僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

落ち着かない年度末

2012年03月29日 | 日常のいろいろなこと

年度末といっても、勤めていた役所は退職したので仕事とは関係がない。

ただ、その役所では、定年に達しない年齢で辞める人が増えているという。
役所の後輩に当たるいろんな人からメールをもらうので様子がわかるのだが、
どうやら「改革」を叫ぶ「維新の会」にかぶれているような最上層部がいて、
これがやたらに権力をタテに職員に無理難題を押し付けたりしているそうだ。
(維新の会の議員らも、最近、役所で威張り散らしていると非難されている)

むろん改革は必要である。しかしその手法が強引であれば、人の心は離れる。
トップやナンバー2に立つ人間は、職員のやる気を引き出さねばならない。
自分に媚びる職員を重宝し、主張を通す職員を排除する姿勢は、情けない。

在職中に親交の深かった職員で、早期退職する人が今年は特に多い。
まだ40歳そこそこの若いあの男子職員が辞める…?
真摯な姿勢で仕事に向かっていた複数の女子職員も辞める…?
え…? あの人も辞める…? この人も…?

僕の目から見てまじめで優秀だった職員が、
数多く、この3月末をもって、早期退職する。

今の体制では仕事に熱意をもてない、という人たちが辞めていくのだ。
定年まで勤めるのが本意だろうが、やってられない…というところか。

いずれにしても、この役所は僕の勤めていた頃と大きく変わった。
僕が退職した後に就任した市長と副市長を「恫喝路線」と呼ぶ職員もいる。

これでやる気をなくした職員たちは、ある部分ではゆるみ、
またある部分では過酷な業務を押し付けられ、ストレスを強める。

ある職員はそれでうつ病になり、僕の住む街の心療内科へ通っている。
いつか駅前で、そこへ治療に向かう彼とバッタリ出会い、話を聞いた。
彼も、副市長から酷い扱いを受けてノイローゼになったそうである。

まあ、そんなことで、今では僕にとって何の関係もない市役所だけど、
そこで働く何人かの職員とはずっと親しく付き合っていることもあり、
そういう話を聞くと、なんとも哀しい気がする。

議員にもボンヤリ者が多いので、チェック機能も期待できない。
…ということで、この調子では当分、市の発展も期待できない。

  ………………………………………………………………………

話はコロッと変わるが、この年度末から4月初旬にかけては、
幼稚園から小学校へと移行するモミィの春休み期間でもある。

エレクトーンの初めてのコンサートがいよいよ今日の午後にある。
何ヶ月も前から、楽譜をもらい、ボチボチと練習をしてきたが、
この1~2週間は、発表曲のレッスンの特訓に明け暮れた。

曲のいくつかのパートの一つを受け持つモミィだが、
メロディも伴奏もあって、一人で弾くとだいたい弾ける。
しかし、合同で弾くと、他のメロディや伴奏が耳に入り、
自分が今どこを弾いているのかわからなくなって、
途方に暮れる…という場面が多かった。

僕は、教室での合同レッスンをデジカメで動画撮影し、
家でそれをパソコンにセットして音のボリュームを上げ、
それに合わせてモミィにエレクトーンを弾かせる…
という練習を繰り返させた。

僕は、モミィのエレクトーンのすぐ横に座って、
「いちにのさ~ん、はい」 とリズムをとってやり、
聴きながらチェックして、練習に付き添っていた。
あぁ、早くひとりで練習できるようになってほしい~

妻は妻で、コンサートでモミィが着るドレスやリボンを作った。

生徒のママの中で、型紙や生地を用意してくださる方がいて、
ドレスの「完成品」を写メールで送ってもらったりしながら、
妻にそれを伝えたり見せたりし、妻はそれを見てミシンをかける…
と、まあ、そんなことで、ドレスもリボンも無事に出来上がった。

このドレスに関しては、エレクトーン教室に付き添ってきているのは、
すべてママかおばあちゃんかのどちらかで、男は僕ひとりである。
だから、ドレスの生地を切ったり縫ったりという話は全くわからない。
生地を用意してくださった方に 「作り方」 の説明を書いてもらったり、
とにかく、その方には、何から何までお世話になり、大いに助かった。

一昨日の火曜日に、最後の合同レッスンがあった。
その時は、全員 (9人ですが) がドレスを着て、
本番と同じ服装で、コンサート曲を弾いた。

これがその時の写真です。 



  
   27日。 エレクトーン教室で最後の合同練習。 左端がモミィです。


そのコンサートが、今日の午後、八尾のプリズムホールで開かれる。
これが、モミィが一緒に習っているグループ全員の 「初舞台」 だ。

練習は、やれる範囲で精一杯できた。 その点、悔いは残らない。
あとは、これが無事に早く終わってくれることを願うばかりである 。

僕もここ数週間、譜面を暗記したり、自分でエレクトーンを弾いたり、
モミィをみてやるために、それなりの苦労を重ねて、かなり疲れた。
エレクトーンを習いに行かせるのがこれほど大変なことだったとは…

 ………………………………………………………………………

今日のコンサートが終われば、明日から2泊3日で東京へ行く。
モミィの卒園のお祝いに東京ディズニーランドへ連れて行くのだ。

こちらも、いろいろと予備知識の必要なことがあって、
妻がガイドブックをにらみながら、あれこれ段取りを考えている。

気がかりなのは東京のお天気で、出発する明日の30日から下り坂となり、
まる1日ディズニーランドで遊ぶ予定の31日は荒れ気味の雨天だという。

ああぁ~

人ごみの嫌いな僕は、ただでさえ疲れるだろうに…
おまけに雨とはなぁ。

とにかく、東京から帰ってきた4月1日の夜に、
はじめてやれやれ…と、心の底から落ち着けるのだろう。

今日を入れて、あと4日。  落ち着ける日まで、あと少しである 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

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40年ぶりの再会

2012年03月26日 | 日常のいろいろなこと

今月の初旬、叔母さんから電話がかかってきた。
僕の母の妹に当たる人である。

母には実の妹が1人と異母妹が2人いるが、実の妹は早くに亡くなった。
母の異母妹の2人とも、僕の叔母さんとはいえ、僕と同年代である。

電話をかけてきてくれた叔母さんは、僕より1歳年上で、
その妹でもう1人の叔母さんは、僕とまったく同い年だ。

母や叔母さんたちの父親、つまり僕のお爺ちゃんは、京都の人で、
この人は何人も伴侶を替え、たぶん初婚の時に出来た子が僕の母で、
最後の何人目かの奥さんとの間に出来た子が、この叔母さんたちだった。

だから姉妹でも、母とその2人の叔母さんたちとは親子ほどの年齢差がある。

そして、母の子である僕と、お爺ちゃんの子である2人の叔母は、
みんな京都・西陣のお爺ちゃんの家で生まれ、いっしょに暮らしていた。
まるで3人きょうだいのようにして、幼児期を過ごしたのである。

しかし、僕が小学校へ行く前に、僕の両親が離婚し、
母は京都の家を出て、僕を連れて大阪へ来たのだった。

きょうだい同然の存在だった2人の叔母さんとの暮らしも、それで終わった。

でも、小学生になって、僕は冬休みや夏休みなどに京都の家に泊まりに行った。
2人の叔母さんといっしょに遊ぶのが、兄弟のいない僕の大きな楽しみだった。

お爺ちゃんは僕が12歳の時に、亡くなった。

僕の22歳の時の結婚式に、1歳上の叔母さんとその母さんが出席してくれた。
それ以後、叔母さんとは、電話で1、2度話した程度であった。
ずっと会う機会のないまま、およそ40年の歳月が流れた。

  …………………………………………………………………………

その1歳上の叔母さんから、電話があったのだ。
ちなみにその叔母さんは、今は京都を離れて名古屋に住んでいる。

叔母さんのお母さんが2月に亡くなったという。
それに関して、近々京都のお爺ちゃんのお墓へ行くので、
僕もいっしょに来ないか、というお誘いの電話であった。

40年という長い歳月を経て、叔母さんと会える…。
もうひとりの、僕と同い年の叔母さんは京都に住んでいるが、
むろんその叔母さんのほうも来るという。

僕は、行きます、必ず行きますよ~、と返事した。

そんな経過で、先週の土曜日、3月24日に、
京都駅で、2人の叔母さんと40年ぶりに再会した。
3人とも60歳を過ぎているというのに、やはり、お互いを、
〇〇ちゃんと、子どもの頃と同じ呼び方をしてしまうんだよね。

それにしても、40年。
お互いに老けて当然だけれど、顔を見れば面影は十分にあった。
そしてしゃべり始めると、そんな歳月もどこかへ吹き飛んでしまう。

上の叔母さんは、名古屋から2人の娘さんも連れてきた。
お姉ちゃんのほうは、大きな子どもさんもいる、という。

その2人の娘さんは、よ~く考えてみれば(考えてみなくても…)、
僕の「いとこ」になる人なんだ。

兄弟もなく、まわりに血縁もいない僕にとって、
初対面の「いとこ」と会うというのは、うれしいものである。

まあ、そんなことで…
2人の叔母さんと、2人の「いとこ」と、5人でお寺へ行った。

お爺ちゃんのお墓は、壬生寺にある。
壬生、といえば、思い浮かぶのは新撰組である。

5人で雨上がりの路地を、壬生寺めざして歩いているうち、
8年前、NHK大河ドラマ「新撰組」が人気を集めていた頃、
一度、僕はこの辺をウオーキングしたことを思い出した。

新撰組の屯所跡、などを写真に撮り、その後、その写真を、
このブログに乗せたこともあった。

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/s/%BF%B7%C0%F1%C1%C8%C6%D6%BD%EA

またその同じ場所を通ったので、スマホでパチリと撮影した。



   


そして、そのすぐそばに壬生寺があった。 ↓



 


僕も小学生のころ、母に連れられてよくこのお墓に来たはずだが、
それがどこの場所なのか、小さかったのでよくわからなかった。

まさか、新撰組と隣り合わせていたとは知らなかった。

壬生寺で娘さんの1人が、叔母さんたちと僕の3人の写真を撮ってくれた。

上の叔母さんがお寺の事務所で用件を済ませたあと、お墓に行った。
叔母さんが洗剤で、古びて変色した墓石をゴシゴシこすって、洗った。

お寺を出て、5人で京都駅に戻り、昼食をとった。
僕ひとり、ビールを飲んだ。しびれるほど、美味しかった。

むかし話は、しゃべれども、しゃべれども、尽きない。

叔母さんの娘さんたち、あっ「いとこ」だったけど、
その「いとこ」さんたちが僕のメルアドを入力し、
「メールで写真、送りますね~」と言ってくれた。

僕のスマホのプロフィールの画面に、
ブログをしているgooのアドレスも書いてあったので、
「ブログ、やってるんですよ」と僕が伝えたら、
「じゃあ、ブログのアドレスも教えてください」という話になり、
「ええっと、検索で 『僕のほそ道 のん日記』 と打てば…」

彼女のスマホ画面にこのブログが出た。
「また読ませてもらいますね」
と言われたときは、ちょっと恥ずかしかったけど、
「まあ、今日のことを書いたりはしませんから」
と言った僕である。
「別に書いてもいいよ」と、上の叔母さんが横から言った。
(で、きょう、さっそく書いてるわけですけど…)

その日の夜、「いとこ」のお姉さんのほうからメールをもらい、
昨日は、「いとこ」の妹さんのほうから写真付きのメールをもらった。
届いた数枚の写真は、とてもきれいに撮れていた。

きっと、貴重な写真になるだろう。

近いうちに、たぶん「いとこ」のお2人も、このブログを読まれると思いますが、
それを念頭に置きながら書いたので、ちょっと堅くなってしまった感があります。

それにしても、人生の不思議な出会いって、
何歳になってもあるんだなぁ、…としみじみ思ったものです。

 

*ちなみに、僕の母は現在特養ホームでお世話になっています。
 ちょっと頭がホンワカしてきているので、およそ40年ぶりに、
 2人の叔母さんに会ったことを伝えても、わかるかどうか… 

 

 

 

 

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アルゼンチンからこんにちは

2012年03月24日 | 日常のいろいろなこと

   

  
     アルゼンチンからやって来たソルちゃんと仲良くなったモミィ。

 

2009年の9月に、妻と、妻の姉との3人で、アルゼンチンへ旅行したことがある。
アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに住む、妻の姉の次男に会いに行くためだ。

次男はヒロユキと言って1969年生まれ。
僕にとっては、義姉の子だから、いちおう甥ということになる。

若い頃から「スペイン料理人」だったヒロユキは、
1995年25歳の元旦に、本場スペインへ料理の武者修行に出た。
2年後、アルゼンチンへ移り、ブエノスアイレス郊外のレストランで働き始めた。

そのレストランは、以前にも紹介したことがあるが、こういうところだ。

             ↓

http://www.rosanegraargentina.com.ar/#

この真ん中をクリックするとレストランの写真が出てくる。
画面下のCHAF(シェフ)をクリックしたら一人の日本人が出てくる。
それが、甥のヒロユキである。

2009年に、僕たちがアルゼンチンへヒロユキに会いに行くまで、
彼は一度兄の結婚式に出るため帰国したが、またすぐに戻った。
そして、その後13年間、日本に帰ってくることはなかった。
どうやら、現地で、同じレストランで働く若い彼女もできたようだ。

そんなとき、ちょうどその2009年3月末に定年退職を迎えていた僕は、
義姉に「いっしょにアルゼンチンへ行ってみましょうか?」と持ちかけた。
義姉は大喜びして、「ぜひ、連れて行ってください」と言った。
そして、僕たち3人は、伊丹空港から成田空港へ飛び、
成田空港から米のダラスで乗り換えて、ブエノスアイレスへ行った。

成田空港やダラス空港での飛行機の待ち時間も長くて、
結局大阪からブエノスアイレスまで、30時間近くかかった。

余談だが、ダラスと言えば、今やダルビッシュのホームチームがある街で、
それを見るために、ダラス行きの飛行機の日本人乗客が増えているとか…

当時のアルゼンチン旅行の詳しいことはこのブログに書いています。

ご参考までに…

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20091004

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20091011

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20091017

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20091022

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20091028

さて、僕らがブエノスアイレスへ行くと、ヒロユキのみならず、
ヒロユキの彼女、そしてレストランのオーナーや仲間たちが、
義姉をはじめ僕たち夫婦の3人の来訪を大歓迎してくれた。

14年ぶりに我が子に会った義姉は、感無量の様子だった。
地球の裏側で、立派なレストランのシェフとして元気に活躍するヒロユキ。
その姿を自分のこの目でたしかめられて、どれだけ安堵したことだろう。

すると、翌年の3月、ヒロユキがソルちゃんという若い女性を連れて、
実に14年ぶりに日本へ帰ってきて、2週間ほど滞在したのである。

レストランのオーナーが、ママがわざわざ日本から来てくれたのだから、
キミも日本へ行ってあげなさい、と特別に休暇をくれたというのだ。

それが2010年、つまり一昨年の3月だった。
もちろん、僕たちも、ヒロユキたちと、今度は大阪で会った。
ちなみに、義姉夫婦は大阪市のほぼ真ん中、京橋に住んでいる。

…と、翌年(つまり去年)の3月にも、また2人はやって来た。

その時は、彼女のソルちゃんが、カラオケに行きたいと言ったので、
親戚の中で最もカラオケ好きな僕が、真っ先に声をかけられた。
「ソルちゃんが好きなカラオケに、ぜひご一緒してあげてください」
と、義姉からの連絡を受けて、カラオケを楽しんだ。
その時すでにモミィはわが家の家族となっていたので、
いっしょに連れて行った。
カラオケボックスの中で、モミィは大人しくおやつを食べて続けていた。

そして今年の3月にまた、3年連続で日本に「帰省」してきたのである。

ソルちゃんが去年のカラオケが楽しかったので、今年もお願いします、
と義姉からメールが送られてきたので、3月19日に京橋方面へ出かけた。

もちろん、今年も僕と妻とモミィの3人連れ、である。
モミィは去年のことを覚えており、「ソルちゃんに会いたい」
と言っていた。

ソルちゃんは日本語がわからないので、僕はモミィに
スペイン語で「こんにちは」という意味の「オラ~」とか、
ありがとうの意味の「グラシアス」などの言葉を教えた。

そうしたら…
ソルちゃんがモミィにお土産をくれたとき、モミィが「グラシアス」と言ったので、
ソルちゃんは、目を丸くした後、おなかを抱えてガッハッハ~と笑った。

義姉夫妻と、ヒロユキ・ソルちゃんのカップルと僕たち3人の計7人が、
ソルちゃんのお気に入りだと言うブッフェレストランで食事をし、
そのあと、「二次会」で京橋のカラオケ店へ行った。

ソルちゃんは英語が堪能なので、スペイン語だけではなく、
英語の歌もいろいろ歌っていた。

僕も、せめて一曲ぐらい英語の歌を歌ってソルちゃんにサービスしなければ、
と、大好きなビートルズの 「レット・イット・ビー」 を歌った。

カラオケ画面の字幕に英語が出るので、ソルちゃんは喜んで、
時々歌いやすいところを、僕に合わせてデュエットしてくれた。

僕やソルちゃんが歌うと、今、ヒップホップダンスを習っているモミィが、
タンバリンを持って、狭い部屋の中をお尻ふりふりダンスしてみたり、
クルッとまわって片手をあげるポーズをしてみたり、
なんだかアイドルグループのような振り付けの踊りをするので、
大人たちはみな大笑いで、ヤンヤの喝采を送っていた。

なかなかね~、こういう場を盛り上げる才能があるようだ。

3時間、主に僕とソルちゃんと義姉の旦那さんが歌い、モミィが踊った。

「アリガトウ。タノシカッタデス。モミイ、アリガトウ」

と、ソルちゃんはかわいい顔に満面の笑みを浮かべていた。

  ………………………………………………………………

…と、ここまで書いて、間もなく午前7時になろうとしている。

今日はこれから京都へ行って40年ぶりに母方の叔母さんたちと会い、
京都のお祖父ちゃんのお墓へ行くことになっている。

なんだか、まだ書き足りない気分だけれど、これで筆を置きます。

 

 

  
  27歳のソルちゃんは、すっかりモミィと「意気投合」していた。 

 

 

 

 

 

 

 

   

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選手宣誓に思わず涙

2012年03月22日 | ニュース・時事

日本中の人たちが、心を揺さぶられたに違いない。
そして、涙を流した人も多かったろう。 僕もその一人だった。

言うまでもなく、昨日のセンバツ高校野球開会式での選手宣誓である。

リアルタイムでは見られなかったが、昼にノーカットの宣誓シーンを見た。

あれだけの長い宣誓文を、一言一句、言い間違えることもなく、
堂々と、しかも気負わず切々と、自分たちの思いを訴えた石巻工の主将。

「主将」の力強い言葉は、深く深く、心の中に沁み込んでいった。

同じ 「シュショウ」 でも、どこか国の「首相」の、
ちっとも心に響かない言葉とはえらい違いだ。

                    

先週の13日のブログで、石巻工の甲子園初出場が決まったことが嬉しくて、
昔の、石巻工の校庭でテントを張って一夜を過ごした時の思い出を書いた。

その2日後の15日、大会の組み合わせ抽選が行われた時、
開会式の選手宣誓が、抽選の結果、石巻工の選手に決まった。
出場するのは32校だから、実に32分の1の確率を当てたわけだ。

石巻工の監督が言ったように、まさに「神がかり」である。

僕はその日もブログをアップし、その幸運な出来事を書いた。

そして、昨日の阿部主将の選手宣誓である。
高校野球の歴史に残る選手宣誓であった。

これが被災地の復興への、大きな推進力になると信じている。

「首相」は、昨日の「主将」の言葉を、真剣に心に刻み込んでおいてほしい。

 

 

 

 

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東京ディズニーランド

2012年03月19日 | 日常のいろいろなこと

東京ディズニーランドがオープンしたのは1983年だというから、
来年で30年になるわけで、ほんとに早いものだな~と思う。

当時の新聞やテレビでは、連日その大盛況ぶりが報道されていた。
何しろものすごい数の人たちが押し寄せ、大混雑の様子であった。

だいたい僕は人ごみが大嫌いである。
長い行列に並ぶというのも、自分の趣味に合わない。
なんでわざわざ人ごみへ出かけて無駄な時間を過ごさねばならないのだ。

あんなところへは生きているうちは行きたくないものだ、と思っていた。

ある作家の男性も言っていたけれど、
「いい人は家にいる」

…というのが僕の人生における基本的な考え方なのです(笑)。

では東京ディズニーランドには一度も行ったことがないのか…?

といえば、実はそうではなく、オープンして12年目の1995年3月に、
妻と2人で東京に旅行した折、ディズニーランドへ行ったのだった。

3月の今ごろだったなぁ…と思って当時の日記を見てみると、
95年3月18日だった。 17年前の、ちょうど昨日のことである。

しかし、昼ごはんを食べるのにレストランで1時間も並ばされた時は、

やっぱり来るのではなかったな~、とちょっと後悔したものであったが、
いくつかの乗り物にも乗って、まあ、そこそこ楽しい雰囲気は味わえた。

余談だが、次の日の3月19日に東京銀座で、地下鉄への階段を下りるとき、
一人の男が「世界は滅ぶ」みたいなことが書かれたカードを通行人に配っていた。
僕もそれを1枚、受け取った。

オウム真理教による「地下鉄サリン事件」が起きたのは、その翌朝だった。

  ……………………………………………………………………

さて、あれから17年経ったこの3月。
再び東京ディズニーランドへ行くことになった。
今度はむろん、夫婦ふたりではなく、モミィを連れてである。

17年前に行った時は、東京都内のホテルへ泊まり、
ディズニーランドへは日帰りで行き、夕方また都内に戻った。

しかし、モミィを連れての旅行では、そうもいかない。

今回はJTBの代理店へ足を運び、30日から2泊3日の行程で、
新幹線+ディズニーランド+ホテルというセットを申し込んだ。

ホテルは、最も便利で人気のあるディズニーホテルなどは全部満室だった。

次にオフィシャルホテルというのがあり、JTBが勧めてくれたのは、
シェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルというところだった。
そこで2泊することにした。

それからは妻がガイドブックを見ながら、あれこれ計画を立てている。
そして、妻から頼まれるまま、夕食のレストランの予約をした。

ひとつはポリネシアンテラス・レストランというところで、
「ミッキーとミニーのポリネシアン・パラダイス ・ディナーショー」というもの。
ディズニー大好きのモミィが喜びそうなので、ネットでA席を予約した。
(ショーが一番よく見えるS席はすでに満席だった)

また、もうひとつは「れすとらん北斎」というところでの夕食だが、
これは、プライオリーシーティングというシステムで、電話予約をした。

プライオリーシーティングというのは、レストランが大混雑するので、
あらかじめ指定された時間に店へ行き、席が空き次第優先的に案内される、
…というシステムで、席の予約ではなく、いくらか待たなければならない。

やれやれ…。 食事ひとつするにも、たいそうなことである。

まあ、いかに人ごみの大嫌いな僕でも、春休みの、それも週末に、
東京ディズニーランドへ行くからには、覚悟を決めなければならない。
郷に入っては郷に従え、である。

「ディズニーランド、楽しみぃ~」
と、声を弾ませるモミィがうらめしい。

今から、旅行中の3日分のエネルギーをためておかなければ…
たぶん、そのエネルギーの最後の一滴まで使い果たすのだろうなぁ(泣)

 

 

 

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モミィの卒園式

2012年03月16日 | モミィの成長日記

昨日、モミィの幼稚園の卒園式が行われた。

思い起こせば2年前の4月、モミィは大阪北部の幼稚園に入園した。
そこで集団生活になじめず、発達障害などと診断された。
そのまま数ヶ月が経ったが、モミィは落ち込み続けていた。

そして夏休みに入った時、僕たち夫婦がモミィを引きとり、
9月の新学期から、今の幼稚園に通わせることにしたのである。

今の幼稚園は、長男(モミィのパパ)が通った幼稚園でもあった。

家庭環境が変わり、幼稚園が変わると、モミィは見事に変身した。

いい先生方やいいお友だちに恵まれたのだろう。
いつのまにか、「幼稚園大好き~っ子」 になっていた。

そして1年半の時を経て、晴れの卒園式の日を迎えたのだ。
理想的な形で卒園式を迎えることができて、本当に嬉しい。

さて今日は、きちんとした服装で出席しなければ…と、
久しぶりにスーツを引っ張り出し、ネクタイも選んだけれど、
ネクタイなどは退職後、めったに締めたことがなかったので、
ひょっとして結び方を忘れたんじゃないか…?
と、恐る恐る結び始めたら、手が勝手に動いてくれた。ホッ。


                    


妻とふたりでモミィを連れて幼稚園に行き、いっしょに校庭に入った。
そこからモミィと分かれ、僕たちはスリッパに履き替えて2階へ上がった。

そこが卒園式の会場である。

やがて園児が一人ずつ、一礼をしながら入場してきた。
ぞろぞろと並んで入って来るのではなく、
一人ずつ、間(ま)をあけて入って来る。

今の園長先生は、30数年前、わが家の次男が幼稚園のときの、
担任の先生である。去年4月にここへ園長先生として来られた時、
むかし、保護者会の役員をしていた妻が、「あら~〇〇先生だわ」
と園長先生の旧姓を口にし、当時の記念写真を出してきたりした。

そんな馴染み深い園長先生から、園児ひとり一人が卒園証書を受け取った。



  
    
モミィも、卒園証書をしっかり受け取っていた。


園長先生の式辞では、32人の園児ひとり一人の名前を挙げ、

その子の幼稚園での心に残る思い出やエピソードを語られた。

通り一遍の式辞ではなく、先生方の温かい気持ちが伝わってきた。

そのあと、園児たちが壁を囲むように並んで、思い出の歌を歌った。
園児たちの歌声が流れると、会場はさらに華やいだ。

僕たち夫婦が座っているすぐそばにモミィがおり、間近で写真も撮れた。  

   

 
      左から2番目がモミィです。

 

最後に「卒園の歌」を合唱して、閉会となり、園児たちが退席した。

しばらく待った後、先生方の案内を受けて部屋(保育室)に入った。
そこで子どもたちが輪になり、担任の先生が真ん中に立っておられた。
それを、保護者たちがぐるりと取りまく。

担任の先生も、今日は凛々しい袴姿である。
(しっとりとした雰囲気の、お優しい先生です)
その先生から、園児たちひとり一人にお手紙が渡された。



 

 
   担任の先生に握手をしてもらった。

 

その次には、今度は園児たちから1束ずつ、先生に花が贈られた。

先生は最後に「小学校でもがんばってね~」と園児たちにエールを送り、
僕たち保護者にも、丁寧な挨拶をされて、予定の全てが終了した。

30数年前、妻はこの幼稚園で2人の息子たちの入園式と卒園式に出た。
僕は、仕事の関係で、そのいずれの式にも出席したことがなかった。

それが、まさか30年以上後に…
僕たちが夫婦でこの幼稚園の卒園式に「親」として出席するとは…

夢にも思わなかった話である。

美空ひばりさんも「愛燦燦(さんさん)」で歌っておられましたが、

人生って 不思議なものですね~

 

 

  
 去年、年少組だった時の担任の先生ともお別れを告げる。

 

 
 いちおうこんな写真も…。 久々にネクタイを締めると、気持ちも引き締まる ?

 

   
   帰宅して、卒業証書を示すモミィ。
   1年半、よく頑張りました~。
   次は小学校で、また頑張ってね。

 

 

 

 

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選手宣誓も…

2012年03月15日 | ウォーク・自転車

きょう、春のセンバツ高校野球の組み合わせ抽選が行われた。

そして開会式の選手宣誓は、抽選で、石巻工業高校の選手と決まった。

よかったね~

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20120315-00000247-fnn-soci

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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石巻工業高校の思い出

2012年03月13日 | ウォーク・自転車

3月21日から始まる春のセンバツ高校野球大会に、
被災地・宮城県から、初出場の石巻工業高校が選ばれた。

大震災から1年。
大きな被害を受けた石巻から出場する球児たちに、心から声援を送りたい。

http://www.city.ishinomaki.lg.jp/hishokoho/koushien.jsp


石巻工業には、行きずりの縁だが、忘れ難い思い出がある。
半分夢になりかけているような大昔の出来事だけれど…

20歳の頃の、北海道往復自転車旅行中のことである。

1969年(昭和44年)8月9日。
僕は自転車で東北地方を北から南へと走っていた。
岩手県盛岡から平泉、一関を経て、宮城県に入った。

石巻駅へ寄ると、大勢の人で賑わっていた。

祝 石巻 川開まつり 8月8日~8月10日

…という大きな看板が、ド~ンと立っていた。

 

 

 

混雑する石巻駅前の食堂に入って、焼きそばを食べた。

それから隣のマーケットに入って缶詰などの食料品を買い、
店のおばさんに「にぎやかですね~」と話しかけると、
「ああ、日本全国から人がやって来るんだよ。
 なにしろ、ここの花火は日本一なんだから」
と、誇らしげに言った。

駅を出て石巻市内をゆっくり走っているうちに夕方になってきた。
泊まる場所の当てはなく、どこかにテントを張って野宿をするつもりだった。

そこへ通りがかったのが網の張られた学校らしき庭の裏であった。
表へ回ると「石巻工業高校」と刻まれた門があり、扉が開いていた。
夏休み中だったけれど、そろりと中へ入っていくと教諭らしき男性がいた。

「すみません。大阪から自転車旅行をしている者ですが」と僕は帽子を脱ぎ、
「今夜、泊まるところがないので、校庭にテントを張ってもいいですか?」
と言うと、教諭らしき男性は、「いいよ~」と簡単に許可してくれた。

僕は門の前に置いていた自転車を押して、校庭の端っこへ行った。

この日は北上川の川開きだったというので、まだ明るかったが、
どどどどど~ん、という花火の音が、この校庭まで響いてきた。

テントを張り終えた頃、男女の子どもたち5人ぐらいがかたまって、
好奇心を顔いっぱいに浮かべながら、僕のテントに近づいてきた。
なんだか宇宙人でも見るような不思議そうな目で、僕を見ている。

そのうちの一人で、いちばんしっかりしていそうな男の子が、
「兄ちゃん、どこから来たの?」と、僕に聞いた。
僕はテントの外であぐらを組み、缶詰を食べていた。

「大阪からや。モグモグ…」
「大阪からずっとこの自転車で走っているの?」
「そうや。北海道まで走って、いま帰るところや、モグモグ」

すると、その小学生の男の子は、僕が缶詰をパクついているのを見て、
「大阪のお母さんやお父さんたち、兄ちゃんのこと心配しているだろうね」
と言って、僕の様子をしげしげと眺めていた。

さすがに僕はほろりとしてしまった。
子どもだと思って適当にあしらっていた自分が恥ずかしくなった。

「さぁ、心配してるかなぁ。僕ももう大人やからね」
そう言って、僕はその男の子を見た。
ほかの男の子たちや女の子たちも、
じ~っと僕を見つめていた。

「写真でも、撮ろうか…?」 と言うと、みんな 「うん」 と言った。

僕は、カメラを自動シャッターモードにセットし、
5人の子どもたちと一緒に「記念撮影」をした。


 

  
   石巻工業高校の近所に住む子どもたちは、やや緊張気味。
   写真右端の男の子が、しっかり者の小学生だった。


あれから、42年7ヵ月という、長い長い歳月が流れた。
あの頃子どもだったみんなも、今では50歳ぐらいかそれ以上になる。

今でも石巻に住んでいる子も、たぶんいるのだろうな。

今回の大きな災害を、無事に乗り切れたのだろうか…

テレビで繰り返し放映される石巻の被害状況を目にするたびに、
あの子たちは、今頃、どこでどうしているのだろうか…と思う。


 

 

 

 

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明日で1年 東日本大震災

2012年03月10日 | ニュース・時事

宮城県仙台市に本社を置く新聞社が発行する河北新報という新聞がある。
その河北新報社が出版した「河北新報特別縮刷版」を繰り返し読んでいる。

「東日本大震災 1ヵ月の記録」という題で、地元の人からいただいた本である。


 

 

最初のページを開くと、3月11日の震災当日の「号外」が目に飛び込んでくる。
なにしろ被災地の地元新聞である。  そう思って読むだけでも緊張が高まる。

 
 
   3月11日付の号外。この日から4月11日までの河北新報の記事が、
   200ページ以上にわたって、この縮刷版に掲載されている。

 
ところで、その河北新報に関する話だが、
先の日曜日(3月4日)の夜のテレビドラマで、

明日をあきらめない…がれきの中の新聞社 ~河北新報のいちばん長い日~

というのが、テレビ東京の系列局(大阪は「テレビ大阪」)で放映された。
念のため録画も撮りながら、リアルタイムでそのドラマを見たけれど、
なんだかグズグズした展開で、きびしく差し迫ってくるものがなく、
これが地元新聞社の報道の現場か? と首を傾げたくなった。

実物の「河北新報特別縮刷版」を読んだときには身震いがした。
しかし、ドラマはあまりにもお粗末だった…としか言いようがない。
報道現場の緊迫感というものが、全く伝わってこないのである。

キャストも、報道部長役の渡部篤郎はただ暗いだけの演技だったし、
記者役の小池栄子などは、画面に登場しただけで現実感をそいだ。
僕はドラマの最後まで見ずにチャンネルを変え、後で録画も消去した。

河北新報に思い入れのある自分としては、残念、のひとことに尽きた。

それに比べて、2日後の6日に日テレ系で放映されたドラマ、

3・11 その日、石巻で何が起きたのか ~6枚の壁新聞~

こちらのほうが、はるかに見応えがあった。
石巻の方が被害が甚大だったこともあるが、臨場感に満ちていた。

それでもやはり、ドラマにはドラマの限界がある。
あの現実の過酷さが、じかに伝わってこない。

NHKテレビでは、「NHKスペシャル」で災害の映像を流していた。
無言で流れる映像ほど恐ろしいものはない。そしてそれが現実なのだ。

まだ1年しか経っていないあの未曾有の大災害を、
ドラマで描こうとするところに無理があるのかもしれない。

「災害を忘れないために」という理念を掲げるドラマであっても、
早い時期のドラマ化が、かえって災害を風化させる恐れもある。

 ………………………………………………………………………

去年5月に、宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区を歩いた時の衝撃や、
「河北新報特別縮刷版」のページを開いた時の震えは、死ぬまで忘れないだろう。

明日、震災から丸1年を迎える。

言葉では言い表せないけれど、亡くなった方々、行方がわからないままの方々、
そして今も辛い生活を余儀なくされている方々に、少しでも心を寄せたいと思う。

 

 

 

 

 


 

 

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ジタバタ子育て 第2章へ

2012年03月08日 | モミィの成長日記

2日前の火曜日の夕方、ヤマハのレッスンから帰ってきたあと、
モミィの様子が、なんとなく元気がなくて、変だった。
夜ご飯の大好きなカレーライスも、ほとんど残した。

熱を測ると、案の定38度以上あったので、すぐに布団に寝かした。

翌日は幼稚園を休ませてお医者に連れて行こうと思っていた。
しかし、朝にパッと起きたモミィは、
「さあ、幼稚園に行かなくっちゃ」
と、昨晩とは打って変わって元気な声を張り上げた。
熱を測ると、平熱に下がっていた。

ふ~ん、回復が早いなぁ。
じゃあ、幼稚園に行くか…

まあ11時半までだから、幼稚園で過ごすのは2時間半余りである。

いつものように、支度をして、幼稚園へ送って行った。
毎朝、門の前に立っておられる園長先生に事情を話した。
「何かあればすぐ電話ください。迎えに来ますから」と僕が言い、
「は~い、わかりました。でもモミィちゃん、大丈夫だもんね~」
と、園長先生がモミィを抱きしめるのを見ながら、僕は家路についた。

妻がこの日は市民病院の健康診査の日で、午前中は不在であった。
僕はいつ幼稚園からあるかもしれない緊急電話に備え、自宅待機だ。

10時ごろ、電話が鳴り響いた。
「あっ、幼稚園からかな…?」とあわてて電話を取った。
「はい。〇〇です」と言うと、電話の向こうは女性の声。
幼稚園の先生みたいだった。緊張した次の瞬間…
相手は、「投資信託のご案内なのですが…」

おいおい。
ややこしいときにそんな電話、かけてくんな。

「いま天ぷらを揚げているところですので、手が離せません」
と、僕は適当にウソをついてさっさと電話を切った。
(午前10時に天ぷらを揚げている人ってあまりいないだろうけど)

すると、10分ほどして、また電話が鳴った。
また「もしもし~」と女性の声で、今度こそ幼稚園からと思われた。
「はい」 と、再び緊張する僕。 
するとその電話の主は、
「あぁ山田さん? さっき2袋注文したお米だけど、1袋でいいわ」
「は…? 山田さん…? お米…? なんですか…それ?」
と僕が聞き返すと、
「だから1袋でいいのよ。まだ家にお米たくさん残っていたから」

もぉ~、バカバカバカ。

僕は電話を受けたとき、必ず「はい、〇〇です」と名前を名乗る。
それを聞こうともせず米屋の山田さんと間違うって、何だそれは。
しかも、まだ間違い電話だとは気付いていない様子なのだ。

「わかりました。では米百表、配達させてもらいますわ
と言って切ろうかと思ったけれど、さすがにそれはちょっと…。

「間違い電話ですよぉ」と、少しうんざりした言い方で伝えると、
相手は「すみません」の一言も言わずガチャっと電話を切った。

まったくぅ…
マナーを知らないオバチャンだと、としばらく不快な気持ちが残った。

結局、幼稚園からの電話はなく、11時半に迎えに行った時には、
担任の先生から「元気にしていましたよ~」と言っていただいた。

まずはほっと一息ついた。

そんなモミィの幼稚園生活も、間もなくピリオドを打つ。

ちょうど今から1週間後の3月15日が卒園式である。

すでに、一昨日の火曜日に、お弁当は終わった。
このあと卒園式までは、ずっと午前中だけの保育である。
モミィのお弁当が終わったことで朝の家事がひとつ減った。

一昨年の9月に今の幼稚園に変わってからずっと弁当を作ってきた。
まあ、僕は食べ物を作るのは元々好きなので、苦にはならなかったが、
それでも朝の必須義務から解放されると思うと気持ちもグンと楽になる。

卒園式が終わると、春休みを経て4月5日が小学校の入学式である。

僕たち夫婦の「ジタバタ子育て日記」も、次の章へと移ってゆく。

 

 

 

 

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ついて行きます どこまでも

2012年03月07日 | 心と体と健康と

(前回の続きです)

K医師に書いた手紙は、次のようなものだった。


K先生、これまで大変お世話になり、ありがとうございました。

思えば5年近く前の2007年6月初旬、どうしても不整脈が止まらず、
かかりつけ医から徳〇会病院へ電話をしてもらって、夜の遅い時間に、
そちらへ駆け込みました。その時、当直でおられたのがK先生でした。
そこで適切な治療をしていただき、不整脈がようやく収まりました。

お会いして1年後から、定期的に診ていただくことになりました。
その時からも、さらに3年半の歳月が経ちました。
おかげで、不整脈はめったに出ることがなくなりました。
これもひとえにK先生のおかげであると感謝しています。
今回のご転勤は誠に寂しいことですが、
これだけは仕方ありませんよね。

つきましては、先日、かかりつけ医に替えると申し上げましたが、
妻とも相談して、引き続き徳〇会病院でお願いしたいと考えました。

かかりつけ医への紹介状を拙宅にご送付いただく話になっていましたが、
それは撤回させていただき、今までどおり徳〇会へ通いたいと思っています。
むろん担当の先生は、K先生以外には存じませんので、どなたでも結構です。

次回の検査・診察日の目安は4月下旬頃になりますが、
4月23日からの週が適当ではないか考えています。
曜日は問いませんので、予約をしたいと思うのですが、
どのような形をとらせていただいたらいいのでしょうか。

電話で事務の方にお聞きしようかとも思いましたが、
説明がうまく通じるかどうか不安でしたので、
直接K先生にお手紙を出させていただきました。
お手を煩わせて申し訳ありません。

また、事務の方を通じて私まで連絡するよう指示していただき、
予約の調整方法を教えていただければ幸いです。

以上、よろしくお願い申し上げる次第です。
いろいろとありがとうございました。

どうか、お元気で。


2012年2月〇〇日

K先生へ
                    〇〇より

自宅住所   〇〇〇
自宅電話番号 〇〇〇
携帯電話番号 〇〇〇


以上のような手紙を送ったら、その数日後、電話があった。
徳〇会病院の事務の女性からだった。

「このたびはKにご丁寧なお手紙ありがとうございました」
と、電話の女性はそう切り出して、予約日を打診してくれた。
そして、次の予約日は4月の23日の10時半からと決まり、
「では、医師のご指名はございますか?」と質問されたので、
「いいえ、どなたでも結構です」と答えた。

「ところで…」
と、僕はK医師がどこの病院へ行ってしまうのか気になっていたので、
「どちらへ行かれることになっているのですか…?」と女性に聞くと、
K医師ご本人は「ええ、まぁ…」と言葉を濁していたのだけれど、
この女性は別にためらうこともなく、明快な口調で、
「八尾の徳〇会病院に転任されるのですよ」と教えてくれた。

八尾の徳〇会病院といえば、比較的新しく建った病院で、
今通っている病院の何倍もありそうな巨大な病院である。

しかも、そこは僕の自宅の近くから出ているバスに乗ると、
そのまま病院近くのバス停まで乗り換えなしで行くことができる。

むしろ今の松原の病院より、楽に行ける場所にあるのだ。

「へぇ~。八尾の徳〇会ですかぁ?」と僕の声は弾んでいた。
「そこならわが家からバス1本で行けます」と言うと、女性は、
「あ、そうですよね、ご住所は〇〇町ですものね」と応じた。

「それじゃあ、僕も八尾の方に替えようかなぁ」と言うと、
「まだ、Kがいつから外来に出るかは決まっていませんので…」
と、女性は「少し時間をみていただいたほうがいいと思いますが」
そう言って、「とりあえず、4月23日にこちらへお越しください」
そのときに、改めてK医師の勤務状況などを尋ねることにした。

女性は最後に、
「この先、八尾に替わられるのでしたら、そちらへの紹介状を、
 次の新しい担当医が書いてくれますので…」と言った。

う~ん。4月に新しい医師と会ってすぐに紹介状をお願いするのも、
何となくバツが悪い気もするけれど…
「いえ、そんなことはありませんよ」と女性がフォローしてくれた。
まあ、何といっても同じグループの病院同士だもんね。

では、そうすることに決めよう。

K先生。

僕はどこまでも、あなたの後を追って行きますぜい!

 

 

 

 

 

 

 

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医師との出会い、そして…

2012年03月05日 | 心と体と健康と

2ヵ月に一度、持病の不整脈などの検査・診察のため、
大阪府松原市にある徳〇会病院に通っています。
まあ、このことは何度も書いてきましたけど…

この徳〇会病院とは浅からぬ因縁があります。

僕の不整脈は頻脈性の心房細動というもので、発作が出ると脈拍が乱れ、
普段の倍以上の脈拍数になるので、とても苦しくてつらいのです。

しかしここ数年は、深酒をした時などを除き、きつい症状は出なくなりました。
これも、いま通っている徳〇会病院のK医師のおかげだと感謝しています。

K医師と出会った時のことは、今でもよく覚えています。 
今日はそのことを書いてみようと思います。

  ………………………………………………………………………………

今から5年近く前だった。2007年6月初旬のことである。
それまでも時々出ていた心房細動が急に頻繁に出始めた。

まず6月2日の日曜日、JRの大阪城公園駅で苦しくて我慢できなくなり、
駅員さんに駅長室の仮眠用ベッドに案内してもらい、寝かせてもらった。

6月4日には、午後から起きた心房細動が夜にますます酷くなったので、
タクシーで隣の羽曳野市にある城〇病院へ行き、点滴の治療を受けた。

そして6月6日だった。
夕方からまた発作が出て、かかりつけ医へ走った。
医院に着いたとたんうずくまり、すぐベッドに寝かせてもらった。
点滴でも心房細動はおさまらず、そこの医師は限界を感じたのか、
「入院、ということになってもいいですか…?」と僕に確認をして、
僕がうなずくと、循環器で定評のある病院に電話をしてくれた。
「今、症状を伝えましたので、この病院へ行ってもらえますか」
と言われた病院というのが、今の徳〇会病院だった。

医院から長男の車に乗せてもらい、松原市の徳〇会へ行った。

診察時間も終わって静まり返っていた病院のベッドに寝ていると、
当直の40歳前後の医師が出てきて、とりあえず点滴をはじめた。
しかし、どれだけ経っても心房細動はおさまらない。
そこへまたその医師が現れ、
「じゃぁ、次の点滴に取り替えますね」と言ったので、
「へぇ? ではこの点滴は何ですか?」と僕は不思議に思い聞いた。
「あ、これは単なる水分ですよ。薬の血中濃度を薄めるためです」
医師はそういって、ほほ笑んだ。

そうか。
今日はこれまで飲み薬も点滴液も体内にどんどん入れたわけだし、
つまり、僕の血液の中の薬の濃度が高まっていたのか…と納得し、
「水分でしたか。う~む。なんで良くならないのかと思ってましたよ」
と、僕も、何となくおかしくなって、笑ってしまった。
「じゃ、これから “本当の” 薬の入った点滴をしますね」
と、医師も点滴を取り替えつつ “本当の” と言って、笑った。

これが、たまたまその夜の当直だったK医師との出会いだった。

K医師の適切な処置のおかげで、不整脈はおさまり、
「入院の必要はありませんよ」と言われ、そのまま帰宅できた。

繰り返すが、これが2007年6月6日の夜のことであった。

その後、僕はまた近所の主治医に通い始めたが、
しばらくしてまた心房細動が酷くなり、仕方なく、
主治医の紹介でK大病院で8月にカテーテル手術を受けた。
しかしその手術は失敗に終わり、再び薬で抑える治療に戻った。

1年が経ち、8月に入ってまたまた薬が効かなくなってきた。
ある時は、職場から救急車で病院に運ばれたこともあった。
(救急車に乗せられたのは、後にも先にもこれだけである)

こんなことがこれからも続くと、生活に大いに支障がある。

主治医の言うことは、場当たり的で、どうも頼りにならない。

そこで、もう一度徳〇会の病院の当直だったあの医師に診てもらおう…
そう思い立ったのである。あれから1年少し経つけれども。

でもその時は、肝心のその医師の名前がわからない。
そこで病院に電話をして、事務の人にわけを話した。
すなわち、昨年6月6日の夜に治療を受けた者だが、
その夜の当直医のお名前を教えていただきたい…と。

事務の人は記録を調べてくれ、それがK医師だと教えてくれた。
そこでK医師の診察日を教えてもらい徳〇会病院へ行ったのだ。

「お久しぶりでございます」
診察室で顔を合わすと、医師は僕のことを覚えてくれていた。
あのあとカテーテル手術をして失敗したことなども報告した。
「そうですか。この1年間、いろいろあったのですね~」
とK医師は、ため息まじりにつぶやいた。

そして、検査の結果、最近の僕の心房細動は、
薬の服用量が多過ぎることが原因である、と診断された。

これまで、近所の主治医をはじめいくつかの病院で診てもらったが、
こんなことを言われたのは初めてだった。

僕はK医師に言われたとおり、薬を1回分減らしてみた。
すると、これまでの症状がウソのように、ピタリと止まった。

同時に、不整脈による脳梗塞の予防薬ワーファリンも服用し、
その効き具合も毎回の検査で数値チェックをしてもらっている。

そして今日に至っている、というわけである。

 …………………………………………………………………………

2度目にK医師に会い、その徳〇会病院へ通い始めて、
早いもので、もう3年半以上の歳月が流れたことになる。

耳鳴りに悩まされたり、最近では首・肩に痛みが出たりと、
身体のトラブルは尽きないが、不整脈が出た時が一番つらい。

その不整脈が、この3年半、K医師のアドバイスを受けながら、
ほとんど出ずに過ごせていることには、かなりの幸せ感がある。

最近は不整脈のほうは安定しているので、
アルコールによる肝臓のダメージを示す「ガンマ」の数値が、
やや高いので「お酒は、少~し控えられた方がいいですね~」
と、診察室での会話はそちらのほうに重点が移ってきたほどだ。

しかし良いことというのは、いつまでも続かない。

先月の20日。今年最初の検査・診察に行った。

診察室でいつものようにひととおり検査結果を聞き、
最近の体調について会話を交わし、それが終わった時、
K医師は、「あの~」と僕の目を見つめながら、
「今日はお伝えしなければならないことがあります」
そう言って、居住まいを正された。
「なんでしょうか?」と、僕も医師の目をしっかり見据えた。

「実は私、病院を替わることになりました」
と、K医師はおっしゃったのである。

げぇ~~。 そんなの、困る~。

「現在ではほとんどご自分で薬のコントロールもできていますし…」
「薬処方が大半ですから、今のところ緊急性もありませんし…」
「お近くのかかりつけ医院に替わられてもよろしいかと…」
と、K医師は言った。

今の徳〇会病院は、松原市の天美というところにある。
僕の最寄の藤井寺駅から近鉄電車で10分少しで行ける。
通うのに、さほど不便ということはないので、別にいいんだけど。

でもK先生は、「異状があればこちらの病院へ来ていただいても、
すぐに処置ができるようにはしておきますから…」 と前置きして、
わが家に近いかかりつけ医があれば、そこへ紹介状を書きます、
…と言われたのである。

でも、その前に聞いておきたいことがある。
「ところで先生。どちらの病院へ行かれるのですか? 遠くですか?」
と僕は聞いた。遠くない病院だったらK医師を追いかけて行くつもりだ。

でも、K医師は、いや…それは…、と言葉を濁した。
患者を連れて行くという行為はこの病院ではタブーなのかも知れぬ。

「そうですか…。じゃあ、〇〇クリニックでお願いしましょうか」
と、つい言ってしまった僕であった。

家に帰ってから、妻にそのことを伝えたら、妻は、
「先生が変わってもこれまでどおりの病院へ通うほうがいいと思うけど」
と言ったし、僕も病院を出てからそう言えば良かったかな~と感じていた。

K医師は「紹介状をご自宅に送りますので、薬が切れる前にそれを持って、
〇〇クリニックへ行っていただいたらいいですよ」と言われたのだけれど。

う~む。
どうしたものか…?

やはりこれまでどおり、徳〇会へ通ったほうがいいか…?
K医師には、ああ言ってしまったけどね~。

うん。 やっぱり、徳〇会病院でお願いしよう。

僕は、今までお世話になった感謝の気持ちも込めて、
そのことをK医師に手紙で伝えようと決めたのである。


                           ~ 続きます ~

 

*これを書き終えてから思い出して調べたのですが、
 過去のブログでK医師のことを書いた記事がありました。

            ↓

  http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20080827

 

 

 

 

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塔の上のラプンツェル

2012年03月02日 | モミィの成長日記

3月1日。モミィの幼稚園で保育参観があり、妻と2人で出かけた。
そして園児たちが演ずる劇「塔の上のラプンツェル」を見せてもらった。

今年に入ってから、家でモミィが「ラプンツェル」を口にしない日はなかった。
この日の「公演」のため、連日、園児たちは劇の猛練習を続けてきたそうだ。
だからわが家でも、毎日、モミィから「ラプンツェル」の話を聞かされていた。

その「ラプンツェル」を、園児30数人が1時間以上にわたって演じてくれたのである。
場所は幼稚園の講堂兼遊戯室で、親たちがビデオなどを構えて熱気ムンムンの中、
その劇は、先生のナレーションから始まって、いよいよ「開演」した。

「ラプンツェル」はご承知のようにグリム童話に出てくるお話である。
去年の春、ディズニー映画「塔の上のラプンツェル」で人気を呼んだ。

http://www.youtube.com/watch?v=IRt3zcz03aA

ストーリーを紹介すると…

大盗賊フリン・ライダーは、山奥の谷にそびえ立つ高い塔を見つける。
塔に入ったフリンは、髪が驚くほど長い不思議な少女ラプンツェルと出会う。

ラプンツェルは赤ん坊の時に魔女に誘拐されてこの塔に閉じ込められたのだ。
そして18年間、塔の中だけで生活をしてきたのである。

なぜ魔女は、赤ん坊だったラプンツェルを誘拐し、塔の中で育てたのか…?
それは、ラプンツェルの髪に魔力があり、その力を自分のものとするためだった。

そんなとき、盗賊フリン・ライダーが塔の中に入ってきたのをきっかけに、
ラプンツェルはフリンに頼み、外の世界へ出してもらい、冒険の旅に出た…

とまあ、こんな感じのストーリである。

園児たちが、ラプンツェルや、魔女や、「酒場のあらくれものたち」や、
衛兵や、ネズミたちや、その他いろんな役で何度も登場する。 可愛い!

モミィの仲良しでわが家に遊びにくる女児も多いので、
「あ、〇〇ちゃんやね」 「あれは…〇〇ちゃんかな?」と、
女の子がさまざまな役で登場するたびに、僕は横の妻にささやく。

5歳から18歳までのラプンツェルも、何人かの女児が交代で演じた。

そのうちの一人に、モミィが入っていた。

劇も後半に入ってきた時のこと…

魔女の命を受けてフリンとラプンツェルを追う兵士たち。
そして彼らに取り囲まれたフリンは、ラプンツェルを逃がし、
兵士たちと果敢に戦うのだが、ついに命が尽き果ててしまう。

このシーンのラプンツェルを、モミィが演じていたのである。

息絶えて横たわるフリンに駆け寄ったモミィ・ラプンツェルは、
魔法の髪の毛を使いながら、歌を歌ってフリンを生き返らせようとする。

それが、このシーンです。

          


  



やがてフリンの生命が戻り、起き上がる…

         


   


いや、ホント、感動的なシーンだったわ~ (爺バカ!)

まあ、劇はここからまだラストシーンに向けて続いていくのだが、
この、モミィがフリンに向かって歌うシーンは、胸にジンときた。

…というわけで、園児たちの1時間以上の熱演が終わり、
保護者の家族たち観客陣は、惜しみない拍手を送った。

思えば1年前、年少組の時に演じたのは「おむすびころりん」だった。

1年間でこんな長い物語を演じるところまでに園児たちは成長した。
モミィも、そんな園児たちに囲まれて着実に成長してきたんだなぁ…

そのことを、ほのぼのと感じたひとときだった。

 

 

 

 

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