僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

大阪国際女子マラソンは長居の周回コースで

2021年01月31日 | ランニング

きょう、大阪国際女子マラソンが開催され、僕もテレビ中継を見ました。しかし、コロナ禍のため、コースはいつものように大阪市内をめぐるコースではなく、長居公園の中の周回コースで行われ、観客はゼロというレースでした。

国内の主要なマラソン大会でこれほど短い周回コースでのレースは初めてということでしたが、実はこの長居公園の周回コースというのは、僕のマラソン人生には欠かすことのできない重要な場所だったのです。

僕は30代から50代まで、マラソンが趣味というよりも、生き甲斐の一つにもなっていました。フルマラソンは海外(ニューヨーク)を含め20数回走り、100キロのウルトラマラソンもサロマ湖、四万十川、赤穂の3つの大会に出ました。勤務先の松原市役所ではランナーズというクラブを作り、多くの走る仲間と一緒にレースに参加したり、駅伝チームを作っていろんな大会に出たりして交流を深めました。

そんな仲間たちと、毎週土曜日になれば、必ずと言っていいほど午後から長居公園へ行き、周回コースでランニングをしました。そして、毎年3月にはここでフルマラソン大会が開催されるので、僕も何度もこの大会に出場したのです。

そして、まあ、僕は平凡な市民ランナーでしたから、タイム的には大したことはないのですが、自己最高タイムである3時間27分54秒を出したのも、この長居の周回コースで行われたマラソン大会でした。

そんな思い出深い長居公園の周回コースは、1周が2・8キロ。ですから、15周すればフルマラソンの距離になるわけですよね。当時の自分の「マラソン日記」を読み返すと、「明日は長居で10周をめざす!」などと書いています。長居公園は僕にとって最も心身が躍動する居場所だったのです。と同時に憩いの場でもありました。公園の中なのでトイレもあるし、水飲み場もあるし、売店もある。目の前で多くの人も走っている。なので気持ちよく走れ、心もゆったりと落ち着くんですよね。



 何年か前に長居公園へ行った時に撮った写真です。
 周回コースでランニングをしている人が沢山います


 
 長居公園周回コースでのレース(40歳前後の頃)。
 左にチラッと見えるのが長居スタジアム。
 ゼッケン202番を付けているのが僕です。


というわけで
きょう、初めてその周回コースで大阪国際女子マラソンが行われたわけですが、「国際」と言っても、いつものように外国人選手が出ているわけでもなく、レースは、東京五輪マラソン代表に内定している一山麻緒さんと前田穂南さんの一騎打ちというのがもっぱらの見どころでした。

そしてレースはスタートし、予想どおり2人の選手が飛び出しましたが、テレビ中継では、解説の増田明美を中心に、五輪のメダリストの高橋、野口、有森をはじめ、千葉や渋井など、昔の女子マラソン選手がワイワイと出てきて、レースそっちのけで自分たちの話をぺちゃくちゃとしゃべるので、そちらのほうがうるさくて困りましたわ(苦笑)。

結局、一山さんが優勝しましたが、期待されていた2時間20分を切って日本記録更新、ということにはならず、残念でした。

このコースならフラットで走りやすいし、今日は風もなく穏やかな天候だったし、さらに元「公務員ランナー」として知られる川内ら3人の男性のペースメーカーもついて、これ以上ないほどのお膳立てでしたが、ダメでした。やはり記録というのはそう簡単には出ませんね。

それにしても、長居の周回コースでのフルマラソンは、テレビで見ているとあまり面白くありません。マラソンというのは「旅」のような側面もあるけれど、今回は沿道や街の様子、たとえば大阪城や御堂筋なども出て来ず、ただ周回コースをぐるぐる15周回るだけ。テレビ中継でも「1キロ3分何秒です!」とか「1周何分何秒です!」とか叫ぶだけで、マラソン大会というより、単なる「記録会」のような雰囲気でした。

僕自身は何度も走ったことのあるコースなのでその点では興味深く見ましたが、そうでない人たちには、テレビを見ていても、例年のレースよりも面白くなかったのではないかと思うんすけどね。このコースは、自分が走るにはいいんですけど、「国際マラソン」の舞台としてはねぇ。まぁ、とは言え、これもコロナ禍の状況下だから止むを得ませんけれど。でも、せめて実況中継だけはもう少しマジメにやってほしかったな。

 

 

 

 

 

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飲みたい人とも飲めないつらさ コロナが憎い

2021年01月29日 | 日常のいろいろなこと

毎日毎日、コロナコロナで大変です。

連日、コロナのニュースが流れる中、今回はイギリスの変異ウィルスが日本にも入ってきたとのこと。これまでのコロナ以上に伝染力は強いし死亡率は高いそうです。まったくロクな話がありゃしない。

そして「今まで以上に人と人との接触は絶つこと」ということが厳しく言われている状況です。なのに国会議員や地方自治体の偉いさんたちは、大勢でパーティをしたりナイトクラブへ行ったりと。何をしてるねん。ええ加減にしいや。

これから春になり、夏になっても、緊急事態宣言を出したり引っ込めたり、またGO・TOキャンペーンなんかを出したり引っ込めたりしていると、感染者が減ったと思ったら増え、増えたと思ったら減り、また減ったと思ったら増えということばかり繰り返す。こんなことじゃ、今年どころか来年にまでもこんな状態がず~っと続くんじゃないかと心配します。

お酒好きの僕も、もう1年以上、仲間との飲み会はしていません。久しぶりに会って飲んで話をしたい人は、あの人もこの人もと沢山います。でも誘えない。「コロナが終わったらまた飲みましょう」というメールを送るぐらいしかありません。ホントにねぇ。いつまでこんなことが(グチばかり)

また、わが家ではモミィの高校入試が目前に迫っています。私立高校の志望校が決まり、願書も出してあとは試験を受けるだけ。その試験日が2月10日。もうあと12日しかありません。ぜひ、無事に試験が実施されるよう、祈るばかりです。

う~ん。こんなことを書いているうちに、会って、お酒を交わしながら話したい人たちの顏がいっぱい浮かんできます。その人たちとは少なくとも1年以上は会っていないので、積もる話は山ほどあります。みんなと、ウダウダとしゃべりながら、グビグビと飲みたい。飲みた~い。

いつになったら、そんな日がやってくるのでしょうか? 

 

 

 

 

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タイトルは大事です ~ 「赤毛のアン」 の続き~

2021年01月26日 | 読書

今日からNHK連続ドラマのアンコール放送「花子とアン」が始まりました。オープニングのキャスト・スタッフを表示したクレジットを見たら、原作は「アンのゆりかご・村岡花子の生涯」とありました。やっぱりねぇ。前回のブログで書いた、僕が読み終えたばかりのあの本が、原作だったのですね。

ところで、村岡花子が「赤毛のアン」を翻訳刊行した時、そのタイトルについての興味深い話があります。

この本の原題は「アン・オブ・グリーン・ゲイブルス」でした。それをどういう題名にするかということで、花子はいろいろ考えました。この小説の原題をそのまま日本語にすると「緑の切妻屋根のアン」ということになりますが、日本人にはなじまない。「切妻屋根」なんてね、なんのこっちゃ、ということになりますから。で、どんなタイトルにするか?

花子は「夢見る少女」か、「窓辺の少女」か、「窓辺に倚(よ)る少女」のどれかをタイトルにしたいと思い、いろいろと悩まれたようです。そして出版関係者とも相談したうえで「窓辺に倚(よ)る少女」にすることに決めた。すると、いったんそう決めたのに、出版社で懇意にしていた男性から「赤毛のアン」にすればどうか、と再提案してきたのです。

「赤毛のアン?」
花子は気に入らなかった。あまりに直接的でロマンチックではない。「絶対イヤです」と断った。しかしその話を聞いた花子の娘のみどり(当時20歳)が、
「絶対にそのほうがいいわ。『窓辺に倚(よ)る少女』なんてのより、若い人ならダンゼン『赤毛のアン』のほうがいいに決まってる!」
そう言われて花子は、若い人の感覚ではそうかも知れない、と思い、明日から印刷に回るのであわてて出版社の社長に電話をして、「赤毛のアン」にしてもらうように伝えた、ということです。「アンのゆりかご」にそう書かれています。

僕らから見ても「窓辺に倚(よ)る少女」とか「夢見る少女」という小説だったら、どこにでもありそうなタイトルなので覚えられない。その点「赤毛のアン」なら覚えやすいし、読んでみたくもなりそうです。

結局「赤毛のアン」は、このタイトルがあったからこそ日本で多くの読者を得て、今の時代になっても、モミィのように「赤毛のアン」を読み、「赤毛のアンと花子」という本も買って読むほど、若い世代の間で人気が持続しているんでしょうね。

やはり、タイトルというのは大事です。

映画でも小説でも、タイトル次第で人気がグーンと上がったりしますから。

ということで

このブログも、最初にタイトルを決める時、何かをもじったタイトルでいこうと思い、いろいろ考えました。以前にも書きましたが、古典文学をもじって、「平気物語」とか「いざ酔い日記」とか「ドサ日記」とか「枕のそうじ」とか「伊豆のココリコ」とかね。えへへ。

結局、芭蕉の「おくのほそ道」をもじって「僕のほそ道」にしましたけど。

次は「赤毛のアン」をもじって、最近抜け毛が多くなったので「抜け毛のノン」にでもしますか(笑)。

いや、ど~も。
相変わらず、まとまりのない文ですみません。

やっぱり、タイトルより中身が大事やで~
という声が、どこからか聞こえてきそうです。

 

 

 

 

 

 

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村岡花子と 「赤毛のアン」

2021年01月24日 | 読書

先月末のブログにTVドラマ「危険なビーナス」のことを書いたのですが、そこに出演していた吉高由里子さんがよかったなぁ、とも書きました。で、その吉高さんが、7年前のNHK朝ドラ「花子とアン」に出演していたということも、ネットで知りました。

「花子とアン」は「赤毛のアン」を翻訳した村岡花子さんをモデルにしたドラマですよね。僕は見ていませんけど、そういうドラマがあったことは知っていました。吉高由里子さんはそこに花子役で主演していたんですね~。

NHKの朝ドラを見たのは3年ほど前の「わろてんか」が初めてで、それまでは何も見ていません。だから「花子とアン」も見ていない。う~ん残念。見たかったなぁ、と思いながらネットを巡っていると、何という偶然か、1月から再放送が始まる、ということが出ていたのでビックリしました。

そしてそれ以来楽しみにしていたのが、いよいよ明後日の26日(火)からその放送が始まります。NHK総合テレビで、平日の午後4時20分から50分まで、1日2本放映されます(ただし大相撲や国会中継などがある時は休止)。

これはもう、絶対に見なければ。

 ……………………………………………………………………………………

「赤毛のアン」は、高校の時に夢中になって読んだ懐かしい小説です。

話はいつものように(笑)昔にさかのぼりますが、高校へ入学した時、「これからは本を読むぞ~」と、なぜかわからないけど、そう心に決めました(それまでは漫画ばっかりですわ)。そして高校生活3年間で沢山の本を読んだのですが、当初の1~2年はもっぱら海外文学に集中していました。

一年生だった1964年(東京五輪のあった年)の、当時の自分の読書ノートが今も残っているのですが、それを見たら、コナン・ドイルの「シャーロックホームズの帰還」とか、スタインベックの「赤い子馬」、デフォーの「ロビンソン漂流記」などの感想文が書かれていて、そのあとモンゴメリの「赤毛のアン」「アンの青春」「アンの愛情」と、アンのシリーズが並んでいます。1作目のアンがあまりにも素晴らしかったので、続編を買って楽しく読み続けたんですよね。それ以来、その本はずっと心に刻み付けられていました。アンと最後に結ばれる「ギルバート」という男友達の名前も、いまだに忘れられません(今では昨日見たドラマの主人公の名前も忘れます )。

そんな思い出深い「赤毛のアン」ですが、それ以降は読むこともなく、あくまでも過去の懐かしい思い出だったのですが

先日のこと。

図書館へ行って文庫本のコーナーを眺めていたら「アンのゆりかご」という本が目につきました。著者は村岡恵理という人。村岡花子さんの子供か、孫か? と思い、本を手に取って表紙裏の著者紹介欄を見ると、花子さんの孫に当たる人でした。で、この本を借りることにしました。

「アンのゆりかご」は400ページにもなる文庫本でしたが、これを読みながら、「赤毛のアン」を翻訳した村岡花子さんがどれほど波乱に満ちた人生を送ってこられたのかが、手に取るようにわかりました。

花子さんは1893年(明治24年)生まれで、10歳のとき父に連れられ、カナダ人宣教師によって創立された東京のミッションスクールへ行き、そこの寄宿舎に入って英語の勉強を始めます。その後、紆余曲折を経ながらも英語を勉強し、成人して子どもたちに英語を教える立場となり、また翻訳を始めたりしながら、人生を力強く歩んでいきます。

そして歳月は流れ、1939年(昭和14年)、つまり僕が生まれる10年前ですが、花子さんが46歳のとき。当時、キリスト教関係の本を出版している会社で同僚だったカナダ人婦人宣教師のミス・ショーという人が、日本が戦争に突入したことで居られなくなり、カナダへ帰国することになりました。ミス・ショーが帰る日、見送りに来た花子さんに「私たちの友情の記念に」と、1冊の本を渡します。
「いつかまた、きっと平和が訪れます。その時、この本をあなたの手で、日本の少女たちに紹介してください」
そうして受け取った本が、カナダの女流作家、ルーシー・モード・モンゴメリが書いた「アン・オブ・グリーン・ゲイブルス」という本でした。村岡花子さんの運命を変えた一冊でした。

花子さんはやがてコツコツとその翻訳を始め、太平洋戦争で東京の大空襲を受けた時にも、本と翻訳原稿が入った風呂敷包みを抱えて逃げました。

そして1952年(昭和27年)、花子さんが59歳の時に「赤毛のアン」という題名で出版され、以後7年にわたってアン・シリーズを翻訳して出版したということです。

そんなことが、花子さんの孫である村岡恵理さんによって詳しく記述されています。ちなみに恵理さんは1967年(昭和42年)生まれということです。

最近、僕も読書量がめっきり減り、あまり長い本は読まず、簡易なエッセイのようなものばかり読んでいましたが、久しぶりに読み応えのある一冊でした。


 
 これが羽曳野図書館から借りた文庫本です。

ところで、この本の話をモミィにしたら、
「わたし、その本、読んだよ」と言う。
「あぁ、『赤毛のアン』を読んだということね」
と僕が言うとモミィは「違うよ」と首を振り、
「『赤毛のアン』も読んだけど、その本も読んだ」と言う。
「読んだって? どの本を?」と不思議に思って僕が尋ねると、
「いま、持ってくるわ」と自分の部屋に行って、一冊の本を僕に見せた。

こんな本でした。

 


「『赤毛のアン』と花子」というタイトルで、著者はやはり村岡恵理とある。少年少女向きの200ページほどの本で、読みやすく書かれているみたいだ。しかし、パラパラとめくって見ると、物語の内容は僕が読んだものとほぼ同じようでした。

モミィは本好きで、よく妻と書店へ行っていろんな本を買ってもらっているようだったけれど、こんな本も持っていたんですよね。ちょっとびっくりしました。

わが家にこんな本があると知っていたらもっと早く読んでいたのにな。と、思いながら、じゃ、せっかくだからこれも読んでみよう、と、モミィからその本を借りた次第です。

字が大きいし、文体もやさしいので、読むのに苦労せずに済みそうです  

では、明後日から始まる吉高由里子さん主演の再放送ドラマ「花子とアン」を楽しみにしています。

 

 

 

 

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その人の名は ジョー・バイデン

2021年01月21日 | ズレズレ草

このたび、トランプ米大統領が退任し、新しくジョー・バイデン氏が大統領に就任して世界の注目を集めているところですね。

ところで、
バイデンと言えば、大阪の梅田を音読みすると「ばいでん」になります。

けっこう前からそういうことが話題になっていました。梅田といえば大阪の玄関口ですし、知らない人がないほど有名ですから、次の大統領候補と同じ梅田(ばいでん)だ! な~んて、関西地区のテレビなんかでも騒いでいました。

そして、
そのバイデン氏が実際に大統領になりました。
大阪梅田の「ばいでん」がいよいよ超ビッグな話題に! 
と思っていたのですけど

しかし、
さらにその上を行く地名が出てきました。

福島県の須賀川に「上梅田」というバス停があるというニュース。

これは、単に「ばいでん」ではなく「じょう・ばいでん」。
つまり、ジョー・バイデンですよね。

いや、恐れ入りました~!

 

ジョー・バイデンと読める福島・須賀川のバス停「上梅田」 

 

 

 

 

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どちらにも勝ってほしかった! ~卓球全日本選手権決勝~

2021年01月19日 | スポーツの話題

 
 
昨日の朝日新聞スポーツ欄の記事です。


一昨日の日曜日。
大阪で卓球・全日本選手権が行われ、女子シングルス決勝で石川佳純さんと伊藤美誠さんが対戦し、石川さんが5年ぶり5度目の優勝を果たしました。

僕はこの大会を準々決勝からテレビで見ていたのですが、特に準決勝の伊藤美誠さんと早田ひなさんの手に汗握る激戦にはかなり興奮しました。しかし、その前日のニュース番組で、男の卓球解説者(名前は忘れた)が「この準決勝での2人の対決が事実上の決勝戦ですね」と言ったことにはちょっと不満を抱きました。なぜなら
もうひとつのブロックで準決勝まで上がってきた石川佳純さんがいたから。

石川さんが決勝に出てくる可能性も高いのに、彼女を無視してこちらのブロックの準決勝の伊藤・早田戦を「事実上の決勝戦」なんてことを言っていいのか? このヘボ解説者! と怒ったわけです。
まぁ、怒っても仕方ないですけど(笑)。

予想通り、というか、期待通り、決勝戦は伊藤さんと石川さんの対決となりました。僕はどちらを応援したかと言えば、それはもう両方ですわ。
2人とも、これまでずっと応援してきた選手ですからね~。

まず石川佳純さんですが、彼女は山口県出身ですが、小学校を卒業してから大阪へ来て、僕が住む藤井寺市のすぐ隣の四天王寺羽曳丘中学というところに入学しました。そしてその在学中、全日本選手権で史上最年少でベスト4入りを果たして注目を浴びました。藤井寺駅から見て正面にある建物には「頑張れ石川佳純選手」の大きな横断幕が貼られており、電車に乗るたびに僕は窓からその横断幕の「石川佳純」という名前を見て、いつのまにかそれが脳裏に焼き付きました。そんなことで、当時から僕は佳純ちゃんのファンで、まさに「わが街の子」だったのです。

以来、オリンピック、世界卓球、ワールドカップ、全日本選手権など、シングルスでも団体でも、石川選手が出る試合は、いつもテレビでワクワク・ドキドキしながら見ていました。

そして相手の伊藤美誠さんですけど。
彼女は今も関西卓球アカデミーという、大阪市にある卓球クラブチームを練習拠点にしているそうです。 出身地・静岡県の小学校を卒業したあと、大阪の中学校に入ってこのクラブチームに入ったのですが、その当時、伊藤さんのコーチをしていたのが大内征夫さんという方でした。

以前も書きましたが、この大内征男先生は僕の高校時代の恩師で、しかも、僕が結婚した時に、披露宴の司会をしてくださった深~い縁のある先生です。当時から卓球が得意だとは知っていましたが、まさか伊藤さんのコーチになっていたとは。

それを知ったのは、2016年のリオ五輪でした。伊藤美誠ちゃんが、石川佳純ちゃんと福原愛ちゃんと3人で、卓球女子団体で見事に銅メダルを獲得したときの新聞記事でした。

 
 左から愛ちゃん、佳純ちゃん、美誠ちゃん。

そしてこの伊藤美誠ちゃんに関する記事の中に大内先生が載っていました。その部分をアップしてみますと

 
 結婚披露宴の司会をしていただいた大内先生が新聞に

驚きました。
大内先生は伊藤美誠ちゃんのコーチだったのですね。

その後、卓球専門誌に大内先生の特集が組まれ、先生はその雑誌を僕に送ってくださいました。その雑誌の中に、先生と美誠ちゃんのツーショットの写真がありました。

 
 大内先生と美誠ちゃんです。
 先生は美誠ちゃんのメダルをかけています。

とまぁ、そんなわけで、伊藤美誠さん対石川佳純さんの決勝戦では、両方ともを応援しなければならないことになったわけです。

試合は、伊藤が第1ゲームを取り、第2ゲームは落としたものの、第3、第4ゲームを連取して勝利まであと1ゲーム。しかし第5ゲーム、第6ゲームは石川が取り、3対3のタイにもつれ込んで試合はいよいよ第7ゲームへ。

そして最終ゲームは9対9の大接戦から石川が2点を連取し、11対9で伊藤に大逆転勝ちをしたのでした。

ふ~う。

こう書いていると、また試合を思い出し、心拍数が上がります(笑)。

20歳の伊藤さんはこれからです。そして27歳の石川さんも、まだまだ衰える年齢ではありません。2人のこれからの卓球人生を、これまで同様、大阪の片隅から見守っていってあげたいと思います。

本当にいい試合を見せてもらいました。

佳純ちゃん、美誠ちゃん。ありがとさ~ん

 

 

 

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年賀状のお返事に 「寒中見舞い」 を

2021年01月15日 | 日常のいろいろなこと

きょうは年賀状にまつわるお話です。

今回、年賀状は1通も出しませんでした。
こんなのは、初めてのことです。

2年前(2019年)のお正月。
思うところがあって「誠に勝手ながら、今年をもちまして年賀状を最後にさせていただきたいと存じます」という文面の年賀状を大勢の方たちに送りました。そのことは、このブログにも書きました。

「今年をもちまして最後に」 

ただ、いろいろな理由で、どうしてもそうすることができない一部の人たちには通常の年賀状を送りました。

そして去年(2020年)も、その一部の人たちには送ったのですが、今回は、とうとうそれもやめて、年賀状は一通も出さずじまいでした。

理由は? 特になくて、いわば、まぁ「ずぼら」ですわ。

そして迎えた元旦。
その「一部の人たち」からの十数通の年賀状が届きました。1枚1枚見ていくとやはり胸が熱くなって「こりゃ、放っておけない」という気持ちがこみ上げてきました。う~む、どうしたらいいか? 考えました。

そこで思いついたのが「寒中見舞い」でした。この「寒中見舞い」は、年賀状を出さなかったことを詫びる意味にも使われるようですが、それだけではなく、年賀状のお礼を述べ、自分の近況を伝え、相手の人への思いを述べるものでもあるというので、それを出せばきっと喜んでもらえるだろうと思ったのです。さらに、僕が年賀状を出さなかったことで「何かあったのでは?」と、先方さんに心配をかけてしまっているかも知れませんしね(もう、こんな年だし)。

ただ、寒中見舞いは「松の内」つまり小正月が終わる1月15日までは出してはいけないそうです(関東では「松の内」は1月7日までのようですが)。

で、きょう1月15日に郵便局へ行ってハガキを買い、半日をかけて、パソコンで年賀状に対するお礼の文を1通ずつ考えながら打ちました。年賀状に写真などがあった場合は、それに対する感想などを書いたりしてね。そしてそれらを古いプリンタでゴトゴト印刷をして、無事に「寒中見舞い」は出来上がりました。

あぁ、やれやれ。
プリントを終えた時は、ある種の達成感のようなものを感じました。

これら十数通の手作りの「寒中見舞い」は、明日、投函するつもりです。

しかし、こんなことなら、2年前に年賀状をやめることはなかったのでは? な~んて少しだけ思いましたが、「それを言っちゃぁ、おしまいよ」という寅さんの声が聞えてきそうなので、慌てて打ち消しました(笑)。

まぁ、これからも年賀状をいただいたら「寒中見舞い」でお返事をすればいいかな~と思っています。


★追伸

元職場の後輩〇〇クンにも「寒中見舞い」を書きました。彼は年賀状に「ずっとブログ読んでますよ」と書いてくれていました。それなら、僕からの「寒中見舞い」が届く前に、〇〇クンはこのブログを読んでくれるはずだから、バレバレですね~(笑)。

 

 

 

 

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4年ぶり2度目の不倫とか 行き過ぎたコミュニケーションとか

2021年01月11日 | 映画の話やTVの話など

このごろのテレビのワイドショーや週刊誌、スポーツ紙というのは不倫報道が多いですね。まぁ以前からけっこうありましたけど、最近ますます多い。これは不倫が多くなったというよりも、マスコミ側の執拗な「追跡」がどんどんエスカレートしてきたということでしょうか。

また今年はいきなり歌舞伎役者・中村芝翫(かつての橋之助)の不倫も報じられました。その見出しが、
「中村芝翫 4年ぶり2度目の不倫」
というものでした。

いやぁ…
スポーツなどでは「4年ぶり2度目の優勝!」とか表現するけれど、不倫行為を「4年ぶり2度目の不倫」なんて言うんですかね~。まるで不倫をした人に「よくやった!」と拍手を送っているようで、思わず笑ってしまいました。

数か月前には元衆院議員の宮崎謙介氏が、これまた2度目の不倫が発覚し、本人は「このたびはご迷惑をおかけしまして誠に申し訳ございません」と謝罪していました。そのときの言いわけというか、説明の内容は、
「女性を励まそうという気持ちがあって、軽率にも女性が指定したホテルに行ってしまい、行き過ぎたコミュニケーションがありました」
ということでした。ハイ。

さてこの「行き過ぎたコミュニケーション」という表現ですが、さすが元国会議員でいらっしゃる。遠回しに、外来語などを使って話の核心をはぐらかすという「議会用語」を連想させる巧みな言い回しでございましたな。
それにしても、「行き過ぎたコミュニケーション」って、
いったい、どんなコミュニケーションやねん。

今はもう、芸能人が不倫報道をされると、当人はこれ以上ない神妙な表情で、
「ファンの皆さまや関係者の皆さま方に、ご迷惑とご心配をおかけしましたことを、心からお詫び申し上げます」
と言って数10秒間、頭を下げるのが「お約束」になっていますよね。

昔、不倫が原因で離婚した松方弘樹が、会見で、
「男は同時に二人の女性を愛せるんですよ」
と言ったのを覚えています。
それでもバッシングを受けたりはしていなかったと思います。

今はもう、芸能人が不倫すると、マスコミやネットから袋叩きにされるので、どうしても神妙な表情をつくって謝罪したり、宮崎氏のように苦し紛れの表現を使ったりして世間に詫びなければなりません。(でもまず奥さんに詫びる言葉を口にしなければならないのにね~)。

それだけ世間は芸能人の不倫にうるさいのですが、林真理子さんが12月17日号の週刊文春の連載エッセイ「夜ふけのなわとび」の中でこんなことを書かれていました。

「不思議なのは、これほど不倫に不寛容な人たち、主に女性が、テレビドラマや映画の不倫話にはうっとりとしていること。以前上戸彩ちゃん主演の『昼顔』、今は『恋する母たち』を喰いいるように見つめている」

ま、そのとおりですよね。洋の東西を問わず、不倫をテーマにした物語は今も根強い人気を持っています。不倫はしないけど、見るのは大好き、って人は多いでしょうからね~

最後に、これは不倫ではありませんが、勝新太郎が、ハワイの空港でパンツからコカインなどが発見されて国外退去判決を受けた事件がありました。記者会見の場に臨んだ勝新太郎は「皆様にご迷惑、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」と謝罪し、深々と礼…とはなりませんでしたね。それどころか、
「なぜ、コカインを持っていたのか?」という記者の質問に、

「機内でファンですという男から紙包みを渡された」と勝さん。
「気がついたらパンツに入っていたでは説明になりませんよ」と記者。
すると勝新太郎は、
「そうだな。これからは、パンツは、はかない」
と答えたという有名な話があります。

まあ、こういう時代がいいのか悪いのかわかりませんけどね。
豪快だったことは豪快です。

昭和は遠くなりにけり、です。

 

 

 

 

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こんにちは赤ちゃん ♪

2021年01月09日 | 日常のいろいろなこと

きょうは誕生日でした。

朝一番に、妻とモミィが「お誕生日おめでとう」と言ってくれました。
そして、何通かの「おめでとうメール」も、もらいました。

もう10年以上会っていない東京に住む姪の美〇ちゃんからもメールが届きました。で、その返信で、一昨日のブログに載せた道明寺での初詣の写真を添付したら、
「いつまでも若いですね。不老長寿でいてください」
と返事をくれました(えへへ~)。

でも、まぁ、誕生日ということは、また一つ年を取ったということですよね。
なんとなく寂しさを感じたりするのも、誕生日のひとつの思いですけど。

それもやっぱり、年のせいでしょうか。


 
  若かった頃(笑)の自分の写真です。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「出直し」 の初詣は静かでひっそり

2021年01月07日 | 日常のいろいろなこと

先日のこと。テレビから、
「は~い、70代・80代のみなさ~ん」
と、楽しそうな声が流れたので画面を見ると、何かのCMだった。
「70代・80代」の視聴者に呼びかけるって、いったい何のCM?
そう思って見たら
「死亡保険」のCMでした。

「生命保険」ならわかりますが「死亡保険」とはね。

やれやれ(ためいき)。

コロナで家に引きこもり、テレビばかり見ていると、つい死亡保険に入らされてしまいそうなので、外出することにしました(笑)。

ともあれ、まず初詣に行きたかったけれど、お正月の3日間は混雑するだろうと思い自粛。そして4日になり、モミィが塾へ行ったあとの午後、そろそろ初詣の人も少なくなったのではと、歩いて1時間ほどのところにある道明寺天満宮へ妻と2人で行きました。ところが

天満宮に近づくと、狭い道に車が渋滞している。「え? これは初詣の人たちの車の渋滞?」と信じられない思いで車の横を歩いて天満宮へ着くと、境内は驚くほど大勢の参拝客で埋め尽くされていた。

ゲゲゲ! こらあかんわ。帰ろ。

僕たちはすぐにその場から引き返し、また1時間歩いて家に戻ったのです。

1月4日になったんだから、もうそろそろ人の数も少なくなっているのでは、と思っていたのが甘かったですね。ひょっとしたら、ほかの人たちも、お正月の3日間を避けて行けば人の数も少ないだろうと、同じようなことを考えていたのかも知れません。もしかして、元旦なんかのほうが人が少なかったりして(それはないか)。

そして今日(7日)。モミィの学校の授業も始まったので、午前中に再び2人で歩いて道明寺天満宮へ行きました。「出直し初詣」ですわ。

実は昨日、モミィが仲良しの友だちと一緒に、一足先に初詣に行っており、「人が少なかった」と言っていました。だから今日も少ないだろうとは思っていましたが

行ってみると「少ない」どころか、参拝の人の姿はほとんどなく、境内はガラガラでした。やはり世間ではもう仕事も始まり、お正月気分も抜けてきているんでしょうね。こんなひっそりとした雰囲気での初詣は、生まれて初めてのことでした。

 
 境内にはお店が出ていましたが、お客さんの姿は見えない。
 


 
 拝殿にも、一人の方がおられただけ。


 
 これは去年のブログに載せた同じ拝殿の写真です。
 毎年、このように長い列ができています。


というようなことで

去年からコロナの影響で、皆さん、生活が激変していますよね。

わが家ではモミィの高校入試が目前に迫っています。どうか無事に受験が出来て、なんとか第一志望校に合格してほしいというのが今年のお願いです。

 
 
 皆さま、改めまして、今年もよろしくお願い致します。
 (マスクは外して手に持っています) 

 

 

 

 

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今年は丑年でございますが…

2021年01月04日 | 日常のいろいろなこと

明けましておめでとうございます。

お正月の3日間も過ぎて今日は月曜日ということで、朝のテレビ番組も通常のニュースやワイドショーが戻ってきましたね。と言っても、今年は「お正月」という感覚がほとんどないままでした。

元旦にはいつも次男の家族が来て賑やかに食事をするのですが、今年は念のために取りやめ。2日には長男の車で道明寺天満宮に初詣に行っていたのも無し。結局3日間、ちょっとした買い物に出たほかはず~っと家にいました。

初詣は今週に、適当な日を選んで行こうと思っています。もう、人の数も減って来てるんでしょうね。

さて今年は丑(うし)年で、僕は年男となります。
だからどうということはないんですけどね(笑)。

昨日の新聞に「丑年生まれの人口は1日現在で1,066万人」という記事が載っていました。中でも1949年(昭和24年)生まれの人が211万人で最多(僕もその一人ですわ)。次が第2次ベビーブーム世代で1973年(昭和48年)生まれの人が203万人で2番目(次男がこれに入ります)。そして最も若い2009年生まれは106万人で1949年の半数ほどになったということです。少ないですね。

そこで、僕が生まれた1949年にはいったいどれだけの出生者数があったのか調べてみると、約270万人とのこと。ということは、現在211万人だから、270万人から211万人を引いて約59万人が亡くなっているということになりますね。それでもまだ丑年生まれの中で1番多いんだから、僕らの世代は本当に数が多いわけです。こんな数字を見ていると今後ますます少子高齢化が進み、世の中がどうなっていくのか心配です。

それにしても早いです。この前の丑年は2009年で、僕は旅行先のカナダのナイアガラの滝で60歳の還暦誕生日を迎え、38年間勤めた仕事も退職しました。それ以降は、モミィの幼稚園の送り迎えやいろんな習い事への付き添いなどをしていましたが、中学生になってからはモミィのことは妻に任せっぱなしになり、ここ数年はもっぱら「主夫」をしながらウオーキングをしたりテレビを見たり本を読んだりブログを書いたりビールを飲んだり…というのんきな生活を送っています。ただし去年はコロナの関係で、好きな外出、特に大阪市内にはあまり出なくなり淋しかったのと、「感染したら大変!」という緊張感で、なんとなく重苦しさも身辺に漂う1年でした。

今年も当分コロナが続きそうです。「何よりも健康が大事」ということを改めて肝に命じながら毎日を過ごしたいと思います。

皆さんも感染予防に万全を期され、お元気でお過ごしくださるよう、お祈りいたしております。では、今年もよろしくお願い申し上げま~す。

 

 

 

 

 

 

 

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