僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

歌声喫茶「ともしび」

2016年03月31日 | 思い出すこと

いま、3月31日の夜です。

テレビ大阪で、
「あなたの想い出が蘇る昭和のヒット曲」
という歌謡番組が流れています。

そこで、出演者たちの間で、突然…

「当時は歌声喫茶というのが全盛で、特に『ともしび』」は有名でしたね」
…という話が飛び出しました。

番組に出ている尾木ママが、
「懐かしいです。私もどれだけ通ったことでしょう」と言っていました。

そして当時(昭和40年代)の新宿のその歌声喫茶の様子が映ったのです。

昨日のブログで「灯(ともしび)」のことを書いたばかりだったので、
わっ、すご~い偶然! と…
びっくりしたので、ちょっと書き加えました。

それがどうしたん? 
…と言われそうですけどね。
本当に、びっくりしたので…。


       


さて、明日から4月。新年度ですね。
かつては、人事異動の内示を受けたりして、格別の思いが詰まる日…
…でしたが、そんな日も、僕にとっては、今は昔の物語になりました。

みなさま、どうぞ“よい新年度”をお迎えください。 

 

 

 

 

 

 

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フランシーヌの場合

2016年03月30日 | 思い出すこと

3月30日といえば…
「フランシーヌの場合」という歌を思い出す。

フランシーヌの場合は
あまりにもおばかさん
フランシーヌの場合は
あまりにもさびしい
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えたいのちひとつ
フランシーヌ~


1969年(昭和44年)の3月30日。
パリで1人の若い女性が亡くなった。
シンナーをかぶって焼身自殺したのだった。

自殺した場所が、ベトナム戦争をめぐって開催中の
「拡大パリ会談」会場近くの路上だったことと、
ビアフラ飢饉で死んでゆく子供たちの写真を
身につけていたことから、抗議の自殺と思われた。

これが、ある新聞にベタ記事として載った。




そんな、ごく小さな記事に目にとめた作曲家の郷五郎と、
作詞家のいまいずみ・あきらが、「フランシーヌの場合」
という曲を作ったのである。歌手は新谷のり子。

事件からわずか3ヶ月後(同年6月15日)に発売され、
その後、80万枚という大ヒットとなった…。

…ということは、すべて、あとから知ったことだった。


僕はこの年、20歳で、この曲が発売された6月に、
自転車での北海道往復旅行へ出発した。

もちろん、フランシーヌの事件のことは知らなかった。

そして、その約2ヵ月後、旅行も終盤となった8月の中旬、
僕は東京で、旅行中知り合った人の寮で数日間滞在していた。

ある夜、新宿の街の中を一人でブラブラしていた僕は、
ガイドブックを見ながら、歌声喫茶に行くことにした。
「灯」という店に入って、2階席に座り、飲物と軽食を注文した。
(驚いたことに、ネットで見ると今もその『灯』はありました)

   http://www.tomoshibi.co.jp/sinjyuku/


中央にステージがあり、ギターを片手に歌っていたのは、

本物の歌手なのか歌手の卵なのか素人なのか知らないけれど、
客席から、曲に合わせて大合唱が起こったりしていた。
こんな場所に来たのは、生まれて初めてのことだった。

そして…何曲かのあと、
ひとりの女性がステージに出てきて、
「フランシーヌの場合」を歌ったのだ。

その歌を聴いたとき、胸がジーンと熱くなった。

これまで聴いたことのなかった歌なのに、
涙が出るほど、心を揺り動かされたのだった。


 

今でもこの歌は、頭から離れない。

3月30日になると、
「さんが~つ さんじゅうにちの~ にちようび~」
という歌が、自然に口をついて出てくるのである。


今日は、その3月30日である。

フランシーヌのことがあってから、47年が経った。
今ではもう、誰もこの歌を歌わないけれど、
僕の心の中では、永遠に響き続けている。
自転車旅行の、思い出とともに。

 

 

 

 

~ フランシーヌの場合~   新谷のり子

https://www.youtube.com/embed/2dah_5_6gPs?feature=player_embedded

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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デパ地下のさと婆

2016年03月29日 | ニュース・時事

前回は「うめ婆」で、今日は「さと婆」の話です。
ま、「さと婆」のことは最後にまわすとして…

毎日、新聞やテレビを眺めていると、
次々といろんなニュースが飛び込んでくる。

埼玉県で2年間行方不明だった15歳の女の子が保護された。
こういうニュースを見ると、ホッとすると同時に、
大阪府熊取町で小学4年生だった吉川友梨ちゃんが、
下校途中、行方不明となった13年前の事件を思い出し、
今でもご両親らが写真つきのビラ配りなどをしておられる姿が浮かぶ。
ご両親はこのニュースに接して、また希望を持ち直されたことだろう。


僕が住んでいる場所のすぐそばにある八尾空港では、
小型機が墜落して、機内にいた4人の男性が死亡した。
まわりは住宅街で、普段から、たとえば僕が行っているジムで、
この空港の横に住んでいる人が「毎日うるさくてかなわない」
と、嘆いておられたりする。騒音だけじゃなく、この飛行機が、
もしも民家に落ちていたら…と思うと、ゾッとする。


昨日、2ヵ月に一度の松原の徳〇会病院の検査・診察へ行き、
待合に座っていたら、TVでワイドショーが映っており、
乙武さんの不倫騒動のことが延々と流されていた。
最近、実にこの種のスキャンダルが多い。
あのイクメン国会議員の不倫ならともかく、
芸能人が不倫したからといって、その何が珍しいのだろうか。
桂文枝師匠など昔から「東京妻がいる」と言われていたのに、
なんで今になって急に騒がれ、本人が謝罪するに至ったのか。

まぁ乙武さんは「教育者」で、夏の参議院選挙に出馬する…
という噂なので、これが報道に熱気を帯びさせているのかな。


治の話では、民主党などが新しく「民進党」を結成し、
初代代表となった岡田さんが、あいさつの中で、
民進党を「新進党」と言い間違える場面があった(笑)


明るいニュースでは、北海道新幹線が開業したこと。
東京から新函館北斗が約4時間で結ばれたという。
これで思い出すのは青函トンネルが完成した時だ。
1988年というからもう28年前になるが、
その直後、僕は列車で北海道へ行った。
列車の連結ドアの上の電光掲示板に、
「青函トンネルに入りました」という文字が流れ、
それをバックに写真を撮ったことが懐かしい。
それまで何度か船で北海道を行き来したので、
列車に乗ったまま北海道へ行けるなんて信じられなかった。
それに比べれば、今回は、まぁ、新幹線が北海道に入った…
というだけのことだから、あの時ほどの感動は覚えないなぁ。


…と、いろんなニュースがあふれる中で、
「デパ地下のさと婆」というのがあった。

この「さと婆」というのは、女のスリである。

デパ地下の混雑の中で、客のバッグから財布を抜き取る…
という“腕利き”のスリだというが、年齢が83歳である。
そしてスリ歴が60年以上の「超ベテラン」なのである。
名前が「さと」なので「さと婆」なのだろう。
この「デパ地下のさと婆」は、刑事たちの間で
知らないものはいないほどの「有名人」らしい。

今回も、デパ地下で犯行に及んだところ、
見張っていた刑事に現行犯逮捕されたそうである。
当然、これまで、何度も逮捕されている。
捕まっても捕まってもスリを続ける「さと婆」。

近所の人に聞くと、家も何軒か持っており、
家賃収入もあって、お金に困っていたどころか、
ずいぶんお金持ちだったそうだ。

「財布を見れば盗りたくなるのです」
と、さと婆は言っているそうですが。
 
その集中力と瞬発力を、他の別のところに
向けたらよかったのにねぇ、さと婆ちゃん。

この話のついでに「名物スリ」がいくつか紹介されていた。
みんな実在していて、それぞれニックネームがついている。

幹線のミズ → 新幹線専門のスリ。
ケツパーのヨシ → 尻のポケットから財布をスる名人。
抜きのヒデ → 財布を抜き取る超名人。
駒崎姉妹 → 姉が見張りで妹が実行。
       その名前「こまどり姉妹」に引っ掛けた?

…などなど。

そういえば昔「地下鉄サム」という本を読んだことがあった。
ニューヨークの地下鉄専門のスリ、サムという青年の話だった。

ところで…

この名物スリたちは、いずれも60歳~80歳の高齢者だという。
たしかにスリは、スーパーの万引きより難しいように思える
つまり年季がいるので、若い者には無理…ということか。
おまけに、難しい割には「利益」が少なかったりして、
若者の「スリ離れ」(???)が進んでいるとか。

ほんまの話かどうか、よう知りませんけど。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

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うめ婆行状記

2016年03月27日 | 読書

今年1月から朝日新聞の夕刊に連載されていた
「うめ婆行状記」という小説が断然面白かった。

しかし、作者の宇江佐(うえざ)真理さんは、昨年11月、
乳がんで亡くなり、この「うめ婆」は遺作だったという。
調べると、宇江佐さんは49年生まれで僕と同じ歳だった。

僕は本を読み出すと一気に読み進めたいタイプだから、
少しずつ読まされる新聞の連載小説は、あまり好きではない。
ただし、過去にひとつだけ例外がある。
10年ほど前に読売新聞夕刊に連載された、
角田光代さんの「八日目の蝉」である。

たまたま第1回を読んでみたら、もう次回が気になる。
次を読むとその次が気になる。もう、気になって気になって…

半年以上にわたって続いたこの小説を、その期間、
連日、夢中になって読んだことを覚えている。

新聞連載小説にハマったのは、その時以来である。

しかもこの「うめ婆」は、紙面の半分を全部使うほどの大スペース。
つまり「短期集中連載」というやつで、1回分の読み応えもあった。


「うめ婆行状記」は江戸時代の話だが、
そのまま
現代に通じる物語でもあった。

主人公のおうめさんは、醤油問屋のお嬢さんとして生まれるが、
奉行所の同心という武家に嫁いで、いろいろ苦労をするけれど、
夫を亡くした後、家から飛び出して気ままな生活を楽しもうとする。

おうめさんは、シャキシャキしたきっぷの良い姉さん肌である。
で、念願の一人暮らしを始めたとたん、甥っ子の隠し子が判明し、
その甥っ子のためにひと肌脱ぐことを決意したり…。

そのほかにも、いろんな人たちとの付き合いや騒動に巻き込まれ、
「せっかく気ままな一人暮らしができたっていうのにねぇ」
と、うめは仲良しの義妹や隣の奥さんや息子の嫁らにこぼす。
それでも人の難儀は放っておけない性分で、身を乗り出す…
…というようなあらすじだ。話が生き生きとしている。

この小説では、登場人物の男たちは皆、ちょっと頼りない。
それにひきかえ、おうめさんやその他の女性は頼りになる。
現実離れした男たちと、現実を直視する女たち…とも言える。
縁の下の力持ち…という古いことわざを思い出させるように、
女の人たちの力が、庶民の人々の暮らしを支えていたことが、
この小説を読んでいると、しっかりと感じ取られるのだった。

また、おうめさんが「私は家長」だと威張る自分の息子や、
小うるさい夫の妹らに、これまでに溜まったうっぷんを、
思いっきりはらす場面などには、胸のすく思いがした。

それらの描かれ方が実に秀逸で、ついつい引き込まれ、
月曜日から金曜日までの夕刊が楽しみで仕方なかった。
(連載は毎週月曜日~金曜日)

ある時、どこを見ても「うめ婆」が載っていなかったので、
「ありゃぁ~」と大騒ぎしたが、考えてみたら土曜日だった。
日曜日は夕刊はないが、土曜日にはそんなことがよくあった。

そして連載が始まって2ヵ月余り経った今月の中旬。
おうめさんが病に倒れ、生死の境をさまよった末、
どうにか一命を取りとめて回復し、
さあ、これからどうなる…

と物語が佳境に入ったとき…

連載は終ってしまった。

「うめ婆行状記」の連載が始まるとき、
「この作品は作者の遺作です」と書かれてあったのを忘れていた。
毎回のタイトルの下にも「宇江佐真理遺作」と書かれているのに。

これで連載は終わり。つまり未完のままで終了である。
あぁ、惜しい。何とかならないのか…。
…って、なるわけ、ありませんわね。
著者が亡くなられているのですから。

亡くなられる直前まで、この小説を書かれていたわけだ。

話の展開から行くと、あと数回分で終るかもしれない…
…そんな雰囲気も感じさせていたのだけれど。

まことに、残念でなりません。

 

 

 

新聞は切り取って残していますけど、
今回、単行本が出たそうなので、それでも買いますか…。

でも、本でもやはり未完のままです。当たり前ですけど。

 

 

 

 

 

 

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モミィの通知簿

2016年03月25日 | モミィの成長日記

昨日は、モミィの小学校の修了式でした。
これで3学期も終わり、今日から春休み。
4月からは5年生になります。ほんと、早いですわ。


それで、昨日、学校から通知票をもらって帰ってきました。

昔、僕たちの時代の小学校の通知簿といえば、
1から5までの段階に分かれていましたが、
今は…
①よくできる
②できる
③もう少し
…の3段階分かれています。

4年生は、国語、社会、算数、理科、音楽、図工、体育の
7教科があるわけですが、それぞれ細かい項目があって、
たとえば国語だと、
「すじ道を立てて話すことができる」とか
「段落のつながりに注意して文章を書くことができる」とか、
「漢字や語句を正しく読んだり書いたりすることができる」とか。

算数だと、
「折れ線グラフを読んだり、かいたりできる」とか、
「わり算(2・3位数÷1位数)の計算ができる」とか。

各教科それぞれに詳細な項目があり、合計で30数項目あります。
その各項目に①から③までの評価がつけられるというわけです。

モミィの1学期は、全部で35項目あり、その成績は、

①よくできる → 15項目
②できる   → 20項目
③もう少し  → 0

となっていました。

それが、今回の3学期の通知票では、全部で31項目でしたが、

①よくできる → 25項目
②できる   → 6項目
③もう少し  → 0

と、1学期から見るとずいぶん上がったので、嬉しかったです。

通知票の一番最後の欄に、モミィに対する担任の先生の評価が、
肉筆で詳細に書かれていましたので、引用させていただきます。


圧倒的な読書量で、音読や読解、作文において、表現豊かに取り組むことができ、友達からも一目置かれていました。コツコツと努力を忘れず、多くの教科において優秀な成績を修めることができています。特に漢字練習の文字は大変美しくなりました。高学年でも、今まで培ってきたものを活かして、活躍してくれることを期待しています。


…との、ありがたいお言葉を頂戴しました。

ふだんのモミィの学校の勉強に関しては、妻が全部見ています。
妻は昔から習字をしていたので、最近、モミィに教えたところ、
効果が出たか、先生が書かれたように、字が奇麗になりました。

友だちとも、家に呼んだりして楽しく遊んでいるようです。
勉強も、友だちとの関係も、順調なのが何よりの安心材料です。


5年生になっても、今まで培ったものを活かして、
活躍してくれることを期待しています…という、
担任の先生の言葉を忘れないでほしい思います。


さて、話は少し変わりますが、先日、モミィのクラスで、
「短歌・俳句コンテスト」というのがあり、
その結果発表がありました。

児童たちが学校で作った短歌と俳句が保護者に配られ、
その保護者の投票で順位を決めるのですが、
短歌部門でモミィが第1位になりました。
合わせて「教頭先生賞」も受賞し、ダブル受賞でした。

 


 

  梅の花 ふわりふわりと 花がまう
        ほのかにかおる 通学路  ~モミィ~

モミィはある古墳公園の中を通って通学しています。
そこは、このあたりでは梅の名所でもあることから、
毎日、通学しながら梅を眺めていたのだと思います。


なお俳句の部では、1位には入りませんでしたが、
これも「教頭先生賞」を受賞しました。

モミィの作った句は

春風に さくらがまうよ 花吹雪

というものでしたが、担任の先生の講評は、

ぷわっと吹いた春風に、桜の花びらが一気に舞いちる様子が思い浮かびます。作者の名前は一切伝えていないのですが、ふたを開けてみると、教頭先生賞を総なめにした〇〇(モミィ)さんでした。

と書いてくださいました。

教頭先生は女性の方ですが、
よほどモミィと感性が合うのでしょうか…。


さて、そ~ゆ~ことで、今日から春休みです。

始業式の4月8日まで、2週間あります。
学年が変わるので、学校の宿題はゼロ。
「遊び放題やなぁ」と喜ぶモミィに、
「英検の勉強があるよ」とクギを刺す僕。


春休みには、2泊3日で琵琶湖周辺から、京都、
そして、奈良方面へ小旅行しようと思っています。
これは、まあ、純粋に遊びに行く旅行というより、
京都、奈良の社会見学の旅みたいなものですけど…。

 

 

 

 

 

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英検3級にチャレンジ

2016年03月23日 | モミィの成長日記

モミィが次回受ける英検の受付が3月18日から始まった。

去年10月に初めて5級を受け、今年1月には4級を受けて、
運良く合格できたモミィの、次のチャレンジは3級である。
年3回しかない試験なのに、え?もう次の受付か…と思う。

今年度の第1回となる試験日は、6月12日(日)である。
3級からは二次試験もあって、それが7月10日(日)だ。
もちろん、一次試験に合格したら…の話ですけれど。

そこで19日に早速インターネットで申し込みをした。
英検のホームページから申し込みをするわけだが、
すでにモミィは英検IDとパスワードを取得済みなので、
ログインする時、それを入力したらいいだけで、簡単だ。

ログインすると、モミィの住所、氏名、生年月日、
所属小学校その他の項目が自動的に出てくる。

そこへ少しだけ必要事項を入力してOKをクリックすると、
あらかじめ登録している僕の携帯に、英語検定協会から、
「受付が完了しました」とのメールが入る。

支払方法は、ローソンなど4つのコンビニと、
ゆうちょATMのいずれかで検定料を支払う。

メールには「確認番号」という6ケタの数字が書かれており、
さらに「お客様番号」(わが家の電話番号)が書かれている。


そこでローソンへ行き、パネルで確認番号とお客様番号を
打ち込み、そこから出てきたレシートをレジの人に示すと、
支払い証明書のような紙をくれる。これで申し込み完了だ。
ちなみに、3級の受験料は3,200円である。
5級の時が2,500円で4級が2,600円だった。
級が上がると、料金も上がって行くわけで(笑)

翌日、英検から、僕の携帯メールに、
「検定料お支払い確認完了のお知らせ」というのが届いた。
受験票は試験日の約1週間前に郵送されて来るそうだ。


…ということで、これで手続きは終った。
あとは、モミィが頑張って勉強をするだけである。

3級は現在完了や関係代名詞、動名詞、不定詞など
むずかしい文法が増えてきて、かなりの難関である。
二次試験というのも、どんなものか、まだ知らない。


6月12日の一次試験まで、もうあと3ヶ月もない。
モミィの、新たな目標に向けてのスタートである。

 

 

  
  
 モミィの本棚にこんな本も追加。
 コツコツがんばっていこう♪

 

 

 


 

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困ったトイレ

2016年03月22日 | 旅行

アルゼンチン旅行の話のおまけです。

ブエノスアイレスには、こんなトイレもありました。

かつてサッカーの高原選手も所属していたボカ・ジュニアーズ
のスタジアムがあるボカ地区の、一軒の店の中のトイレでした。


 

  

 

「位置」が高いので、僕などは背伸びしながら、
用を足さなければなりませんでした。トホホ。


今日はこれだけです。 ハイ、お粗末様でした

 

 

 

 

 

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懐かしのアルゼンチン

2016年03月20日 | 旅行

この2回、アルゼンチンから来たヒロユキたちのことを書きました。

先日のヒロユキとの会話の中で…

アルゼンチンは南半球ですから、日本の冬はあちらの夏ですよね。
だから、お正月も夏だしクリスマスも夏…ということになります。
「サンタクロースは雪の中を来るんではなかったの?」
と、僕はヒロユキに尋ねた。クリスマスはどう考えても冬だもんね。
サンタクロースは赤い外套を着てトナカイのソリに乗って来るのだ。
しかし、アルゼンチンは真夏なので、一体どんなサンタが来るのか?

「そうですね。普通の姿のサンタもいますけど…」…とヒロユキ。
「裸でサーフィンに乗ってやってくるサンタもいますね」

ふむ。やっぱり、真夏ですなぁ。
あんな厚着では、汗まみれになるのでは…と思います。
サンタがサーフィンでやって来るのも、南半球ならではですね(笑)


まあ、そんなこぼれ話でしたが、
やはり、ヒロユキやソルちゃんに会うたびに、
2009年9月のアルゼンチン旅行を懐かしく思い出します。

大阪から成田へ行き、米テキサス州ダラス行きに乗って…
(アルゼンチンへの直行便はありません)
成田からダラスまでの所要時間は約12時間。
そのダラス空港での待ち時間が約4時間。
そこからブエノスアイレスまで約10時間。
大阪を出発してから、ほぼ30時間かかりました。
なにせ地球の裏側ですから、それくらいは仕方ないかも。

このたび、パソコンでまた当時の写真を眺め直しました。

 

 
 南米だから、のんびりした街並み…と思っていましたが、
 車の数も多く、運転もみんな少々荒かったような…。

 

 
 ホテルの窓から見た街の様子。おしゃれで近代的な建物が並んでいます。
 (ブエノスアイレスは“南米のパリ”とも呼ばれているそうです)



 
  ソルちゃんと。ブエノスアイレスの街角にて。

 


 
 アルゼンチンの英雄、マラドーナのそっくりさんがいた。

  

 
 アルゼンチンはお肉の国でもあります。料理は豪快そのもの。
 (ヒロユキが案内してくれたお肉の店。右は義姉です。

 

 
 典型的なアルゼンチン肉料理。
 牛、豚その他の動物の肉のいろいろな部位が焼かれて出てくる。 
 一片、一片が、とても大きい。
 ソーセージも特大で、中に「血のソーセージ」というのもあった。
 入っている器が深いので、実際は見た以上に沢山入っている。



 
 ヒロユキがシェフとして働くレストランを訪れると、
 店の人たちが総出で大歓迎してくれた。
 

 


 
 アルゼンチンタンゴのショーを見に行った時。
 店の人が撮ってくれました。右が妻で奥が義姉です。


 
 アルゼンチンタンゴ・ショー。
 ちょっぴりセクシーで、見ていて気持ちがウキウキします。

 


 
 ブエノスアイレスから飛行機に乗り、ブラジルとの国境にある、
 イグアスの滝を見に行きました。この日、ヒロユキたちは仕事。
 行ったのは僕と妻と義姉の3人で、少し不安もあった旅でしたが、
 圧倒的な滝の迫力に魅了されました。
 (ここは“悪魔の喉笛”と呼ばれるイグアスのメインスポットです)
 なお、滝の向こうの左側の陸地は、ブラジルです。

 


 
   多くの見物客で賑わう“悪魔の喉笛”

 


 
  イグアスの滝は、ビクトリアの滝、ナイアガラの滝と並んで、
  世界三大瀑布のひとつとされています。



そういうわけで、この旅行から帰ってきたのが9月末。

そしてそれから1週間も経たないうちに、
7年後の2016年の夏季オリンピック開催都市が、
ブラジルのリオジャネイロに決定したと報じられた。
南米で初のオリンピック開催というビッグニュースだ。

初めて南米へ旅行して、帰国後すぐこのニュースが入り、
「そ~か。7年後には南米でオリンピックがあるのか…」
と、何か感慨深いものがあった。

その「7年後」が、もうあと4ヵ月余りとなった。
月日の経つのって、本当に早いですね。


ちなみにこの時、近くに住んでいたモミィは3歳だった。
毎日のようにわが家に遊びに来ていたモミィだったけれど、
大好きだった妻がいなかったので、寂しがっていたそうだ。
僕たちが帰宅すると、モミィは待ちかねて家にやってきて、
妻に抱きつこうと猛ダッシュし、敷居につまづきドスンと転んだ。
そんな光景も、今では懐かしく思い出されます。

 

 

 

 

 

 

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ソルちゃんやヒロユキたちと

2016年03月18日 | 日常のいろいろなこと

義姉は旦那さんと2人で大阪・京橋に住んでいる。
ヒロユキとソルちゃんはそこに滞在し、
梅田や難波へ行ったり、奈良へ行って、
鹿と遊んだりしていたという。

ソルちゃんは、鹿にまつわりつかれるのが、
嬉しくもあり、少し怖くもあったようだ。


2人は今回も約20日間の「ロングバケーション」だったが、
来週の連休明けには、アルゼンチンに帰ってしまう。


そして、昨日の昼、僕と妻とモミィが、
1年ぶりにヒロユキたちと、京橋で会った。
義姉の旦那さんは、所要で来ることができなかった。

総勢6人で、京橋コムズガーデンにあるサイゼリアに入った。

ソルちゃんは、和食がまったくダメで、
このサイゼリアのピザやドリアが大好きだそうだ。

モミィも、スパゲティやピザが好きだし、
ここのお店は大きくて、広い席を与えてくれるので、
毎年、ここで昼食をとり、そのあとカラオケに行くのが恒例だ。


ヒロユキは46歳で、ソルちゃんは31歳である。
まだまだ若いソルちゃんは、モミィと抱き合い、
お互いにお土産を交換し合って、はしゃいでいた。


 
 サイゼリアでモミィはソルちゃんにくっつき放し。


去年、僕は、このサイゼリアで生ビールを飲んだ後、
ワインのデカンタを2本飲んで酔ってしまったので、
今年は生ビールだけに抑えて、カラオケに行った。


ところで、アルゼンチンにカラオケはあるのか…?
…と、ヒロユキに聞くと、そういうのはないそうだ。
ちょっとした舞台で歌う場所はあるそうだけど…。
でも、ソルちゃんはカラオケが大好きで、家で、
PCの YouTube で一人カラオケをしているという。

だから日本で、僕たちとカラオケを歌うのが楽しみだそうだ。

ヒロユキや義姉や妻はカラオケを歌わない人なので、
歌ったのはソルちゃんと僕と、モミィの3人である。

中でも主にソルちゃんが沢山歌った。
せっかく「カラオケ大国」の日本に来たのだから、
思う存分歌えばいいんだよね。

全部スペイン語と英語で、僕らの知らない歌でしたけど。


僕はソルちゃんが好きな英語の歌で、
ビートルズの「レット・イット・ビー」を歌うと、
モミィは「レット・イット・ゴー」をソルちゃんとデュエットした。

そのほか、ソルちゃんはノリのいい歌が好きなので、
僕は氷川きよしの「きよしのズンドコ節」やシャ乱Qの「いいわけ」
沢田研二の「勝手にしやがれ」や井上陽水の「リバーサイドホテル」
などを歌ったり、モミィと2人で「踊るポンポコリン」を歌ったり。
あそうそう、ソルちゃんと「ベサメムーチョ」もデュエットしました。

あっという間に時間が経ち、おひらきとなりました。


JR京橋駅の改札口で、お別れです。

「また、来年ね~」と、手を振ってお別れ。
僕はちょっと気取ってソルちゃんに、
「アスタ・ルエゴ」と、スペイン語で「またね~」
つまり英語の「シー・ユー」に当たる言葉をかけて、
エスカレーターを上がり、電車のホームへ向かった。

「楽しかったねぇ」と、電車の中で、
モミィは大喜びしていました。


来年も、みんな元気で顔を合わせられますように…。

 

  
   妻が撮ってくれた写真です。左端が義姉。
  モミィの右がヒロユキ、左がソルちゃん。
  一番右が、ほろ酔い気分の僕で~す。

 

 

 

 

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「レット・イット・ビー」はパクリ?

2016年03月15日 | 日常のいろいろなこと

アルゼンチンに住んでいる甥のヒロユキが、
妻のソルちゃんと一緒に、今月初旬に来日した。

ヒロユキの母である義姉が連日あちこちを案内している。


ヒロユキがブエノスアイレスのレストランで、
シェフをしているという話は何度か書いた。

http://www.rosanegraargentina.com.ar/

右のCHFF(シェフ)をクリックするとヒロユキが出てきます。


最初に彼が料理修業のために出た外国は、
スペインのサンセバスチャンという街だった。
1995年(平成7年)の1月のことで、ヒロユキは25歳だった。

たまたまその年の10月に、僕は妻とパリへ旅行した。
サンセバスチャンは、フランスとの国境に近かったので、
僕たちはパリから新幹線と国境をまたぐローカル線を乗り継ぎ、
2泊の予定で、そのサンセバスチャンという小さな街へ行った。
ポケットには、パリのホテルの部屋のキーが入ったままだった。

ヒロユキがとても喜んでくれたことは言うまでもなかった。
妻の姉の子だが、僕は彼を1歳の頃から知っている。
恥かしがりやだったが、とても優しい子だった。

数年後、彼はアルゼンチンのブエノスアイレスに移った。
それ以降、一度も日本には戻ってこなかった。

彼がアルゼンチンに行ってから13年後に当たる2009年、
僕たちはヒロユキの母である義姉を誘い、現地を訪れた。
13年ぶりの母子の対面だった。

その頃はもう、このブログを始めていたので、
ここで数回、旅行の詳細を載せています。

よろしければ、どうぞ。 

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/5023de656b4921e5540985ca09609d9c


13年ぶりに母子対面したとき、ヒロユキの横に女性がいた。
生粋のアルゼンチンっ子であるソルちゃんだった。
ソルとは、スペイン語で「太陽」の意味だけれど、
まったく太陽のようにメチャ明るい女性だった。
ヒロユキがシェフをしているレストランで、
パティシエをしている女性だという。

旅行の間は、ほとんどヒロユキとソルちゃんが、
ブエノスアイレスの街のあちらこちらを案内してくれた。

その翌年から、毎年欠かさず、ヒロユキとソルちゃんが、
長期休暇をもらって日本に来るのが恒例になったのである。

今年で7年連続になる。

そして毎回、食事会をし、そのあと、
ソルちゃんが大好きなカラオケに行く。
(カラオケは僕も大好きですわ~い)

ソルちゃんの歌う歌はもちろんスペイン語の歌なのだが、
リズム感もいいし、アルゼンチンタンゴふうの踊りも楽しい。

ソルちゃんは、日本語がほとんど話せないが、英語は堪能だ。
僕も日本の歌ばかり歌うのもナンなので、ちょっとサービスして、
ビートルズの「レット・イット・ビー」なんかを歌う。
(英語では、ビートルズの歌しか知らないんです)
英語の歌を歌うと、ソルちゃんが大喜びしてくれるのです。

でもスペイン語の歌も、ひとつだけ歌えるのがある。
トリオ・ロス・パンチョスの「ベサメムーチョ」だ。
メキシコ人の歌だけど、言葉は同じスペイン語なので。

年配の人は「うわぁ、古ぅ」…と言うだろうし、
年配でない人は「知らんわ、そんな歌」と言うでしょうね。

まあ、昔々には、よくこの歌が流行りました。
ソルちゃんにとっては、古いも新しいも関係なく、
画面にスペイン語の歌詞が出てくるだけで「ワオ~ッ」と喜ぶ。


まあ、そんなことで、明後日の17日、
ソルちゃんたちと食事&カラオケに行く予定です。

その17日というのは、モミィの小学校の卒業式で、
モミィは休みなので、この日にしてもらいました。


ちなみに、ベサメムーチョ(Bésame mucho)とは、
スペイン語で「もっとキスして」という意味です。

そういう歌って、教育上、良くありませんか?

でも、モミィも英語は好きだけれど、
スペイン語は皆目わからないんだもんね。


ところで、そのモミィに、
ビートルズの「レット・イット・ビー」という歌はとてもいいよと言ったら、
「なに、それって、レット・イット・ゴー」のパクリやんか~
…などと言うのである。

「レット・イット・ゴー」は「アナと雪の女王」の中の歌だ。

「あのなぁ」と、僕はモミィの目を見つめて言った。
「レット・イット・ゴー」のほうが、パクリやがな、と。

でもモミィはそんな僕の言葉を、
にわかには信じていないようだった 

 

 

 

 

 

 

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石巻からの便り

2016年03月13日 | 日常のいろいろなこと

昨日、わが家に一通のハガキが届いた。
宮城県石巻市に住む西島さんという方からだった。

ハガキには、こう書かれていた。


震災より五年を迎えます。
未曾有の事が起こり、五年後の今、
時間と資金と人の力でここまで来ました。
御支援、御好意、激励に感謝致します。
私共の暮らし、ほぼ元通りです。
防災に対して、常に意識して下さい。
日本中、安心できる所、ありません。
お元気でお過ごしください。


西島さんとは僕が20歳の時の自転車旅行中に知り合った。
出会ったのは北海道の帯広。僕より2歳程度年上だった。
お互い、一人で自転車旅行をしている者同士だったので、
たちまち意気投合し、そこから9日間、一緒に走った。

帯広から襟裳岬、苫小牧、函館と走り、
本州に渡ってからは、下北半島の大間崎、
恐山、そして野辺地というところまで2人で走った。

ある時、ボロボロの屋根付きのバス停で野宿した。
僕がベンチで、彼は下の地面で、寝袋にくるまって寝た。
夜中、僕がベンチから落ちて、西島さんをドスンと直撃した。
「いてぇ~~~」と悲鳴があがり、「ごめん~」と僕は謝った。
そんな思い出も、ついこの間のことのような気がする。

野辺地というところで道路は左右に分かれていた。

右へ行けば国道4号線で、青森市へ通じる道。
左へ行けば、三沢、八戸方面に続く。
彼は右へ行き、青森から日本海側を通って西日本へ向かう。
僕は左へ行き、太平洋側を通って仙台、東京から大阪へ向かう。

「…ここで、お別れだな。道中、気をつけてな」
「西島さんも、気をつけてね」

手を振り合い、右と左に分かれて、
9日間の「ふたり旅」が終った。

1969年(昭和44年)のことである。

それ以来、一度だけ大阪で会ったが、
あとは毎年の年賀状のやりとりだけだった。
自転車旅行当時は、東京に住んでおられたが、
石巻の女性と結婚されて、そちらへ移り住んだ。


あの東日本大震災が起きたとき、
ご存知のように、石巻市も甚大な被害を受けた。

僕はすぐに西島さんに安否確認のメールを送ったが、
返事は来なかった。とても心配だった。

すると震災から9日経った日、僕の留守中に、
その西島さんからわが家に電話があった。

西島さんは、電話に出た僕の妻に、

「ご心配をかけていますが、当方はみんな無事です。
 電話がつながらなかったので誰にも連絡できなかったのです。
 1階は全滅ですが、2階でなんとか生活できています。
 『オレはがんばってるぞ~』と伝えておいてください」

と言ったそうである。
無事を聞き、やっと気持ちが落ち着いた。

僕はただ「どうか頑張ってください!」
とハガキを書くぐらいのことしかできなかった。


そして、震災から9ヶ月後の12月に、
西島さんからこんなハガキが届いた。

前略
先日、店の家屋修理が終りました。
あの日より9ヶ月が過ぎ、やっと完成です。
生活的には、かなり厳しいですが、
皆さんからのご支援に応える為にも、
奮闘努力・安定生活が我々の責務と自覚しております。
本当に有難うございました。
日々、寒くなります。御体、御自愛下さい。
来年は平穏な年であります様に…


それから、ほぼ毎年、3月11日前後にハガキが届く。

冒頭のハガキに書かれていた

防災に対して、常に意識して下さい。
日本中、安心出来る所、ありません。

…という西島さんの言葉を、
しっかり心に刻み込んでおきたいと思う。

 

   

 

 

 
  函館から本州・下北半島へ向かうフェリーで。
  西島さん(右)との唯一のツーショットです。
  当時の西島さんは、見てのとおり、野性味たっぷり
  (1969年8月1日)

 

 

 

 

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被災地を歩いた日

2016年03月11日 | 思い出すこと

東日本大震災から今日で5年が経った。

昨日の警視庁の発表では、震災で亡くなられた方が15,894人、
行方不明の方が2,561人、そして今も17万人以上の人たちが、

避難生活を送っておられるという。


これは宮城県仙台市に本社を置く河北新報という新聞社が、
当時出版した「河北新報特別縮刷版」である。
仙台在住の方から送っていただきました。

     

 
 最初のページ。3月11日の震災当日の「号外」が載っている。


 
  翌日、3月12日の同新聞の朝刊。
  この縮刷版は、4月11日までの河北新報の記事が、
  200ページ以上にわたって掲載されている。

 

あれから5年が経った。
この5年間。短かったのだろうか。長かったのだろうか。

 

あの年。

震災から2ヶ月余り経った5月19日に、

僕は一人で、宮城県へ行った。

テレビ報道などで、地元の人々が、
「ぜひこの被災地の現状を見ていただきたい」
と訴えておられたことに、背中を押されたのだった。


以前もこれは書いたことがあるが、
決して忘れてはならないことなので、
改めてその時のことを書こうと思います。


仙台空港の前から歩き始め、名取市内を抜け、
仙台市若林区へ行く道を歩こうと思った。

空港から沿岸部を北東の方角に歩き、名取川を渡り、
そして仙台市の若林区に入って、そこから内陸部の仙台駅方向へ…

そういう予定を立てていた。20~30キロぐらいだろうか。

歩き始めたのは午前9時半ごろだった。
しかし、いきなり方角がわからなくなった。
地図を持っているのだが、どこがどこなのか?

道の両側の光景には、背筋が凍りついた。
見たこともない光景だった。

散らばった瓦礫。壊れた家屋。ひしゃげた車。転がる舟。
そして、茫漠とした荒れ野が視界の全てを占めるような光景。

どんな言葉を尽くしても表現できない光景だった。


震災から2ヶ月以上が経ち、瓦礫はかなり撤去された様子だった。

それでもこれだから、被災した当初は、
想像を絶するものであったに違いない。

僕が歩いている道は、人影はほとんどなかった。

そこへ、ひとり、自衛隊員風の若い男性が立っていた。
僕を見て頭を下げられたので、
「お疲れさまです」と、僕も一礼した。

少し先の道路が十字路になっていたので、
その男性に道を訊いた。

「名取川を渡って仙台市に入りたいのですが」と言ったら、

「この道をまっすぐ行くと海に出てしまいますので、
 あちらのほうへ行かれるといいです」

と、男性は左手を指して、

「○○ (地名らしかったが聞き取れなかった) へ出ますので、
 そこへ行けば、仙台市の若林地区へ入れると思います」

「ありがとうございました」


教えてもらったその道を、また歩き始めた。
相変わらず人影はない。 
どこをどう眺めても、歩いている人はいない。


すると車が1台、後方からやって来て、僕の横で止まった。
車の中には、年配の夫婦らしき男女2人が乗っていた。
助手席の奥様らしき人が、窓を開けて僕に呼びかけた。

「キタガワさんのお寺へはどう行けばいいのですか…?」
と、道を尋ねられたのだ。

「は…? あのぉ、すみませんが…」
僕は、この土地の者ではありませんので、と詫びた。


しばらく行くと、バス停があった。
高柳、という名の停留所だったので、また地図を広げた。
あ、あった。地図に高柳という地名が…。

初めて地図上で、自分の歩いている場所を確認できた。
このまま行けば、閖上大橋というところで名取川を渡れる。
「閖上」 とは難しい文字だけど 「ゆりあげ」 と読む。


すでに12時を回っていた。 
歩き始めてから、3時間近くが経過した。
歩きながら、パンを食べ、水を飲んだ。


やがて閖上 (ゆりあげ) 大橋の手前まで来た。

道路の真ん中に、警官が3人ほど立っていた。
僕がそのまま通り過ぎようとしたら、女性の警官が、
「どちらへ行くのですか?」と、厳しい口調で尋ねた。

閖上大橋を渡って仙台市若林区に入るつもりだと言うと、

「この先は、関係車両以外、行けません」 
と女性警官がきっぱり言った。

それなら…と、左側に行く道があったので、
「じゃあ、そちらの道を行きます」と言うと、
「その先は通行止めです」と、また、きっぱりと言われた。


僕は途方に暮れた。
 
「では、この道を引き返すしかない…ということですか?」
という僕の言葉に、女性警官は、そうです、とうなずいた。

戻るとすれば、最寄の駅はJR名取駅ということになる。

でも、空港方向から歩いて来たので、
名取駅への道がわからない。そう伝えると、

「この道をまっすぐ行けば名取駅です。歩きでは大変でしょうが」 
と女性警官はそう言い残して、元の場所に戻って行った。


僕は仙台空港の前から、道に迷いながら、ここまで歩いてきた。
だから、名取駅の場所はわかっても、そこまでの距離が不明である。

地図を見ると、確かに名取駅への道は一本道でわかりやすかった。
しかし、現在地からはずいぶんと遠い。
 

本来なら名取駅へ行く路線バスが走っている道路である。
バス停があるのだから、間違いない。
しかし、現在そのバスは運行されていない。 
名取駅まで、何の交通手段もないのである。


バス停に、名取駅までの全停留所名が表示されていた。
それを数えてみたら、全部で12あった。
名取駅まで、バス停が12ヵ所もあるのだ。 
バス停からバス停までの距離も長そうだ。
それを12ヵ所通過して行かなければならない。
そうと思うと、急に足が重くなった。

でも仕方ない。

ここまで歩いて来た道を、また戻り始めた。

 

 
  いずれも、その時に撮った写真です(2011年5月19日。名取市)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  
   もと来た道を引き返し、ようやく名取駅が近づいてくると、
   コンビニが1件、営業していました。

 

最後に、

「名取市閖上(ゆりあげ)復興支援のブログ」

をご紹介して、今日の記事を終えます。

 

 

 

 

 

 

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「真田丸」の視聴率が急降下

2016年03月10日 | 映画の話やTVの話など

今日の新聞のテレビ番組の視聴率欄を見てびっくりした。
大河ドラマ「真田丸」が、ベスト20から消えていたのだ。

朝日新聞のテレビ番組欄では、毎週木曜日、
「TV視聴率ランキング」というのを載せている。
(ただ、これは、関西地区の視聴率ですが)

今回は、2月29日~3月6日までの週間視聴率だった。

毎回、1位はNHK朝ドラの「あさが来た」だけれど、
2位~4位ぐらいには必ず「真田丸」が入っていた。
ちなみに、先週は3位だった。なのに…

今回は、ベスト20にも入っていなかった。
これにはびっくり仰天だった。

でも、何となく、わからないこともない。

先日のブログ「真田丸あれこれ」でも書いたけれど、
長澤まさみ(きり→幸村の生涯のパートナー)が、
今どきのヤンキーみたいな話し方をするのがわずらわしい。
さらに幸村の母が何かと言うとぎゃぁぎゃぁ騒ぐのも耳障りだ。
きっと、そういうのも、視聴率に、微妙に影響していると思う。

それと、戦国時代の大動乱の様子が、ドラマでは描かれていない。
真田家のホームドラマのようで、それはそれでいいのだけれど、
信長が死に、秀吉が光秀を討つという歴史の大きな流れが、
このドラマではほとんど描写されていないのは、なぜか。

それによって真田家や周辺の国衆がどうするか…
…という駆け引きの会話のシーンばかりが目立つ。

幸村が人質を助けるシーンも、不自然さが目立ち過ぎていた。

やはり、歴史の本筋をほとんど描かないことが、
ドラマをいささか貧弱にしているように感じられる。

それと、歴史はそのように激流の如く動いているのに、
ドラマは毎回、あまり話が進展しない。
どうも、同じような話の繰り返しである。

三谷幸喜の脚本だから、コミカルは結構だけれど、
NHK大河には、重厚な時代劇を期待する向きも多い。
なのに、コミカルを通り越している部分が多いように見える。

僕自身、一昨年からこのドラマに期待していただけに、
今のところ、この展開には、ちょっと不満である。
まあ、これから面白くなっていくのだろうけどね。

今の内容なら視聴率が下がっても仕方ないか…

このあと、関ヶ原の戦いから大坂の陣へと進んでいけば、
また視聴率は上がると思うのだけれど…

それにしても、幸村の生涯の宿敵だった家康も、
あれだけコミカルに描かれていると、
最後はどうなるんだろ、と心配だ。

さらに付け加えると、あの、きり(長澤まさみ)が、
ドラマの最後まで、幸村のそばにいるのかと思うと、
そちらのほうも、何だかなぁ…と、ため息が出てしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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とりま いつメン ウーロン茶

2016年03月09日 | ズレズレ草

ツイッターやLINEが流行ると、
言葉もどんどん変わっていきます。

話し言葉が省略されていくんですね。
ちなみに僕は両方ともやっていません。

ツイッターやLINEのやり方も、知らないですし。

それと今の若者言葉は、英語よりもむずかしいですね(笑)。


先日ニュース番組で「こんな若者言葉をご存知ですか?」
…というのをやっていました。そこで出ていたのは…

とりま
いつメン
秒で
かまちょ
なうしか
じわる
ゴリる
デコる
タクる

というような、僕らにはよくわからない言葉ばかり。

「とりま」とは、「とりあえず、まあ」を縮めたもの。
何だか焼き鳥屋さんの「ねぎま」を連想してしまいます。

「いつメン」は、いつものメンバーのこと。
「~メン」といえば、僕らの世代は「Gメン」しか浮かばない。

「秒で」は、すぐに、急いでという意味で使われる。
「秒で行くからね」という感じで、これはまぁわかる。

「かまちょ」は、「かまってちょうだい」だそうだ。
昔「ひょっこりひょうたん島」に(ドン)ガバチョってありましたけど。

「なうしか」は、ナウ→今 「今しかない」が「なうしか」。
「風の谷のナウシカ」にひっかけているのでしょうか。

その他「じわる」は「じわじわ来る」の意で、
もしかして「いじわる」の省略? と思ったのは間違いでした。

「ゴリる」は「ゴリ押し」をするという意味。
オリンピック(五輪)に出るのも「ゴリる」というそうです。
(すみません、ウソです。皆さん、退屈されてもいけませんので)
でも世の中、ゴリる人間ってそこらじゅうにいますよね。

「デコる」は「デコレーションする」。
おデコで玉子を割ったりする行為ではありません。

「タクる」はタクシーに乗る意味だとか。なんじゃ、そら。
じゃあ「ジテる」は自転車、「クルる」は車に乗るってこと?


ま、若者言葉にめくじらを立てても仕方ありません。
めくじらを立てるのを「メクジる」とは…言いませんか。


他にもいろいろありますね。

アラシック→病気(シック)になるほどの嵐のファン。

ズッ友→「これからもずっと友だちでいようね」

しょんどい→正直しんどい。
こういう言葉を耳にすると、正直、しんどいです。

チキる→英語のチキン(臆病者)に「る」がついて、
まあ、僕らの年代でいえば、ビビる、という感覚でしょうか。

「ウーロン茶」というのもあり、どんな若者言葉かと思ったら、
「うざい・ロン毛・茶髪」の略語だとか。あはは。

中には「暇死(ひまし)」というのもあるそうです。
「暇すぎて死にそう」の意。「やることなくて暇死しそう」とかね。

「おくちょ」は、「送ってちょうだい」という意味。先ほど、
「かまってちょうだい」の「かまちょ」というのもありました。
「○○してちょうだい」を〇〇ちょ、と表現するわけですね。

う~ん。これなら僕にも言えそうだ。
居酒屋へ行って「ビルちょ」と言う。
「ビールちょうだい」ですよね。
そのあと、
「おでちょ」(おでんちょうだい)
「くしちょ」(串かつちょうだい)

な~んて連発したら、居酒屋のおとっつぁんも、
「ええかげんにしてや。注文はちゃんと言いなはれ」
と、文句を言われるのは目に見えてますけどね~

では、とりま、今日はこの辺で。

 

 

 

 

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世界卓球と結婚記念日

2016年03月07日 | 日常のいろいろなこと

3日前、日本の大阪で、なでしこジャパンが中国と戦っていた同じ時、
マレーシアで世界卓球選手権の準決勝、日本対北朝鮮が行われていた。
その結果、日本チームが激戦を制し、決勝進出を決めた。
日本のメンバーは福原愛と石川佳純と15歳の伊藤美誠だ。

同じ時間帯だったので、TVではサッカーを見ていたわけだけど、
なでしこがあんな負け方をするのなら、卓球の方を見ればよかった…
…と、まあ、結果だけを見て、自分勝手な思いをめぐらせた次第です。

そして世界卓球は、男女とも準決勝を制した日本チームが、
昨日、ともに世界ランクでダントツ1位の中国と決勝を戦った。

ここでは、女子の方に焦点を当てます。


昨日の午後3時半過ぎから、女子の決勝戦が始まった。
中国は、世界ランク1位から3位の選手が登場する。
(これじゃ、勝てるわけありませんか?)

しかし、勝負は何が起こるかわからない。
サッカーでは、勝てるはずの中国に負けたのだから、
卓球では、勝てないはずの中国に勝つかも知れないよね。

ところが、最初に出てきたエース福原がいいところなく敗退。
次に出てきた石川佳純は、わが藤井寺から至近距離にある、
四天王寺羽曳野中学の時代から、大活躍していた。その頃、
藤井寺の駅前にはいつも石川選手の横断幕が貼られていた。

つまり地元の子なわけですよね。

その石川が、世界ランキング1位の選手から2ゲームを連取。
わぉっ~ 奇跡が起きるかも!

と、メチャ盛り上がったが、それも残念ながらそこまで。
石川は2対0から3連取されて逆転負けを喫してしまった。

15歳の伊藤も、あの丁寧をいったんはリードしたものの、
やはり力の差はどうにもならず、終ってみれば完敗。
日本は3対0のストレートで負けてしまった。
中国を破って世界一になるのは、まだまだ先のことか?

しかし銀メダルは確保したので、よく健闘したと思う。
このへんは、格下の中国に負けたなでしことは全然違う。


ところで、もしこの決勝戦で中国に勝っていたら、
日本女子卓球は、45年ぶりの金メダルに輝いていたところだった。

そうです。45年ぶり…だったのです。

そこで自分の話になるわけですが、
45年ぶり…といえば、僕たちも結婚して45年になります。

そして今日は、その45回目の結婚記念日なのです。

まだ学生だった22歳になったばかりの春。
結婚して、新婚旅行へ行き、帰ってから卒業式に出た。
そこで、事情を知らないゼミ仲間に「オレ結婚してん」
と言ったら、「あ、そう、それはよかったな~」と
頭から冗談だと思い込んだ反応しか返ってこなかった。


もし、昨日の卓球で日本女子が45年ぶりに優勝してくれたら、
今日の日に、これ以上のプレゼントはなかったのになぁ…

な~んて、最後は関係のない話ですみません。

 

 

 

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