僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

モミィの運動能力は…?

2013年11月29日 | モミィの成長日記


小学2年生のモミィは、いま、4つの習い事をしている。月曜日にECCの英語レッスン、水曜日にヤマハのエレクトーンレッスン、金曜日と土曜日の午後にダンス教室、そして土曜日の午前にコスパのスイミング・スクール、という具合だ。それぞれを楽しみながら行っているモミィだが、夏休みに妻が短期美術教室に申し込んで連れて行くと、その影響か、最近は僕に「ねぇ、びじゅつ、ならいたい~」などと言ってくる。だいたい、習い事が好きなのである。


でも、学校の宿題も多い。「本業」の勉強のほうをしっかりやってもらわなければ困る。「ダメ。今やっていることに全力をあげることが大事だから」…と、モミィの要請を却下した僕である。


4つのうち、英語やエレクトーンは、週に一度行って済むというモノではない。家でほぼ毎日予習・復習をしなければ上達は望めないし、クラスのみんなについていけない。だから週1回といっても、家でのレッスンを含むと、相当な時間を費やさなければならない。学校の勉強に関してはすべて妻が見ているが、習い事は僕の担当なので、夕食後、「たまごっちのビデオ見た~い」というモミィの尻を叩いて勉強部屋に連れて行き、エレクトーンを弾かせたり、英会話の練習をさせたりしている。習っている本人は楽しんでいるけれど、付き添っているこちらはかなりのエネルギーを消耗する。妻のほうも同様である。


まあ、モミィの習い事に関してはそんなことなんですが…


先週、妻が「こういうの、どうかな?」と新聞に挟まれていた1枚のチラシを僕に見せた。「体操クラブ体験コースのご案内」というものだった。お隣の市に、オリンピック選手も輩出させている評判の高い体操クラブがあることは知っていた。妻が見せてくれたチラシには、11月末から12月にかけて、週1回、全3回の体験コースがあるので、一度試してみませんか…という宣伝文句であった。


モミィは小さいときから怖がりで、運動がまるでダメな子だった。3歳ぐらいのとき、妻が、当時近所に暮らしていたモミィのママに、この体操教室に通わせたらどう?と言ったことがあったそうだ。でもママは「怪我でもしたら大変だし、女の子だから別に運動ができなくても…」と答えたという。


モミィは今でも体育の授業で飛箱や鉄棒が全然できない。お友達は、飛箱を何段飛んだとか、鉄棒で逆上がりを何回連続したとか、雲梯(うんてい→長いはしごに両手で懸垂して渡る遊具)を何度も渡れるとか、女の子でも運動能力に優れている子が沢山いる。しかしモミィは…本を読むのが大好きで、運動も、習っているダンスならそれなりに踊れるのだが、学校の体育の授業で行う鉄棒や飛び箱などは全くダメなのだ。自分でも「わたし、飛箱とか鉄棒がぜんぜんあかんねんで」と他人事のように話すモミィなのである(自慢するなよ)。とにかく運動能力が他の子より劣っていることは、以前から気になっていたところである。


その体操クラブにはいろんなコースがあって、妻が体験コースとして選んだのは「器械体操初級コース(小学生以上の児童)」というものだった。「これ、モミィにどうかしら?」と妻が言うので、僕はそのクラブに電話をした。そのコースは毎週木曜日の午後5時から6時までということだったので、これは好都合だと思った。他の習い事の関係上、空いているのは火曜日と木曜日だけだったから。「では、その木曜日の分、お願いします」と申し込んだ。


そういう経過で、全3回の体験コースの第1回目が、昨日の木曜日の5時からあった。古い体育館のような建物に、若い男女7、8人のスタッフがいて、子どもたちの数も圧倒的に多い。ちょうど4時から5時の部の子どもたちが練習していた時で、館内は活気に満ちていた。


そして5時からの部がはじまった。みんなお揃いのユニフォームを着ている中で、「体験」として参加しているモミィだけ別の服装をしているので、見ていてもよくわかった。準備体操をし、柔軟体操をし、柔らかくて大きなボールを使ってドッジボールによく似たゲームでキャアキャア言いながら楽しんだ後、子供たちはレベル別の3つのグループに分れて、器械体操が始まった。初級のモミィは鉄棒コースだった。他の小さい子供たちが楽々と逆上がりをする中、モミィはスタッフのお兄さんやお姉さんから身体を抱えてもらって「よいしょっ」と回っていた。それを見て、これはやはり3回の体験だけで済ますわけにはいかないな~…と、思った次第である。


帰宅すると、モミィは今日の体験がすっかり気に入ったようで、「体操、ならいた~い。ならいた~い」と僕にすり寄ってくるのである。「まぁまだ2回あるし考えとくわ」と僕。「あしたから学校の鉄棒で猛練習するわ。だから次のとき、ちょっとでも上手にできたら、ならってもいい?」などと言う。「考えとくから」と僕は同じ答えを繰り返すだけだったが、モミィのいない時、妻に「あれだったら、習わせる値打ちはあるだろね」と伝えた。妻も笑顔で頷いていた。


でも、それはまだモミィには内緒である。学校で積極的に鉄棒の練習をすると言ったのだから「来週の木曜日、少しだけでも進歩していたら考えてもいいよ」とだけ伝えている。「よっしゃ、がんばるわ~」と張り切るモミィであった。


またモミィに付き添う習い事が、ひとつ増えそうである。

 

 

  
    
   みんなで準備体操。
 最前列で一人服装が違うのがモミィです。
  なんだかモミィだけが、へっぴり腰ですけど…(笑)。
 

 


 

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徳洲会病院のこと

2013年11月27日 | 心と体と健康と

今日もまた病院の話です。あしからず~

今週の月曜日、2ヶ月に一度通っている松原市の徳洲会病院へ行き、いつものように心房細動(不整脈)の状態や脳梗塞予防薬ワーファリンの効き具合、血糖値や尿酸値、肝臓の数値などに関する検査・診察を受けてきた。2か月分の薬も、沢山もらって帰ってきた。この病院通いは、まぁ僕の健康を支える軸になっていると言っていいですね。


その徳洲会が、いま大揺れに揺れていますよね。


創始者であり前理事長である徳田虎雄氏の次男・徳田毅衆院議員の公職選挙法違反で、親族らが逮捕された事件に続き、今度は東京の猪瀬知事が、徳洲会から都知事選前に現金5千万円を受け取ったというニュースが大きく報じられているのはご存知のとおりです。猪瀬さんも、会見のたびに言うことが違って、チグハグで、どうも怪しいな~という印象を大半の人々が持っているでしょう。せっかく東京五輪招致に成功したというのにね~。


で、テレビでニュースをつけると、その都度「徳洲会、徳洲会」という言葉が連呼されているので、ついそちらに気が行ってしまう。たぶん、このニュースを見ている多くの人たちは、「猪瀬はけしからん、徳洲会もけしからん!」と思われていることでしょうね。ま、当然ですけど。


そこで自分の話になるのですが…
僕が徳洲会病院に通い始めたのは、今から5年少し前のことである。

なんで通うようになったのか、といえば…


6年前の6月のある夜、それまで時々発症していた心房細動が激しくなったうえ、止まらなくなり、かかりつけの医院に飛び込んで点滴などを受けてみたが、収まらない。医師が「入院ということになってもいいですか?」と聞いたので、僕も仕事を持つ身だったけれど、覚悟を決めて頷いた。で、医師がいくつかの大きな病院に電話をしてくれたが、夜なのであちらでもこちらでも、担当医がいないとか何やらとかで断られた。どうなることか…と思っていたら、ようやく医師から「診てくれる病院がありました。今からすぐ行ってください」と言われた。その病院というのが、隣接の松原市にある徳洲会病院だった。


長男の車でそこへ運んでもらい、当直の夜勤の医師の点滴治療を受けたら、しばらくして収まった。「入院の必要もありませんので」とそのまま帰宅することができた。やれやれ…と、この時は本当にうれしかった。


その後、かかりつけ医の勧めで近大病院で心臓のカテーテル手術を受けたけれど、なんとまぁ、手術は失敗に終わった。1週間の入院も無駄となり、もうその病院には二度と行かず、おまけにその1ヵ月後にストレスからか、耳鳴りまで発症した。つくづくカテーテル手術の失敗を恨んだものだった。


その病院を紹介したかかりつけ医のところへも、やがて通うことをやめ、思い悩んだ末、いつぞやの夜にお世話になった徳洲会病院に電話した。あのときの日付も記していたので、その時診てもらった当直の医師の名前を教えてもらった。K先生ということだった。で、僕はK先生の診察日に予約を申し込んだ。


…それから今も2ヶ月に一度の定期検査・診察が徳洲会病院で続いているというわけである。K先生も僕のことを親身になってよく診てくれたし、特にこの病院は心臓などの循環器分野で実績が高いと言われているのでこれも好都合だった。


また、いつ何どき、自分の体に異変が起こるかわからないけれど、その時は「24時間いつでも来てください」と言われているので、心強い限りである。


その徳洲会が…
連日、猪瀬知事とペアで大きく報道されているわけだ。徳洲会のイメージはどんどん悪くなっている。かといって、僕が通う病院そのもの、医師そのものとは関係のない話なので、まあ、当然、そこは別ものとして考えてはいるけれど…


でもね…
徳洲会は、今でこそ日本最大の病院グループ…などと言われているけれど、元はといえば、1973年(昭和48年)、大阪府松原市で「徳田病院」というごく普通の小さな一病院としてスタートしたのである。僕はその松原市役所に、38年間勤めてきた。


就職したのが1971年(昭和46年)なので、その2年後に徳田病院ができたことになる。だから僕は、徳田病院を創設時から知っている。おまけに、昭和50年に、僕の父方の祖父が徳田病院に入院し、その病床で息を引き取った。そんなこともあって、徳田病院は、僕にとって、忘れられない病院なのである。


連日の猪瀬知事と徳洲会に関する報道を見聞きしながら、とても複雑かつへんてこりんな気分がしているこのごろである。

 

 

 

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耳鳴りで数年ぶりに病院へ

2013年11月24日 | 心と体と健康と


最近耳鳴りが大きくなって苦痛が増してきたことは、このブログにも書いてきた。2008年1月から大〇前病院で始めていたTRT療法には、もう長い間行っていない。発症してから相当の年月が経つので、それなりに耳鳴りに順応してきたので、大丈夫だろうと思っていた。耳鳴りを制御する機器(TCI)も故障したままだったが、それほど気にはならなかった。


でも、1年ほど前から少し大きくなったかなぁ~と思っていたのが、最近は特にひどくなり、我慢が限界に達しかけていた。そこで今月7日(ブログ「ため息が青息吐息に変わり…」を書いた日ですが)に大〇前病院の耳鼻科へ電話をし、TRT療法の予約をした。そして20日、久しぶりに同病院に出向き、視聴覚室の〇〇先生とお会いしたのだった。


「お久しぶりです」と挨拶を交し合ったあと、「どれくらい来ていないんでしょうね?」と聞いたのは僕のほうだ。「そうですね、2年は経っていますよね」と〇〇先生。う~ん。1年以上来ていないとは思っていたけれど、2年以上とはねぇ。そんなに長い間ご無沙汰していた?


帰ってからこのブログで調べてみたら、2011年の1月に大〇前へ行ったことを書いていた。終りに「次の予約は3月17日だ」と記しているので、その日の前後のブログを見たのだけれど、3月11日に東日本大震災が起きたので、ブログにはそのことしか書いておらず、大〇前に行ったかどうかは、まったく触れていなかった。そのあと、また予約をして行ったのかどうかは不明だが、たぶんこの3月17日が最後だったのではないかと思う。「耳鳴りにも慣れてきたようだ」と当時に書いているので、きっとそうだろうな、と思うのである。


そうすると、2011年3月を最後に大〇前病院へ来ていないわけで、2年半もブランクがあったことになる。TCIも故障して2年くらいになるのかな? いつも吐くセリフだけど、歳月というのはなんでこんなに早く過ぎて行くのだろう…


さて、〇〇先生にまず、1年ぐらい前から耳鳴りが大きくなり、最近それがさらにエスカレートして、周波数も高くなって、キーンと頭に響きまくるのでとても辛い、ということをお伝えした。そして、頼みの綱となるはずのTCIが故障したので、それを出して「新品の電池を入れても音は鳴らないのです」と、先生の後ろに控えていた器具を販売する会社の人に調べてもらうことにした。


するとその人が僕のTCIをちょこちょこと触って耳につけたら「あれ? 聴こえますよ」と言ったので驚いた。「えっ、新しい電池を入れても全然聴こえなかったのに。故障じゃなかったんですか?」わけがわからなかった。受け取って耳につけてみたら、ザーっという懐かしい音が聴こえてきた。やった~。


このTCIは2年以上使っていなかったのだが、その頃には新品だった電池も、その人の言うには、月日の経過とともに使用期限が過ぎていたのでしょう、ということだった。で、今「本当の新品」の電池を入れたらちゃんと音が鳴ったということだ。僕もまぁ頼りないことである。電池が「新品」のまま消耗していたのに気づかず、最近それを入れて「あ、聴こえない!」と、TCIそのものが故障したと決めつけてしまったのだもんね。


いや~、それにしても、なにせ購入価格6万円もする器具である。故障でなかったことがわかったのは有難いことだった(ただ、古くなってきたので、故障する可能性は結構ありますよ、とのこと)。


〇〇先生から改めて聴力検査をしましょう、ということで、視聴覚室を出て、耳鼻科の外来へ行った。しばらく待った後、名前を呼ばれ、聴力検査室に入った。そして右耳と、耳鳴りのある左耳の両方の検査が、いくつかの方法で行われた。この部屋へ入るのも久しぶりである。


検査結果の書類を持って、また視聴覚室へ戻り、〇〇先生に結果を分析してもらった。先生は何年か前にした僕の検査結果と、今日の結果を比較し、聴力自体は以前よりやや落ちているけれど、それほど大きな落ち方ではない、ということだった。これを見る限り、耳鳴りが増幅して聴力に影響を与えているところまではいかない…というやや安心する結果だった。耳鳴りのほうも、消えてくれ…とまでは言わないが、せめて気にならない程度におさまってほしいというのが切実な願いである。〇〇先生は最後に、「じゃぁ、これから耳鼻科での診察を受けていただいて、それで今日は終りです」と言われ、次回は12月下旬の日に予約をして、視聴覚室を出たのである。


そしてそこで、思いがけないことが…


…時間はさかのぼるが、この日の朝、大〇前病院に来て視聴覚室の前のソファで名前を呼ばれるのを待っていた時、yukariさんからメールが届いた。数日前に、僕が20日の9時から大〇前を予約したことをお知らせしていたのだが、yukariさんも僕以上に長い間病院とはご無沙汰しているので、一度聴力検査に行こうと思っています…ということだった。そのメールにはこれから大〇前へ行きますという意味のことが書かれていた。そして、そのあとも「今病院駐車場の前ですが満車なので順番待ちです」「あと1台です」というメールが届いていたのだった。


そして〇〇先生と1ヵ月後の予約をして別れ際、ドアに手を当てながら振り向き、「あ、そうそう。yukariさんも今日、聴力検査に来られるようですよ」と言うと、以前yukariさんのことを診ておられてよくご存知の〇〇先生が、「えぇっ、そうなんですか」と驚かれた。そして僕は一礼をして視聴覚室のドアを開けた。開けたら…廊下に2人の女性が立っておられた。「あれぇえ…?」と思ったら、「こんにちは~」と、yukariさんとお母さんだった。僕はドアを全開して、〇〇先生に、「あ、もう来られてました」と言うと、yukariさんが入り口から〇〇先生に「先生、お久しぶりでございます」と挨拶を交わされた。


…ということで、yukariさんとも、もう3年以上お会いしていなかった。「のんさん、視聴覚室にいてはるかな~、と思って母と廊下で待っていたんです」とのことであった。わざわざ…嬉しいことですね。yukariさんは「私はここへは4年以上来ていません」とのことだった。へぇ~~、4年以上も経つのですか? いやぁ、ほんと、歳月は人を待たないです。


僕は耳鼻科へ診察に行くところだったので、同じところで検査をされるyukariさんたちとそちらへ行き、耳鼻科前の待合の長椅子で、名前を呼ばれるまでの間、yukariさんとお母さんと一緒に3人で座り、いろんな積もる話をした。中でもやはりyukariさんとの耳鳴りに関する話には、一段と熱がこもった。2人とも同じ時期に耳鳴りを発症し、今もしつこく悩まされ続けているわけで、それに関する体験談を交わし合うことで、お互いにとって、少しでも気持ちの負担が軽くなる気がするのである。


大〇前病院へ行くことに対して、「今さら行ってもなぁ…」などと、なかなか重い腰を上げられなかったが、思い切って行ってみたら、こうしてyukariさんとお会いすることも出来たし、TCIが故障でなかったこともわかったし、久々に聴力検査もして、〇〇先生ともいろんな会話も交わせたし…と、いいことが沢山あった。


あれこれ考えるのも、決して悪くはないけれど、
やはり行動に出なければ、多くは得られない。
…そのことを、改めて思い知った次第です。 

 

 

 

 

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ケネディが暗殺された日

2013年11月22日 | 思い出すこと

米国から新駐日大使として日本へやって来たキャロライン・ケネディさんが、皇居まで馬車に揺られて沿道の人々に手を振る光景を見ていると、今は亡き英国のダイアナ妃が来日された時のことを思い出す。あの時もずいぶんフィーバーしたけれど、キャロラインさんも「ケネディの娘」というだけで、大変な人気である。改めてジョン・F・ケネディという人の偉大さを知らされた思いがする。

  

   


 

それにしてもキャロラインさんはお母さんのジャクリーンさんと瓜二つである。僕たちの世代にとっては、それがまた「若き日をなつかしむ気持ち」に繋がり、今回の大使としての来日を喜ぶ気分を、より一層盛り上げているように思う。


そして今日、11月22日は、ケネディ大統領がテキサス州のダラスで暗殺された日だという。1963年のことだから、ちょうど50年目の日となるわけだよね。
(しかもその日は今日と同じ金曜日だった)


しかし50年とは… あれからもう半世紀も経った! 


…50年前といえば僕は14歳で中学生だった。その日のことはよく覚えている。何人かの友達と一緒にどこかの学校へ模擬試験を受けに行った日だった。試験が終わって学校の門を出ると、道路のあちこちに紙切れが落ちていた。当時は店のオープンの宣伝チラシや新聞の号外などは、小型飛行機で空からまき散らされていたのである。(今そんなことをしたらエライことですよね。まだ街の美化という概念がなかった時代です)。


「何やろね?」とか言いながら、友達と地面に点々と落ちている紙の1枚を拾い上げてみると、号外だった。「ケネディ大統領暗殺!」という太い文字が目に飛び込んできた。…それが、50年前の今日のことだった。


ついこの間のことのように思える出来事だった。
(光陰矢のごとし…。年取るわけですよねぇ~)


ダラスといえば、4年前にアルゼンチンへ旅行したとき、ダラス空港で乗り換えだったので、数時間空港で過ごした。そのとき、外の景色を眺めながら、この地でケネディ大統領が暗殺されたのだったなぁと、ひと時の感慨に耽った。今でもダラスといえばケネディ暗殺のこと以外は思い浮かばない。


映画「ダラスの熱い日」では、ケネディがパレードの途中で凶弾に倒れる瞬間の実写フィルムが挿入されていたが、すぐ隣に座っていたジャクリーン夫人の驚きの表情と、ショックで全身を震わせ、顔を覆い、悲痛な叫びを上げる姿が、とても痛々しかった。


11月22日はわが国では、語呂合わせから「いい夫婦の日」ということになっているようだけれど、ケネディ夫妻にとっては「最悪の日」となってしまった。


ニュース報道で、ジャクリーン夫人そっくりのキャロラインさんを見るたびに、あの映画の衝撃のシーンを思い出してしまうのです。

 

 

   
   後列がケネディ大統領とジャクリーン夫人。
   1963年11月22日のダラス。暗殺直前の写真。

   

 

 

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シュークリーム事件にぎょえっ

2013年11月19日 | ニュース・時事

大阪市平野区の加美北小学校で、以前から不思議なことが起きていた。これまで何人かの女性教諭が会議中にいきなり眠り始めたり、体調を崩したり、気を失って病院に搬送されたりしていたという。教諭たちの間ではこの現象を、原因のわからない「眠り病」として恐れられていたそうだ。


その種の「事件」が去年6月、またしても同小学校で起きた。そしてその時に「犯人」が浮かび上がったのだ。


40代の女性教諭が小学校の職員室で配られたシュークリームを食べ、意識不明となって病院に運ばれ、10日間ほど入院したのである。今回初めて警察へ通報されて、女性教諭の血液鑑定から、シュークリームの中に睡眠導入剤が混入していたことがわかった。そのシュークリームを配ったのは60歳の女講師だった。そして同小学校で「眠り病」が発生しはじめたのも、この女講師が赴任してきた時から、という事実も判明した。そういうことで、警察は、この60歳女講師を傷害等の容疑で書類送検した、ということである。


職員室で「おいしそうなので買ってきたわ」なんて言いながら教諭たちにシュークリームを配り、その中で特定の(自分が嫌いな)女性教諭に睡眠導入剤を混ぜ入れる…というのは、まことに恐ろしい手口である。


僕はこのニュースで驚いたことが2つあった。


まずひとつめ。女講師がシュークリームに混ぜた睡眠導入剤の名称が「ブロチゾラム」だったということだ。それを聞いて「あれ…?」と思った。僕も耳鳴りがうるさくて眠れないので毎晩睡眠導入剤を服用しているが、その薬がそんなふうな名前だった。これまでずっとマイスリーという導入剤を飲んでいたが、最近、担当医から「成分はまったく一緒ですので」と別の導入剤に変わった。それが確か「ブロチゾラム」という名ではなかったか…?と思い、手元にあった薬の説明カードを広げて読んでみたら…


ブロチゾラムでなく、ゾルピデムであった。なんだか言葉の響きが似ているのでもしかして…と思ったけれど、違う薬でよかった。同じ薬だったら、とてもじゃないけど服用しようという気にならないもんね。


ところで僕が服用するゾルピデムはとても苦い。こんなのがシュークリームに混入していればきっと食べた瞬間、味に違和感を覚えるはずである。案の定、テレビで誰かが「一口食べればわかるんじゃないですか?」と質問していたが、解説の人が「この薬は甘い味らしいので、気がつかなかったと思います」と答えていた。そういえば…安定剤のデパスは甘い。舌先に一錠を乗せて溶けていくのを心地よく感じるので、僕はデパスは水なしで服用している。そういう感じの甘い薬であれば、たぶんシュークリームに入れてもわからないだろうな。しかしまあ、そんなシュークリームを自分が憎む女性教諭に食べさせる“怨念”には、背筋が凍りつきそうである。ぶるぶる。


そして驚いたことのふたつめは、この事件が起きた小学校が大阪市平野区の加美北小学校だったことだ。実は僕の出身小学校は、同じ大阪市平野区にある加美南部小学校なのである。加美北小と加美南部小。隣の校区である。近い~


…ということで、ブロチゾラムも加美北小学校も、いずれも二ア・ミス。
ちょっと驚いた、という話でした。

 

 

 

 

 

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福祉まつりで

2013年11月15日 | 日常のいろいろなこと

この間、近くの市民会館で「福祉まつり」というのがあって、3人で出かけた。毎年行われている行事だけれど、去年は妻とモミィの2人だけが行き、僕は今回が初めてだった。


会館内では、紙芝居があったり、折り紙、ぶんぶん駒、小物、おもちゃなどを作ったり、屋外では、わた菓子、ポップコーン、焼きそば、ジュースなどが売られていた。会場は親子連れで大賑わいだが、地元でとれた柿や、障害者の方たちの手作りの衣類、小物等の販売などもあり、また「脳年齢」「肌年齢」を計測するコーナーもあったりして、大人だけで来て楽しんでいる方たちも沢山いた。


これは市と社会福祉協議会の主催で「福祉」というタイトルがついているだけに、点字体験や手話体験コーナーもあった。モミィもボランティアの方に手伝ってもらって自分の名前を点字で作ったり、「わたしはモミィです」というのを手話でどう表現するのか教えてもらったりしていた。むろんモミィも初めてだったので、むずかしかったと思うが、かなり関心は抱いたように見えた。手話の時は、隣に座っていた僕にも、ボランティアの方が「お父さんもどうぞ」(いろんな所でお父さんと呼ばれる←ホンマです)と声をかけてくださり、初めて手話というものを体験した。


今頃こういう感想を述べるのも恥ずかしいことだけど、福祉ボランティアの方々の多いのに本当に驚いた。スタッフとして子どもたちにいろいろなことを教えてくれるこの方たちは、そのうちの多くは僕らと同世代か、それ以上の年齢の方々がほとんどである。これまでボランティア活動には縁のなかった僕は、これだけの人々が地域で地道に活動されていることに改めて驚きを禁じえなかった。なかなか自分にはできないことである。

 

  
   小物づくりを教えてもらうモミィ(赤い服)




それで…、ひとりのボランティア女性の方が、モミィに折り紙を教えてくれていた時である。僕がそばに寄って行くと、その女性と目が合った。「あっ!」とお互いに声を出し合った。同時に顔を確かめ合った。懐かしい~。


以前…息子たちがまだ小学校の頃だったけれど、その女性は、わが家と背中合わせになるお家に住んでおられた方だった。僕と同じような年齢だったと思う。隣の松原市で小学校の先生をされていた。僕がそこの市役所に勤めていたので、道で会うとよく言葉を交わしたものである。やがて先生は引っ越され、以後数十年の間に二度か三度、道ですれ違い「あ、どうも~」と挨拶をしたことがあるので、そう遠くには引っ越されていないのだろうと思っていた。それが偶然にも、ボランティアとして、モミィの折り紙のお相手をしてもらっていたわけである。びっくり!


「お孫さんですか?」と、先生。
「ええ…」と僕。
「まあ、お兄ちゃんそっくりですよね」
とモミィの顔をしみじみと眺める先生。


「お兄ちゃん」とは、むろん僕の長男のことで、モミィのパパである。先生は長男の子どもの頃を顔をよく覚えてくれていたようだ。


折り紙が終わり、モミィは他のコーナーへ行き、僕も先生にお礼を言ってその場を離れようとした。すると先生が追いかけてきて、


「実は私、今、ボランティアとしてこういうところで活動しているんです」
と、1枚の紙を僕に手渡した。そこには、


傾聴ボランティア ○○○○は、
みなさんのお話相手をしています。
活動先は、○○ディサービスセンターと○○特養施設、個人宅などです。
傾聴ボランティアをしてみませんか?
興味のある方はお問い合わせ下さい。
連絡先 ○○○○


と書かれてあった。先生は、僕が目を通し終わったのを見て、


「お年寄りの方のお話相手になるんですよ。ま、ほとんど聴き役で、いろんなことをお話されるのを聴くのですが、人生経験豊富なお年寄りの方たちのお話というのは、それはそれは、とても勉強になりますよ。私自身の人生観も変わりました。もしよろしければ、一度、このボランティアに参加されてみませんか?」とおっしゃった。


傾聴ボランティア…
少し気持ちが揺らいだが、でも続けられる自信はない。


「はぁ……」と僕は曖昧に笑ってその紙を折りたたみ、バッグに入れ、先生と分かれた。

 

僕は先生の情熱を肌で感じながら、立派な生き方だなぁ、と感心した。


でも僕には…う~ん、やっぱり、無理だろうなぁ。
「傾聴」というより「軽佻」という言葉のほうが似つかわしい僕だから。

 

 

 

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ため息が青息吐息に変わり…

2013年11月07日 | ランニング

1週間以上、ご無沙汰してしまいました。
順調にいけば、今頃は心地よい回想に浸っているはずですが…


11月3日に行われた大阪・淀川市民マラソンは、半年前から出場を計画していたというのに、レースの10日前ぐらいから体調を崩し、あげくの果てに欠場というガッカリな結果に終わってしまいました。


納得のいく練習ができず、完走の可能性は少なかったかも知れないが、せめて中間地点(スタート地点と同じ場所)までは戻ってこれるだろうと考えていました。つまりフルが駄目でもハーフだけでも走り切り、10数年ぶりのレース感覚を楽しみたい…と思っていたのに…残念。というより、このブログに「フルマラソンに挑戦!」と何度も書いてきたのに、最後はコレかよ?…みたいになってしまったことは、全くお恥ずかしい次第です。


レース6日前の月曜日(10月28日)、朝はブログも書けたのですが、午後からきつい不整脈が出て、薬を飲んでもなかなか収まらず、悶々とし、夕方にモミィをECCに連れて行けなくなりました。その日はモミィはハロウィンの扮装で行く日でしたが、代わりに妻が連れて行ってくれました。そして夜遅く、不整脈は収まったのですが…(実はそれまでの3日間、ビールやお酒を飲みすぎていた。それがこの月曜日の症状につながったと思われる。←反省)


翌朝・火曜日になると、これがまた何事もなかったように体が戻ったので、レース5日前で、少し焦りもあり、最後の20キロ走にチャレンジした。その時のことは水曜日の朝のブログにも書きましたが、体が重くて、走ったり歩いたりを繰り返すというバテバテの状態でした。


この期に及んで、ナンだこの体調の悪さは?…と自分でも合点がいかず、その水曜日にもブログを書いてからまた走りに出ました。今から思うと、これが決定的に悪かったようです。


熱はなかったのですが、何となく風邪気味状態だったのでしょうか。走り始めると、今度は足が重く感じるだけではなく、気分も悪くなり、5キロも走らないうちにたまらず帰宅。着替えている時から吐き気やめまいがして起きていられなくなり「しんどい。寝る…」と妻に言ってその場に伏せてしまいました。おまけに最近また大きくなった耳鳴りが頭の中でキーンキーンと響きまくり、精神状態もおかしくなりそうで、ここでまたきつい不整脈が出たら、たぶん救急車を呼んだと思います。とにかく、昼をはさんだ数時間、安定剤を飲み、じっとしていました。2、3日前から心臓に軽く痛みを感じる症状も出ていたので(これは数日で治りましたが)、この時は、不安が頂点に達した時でした。


しかしその状態も午後になってゆるみ始め、椅子に座ってテレビをぼんやり見るくらいには回復しました。夕方、モミィをエレクトーンレッスンに連れて行くことは、何とかできました。しかし胃の調子も悪く、食欲はないし、少し食べるとすぐお腹が膨れる感じで、いったい体のどこの何が悪いのか、精神的なものなのか…妻も心配しているし、医者に行くとしたら何科へ行けばいいのか?…そんなことばかり考えながらも、結局医者には行きませんでした(生まれつき医者が大嫌いなので困ります)。


木・金曜日は少し外出をしただけで、休養を取り、もうマラソン出場は無理ということで、ブログのコメント欄で応援してくださっている皆さんにお伝えしなければ…と思いつつも、パソコンに向かって文字を打ち始めたらまた体調が狂うという状態でしたが、どうにか土曜日の夕方に短いコメントを打たせてもらいました。このあたりでやっと回復の兆しを感じました。


マラソンがあった11月3日は、午後から夜にかけてモミィのエレクトーンの演奏会もありました。つまりこの日はわが家で2つの行事が重なっていたのです。当初の予定では、長男が車で、僕とモミィと妻を、まずマラソン会場まで乗せて行き、僕が走り始めたら、一定時間後、3人で僕をどこかで応援して、そのあと大阪府・柏原市にある演奏会場へ行く段取りでした。僕はレースを終えて、まだモミィが出る時間に間に合うようなら電車で演奏会場へ向かうつもりでしたが、自分がどれだけ走れるかもわからない状況だったので、そのへんはまぁ、ウヤムヤでした。


でも僕がマラソンを欠場したので、この日は午前中は家で過ごして、午後、4人一緒に演奏会に行き、ゆっくり鑑賞することができました。もっとも、全部で26組のグループが出たので、そのほぼ3分の1は演奏を聴きながら居眠っていた僕でした。耳鳴りもこういう時はあまり感じないので、とてもありがたいですね。客席でウトウトしていた時、久しぶりに「気持ちいい」感触が少~し体に戻ってきたかなぁという感じでした。


今週に入り、多少の波はあったけれど、今はパソコンも支障なく打てますし、体調もほぼ戻り、ビールも「おいしい~」と感じ始めました。


しかし本当に健康というのは大切ですね。わかりきっていることですけれども、また改めて痛感することになりました。


今回、特に苦しめられた耳鳴りについては、再度検査をしてもらい、1年以上中断していたTRT療法も再開することを決め、先ほど大〇前病院へ電話をして予約を取ったところです。


涼しくなりましたのでまたジョギングやウオーキングも始めたいと思っています。昨日は久しぶりにコスパへ行き、少しだけ泳ぎました。さすがに息が切れましたね。いずれも、ボチボチとやらなければ…と思っています。


あ、そうそう。ちょっと古いニュースになりますが、日本シリーズで楽天が優勝しましたね。


考えてみれば、あの試合も11月3日でした。モミィの演奏会が終わってからみんなで帰宅し、テレビをつけたら、楽天の牧田が本塁打を打った瞬間で、3対0と楽天がリードを広げたところでした。結局そのままの得点で楽天が優勝し、日本中が沸きましたね。基本的には巨人ファンの僕ですが、この日は例外で、楽天の日本一を心から喜びました。


モミイもこれまで熱を入れて練習を重ねてきた演奏会を無事に終えたし、楽天は優勝したし、僕はマラソンを走れなかったし(?)と、11月3日という日は、まことに印象深い1日となりました。

 

 

 

 

 

 

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