僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

初めて女性と寝た夜??

2019年05月30日 | ウォーク・自転車

今日は怪しいタイトルですけど、どんな展開になりますことやら。

さて、今ごろになってこんなことを書くのは遅きに失したのですが、4月5日に、「なつぞら」の放牧シーンで思い出した “恐怖の体験”  という記事を書きました。4月から始まった朝ドラ「なつぞら」は北海道の大自然が舞台で、牛の放牧シーンが出てくるのを見て、僕自身が北海道自転車旅行中に体験した話を思い出し、そのことを書いたものでした。

どんなことかといえば

オホーツク海沿いの道を走っていた時のこと。海辺の野原にテントを張って野宿をしたのですが、その朝、放牧されていた牛が近づいて来てテントを踏み倒した、というビックリの体験談を書いたものでした。

その記事に関して、その次の記事(4月8日)のコメント欄に、以前からコメントをいただいてきた馴染みのBPSさんからコメントが入り、

ところで、ひとつ前の日記、 【「なつぞら」 の放牧シーンで思い出した “恐怖の体験” 】 ですが、あの日はお独りでしたっけ?

という文章がつづられていました。うむ。さすがBPSさんだな、と思いながら、それに対して、こうお伝えしました。

実は1人ではありません。女性と2人でした(冷や汗!)。 しかしまぁ、さすがによくご存じでしたね~。それを書くと話がそれたり長くなったりするので、牛だけの話に絞りましたが、実際は自転車日本一周中の女性と道で出会い、意気投合して僕のテントで2泊したのでした。近いうち、その話もちゃんと書きますわ。他の読者の皆様に「誤解」されてはいけませんので(笑)。

と、お返事しました。BPSさんが僕の自転車旅行記を丁寧に読んでくださっていたことは承知していましたので、「やっぱり覚えてもらっていたんだなぁ」という思いを新たにしました。

で、それを書こう書こうと思いながら、もう2ヵ月近く経ってしまいました。朝ドラのほうも、舞台はすでに北海道から東京に移り、主人公のなつが漫画映画の世界を目指し、牛の放牧シーンはほとんど見られなくなりましたけどね~

 …………………………………………………………………………

さて前置きが長くなりましたが、その北海道で牛にテントを倒された時のことですが

BPSさんへのお返事にも書きましたように、その時は1人ではなく、自転車で日本一周をしていた20歳の女性と一緒だったのです。つまり2人で一つのテントの中で寝たというわけです。何だか怪しげな話になってきましたが(笑)。

なぜそんなことになったのかと言うと

ほとんど人影のないオホーツク海沿いのガタガタ道を走っていたら、向こうから「その人」が自転車でやって来た。お互いサイクリスト同士だから止まって挨拶を交わした。日焼けした顔と逞しそうな体格を見て、てっきり男性だと思って間近で見たら、なんと女性だった。

「こんにちは~」 「は~い、こんにちは」

と言いながら、僕はこの旅行中に会った何人かのサイクリストから、今この北海道を日本一周中の女性が走っている、という噂を聞いていたので、すぐにその人だとわかった。僕と同じ大阪の人で年齢も20歳。「はぁ、この女性かぁ」と、改めて彼女を見つめた。

すると彼女のほうも僕の噂を他のサイクリストから聞いていたそうで、「大阪の学生さんでしょ? 言葉ですぐにわかったわ。それに、小柄で高校生か中学生みたいだって聞いていたし」と言ったのだった。(だれが中学生やねん)

時刻は午後3時半だった。意気投合して立ち話が続いた。そして僕は「いつもどこで泊っているの?」と聞くと、さすがに若い女性なので僕みたいにテントで野宿はできないので、旅館に泊まっているという。

そのうち、彼女は少し態度をあらためて、「わたしはユミ子。ユミちゃんです。君は今日はどこで泊るの?」と僕に尋ねた。僕は「適当なところでテントを張るよ」と答えた。するとユミちゃんは驚くようなことを口にした。

「わたしはね、ずっと旅館に泊ってきたんだけど、一度、野宿がしたかったの。今晩、テントにいっしょに泊めてよ」
「テントに? いっしょに泊まるの?」
「そうよ。キャンプしようよ。いいなぁ、テント。男の人はいいよね。どこでも泊れるからねぇ。その点、女は損だよ。よ〜し、きょうは君のテントでいっしょに野宿をするよ。いいでしょう?」

僕は多少戸惑いながらも「ええよ」と答えた。別に反対する理由もないし。

ユミちゃんは「やったぜ、ベイビー!」と、この年に大流行した言葉を発し、大いなる喜びようで、「よ〜し。今日はここで野宿だぞぉ!わーい。初めての野宿だぁ」と、道の真ん中で両手を突き上げ、大声で歓声を上げた。

その場で浜辺の草原に降りてテントを張ったあと、2人で近くの村まで行って食料品店を見つけ、パンやハムなどの食料を買い込んだ。店のおじさんから「あんたたち、夫婦かい?」と聞かれたので「いいえ、いま会ったばっかりです」と言ったら「そうかい?」と言いながらも、腑に落ちない顔をしていた(笑)。

夜はユミちゃんがその辺から集めてきた枯れ木のクズでキャンプファイヤーをし、いろんなことを話した。途中から、彼女の身の上話になった。

彼女は梅田の地下街でウエイトレスをしてお金を貯め、念願の自転車日本一周に出たという。しかし何と言っても女性なのだから、旅行中は決して油断せず、特に男性には十分警戒しなければならない、な~んてことを言った。だから宿泊は必ず旅館と決めていた。旅行に出てから、旅館以外で泊まるのは本当にこれが初めてだという。

「だったら、なんで僕のテントに泊まろうと思ったの?」と聞くと、ユミちゃんはニンマリ笑って、僕ならどう見ても安全に思えたし、しかも大阪同士なので気が合いそうだったから、と答えたのだった。
(これって、喜んでいいわけ?)。

夜も10時半になり、そろそろ寝ようか、ということになった。僕は寝袋をひとつ持っていて、いつもテントの中で寝袋にくるまって寝ていたのだけれど、さすがに相手は女性だから寝袋を彼女に提供した。「え~、寝袋使わせてくれるの。うれしい!」と言って、そこにすっぽりと入った彼女の横に僕はごろんと横たわり、そのまま話を続けた。寝たのは夜中の1時半ぐらいだった。

これが、僕が生まれて初めて女性と2人で寝た夜でした。まあ、より正しく表現するなら「2人で寝た」ではなく「2人で眠った」ですけどね(笑)。

そして翌朝、牛たちがテントにやってきて、僕らが外に避難すると、1頭のいたずらな牛がテントを踏み倒した、という話になったわけです。一部テントが破れた部分を、ユミちゃんは持っていた裁縫道具で縫ってくれたので助かった。さすが~、女性である。

この朝、2人はここで右と左に別れるはずだったけれど、牛の一件もあってか、何となくグズグズしたあげく、ユミちゃんが、 「もう1泊しよう! 連泊だよ、連泊。連泊しよう!」 そう言ったので、僕も異存はなかった。

それでは今日はジンギスカンで盛り上がろう、ということになり、買出しに行って沢山の羊肉、ジャガイモ、パン、きゅうり、お菓子などの豪華な買物をし、それを昼も夜も食べた。

ということで、結局、ユミちゃんとは2泊して、次の朝、彼女は北の稚内方面、僕は南の網走方面へと、互いに反対方向へ別れて出発した。

 …………………………………………………………………………

これは1969年(昭和44年)7月の話です。ちょうどアポロ11号が月に着陸した時でした。僕は8月下旬に大阪へ帰り着き、ユミちゃんはその後も走り続け、各地からわが家にハガキを送ってきてくれました。「いま与論島です。日本最南端まで来ました」というハガキもありました(当時沖縄はまだアメリカ領だった)。そして12月に日本一周を達成したということです。

女性が自転車で日本一周をした、ということで当時評判になり、サイクリング雑誌のインタビュー記事にも彼女は写真入りで出ていたのですが、その雑誌を読むと、僕とのことも書かれていたのです。

そのくだりは

「旅の途中では、いろんなことがあったのでしょうね?」 と、サイクリング誌の記者。  「えぇ。会ったばかりの男の人とテントに泊まったりもしましたよ」 とユミちゃんが答える。  「え? 男の人と2人でテントに泊まったの?」 と、記者がビックリして聞き返す。  「そうですよ。大阪の学生さんです」  「初対面の男性と2人っきりで? テントで泊まった?」  「ええ。〇〇昇という名前で、寝袋も私に貸してくれました」 と、僕の実名まで書かれていたのには、いやぁ、参りましたわ。

そして彼女は旅行を終えた数年後、もう結婚して子供もいた僕の家に遊びに来て、泊まったりもしました。

その後、オーストラリアに行き、シドニーで電車の車掌さんのイアン・キャンベルさんという男性と結婚したそうです。「これからは、ユミコ・キャンベルって呼んでちょ~だいね」 オーストラリアからのエア・メールに、そう書かれていました。

それ以降、彼女との音信は途絶えました。

「なつぞら」の放牧シーンとBPSさんとのコメントのやりとりをきっかけに、懐かしい話を紹介させていただきました。

自転車旅行へ行ったのが1969年の夏なので、あれからちょうど50年の歳月が経ったことになりますが、早いですねぇ。あっという間です。

織田信長じゃありませんが、
50年。夢まぼろしの如くなり」ですね~

 

 
これがユミ子さん。飯盒でご飯を炊いてくれています。

 

 
ユミ子さんと別れる時、撮ってもらった写真です

 

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レンタルビデオの返却期限が!

2019年05月27日 | 日常のいろいろなこと

駅前にあるレンタルビデオ店のツタヤ(TSUTAYA)は、毎週金曜日に60歳以上に対してのシニアサービスというのがあり、旧作に限って、2本目を無料で借りることができます。ご存知の方も多いでしょうけど。

最近はそうでもないけれど、以前は洋画が大好きだった僕は、今でもまた見たいなぁと思う映画が数え切れないほどあります。だから金曜日には、妻と夕食後のウオーキングに出た際に「TSUTAYA」へ寄り、妻やモミィが見たいという映画を借りる時にも、もう1本プラスして、必ず計2本は借りることにしているのです。なにせ2本目は無料ですからね。

そんなことで、先々週の金曜日も店に行き、「ローマ法王になる日まで」と、オードリー・ヘップバーンの1950年代の主演作「パリの恋人」を借りました。

ちなみに「ローマ法王になる日まで」は、アルゼンチンのブエノスアイレスで生まれ育った主人公が、アルゼンチン人として初のローマ法王になるまでの実話を元にした作品です。ブエノスアイレスといえば甥のヒロユキや奥さんのソルちゃんが住んでいるところで、僕らも行ったことがあるので、見たいなぁと思っていた映画です。

 

    

 

両方とも旧作なので、2本で100円です(安過ぎる~!)

という話ですが、それがまさかこんな失敗談につながるとは

一昨日の土曜日のお昼少し前に、ふと気がつくとその2本のDVDが袋に入ったまま置いてあった。2本とも数日前に見終えていた。「え、まだ返していなかったっけ?」と思って妻にそう言うと「ホントだ。今日は何曜日?」と聞き返したので 「今日はありゃぁ土曜日や」と僕。 「じゃぁ返却期限は昨日だったのね」と妻。

妻はチラッと時計を見た。お昼の12時前だ。「今すぐ返してくるわ!」とあわてて出かけようとしたので、僕は「どうせ1日遅れだから、今日中だったら午後か夕方でもいいんじゃない?」と言うと、「お昼までだったら大丈夫だってことを聞いたような気がするの」。

妻はそう言って、素早く自転車に乗って出て行った。妻が言ったのは、返却期限日の翌日であっても、お昼の12時までなら延滞の対象にはならないという特例がある、という意味だった。

やがて妻が帰って来た。 「どうだった?」 「あぁ、惜しかったわぁ」 「惜しかった?」 「お店に入った時、12時5分過ぎだった。あと5分早かったら、延滞料金を払わずに済んだのに~」 と残念そうに言った。

あと5分!

な~るほど。レシートを見ると返却日は金曜日まで、となっているが、このお店はその翌日のお昼の12時までならOKということだった。それはどこにも書かれていないけど、かつて妻は店の人からそう聞いたと言っていた。まあ一種のお店の「人情」みたいなものなんでしょうかね。しかし、そこにもあと5分届かなかったのはやっぱり残念。もう少し早く気がついていたらねぇ。

「で、延滞料金はいくら払ったの?」と僕が聞くと、「え~っと、1日遅れで2本で518円だったわ」と妻がレシートを見せてくれた。これが2日遅れだとその2倍。3日遅れだと3倍と、倍々に膨れ上がっていくんだから注意しなければならない。

それにしても

シニアサービスで2本借りて100円。「安過ぎるがな~」と、ニンマリしていたのに、返却する時に518円を支払うことになるとはなんのこっちゃ。

このごろ「うっかり忘れていた」ことが多くなってきましたが、 「ごめん、忘れてたわ」だけでは済まんこともあるんやで という教訓として、記憶に残しておきます。

まあ、それもまたすぐに忘れるかも知れませんが(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の2階はヨーロッパでは1階と呼ぶそうで

2019年05月23日 | 旅行

このあいだ、イタリアに関する本を読んでいたら、

「イタリアでは日本の2階は1階と呼ばれるので注意しましょう」

ということが書かれていた。あ、そうだった~と思った。

最後にヨーロッパに行ったのは2008年のパリ旅行だったので、もうすっかり忘れてしまっていたが、イタリアだけではなく、フランスでも日本で言うところの「2階」が「1階」だったことを思い出した。

24年前に妻と2人でパリへ行った時、ホテルのフロントで部屋のキーをもらったら「300何番」という部屋番号が書いてあったので、てっきり3階だと思って、目の前に階段があったのでそこを上がり、3階の部屋番号を見ると200番台だった。「えっ? 300何番だったら3階じゃないの?」と不思議に思いながら一つ上の4階に上がったら、300番台の部屋が並んでいた。その時はわけがわからなかったが、後にフランスでは、日本の2階が1階と呼ばれることを知った。だからホテルの部屋が300何番だと、フランスではそれが日本で言う4階にある、というわけ。

では日本で言う1階のことは何と呼ぶのか? はっきり知らないが、まあ、地上階とか、グランドフロアのような呼び方をしているんでしょうね。

だからイタリアでも同じで、つまりヨーロッパではみんなそうなっているのだと思う。

例えばイタリアのスーパーで店の人に「トイレはどこですか?」と聞いて「2階にあります」と教えてもらったら、それは日本の3階のことなんですよね。2階に行ってトイレをいくら探しまわっても、絶対に見つかりませんで(笑)。

そう言えばスペイン・バルセロナのイングレスという百貨店に行った時、こんなことがあった。僕は靴が欲しかったので日本で言う2階の靴売り場へ行くと、大きな靴ばかりで足の小さな僕に合う靴がない。そこで売り場の人に、覚えたばかりのスペイン語でたどたどしく「ティエネ・マス・ペケーニョ?(もっと小さいのはありませんか?)」と聞いたら、店員さんは僕が東洋人っぽかったので、口では言わず、指を1本差しだして、そのあとその指を上に向けた。つまり1階上にある、ということだった。(ちなみにその階は赤ちゃん用品の売り場がメインで、そばに小さい靴の売り場がありました。なんのこっちゃ)。

また、そのあと別の人に、タックスフリーの事務所が何階にあるのかと聞いたら、その人は指を3本出して、下を示した。つまり3つ下、ということだったので、すぐに行くことができた。

言葉で何階と言わず、そんなふうに指を何本か出して「ここからいくつ上、あるいはいくつ下」というジェスチャーで示してもらったらわかりやすいですわね。

日本流の1階、2階が当たり前のように思っている僕たちですが、考えてみればそのほうが少しヘンかなと思ったりします。なぜなら「地下1階」と言いますよね。地上階からひとつ下が地下1階であるなら、地上階からひとつ上はヨーロッパ流の地上1階になるはずですよね。だから地上階は、数字で正確に表せば1階ではなく、ゼロ階ということになります。この「ゼロ」と「1」の区別がややこしいんですよね。

ところで、僕は以前、このブログにも書きましたが、ウオーキングのついでに、近くにある10階建ての大阪府営住宅の階段を最上階の10階まで歩いて上がることがあるのですが、一つの階を上がるのに14段の階段があります。

なので 僕は10階まで上ったんだから14段×10で、140段の階段を登ったものだとしばらくの間は思っていたんですよね。しかしある時ふと、その計算が間違っていたことに気がついたのです。最初に上がった所が2階だから、10階までは9回しか上がっていないわけで、それなら登った階段の数は、当初思っていた14段×10ではなく14段×9ですよね。いやまぁ、言い訳するわけじゃありませんが、物事をゼロからではなく1から数える癖がついているのでこんなことになるんでしょうか。イタリア人ならそんな間違いはしませんね~

今回「日本の2階はイタリアでは1階になります」 と書いてあったのを見て、数を数える時は常にゼロの存在を頭の中に入れておく、ということをその時に肝に銘じたことを思い出しました。

そういえば、松本清張の有名な小説に「ゼロの焦点」というのがありましたね。(なんの関係もあらしまへんがな)。おしまい。

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

禁酒宣言をして酒を飲むとどうなる? 丸山穂高議員

2019年05月19日 | ニュース・時事

丸山穂高というまだ35歳の若い衆議院議員が、北方領土への訪問団に参加した際、酒に酔って、訪問団の団長に「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか?反対ですか?」と質問し、あげくに「戦争をしないと、どうしようもなくないですか?」などと言ったことが、大きなニュースになっていますね。今、この人はメディアでメチャメチャ叩かれています。

このニュースを聞いて、同じように酒好きの僕は、やはり飲酒したときの言葉には気を付けなけりゃ~な、としみじみ思ったものです。

丸山議員は、ふだん、身近な仲間には「北方領土はソ連に戦争で奪われたんだから、戦争して奪い返すしかない!」というふうなことをしゃべっていたのだと思います。個人が居酒屋あたりで何を話そうが別にどうということはないんですが、彼が国会議員であり、それも北方領土への訪問の場で団長にそういうことを言ったのだから、これはもう、袋叩きに合ってもしかたないですわね。立場というものを考えなければ。

ニュースによると、丸山議員は3年前、酒に酔ってトラブルを起こし、その時に「あらゆるトラブルを予防するため、今後の議員在職中においては一切酒を口に致しません」と、ツイッターに投稿したという。

その言葉を守っていたとしたら、彼はずっと禁酒中だったわけですが

禁酒と言えば、僕も何度か禁酒したことがあります。一番長いので2ヵ月間。その後は、禁酒するぞ~と言いながらも、すぐに「撤回」し、一向に長続きしたことのない意志の弱い人間です。

思い起こせば
僕もこれまでお酒を飲んで酔っぱらい、いろんなことがありました。

田んぼに落ちて全身がずぶ濡れになったり、財布やスマホを無くしたり、人に家まで抱えて連れて帰ってもらったり、など、数えればキリがないほど恥ずかしいことをやってきました。

飲んだらね。理性を失い、ついアホなことをしてしまうんですわ。

そんな中でも一番気をつけなければならないのは「口」ですわ。酔った勢いでいらんことを言ったりしてしまうんですよね。それが大事な人間関係を崩してしまったりね~

でもまぁ、僕は酔っていなくてもよくしゃべるので、口が災いをしたというのは、飲まなくても、普通によくありました。だから飲んで失言した、というのは、それほどでもなかったかなぁ。飲んでも飲まなくても、失言はいっぱいありましたからねぇ(笑)。

で、今回の丸山穂高議員は、3年前の飲酒上のトラブルで禁酒を決意したのでしょう。それでもし禁酒を続けていたとして、今回北方領土へ行ってつい飲んでしまった、というのなら、それはもう酔いますよ。長いこと飲酒を我慢していて、久しぶりに一口飲んだらもう止まらない。メチャメチャ飲みます。そして、メチャメチャ酔います。それは僕もよ~くわかります。

「戦争をしないと、どうしようもなくないですか?」

と団長に言った時は、彼はもう、かなり酩酊していたと思います。酔っていなければ、たぶん言わなかったでしょうね。

ほんまに、アホやなぁ。

あんた、普通の人と違って、国会議員やで~

禁酒中に酒を飲んだら、想像以上に酔いが回って、ブレーキが効かなくなることがわからんの? と、まぁ、えらそうに言う僕ですが

ところで最近、車のブレーキとアクセルを踏み間違えて起きる交通事故が多発していますよね。

「ブレーキのペダルを踏んだが、車が急発進した」 と言う運転者がとても多く、それで凄惨な事故が最近は立て続けに起きているのはご承知のとおりです。

つまり、それを今回のように禁酒中の人間が飲酒した際の「失言」に当てはめてみると、急な酩酊状態になると、ブレーキを踏んでいるつもりでも間違ってアクセルを踏んでいるわけですよね。

酒を飲んだら、日ごろ言えないこともつい酔いに任せて言ってしまう。だから飲む時には言葉に気をつけよう、と思っていても、いざ飲んで、酔ってしまうと忘れるのだ。自分ではブレーキを踏んでいるつもりでも、実はアクセルを踏み続けているわけで、今回のようなバカな発言をしてしまう。

丸山穂高議員の場合が、モロにそうですよね。

だから飲んだ時は、なるべく言葉を慎む、というのが、国会議員のようなエライさんには絶対必要な心がけですね。

酔うと、自分ではブレーキを踏んでいるつもりでも、口というアクセルが勝手に急発進するんですわ。おしゃべりな僕ですから、それがよくわかるんです。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界遺産はむしろ反対…とモミィたち

2019年05月18日 | 日常のいろいろなこと

百舌鳥・古市古墳群の世界遺産の話の続きですが

約一ヵ月前に行われた藤井寺市の市議会議員選挙では22人が立候補しました。選挙ポスターには顔写真と共に、それぞれの主張や公約が書かれていたわけですが、その中で一人、驚くようなことを書いていた若い男性候補者がいました。

その主張というのが「百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録には反対!」というもの。反対の理由は「治安が悪くなるから」と書かれていました。

市全体が「地元の古墳群を世界遺産に!」という空気に満ちている中、こういう主張を掲げるのは不思議だったのですが、結果は(予想通りと言うか)話にならないほどの少ない得票数で、立候補者22人中、21位で落選しました(当選者は14人)。

やっぱりね~

しかし、これと似たような話をモミィがしていました。

学校で友だちと世界遺産の話題が出た時、「世界遺産になったら、城山古墳公園で、もう遊ばれへんようになるんとちゃう?」という話になったとのこと。

城山古墳公園というのは、わが家の近くにある古墳で、ほかの古墳群はほぼ全て立ち入り禁止なのに、ここだけは自由に入れて遊べるのが大きな特徴です。モミィも小さい頃からここでよく遊んでいました。

 

 

 
 これが近所にある城山古墳公園です。
 小さかったモミィを連れて、僕らもよく遊びに行きました。

 

しかし、世界遺産に登録されたら管理が厳重になって、遊べなくなるのではと、もっぱら心配する声が上がっているらしい。「世界遺産みたいなん、いらん。今のままでえぇ」という子もたくさんいる、ということでした。

ふむ。でもねぇ。そんなことはないと思うんだよね。

古市古墳群は藤井寺市と羽曳野市で、幅広く30か所以上に散らばっている。で、世界遺産に登録されたからと言って、観光客がこのあたりにど~っと押し寄せるなんてことはまずあり得ない。第一、古墳はただの小さな山か森にしか見えない。歴史的な意義は大きいが、「観光名所」というものにはなりにくい。まして、前述の市会議員候補のように「治安が悪くなる」ほど多くの人はやって来ないと思う。

日本の古代史に関心のない外国人が見に来たら「これはナンじゃ?」となるに違いない。あまり宣伝し過ぎると「世界がっかり観光地」の1位にランクされるかもしれませんぞ(笑)。

だから、モミィにそういうことを伝え、世界遺産に登録されても、近所にある城山古墳公園はこれまでどおりだろうから心配はいらないよ、と言っておいたけれど、それでも「いや、みんな心配してるねん」とモミィは半信半疑で、僕の言葉にも頷きませんでした。

世界遺産となって観光客が押し寄せるとしたら、たぶん堺市の仁徳天皇陵でしょうね。これは日本一の大きさだし、堺市役所の高層ビルから展望もできるので、そこには多くの人が押し寄せそうです。

さらに、この日本一の仁徳天皇陵と三番目に大きい履中天皇陵にも、今後それぞれ専用の展望デッキを建設する予定だそうです。

僕らのエリアである古市古墳群にも、日本第二の大きさの応神天皇陵をはじめ、仲姫命陵古墳や、藤井寺駅からすぐ近くにある仲哀天皇陵古墳などがあるんですが、堺市のように展望台の計画などは全然ありません。作ってもお客さんが来ないでしょうしね。

世界遺産登録の当初は、物珍しさで国の内外からリュクなどを背負った観光客の姿を見かけるかも知れませんが、それも一時的なものでしょうね。

外国からどんどん観光客が来るというのなら、僕も今イタリア語を勉強しているのでイタリア人相手のガイドだったら、してあげるんですけどね~(笑)。

はぁ? なんですって

イタリア人が藤井寺市まで古墳を見に来るか? それと、のんはイタリア語で古墳のことを説明できるんか? そんな達者な語学力があるんか?

へぇ。 そうですよね。

そう言われたら、返す言葉がありまへんな。ガックリ!

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが街 世界遺産へ!

2019年05月15日 | 日常のいろいろなこと

とうとう! と言うか。
ようやく! と言うか。

大阪府の百舌鳥・古市(もず・ふるいち)古墳群が、ユネスコの世界文化遺産に登録される見通しとなりました。昨日の新聞にも一面に大きく載り、今日の新聞にはさらに1面、2面、3面及び29面に関連記事が載っています。

正式には、6月末に行われる世界遺産委員会というところで決定されるそうですが、もう決まったも同然なんでしょうね。

 
 昨日の朝日新聞の朝刊1面。


 
そしてこれが今日の朝刊の28面です。


百舌鳥・古市古墳群とは、全国第一位の大きさを誇る仁徳天皇陵などがある堺市と、第二位の大きさの応神天皇陵など多くの古墳がある羽曳野市とわが街・藤井寺市の3市にまたがる古墳群のことを言います。

実はこの古墳群は、過去、2013年から3回、世界遺産の国内審査で落選しています。近畿地方で唯一世界遺産がないのが大阪府だったので、大阪府民の多くの人々はなんとか世界遺産の実現をと切望していたはずですが、なかなか厳しい状況が続いていました。

それが、2017年の夏に、やっと世界遺産の国内候補に決まったのです。

まだ決定ではなかったのですが、僕は大喜びして、そのことをブログにつづりました。そのブログに載せた新聞記事の写真を改めてここに掲載します。

 

   
記事には、「2019年の世界文化遺産の登録を目指す候補として、
国内から『百舌鳥・古市古墳群』(大阪府)を推薦することを
31日、文化審議会が決めた」とあります。
(2017年8月1日・朝日新聞)


 
喜ぶ人々。
この写真は、わが街・藤井寺市内で撮られたものです。
(同じ日の朝日新聞の社会面)


僕の住んでいるところは「古市古墳群」になりますが、市役所などでもらったマップを手に、古墳めぐりのウオーキングは、これまで数え切れないほどしてきました。

 

 
こんなふうなマップを持って、歩きに行きます。 

 
これは古市古墳群のウオーキング・マップの中身です。
そう広くもない地域にこれだけの古墳が集まっています。
今ではもう、地図がなくても十分歩けますよ~
 

そうですね。
ここにクドクドと書くよりも、
当時のブログも見ていただいたほうがわかりやすいですね。 

今日の記事とちょっと重複していますけど、
お読みいただけたら嬉しいです。

       

 

わが街の古墳群が世界遺産候補に(2017年8月2日)

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僕の日曜クッキング

2019年05月12日 | 日常のいろいろなこと

今日は年に一度の町内会の「掃除の日」でした。これには毎年、妻が出てくれています。下水道管の中を開けて溝を掃除したりするのが主な作業ですが、いつも5月の第2日曜日に行われ、あぁ、また今年もその時期かと、1年の経つのが早いことを身に染みるのです。

妻は午前7時半ごろから外に出て、まずわが家の周囲の掃除をしたあと、8時前ぐらいから町会の皆さんと一緒に作業を始めました。

その間、家にいた僕も、今日の午前中はかなり働きました。

モミィを起こして朝ご飯を食べさせ、そのあと、まとめて料理をすることにしました。買い置きの野菜がジャガイモ4個、玉ねぎ3個、人参3個、キャベツ半分と、かなり残っていたものだから、いつまでも置いておくわけにもいかないので、これを使って何かを作らなければ。

そこで、まずキャベツでコールスローを作りました。キャベツを刻んでボウルに入れ、全体に塩を降って混ぜる。20分程度そのまま置くとしんなりしてくるので、ギュッと絞って水気を切る。一方で大さじ3杯のマヨネーズと小さじ2杯の酢と小さじ半分の砂糖を混ぜたドレッシングを作っておく。そしてそこへキャベツを入れて、それを混ぜたら出来上がり。今は春キャベツなので、柔らかく、とてもいい味わいですよ。

 
 コールスロー。今回は人参も細切りにして入れてみました。

次にジャガイモが4個。とても大きいジャガイモです。それと同じく大きな玉ねぎが3個。そして人参が3個があります。買ってから数日経つのでなるべく早く調理しなければ、と考えた末、家にハウスシチューのルウがあり、ちょうど冷蔵庫に鶏ムネ肉もあったので、シチューを作ることにしました。そして、同じジャガイモと人参を入れたポテトサラダも同時進行で作ろうと思った次第です。

まずシチュー。鍋に水を入れて人参、玉ねぎ、ジャガイモ、鶏肉を入れて煮る一方で、別の鍋に、ポテトサラダ用に残りのジャガイモとゆで卵にする卵を3個入れてゆがく。

そうして数十分。グツグツ煮込み、シチューのほうは、後からルウと牛乳を入れてまた煮込んで出来上がり。自分で言うのも何ですが、ちょっと口に含んでみたら、なかなか美味しかったですよ。

 
 シチューです。なかなかの出来でした(自画自賛)。 

そして、別の鍋でゆで卵と柔らかくなったジャガイモも出来上がり、またさらに別の鍋でゆがいていたコマ切れの人参も柔らかくなった。ジャガイモとゆで卵をつぶして、そのあとその人参を入れ、冷めた頃に小さく切ったハムを入れる。あとはマヨネーズであえてポテトサラダの出来上がりです。これは実は僕の得意料理で、妻もモミィも大好きなのです。

 
ポテトサラダは週に2回は作ります。

あと、見ると玉ねぎがもう1個残っていた。で、これはスライスして数分間水にさらし、そのあと水気を切ってポン酢につけました。生の玉ねぎを酢で漬けて食べると体に(特に血圧に)いいらしいですが、酢だけでは食べづらいので、わが家ではポン酢にしています。これも今は新玉ねぎなので、とても口当たりがよく、おいしいですよね~

 
とにかく体によさそうなので、なるべく作るように

こうしていろいろ作ったのですが、何となく高野豆腐も食べたくなり、最後にそれを出してきて、水でもどして弱火で煮込みました。高野豆腐だけで、ほかには何も入れていませんが、僕はこれが大好きなのです。

 
高野豆腐は僕の好物のひとつ。ビールのアテにもいけます。

ということで、午前10時半ごろに料理は全部完了しました。残っていた野菜を全部使い果たせたので満足でした。

その時、「あ、しまった。忘れてた!」と、8時前に洗濯していたことを思い出し、あわてて洗濯機の中から洗濯物を取り出し、3階のベランダに干したのですが、まぁ、そのことは触れないでおきます(言うてるがな!)。

かなり疲れたので、やれやれという感じで、昼は缶ビール(ロング缶)を2本飲みました。せっかく朝からよく働いて、自分をほめてやりたいと思っていたのですが、実は明日は2ヵ月に一度の病院での検査と診察があります。肝臓の数値もいつも高いというのに、検査の前日に昼からビールを飲んでいるようではねぇ

とても自分をほめてやる、なんてこと、できませんわ。

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パソコンをお譲りします とのチラシに誘われて

2019年05月10日 | 日常のいろいろなこと

数日前に「ノートパソコンをお譲りします」というチラシが入っていた。これまでもごくたまに同じようなチラシを見たことがあるが、中を詳しく読んだりはしなかった。

  

で、今回は妻が「一度見に行ってみたら?」と言ったので、中身を読んでみると

大企業や官公庁では、情報セキュリティを強化するためにパソコン機器を定期的に入れ替えます。これらは3~6年のリース契約で運用され、使用頻度が少なくこの先も十分使用できる美品状態の機器が多いことが特徴です。この有償譲渡会は(中略)大阪府内においても11,000台以上の機器を一般のご家庭や事業所に有効活用いただいております」

ということだった。つまり中古だけど品物としては間違いない、という説明文である。

値段を見ると、「初心者の方やシニアの方に適した機種」が税別で26,000円というのが一番目立つところにあり、その下に「パソコン慣れした方などに適した機種」が38,000円とあった。

そしてその横に小さく「他の機種で容量の大きな機種などは4~5万円台であり」とも付け加えられていた。

場所は羽曳野市と柏原市と富田林市のそれぞれ市民ホールで、5月9日が最初の日で、それが羽曳野市での開催だった。つまり、昨日のことです。

午前11時からだというので、行ってみることにした。ホールに着いたのは11時を少し過ぎていたが、狭い1室に大勢の人が詰めかけていた。その大半、というより、たぶん全員が(僕がこういうのもナンだけど)お年寄りだった。8割くらいが男性で2割ぐらいが女性。部屋の隅に置かれた長い机の上に4、5台のパソコンが置かれており、それぞれの横に、箱にも入っておらず、少し厚めのビニール製の袋に包まれたパソコンが積み上げられ、そのままそれを会計に持って行って買えるようになっていた。

人であふれているので、それをかき分けるように後ろから覗き込むと、見本のパソコンには48,000円の値札がついていた。その隣も、またその隣も、いずれも48,000円で、チラシにあった26,000円のパソコンは見当たらない。

ただ、一番端には、さらに多くの人だかりで全然モノが見えない。そこに置かれていたのだろうと思われる。

来ている人たちも「えらい人やなぁ」とか「こんなん、ホンマにちゃんと使えるんか?」とか「日本橋やったらもっと安くで売ってるわ」とか、どちらかと言えば文句を言っている人が多かった。

そのうち、ある女性が僕に声をかけてきた。それも、パソコンに関する質問である。「これは〇〇を使っても大丈夫なのでしょうか?」とか、「それと私のパソコンはウィンドウズ7なんですが、間もなくサポートが終わるそうで、終わったらウィルスとか入って来るのですか?」とか。

あのなぁ、おばちゃん。僕は係員でもなんでもないんやで。ややこしいこと聞かれてもわからんがな。

と言いたかったけれど、僕は人から物を聞かれると断れない気の弱い人間だから(??)

「そうですね~。〇〇を使っても大丈夫だと思いますけどぉ(その〇〇が何だったか、もう忘れちゃった)」 とか、「ウィンドウズ7ねぇ。サポートが終了したらウィルスの心配もあるかもですねぇ。ないかも知れないけど」 と、まるで意味のないことを口走って、なんとかその場を逃れようとしていた時、今度はそばにいたおじさんが僕に、 「ワシはXPでこれを使ってたんやけど」 と、外付けのDVDドライブか何だか知らないが、バッグに入れたそれをチラッと見せたあと 「これが、このパソコンで使えるんですかね?」と聞くのだ。

あぁ、そんなこと、知らんがな~

その部屋には、会計を担当する男性が1人いるだけで、あとはみんな客である。僕もリュックを背負っていたし、どうみても係員には見えないはずなのに、客たちは「誰かおらんのか?」という顔をして周りを見渡すと、僕と目が合って、何か話しかけられそうな雰囲気になる。

すると最後にまた一人、別のおばさんから声を掛けられ、「お仕事で使われるんですか?」と言ってさらに何か話しをされそうだったので「いや、まぁ家で使うんですけど」と言葉を濁し、人混みの中に入った。(もう仕事なんか10年前にやめたがな)。

展示されていたパソコンの値段は、みんなチラシの値段より高かったし、26,000円のパソコンが置かれてあったと思われる場所は、何台あったのか知らないが、すでに1台もなかった。

今、わが家には去年に買ったばかりのパソコンがあるが、それは妻とモミィが使っている。僕はもう少し古いパソコンを使っているが、ウィンドウズ8だったのを、自分でウィンドウズ10にバージョンアップしたところ、何かのはずみで、あとから入れたマイクロソフト社のワードとエクセルが消えてしまった。会社に電話しても、ナントカを証明するナントカ(なんのこっちゃ?)がなければ復元できません、と言われて諦め、今はワードもエクセルもない状態である。

でも僕はブログの下書きなどはぜんぶ「メモ帳」でやっているので、今さらワードやエクセルがなくても、さほど不便ではない。あとはインターネットができたらそれでいいんだものね。

いちおう妻が勧めてくれたので、羽曳野市まで出かけてみたけれど、まぁそんなことで、買わずにそのまま帰ってきました。もうこの手の「お譲りします会」には行きません。

 

 

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10連休明けのいきなりの珍事

2019年05月08日 | 日常のいろいろなこと

10連休という長い長い期間を、世間の人たちはどのように過ごしていたんでしょうね?

テレビでインタビューを受けていた人たちは、たいてい新幹線の駅とか空港の待合で、これからどこへ行くとか、どこから帰って来たとかいう話ばかりで、旅行以外で何かに打ち込んでいたというような話はめったに聞かなかったです。

僕らは永遠の連休なので(笑)、ふつうに過ごしていましたけど、10日も休んで、さぁ仕事だ、という人は気分の切り替えが難しいでしょうね。

「5月病」というのは以前からありましたけど、今回は異例の10連休だったので5月病の症状もかなり大きかったようです。テレビで見たのですが、ある女性が連休前に上司にさんざん嫌味を言われ、そのまま10連休に入ったので、その間に嫌悪感がどんどん募り、もう二度と上司の顔を見たくない、とまでなり、退職することに決めたという。しかし退職届を出しに会社に行くのも絶対に嫌なので退職代行の業者に頼んだということでした。

「退職代行業」というのがあるのをご存知でしたか?

退職したい人に代わって会社に退職の意思を伝えるサービスなのですが、ある退職代行業者はこの10連休の間に、普段の6倍の依頼があったと言っていました。

そんなことで、10連休と言っても、いいことばかりじゃないですよね。

僕はその間どこへ行っても人があふれかえっているだろうから、電車に乗って遠出をすることはせず、ウオーキングとイタリア語の勉強が中心の日々でした(むろん買い物・料理・洗濯の家事はしていますよ~ん)。遠くへは普通の日に行けばいいんだしね~。

モミィは地元の中学校に戻ったので、連日、学校の昔馴染みの友だちとカラオケに行ったり、また家に連れてきて一緒にケーキを焼いたり宿題をしたりと、毎日楽しそうに過ごし、2回ほどは妻と阿倍野へ買い物出たりしていました。明日から学校という日は「あぁ、いややなぁ」と言っていました(ふだんは学校が好きなのに)。それほど楽しかったみたいです。

 ………………………………………………………………

そして、連休明けの昨日、モミィも学校が始まり夕方まで帰ってこないので、僕達夫婦と妻の姉の3人で、毎月の恒例である大阪・梅田のランチ・バイキングへ行ってきました。

行った場所は、これまではいろんなところでしたが、梅田大丸百貨店の14階にある「馳走三昧」というところが気に入ったので、ここ数回はそこばかり行っています。

しかしまぁ、連休明けということなのか、いつもは11時開店の前に、店の前の椅子にはずら~っとお客さんが並んで座っているのに、昨日は11時前に着いても、1組だけでした。僕らは予約組でしたが、それでもいつもは後の方で呼ばれるのに、予約組も僕たちだけで、一番に名前を呼ばれました。この店がこんなに空いているのを見たのは、初めてです。

例によって僕は生ビールの飲み放題を頼み、ビールを飲みながらいろんなものを食べました。これだけ飲んで食べられるんだから、自分もまだまだ元気なんだなぁ、と思いますわ。

しかしそのあと、妻と姉が寄りたい店があるというので、僕はそこで分かれて一人で帰途につくため環状線に乗りました。その電車は、たまたま大和路快速という列車で、環状線をグルグル回るのではなく、環状線の東半分を通って天王寺へ行き、そのまま奈良へ向かう快速電車でした。それに乗った僕は、飲み放題のビールのせいか、眠ってしまいました。天王寺で降りなければならないのに。

かなり熟睡したようで、ふと気がついて窓の外の景色を見ると、大阪の街の風景ではなく、田んぼが広がっていました。げぇっ、と我に返ると、列車は法隆寺を過ぎ「次は、大和小泉です」という車内放送が聞えました。すでに奈良県に入り、奈良駅のすぐ近くまで来てしまったわけです。


 

寝ているうちに大阪から天王寺を過ぎ、大和小泉まで来てしまった。

いくらこの10連休にどこへも行かなかったと言っても、連休明けにいきなり大阪を出て奈良県へ行くとはね~。それも酔って寝たままで。

シャレにもならんわ。

あわてて大和小泉駅で降り、反対方向の快速に乗って天王寺に戻り、そこから通常通り近鉄電車で藤井寺に向かいました。

さすがに眠気はすっかり覚めていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリア語に再挑戦

2019年05月05日 | 旅行

最近読んだ本の中の一節に「70歳は再学問の適齢期である」という文があった。それに触発されたわけではないけれど、先月からイタリア語を勉強している。

なんで今さらそんなことを? と思われるだろうけど、この夏にパリとローマへ家族旅行することにした。それもツアーではなく個人旅行なので、カタコトくらいは話せた方がいいと思ったからだ。モミィの手前、恰好もつけなくてはいけないしね~(笑)。

実は2005年に妻とフィレンツェ旅行をした時に、これも個人旅行だったので、それに向けてイタリア語を勉強したことがある。

あの時は、このブログにも何度か書いたけれど、チョー驚きのハプニングに見舞われた。関西空港からフランクフルト空港へ行き、そこでフィレンツェ行きの飛行機に乗り換えた。そして、空港へ着いたら、なんだか他の客がみんな携帯電話をしていて、その様子が変だった。預けた荷物もなかなか出てこない(僕ら以外に日本人は一人もいなかった)。

やっと荷物を受取って空港を出たら、迎えに来ているはずの運転手も見当たらず、しかたなくタクシーで「フィレンツェ駅前の〇〇ホテルまで行ってほしい」と言うと、運転手が目を丸くして「はぁ?ここはフィレンツェ空港じゃないよ」と言った。今度は僕たちが目を丸くする番だった。「では、ここはどこ?」と聞くと運転手は「ボローニャだ!」と答えた。

後から分かったことだが、フィレンツェ空港が濃霧のため着陸できず、100キロ離れたボローニャ空港に緊急着陸したそうだ。

あちゃぁ~。そんなこと、ゼンゼン知らんかったわ。

すでに日が暮れていたので、不安は限りなく膨れ上がった。

そのあと国鉄のボローニャ駅からフィレンツェまで列車に乗って、やっと目的のホテルに着いたけれど、その時もとても苦労した。英語も通じず、このボローニャという都市がどこにあるかもわからない。カタコトのイタリア語を使って、そのへんの人たちに手あたり次第に救いを求め、空港からボローニャ駅までタクシーで行き、フィレンツェまでの乗車券と特急の指定券を買った。しかしさらに運悪く、駅の近くで事故が起きていて、そのため列車の時刻やホームの場所もコロコロと変わり、何度か違う列車に乗りかけた。その都度、現地の人に教えてもらい、なんとか間違わずに、やっとフィレンツェ行きの列車に乗り、駅にたどり着くことができたのである。

これに限らず、これまでの海外旅行で大なり小なりのハプニングは何度もあったので、やはり現地の言葉を少しでも話せると便利だし、ピンチに遭ってもなんとかなる場合が多いことを痛感した。

空港やホテルでは、大体どこの国でも英語が通じるが、一歩街に出るとそうもいかないんですよね~

そんなことで、僕はこれまで、韓国語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語などを、旅行前に勉強してきて、それなりに役に立ちました。

しかし旅行が終わってしばらく経つと、もう忘れてしまうんですね。

そこで、今度の夏の旅行に向けて、すっかり忘れてしまったイタリア語をまた勉強することにしたのです。

ところが、一度スペイン語も勉強したので、このイタリア語とスペイン語はよ~く似ているんですよね~

会話では必ず使う英語の「プリーズ」つまり「お願いします」は、イタリア語では「ペルファボーレ」ですが、スペイン語では「ポルファボール」。 「ありがとう」はイタリア語は「グラッツェ」でスペイン語は「グラーシアス」。数字もイタリア語は1、2、3が「ウノ、ドゥエ、トレ」で、スペイン語では「ウノ、ドス、トレス」で、ホント、よく似てるでしょ。

遠いむかし、イタリア語の次にスペイン語を勉強したこともあり、さらに今では年に一度、アルゼンチンから甥のヒロユキと妻のソルちゃんが来るので、スペイン語しか話せないソルちゃんにサービスするため、少しだけスペイン語の知識を頭に入れたりしています。なので今、イタリア語を勉強していると、頭の中でゴッチャになって困っているところです(笑)。

僕はフランス語と中国語の発音がメチャ苦手なので、この2つは勉強しかけても、すぐにやめました。しかしイタリア語はローマ字読みが多くて発音も日本語と似ているところが気に入っているので、勉強していても楽しいです。

この夏はローマとパリへの旅行ですが、パリは今度で5回目だし、なんとか英語で通せるし、フランス語は、まぁ「ボンジュール」と「メルシー」と「シルブプレ(お願いします)」さえ知っていたらいいかなと思っています。

あ、もう一つ大事な言葉がありました。

外国は日本のようにトイレが充実していません。パリでもトイレ探しに困ります。地下鉄の駅なんかにもトイレはありませんしね。だからカフェや百貨店・スーパーや美術館などへ行ったら必ずトイレを済ませておくことが大事なんです。ローマでも同じだと思います。

だから「トイレはどこですか?」
という言葉を覚えておくことが必須です。

ちなみにイタリア語では「ドベ・イル・バーニョ?」。
フランス語では「ウ・ソン・レ・トワレットゥ?」と言います。

ま、ややこしければ「イル・バーニョ?」と「トワレットゥ?」だけ言っても通じますよね~

もっとも相手に「〇〇です」と教えてもらっても、言葉がわからないので、その人の指さす方向をじっと見るのが大事です(笑)。

ま、そんなことで、今は結構身を入れてイタリア語を勉強しています。


こんな本を買って、毎日やってます。

   

 

 

 

来月あたりはイタリア語でブログを書いているかも知れません。

(あはは。そんなアホな)

ではでは、10連休も明日で終わりですね。暑くなりましたが体調にはくれぐれもお気を付けください。

チャオ~

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母の命日

2019年05月03日 | 日常のいろいろなこと

5月4日は母の命日です。

4年前、2015年(平成27年)の5月4日に、母はこの世を去りました。名前は八重子。昭和3年8月8日生まれで、「八が重なる子」で八重子と名付けられたそうです。

そして亡くなったのが数え年で88歳の時。やはりそこでも8が重なっている

母は僕が幼い頃に離婚し、僕が物心ついたころには母の実家である京都市上京区の西陣で暮らしていました。が、それも幼稚園くらいの時までで、その後、母に連れられて大阪に出て、母は再婚し、僕はその新しい父親と一緒に、3人で暮らすことになったのです。

 …………………………………………………………………

義父が亡くなった12年後に母が亡くなった時、天王寺の一心寺さんに納骨して、永代供養をしてもらうことにしました。

 (母の納骨と永代供養)

そして、毎年、命日が近づくと一心寺から、回向をしますので命日までにお越しください、という案内のハガキが届く。そして今年も、先月にそのハガキが来たので、この間、妻と2人で一心寺へ行きました。

今、一心寺の本堂は1年半をかけた大規模改修をしている最中で、通常のおせがきは休止中だけど、命日の回向のハガキをもらった人だけは受けつけてくれ、本堂ではなく、隣の小さなお堂で回向をしてもらうのである。

そんなことなので、いつものように受付で長い列に並び、本堂でも大勢の人たちの中に交じって順番を待つということはなく、今回だけは、並んでいる人もほとんどなく、驚くような早さで順番が来て、回向をしてもらった次第です。

普段はあまり母のことは思い出さない親不孝者の僕ですが、やはり命日となると、懐かしく思い出します。そして、大昔の写真を引っ張り出して、母を偲んだりしています。

 

  
母は20歳の時に僕を産みました。
そして最後まで、子どもは僕一人でした。
 


  
これは動物園での写真のようですが、
大阪の天王寺動物園なのか?
京都岡崎の動物園なのか?
どちらなのかわかりませ~ん。
母に聞いておけばよかった~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする