。
岸谷五郎も、のそっとして、大柄で頑丈そうな体躯が秀吉のイメージと合わない。
昔の 「国盗り物語」 の火野正平や、「利家とまつ」 の香川照之は良かったけどね。

そんなことで、早くも離脱した今年の大河ドラマである。

いま、最も楽しみなドラマといえば、「美しい隣人」だ。

火曜の夜10時からのドラマで、それはもう、こわ~い、こわ~いお話である。
第1話からすでに8話を経て、あと2話を残すのみとなった。
明後日の火曜日が第9話、いよいよ最終章へと差し掛かる。 ドキがムネムネする。

仲間由紀恵の、あの無機質な表情と独特なしゃべり方。
これが何ともいえぬ恐怖感を盛りたてる。
謎の女…という役柄が、これほどぴったりハマるとはね~。

「幸せな家庭の妻で健気な母親」 であり、そしてあまり世間ズレしていない檀れいが、
仲間由紀恵が隣に引っ越してきた時から、得体の知れない 「異変」 に翻弄される。

むろん、筋書きも面白いが、2人の女優の競演が、何よりの魅力だ。

先週は、仲間由紀恵が檀れいの子どもを連れ去るシーンで終わった。
「私が本当のお母さんよ…」 と、じっとその子を見据える目が、冷たくて、怖い。

そういえば…
檀れいはNHKのドラマ 「八日目の蝉」 で、赤ん坊を誘拐する役を演じた。

僕はあれからこの人のファンになったのだが、今度は自分の子どもが誘拐される役だ。
なんとなく、因縁めいていて、興味深い。

あと2回で終わるのは寂しいが、果たして、どんな結末が待っているのか…
いろいろ想像していたら、ふと、20年くらい前に見た映画を思い出した。

それは、「ゆりかごを揺らす手」 という映画だった。
ミステリアスで衝撃的で、最後までハラハラしながら見た映画だった。
主演は、レベッカ・デモーネイとアナベラ・シオナという2人の女優である。

ある男性産科医師が、妊娠中の女性 (アナベラ) の診察時にワイセツ行為をする。
アナベラは警察に訴え、それがマスコミに知れることになり、産科医師は自殺する。
産科医師の妻 (レベッカ) はショックで身ごもっていた子を流産する。
また、生命の危機から子宮を除去摘出されるなど、何もかも失ってしまう。

一方、アナベラは無事に男の赤ちゃんを出産して、幸せな日々が戻って来た。
半年後、その家庭へ、ベビーシッターとしてやって来たのがレベッカだった。
レベッカの目的は、自分を不幸に陥れたアナベラの家庭に復讐することだった。
そして、それからアナベラの周辺で次々と不快な出来事が起こっていく…。

アナベラが檀れいの役で、レベッカが仲間由紀恵の役に当てはまる。

映画は、アナベラの家庭を計算どおり崩壊寸前まで追い詰めたレベッカだったが、
最後に子どもに襲いかかったとき、間一髪でアナベラから逆襲を受けて転倒死する。

映画のほうは、そういうことだったけれど、
さて 「美しい隣人」 の結末はどうなるのか…? 
変なオチで片付けられると、がっかりしちゃいますけどね。
まさか、そんなことはないと思いますけど。 
最終回は、3月15日です。 お楽しみ~。

あ、最後にもうひとつ。
「美しい隣人」 の主題歌を東方神起が歌っていますが、
これがまた、しびれるほどの素敵な歌ですね。

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

19歳

2011年03月04日 | 思い出すこと

例の仙台の19歳の予備校生が、偽計業務妨害という罪の容疑で逮捕された。
むろん実名や顔写真は公表されず、19歳、男性、ということしかわからない。

数日前までは、スマートフォンだの、メガネに仕込まれた超小型カメラだの、
ボールペンの先につけたカメラだの、複数犯に違いないだのと取りざたされたが、
結局、もっとも一般的な携帯電話をひとりで使用した、ということらしい。
よもやこれだけ日本中が大騒ぎになるとは、本人も思いも寄らなかっただろう。

彼はこのあと、どういう人生を歩んでいくのであろうか…

日本の国で、ひとりの19歳の受験生の不正な行為に世間が振り回されている間にも、
多くの19歳の日本人が、ニュージーランド地震の被災地で消息を断ったままである。

被災者の一覧を見ると、19歳という年齢の方が、圧倒的に多い。

高校を出て、世界に羽ばたこうと英語を習うために渡航した先で、被災した。
それも、耐震強度に問題があった欠陥に近い建物にいたのだから、不運きわまる。

ニュージーランド当局は、昨日、「生存の可能性ない」 と救出作業を打ち切った。
現地に飛び、奇跡の生還を祈っていた家族の方々の落胆はどれほどのものだったろう。

19歳といえば、これから本格的な人生のスタートを切る年齢である。
ニュージーランドで被災された方々は、いずれも高い志を持たれていた。
まずは英語力を…と、夢と希望に胸を膨らませて旅立ったはずである。
それだけに、余計に無念であったろう。

19歳。

昨日、新聞を読みながら、その頃の自分のことを思い出していた。

僕の、最終章までつながる人生は、19歳の時に始まった。

19歳の秋、大学に通いながら、夜に速記学校に通い始めた。
新聞記者になりたかったので、速記が役に立つと思ったからだ。
同時に、翌年、自転車で北海道往復の旅を計画していたので、
資金稼ぎに近所のダンボール製造工場にアルバイトもしていた。
大学、アルバイト、速記学校…と、忙しい毎日だった。

その速記学校で知り合った女性と、3年後に結婚した。
今年、ちょうど結婚して40年になる。

松原市役所の試験を受ける時に提出した履歴書の資格欄に、
いちおう 「ワセダ式速記 3級」 と書いた。 
「どんなことでも、書いておいたら何かのプラスになるかも」
と、妻が勧めてくれたものである。
ちなみに、市役所への就職も、妻が勧めてくれたので受けた。
(新聞社は、僕の学力では合格しそうにもなかったから)。

その市役所で、一昨年に定年退職するまで、計38年間勤めたが、
そのうち、26年間、議会事務局というところで仕事をした。

市議会の委員会などで会議録を作成する仕事があるので、
履歴書の 「速記」 がモノを言って、その部局へ配属されたのだろう。

議会事務局は、今から思えば、僕の性格にぴったりの職場だった。
特に管理職になった後半は、自分のペースで伸び伸びと仕事をやっていけた。
同じ役所生活でも、職場によって運不運が大きいが、僕はまことに運がよかった。

結婚相手と出会い、仕事でも恵まれた人生を送ることができた。

それらはすべて、19歳の時に速記学校の門を叩いた時から始まったのだ。

19歳も、さまざまである。

 


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

入試問題ネット投稿事件 

2011年03月03日 | ニュース・時事

連日新聞の一面トップで報じられ、TVのニュース、ワイドショーでも真っ先にこの話題が取り上げられるなど、ある意味、日本中を巻き込む 「チョー気になるニュース」 となった入試問題インターネット投稿事件が、大きな局面を迎えた。 どうやら 「犯人」 の目星が付けられ、任意の事情聴取へと進展することが、明らかになった。

昨夕のTVニュースで、「この事件で使用された携帯電話の契約者は東北地方の人物」 という速報が流れた。 「東北…?」 この時、僕たち家族は食事中だった。 僕は、思わず妻や長男に、「東北…といえば、これは仙台に間違いない」 と言ってしまった。 むろん具体的な根拠は何もない。 しかし、なぜか仙台だと、確信に近い予感がした。  

美しく、整然とした街並み。 都会美と自然美が調和した素敵な街、仙台。 行政や議会も、仙台市は他の自治体に比べてきわめて先進的で優れた部分が多い。 もちろん、東北最大の都市であり、学術・文化の中心地でもある。

こういうところには近郷近在から高い学力の持ち主が集まってくるものである。 優秀な人材が涵養される環境として、東北では仙台の右に出るところはあるまい、という僕の思いが、今回の、世間を驚かせた入試時間中の問題投稿という 「奇手」 を放った人物と仙台とを結びつけたのである。

そして今朝、新聞一面に大きく 「仙台の予備校生 聴取へ」 という見出しが躍っていた。

京大を受験した山形の浪人生で、仙台の予備校に在籍している19歳の男子だそうである。

案の定か…。 ためいきが出た。 変な予感というものは、当たるものである。 仙台にとっては、その地名が出るだけでも甚だ迷惑な話だろう。 人材が集まってくる場所には、玉石混交というか、いろんな才能が集まってくる。 本当に優れた人もいれば、知恵を働かすことだけ達者で、こんなセコい不正行為をする者もいる。 その予備校も、気の毒なことだ。  

で、なぜこの人物をつきとめられたのか。

新聞によると、投稿された「ヤフー知恵袋」 の 「かんたんログイン」 をしようと思えば、携帯の15桁の個体識別番号 (製造番号) を認証に使う仕組みになっているので、警察当局がヤフーに照会してその識別番号を把握した。 そのうえで、NTTドコモ側に照会した結果、契約者が特定されたという。 ちなみに、契約者は女性で、その息子が京大を受験していた。

僕など、当初、京大、同志社大、早稲田大、立教大の4つを受験した人間などそうザラにはいないだろうから、その名簿を照合すればすぐにわかるのではないか…と簡単に考えていたが、まあ、それには手間がかかりそうだし 「物的証拠」 にはなりにくい。 携帯電話の識別番号というものがあり、「かんたんログイン」 の登録時に使うその識別番号から携帯の持ち主を探し当てるという合理的な方法があったんだね~。  

東北、といったのは、やっぱり仙台のことだったか…と、再びためいき。
とはいえ、正確には 「山形県の男子浪人生で仙台の予備校に在籍」 である。

まあ、どうでもいいことかもしれない。
ともあれ、世間を騒がせた入試問題ネット投稿事件は大きく動き出した。

大相撲が八百長問題で存亡の危機にまで至った火付け役となったのも携帯電話。
メールを削除しても、また復元できるというシステムにも驚いた。

携帯電話を使ってあらゆることが可能になったが、ほとんどのことは、緻密に調べれば必ずバレる、ということを、一連の展開を見てわかった。

携帯の悪用は骨折り損のくたびれもうけだと、この問題で世間に広く宣伝してもらいたい。 
  
それにしてもなぁ…

仙台とは… (またまた、ためいき) 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする