僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

ダイアン・レインとリチャード・ギア

2009年06月30日 | 映画の話やTVの話など

今日も映画の話題ですが…

先日、映画女優に関する話で、yukariさんからいただいたコメントに、
「私の時代ならジェニファー・ビールスとかダイアン・レインとかソフィー・マルソーにブルック・シールズ???。どれもみな、今は見かけないですね」
と書かれてあった。
僕も、そうですね~、そういえば最近はみんな見かけませんねぇ、と書いた。

ところが…である。
昨日、あの怖~い映画「1408号室」といっしょに借りてきたもう1枚のDVDを見た。リチャード・ギア主演の「最後の初恋」という映画である。これも妻が借りてきた作品である。

何気なく見始めていると、最初に画面に出てきたのはリチャード・ギアではなく中年の女性であった。チラッと見た瞬間、あれぇ…?と思った。
その女性は、ダイアン・レインであった。
ついこの間、「見かけませんねぇ」と言い合っていたダイアン・レインが…

    ………………………………………………………………

何の予備知識もなしに見た映画だけれど、「最後の初恋」という題名を見ただけで、誰でもこれがラブストーリーであることがわかる。おまけに主演が、この種の映画では「大御所」であるリチャード・ギアだ。

リチャード・ギアといえば、ジュリア・ロバーツとの「プリティ・ウーマン」があまりにも有名だけれど、僕は、ウィノナ・ライダーと共演した「オータム・イン・ニューヨーク」が一番好きだ。

プレイボーイのリチャード・ギアが、遊びのつもりで若い美女(ウィノナ・ライダー)に迫る。そして、
「僕は1年以上女性を愛したことはないんだ」
と気障なセリフを吐く。
その言葉を聞いて、彼女はこう言う。
「ちょうどよかったわ。私の命はあと1年もないから…」
彼女は不治の病魔に侵されていたのだ。
リチャード・ギアが、そこから本気で彼女を愛し始める…という映画である。
ラストはとても悲しい。今も心に残る1作である。よかったなぁ。

http://www.dmm.com/rental/-/detail/=/cid=n_610pda923/


さて、この「最後の初恋」という題名は、いろんなことを連想させるけれど、なんとなく俗な題名のような気もする。…というか、原題をそのまま出すことが多くなった最近の洋画界だが、たしかに気の利いた邦題を考え出すのは至難の技であろう。題名だけで「つまらなそ~」と思う映画だってあるものね。

この映画の原題は「Nights in Lodanthe」つまり「ローダンテの夜」だ。
原題を直訳すると余計に意味がわからなくなるので、まあ、「最後の初恋」としたほうが、お客さんもどんな映画か見当がついて入りやすいでのしょうね。

サウスキャロライナ洲の小さな町、ローダンテでの出来事である。

そこで、リチャード・ギアとダイアン・レインが出会う。
そして…

これぞ大人の恋愛映画、いよっ、待ってました!

予告編やストーリなどは、こちらでどうぞ。

http://wwws.warnerbros.co.jp/nightsinrodanthe/


それにしても、ダイアン・レインが魅力あふれる演技を見せてくれた。

2人の子どもたちを心から愛する母親としての顔。
夫に裏切られ、家を出て行かれた妻としての哀しみと苦悶。
その夫から「許してくれ、家に戻りたい」と詫びられた時の女としての怒り。
徐々にリチャード・ギアに引かれていく「恋する女」としての可憐さ。

そんなダイアン・レインを見ていると、若くて美しい女優も結構だけれど、この映画の彼女のように、人生に疲れた翳りの表情と、気丈さ、可愛さ、我慢強さのような、さまざまな感情を入り乱した「年齢相当の美しさ」と表情の豊かさにコロリとまいってしまう僕なのである。

ダイアンレインは44歳。今をときめく「アラフォー」の世代だ。

30年ほど前に、「リトル・ロマンス」という映画があった。
妻の甥っ子が小学生か中学生の時にこの映画を見て、
「あれから、ボクの人生が変わりましたわ」と今でも感慨深そうに言っているけれど、この映画が、ダイアン・レインのデビュー作だったんですね~。
あの時、彼女はまだ14歳だったんだ。

そして、リチャードギアは僕と同じ1949(昭和24)年生まれです。
今年の誕生日が来て60歳、ということになります。

この年代はアラカン、だと、元職場の女の子が言っていた。
「なんやねん? アラカンて…。鞍馬天狗の嵐寛寿郎か…?」
「違いますよ。アラウンド還暦。略してアラカンですわ」

で、アラカンはどういう世代なんだ、という肝心の話の内容は忘れてしまったけれど、まぁ
、ナンとでも呼びなはれ。

僕らは、アラカンゆうたら、チャンバラの嵐寛寿郎しか思い浮かばんわ。

このごろはテレビ界は完全に若者中心だから、つまらないおふざけ半分の恋愛ドラマしか見られないという、劣悪なTV環境の中に僕たちは置かれている。
で、たまにはこういう「大人の恋愛映画」のDVDなんかを借りてきて、心を洗ってみることも必要だなぁ、としみじみ思う。

僕自身の問題として言えば、耳鳴りのせいで安定しない情緒も、こういう映画を見ているときは、とても心地良い時間が流れていくのである。

映画は、極めて上質の心の薬だと思う。

最近、安定剤のデパスの服用数に迫るくらいの数の映画を見ているので、ブログもついつい、映画の話ばかりになってしまいます。


では、そのほかに最近見た極上の「心の薬DVD」お勧め作品を2つほど…


「最高の人生の見つけ方」

http://wwws.warnerbros.co.jp/bucketlist/

ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンの共演…
というだけで、面白くないはずのない映画。
結果は、思った以上、さらに楽しく、笑わせてくれました。


「ステップフォード・ワイフ」

http://info.movies.yahoo.co.jp/detail?ty=mv&id=319890

ニコール・キッドマンがいいですね。いつまでも美しい。
相手役のマシュー・ブロデリックのほか、ベット・ミドラー、グレン・クローズ、クリストファー・ウォーケンらのベテラン俳優たちが、どこまでウソか現実かわからない楽しいストーリーを演じていきます。
特にグレン・クローズといえば、マイケル・ダグラスとの「危険な情事」の、怖~い女性の役を思い出しますが、今回もものすごい迫力でした。
特に女性にお勧めの一作です。


それでは、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。

 

 

 


 

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映画「1408号室」はほんまに怖~い

2009年06月27日 | 映画の話やTVの話など

毎日、暑いですね。
梅雨の季節だというのに、大阪ではなかなか雨も降らないし…。
毎日の、その暑いこと暑いこと。

最近、よく映画のDVDを借りて見ていることは、先日も書きました。

数日前、その中でひとつ、ものすご~く怖い映画を見てしまいました。
「1408号室」という映画です。あのスティーヴン・キングの原作です。

スティーヴン・キングといえば「スタンド・バイ・ミー」や「グリーンマイル」「ショーシャンクの空に」などの原作者でもありますが、こういうホラー分野においても、超一流ですね。その凄さに、今さらながら驚かされます。

すでにこの映画を見ておられる方は、きっと、
「そうだ、そうだ! あれは怖い、ほんまに怖い映画やったでぇ~」
と言ってくれるはずですよね。

頭のてっぺんから、足の先まで、凍りつきそうなほど、怖い映画でした。

        

    http://room1408.jp/

  …………………………………………………………………………


で…実は、夜に自分の部屋のノートパソコンで、ひとりでそのDVDを見はじめたのだが、いきなり怖いシーンが出てきて腰が抜けそうになった。

映画の冒頭は、嵐の中を主人公が車を走らせるシーン。
ちょうどそのとき、わが家でも、窓の外で、雨風の音が聞こえていた。

「うぅ~ぅ…」

元々、異常なほど怖がり屋の僕なので、いったん映画を停止し、パソコンを抱え、自分の部屋を出て、妻の姿が見える階下の部屋に移動して続きを見た。とてもじゃないが、ひとりっきりの部屋では見られな~い。

こんな怖い映画は、小学生のときに見た「四谷怪談」以来である。

この映画の題名の「1408」というのは、ホテルのルームナンバーだ。

主人公であるホラー作家のジョン・キューザックが、ふとしたことから、宿泊客が次々と謎の死を遂げてきた、あるホテルの部屋のことを知る。

それは、ニューヨークの「ドルフィンホテル」という大きなホテルであった。

その「ドルフィンホテル」の1408号室で、これまで50人以上の人々が、次々と謎の死を遂げていたのである。

好奇心の塊である売れないホラー作家の主人公は、ホテル側が強く断ったにもかかわらず、無理矢理に、その1408号室を予約する。

「俺は幽霊なんて信じないさ」と豪語するホラー作家の主人公。
ジョン・キューザックが、とてもいい味を出している。

「ダメです。絶対にこの部屋に泊まってはダメです」
と止めたのはホテルの支配人で、演じるのはサミュエル・L・ジャクソン 。

しかし、支配人の忠告を無視して、1408号室のキーを受け取って、主人公はその部屋に入る…。すると…。

               


あぁ、こわ。こわ。こわ。こわ。

映画の中身を思い出すだけで、こわいわ。
ぶるぶるぶるぶるぶるぶる。

映画を見ながら、何度、背筋が凍りかけたことか。
暑い夜…なんてどこへ行ったのやら。
血の気が引き、震えつく。さむぅ~。
クーラーなんか、いりまへん。
思わず、ふとんを頭から被りたかったほど。

「エクソシスト」や「ポルターガイスト」「13日の金曜日」など、これまで、書き出せばキリがないほど怖い映画というのは見てきたけれど…。

最近も「アイズ」というこわ~い映画を見た。

しかし。
しかし…である。

この「1408号室」ほどこわ~い映画を、僕は知らない。

この映画を見ながら「ぎゃぁ~~~」と、何度か叫び、
何度かおしっこをちびりそうになった。   。

 

 

 

 

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ファラ・フォーセットの死

2009年06月26日 | ニュース・時事

きょうの早朝のNHKニュースを見ていたら、突然、
「たった今、入ってきたニュースです。マイケル・ジャクソンが搬送された、ということです」。

搬送…?
なんじゃ、そら。

続いて「死亡した、とも伝えられています」という報道であった。

そのあと、TVのモーニングショーはその話題ばかりであった。

フジTV「とくダネ」の小倉は、番組の最後に、
「今日は特にお伝えしたいこともあったですが、このニュースが入ってきたので、番組内容を大幅に変更しました。予定していたお話を、お伝えできなかったことがちょっと残念です」と言っていた。

彼はTV局がマイケル・ジャクソンの死のニュースに時間をとり過ぎたことがいささか不満だったように見えた。まあ僕も、なんでそれがこれほどの大ニュースなのかと不思議だった。

僕は、マイケル・ジャクソンよりも、ほぼ同じ時にファラ・フォーセットが亡くなったことの方が、よほどショックだった。

彼女は絵に描いたような美女だった。

僕のような団塊の世代の人間にとっては、彼女の死のほうが、ず~っと、ず~っと、寂しい。

「ファラ・フォーセット・メジャーズ」という名前を聞いただけで、
ハッとしたり、ドキッとしたりするのである。

「チャーリーズ・エンジェル」の彼女は、サイコーでしたね~。

知らん人は、知らんでしょうけど…。


 

 

 

 

 

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「奥の細道」の終着の地へ

2009年06月25日 | 旅行

先日、大阪駅から新快速に乗って米原乗り換えで、岐阜県大垣市へ行った。
ぶらりと日帰りの一人旅である。

大垣市は、芭蕉の「奥の細道」の旅の終着の地だ。

大垣駅前に立つと、

 芭蕉元禄の街大垣 奥の細道むすびの地

という大きな看板が立っていた。

  ………………………………………………………………………………  

大垣市は、このブログにもコメントをいただいているのこたんさんが住んでおられる街でもある。この「奥の細道むすびの地」の詳しいことは、のこたんさんのブログで教えてもらった。


2年半ほど前、僕は東京都江東区の深川にある「芭蕉記念館」を訪ねた。
そこは、芭蕉の「奥の細道」の旅が始まった場所でもあった。

そのことを当時のブログに書いたら、のこたんさんからコメントをいただき、
「奥の細道」の終着地である大垣には記念館もあり、さまざまな史跡もあることを教えていただいたのである。のこたんさん自身が、そのことをブログに書いておられたので、それを見せてもらい、いつかこの場所へ行こう、と思っていたのだが、予定をしていた日に風邪を引いたりしてなかなか行けなかった。そしてこの間「あっ、そうだ…」と思い立ち、リュックを背負って、ふら~っと、その大垣へ、一人で出かけたのである。

「奥の細道」のスタート地点とゴール地点…。

40年以上の「奥の細道」ファンとしては、この2ヵ所に行かなければシャレにもならん…とず~っと気負い込んでいたものの、大垣は家から日帰りでも十分行ける場所なので、いつでも行けるわ…という気持がどこかにあったのだろう。
ともかく、今回、やっとそれが実現したという感じだ。

「奥の細道むすびの地」についてはこれを見ていただくとよくわかります。

http://bekkan.web.infoseek.co.jp/126musubi_chi/basyou_musubi.html


閑静な川沿いの遊歩道に、芭蕉が「奥の細道」の各地で読んだ句碑が、順番に建っている。最後が「むすびの地」の大垣で詠んだ「蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ」の句碑である。

大垣は、街全体が「奥の細道」という素敵な場所である。

大垣の街歩きに当たって地図を手に入れたかったので、僕はまず大垣市役所へ行った(注:その日は平日でした)。窓口に出てきた担当課の職員がまた、ものすごく親切な人で、いろんな資料を探してくれたあと、どこそこへ行けばもっと詳しい資料があります、と丁寧に場所を教えてくれたりした。

市役所の職員さんも、ここまで親切だと気持がいいし、市全体のイメージがさらにアップする。ふ~む、なかなかのモンじゃな~…と、この間までお役所に勤めていた僕は、大いに感心したのである(職員もいろいろだからね~)。

職員さんに教えてもらった場所のそばには総合福祉会館があり、その館内に「むすびの地記念館」もあったので、見学した。


さて、芭蕉は1689年3月27日(陽暦5月16日)に深川芭蕉庵(現芭蕉記念館)を出発した。そしてその年の9月6日(陽暦10月18日)に岐阜の大垣で筆を止めるまでの164日間、実に2400キロに及ぶ歴史的な旅を完遂したのである。

当時は、当然だが道路事情も劣悪で、治安も悪く、情報も少ないし、テレビもないし携帯電話もない(当たり前じゃ)。この過酷な旅に比べると、70日間自転車で大阪から北海道を往復した僕の旅なんて、お遊戯みたいなものである。

その20歳の時の自転車の旅では、特に北陸を走った時に「奥の細道」の道程と重なるところが多かったので、それも旅の楽しみの大きな一つだった。

芭蕉は江戸を出て、日光、白河、仙台、平泉と歩き、そこから西へ進路をとり、山形からは鶴岡・酒田と日本海側を北上し、秋田の象潟でUターンして新潟、富山、金沢、福井、敦賀と歩き、最後の大垣で5ヶ月半の旅を終えた。

  ………………………………………………………………………………

大垣市内をあちらこちらと歩き回ったあと、列車に乗って帰途に着いたとき、僕は「奥の細道」の文庫本を取り出して、改めてその旅程をたどりながら、自分がこれまで行った「奥の細道」ゆかりの地の数々を思い出していた。

出発地点の東京・深川芭蕉庵は前述したとおり、2年半前に行った。
そして、今回は終着の大垣へ。

深川から大垣まで、164日間をかけて芭蕉が弟子の曾良と歩いた場所のうち、自分はこれまで、どれくらい行っているのだろうか。
思い浮かべてみると…

東京都…深川芭蕉庵
栃木県…日光
岩手県…平泉
宮城県…岩沼、仙台、多賀城碑(壺の碑)、石巻、松島、鳴子、尿前
山形県…封人の家、最上川、出羽三山、鶴岡、酒田
秋田県…象潟
新潟県…親不知
富山県…倶利伽羅峠
石川県…金沢、山中温泉
福井県…永平寺、敦賀、福井市内

そして、この日、終着の岐阜県大垣市。

このうち半分ぐらいは20歳の時の自転車旅行で行ったものだが、それ以外で訪れたところ、二度以上訪れたところなど、それぞれに思い出深い場所である。

思い出、思い出、思い出…。
自分の60年を振り返ってみると、実にさまざまな思い出がよみがえるけれど、
「奥の細道」には、沢山の感慨深い思い出が埋もれている。
でも、思い出だけではなく、今、第二の人生へ第一歩を踏み出した僕にとっては、「奥の細道」は、これからの旅の案内人にもなってもらいたいものだ…。

そんなことを考えたりしながら、列車に揺られていた。

 

*大垣の写真と、ついでに「奥の細道」に関する過去の自分の写真の中から、いくつかを選んでみました。
  


 
   大垣駅前。



 
  大垣市内の川沿い遊歩道。芭蕉の碑が随所に見られる。



 
  その句碑のひとつ。「寂しさや 須磨に勝ちたる 浜の秋」

 

 

  
  一方こちらは「奥の細道」出発点。
  東京都江東区深川の芭蕉庵。記念館になっている。



    
    芭蕉庵の近くにある像。隅田川沿いに建っている。
    芭蕉はまず舟に乗って、ここを経ち、旅に出た。



 
  宮城県岩沼市にある二木の松。
 「 桜より 松は二木を 三月越し 」と詠んだ。
  松の後ろに小さな芭蕉の記念公園がある。

 

  
   松島(これは今年4月に撮影)。




  
 
  岩手県・平泉。「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」の碑。
  これも今年の4月。

  


 

 
  宮城から山形へつながる陸羽東線の列車。「奥の細道」とある。 

 

 


 
 尿前(しとまえ)の関。宮城・山形の県境に近く、峻険なところ。




 
  尿前の関の近くにある封人の家(山形県)。
  この家で泊まった芭蕉は
  「蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(ばり)する枕もと」と詠んだ。
  むさくるしい夜の様子がよく出ている有名な句だ。

 

 

 

 この写真は、40年前。20歳の時の自転車旅行で撮ったもの。
 山形県・温海(あつみ)町で、日本海のそばに建つ句碑。
 「あつみ山や 吹浦かけて 夕涼み」


 お し ま い 、です。

 

 

 

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五木寛之の 「腹八分」 論

2009年06月22日 | 読書

昨日の朝刊に、宮崎県在住の113歳の男性が亡くなったことで、新たに京都府の112歳になる男性が、全国最高齢者になった…という記事が載っていた。

その112歳の男性・木村次郎右衛門さんは、1897(明治30)年生まれで38年間郵便局に勤めたあと定年後は「悠々自適の年金暮らし」をしているという。

この御長老に限らず、昔の公務員は退職金も沢山もらい、年金額も驚くほど高い。まさに退職後は「悠々自適」で、今から思うと隔世の感がある。

僕も38年間公務員をしてきて、この3月に定年を迎えたわけだが、そんな「悠々自適」などと呼べるような生活ではない。退職金は10年ほど前に退職した人に比べると4割近く減っているし、年金額も、そういう人たちに比べると驚くほど低い。

昔へ遡れば遡るほど、公務員というのは結構な身分であった。
(今は厳しい。しかも、これから益々厳しくなっていくだろう)

さて、この木村老人が、6月20日に記者会見を行った。
このときに出る質問は、もう決まりきっている。
「長寿の秘訣はなんですか…?」という質問である。
そして、それに対する答えは、
「腹八分目です」ということであった。
これまた、決まり文句である。
こんなやりとり、面白くもなんともない。

おまけに記事の最後には、最近の政治の感想として、
「麻生首相はすべてにわたって頼りない」とご老人のコメントが載っていた。
こういうのも、お決まりのセリフだが、それを聞くマスコミの側もそう言わせようとしているフシがある(首相が頼りないのは事実だけれど…)。

新聞社も、この手の記事には、もう少し工夫を凝らせないのかと思う。

ところで… 
本当に腹八分目が長寿の秘訣なのだろうか?
僕などはその話を聞くと、100歳を過ぎてもまだ腹八分目も食べるのか~?
と、びっくりしてしまうのである。


五木寛之さんがエッセイの中で「腹八分目」について書いている。
これがとても面白い説なので少し紹介してみたい。

健康の秘訣は「腹八分」とは昔から言われている話だが、「腹八分」でも多すぎる気がする、と五木寛之さんは書く。そして次のような説を展開する。

10代の少年少女は食べるだけ食べて基礎体力を養うべきで「腹十分」。

20代は「腹九分」で大いに運動をする。しかし「腹十分」の時代は過ぎた。

働き盛りの30代こそ「腹八分」が原則。そろそろ体力が落ち始めてくるから。

40代は下腹のせり出すのに要注意だから「腹七分」でコントロールする。

50代は「腹六分」。体はもう出来上がっており、燃料補給もその程度でいい。

60代は「腹五分」。執筆当時五木さんは67歳で、1日1食半を通したという。

以下、70代で「腹四分」。80代で「腹三分」。

90代となれば「腹二分」でどうか。百歳になれば「腹一分」。

それを越えれば、もう食べなくてはいいのでは…。


と、まぁ、こんなふうなエッセイである。そんな無茶な…と言う人もいるだろう。しかし、今回の112歳のご老人の「腹八分目」の話を聞くと、「食細くして命永かれ」の精神からはむしろ遠のいているのではないかと思うのである。
爺ちゃん、そのお年で「腹8分目」は食べすぎ違うか…な~んてね。


五木寛之さんのエッセイには教わるところが多く、よく拾い読みをする。
五木さんは1932(昭和7)年9月30日生まれで、76歳である。

意外に知られていないようだけど、東京都知事の石原慎太郎さんも、
1932(昭和7)年9月30日生まれである。
つまり、五木・石原のご両人は、生年月日がまったくいっしょなのだ。

お互い間もなく77歳のお誕生日を迎える人とは思えないほど元気である。

112歳の最高齢者の方のコメントより、このお2人に、
「それだけの健康と活力を保つ秘訣は何ですか…?」
と聞くほうが、はるかに面白いと僕は思うのだ。

少なくとも「腹八分目です」という紋切り型の返事はされないだろうから。

 

 

 

 

 

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太宰治の生家

2009年06月20日 | 読書

  

  
  太宰治の生家 「斜陽館」。
40年前の自転車旅行の時の写真です。     
   右下の方に、小さく 僕の自転車が写っている。




2日前、腰痛が少しマシになったので朝のジョギングを開始したら、今度は左足首を捻挫してしまい、その日は一日中、満足に歩けない状態だった。ほんとに、泳げタイヤキ君の歌じゃないけれど、いやんなっちゃうよ~ って感じ。
今朝はだいぶ良くなったけれど、まだ少し違和感が残る。
(体、ガタガタですわ。とほほ)

                   


さて、昨日の19日は、太宰治の生誕100年に当たる日だったそうである。

太宰の故郷、金木では、銅像も建ったことが報じられている。

 http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/103293


「生まれてごめんなさい」とひたすら含羞の中に生きてきた太宰治が、
地元の街で銅像になる…。
彼は、あの世でどんな感想を持つのだろうか。


1909年6月19日に、太宰治は青森県の津軽・金木で生まれた。
玉川上水に身を投げ、遺体が発見されたのが1948年の、同じ6月19日だった。
僕は1949年生まれだから、その時は、すでに太宰はこの世の人ではなかった。

僕より40歳年上の太宰治が今年100歳になったのだから、僕が今年60歳であるのもそりゃ当然である。(意味わからん計算やな~。頭もガタガタですわ)。

…で、僕は、高校生の頃から、太宰治にかぶれ始めた。

太宰の小説を読むと、たいていの読者は、
「太宰を理解しているのは自分一人だけだ、自分だけの太宰、あぁ太宰…」
などという症状に陥り、「愛読する」というより「かぶれる」のが常である。

そして僕も、「太宰の苦悩がわかるのは僕だけだ」などと、当時の読書日記などを読み返すと、下手な字で書きなぐってある。

「人間失格」「斜陽」「走れメロス」などはあまりにも有名だが、僕は「津軽」が大好きである。その他では短編集が面白い。特に「お伽草紙」と「晩年」は何度も読み返すが、その度に、何らかの痛烈な衝撃を受ける。

「お伽草紙」は、日本昔話の「瘤取り」や「浦島さん」「カチカチ山」などのお話である。太宰流アイロニーがたっぷりと散りばめられて、実に面白い。

「晩年」は、デビュー当時の短編集だ(晩年に書かれた作品ではない)。
この中に数多くの短編が入っているが、「逆行」とか「ロマネスク」とかは、学生の頃、何度読み返したことだろう。読み終えると、なんとなく心の動きが自己反省に向かっていく。「僕は自意識過剰な人間なのだ」と、太宰の小説の登場人物と自分を重ね合わせ、自分を責めたりする。じわ~りと息苦しくなってくる感じなのだ。その息苦しさがまた快感に変わり、ますますクセになる…というふうな、奇妙な感覚にとらわれる。

まぁ、今は太宰を読んでも
「あぁ、僕は自意識過剰でピエロ人間なんだ~!」なんて思わないけれど。

  ………………………………………………………………………

太宰にかぶれていたころ、太宰の故郷である青森県金木町へ行ってみたいと思っていた。それが実現したのは、20歳の時の自転車旅行だった。

自転車旅行については何度も書いているのでクドイのだが、「芭蕉の『奥の細道』の旅の跡をたどりたい」、「日本最北端の地を踏んでみたい」などといういろんな目的があったが、「ぜひ太宰の生家を訪ねてみたい」というのも、ひとつの大きな目的であった。

その自転車旅行で…

東北に入り、秋田から十和田湖を経ていよいよ青森県に入るとき、十和田湖畔のあるユースホステルに泊まった。翌朝、出発の直前に、そこのオーナーが僕に「今日はどこまで行くのですか?」と聞いたので、
「金木町へ行って太宰治の生家に泊まりたいと思っています」と答えた。
当時、太宰の生家は「斜陽館」という名前の旅館になっていた。

するとそのオーナーさんは、
「おお! 君は太宰のファンなのですか…? それは素晴らしい」と言い、
「斜陽館の主人は私の恩師です。今から電話をしてあげます」
そう言った
かと思うとすぐに電話をしてくれ、さらにご自分の名刺の裏に紹介状も書いてくれたあと、太宰に関する本までもらってしまった。

そして、オーナーさんのご家族に見送られながら十和田湖畔を出発し、弘前市を通り、青森の金木町まで自転車で走って行き、斜陽館に着いた。
1969年6月30日のことである。

この後のことは、以前、ブログに詳しく書いていますので、ご関心とおヒマのある方(笑)は、御笑覧下さい。

  http://d.hatena.ne.jp/domani07/20070621



 

なお、今は「斜陽館」は、記念館になっていますので、
ここで泊まるということは、もうできなくなりました。

http://www.goshogawara.net.pref.aomori.jp/16_kanko/dazai/syayoukan.html

 

 

 

 

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松原市職員労働組合の皆さんへ

2009年06月19日 | 議会&役所

松原市役所を定年退職して2ヵ月半になる。

17日には、役所のOBの人たちで結成する「どこでも行こう会」という会のハイキングに参加した。30数人の先輩達と一緒に、岸和田市の春木駅から泉北高速鉄道の和泉中央駅まで、蜻蛉公園という美しい府営公園などを通過して歩いた。このあたりは、アナザービートルさんの住んでおられるエリアである。

「え?あんた、もう定年退職か…?」と僕の顔を見て驚いていた人もいた。
今年の3月末に退職した者たちの中で、そのハイキングに参加したのは僕一人だけだった。つまり、そのグループの中では僕が一番「若手」であった。
あはは。
つい最近まで、勤務先では「長老」だったのに…。

その17日というのは、松原市で新しい市長が初登庁した日であった。
38歳という若い市長である。
昭和46年生まれというのだから…
うちの長男(モミィのパパ)より、ひとつ年上だけ、という若さだ。
昭和46年は、僕が市役所に就職した年でもある。

そして、昨日18日の夜。
現職の役所の数人の人たちと久しぶりに会って、お酒を飲んだ。
その一人は、僕に
「なんか、ブログ、とかいうのん、してるの…?」
と聞いた。

「してるよ。なんで知ってるのん…?」
役所の人にはあまり自分のブログのことは言っていないから、びっくりした。

「澤井市長のこと、何か書いたか…?」と、彼が聞く。

「書いたよ。選挙で当選して、新しい松原市長になったんやろ」と僕。
「そうやけど…。澤井市長とメールでやりとりしたとか…」
と、彼が言うので、
「そうや。選挙で当選した時のことやろ。ブログに書いたよ」
と僕は言った。
何も隠すことではない。 

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/801a28f7e4efecaf15835117c3a4747f

僕はこの3月末まで、大阪府の松原市役所に勤めていた。
ブログは、3年ほど前からしていたが、現役の時はそんなことは書けない。
でもまあ、定年で退職したので、いろんなことも書けるわけね。
しかし、「守秘義務」は守ってますよ~ん。
「秘密」の話は、いくらブログでも、書くことはできないもんね~。

「でもなぁ。なんで僕がブログをしていること、知ってるのん…?」
と、僕は彼に尋ねた。

役所の人にはず~っと、自分のブログを内緒にしていたからね。

彼は、「職員組合の人が言うてはった」と言った。

はは~ぁ。

松原市の職員組合の人が、市長選の時、パソコンで「澤井市長」とか「松原市長選」か何かを検索しているうちに僕のブログに行き着いたのだろう。
「見て、見て。このブログ、この間、退職したのんさんやで!」
というようなことだったんだろうね~。
僕は、自分の顔写真も出しているし、素性も明らかにしているからね。

でも、一人でも多くの皆さんに読んでいただいているというのは嬉しい。

元々、物を書くことが好きな僕は、在職中には職員組合の「組合ニュース」というのに、「落書き帖」という題で、いろんなことを書いてきた経過もある。
(今の若い職員さんは、そんなこと、知らんやろね~)

いま、このブログを松原市役所の職員組合の人が見ていてくれていたら、誰でもいいから何かコメントをくださ~い。植○クンでもいいよ~。植○クンには、僕はずいぶんお世話になりましたから…。はい。

組合の植○クン、読んでくれているか~。僕やで、ボク!

今の松原市議会議員の中には、アホな議員も何人かおる。
コメントくれたら、どんだけアホかということ…そんなことも教えたるで~。


…失礼しました。

でもまぁこのブログは松原市役所の人たちにも読んでほしいので「のん日記」を、ぜひ組合ニュースで宣伝しておいてください。よろしくね~。


さて、6月17日に、新しい松原市長が登庁をした…と新聞で読んだ。

「行政改革をします。大阪一、全国一の改革をします」
と、38歳の新市長は言った…と朝日新聞には、載っていた。
橋下知事の路線に共感する新市長らしいコメントだ。

全国一の改革…

鼻息、荒いなぁ~。

…とまたこんなことを書くと、職員組合の人たちは
「あ、元議会事務局長がこんなこと、書いと~るで」と言うのかなぁ…?

組合ニュースには、そんなことは、書かんといてや。
僕は、澤井さんとは、仲良かったんやからね~。

「鼻息、荒い」というのは、けなしているみたいだけど、そうじゃないよ。
それぐらいの根性がなければ、今の世の中、やっていけまへん…ってことね。

まあ、話があちこちに飛ぶけど、どっちにしても、一人でも多くの人にブログを読んでいただける、というのはありがたい話だ。

僕は一方的に澤井市長の肩を持つものでもないけれど、むろん敵でもない。

本当に市民の立場に立つ行政を展開してほしいだけである。

以前、このブログにコメントをくださった松原市民の「もしもしピエロ」さんのような方の切実な声に、真剣に耳を傾けてほしい…と思うだけである。

職員組合の皆さんも、そういう市民の方々の声を聴いて、それを職員の人たちに反映させるような組織としてがんばってほしいと思うわけね。

なんだか、ちょっと硬い話になりましたけど…。

 

 

 

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ノルウェイの森

2009年06月17日 | 読書

いま村上春樹の「1Q84」が爆発的に売れているときに、「ノルウェイの森」について書くというのは、何かズレているようだけれど、このごろなんとなくこの小説のことが気になっており、半年ほど前に久しぶりに「ノルウェイの森」を読み返したときの感想を掲載します。

村上春樹の「ノルウェイの森」は、発表後20年経って、初めて映画化されることになった。もっとも完成はまだずいぶん先の話のようだけど、製作にはフジテレビも加わっているというので、また映画化が近づいてきた頃にはテレビで大々的に宣伝を繰り広げるのだろう。そのブームに乗って、小説「ノルウェイの森」のほうも、再び超ベストセラーになるに違いない。

しかし、あの物語がどんな映画になるのだろうか…。見当もつかない。いま太宰治が生誕100年ということでブームになり、いくつかの作品の映画化もされるようだけど、この太宰の小説の映画化というのも、妙な感じがある。

さて、そのノルウェイの森だけど…
1987年、ドイツのハンブルグ空港に着陸直後の飛行機の中で、ビートルズの「ノルウェイの森」が流れる。主人公は、その曲を耳にすると、頭を抱えこみ、朦朧となる。曲は、18年前の出来事とつながっており、その回想が、そのままこの長編小説のストーリーになっている。

主人公が19歳から20歳になっていく1969年の物語である。

1969年といえば、僕自身にとっても、自転車旅行をした、思い出深い年だ。
小説の背景に、学生運動や新宿の喧騒、それに当時の懐かしい曲のことなどが描かれているので、いっそう感慨が深まる。

あ、そうだ。そういえば、今日6月17日はあの自転車旅行に出発した日だった。ちょうど40年前の今日のことだった…。ま、そんなことはいいけれど。

…脱線ばかりしてすみません。

主人公の「僕」は、自殺したかつての友人の交際相手だった直子という女性と、1968年の初夏に東京の街の中で偶然出会う。1年後の、直子の誕生日に、2人は抱き合う。それから間もなく、直子は精神を病み、京都にある療養所生活に入る。「僕」はその療養所に、1969年の秋と冬の2回、直子を訪ねて行く。

この小説には、もう一人、「僕」と同じ東京の大学に通う緑という女性が登場する。現実社会に適応できない直子とは対照的に、緑は活発で生活実践にたけた逞しさをもっており、常に前向に物を考えようとする女性である。

さらに、この2人とは別の意味合いを持つ存在として、レイコさんという魅力的な中年女性も登場する。彼女は、直子と同じ療養所の同じ部屋で暮らしており、いわば直子の後見人のような存在であるが、とても複雑で特殊な過去を抱えている。ギターが好きで、療養所では「僕」と直子に「ノルウェイの森」などの曲を弾いて聞かせてくれるのだ。

東京に戻ってきた「僕」は、直子に手紙を書く。
そこを出られるようになったら、一緒に暮らそう、と。
一方で「僕」は緑にも電話をし、自分には君が必要なんだ、と言う。
さらに小説のラストでは、レイコさんともセックスをする。

なんだか浮気っぽい男の話みたいだけれど、そういう感覚とはちょっと違う。「僕」は、どの女性にも正直に自分の思いを伝えている。19歳から20歳という若さが、青春の彷徨…という言葉であらゆるものを包み込むことを可能にしているのだろうか、と年取った僕は思うのだ。いや、若くても、年を取っていても、関係なく、男の魂というものは、常に複数の異性を求めてさまよい歩いているものなのかも知れない。

どうも、今回の再読では、直子と緑の2人を愛する主人公の心の動きにばかり、読み方の意識が集中してしまったみたいだ。

「僕」は、緑と何度か会って話すうち、彼女を真剣に好きになる。
京都の療養所で直子と一緒にいるレイコさんに、直子のことは気になるが、実は自分は緑を愛し始めている…という手紙を出す。それに対してレイコさんから来た「しあわせになりなさい」という返事の手紙が、とても素晴らしかったなぁ。

この小説には、ほかにも魅力的な人物がいっぱい登場する。
それも、この小説に惹かれる大きな要素である。

小説の「僕」は、親友の自殺によって、死は生の対極にあるのではなく生の中に存在することを実感する。
 

物語の終盤に、直子も療養所内で自殺する。

「ノルウェイの森」は「死」が重要なテーマとなっている。

自分が20歳だった1969年から40年が経つ。
「死」というものとまじめに向き合ったことのない僕も、そろそろ、そういうことを考えねばならない年になってきた。

人を愛することのはかなさ。
生きることの切なさ。
そして、死ぬ、ということの意味。

この小説が日本で超ベストセラーになっただけではなく、数多くの外国の人たちにも、今でも延々と読み継がれているのは、そんなテーマに惹かれる人々が洋の東西を問わず、いかに大勢いるかを示しているわけで、僕もそんな星の数ほどいる愛読者の一人なのである。

つまり自分は、この地球上にいる人たちと変わらない、普遍的な感性の持ち主なんだな~、と考えると、なんとなく安堵したりする。この本を読んで、そんな感想を持つというのも、ちょっと変なのかも知れませんが。

 

 

 

 

 

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マリリン・モンローの「ナイアガラ」など

2009年06月15日 | 映画の話やTVの話など

先日…
「村上春樹」をタイトルに使ったらアクセス数が増える…と書いたけれど、前回の「村上春樹とキムタク」は、閲覧数が458、訪問者数が205ということでランキングが「124
万4,853ブログ中4,442位」と出ていた。こんな前の方の順位って、初めてのことである。

それにしてもこの goo だけで124万人以上の人がブログをしているわけだ。
そのうち、10,000位までは順位が出る。
僕のブログなど、これまでめったに順位など出たことがない。
ごくたまに9,000位台が出るときもあるが、それ以上はなかった。

そこで「村上春樹」と「キムタク」をタイトルに入れるとどうなるか…?
…と実験してみたら、ランキングが4,000位台まで跳ね上がったわけ。
いかに、タイトルが閲覧数に反映するかということですよね。
これでよ~くわかりました。
今後はもう、ランキングなどに構わず、普通のタイトルに戻ります。


さて、わが家の最寄り駅の前にレンタルビデオ店「ツタヤ」がある。
そこにシニア割引というのがある。
60歳以上はレンタル料が半額なのだ(但し、新作を除く)。

なんで60歳以上が半額なのかよくわからないが、別にわからなくてもね~。
とにかく、時期に関係なく半額で借りられるのだから、結構な話である。

そこで最近、よくDVDを借りて映画を見る。

いま、僕の生活は英語の勉強を中心に回っているが、これは9月末に、地球の裏側の国へ旅行をするため、それまでに英語力をアップしたい、というのが主な理由である。英会話スクールへ通っているのもそれがホントの理由である。しかし英会話は、勉強しても勉強しても、年のせいかなかなか身についてくれない。とにかく繰り返すこと。繰り返し、繰り返し、英語に慣れること。それしか上達方法はないのだから、とりあえず9月末までは、英語学習を中心に日課を組む、というふうにしている。だから、読書もままならない。

でも、本も読まない、映画も見ない、という生活ほど殺伐たるものはない。

そこで、せめて映画を見よう…と半額のDVDを借りて来るのである。少しでも多く英語に接する時間を持ちたいので、借りる映画は全部洋画である。

そんなことで…
最近見た映画で面白かったものを、今日はいくつかご紹介したい。



まず「ナイアガラ」 http://all-cdshop.com/?pid=232713

マリリン・モンローが出ているのだから古い映画である。
製作された年を見ると1953年だ。今から56年も前の映画である。
モンローの魅力はもちろんだが、サスペンス映画としても見応えがある。

モンローの夫役で出ているのがジョセフ・コットン。渋い俳優である。
そして、もう一組の夫婦の妻の役に出ているジーン・ピータースが美しい。
この映画は、実質的にはモンローより、彼女のほうが主人公である。
このピータースのきり~っとした美しい表情を見ているだけでも楽しい。

この「ナイアガラ」は、全編ナイアガラの滝が背景に映る。

ナイアガラの滝へは、この1月に実際に行ったばかりである。
この映画は、ナイアガラの美しい景観をたっぷりと見せてくれる。
映画を見ながら、あぁ、あそこへも行ったなぁ、と旅行のことも思い出す。
そんな楽しみに加え、意表をつくストーリーの面白さがミックスされ、さらにナイアガラの滝の怖さも見せつけるラストシーンには、ハラハラさせられる。

この映画があまりに面白かったので、後日スーパーへ行って「ナイアガラ」のDVD(1枚500円)を2枚買った。1枚は一緒にナイアガラへ行った妻の姉にあげるため。もう1枚は僕の英語勉強のためである。この映画は何度見ても飽きない映画と思われるので、繰り返し見て、日本語字幕と英語字幕とを交互に見て…ということを繰り返したら、英語のいい勉強になる…とスクールの先生が言っておられたので、その実践の手始めにこの映画を選んだわけだ。

まあ、英会話は別としても、とても面白い映画ですから、まだ見ておられない方はぜひ一度ご覧になられたらいかがでしょうか? 映画の中で、ナイアガラの滝の観光もたっぷりと楽しめますよ~ん。

 * ボケ防止に効果があります。
    心と体の疲れをとる効果があります。
    モンローウォーク を見ていると、目の疲れが…とれずに、余計に疲れます。



次は、「Mr.ブルックス ~ 完璧なる殺人鬼 ~ 」

http://www.cinemacafe.net/movies/cgi/19636/

ケビン・コスナーが殺人鬼を演じる。
殺人鬼と言っても、ふだんは地位もあり、家族愛の深い温厚な紳士である。
しかし、殺人の衝動に駆られると、抑えることが出来ない。
これまで何年間も、ず~っと、見事な完全犯罪による殺人を繰り返してきた。

「これを最後にしよう」と決意して臨んだ夜。

アベックが抱き合っている部屋へ、特殊な工具を使って鍵を開けて忍び入る。
「キャァ~」とわめき叫ぶ若い男女に銃を向け、冷静に2人の額を撃ち砕く。

しかし、信じられないことに…
その部屋はカーテンが大きく開かれていた。
そして、向かい側にはマンションの窓。
「まさか!」と、犯行後にそれを見て驚くケビン・コスナー。

彼は用心深くカーテンを閉めた。

だが、彼がカーテンを閉めようとしている姿を、向かい側のマンションの窓から写真撮影した男がいた。ケビン・コスナーの後ろで折り重なって死んでいる裸の男女も、その写真の中に、克明に写っていた。動かぬ証拠写真である。

…とまあ、こういう感じで話が進んでいく。

殺人の証拠写真を撮ったマンションの男は、ケビン・コスナーを脅迫するが、その内容は、金銭の要求ではなく、「次に人を殺すときには、俺もいっしょに連れて行ってくれ」というものであった。

長年、謎の殺人鬼を追ってきた女刑事デミ・ムーアがこの事件を担当する。
果たして、女刑事は、この殺人鬼の正体をさぐり当てることができるのか?

あまり書くとネタバレになるからこの辺でやめますが、まあ、退屈せずに2時間を過ごせることは保障します。ストーリーの展開が少々雑なところは目をつぶりましょう。こういう映画には、あまり細かい注文をつけてはいけないですからね。ラストシーンは、一瞬「ギャァッ~」と叫びますよ。


 * シミやシワに効き、ハリと弾力のある肌を作ります。
      血液をハラハラにし、心臓をドキドキさせる効果があります。

 

次は、めちゃくちゃ楽しい映画をお望みの方に…

「ベガスの恋に勝つルール」

http://movies.foxjapan.com/vegas/

キャメロン・ディアスとアシュトン・カッチャーの、ハチャメチャなラブコメディですが、もう、理屈も何もありまへん。こんなゲラゲラ笑った楽しい映画は久しぶりです。キャメロン・ディアスもいつまでもキュートだし輝いていますね~。でも、ラスベガスのカジノで、たった25セントで約3億円なんて当たるもんですかね~…と、2回ラスベガスに行って、いずれも負け負けベイビーちゃんに終わった僕なんかは思いますが…。ま、それも映画ですからねぇ…と、何でも許されてしまうパワーを、この映画は持っています。

もうこの映画には何の説明も必要ないでしょうけど、少しだけ…。

初対面の男女がラスベガスで意気投合し、その夜のうちに結婚してしまう。
実は2人ともひどく酔っていて、翌朝、何も覚えていない状態だった。
キャメロン・ディアスは、自分の指に結婚指輪がはまっているのを見て、
「ぎえぇぇぇぇ~!」と失神するほど驚くのである。

2人はカジノの前で、お互いをののしりあう。
そして、さっさと別れてしまう…はずだった。

しかし、たまたま、キャメロンがもっていた25セント硬貨を、アシュトン・カッチャーが、口論しながら何気なくスロットマシンに入れて、2人とも結果も見ずに立ち去ろうとしたその時。カジノ全体が揺さぶり返るほどの大音響で「大当たり」が告げられた。2人が振り返ると、自分たちの25セント投入マシンが「300万ドル」を当てたのである。「ワオ~ッ」と目を丸くする2人。

「これは私のものよ。私の25セントだもの!」
「何を言う。僕が当てたんじゃないか」

2人は今度は300万ドルの権利をめぐって大口論。
そして裁判にもつれ込むのだが、判事が下した結論とは…??

…と、あとは見てのお楽しみですが。


 * 便秘、貧血、イライラ等に効きます。
     ただし、アイスクリームの食べ過ぎなどには効果はありません。


 

 

 

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村上春樹とキムタク

2009年06月12日 | 映画の話やTVの話など

どんどんエスカレートしていきますね。
村上春樹とキムタク、というタイトルはどうや! まいったか!
…ていう感じで。

きょうも別に、村上春樹とキムタクとは、何の関係もありません。

村上春樹については、これまで何度かブログに書いてきたけれど、僕がこの10年間では一番多くその作品を読んだであろう大好きな作家である。デビュー作の「風の歌を聴け」は何度読んでも楽しい。ただ、僕の最も好きな作家である開口健の「風に訊け」と題名がまぎらわしいのが玉に瑕だけれど…。

村上春樹さんと自分との共通点が多いのも、親近感を強める。

彼は1949年1月12日に京都市で生まれた。
僕も1949年1月9日に京都市で生まれた。

彼は1971年に学生結婚した。
僕も1971年に学生結婚した。

彼は、早稲田大学で彼女と知り合った。
僕は、早稲田大学ではないが、早稲田速記学校で、妻と知り合った。
(なんや、それは?)

彼は、34歳で海外初マラソンを走った。
僕も、34歳で海外初マラソンを走った。

彼は100キロウルトラマラソンを走ったことがある。
僕も100キロウルトラマラソンを走ったことがある。

血液型はお互いA型である。

当時では珍しい兄弟のいない一人っ子というのも同じである。

まあ、それだけの話ですけどね。
文学的才能も一緒だったら、どれだけよかったか…
 



キムタクはやはり当代一のタレントであると思う。
(話がバラバラやがな~)

「ロングバケーション」の第一回目を見ましたか?
僕は今でも、あれだけ強烈なドラマの冒頭を見たことがありません。

山口智子が花嫁衣裳のままで、裾をまくりながら街の中を走って行く。
そして、とあるマンションの階段を走り上がる。
その一室の前に来て、彼女はドンドンドン!とドアを叩く。
中から「はぁ…?」と出て来たのが当時22歳のキムタクだった。

山口智子は結婚式を挙げる日であった。
しかし、式の当日になっても相手の花婿が来ない。
彼女は花婿が住むマンションへ疾走するのである。
その花婿のルームメイトがキムタクだった。

花嫁姿の山口智子を見て「はぁ…?」と驚くキムタクの表情がいい。
とても、いい。
僕はそれから、キムタクのファンになり、妻も大ファンになった。

それ以来、ず~っとキムタクのドラマを見ている。
「眠れる森」などは、ビデオを借りて、一気に全部見た。

しかし。
今の「MR・BRAIN」はどうか…。

妻はとにかく、キムタクが出ていたらそれだけで幸せ、という人だから、毎回土曜日の夜のこのドラマを楽しみにしていて、モミィが泊まる日はテレビを見られないから、必ずビデオを撮って、モミィが帰った後はさっそく見ている。怖ろしいほど真剣に見ている。

でもねぇ。
このドラマは、キムタクはいいんだけれど、ストーリーがなぁ…。
キムタク大好きの妻もさすがに、「う~ん。イマイチねぇ」と言う。

僕も、これまでのキムタクのドラマで、一番面白くないと思う。

脳の働きを紹介する番組としてはいいが、それなら何もキムタクが出ることもないだろう。

でも、あのドラマにキムタクが出ていなければ、視聴率はゼロやろなぁ。
キムタクには、それだけす~~っごい魅力がある、ということでしょうね。

ちなみに、キムタクの演じる脳科学者は「九十九龍介」という名前である。
「くじゅうく、と書いて、つくも、と読みます」
とキムタクは、ドラマの中で、自己紹介をするとき、必ず言う。

そういえば、高校時代の同級生に九十九(つくも)という男がいた。
大柄で、いつもオロオロしていて、勉強のできない、おとなしい男だった。
小柄で、勉強ができて活発な僕(…よぉそんなこと、自分で言うなぁ…??)とは、気が合い、仲が良かった。帰る時はいつも一緒に電車の駅まで歩いた。

この間、みのもんたの「朝ズバ」で、日本全国に九十九という苗字の人が何人いるか調査したという。結果は100なんぼ世帯であった。日本全国で、九十九という苗字がわずか100数世帯とは、おどろくべきことであった。九十九という友達がいたので、どこでもある苗字だと思っていた。

きょうは、それだけの話です。はい。

 

 

 

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村上春樹と耳鳴りと腰痛

2009年06月11日 | 心と体と健康と

今日もこんなタイトルですが、「村上春樹」と「耳鳴り・腰痛」とは何の因果関係もありません。念のため。
(昨日、村上春樹の題名をつけただけでアクセス数が急増したので、また試してみたいと思いまして。物好きです、僕も)

 

昨日、2ヶ月ぶりに大手前病院へ行った。

耳鳴りの治療(経過観察というか、カウンセリングのようなもの)であるが、最近はあまり変化がないので、先生に報告することも多くない。でも、変化がないからいい、というものでもない。このジーンジーンと、1日24時間、1秒も鳴り止むことのない耳鳴りというのは、言葉に言い表せない苦痛がある。鳴り止んでくれたらいいのだが、鳴り止む気配はまったくない。それを「変化がない」と表現するだけで、順調な経過ということではない。だから、あとは自分でどう気持の整理をつけて耳鳴りと付き合っていくかが大事なのだ。

耳鳴りは、気にすればするほど頭の中で大きく響き、果てしない地獄の淵へ追いやられる。だから、気にしてはいけない。そのために、それがなるべく気にならないように、毎日どういう生活を送るか…というのが大事なことで、大手前病院でも、主にそういうことを先生と話し合うのである。

前回は退職直後に行ったので、「英語会話スクールへ通います」と言った。
「私も英語を習いたいと思ってるんです」とその時、先生が興味を示された。

昨日はその前回の会話の続きをしたのだけれど、
「英語、どうですか。もう話せるようになりましたか?」と先生。
「いや~、まだまだです。でも、イヤホーンで英語を聞くのに集中すると、耳鳴りも一時忘れますね~」と言うと、「なるほどね~」とおっしゃっていた。

まあ、他愛もない話かも知れないが、こういう会話が、わりに大切なのであって、耳鳴りも脳と密接につながっており、うつ病や自律神経失調のような要素を多分に含んでいるので、気持の持ち方が大切で、生活もなるべくリズミカルに展開していくように努力しなければならない。

次回の来院は、また2ヵ月後ということになった。

診察前に、久しぶりに、yukariさんとお母さんにお会いした。
しばらく待合室で話したが、お母さんのお話をお聞きすると、yukariさんも非常に几帳面な性格でいらっしゃるようで、そういうきちんとした性格が、耳鳴りを発症させたのかも知れないなぁ…と思ったりした。その点、僕は几帳面からはほど遠い人間だから、耳鳴りなんかならないはずだが、心の深層までは、自分でも見きわめることはむつかしい。

診察のとき、先生に、「僕もうつ病や自律神経失調の傾向があるのかも…」と言ってみたら、「いやぁ、そういうタイプじゃありませんよね」とのお返事。
ま、いいか。

帰途、阿倍野の旭屋書店に寄った。
大きな書店だが、あちらこちらに、

村上春樹の「1Q84」は、12日に入荷の予定でございます

という立て札が置かれていた。
まだ入っていないのか…。
 

ところで、一昨日から腰痛が激しくなり、腰をコルセットで固定している。
もう何年も腰痛には悩まされているが、程度は一定していて、ジョギングしてもそれ以上は悪くならなかった。しかし、一昨日の朝、起きようとしたら腰がガクガクして、上半身と下半身が別物のような違和感を覚えた。そろりと立ち上がり、ゆっくり身体を動かして、体があたたまるとようやく普通に近い動きができるようになる…という症状だ。

4月から通っている英会話スクールでは、授業の最初に講師の女性が、僕たちに「ハワユー?」と聞き、それに対して「グッド」とか「ファイン」とか「ノット・バァッド」とか返事し、ここ数日の近況を、ひとりずつ英語で報告する…というのが約束事になっている。
しかし一昨日は、僕は講師の「ハー・ワー・ユー」の問いに対して、悲しいが「バァッド」と答えなければならなかったのである。

「バァッド? ホワイ?」と講師が目を丸くして驚いた。僕は、
「アイ・ハブ・ア…、アイ・ハブ・ア… え~っと腰痛…、あのぉ、腰痛って英語でなんて言うんですか?」
講師は「オー! オケー」と言って、ホワイトボードに、

 backache と書いた。腰痛は英語でバックエイクと言うのだそうである。

僕は、改めて「アイ・ハブ・ア・バックエイク」と「近況報告」をした。

先週は岐阜県・大垣市(のこたんさんが住んでおられるところ)にある芭蕉の『奥のほそみち結びの地』へ行った話をし、その前は、伊勢志摩スペイン村へ行った話をし、ずっと楽しい近況報告してきたけれど、一昨日は「バックエイク」の報告になってしまった。とほほ。

その腰痛のことだが、書店で村上春樹の本がまだ入荷していなかったので、僕は家庭医学書のコーナーへ回った。腰痛の本を探すためである。メル友さんのじゃいさんが紹介してくれた「腰痛は脳の勘違いだった 痛みのループからの脱出」という本を探した。しかし残念なことに、その本は置いていなかった。

それにしても、その本は、興味深いタイトルである。
腰痛も脳から来る…?
ふ~む。考えられないことではない。
重いものを持たなくても、腰痛になる人は大勢いる。
中には、ストレスなど、精神的な面から腰痛を引き起こす人もいるそうだ。

…ということは、脳の働きによって腰痛も良くなったり悪くなったりする場合があるわけで、その真相を究明すれば、僕が抱えている耳鳴り、腰痛、不整脈という「三大やっかい症状」は、すべて精神的なものが作用しているという結論にも達するかも…、かも…、かも…しれないのであ~る。

…とすると、精神力を鍛えたりリラックスするコツを体得すると、「三大やっかい症状」も改善されるかもなぁ。

腰痛の本の横に、「自律神経訓練法」なんていう本が並んでいた。
こんなのを買って、やってみたほうがいいのかなぁ。

でも、昨日は、yukariさんやお母さんから
「のんさんは、気持が強いから…」と言っていただいたし、
大手前病院の先生からも、
「うつや自律神経失調という感じではありませんよ」と言っていただいた。

これはまあ、うれしいお言葉である。

それを思い出したので、「まあ、やめとこう。考え過ぎもよくないしなぁ」と、自律神経の本も買わず、結局書店では、それらと何の関係もない本…「名作映画で英会話シリーズ アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』」という、映画のシナリオとDCDがセットになったものを買って、家に帰ったのである。

「1Q84」と「腰痛は脳の勘違いだった」は、また次の機会にしよう。



*あとがき 長い間パソコンの前に座っていると、ますます腰が痛い。 
      パソコンの置き場所を変えて、立って打つとまだマシなので、
      しばらくはそうすることにします。足がだるいですけど…。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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村上春樹と長崎チャンポン

2009年06月10日 | 日常のいろいろなこと

最初にお断りしておきますが、このタイトルの村上春樹と長崎チャンポンは、何の因果関係もありません。
ただ単にタイトルが思いつかなかっただけです。すみません。



6月○日 

村上春樹の新作「1Q84」は、ニュースで伝えられているように、どこの書店へ行っても見つからない。この間も丸善を探してみたら全2巻のうち「2」は本棚にドサッ~と並べられてあるのだが、「1」が1冊もない。

「あれぇ~、第一巻があらへんやんか。どないなってんの…これ?」
と、となりにいた若い女性2人連れの一人が言うと、もう一人が、
「ええやん。どうせ文庫本になるんやろ。その時に買ったらええやん」
と、連れを慰めていた。なるほど。おおらかな人である。

刊行後、1週間で100万部近く売れたというのだから、そりゃあ、売り切れるのも当たり前だろうなぁ。


この小説は、1984年がベースになっているとか。
「1Q84」の「Q」というのが、よくわからないけれど。

オーウェルの小説「1984年」とも関係あるそうだ。よく知らないけど。

この本の宣伝文句のひとつは、
「あなたの空に月はいくつ浮かんでいますか?」である。
ますます、よくわからないけれど。

ついこの間まで、インフルエンザの影響でマスクがすべての店で売り切れてしまい、入手困難だったが、今では余り過ぎるほど出回っている。春樹さんの小説の第1巻も、そのうち、どば~っと店頭に出てくるだろうから、それを待つしか、今のところ手はなさそうだ。



6月○日

昼に民放TVの番組を見ていると、「長崎のおいしいものめぐり」というのをやっていた。長崎名物のベストテンが紹介されていくのだが、第2位がカステラで、第1位が…、誰でもわかりそうだが、長崎チャンポンであった。タレントがその長崎チャンポンを食べ、「うわ~、おいしい!」と感きわまった表情で叫んでいた。たしかに、長崎チャンポン、うまそ~。

しかし、僕はその風景を見て、自分の長崎チャンポンに関する悲しい経験を思い出したのである。涙なくしては語れない話であるから、僕はもう、今書き出そうとしている瞬間から目頭が熱くなってくるのである。

…あれは30歳の時。つまり30年前。

ちあきなおみは「喝采」で、

♪あれは3年前 とめる あなた残し…

と歌ったが、その10倍も前の話だ。
   (そんな歌、若い人は知らないだろうけど)

ゴールデンウィークを利用して、九州へ自転車旅行に行ったときのことだ。
大阪からフェリーで門司港まで行き、そこから博多~唐津~長崎~五島列島~長崎~天草~鹿児島と走り、宮崎の日向からフェリーに乗って大阪へ帰った。

その旅行中の、長崎に行ったときのこと。
長崎は雨だった(出たぁ。また古い歌。「今日も」が抜けているけど)。

雨だからその日は宿に連泊することにして、僕は長崎市内をほっつき歩いた。
昼食に繁華街の食堂へ入った。そして長崎チャンポンを注文した。

運ばれてきたチャンポンをずるずると食べていると、僕の隣のテーブルに、初老のこざっぱりした身なりの夫婦と、タクシーの運転手さんらしき男性の3人連れが座った。タクシーで長崎を見て回っている旅行者夫婦なのであろう。

旦那のほうがウェイトレスに自分と妻の注文を伝えた後、運転手さんに
「さあ、遠慮なく何でも注文してくださいよ」と言うと、
「はい。では、私はチャンポンの並みをいただきます」

「ええっ? チャンポンの並み?」と旦那は驚いたように運転手さんを見て、
「そんな、安いものを言わずに、もっといいものを注文してよ」と言う。
「いえ、私はそれで結構ですので」と恐縮する運転手さん。
「ダメだよ、チャンポンの並みみたいなもの。もっといいものがあるでしょ」
と、旦那はまわりに響きわたるような大声で、別のものを勧めるのである。

そのすぐそばで、僕は「チャンポンの並み」を食べていた…。

あぁ、書きながら、また涙が出てきた。


 

きょう(6月10日)

きょうは午前中に大手前病院で耳鳴りの診察(経過観察)である。
およそ2月に1回、その病院へ行くことになっている。
耳鳴りそのものは、ほとんど変化なく、相変わらずやかましい。
というより、なんだか最近、音が大きくなったような気もする。

さて毎回、次の診察日を予約するのだが、前回は、
「次は6月10日でいかがですか?」と技師さんがおっしゃった。
普通は、こちらから希望日を言うのであるが…。
「は…? 別にいいですけど…」と返事すると、技師さんは、
「その日は、yukariさんも診察日なので、いいんじゃないですか」
ということであった。
これはまた、粋なはからいをしてくれるお人である。
ありがとうございます。

きょうは、久しぶりにyukariさんとお会いできます。

そして帰りに書店に寄って、また村上春樹の小説を探そう。

そしてそして、夜はサッカーのカタール戦。

お楽しみは、これからだ。

 

 

 

 

 

 

 

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日本 W杯出場決定!

2009年06月07日 | スポーツの話題

いつもはたいてい午後11時までには寝るのだが、昨晩は夜中まで起きていた。
もちろん、サッカーW杯アジア最終予選のウズベキスタン戦を見ていたから。


そして、日本は1対0で勝ち、4大会連続のW杯出場を決めた。
唯一のゴールは岡崎だった。最近の彼には、圧倒的な勢いがあるみたいだ。
TVアナウンサーは岡崎がゴールに走り込み、先制点を入れたとき、しきりに「大久保! 大久保!」と興奮して叫んでいた。岡崎やろ。ちゃんと見ぃや。


この試合のユニフォームは、ウズベキスタンが青で日本が白だった。見ていて何度も間違えかけた。青=日本とアタマに刷り込まれているので、青いウズベキスタンが攻め上がると、よ~っしゃ、と叫んだりして…。アホやがな。


試合展開は、ヒヤヒヤドキドキの連続で、まさに薄氷をふむ思い。
敵地での試合なので、審判も、日本にむちゃくちゃ不利な判定をする。
けしからんが、まあ、それがサッカーの世界だから、仕方がない。


日本は前半9分という早い時間帯に得点したけれど、その後、審判の「えこひいき」もあってリズムを乱してしまったのか、ず~っとず~っと、攻められっぱなしだった。ほとんど相手にボールを支配され、最後の最後まで防戦一方だった。


おまけにラストのロスタイムでは、日本選手1人が退場になるわ、岡田監督まで退場を宣告されるわで、どうなることかとハラハラしたが、なんとか逃げ切って試合終了のホイッスル。やれやれ…と胸をなでおろす。
相手のシュートミスに何度も助けられた形である。


むろん、GK楢崎の好プレーも見逃してはならない。


どんな悪い条件や展開でも勝つ、というのが何よりの成果だった。


しかし、こういうのって、とても心臓に悪い試合なのだ。ほんと。


ともかく勝ってW杯出場を決めてよかった。ホッとした。
こういうことは、早く決めるに越したことはない。


だけど、いつの間に、日本はこんなに早々とW杯への出場を決めることができるようになったのだろうか…。あれだけ長い歳月、W杯出場という大きな壁に何度も跳ね返され、苦しみもがいていた日本のサッカーが、前大会に続き世界で最初にW杯への出場を決めるなんて…。これまで、どう転んでも考えられなかったことである。アジアの出場枠が増えたのが大きいが、日本が国際試合での勝負強さに長じてきたことも確かだろう。


思えば…
12年前に、ジョホールバールで日本がイランを延長戦の末に破り、史上初のW杯出場を決めたときは、狂喜乱舞した。98年フランスW杯への切符だった。


しかし、その4年前、アメリカW杯行きの出場をかけた最終のイラク戦では、後半のロスタイムまでリードしながら、どたん場で同点に追いつかれ、ほぼ掌中に収めかけていた初出場の夢を無残にも砕かれたことが、つい最近のことのように思い出される。いわゆる「ドーハの悲劇」だが、その時、家族全員でTVの生中継を見ていた僕たちは、あまりの衝撃的な幕切れに、しばらくは口がきけなかった。僕の人生のあらゆるスポーツ観戦の中でも、あれほどくやしくて残念で悲しい思いをしたことはない。


その時、日本のTVスタジオで解説をしていたのが今の岡田武史監督だった。日本が痛恨の引き分けに終わったあと、スタジオにカメラが切り替わった。ブラウン管にアップで映った岡田武史は、無言のまま、ポロポロと涙を流していた。見ていた僕も、思わず泣いてしまった 。


かなりの独断だが、あの時日本は、ロスタイムに入ってからきちんと守れず、FWの武田修宏 (当時ヴェルディ川崎)が中途半端にチョロチョロ動いたことが、イラクの同点ゴールへの遠因となったのだ。その武田といえば、今では、しょうむないTVのバラエティ番組に出て、タレントに混じってチャラチャラ騒いだりしている。相変わらず軽い。見ていてムカつく。
お前のせいで94年のアメリカW杯に出られへんかったんやろ~ 。


あぁ…、また個人攻撃になった。Sorry 。
(さんざん書くだけ書いて、反省の弁…)


さて、これで日本は来年の南アフリカW杯に出場することが決定した。


やっとの思いで初出場を果たした1998年の仏大会では、1勝も出来なかった。
次の2002年は、日本が開催国だったので予選なしで出場し、ホームの利を生かして決勝トーナメントに進出したが、トルコに敗れてベスト8入りを逃した。
その次の2006年ドイツ大会は、これまた1勝も出来ずに予選敗退した。
自国以外では、まだW杯の勝ち星がない日本である。
岡田監督はベスト4をめざすと言うが、まず1勝を挙げてもらいたい。


思い起こせば…3年前の6月22日。
ドイツW杯の開催期間中に、僕は軽い脳梗塞になり、右半身が麻痺した。
ちょうど、日本対ブラジル戦の前日のことであった。
それから半月ほど、仕事を休んだ。
「ワールドカップにカンカンになりすぎたんと違うか?」
と、後日、友達にからかわれた。
真夜中や未明に、試合のTV中継があって、生活が不規則になっていたことは事実であった。


来年の南ア大会では、熱中し過ぎないようにしなければ…。

 


 

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お酒は人を変える?

2009年06月02日 | ニュース・時事

毎日報じられるいろいろな事件を見ていると、なんとまあ酒を飲んだ上での犯行が多いことか。

ごく最近のニュースでも…

東京都杉並区の駅のホームで、男が後ろからいきなり女性の腕をつかんで一緒に線路へ飛び降りて、女性に大怪我を負わせた事件があったが、およそ考えられないふるまいである。ホームから突き落とす、というのなら聞いたことがあるが、一緒に飛び込むって、いったいなんでそんなことを…?と思ったら、犯人の大学生の男は直前まで7、8本の缶ビールを飲んでいて酔っており、警察では「何も覚えていない」と供述しているという。

わけのわからん犯行は、飲酒の上の犯行が多い。
だいたい、やった本人もわけがわからんのだから。

川崎市の大家さん一家を殺害した男も、夕方から翌日の未明まで、酒を飲んでいたという。日頃から恨みを抱いていたことが、酔って暴発したのか。

これらのニュースを見ていると、飲酒というものがいかに怖ろしいことに繋がって行くかを痛感させられる。
…と、こんなことを書いている僕自身も、酔ったら、その時のことをまったく覚えていないことが多いから要注意である。
でも、僕の場合は、仲間にその時の様子を聞くとたいてい
「陽気に面白いことしゃべっていたわ。楽しいお酒からええやんか」
と言われて、正直なところ、ホッとする。
まあ、それで今日まで甘やかされてきたことは否定できませんが…。

酔うとカラむ。喧嘩する。スケベになる。愚痴る。泣く。説教する。
いろんな人がいる。

…そういうのは、それぞれの性格なんだろうと思う。
お酒を飲んだからと言って、愚痴を言わない性質の人はやっぱり言わない。
絡まない人は飲んでも絡まないし、喧嘩しない人はゼッタイにしない。
泥酔して、前後不覚になっても、しない人は、しない。

酒を飲むとガラリと人格が変わる、とよく言われるが、飲酒はその人の本性を引き出すだけで、人格まで変えたりはしないのではないか。もともとそういう人格であるのを、ふだんは抑えているだけなのだ(抑えることは悪くない。社会人として、大切なことだから)。

僕はちゃらんぽらんな性格だから、酒を飲むとそれが増幅する。
僕はおしゃべりな人間だから、酒を飲むとそれがさらに増幅する。
そばにいる人は、うるさくて仕方ないだろうけど。
でも、その程度で、まだマシだったな~と思う(言いわけ…?)。

と、まあ、こういうふうに書いてくると、それでは、お酒を飲まない人は、その「本性」は、永遠に現れることがない、という理屈になる。これは、飲まない人は、ふだんが「素」そのものなのである…ということだろうか。

なんだかよくわからない話だけど。

それにしても、SMAPの草なぎ剛クンは、泥酔して裸になって騒いだうえ、注意した警察官に暴行を加えようとしたのであるが、先日の復帰記者会見の時、マスコミや芸能人たちは、「素直に反省しているから」と、まるで彼が、善いことをした人間のような扱いをしていた。

芸能人が不祥事を起こしたとき、必ずニュースキャスターやタレントたちが、さも物分りのよさそうな顔をしてかばうのは、なぜだろう。不思議である
特に今回の場合は、対象は人気のSMAPだし、総務大臣まで「言い過ぎました」と詫びているぐらいだから、余計にその傾向が強く感じられる。猫も杓子も「草なぎクンはかわいそう
。まじめな好青年なのに…」である。「まじめな好青年」が酒に酔って全裸になったあげく、警察官に殴りかかるか?

ま、それはともかくとしても、僕は思うのだが、いくら酒を飲んでも、裸になって騒ぐという人は少ないし、さらに警察官に暴行を加えようとするなんて、しない人はゼッタイにしないだろう。しかし、それを実際にしたのだから、それが彼の本性だろうと、多少強引に決めつけてでも、言いたい。
少なくとも、普通の人間なら酒を飲んでもやらないことをするのだから、「根」は決してまじめではないだろう。

彼は「善い人」ではなく、「酔い人」である。
そのほうが、キャラクターとしてふさわしい。
…と、同じ
「酔い人」である僕は、そう思うのである。

 

 

 

 

 

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予想どおりの結果…? 松原市長選

2009年06月01日 | 議会&役所

昨夜10時を過ぎてから、何人かの知人からメールをもらった。
松原市長選挙の開票所から、経過そして結果の報告だった。

結果は…
Sさん、つまり澤井さんが 23,066 票
Uさん、つまり梅木さんが 18,277 票

おおかたの予想通り、38歳の澤井さんが市長に初当選した。

今回の選挙には、昨年11月以降の市立松原病院の閉鎖問題が、ひとつの大きな焦点になっていた。今年に入って中野市長のリコール運動にまで発展したときは、今回の市長選挙は相当盛り上がるのではないかと予測された。

しかし、リコール運動も尻すぼみになり、病院閉鎖反対派の勢いを受けて誰が立候補してくるのかと注目していたら、まあ、言ってはなんだが、梅木さんという人は知名度も低いし、僕なんかもほとんど知らなかった地味な存在の人であった。この人を推した団体(政党?)は、本当にやる気があったのかどうか疑いたくなる。あれだけ病院の閉院を「暴挙」だと市民に訴えていたわりには、本気で市長の座を取りに行く気概に欠けていたと言わなければならない。

まあ、まかり間違って病院閉鎖反対派が市長に当選したとしたら、実際のところ、どうするつもりなのだろう。いまさら病院を復活などできるはずがないし、またぞろ大きな赤字を膨らませていくことが明らかである。そんな、現実にできそうにもないことを公約に掲げて当選するほど、世の中は甘くない。


ところで、澤井さんといえば、今でもよく覚えていることがある。
澤井さんの父親(故人)はかつて連合町会の会長で松原市では有名人だった。

15年以上前になるが、僕が広報を担当していたとき、町会も併せて担当していた関係で、この連合会長さんの家に何度かお邪魔したことがあった。
居間で連合会長さんと話していると、二階からのっしのっしと大柄な若い男性がスウェット姿で降りてきて、「あ、どうも…」とつぶやきながら別室へ歩いて行った。
「息子さんですか…?」と僕が会長さんに尋ねると、
「ああ、そうや。息子や」と会長さんは答えた。
その人が、今の澤井さんであった。
当時、大学生だったその澤井さんが、まさか後年、松原市長になるとは、むろんそのときには夢にも思わなかった。

澤井さんは昭和46年生まれである。
昭和46年と言えば僕が市役所に就職した年である。
僕が役所に入った年に生まれ、退職した年に市長になったわけだ。
ふ~む。

ただ、アナザービートルさんもおっしゃっていたように、若ければいい、というものではない。今の松原市は、誰が市長になっても、前途は多難である。

今後、どういう行政手腕を発揮していくのか、まったく未知数であるが、
どうか、死力を尽くして松原市を立て直してほしい。


…ここからは全く余談になるけれど。

澤井さんは、このブログなどむろん読んでいないだろうから、ちょっと内緒の話を書いてみるが、澤井さんは1昨年から去年にかけての1年間、市議会議長をつとめた。僕はその時、議会事務局長をしていたから、職責上、澤井議長とは、ほとんど毎日のように携帯メールで連絡を取り合っていた。

そして、澤井さんが議長をやめてしばらく経ったとき。
ある日、僕はうっかり澤井さんからメールが来ていたのに気がつかなかった。

そのあと、澤井さんが僕のところへやって来て、
「メール出したのに、議長をやめたら返事もくれないんですね。冷たいなぁ」
と、ケラケラ笑いながら冗談を言った。
「あ、いや、そんなつもりじゃなかったんです。気がつかなくて」
「いやぁ、議長をしているときは、すぐに返事をくれたのになあ」

そして、昨晩…。
僕は澤井さんに「ご当選おめでとうございます」とメールを打った。

しかし、一夜明けた今も、まだ返事は来ない。
そりゃ、人生で最も忙しい瞬間だろうから返事なんて来ないに決まっている。

でもな~。

「澤井さん。あんた、市長に当選したら、とたんに冷たくなったなぁ」

と、今度は僕がそれを言う番である。ケラケラ。

                  ( 6月1日 午前7時42分 )

 



* 追伸1  昨日のブログは、驚くほどアクセス数が多かった。
       ランキングにも入るほどの数だった。なんでやろ…?

  
* 追伸2  このブログを書いた約2時間後の午前10時前に、
      
澤井さんから、丁寧なお礼のメールをいただきました。
       どうも失礼をいたしました~ (1日、午後1時)。

 

 

 

 


 

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