僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

新 潟 2

2008年10月28日 | 旅行

新潟といえば、39年前の自転車旅行のことが忘れられない。
その旅行中、僕は新潟で、実に奇妙で貴重で、かつ胸の熱くなる体験をした。
まあその時は20歳だったから、そういう体験もできたのだと思う。

   ………………………………………………………………

そのとき。
前日は、直江津駅の構内の長椅子で一夜を明かした。

翌日夕方、新潟に着いてユースホステルへ行ったが、満員で断られた。
普通の宿は料金が高いので、やむなく新潟駅の待合室で寝ることにした。
ところが、深夜に駅員がやって来て、駅から追い出されてしまった。
6月とはいえ新潟の夜は、まだまだ寒気が残っていた。
でも幸い雨は降っていなかったので、駅前のバス停のベンチで、寝袋にくるまって寝た。となりのベンチには、浮浪者がいたりした。

朝になり、駅の洗面所で歯を磨き、構内を歩いていると、ひとりの女性に声をかけられた。彼女は「あたし、エミちゃんっていうの」と言い、「新潟を案内してあげるわ」と僕をタクシーに乗せ、新潟市内をグルグルとまわった。

やがてタクシーから降りて、エミちゃんに1軒の小さな旅館へ案内され、狭い階段を上がって2階の小部屋に通された。

エミちゃんは「あたしはキャバレー『香港』というところに勤めているのよ」と言いながら、旅館のおかみさんに頼んで、僕に朝食を出させてくれた。
僕がそれをガツガツ食べている横で、エミちゃんは驚くべきことを告げた。
「あたしねえ、男なのよ。気がつかなかった…?」

そう言って、「眠くなってきたわ」と、スヤスヤ眠ってしまったのである。   

        

「……???……???」 

僕がどれほどびっくりしたかは、ご想像に任せるほかない。
「げへっ。げぼげぼ」
食べ物を喉に詰めたり、咳き込んだりしながら、朝食を食べ終えた。

しばらくして、おかみさんが上がってきて、寝ているエミちゃんを見て、
「エミちゃんはあなたとは別世界に生きている人よ。寝ている間に、早くお行きなさい。この人には私からよろしく伝えておくから」
と僕を玄関先まで見送り、「餞別」と書かれたお金の入った封筒と弁当をくれたのである。親切が身に沁みた。

そのとき、1枚の名刺ももらった。
そこは、古町通りというところにある「般若」という旅館であった。
今でも僕の手元には、そのときおかみさんからいただいた旅館の名刺がある。

  
   ………………………………………………………………


新潟を訪れるのは、そのとき(昭和44年)以来39年ぶりだった。

今回の出張で、新潟のタクシーに乗ったとき、この「般若」のことを、運転手さんに尋ねてみた。

僕より少し年上に見えた運転手さんは、若い頃、古町通りで水商売のアルバイトをしていたと言うので大いに期待したが、
「古町通りの『般若』…ねぇ…。う~ん、知りませんねぇ…」
と言っただけで、あとは「う~ん。う~ん…」を繰り返した。

「う~ん…」を何回か言い終えたあと、運転手さんが説明してくれたところによると、古町通りというのは、昔、遊郭の町だったという。
39年前は、むろん遊郭はなくなっていたが、旅館の「般若」があった。
しかし今は、さらに様変わりして住宅地になっている、とのことだ。
たぶん「般若」も、時の流れに逆らえず、姿を消したに違いない。

僕は運転手さんに、記憶に残るもうひとつの場所を聞いた。
「キャバレー香港って知っていますか?」
これには素早い反応が返ってきた。
「ええ。よく知っていますよ。このあたりでは一番大きなキャバレーでした。
今はもう無くなりましたが、昔はよくお客さんを案内したものです」
「へぇ…。そうなんですか。観光客の人たちも行ったんだ」
「名所のひとつでしたからね。行かれたこと、あるのですか?」
「いえ…。ちょっと人から聞いただけのことですけど…」

「あたし、キャバレー香港に勤めてるのよ」

…と得意そうに言っていたエミちゃんの顔が、うっすらと浮かぶ。

あれやこれやの懐かしい思い出が、頭の中を巡った。
僕は39年ぶりに再訪した新潟で、この地の「今昔物語」を、心の中でゆったりと味わっていたのだった。


…ということで、新潟にまつわる話はここで完結する…はずであった。
しかし、そのあと僕は、自分のひどい記憶違いに唖然としたのである。

タクシーがしばらく市内を行き来し、次に空港へ向おうとした時、運転手さんが前方の大きな建物を目で示して「あれが新潟市役所です」と教えてくれた。

そのとき、電光のようにひらめいたことがあった。
「新潟市役所…。新潟市役所…。新潟市役所…」
何か…かすかに覚えがある。

透き通っていた空気がギュっと固まって、目に見える何かの形を取り始めたような具合に、ひとつの記憶が闇の中からくっきりと浮かび上がってきた。

そうだ。思い出した。
新潟市役所を出張で訪れたことがあったのだ。

          

30代後半くらいの頃ではなかっただろうか。
…ということは、今から20年前以上のことである。
そのときに一度、僕は新潟市へ来ていたのである。

宿泊はたしか新潟ではなく別のところだった。
その分、印象に残りにくかったのだろう。
それにしても、完全に忘れてしまっていた。
39年ぶり…ではなかったんだ。やれやれ…。

相変わらずいい加減な自分である。

我ながら、あきれて言葉も出ない。



 *新潟のエミちゃんとの出会いは、こちらに詳しく書いています。

           ↓

   http://d.hatena.ne.jp/domani07/20070604

 

 

 

 

 

 

 

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窓口の女(ひと)

2008年10月21日 | 心と体と健康と

もう2週間ほど前になるけれど、10月8日(水)に大手○病院へ行った時のことである。
耳鳴りのTRT療法が終わり、僕は薬がほしいと技師さんに伝えた。
抗不安剤のデパスと睡眠導入剤のマイスリーである。
「それなら、耳鼻咽喉科の受付窓口でそう言ってください」
という技師さんの言葉に従い、僕は受付に行き「薬をくださ~い」と頼んだ。

受付の女性は「は~い、お薬ですね。いいですよ~ん」
…とは言ってくれなかった。額にシワを寄せて、
「最近、診察を受けられましたか?」と訊いてきた。
「TRTの療法はいま終わったところですが…」
「いいえ、そうじゃなくて、宇○先生の診察です。いつ受けられました?」
「診察ねぇ。え~っと、受けてから、もうだいぶなるかなぁ…」
「2ヶ月くらい前ですか…?」
「でなくて、その倍、くらい…かな」
「4ヶ月前…ですか。3ヶ月に一度は診察を受けてもらわなければ」
受付の女性はそう言って僕を見た。

診察…といっても、僕の場合、聴力検査をするだけである。
前回はさんざん待たされて、聴力検査をして、そのあとまた待たされて、ようやく診察室に呼ばれても「変わりありませんねェ」とひとこと言われただけである。薬をもらうのにそんな手続きって、面倒だし時間の無駄じゃないのか。

ふだんは温厚で、何事にも決してゴネたりはしない僕だけど、ここはひとつ頑張ってみようと決め、すぐには引き下がらなかった。

「診察といっても聴力検査をするだけですよ。僕は急いでいるんです。何とかなりませんか?」
すると女性の態度が、少し変わった。
「じゃあ、宇○先生に聞いてきますから…」
女性はしぶしぶ僕の書類を持って診察室の廊下のほうへ消えて行った。
そしてすぐに戻ってきて、
「やっぱり、診察は受けてもらわなければなりませんので…」
僕の顔を覗き込むようにして、そう言った。

「じゃ、いいです。診察を受けることにします」
と、僕はすぐに態度を軟化させて、待合のソファに座った。
言うだけ言ってだめだったら、それはもう仕方ないことだ。
まあ、急ぐとは言ったけれど、それほどでのことでもなかった。
妻とこの病院の1階のロビーで待ち合わせているだけである。
特に何時に、という約束もしていないし…。

「のんさん、こんにちは~」
と、yukariさんが顔を見せたのはその時だった。

yukariさんはさっきからずっと待っていた、とのことであった。
僕と同様、TRT療法を終えて薬をもらおうと思ったら、受付で、診察を受けないと薬は出せない、と言われたのだ。
そんな話をしているときに、
「○○昇さ~ん」と、今来たばかりの僕の名前が呼ばれた。
yukariさんのほうが、ずっと先から待っていたというのに…。

僕はyukariさんと顔を見合わせ、「え…? 僕が先…」と戸惑った。
「私、忘れられているのかも」
「そうやね、確認した方がいいよ」
なぜだか知らないけれど、僕のほうが先に診察室に呼ばれるっていうのは、なんだかyukariさんに申し訳ない気分であった。

名前を呼んだ看護師は、僕に、
「宇○先生は順番が混んでいるので、▽▽先生の診察を受けていただきます」
と言い、診察室の前の廊下に招き入れた。
そして、僕はすぐに名前を呼ばれて▽▽先生の診察室に入った、
▽▽先生はパソコン画面を眺め、
「ふむふむ。別に問題ありませんね?」
と僕に問いかけているのか、つぶやいているのかわからない口調で言った。
とりあえずそれに合わせて「はぁ…。問題はありません」と答えたら、
「結構です」と言って僕に退室するよう促した。
聴力の検査も何もない。診察室にいた時間はわずか20秒ほどであった。

待合室に戻ると、これまたすぐに受付から名前を呼ばれ、会計の書類と薬の処方箋をもらった。受付の女性に談判した効果はてきめんで、実にすばやく薬の手続きが終わったのである。あとは会計でお金を支払い、薬局で薬をもらうだけだったが、待合でyukariさんがお母さんといっしょに待っておられたので、すぐには帰らず、その隣に座って話をした。

僕よりはるかに早くから来てまじめにおとなしく待っていたyukariさんは、聴力の検査は終わったが、診察の順番がまだだった。あとから来た僕のほうが、ひとこと文句を言った分、早く終わってしまったわけで、これはずいぶん心苦しかった。おとなしい人が損をする世の中というのは、基本的に良くないと僕も思うから。
「何でも言わんとあきませんね~」
yukariさんの言葉に、ますます恐縮してしまう僕であった。
すみません。厚かましい姿を見せてしまって…。

やがてyukariさんが診察に呼ばれて行くと、今度はyukariさんのお母さんと話し込んだ。話に夢中になってしまい、時間の経つのを忘れてしまった。

ふと、目の前の受付窓口を見ると、先ほどの女性事務員と目が合った。
彼女はじぃっと僕のほうを睨むように見つめていた。
その鋭い視線が、痛いほどに僕の心臓を射抜いた。

ううううぅぅ…。

女性事務員の目は、まぎれもなく、こう語っていた。

「あなた、まだここにいるのですか? 急いでいるのではなかったのですか?あたしがどれだけ苦労して早くお薬を出せるようにしたかわかっているの?」

僕はうなだれて、「yukariさんによろしく」と言ってお母さんと別れた。
もう少し、話をしていたかったのだけどな~。

  …………………………………………………………………………

1階ロビーで妻と落ち合ったのは午前11時ごろだっただろうか。
この日は休暇を取っていたので、このあと、京都府の亀岡市に行くことにしていた。11月に仕事で、僕が勤務する市の周辺都市の関係者たち10名近くで亀岡市役所へ研修に行くことになっていた。今年は僕が幹事に当たっており、皆を「引率」する立場なので、きょう、妻と遊びがてら、その下見に行くことにしていたのだ。

京都で食事をした後、山陰線で30分、鈍行列車に揺られて亀岡市に着いた。
駅から約15分かけて市役所まで歩き、また駅まで歩いて戻った。暑かった。
当日昼食をとる場所や、タクシー乗り場もチェックしておいた。

ところで、亀岡~嵯峨嵐山間には、有名な「トロッコ列車」が走っている。
まだ乗ったことがないが、以前から興味はあった。
せっかくここまで来たのだから、帰りはそれに乗って帰ろう…

我ながらうっとりするほど素晴らしい思いつきであった。
妻も大いに喜んだ。

しかし…。鉄道の窓口で問い合わすと、出てきた女性が、
「本日はトロッコは走っておりません。運休です」と、ひとこと。

が~~~~~~~~~~~~~~~ん。

「今日は水曜日で、運休なのです」

と、窓口の女性はきっぱりと言った。

その女性の顔を見て、僕はハッとした。
彼女は、午前中の大手○病院の受付窓口の女性とそっくりであった。

 

 


 

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コルセットよ今日は

2008年10月16日 | 心と体と健康と

ひと月ほど前から左手にしびれを感じていた。

手だけでなく、手足全体が軽くしびれる感じがするのだが、特に左手の親指から人差し指にかけてピリピリする。このところ耳鳴りや不整脈で医者にかかってばかりで、これ以上新しい診察券を増やすのも気が進まないので、手がしびれる程度ならまあいいか…と我慢していたけれど、しびれは止まらない。さらに半年以上悩まされ続けている腰痛も相変わらずで、これもそのうち検査を受けようと思っていた。加えて、今年1月に受けた人間ドックで、医師から、首の骨がちょっと歪んでいますね~との忠告も受けていた。首や腰の症状が、手のしびれに関係しているかもしれない。そう思うと、ちょっと薄気味悪くなってきたので、仕事も一段落した先週の火曜日(7日)、駅前にある西○整形外科というところへ行ってみたのである。

初めて行った医院なので、手渡された問診票に症状を書きつけた。

▽腰が痛い。特に椅子から立ち上がったとき、腰を伸ばすと痛みを感じる。
▽首がギスギスする。人間ドックで、首が片方に歪んでいる、と言われた。
▽手足、特に左手の親指・人差し指部分がピリピリしびれる。

そう書いたあと、現在治療中の病気と服用している薬の名前も列記した。

しばらくして、診察室に呼ばれた。僕がひととおりの症状を語ると、50年配の親切そうな医師がパソコンに入力したあと、僕に、顔を天井に向けて30秒間じっとして…と言った。言われるままにしたら、左手がジワ~ンとしびれてきた。椅子に座ったまま顔をあお向けにして頚椎を圧迫すると、右手親指と人差し指がしびれがくる、という因果関係があるみたいだった。

次に握力検査をした。両手に力が入るかどうかの検査だ。
僕はもともと握力は強くないが、まあ、ほどほどには握れた。
「手の力が抜けてお茶碗を落としたようなことはありませんか?」
「…それは、ありませんねぇ」
手足のしびれの原因のひとつに、脳卒中が疑われることもあるそうだ。

次に細い金具の先っぽで、両足の甲と足首当たりをトントンと軽く叩く。
両手も、甲と指、手首などをトントンと叩く。
「どこか、特に痛いところはありませんか?」と叩きながら、医師。
「はぁ、特にはありませんけど…」と僕。

では…と、レントゲン室に案内された。

首の写真を何枚か撮り、腰の写真も撮ってもらった。
レントゲンは、正面、側面、斜めなど、何通りかの格好で撮影する。

また診察室に戻り、今撮影した首や腰のフィルムを見せてもらいながら、説明を受けた。やはり首の部分の頸椎が変形している、ということだ。
具体的には、椎間板が狭くなり、骨の出っ張りもある…みたいな話だ。
「つまり、変形性頸椎症というやつですね」と西○医師。

腰のほうも椎間板が変形し、弾力性が失われ、クッション作用が弱くなっているということで、これもやはり変形性ナントカということになるそうだ。しかし、医師は「重症ではありませんから」と言ってくれたので安心した。要するにトシのせいなんだろうね。医師は、はっきりとは言わないけれど…。それと、以前マラソンをしていたことも影響しているのかもしれない。

「予防には腹筋をつけるのが一番ですから」と医師は僕をベッドに寝かせて、腹筋運動のやり方を教えてくれた。仰向けに寝てヒザを立て、手を頭の後ろに回してグッと頭を上げ、おへそを見るようにして腹筋に力を入れ、10秒間静止する。頭を下げて休憩して、また頭を持ち上げて10秒間やる。それを10回繰り返してしてワンセット。朝晩2セットをするのが効果的だという。

診察が終わった後、「リハビリを行いますから」と隣の部屋に入る。
ジャージにエプロン姿のおばさんたちがいろんな器具の間を忙しそうに立ち回っている。お年寄が神妙に機械の前に座って電気治療を受けていたり、ベッドに横たわって何だかの治療を受けていたりしている。僕は「頸部の牽引」と「腰伸ばし」と「ウオーターベッド」の3つのリハビリを受けることになった。どれもこれも、生まれてはじめての経験である。腰掛けて首を引っ張ったり、寝転んで腰を引っ張ったりするのである。首と腰はそれぞれ8分間。ウオーターベッドはもう少し長くて、10分間だ。

そのウオーターベッドというのにはびっくりした。
ベッドに仰向けに寝ると、いきなりベッドの中からニョキニョキと何本かの「手」が出てきて、僕の身体の裏を撫で回し始めたのである。ちょうど手を軽くグーに握った感じのものがベッドから突き上げるよう出てきてプルプルプルッと動くのだ。思わず「ぎゃぁっ」と叫びかけたが、なんとか声を出さずに済んだ。なんやねん、これは。

ベッドの下からふくらはぎやお尻をなで回す。もちろん人の手ではなかったが、うっかりすると間違いそうだ。ほんと~に人の手のようなのである。
不意に僕は、江戸川乱歩の短編小説「人間椅子」を思い出してしまった。

「手」は、ふくらはぎからお尻、そして次にプルプルプルプルと左の腰を撫でたり叩いたりしたかと思うと、次は右の腰に移る。その動きは次第に背中に上がってきて、背中をさすったり軽く叩いたりしながら、肩まで来る。そして肩を揉んだり叩いたりしてくれる。まったく生身の人間にマッサージをしてもらっているのと同じ感触である。全てが水の力の作用だそうである。これをフーゾクで使ったら人件費が安くつくかもしれないなぁ…な~んてつまらないことを考えながら、プルプルクネクネトントンされているうちに、だんだんそれに慣れてきて、気持ちがよ~くなり、目を閉じてウトウトしかけてしまった。

長い診察とリハビリが終わり、最後に看護師さんからコルセットを渡された。これを巻いて腰を安定させるのだそうだ。「この位置で、こういう具合に締めつけて…」と看護師さんがコルセットをつけてくれた。
こんなのをつけるというのも、生まれて初めての経験である。
お腹が締められ、窮屈で暑いけれど、腰はたしかに安定する。

「ずっとつけている必要はありませんからね。お仕事中でも、昼休みにリラックスするときは、取ったりしてかまわないのですよ」そう説明された。

そんなことで、先週からコルセットをつけている。
秋風が吹く季節でよかった。真夏なら暑くてたまらない。
しかし、ずっとつけているわけではなく、そのへんは適当にしている。
つけっぱなしだと、お腹のベルトが苦しいからね。

今は2、3日に一度そのお医者へ行き、リハビリで首を吊り、腰を伸ばし、ウオーターベッドでクネクネ気分を味わっている。こんなことで腰痛や手のしびれがよくなるのかどうかわからないけど、まあモノはためしである。

これで耳鳴りと不整脈に加え、変形頸椎・腰椎症の三冠に輝いた僕である。
それ以前からの糖尿病と高尿酸値(痛風)の持病を入れると、五冠だ。

こうなったらもう…自慢するしかないのである

 

 

 

 

 

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御堂筋 k a p p o

2008年10月14日 | モミィの成長日記

大阪の秋の風物詩だった「御堂筋パレード」が、今年からなくなった。橋下知事が財政上の理由から見直しを求め、パレードから歩行者天国に衣替えしたものである。その名も「御堂筋 kappo」。10月12日の12時から、その第一回が開催されたのである。僕と妻は、広告で「ジュニア・キッズエリア」というのがあるのを知ったので、モミィを連れて曇りがちの大阪市内へ出た。


これは、3年前の10月9日に撮影した御堂筋パレードです。

           ↓

  

      足並みの美しい日本のチアリーダーの行進



 

   妖精たちの舞のような韓国女性たちの踊り



御堂筋パレードは淀屋橋から難波までの3.5キロを、世界のあらゆる国々、あらゆる団体が参加して華やかに繰り広げられていた。

今回の「御堂筋kappo」は事業費が約7千万円で、パレードの3分の1の経費に抑えたという。

さて梅田から難波方面から歩き始めると、梅田新道から歩行者天国が始まる。
家族連れなどで大変な賑わいである。沿道は「なにわ自慢エリア」からはじまり、浴衣姿のおばさんたちが踊っていたり、特設トラックが用意され、○時○分から、朝原選手が走ります、と宣伝をしたりしている。とにかく大勢の人なので、モミィがちょっと引き気味である。


 

  モミィは人の数に圧倒され、思わず頭を抱える(?)


ジュニア・キッズエリアでは、コマ回しのお兄さんや、幼児たちのお遊戯みたいなものが行われていて大勢の人たちが輪を作っている。輪投げやその他の夜店の遊びのようなものもやっていて、子どもたちが順番を待っている。モミィはまだ小さすぎてそういうことができないから、ただ見ているだけある。


淀屋橋の方へ歩くと道幅も広がり、ようやく大混雑から逃れられた。
この写真は、淀屋橋から梅田方向を向いて撮った写真である。

             ↓  

 

 

お化けの縫いぐるみを着た人たちの前では足をすくませるモミィ。
いっしょに写真を撮れば? と勧めても、腰を引くばかりである。
「こわ~い」とひと言つぶやき、妻の身体にすがりつく。

大江橋を過ぎて淀屋橋に行くと人数も適度にバラけ、歩きやすい。
あまりの喧騒に圧倒されたか、モミィは黙々と歩くだけ。
時々、「遊びたい」を連発する。
何で遊ぶの? と聞いても、「遊びた~い」と言うだけ。
やはり、イベントを眺めて歩くだけでは、子どもには頼りないのかも。
自分で何かしなければ、退屈してしまうのだろうね。
「早くおうちに帰って遊びたい…」という雰囲気を漂わせていた。

地下鉄東梅田で降りてから、大阪駅近くで食事をした後、ずっとここまで歩いてきたのだから疲れたのだろう。まあ、ついこの間まで「抱っこ・抱っこ」を連呼していたことを考えると、よく歩くようになったのは大きな成長だ。

 


淀屋橋で最後の写真を撮って、地下鉄に乗り、帰途に着いた。

モミィ以上に、久しぶりに梅田に出てきた大人のほうが楽しんだ半日だった。

…でもやはり、御堂筋パレードがなくなったのは、寂しいなぁ。

 

 

 

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巨人優勝 しかし C S ってのがある

2008年10月12日 | スポーツの話題

あまり大きな声で言いたくはないが、僕は巨人ファンである。大阪に住んでいながら巨人ファンとは何なのだと言われそうだが、子どもの頃からずっと巨人を応援し続けてきた習性が身体に染みついているから、仕方がないところだ。
20歳の自転車旅行中に、憧れの東京・後楽園球場へ行き、長嶋や王を目の前で見たときの感激は、未だに忘れられない(まあ、それにしても王さんが今期限りでユニフォームを脱ぐというニュースは、ほんとに寂しい)。

その巨人。
まさかの大逆転でペナントレースを制した。あっと驚く展開であった。
13ゲーム差から逆転したのは、セ・リーグでは史上初だという。

その歴史的逆転負けを喫したのが阪神だから、大阪中が怒り狂っている。
「ほんまにもう、腹立ってしゃーない」と、熱烈な阪神ファンが悔し涙を流す様子が、テレビなどで何度も報道されていた。

しかし、昨日の土曜日、昼にイズミヤ、夜にジャスコへ行ったら、いずれも館内に阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」が威勢よく鳴り響いていた。その雰囲気はまるで阪神が優勝したかのようである。いったい何で…と思ったら、レジのそばに「2008年のセ・リーグのペナントレース優勝決定翌日から、阪神熱烈応援バーゲンセールを行います」というポスターが貼ってあった。「阪神優勝決定翌日から…」のはずのところが、「ペナントレース優勝決定の翌日から…」に変更されたところがミソである。お店も拍子抜けだろう。

本来「阪神優勝大バーゲンセール」を大々的にぶちあげるはずだったのが、優勝を逃してしまったので急きょ「熱烈応援セール」に変更された。いずれにしてもセールが始まったので、館内に「六甲おろし」をジャンジャン流しているのだろうけれど、何かむなしい空騒ぎのような気がしてならない。

しかし、今はCS(クライマックスシリーズ)というものがあるので、阪神ファンにはウサを晴らす余地が残されている。それに勝てば日本シリーズに出場でき、日本一のタイトルも夢ではないのだ。逆に言えば、巨人はペナントレースで優勝したからといってそのまま日本シリーズに出られるものでもなく、2位阪神と3位中日の勝者と戦って、勝たなければならない。

このCSという制度には疑義がある。去年もペナントの覇者・巨人が、この制度のせいで日本シリーズに出られなかった。なんだか気の抜けるようなシステムではないか。半年以上の長期間、死力を尽くして戦い抜き、優勝したチームが、改めて2位・3位の勝者と短期決戦を行い、負けたらハイそれまで、というのはどうも腑に落ちない。今期セ・リーグで言えば、最後の最後まで死闘を演じた巨人と阪神が疲れ果ててしまい、逆に力を温存していた3位の中日が張り切って勝ち上がり、日本シリーズに出場する…ということだって考えられるのである。そうなると、140数試合戦ってきたペナントレースはいったいナンだったんだ、と思ってしまうのである。

とは言っても、優勝を逃したチームにもチャンスが与えられるCSは、それはそれでプロ野球を盛り上げる大きな要素であろう。要するに、自分が応援している球団がペナントレースで優勝したら、「CSみたいなん、いらんがな」と思うし、2位か3位に終わったら、「CSがあるから、よかったぁ」となる。
まことに単純なファン心理であり、僕の場合は、ひいきの巨人が優勝したので、今年は「CSは廃止せい」と叫ぶのである。来年、巨人が2位か3位だと、「CSというのは、ほんまにええ制度やなあ」と持ち上げるに違いない。

さて一方、パ・リーグでは昨日すでにCSが始まっていた。
日ハム対オリックスの初戦。試合はダルビッシュの好投で日ハムが先勝した。
こうなってくると、僕らの家の近所の出身であるダルビッシュの雄姿を日本シリーズでも見たい、と思う。オリックスに勝って、その勢いで西武を蹴散らして、日本シリーズへひた走る姿が目に浮かぶ。

ダルビッシュ対巨人打線。見たい、見たい、ぜひ見たい。

その日ハム対オリックスの試合を見ながらある種の感慨が胸をよぎった。
…よ~く考えたら日ハムの監督は梨田でオリックスの監督は大石だ(考えんでもわかるがな)。2人とも元近鉄バファローズの人気選手だったんだよね。

近鉄バファローズは、かつて藤井寺球場を本拠地としていた。僕らの家から自転車で5分ほどで球場へ行けた。球場は僕たち藤井寺市民のシンボルであり、近鉄バファローズは地域の子どもたちの憧れの球団でもあった。うちの息子たちも、巨人一辺倒の父親の感化を受けることもなく、真面目で熱心な近鉄ファンであった。家族揃って自転車に乗って球場へよく試合を見に行ったものだ。

しかし…
近鉄球団は消滅し、駅前の藤井寺球場跡は、今は某大学の敷地となっている。

梨田と大石。
2人とも、現役の頃はハンサムで、女性ファンにモテモテだった。
その2人が監督として「CS」で直接対決を展開しているのを見ると、何となく、失われたものがまた戻ってきたような気がするから不思議だ。

だからCSの制度は、やっぱりええなぁ…ということになるのか?

今期は、パ・リーグだけCS制度を採用し、セ・リーグにはしない…!
ひとつ、そういうことにしてもろたら、どうですやろか…?

ダルビッシュ対巨人打線の対決を、ぜひぜひ見たいのである。


*お知らせです

いつもこのブログにコメントを寄せていただいているアナザービートルさんが、このたびブログを開設されました。つい今しがた、しっとりと詩情に満ちた第一回目の記事を読ませてもらい、さすがだなぁ、と感心しました。みなさんもぜひアナザービートルさんの新ブログをご訪問ください。

          ↓

  http://blog.goo.ne.jp/gggggggo/

 

 

 

 

 

 

 

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ノーベル賞と言えば…

2008年10月10日 | ニュース・時事

ブログの模様替えをしたばかりですが、新しいテンプレートはなんとなくしっくり来ないので、この形に変えました。やっぱりシンプルなのが合ってます。

さて…
日本人が一度に4人もノーベル賞を受賞したというのは、何か「ノーベル賞大バーゲン・ポイント10倍!」…のような不思議な気がするけれども、ともあれ久しぶりに明るい話題で賑わったわがニッポン国である。

それにしても、あのノーベル化学賞を受賞した下村さんって、北朝鮮拉致事件の曽我ひとみさんと結婚したジェンキンスさんというアメリカ人そっくりだったのに驚いた。何度見ても似ている。瓜二つである。

ノーベル賞も先端技術の開発には大いに貢献しているのだろうけど、yukariさんが言われるように、耳鳴りみたいな、身近なものの解明にも光を当てて欲しいなぁ、ほんとうに…。


ところで、ノーベル賞と言えば、僕らの世代では誰もが湯川秀樹を思い浮かべる。「理論物理学」だの「素粒子論」だのという言葉も、それとセットで覚えているのだけれど、それが何のことなのか、よくわからない。わかっているのは、日本で最初にノーベル賞を受賞した人が湯川秀樹だということだけだ。そして、受賞した年が昭和24年で、僕が生まれた年だった。それだけの縁なんだけれども、僕は若い頃から、湯川秀樹には、何となく親しみを感じていた。

湯川秀樹は4人兄弟で、いずれも著名な学者である。
長兄が小川芳樹という金属工学者で、次兄が東洋史の貝塚茂樹。この貝塚茂樹は、僕が学生時代に夢中で読んだ仏文学者の桑原武夫(…桑原和夫ではありません)と親交があり、その著書の中に名前が頻繁に出てきたので、自然に覚えてしまった。兄弟の3番目が湯川秀樹で、その下に小川環樹という中国文学者の弟がいた。2人が養子に行っているので苗字は違うが、4人とも実の兄弟である。重ねて言うが、みんな超一流の学者である。

僕は若い頃からこの4兄弟の家庭に憧れていた。
一つの家から、揃いも揃ってこれほどの秀才たちが出ることに驚いた。
いったい家庭ではどんな教育がされたのであろうか…。
4人の父親は、小川琢治という高名な地質学者であったという。
やっぱり、父親が学者だと、子供たちも学者になるのだろうなぁ…。
こういう家庭に、ぜひあやかりたいものである。
どうしたら、あやかれるだろうか…?

僕は湯川4兄弟の名前に着目した。芳樹、茂樹、秀樹、環樹…。
4人とも下に「樹」という字がついている。
「よ~し、これだ!」と思った。

自分に男の子ができたら「樹」のつく名前をつけよう、と心に決めた。
これで、僕の子供たちも、ノーベル賞を取るに違いない。むははは。

そんなことで…
最初に生まれた男の子にはズバリ「ヒデキ」という名をつけた。
湯川秀樹にあやかりたい…という思いをそのまま託した名前だ。
次に生まれた男の子には「ナオキ」と名づけた。

その次に生まれて来る子供には「ヒロキ」とか「シゲキ」とかをつけようと考えていたけれど、結局子供は2人で終わってしまった。だからうちの子は、ヒデキとナオキである。当時、西城ヒデキや本郷ナオキという人気歌手がいて、友人たちから「ヒデキやナオキはそれから取ったの?」な~んて冷やかされたものだが、むろん歌手ではなく、湯川4兄弟からヒントを得た名前である。

その子供たちも、今では30代の半ばにさしかかっている。
長男のヒデキは、モミィやソラのパパである。
次男のナオキは、住宅営業マンとして
ブログなども書いている。
ちなみに、彼のハンドルネームは「ヒロキ」である。

それなりの人生を歩んでいる2人ではあるが、しかし…
2人ともノーベル賞への道は遠い。

親の心、子知らず。
しかしまあ…親の心を知ったところで、どないもでけへんわなぁ。
相手がノーベル賞では…。

 

 

 

 

 

 

 


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大手前病院へ

2008年10月09日 | 心と体と健康と

日本人が4人もノーベル賞に輝き、巨人が阪神を破ってとうとう単独首位に躍り出た日…。
僕は2ヶ月ぶりに大手前病院へ行った。


9時半から30分間、技師さんと話す。
「その後、いかがですか…?」と技師さん。
「徐々に慣れてきたようです」と僕。
実際この1ヶ月でTCI(耳鳴り緩和器具)を自宅に置き忘れたまま仕事に行ったことが数回ある。TCIがなければ過ごせなかったかつての日々を思うと、「忘れた」ということは一歩前進なんだろうなぁ、と思う。
それも、かなり大きな一歩。


職場で「あれ…? 今日は耳に何も着けてはりませんな」と言われて初めて、あ、そうか、と気がついたこともあった。そんな時は、それまで耳鳴りを忘れていたのに、言われたとたんに「ジー~~ジー~~」と耳の底からジワーっと音が湧き出てくる感じになる。「いらんこと言うからまた耳鳴りが大きぃなったがな!」と僕は相手に文句を言ったりする。まあ、やはり耳鳴りの音というものは、意識の持ち方によって大きく変わるということを実感せずにはいられない。


耳鳴りが発症して1年以上経ったけれど、一番怖れていたことは、この音がどんどん大きくなっていったらどうなるか…? ということであった。そうなると、たぶん、気が狂ってしまう。


しかし音そのものは、1年前とほとんど変わらない。
寝る前、耳を澄ますと、壁の時計の「コッチコッチ」というごく小さな音が、耳鳴りの上から聞こえる。その都度、「大丈夫、耳鳴りは大きくなっていない」と安心する。


技師さんも、「音自体は変わりません」と言っている。


この2ヶ月の間で、ようやくそういうことを身をもって納得できるようになったように思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

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アナザービートルさんからの手紙

2008年10月07日 | 日常のいろいろなこと

昨晩、久しぶりに「のん日記」の編集画面を開けてみた。

週間アクセス数を見て、毎日かなりの数の方々が閲覧に訪れてくださっていることを知った。休刊から20日余り経ったのに、まだこれだけの数のアクセスがあるということに身の縮まる思いがした。

体調不良のことや今後の進むべき道に、あれやこれやと思い巡らせた数週間だった。もともと無い智恵を無理に絞るんだから、ロクな考えも浮かばないのだが、つい最近、自分を悩ませてきたさまざまな問題に一定の決断を下すことができた。これでずいぶんすっきりした。加えて昨日、1ヶ月間に及んだ議会も終わり、仕事が一段落したこともあって、またこの「のん日記」に戻ってきたのである。

この際テンプレートも変え、タイトルも変えてみた。

このテンプレートは、ちょっと可愛い過ぎましたか…?

実を言えば「のん日記」はあれで閉鎖するつもりだった。
しかし、ブログを休刊してから数日後に、それまでずっとコメントを寄せてくれていた友人のアナザービートルさんから、一通の手紙が届いた。

「毎日楽しみにしていたのにとても残念。yukariさんも淋しい思いをされているでしょう。のんさんがブログを再開するまでの間、自分がブログを開きます」
という内容であった。
そして、「自分のブログは、のんさんがブログ復帰されたら、やめます」と書かれていた。

えぇっ…? なんやて…? ちょっと待って。

僕はあわてて、手紙の末尾に書かれていたアナザービートルさんの携帯アドレスにメールを入れた。

「アナザービートルさんのブログ開設、楽しみです。でも僕のブログの再開までという期間限定は淋しいです。僕がブログを再開してもお互い一緒にやっていきましょうよ」
そう書いた。「頭に入れておきます」と、アナザービートルさんから返信メールがあった。

そんなことで、アナザービートルさんは近々ブログを開設されるはずである。「更新は週1回くらいになるかと思いますが」とのことだけれども、開設の折は連絡をいただくことになっている。この「のん日記」をお読みいただいている方々にも、ぜひそのブログをご紹介したいと思う。

でもそのブログが始まる前に、いきなり僕がここに戻ってきたので、アナザービートルさんは戸惑っておられるかもしれない。
すみませんねぇ。ややこしいことをしまして…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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