僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

走る地方公務員

2011年02月28日 | ランニング

先週の金曜日、久々に松原市役所の職員の人たちと一緒に飲んだ。
役所のマラソン仲間だった一人、東○ちゃんが3月に退職する、その送別会である。

世話役は、先日のブログでもご紹介した doiron (ドイロン) がしてくれた。

「2月25日 (金) 6時半より  『昇さんを囲む会』  をしますので」 というメールが来た。
東○ちゃんの送別会なのに、そんなことを送ってくるのが、お茶目なドイロンらしい。
…と思っていたら、当日、実際に 「昇さんを囲む会」 も兼ねていますので…と言い、
会費を受け取ってくれず、厚かましくもごちそうになってしまった。

さて、その日は市役所の元マラソン仲間で、特に仲の良かった7人が集まった。
僕以外は、全員現役の職員である。
退職して2年もたつのに、こうして誘ってもらえるのは嬉しい。

出席したのは、まず北海道サロマ湖100キロマラソンへ一緒に行った3人。

北ちゃんは、サロマ湖100キロで8時間43分の好タイムで完走者611名中、41位に入った。 
トライアスロンでは琵琶湖の国際大会に出場し、別大マラソンでは2時間30分台で走った。
松原市だけでなく、近郊の市役所の走る職員の間では、知らぬ者のない実力者である。

同じくサロマ湖を一緒に走った丸ちゃんは、練習もしないのに好記録を出す不思議な男だ。
スピードがあり、フルマラソンも何度か2時間台で走ったが、いずれも途中から歩いた。
途中から歩いて、それでも3時間を切るランナーというのはあまり聞いたことがない。

そしてドイロン。 
先日も書いたけれど、萩往還250キロレースに何度も出場し、すべて完走した超人である。
トライアスロンの選手でもあり、そのレース歴はバラエティに富んでいる。

以上が、サロマ湖へ行った仲間たち。

次に、秋○ちゃん。 温厚な性格で、いつもニコニコと人の話に耳を傾ける。 
トライアスロンはやらないが、フルマラソンでは北ちゃんに次ぐ強豪ランナーだ。
市民病院の検査技師さんだったが、病院の閉鎖に伴い、今は事務職員をしている。

続いて飯○ちゃん。
日体大を卒業し、市民体育館に勤務する生粋のスポーツマン。
トライアスロンで、カナダとアメリカの2度の海外遠征をしている。
マラソンの話になると、口角泡を飛ばすほどの饒舌になる熱血漢だ。

最後に、3月末で退職するこの日のゲスト、東○ちゃん。
ついこの間行われた大阪府の泉州マラソンに出場。 
この年齢で、見事に3時間台で完走した。 
堅実に走る、真面目一筋の市民ランナーである。

この6人に、僕も加えてもらって、総勢7人で、楽しくビールを飲み交わした。

あのとき、あのレース、あのコース、あの場面、あの苦しさ、あの会話、あの喜び…
そんな、共通する話題がヤマほどあって、数時間はあっという間に過ぎた。

ちなみに、この6人に比べるとマラソンの実績ではガタっと落ちる僕だけれど、
ひとつだけ取り柄といえば、松原市役所で初めてフルマラソンを走った、ということ。
タイムは4時間23分くらいで、完走するのがやっとだったけれども、
これだけは、実力とは関係なく、「早い者勝ち」 というものだろう (笑)。

こうしてワイワイ飲んで騒いでいても、やはりその底に、
苦楽を共有してきた仲間同士の強い絆のようなものを感じた。

  ……………………………………………………………………………………

以前、長居競技場周回コースで、大阪府下の市の駅伝大会が行われていた。

このメンバーがマラソンを始めたころから、松原市はトップレベルのチームになった。
駅伝の成績は年々上がり、ついに入賞するレベルにまで達した。
ここには登場しなかったが、時々コメントをもらうコバヤシ君もメンバーの一人だった。

大阪の実業団大会にも出場し、ある時はチームで表彰台に立ったこともある。
僕がたまたま最年長でキャプテンだったので、表彰状を受け取らせてもらった。

「松原ランナーズ」 という同好会だった。

松原市だけでなく、藤井寺市や羽曳野市などの近隣の市役所のランナーたちとも交流を深めた。 今でも、大和川堤防を走っていると、そういう人たちにバッタリ出会うことがある。

とまあ、こう書きながら思ったけれど…
市民ランナーというのは、市役所の職員や学校の先生など、公務員が多い。
僕も以前、近所の堤防を毎朝のように走っていたとき、
「お役所は勤務時間が規則的で、有給休暇も多いので、走る時間が多く取れますね~」
と、言われたことが何度もあった。 
まあ、確かに、言われてみれば、そうだろうな~と思う。

ところで…
昨日の東京マラソンで、2時間8分台の好記録で日本人男子最高の3位に入り、
世界選手権代表に内定した川内という選手は、23歳の「市民ランナー」 だった。

それも、埼玉県の職員である。 つまり、地方公務員だ。 
こういう人が出てくると、なんとなくうれしい。

まあ、箱根駅伝の経験もあり、去年の東京マラソンでも4位に入ったというのだから、
まったくの市民ランナーというわけでもないだろうけど、地方公務員には変わりない。

この夏に韓国で行われる世界選手権には出場したい、とのこと。
「有給休暇が沢山余っていますので、それを使って行こうかな、と思ってます」
とレース後、さわやかな笑顔で語っていた。

世界選手権でも、この地方公務員ランナーに、ぜひがんばってもらいたい。 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モミィの劇 おむすびころりん

2011年02月26日 | モミィの成長日記

モミィが9月から通い始めた幼稚園も、あと1ヶ月で春休みになる。
つまり、年少さんとして過ごすのも、あと1ヶ月となったわけだ。

こちらの幼稚園に移ってから、少しずつ慣れてきて、友だちもでき、幼稚園へ行くことを楽しむようになって、結局9月からの6ヶ月間は、風邪で1週間休んだほかは、1日も休むことなく通い続けた。 

モミィの属する年少さん(ももぐみ)は、1クラスだけである。 総勢32名。
年長さんは、2クラスがある。

きのうの25日は、1年の締めくくりとして取り組んできた「劇あそび」の発表会があった。

前日24日の 「げんきばくはつ ☆ ももぐみつうしん」 という保護者向けプリントには、

もも組の子どもたちが年少さんとして過ごすのも、もう1ヶ月余りとなりました。
明日はいよいよ劇参観です。 こどもたちが1年を通して、集団の中で成長してきた姿を見ていただけることと思います。

そう書かれていた。

劇は、もも組版 「おむすびころりん」 だった。
優しいおじいさんとおばあさん、よくばりじいさんとばあさん、ネズミなどが出てくる。
それに加えて桃組版オリジナルとして、にわとりやおむすびなんかの役も登場してくる。

いつもは妻が一人でモミィを連れて行く通園路を、僕と長男もいっしょに歩いた。
4人が、ぞろぞろと幼稚園に出かけたのである。

幼稚園の門に立っておられた園長先生が、僕たちに
「モミィちゃん、大活躍ですよ。 劇で困ったときは、モミィちゃん頼みです」
と笑顔で言ってくださった。

こじんまりとした遊戯室に入ると、50個ぐらい、小さな椅子が3列で置かれている。
最前列の端に空いた席があったので、僕たちは並んで腰掛けた。最前列に座っている多くのママたちは、三脚を出して、ビデオをセットしている。 本格的だ。

やがて参観席も満員になり、9時になった。
黒い幕の向こうから、バンダナをかぶった園児たちが腰を丸めて登場してきた。
おじいさん、おばあさんの役だから、腰がまがっているのだが、その仕草が可愛い。

モミィもおばあさん役で、その中にいた。
チラッと、僕たちのほうに目をやるモミィ。 目は真剣そのものだ。

おじいさん役が7~8人。
「おばあさん、ただいま~」と声をそろえてセリフを言う。
おばあさん役も7~8人。
「おじいさん、おかえりなさ~い」
みんな上手に、ぴったりの呼吸で声を合わせる。

そのあと、モミィは今度はネズミさんの役で耳と尻尾をつけて出てきた。
10人ほどその格好で並び、なんと、モミィがひとり最初に大声でセリフを言った。
それから一呼吸置いて、ほかのネズミさんたちが、全員でセリフを言った。
そういうシナリオになっていたそうだ。

人前では小声で話すことしかできなかったのに、ずいぶん変わってきたものだ。
家庭ではわからない集団の中での子どもの成長ぶりを、
これほど鮮やかに見せてもらえたことは、この上もない喜びだった。

みんながんばって練習した成果が熱気となり、遊戯室にあふれていた。
まさに 「げんきばくはつ」 のもも組さんだった。

最後にみんなが歌った 「おひさまになりたい」 を聴きまた胸が熱くなった。

♪ 

だれかをすきになると こころがあたたかくなる

むねのなかにおひさまができたように あたたかくなる

すきすき だいすき すきすき だいすき

たくさんたくさん すきになって

おひさまになりたい

 

だれかをすきになると こころがやわらかくなる

うまれたてのくさのように やさしくやわらかくなる

すきすきだいすき すきすきだいすき

たくさんたくさん すきになって

かぜにゆれていたい

 

 


   
           もも組のネズミさん たち。 モミィは左から3人目です。

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開高健 生と死

2011年02月24日 | 読書

東京オリンピックのあった1964年(昭和39年)の末から翌年始めにかけて、開高健は週刊朝日の臨時特派員としてベトナム戦争の前線へ取材に行った。 カメラマンの秋元啓一が同行した。 その臨場感あふれるルポルタージュが、世に名高い  「ヴェトナム戦記」  である。

このルポの中に、開高と秋元の2人が南ベトナム政府軍に従軍して最前線に出たとき、ジャングルの中でベトコンに包囲され、一斉砲撃を受けて絶体絶命の危機に陥る場面がある。 その描写は実にリアルで、読んでいても戦慄を覚えるほど壮絶な迫力に満ちていた。

開高たちを含む200人の政府軍の第一大隊は、ジャングルの陰にひしめく  「姿なき狙撃者」   たちの突然の銃撃で、散り散りばらばらになり、気がつくと17人になっていた。 マシン・ガンと、ライフル銃と、カービン銃の銃音が森の中に響きわたった。

「ドドドドッというすさまじい連発音にまじって、ビシッ、パチッ、チュンッ!… という単発音が響いた」
「鉄兜をおさえ、右に左に枯葉の上をころげまわった。 短い、乾いた無数の弾音が肉薄してきた。 頭上数センチをかすめられる瞬間があった」

                                   ( 「ヴェトナム戦記」 より )

生死をさまよう開高と秋元。
カメラマンの秋元は、後の手記で 「もうダメだと思った」 と書いていた。

「私たちはたがいの写真をとりあった。 シャッターを押したあと、ふたたび枯葉に体をよこたえた」 と開高は書いた。 秋元はその時のことを、 「写真をとり合ったというより、疲れ果てた開高氏を見たとき、職業意識がめざめてシャッターをきったのだった。 そして、僕もとってくれませんか、とカメラを開高氏に渡した」 と手記で述べている。

そのときの開高の写真がこれである (有名な写真ですが)。


   


スタイリストで、写されるときは、いつもレンズを意識していたという開高。
その人が、こんな抜け殻のような表情を見せるのは、よほどの状況だったのだろう。

その後2人は、離れ離れになりながら敗走し、生きて戻れたのは奇跡に近かった。

僕はこれまで何度もこのくだりを読んだ。
当然のことながら、自分自身にこんな恐怖体験はない。 
しかし、これがもし自分であればどう思い、どう行動していただろうか、と考える。
ジャングルで、敵から無数の銃撃を受け、弾丸が頭上数センチを通過する…。
チラッと想像しただけでも、心臓が凍りつく。

無我夢中で 「死にたくない、神様、助けてぇ」 と叫ぶのでしょうね。
極限の恐怖と緊張で、不整脈も出て、おしっこも漏らすのでしょうね。
しかも、そういうことにもまるで気がつかず、ただあたふたするだけ。
人一倍怖がりの僕なので、たぶん、そんなところだろうなぁと思う。

九死に一生を得る、ということは、今後の人生にどんな影響をもたらすのだろうか。

  ………………………………………………………………………………………………

なんとか危地を脱して一命をとりとめ、ホテルのベッドに転がり込んだときの喜びはどれほどのものだったろう。 

じゃいさんに教えてもらった 「NHK映像ファイル ・ あの人に会いたい ・ 開高健」 の中で、
開高はこのときの状況について、こういうふうなことを言った。

「おれは生きている、という実感が全身にあふれ、ベッドにしがみつき、ベッドをたたいた。 
 なんとも言いようのない生の充実感に浸った」

そりゃそうだ。 誰しも同様の体験をしたとすれば、やはりベッドをたたいて喜び、九死に一生を得たことを神様に感謝したことであろう。 いま生きていることに感謝し、これからはあらゆるものに感謝して生きていこう、と思うはずである。 開高も、ベッドに転がったときは、そう思ったという。 しかし、彼はこのあと、予想もしなかった言葉を放ったのである。

3時間ほどうたた寝をして、目がさめると、ベッドはもう普通のベッドであった。
生きのびたことを感謝する気が起こらない…
生きている人間は絶え間なしに意識が動く。
今日の私は昨日の私ではない、というような…。
人間というのは永遠に不満な動物ですけど。
傲慢なんでしょうか、生きている人間は。

なんとまあ、 「生きのびたことを感謝する気が起こらない…」 とは…。
生きている実感があふれ、ベッドをたたいてから、わずか3時間後のことである。

人生最大の危機を切り抜けても、1回うたた寝をしたら、その喜びは消えている。
そういうものなのか…と、僕はこれを見て、自分の人生観が変わった気がした。

今でも、その言葉は耳から離れない。

永遠に不満で傲慢。 それが人間なのでしょうか…
…とつぶやいた開高健の言葉が。 

 ……………………………………………………………………………………………

  
3年ほど前から、また開高健の本が売れ始めているそうだ。

「太るなんてまるで気にせず、どんどん食って飲む。 見ていて気持ちのいい人だった」 
と開高を知る編集者が述懐する。

「開高が描き出した昭和の熱気を知る中高年世代が、タイムトンネルをくぐるような思いで改めて彼の作品に手を伸ばしているのではないでしょうか」

何も気にせず、どんどん食って飲んだ開高健は、1989年12月9日、58歳のときに食道腫瘍に肺炎を併発して地上から消えた。 

まさに疾風怒濤の人生だった。 


  

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開高健 邂逅編

2011年02月22日 | 読書

2007年 (平成19年) 2月下旬、といえば今からちょうど4年前のことになる。

近鉄南大阪線の北田辺という駅の前を歩いていたら、偶然に開高健の文学碑を見つけた。
開高ファンを自認する僕だけど、不覚にも、まったく知らなかった。
ウォーキングの途中で、たまたま通りがかったところにこんなものがあるとは…。


  
    近鉄南大阪線・北田辺駅前で、この文学碑とめぐりあった。


僕が勤めていた松原も、住んでいる藤井寺も、近鉄南大阪線の沿線駅である。
その沿線のひとつに、30代の頃大きな影響を受けた開高健の文学碑があった。
彼が、この界隈で育ったことは知っていたが、まさか碑が建っていたとは…。
なんだか足元がふわりと浮き立ちそうな、不思議な感覚に支配された。

ふと我に返り、あわててカメラを取り出して、撮影した。


  


    

 

その場を離れ、再び歩き出したら、今度は街角の掲示板にこれが貼ってあった。


  

 

これを見て、文学碑は2005年11月、つまり1年余り前に建立されたものと知った。

犬も歩けば何とやら…
ウォーキングは時に衝撃的な出会いを演出する。
まさに、開高に邂逅…したわけで。

このことを 「はこだけの女 (ひと)」 ・ じゃいさんにお知らせしたら、
「NHK映像ファイル あの人に会いたい 開高健」
という You Tube の映像を送っていただいた。

それを見て、また衝撃が走った。

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開高健をしのぶ

2011年02月20日 | 読書

僕の好きな作家の一人である開高健の足跡をしのぶ 「生誕80年 大阪が生んだ開高健展」 が、2月11日から、大阪・難波のなんばパークスで開かれていた。 行こう行こうと思いながら雑事に追われているうち、最終日の20日が近づいてきたので、こらあかん、と思い、昨日の19日、モミィのスイミングが終わった午後、一人いそいそと会場のなんばパークスへ出かけた。

開高健は1930年(昭和5年)に大阪で生まれ、89年(平成元年)に食道がんで亡くなった。 まだ58歳だった。 今年は生誕80周年ということで、今年創立130周年を迎えた彼の出身校・大阪市立大が、記念行事の一環としてこの展覧会を催した。 

旧制天王寺中学、大阪市立大、そしてサントリー (当時は寿屋) に就職して絶妙の宣伝コピーで才能を開花させた開高さんの大阪時代を中心に、出版社宛の手紙や 「裸の王様」 の草稿や数々の手書きの原稿、学生時代の文芸誌、取材メモ、ライター・パイプ・釣竿などの愛用の品々、ベトナム従軍時のヘルメットなどが狭い会場にびっしりと展示されてあった。 原稿を見るたびに思うのだが、この作家の書く文字は、本当に可愛くて、読みやすい。

明日が最終日でこの日は土曜日ということもあってなのか、それとも連日こうだったのか、どっちか知らないけれど、なんばパークス7階のパークスホールは、入口こそひっそりした空気に包まれていたが、中に入ると人、人、人で混雑し、ガラスケースに展示されている生原稿をじっと読む人がひしめきあい、なかなか次へ進めない。 また逆に、僕が原稿を食い入るように見つめていると、ふと気がついたら、隣の人が 「早く動いてくれないかなぁ~」 という顔をして立っていたりする。 

会場内には、ずっと開高さんの講演のテープ音声が流れていた。 
あの声、あの言い回し、あのユーモア…。 なつかしい。

一度だけ、開高さんの講演会を聴きに行ったことがある。 壇上でウィスキーをちびりちびりやりながら、講演するのである。 あの時は、南・北アメリカ大陸縦断の旅に関する話題が主だったように憶えている。 スライドを解説しながら、開高さんは、「こういう旅をしていると、世間のヤツらがバカに見えますわ」 わはは~と笑っていた。 そんなことを思い浮かべながら狭い会場内をゆっくり移動し、開高さんをしのんだ。

30年以上も前、「開高健全作品」 を購入し、夢中になって読み耽ったこともなつかしい。 小説が9巻、エッセイが3巻の全12巻で、ここ数日、本棚からその中の適当な1冊を手に取り、パラパラとめくりながら、死ぬまでにもう一度、この12冊を読まなきゃな~ などと思ったりした。

繰り返すが、開高さんは大阪で生まれ、大阪で育った。

どんなことでも自分のことに結びつけるのが好きな僕なので、つい書いてしまうが、開高さんは7歳の時に、誕生地の天王寺区から東住吉区に転居し、そこで育った。 ちなみに僕も同じく7歳の時から東住吉区に住み始め、高校1年までの10年近くの少年時代をそこで過ごした。

開高さんは、1974年 (昭和49年) に神奈川県の茅ヶ崎市に引っ越した。 
「すなむわ~じりのぅぉ ちがすわぁ~きぃ」 
…とサザンの桑田サンが歌ったあの茅ヶ崎だ。 関係ない話ですみません。

ちなみに僕がいまの藤井寺市に引っ越して来たのも、同じ1974年である。 
それがどうしたん…? と言われたらそれまでですけど。 たびたびすみません。

開高健のことを書き始めたらキリがなくなるので、読んでくださっている方が退屈しないうちにやめておきますが、次回また書こうと思います。 えっ、もうすでに退屈してるって…? 重ね重ねすみません。

今日はこれくらいにしといたる (笑) 。

では、皆さま、よい日曜日を。




 
 
   19日、パークスホールで。 入り口はひっそりしているが、中は満員だった。 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪マラソンにエントリー

2011年02月18日 | ランニング

1年半前から企画されていた大阪マラソン ~OSAKA MARATHON 2011~ 。
いよいよ今年10月30日に、第1回大会が開催されることになった。 

大阪城公園前をスタートし、御堂筋や淀屋橋、京セラドーム大阪、通天閣などの名所を巡り、インテックス大阪前をゴールとするフルマラソンの大会で、一般ランナーが参加できる大阪市内の大会としては
、初めての開催となる。 

ここ10年ほどマラソン大会には出ていないが、制限時間が7時間という僕にとっては有難い条件なので、申し込むことにした。 インターネットや携帯サイトから申し込めるので便利である。

申し込みの開始は、2月15日の午前10時からだった。

その15日の10時過ぎに、さっそくパソコンから大阪マラソンの 「エントリー」 に登録した。
「定員を超えた場合は抽選を行います」 
との但し書きが添えてあった。

定員は2万8千人だ。 
まあ、昨今のランニングブームである。
大幅に定員を超えることは間違いないだろうな~と思っていた。

それから1日しかたっていない16日。 再びそのサイトを見ると…

「エントリー者数が3万人を超えました。 これにより、参加ランナーは抽選による決定となることをお知らせします」

        


わずか1日で、早くも3万人を超えた。

申込期間は1ヶ月。 3月15日までである。
この調子では、どれだけの申込者が殺到することやら。

フルマラソンを走る人って、こんなに大勢いるんだ。

抽選結果の発表は、4月末日だそうである。

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪 のち チョコレート

2011年02月16日 | モミィの成長日記

2月14日。

コスパで泳いだあと、12時過ぎにマウンテンで帰宅しようと思ったらポツリ…
雨…というより、半分雪みたいな小粒が空から舞ってきた。 急がなくっちゃ。。

家でお昼を食べた後、録画しておいた映画「沈まぬ太陽」を妻と一緒に見た。
4時間にも及ぶ長尺物なので一度には見られない。
主人公の渡辺謙がパキスタンに左遷され、さらにテヘラン赴任を命じられるところまで見てテレビを消し、時間が来たのでモミィを迎えに行く準備をした。まあ、準備といっても服を着替える程度のことだけど…

いつもは自転車で迎えに行くのだが、この日はそれは不可能だった。
午後から、これまで見たことのないような大粒の雪が降っていたのだ。

「気をつけてね~」と妻に見送られ、モミィの傘と合羽をバッグに入れて家を出る。
周りの風景が真っ白になりつつある。
傘の上にもたちまち雪が積もり、振るとバサバサッと雪が地面に落ちる。
こういう経験って、あまり記憶がない。

幼稚園は3時降園である。

いつもは園児たちが先生方と一緒に出てくるまで門の外で待っているのだが、きょうは園長先生が、迎えに来た保護者に、そのまま保育室の前まで行っいただいて結構ですから、ということだったので、運動場を横切り、そこまで歩いた。
3時にはまだなっていなかったが、すでに園児たちはリュックを背負って待機中だった。

担任の先生は僕の顔を見て、「モミィちゃ~ん」と呼ぶ。
「は~い」と元気良く飛び出してきたモミィを見ると、手に何やら布の袋を持っている。
他の園児たちはそんなものは持っていない。 うぅ~ … 悪い予感がする。
担任の先生が僕に、
「モミィちゃん、おしっこで濡らしてしまいましたので…」

幼稚園に予備のズボン下着や靴下などを置いてあり、モミィはそれに着替えたので、濡らした衣類をこの布袋に入れて持ち帰る、ということなのである。

「は…? お漏らし…ですか。 すみません。 いつもお世話かけてばかりで…」
しょっちゅう水道で着ている物をびしょびしょにし、お漏らしも過去に1度あった。
先生にも申し訳なくて、僕は恐縮するのだが、先生は笑っておられる。
とにかく、モミィは幼稚園でも何かと世話の焼ける子なんだろうな~と思う。

「おしっこは早い目に行くんやで、と、いつもおばあちゃんから言われてるやろ」
帰り道で僕がそう言うと、モミィは、
「あのな~、お猿さんのお面を作るのに夢中になってたから、わからんかってん」
そう言って、「雪、すごいねぇ~」 とそちらの方に気を取られている。
本人は少しも気にしていないふうである。 

「お弁当、ちゃんと食べたかい?」 と、僕は話題を変えた。
「食べた。おいしかった~」 と言ってくれたまではよかったが、そのあと、
「お弁当のフタをあけたときに、お弁当がひっくり返ってん」 と言う。
「ひっくり返った?」
「うん。 お弁当のおかずもおにぎりも、ぜんぶテーブルの上に落ちてん」
「ぎょえ~。 ほんまかいな。 それで、どうしたん?」
「拾って、お弁当箱にむちゃくちゃやったけど、また入れてなぁ、…食べた」
とニコニコ笑いながら話すモミィに、僕は返す言葉がなかった。
「ようやるわ。 ほんまに」 ひとりでつぶやくだけだ。

雪の中を約15分。 滑って転ばないようにゆっくり歩いてわが家に着いた。
妻がドアを開けて外で待っていた。

家に入って着替えを済ませ、おやつを食べたあと、モミィは僕に、
「のんちゃん。これ、ハイ」 と、チョコレートを差し出した。
「きょうは、バレンタインデーで~すよぉ」

モミィが持っていたのはチョコレートボンボンだった。
おぉ、なつかしい。
最近、またこれが流行の兆しだとテレビでも言っていたっけ。

モミィから、バレンタインデーのチョコの贈り物だった。
これまでチョコレートをもらった中で、最も 「若い女性」 からのプレゼントだ。

「いやぁ~、プレゼント、くれるの? ありがとうね」
僕はモミィからチョコレートを受け取り、さっそく包装を解いて一個口に入れた。
噛んだチョコから、プチューと独特の風味を持つ液体が口の中に広がった。
中身は、昔のようにウィスキーではなく、ハイボールだ。

チョコの箱にも、大きく 「ハイボール」 と書かれている。
アルコール度、3%ちょっとで、往年の凄みはないが、軽妙な味わいである。

チョコレート好きのモミィは、僕の食べるのをじっと、欲しそうに見ていた。

「一個、食べてみる…?」と、いちおう愛想だけ言ってみる。
モミィは両手でバツ印をつくり、
「いらん。 だって、おサケが中に入ってるもん」

「ありがとうね。 来年はチョコじゃなく、中のおサケだけでいいよ。 あはは~」
と、おバカなことを口走りながら、2つめのボンボンを口に入れる僕であった。

 


  

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地区会長だけは勘弁して !

2011年02月14日 | 日常のいろいろなこと

近所にEさんという男性がおられる。 年の頃は75歳前後。
町内会の関係でいろいろな要職に就いている世話好きな人である。

2年前に僕が定年退職して、半年ほど経ったときのことだ。
散歩中に、向こうからEさんがやってきて、声をかけられた。
「もう退職しはりましてんなぁ」 と僕の顔をのぞきこむように言った。
「はい。3月末で定年退職ということで…」 と僕はうなずいた。
「たしか松原市役所にお勤めでしたな。 どうも長い間、ご苦労さんでした」
「はぁ。 ありがとうございます」
と僕はそう言ってその場を離れようとした。

実は僕はこのEさんが、以前からどうも苦手なのである。 

世話好きで愛想のいい人なのだが、ひとつ間違うと、態度が一変する。
むかし、Eさんから、溝の排水をわが家の溝の方に流させてほしいと申し出があった。
それには、いろいろ付随する問題があったので、丁寧にお断りした。 
すると E
さんはそれ以後、僕たち夫婦にはいっさい口をきかなくなった。

何年かして、Eさんの奥さんが亡くなられた。
同じ町内なので、妻も Eさん宅のお通夜と告別式の手伝いに行った。
そのとき妻は、告別式場の前に並べる板の 「しきみ」 に氏名を書く役をした。
近所でお葬式があると、妻はだいたいそのような役割をするようであった。

告別式が終わったら、僕たちに何年も口をきかなかった Eさんが、
急に愛想がよくなって、顔をあわせると丁寧なあいさつをしてくれるようになった。
まあ、世の中というのはそんなものだけど…

そこで冒頭の話に戻るのだが、Eさんは、
「ところで、今はどこへも働きに行ってはりませんねぇ」 と僕に言う。
「えぇ、働いていませんけど…」 と正直に答えた。
「結構でんなぁ。 毎日遊んではるんやったら、ちょっとお願いがありますねん」
げっ。 お願い…? なんだ…? 

「来年の4月に地区町会の役員改選がありますんやけど、会長になってくれまへんか」
「はぁ…? 会長に…? 地区町会の…?」

地区町会といえば、1単位の町会ではなく、かなり大きな統括的組織である。
僕は市役所の仕事で町会の担当もしたことがあるので、その苦労はわかっている。

「おたくやったら役所のこともよう知ってはるし。 わたしは適任やと思うてます」
とニコニコと笑顔で迫る Eさんにたじろぎながら、
「いや、あの、そんなこと…」 引き受けられません…とそれとなく態度で示した。
しかし、Eさんは頓着なく、
「頼みますわ。 また他の役員も連れて、正式にお願いに上がりますんで」

僕は慌てた。
退職して得た自由な時間を、今後どう使おうかとワクワクしていた時期である。
1町会の会長ならともかく、地区会長なんて…。 行政との関わりも深い。
やっと役所生活を終えたというのに、またそんなことに逆戻りするのは絶対イヤや。
それに、僕の性格からして、そういう役回りはまったく性に合わない。
また、こういうのって案外やりたがる人もいるわけで、そういう人に頼めばいいやん。

「え~っと、今はぶらぶらしていますが、また働こうかな~とも思ってますんで」
と、とっさに、嘘の言葉が僕の口をついて出た。
「あぁ、そうでしたか…? はぁ…」
Eさんは怪訝な顔つきで、僕の言葉に対し、中途半端にうなずいた。

それから何ヶ月も経った。
平日の昼でも、僕は買い物に出かけたり、コスパへ行ったりしている。
モミィを迎えにも行っている。
どうみても、仕事を持っているふうには見えない。

そこで、しょっちゅう近所の Eさんと出会ってしまう。
Eさんは、なんだか腑に落ちないような顔をして、
「働く…と言うてたんと違うのか…?」 みたいな目で僕を見る。
僕はさっと会釈だけして、 Eさんに話す隙を与えず、その場を離れる。

しかし、何度も同じようなことをして逃れ続けるのは、なかなか難しい。
僕が働いていないらしい…と知ると、Eさんは、また触手を伸ばしてきた。

今度は妻に、僕に地区会長を引き受けてもらうように言ってほしいと頼んだのだ。
だが、妻にはあらかじめ僕の意向を伝えていたので、
「主人は心臓の病気で、毎月病院に通っているものですから…」
と、体調を理由に、これも丁寧にお断りした、という。

よしよし。 よく言ってくれた。
僕は不整脈で、いつ発作が起きるかわからない身である、ということを伝えたわけだ。

「あぁ、そうでっか。 ご主人、そんな病気を持ってはりますのか」

しかし…

そのわりには、僕は毎日のように近くの大和川の堤防でランニングをしている。
コスパへ水泳に通っているのは内緒にしておけるが、ジョギングは隠せない。

先日、Eさんは、妻に会ったとき、こう言ったそうだ。

「ご主人、走ってはりまっせ。 どうみても、病気には見えまへんけどなぁ…」

あぁ、今年もまた新年度の地区町会の役員選が近づいてきた。
E さんが他の役員さんを連れてわが家にやって来たりしないだろうな~。


何事も起こらないことを、ひたすら祈るばかりである。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スイセンの丘、雪のまち

2011年02月12日 | モミィの成長日記

 
  


2月6日の日曜日、千早赤阪村へスイセンを見に行った。
千早赤阪村は、大阪府の南東部に位置する府下でたった一つの村である。
南北朝時代の武将、楠木正成の生誕の地としても知られている。

そこに 「スイセンの丘」 と呼ばれる場所があり、約5万本のスイセンが群生する。

寒波の影響で1ヶ月ほど開花が遅れていたが、ようやく見ごろになった…
…という新聞記事が出たので、長男の車で、妻とモミィと僕の4人で出かけた。

大阪方面は、立春の4日ぐらいから寒さが和らいで暖かくなり、
この6日も、快晴ではなかったが、穏やかな日和だった。

新聞に載ったせいか、スイセンの丘は大勢の人たちで賑わっていた。

休耕田の棚田に咲き乱れるスイセンに、モミィも満面の笑顔だった。


  
    2月6日。 スイセンを見てご機嫌。
  

だけど、そんな天候も、1週間と続かず、また寒波の襲来だ。

祝日だった昨日の午前、わが家の外では珍しく雪が舞い、何センチか積もった。
長い間こんな雪は見ていないな~と思っていたら、大阪で3年ぶりだそうである。
そうか。 3年前にもこれだけの雪が降っていたのか…。 もう忘れている。

雪に対する備えが乏しい大阪では、昨日のように5センチの積雪だけでも、
高速道路が12時間不通になったりするなどの大騒ぎとなる。

でも、子どもたちにとっては、雪はダイヤモンドの輝きにも見えるようだ。

モミィも雪を見て興奮し、「雪さ~ん、もっともっと降ってちょうだ~い」
と、外に出て、スコップで雪をすくってバケツに入れたり、大はしゃぎだった。


 
  2月11日。 わが家のベランダで。 近所の家々の屋根は純白に覆われた。
  藤井寺ではきわめて珍しい光景である。


僕は寒いのが大の苦手である。
スイセンを見に行った時は、ひょっとしてこのままの陽気が続くかも、
と、心ひそかに期待していたが、やっぱり無理な望みであった。

今日もまた雪が降るかも … という大阪の予報だ。

♪ 春よ来い 早く来い … と、つい口ずさんでしまう。

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私は古畑○三郎です~

2011年02月11日 | 雑記

先日、何年ぶりかにコメント欄で言葉を交わしたたまごさんから、改めてパソコンにメールをいただいた。 「今、どこかでブログをされているなら教えてください」 と僕がコメント欄でお願いしたので、それに対するお返事と、近況の報告をメールで送ってくださったのだ。

ブログは現在はされていない…ということだった。 以前のたまごさんのブログには共感するところが多く、楽しく読ませてもらっていたので、ちょっと残念なことだったけど。

でも、それより何より、今は雪で大変 … と書いておられた。 北海道在住のたまごさんは今年1月6日の仕事始め以来、家でも会社でも、ず~っと除雪してばかりです、とのことだった。 とにかく雪を除くことが先決で、とても仕事どころではない、ということなのでしょうね。 

連日テレビなどで、北海道、東北をはじめ日本海側の大雪が、住民の人たちに甚大な影響を与えている様子が報じられているが、実際にたまごさんからそういうお話をうかがうと、雪の被害に遭ったことのない僕などでも、その状況が現実味を帯びて胸に伝わってくる。

雪には縁の薄い大阪でも、きょうの祭日の天気予報は 「雪」 である。 ということは、北のほうはもっと降るのだろうな… と気になるところだ。 除雪…という作業はものすごく体力を消耗するみたいだし、危険も伴いそうだ。さらに、いくら苦労して除雪しても、また雪が降る。 また除雪する。 また雪が積もる。 それを際限なく繰り返す作業は、まるで 「シシュフォスの神話」 のようで、体力はもとより、精神力が萎えてしまいそうで、僕などは想像するだけで身が縮む。 雪国の方々が我慢強く、心身とも逞しいのも、むべなるかな、である。

たまごさんのメールには、最近、廃線跡を歩くことに興味を持っている、ということも書いておられた。 石炭で栄えた北海道の街の多くは、今は往時の面影なく寂れているが、かつてそこに人々の生活があり、駅があり、線路があり…ということで、この栄えていた頃の街を思い浮かべるのがたまらない醍醐味です…ということだった。

そんなところが、また、たまごさんらしいなぁ…と思った。

  ………………………………………………………………………………………

さて、話はコロッと変わります。

この 「のん日記」 の以前にやっていたブログでは、今のようにプロフィール欄に自分の写真を載せる、なんてことはしていませんでした。 
では何を載せていたか…? 
それは、僕の 「肖像画」 だったのです。 (なに、それ…?)。 

…さて、お立会い。

その肖像画を描いてくれたのが、ほかでもない、たまごさんだったのです。

どんなものか…というと、これです。

           

     

 

あはは。
これが僕に似ているかって…? そのへんは、突っ込まないでください。

僕のかつての職業が地方公務員…というのは仮の姿で、実は、秘密探偵だったのです。 もつれた謎を解きます。 もつれた問題でお悩みの方はご相談ください。 ま、それはいいのですが、ところで、この絵は誰かに似ていますね~。

以前のテレビドラマ 「古畑任三郎」 を想起させるシルエットです。
たまごさんも、器用な方ですね。 こんな絵がパソコンで描けるなんて。

僕も一時期、このドラマにハマっていたことがあります。
再放送をするたびに、同じものを何度見たことでしょうか。

このドラマにあこがれて、僕もブログ上で、刑事…とまではいかないのですが、私立探偵に成りすまそうと思いました。 そして、たまごさんの描かれたこの絵を自分のプロフィールの 「顔」 にさせてもらったというわけです。 むろん、許可を得ましたよ。

たまごさん。 その節はお世話になり、ありがとうございました。

そして、またまたお立会い。

僕の昔のブログ名は、古畑チン三郎 でした。 

…と書けば、何人の人が信じてくれるでしょうか…?

すみません。
今日は紀元節という厳粛な国民の祝日でしたね。
あ、建国記念の日か…?

あまり不謹チンなことを書くことは控えなければね~。 はい。


*…と書き終えて、いま窓を開けて見たら、雪が降っています。
    家や車の屋根などがすでに白くなっています。
    雪が積もっている風景を見るのは、僕はこの冬はじめてです。
  

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はこだけの女 (ひと) へ

2011年02月08日 | 雑記

届いた贈り物の箱の中には、何も入っていなかった…
という前回のブログの続きです。

空っぽの箱の中には、「笑い」 というクスリが入っていました…
…と、「送り主」 のじゃいさんが、今日のコメントで書いてくださいました。

「病気を治すのは薬よりも  『クスリ』  と笑う心のゆとり」 ということで…。
な~るほどねぇ。

そうでしたね。 あのとき、はこだけの女 (ひと) → じゃいさんは、
「何があっても笑うことを忘れずにいれば、自然に物事は良い方向へ向うものです。
 笑いは、万病に効く薬です」
と書いてくれましたね。
ホント、笑いを忘れると、際限なく落ち込んでいきますものね。

そういえば当時、僕は体調が最悪だったんですよね。 気持ちも塞ぎ気味でした。
それを励ましてくれるために、「はこだけ」 を送っていただいた…
涙が出るほどうれしい話です (泣いてはダメなんだ。 笑わなければ)

大阪から千キロ近く離れたところから 「はこだけ」 がはるばるやってきた…
…というのはにわかには信じ難いことで、すごいことやるなぁ~と思いました。
大胆素敵…という四字熟語 (?) が浮かびました。

箱を開けたとたん、絶句しました。
これが6月5日のことですから、1月遅れの 「端午の絶句」 …でした。

しばし絶句したあと、アゴが外れるほど、お腹がよじれるほど、大笑いしました。

それにしても、こういう贈り物をもらった人って、
日本中どこを探してもいないのでは…と思いますね~ 

今後、浦島太郎の 「玉手箱」、ギリシャ神話の 「パンドラの箱」 と並び、
「世界3大箱」 として、「はこだけのはこ」 が語り継がれることを祈るばかりです。

あの時、実は、何かお返しをするためにあなたに会いに行きます…
…と、メールに書いて送ろうと思いました。
そして…自分の服だけ送り、「はるばるきたぜ ふくだけ」 とやろうかなと。
そのココロは … あなたにふく (福) が訪れますように…。
でも、なんだか二番煎じだし、あまり面白くないな~と思い、やめました(笑)。

それにしても、久しぶりに読ませてもらいましたが、回文は相変わらず見事ですね。
久しぶりといえば、うめももさんの名前も出ましたが、お元気そうで何よりでした。

笑うことと共に、過去をなつかしむことも、心身の健康にいいそうですね。
心なしか、ここ数日、気持ちのよい時間が流れているように感じます。

また、じゃいさんに関する逸話のあれこれ、思い出して書いてみたいと思います。

ありがとうございました。


 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

は~るばる来たぜ ♪

2011年02月06日 | 雑記

いつだったか、ちょっと変わった餞別をいただいた話をブログに書いた。 大学卒業後はじめて就職した某百貨店を辞めるとき、元美容師さんだったというピアノ売り場の女性に、売り場の隅っこの物置の中で、立ったまま散髪をしてもらった。 「これが私の餞別よ」。 そんな話だった。

今日は、餞別ではないが、ちょっと変わった贈り物をいただいた話をしたい。

いや、これは、ちょっと…どころか、メチャメチャ変わった贈り物だった。

贈ってくれた人は、女性である。 僕よりおよそ20歳ほど若い人で、まあ、こういってはナンだけど、ガールフレンドなのです。 えへへ~ 。  

彼女のことを、仮に Y さんと
呼んでおこう。

今を遡ること約3年半前。 2007年6月のことである。 この話は、「のん日記」 以前にやっていたブログで一度書いたことがあるので、日付をはっきり示すことができる。 当時はもちろんまだ現役で仕事をしていた頃である。

その2007年6月5日火曜日の午後。 職場に一個の速達の郵便物が、僕宛に届いた。 A4版より少し大きめの封筒の中に、何か平べったい紙箱らしきものが入っているようだった。 差出人を見ると、封筒の下部には有名な企業名が印刷されていたが、個人名はない。 でも、企業名を見て、僕にはそれが誰なのか、すぐにわかった。 Y さんに違いない。 

それにしても、わざわざ速達とは…。
中身はなんだろう、ワクワク。
興味深々で封筒を開けた。

これが、その封筒と、中に入っていた箱である。   

                  

  


箱を取り出した。 意外に軽い。

箱のフタを開けた。 すると、そこには…

????????????????????

箱の中には何も入っていなかった。


 

そして…
箱の底に、何やら書かれた紙が貼ってあった。


  

                   ↓


     

 
が~~~~~~~~~~~~~~~~ん。

本当に、ほかに何も入っておらず、これだけだったのだ。
しかも、速達である。 シャレもここまで来れば哲学的と言わなければならない。

「色即是空」 。
現世の全ては空(くう)である…
この贈り物は、そんな暗喩かな~と思ったりもした (考え過ぎやろ)。

ともあれ、それ以後、僕は彼女のことをこう呼ぶことにした。

「はこだけの女 (ひと)」 。

  ………………………………………………………………………………………………

これは本当の話です。 以前のブログでこれを書いたとき、「作り話じゃないの?」 というコメントをもらったりしましたが、これは100パーセント本当であり、捏造ではありません。  いくら大阪に住んでいるからといって、大阪地検と一緒にしないくださいね。

それにしても、まぁ Y さんのユーモアには脱帽でした。 同じ北島三郎のネタでも、
「あ、向こうから電車がキタ…ジマサブロー」 な~んて言ってるようじゃダメですね。

その Y さんから来たメッセージは、

先日は、職場へ突然 「はこだけ」 を送り、大変失礼致しました。
空っぽの箱を見て
「なんでや!」
「嫌でんな!」
なんでや いやでんな
などとご立腹されず、笑って頂けてよかったです

…というものでした。
「なんでや いやでんな」 は上から読んでも下から読んでも同じ … という回文で、ここでも Y さんのセンスの一端がうかがえます。

最後に、僕は 「函館の女(ひと)」 の替え歌を送りました。

元の歌は… ↓

 ♪ はるばるきたぜ 函館へ~
   逆巻く波を のりこえて
   あとは追うなと 云いながら 
   うしろ姿で 泣いてた君を
   思い出すたび 逢いたくて
   とてもがまんが~ できなかったよ~  ♪


僕が作った替え歌は… ↓
  
 ♪ 中身はカラだぜ 箱だけ~
   逆立つ髪を なだめつけ
   何も乞うなと 云いながら
   箱を抱きしめ 泣いてた俺は
   思い出すたび 開けてみる
   やっぱり中身が~ ほしかったよ~  ♪


では、みなさま、どうか良い日曜日でありますように…

Y さんも、良い休日を!
古い話を持ち出して、失礼しました。

 



 

 

 

 

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大相撲沈没 ~八百長問題~ 

2011年02月05日 | スポーツの話題

あぁあ~、今年1年の目標だったブログの毎日連続更新は早くも途切れた。
でもまあ、いいか。 

1月が終わったとき、この1ヶ月間、ブログ1日も欠かさなかったことを振り返ってみると、ネタというか題材には、思ったほど苦労はしなかた。日々の生活、社会現象、過去の思い出などをはじめ、食指が動く題材は山ほどあったし、あれも書きたい、これも書きたいと思うと、無尽蔵に思い浮かぶ。さらに、長い話には1回完結でなく、読んでもらいやすいように何回かに分けたりすると、たとえ1年間であっても、病気でもしない限り続けられそうである。

しかし、続けていくうちに、なにかこう、毎日欠かさず…ということにこだわることに、いったいどういう意味があるんだろう…という思いに、ふと目覚めるのだ。前日書いたものが、翌日の更新で早くも過去のものになってしまう。これがズンズン積み重なっていくと、なんとなく脱力感が忍び寄ってくる。ブログは自分の記録として書いている部分も多いが、これだけ毎日となると整理するのも大変で、後年、モミィたちに読んでもらおうと思っても、量が多くて手がつけられないのではないか。もう少し、まとまりのあるものにしなければならない。

だけどまあ、おかげで、これまで不完全だった早起きの習慣が完璧になったし、目に付いた新聞記事などは以前よりいっそうマメに切り抜くようになり、毎朝、アクセス数を見る楽しみも、格別のものであったことは事実なので、それはそれなりの貴重な経験をし、それによって良い生活習慣が身についたと思う。

ところで、そのアクセス数のことだけど、昨日はブログを書かなかったが、閲覧数が742で、訪問者数が262だった。ブログを書いた一昨日は閲覧数722で訪問者数が254。書かない日のほうが多くの人に訪れてもらっていた…というわけだ。

僕が逆に読むほうだったら、毎日更新する人のブログって、読むのがしんどいかもしれない。

…と、まあ、言い訳はそれくらいにして。

昨日から書きたいと思っていたのは、大相撲の八百長問題のことである。

大相撲にいっさい八百長がない…と信じている人はたぶん相撲のことを知らない人だけだろうと思う。ひとつだけ例を出すと、1年前に現役を引退した大関千代大海の場合だ。彼は大関で13回という驚くべき回数のカド番ピンチをすべて乗り切り、勝ち越して大関に居残っている。特に13回目のカド番を迎えた2009年の5月場所は12日目まで5勝7敗で、体調も悪く、こんどこそ負け越して大関から陥落するだろうと思っていたら、残りの3日間を全部勝ち、終わってみれば8勝7敗で大関の座はまた安泰。千秋楽の把瑠都戦など、まさに絵に描いたような八百長相撲であった。 と同時にその日は、琴光喜、魁皇の両大関も7勝7敗だったが、2人とも勝った。それを見ていて呆れた僕は、その日の夜、ブログにさっそくこのことを書いた。

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/15bb125cd9832d0d90ddf8f72cdc3c67

去年の夏ごろ、僕はブックオフで見つけた「週刊ポストは『八百長』をこう報じてきた」という文庫本を買って、読んだ。この週刊誌は1980年から、他のマスコミがそれまで取り上げたことのなかった八百長問題を初めて継続的に取り上げた。それらの記事が盛り込まれて1冊の本になったものである。今回の騒動で、再びその本を読み直してみた。これを読むと、想像や作り話では到底成り立たないほどの怪しい現象が、相撲界に蔓延していることが一目瞭然である。

昨日だったか、石原東京都知事が、「こんなていたらくで大相撲が国技なんて、ちゃんちゃらおかしい」と言い放った様子が報道されていた。石原知事のコメントは歯切れが良く、いつもスカッとさせてくれる。尖閣諸島に関する中国の態度を「暴力団と一緒じゃないか」と言ったり、現役当時の横綱朝青龍を「強いからと言って文化を壊す…そんな人間は相撲界から追放して当然だ」と言ったり。

で、この本の中にも、昭和38年に大鵬と柏戸の両横綱が千秋楽に全勝同士で対決し、柏戸が勝った相撲について、当時はまだ国会議員にもなっていなかった作家・石原慎太郎が、「八百長あり」と日刊スポーツに書いて協会から告訴を受けたという話が載っていた。

当時中学生だった僕も、大の相撲ファンで、「巨人・大鵬・玉子焼き」の一人だったので、この相撲をよく覚えている。柏戸は横綱になってから2年間で1度しか優勝しておらず、逆に大鵬は優勝を積み重ね、大横綱への道を着々と歩んでいた。世間は柏戸に同情し、なんとかこの憎らしいほど強い大鵬を負かしてほしい…という判官びいきが支配的な空気の中で、大鵬は不自然な負け方をしたのである。

八百長は、いつの時代にもあったのだろう。

「過去に八百長はいっさいなかった」と放駒理事長は強調していた。よくもまあ、ぬけぬけと言えるものだと、かえってその能天気ぶりに敬意を表したほどである。理事長の現役時代の魁傑は大好きだったけど。

また、この「週刊ポストは『八百長』をこう報じてきた」では、千代大海の師匠である元横綱千代の富士の残した華麗なる実績についても、「八百長で作られた大記録」と、通算31回の幕内優勝や、53連勝などの裏に何があったかを克明に記述している。具体的な根拠も次々と並べられている。これを読んだからそう思う、ということだけではないけれど、千代の富士を相撲をテレビを通じて毎場所見てきた者としては、たしかに千代の富士は強い力士だったけれど、そこにプラス何かが加わらなければ出来ないような数々の記録を達成した…というふうにも思える。

今、大相撲の魅力はどこにあるのか…? 間近に迫りつつある魁皇の引退。そうすれば、横綱・大関のすべてが外国人で占められることになる。相撲内容も、はたき込みやいなしが多く、かつての横綱貴乃花のような、正々堂々の力相撲というものには滅多にお目にかかれなくなってきた。過去から週刊誌等で何度も指摘され続けてきた八百長も、協会はなんのかんのと言いながら、あるいは無視しながら、その場その場をしのいできた。しかし、携帯メールという新兵器の前に、ついに八百長の実態が物的証拠として白日の下にさらされたのである。

もうどんな抗弁も通用しない。そろそろ年貢の納め時である。
大相撲はいったん解散をして、一民間のスポーツとして再生すればいい。

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サロマ湖 100キロこぼれ話

2011年02月03日 | ランニング

サロマ湖100キロマラソンは、後日、レースのダイジェストがテレビで放映された。
おかげで、知る由もなかった優勝選手の壮絶な走りっぷりなどを見ることができた。

男子は小島という選手が、女子は遠藤という選手が優勝した 。

女子でトップを走っていた遠藤が、原生花園で前を走る一人の男性ランナーを抜いた。
そのシーンをよく見たら、抜かれた選手は、我らの仲間、キタちゃんだった。
ゴール近くで、女子の優勝選手と一緒にテレビに映るのだから、キタちゃんもすごい。

42キロ過ぎでは、マルちゃんの走る姿が、一瞬、映った。

僕やドイロンは、チラリとも映らなかった。

   ………………………………………………………………………………………

100キロを走り抜き、いよいよ目の前にゴールが見えたときは感無量である。
僕とドイロンは、ゴールの時に、それぞれちょっとしたハプニングがあった。

僕は90キロあたりから、ランナーの中に変なオヤジがいるのが気になっていた。
そのオヤジは、給水所のボランティアの女子高校生を怒鳴りつけていたのだ。
「水をくれ、水を。 こんな味のついたドリンクじゃない。 水だ、水!」
怒鳴られた女の子は、「すみません」 とあやまり、あたふたと水を探す。
「早くしろ。 こっちは疲れとるんじゃっ」
いくらランナーだと言っても、これはひどい。
陰で支えてくれるボランティアの地元女子高生を罵倒するなど、最低の行為である。

そのオヤジの走るペースが、僕とほぼ一緒だった。

いよいよゴール会場である常呂町民センターの前の運動場に入ってきた。
ゴールではテープが待ちうけ、あと50メートルほどのところまできた。
周囲の大会関係者の方たちが、「おつかれさま~」 と拍手を送ってくれる。
ゆっくりと、一歩一歩をかみしめるように、僕はゴールに近づいた。
至福の瞬間だった。 

そのとき…
「ウォーッ」 というとてつもなく大きな声が、真後ろから響いてきた。
まるで猛獣が吼えるような、わけのわからない叫び声であった。 
普通の喜びの声ではない。 気が狂ったような絶叫だ。
そしてゴール寸前で僕を抜き 、「ウォーッ!」 と叫びながら両手を上げ、
ピョンピョン飛び跳ねてテープを切ったそのランナーは…
さきほどの、変なオヤジであった。 

オヤジは、最後の直線コースでいきなり全力疾走して僕を抜いた。
人が大勢いるゴール前で僕を抜こうと、あらかじめ狙っていたかのようだ。

しかしなぁ。
お互いに苦しい思いをして100キロを走ってきた、いわば同志である。
僕の前にもランナーが一人いたが、たとえ追い抜く力が残っていたとしても、
そういう行動を取らないのが、マナーというものではないか。
611名の中の583位か584位か…というポジションで、何を競うのか。

給水所のボランティアを怒鳴りつけたり、ゴールで 「ひとりバカ騒ぎ」 したり。
こんな頓珍漢なオヤジも、100キロを走るランナーの中にいるのである。
ランナーもいろいろ、である。

 
さて、ドイロンのほうは、膝の故障に泣かされたレースだった。
ストレッチや歩きを入れながら、なんとかゴール付近へたどり着いてきた。

ゴールまであと1キロというところで…
ドイロンの横を走っていた女性ランナーは、すでに感極まって涙を流していた。
「あと1キロね。 あと1キロね」 と、声を震わせ、泣きながら走っていた。
ドイロンも思わず胸がキュンとなり、その女性に、
「そうなんですよ。 あと1キロですよ。 がんばりましょうね」
と、やさしくその女性を励ました。 

「そうね。 あと1キロね。 あと1キロね」 
女性の足元はふらふらで、今にも倒れるのではないかと思われた。
「大丈夫ですか…? もう少しですから、何とかがんばってくださいね」
ドイロンはやさしい。 その女性にペースをあわせ、見守ってあげた。

「そうね。 あと1キロね。 あと1キロね」 と、
泣きながらその女性は…
…急にスルスルとスピードを上げた。
コロッと人が変わったように、軽快な足どりになり、ドイロンを引き離して行った。
ドイロンはとてもそのスピードには付いて行けず、置いてけぼりをくっちゃった。

 …というのが、ドイロンの、サロマ湖100キロマラソンのエンディングでした。

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い出の サロマ湖100キロマラソン

2011年02月02日 | ランニング

250キロを一気に走りぬくほどの鉄人ドイロンも、昔から僕と同じように不整脈に悩まされており(不整脈では年下の彼のほうが先輩である)、これまで数回の手術もしていた。 先日のメールでは、「昨年末にまたまた心臓の手術をして、いよいよトライアスロンやウルトラマラソンは卒業となりました。最近はウォークと軽いジョギングの日々です」 とあった。 

あのドイロンからこういう言葉を聞くのはとても寂しいことである。
人が年齢と共に体力が衰えるのは仕方ないことだけど、なぜか、せつない。

ドイロンも僕も、仲の良かったマラソン友だちも、み~んなタフだった頃。

あの1991年(平成3年)の7月7日の七夕の日に走ったレース。
サロマ湖100キロマラソンを懐かしく思い出す。 42歳の時だった。

キタちゃんとマルちゃんとドイロンと僕の4人で北海道へ行き、走った100キロ。
僕以外の3人はいずれも30代で、同じ役所の仲の良い友人たちである。 
キタちゃんは別大マラソンにも出場した超一流の市民ランナーだ。
マルちゃんは無口で時々 「だはは~」 と笑う天才肌のランナーで、努力を嫌がる。
そしてドイロン。 この旅行の世話人役を一手に引き受けてくれていた。
 
7月6日、旭川空港へ降り立ち、そこから旅行社のバスに揺られて6時間。
受付会場の常呂町から宿泊ホテルの北見へ行き、翌朝午前2時半にホテルを出発。

そして、7日の午前5時に、湧別町総合体育館前からレースがスタートした。
日本全国から集まってきた出場選手は、約800人であった。

実力者のキタちゃんは一瞬にして前方の人ごみの中へ姿を消して行った。
マルちゃんとドイロンは慎重に走り始めるが、僕にはそのペースさえ速かった。
ドイロンが 「あれ?」 という表情で振り返り、僕を探しているのが見えた。
しかし僕はほとんど最後方に近い位置で、ゆるゆると走った。

正直なところ、僕はこのレースで完走できる自信はなかった。
練習では最長70キロ走までやり、多少の見通しも出てきた頃、

レースの1ヶ月ぐらい前だけれど、40キロを過ぎると左足の膝が痛み出した。
他の3人とは格段に実力が落ちる僕が完走できれば、宿願の全員完走となろう。
しかしそれは、とても難しいことのように思えた。

レースはどんどん列が長くなってきた。
20キロ地点で止まり、屈伸運動をしていたら、近くに待機していた大会役員さんが、
「棄権されるのでしたら、この車でゴールまで送りますよ」
と、心配そうに声をかけてくれた。
「いえ、ちょっと体操しているだけで…。 大丈夫です」
まさか…20キロで棄権してどないすんねん。

心配していたとおり、40キロ付近で左足の膝が痛み始めた。
あぁ、万事休す…か。 
しかしあきらめてはいけない。
何とか少しでも前に進まなければ…と、走り方を変えてみた。
前向きに走るのをやめ、左足に負担がかからないように、斜めを向いて走ったのだ。
まぁ、大げさに言えば、カニさんが横に走る感じに近かったと思う。

この走り方にしてからは、痛んでいた箇所がウソのように何も感じなくなった。
別に深い考えもなく、とっさに思いついた窮余の一策であった。

50キロ地点を通過しようとしたとき。
ちょうど、その場所が50キロの部のレースのスタート場所だった。
これからスタートしようとする選手たちが、沿道に溢れていた。
その中の一人の女性が僕に
「100キロの方、いいペースよ、がんばって~」
と、声をかけてくれた。 こういうのって、すごくうれしい。

トコトコと斜めを向きながら走っていて、気になることがあった。
ゴールの制限時間は、12時間半である。
スタートが午前5時だから、午後5時半にレースは 「強制終了」 するわけだ。
それまでにゴールしなければ、その時点でリタイアということになる。

あれやこれや考えながら走り続け、とうとう80キロまで来た。
なんと、ゴール会場である常呂町民センターがすぐそこに見えた。
しかし、まだ20キロ残っている。 このあとが大変だった。

ここからワッカ原生花園というサロマ湖の海側の道を10キロ先まで走り、戻ってくる。
最後の20キロのこのコースが、とてもとてもきつかったのである。
 
原生花園に入るところで、向こうからマルちゃんがやって来た。 
間もなくゴールである。 すご~い。 練習嫌いなのに、さすが天才肌。
マルちゃんは 「がんばって…」 と僕に小声で言って、すれ違って行った。

これならキタちゃんは、とっくにゴールしているに違いない。

ゴール地点に背を向けて、残りの20キロに、うんざりしながら臨む僕であった。

ワッカ原生花園の美しい景色も、なんの感動も湧かない。
僕にとっては、ただ、延々と続く意地悪な道、というだけだ。

あ、向こうからドイロンが走って来た。

「のんさん。 なんか、けったいな走り方してはりますね~」 
と笑いながら、走り去った。

レース後、彼から聞いたところによると、斜めを向いて走ってくる人がいるので、
「おかしなフォームやなぁ、と思ってよ~く見たら、のんさんでしたがな」

ワッカ原生花園コースの先っぽまで行き、そこで折り返す。
あと10キロだ。
まわりのランナーも、みんな疲労困憊している。
半分以上の人たちが、走れなくなり、歩いている。 
マラソン大会というより、ウォーキングの大会みたいな光景だ。

僕も、走っているとは言いながら、歩く速度と変わらない。
あぁ、つらい。 早く終わりたい。 ゴールしたい!

そして…。 聞こえてきた。 ゴール会場のアナウンスが…。
夢にまで見たゴールが、すぐそこに迫ってきた。
時間は…? なんとか5時半までに到着しそうだ。

朦朧として走っていると、
「わぁ~。 やりましたね~。 ゴールまであと少しですよ!」
キタちゃんが途中まで走って迎えに来てくれたのだ。 
100キロ走って、まだ、こんなに走れるんだ、キタちゃんは。

青息吐息でゴールイン。 欲も得もなかった。

僕のタイムは12時間24分13秒だった。
制限タイムまであと5分余りという、ギリギリのところであった。

キタちゃんは8時間43分で41位。 
マルちゃんは10時間18分で194位。
ドイロンは11時間44分で396位。
そして僕は12時間24分で584位。

完走者は611名で、そのうち男子が532名、女子が79名。

北ちゃんの8時間台での41位は、まことに見事な成績であった。

僕は、611名中584位で、後ろには20数人しかいなかった。

…あれから、ちょうど、今年で20年が経った。 ふた昔前の話である。

 

    
      目もうつろ。 ヨレヨレになりながらゴールする。 



    
      完走証。 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする