僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

西野ジャパンも巨人も 頼りないなぁ

2018年05月31日 | スポーツの話題

昨日は午後6時からプロ野球のセ・パ交流戦、巨人・日ハム戦を見ていました。(わたくし、巨人ファンです)。この交流戦は一昨日から始まっていますが、交流戦の前は巨人は4連敗中でした。

それで思い出すのは去年の同じ時期、やはり巨人は4連敗のあと交流戦に突入。そして交流戦でも9連敗して、なんとまあ13連敗という球団創設以来のワースト記録を作ってしまったのです。

今年も交流戦前に4連敗したので、巨人ファンなら誰もが去年の悪夢がよみがえるでしょう。そして案の定、一昨日の交流戦初戦で敗れた。これで5連敗。また連敗が続くのかと思いながらテレビを見ていたら、信じられないことに2回の裏に巨人は一挙に8点を取り、8対0と大量リードをした。「あ、今日はもう楽勝やな」と安心し、そのあとサッカー中継にチャンネルを変えました。

W杯が間近に迫る中で日本代表監督が急きょ西野監督に代わり、その西野ジャパンの最初の試合ということで注目の一戦です。しかも、試合の翌日(つまり今日ですが)に、日本代表選手が正式に決まるという。

しかし試合が始まってまだ10分も経たないうちに、相手のガーナに得点を許してしまった。相手のフリーキックで、壁となった日本選手の「すき間」へボールを蹴られ、キーパーも防げず、そのままゴール。あっさり先制されてしまったのです。そのあと両者得点が入らず前半戦が終了したので、チャンネルをまた野球に変えたら

巨人が8対0でリードしていたのに、なんと8対6になっていた。試合はまだ4回である。なんじゃそら~!

5回に巨人が1点を加えて9対6となり、僕はまたサッカーに変えました。

サッカーの方も日本はピリッとせず、後半にはPKからまた1点を取られ、最後までいいところがないまま、2対0で完敗した。テレビを見ておられた方もガッカリされたことでしょう。雨が降りしきる競技場でも、試合後、観客席から日本チームにブーイングが起きるという珍しい現象も起きました。

今朝の朝日新聞では「W杯で日本は本当に勝てるのか。そう思わせるほど、内容が悪く、期待を感じさせない敗戦だった」などと酷評しています。解任されたハリルホジッチ監督がこの試合を見ていたら、「ほら見ろ。ワシをクビにした呪いじゃ。日本はW杯では1勝もでけへんわ」と言いそうですね。

W杯は6月14日からロシアで約1ヵ月間行われますが、日本はまず6月19日に登場します。相手はコロンビアという強豪国。勝てる見込みは1割以下だと思いますが、昨日の試合を見ていると、その後のセネガル戦、ポーランド戦も、心細い限りです。残りわずかの期間ですが、何とか奇跡を巻き起こしてほしいものなのですが。

ところで野球の巨人のほうは試合が終了して、結果を見てまたまたビックリ。巨人が勝つには勝ちましたが、スコアは「9対8」でした。8対0の大量リードから始まっても、終わってみれば9対8。もうちょっとで逆転負けを喫するところでした。

サッカー日本代表も頼りないし、巨人もホンマに頼りないし。

ぶつぶつ(このごろ、ボヤいてばかりですわ)

 

 

 

 

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足が重い、だるい。

2018年05月28日 | 心と体と健康と

何度かこのブログでも書いたように、僕は、持病に心房細動(不整脈)を持っています。ま、耳鳴りも持っていますけど(持ちたくないものばっかり)。

ここ数ヵ月前から、体に変な現象が起きている。

階段を数段登るだけで足がだるく、息切れがする。心房細動が出ている時は、何をしても息切れがするけど、最近は、出ていない時も階段を登ると息切れがするし、足が特に重くなる。

おまけに、腕もだるい。ドライヤーを持っただけでもだるい。全身の筋肉が、何となくだるいのだ。こんなことは、今までなかったことなのに。

おかしい。

50代までフルマラソンを20回完走し、サロマ湖や四万十川など100キロマラソンも完走し、50代後半には100キロウオークも完歩した。今でも平坦な道なら20キロくらいは歩ける。脚力にはかなりの自信があるのです。

なのに今、登りの階段では足がすぐにだるく重くなる。なんなのだ、これは?

そんなことで、これをネットで調べると、

心臓の働きが悪くなると、血流が悪くなり、全身に血液が円滑に回りにくくなるそうだ。で、足がだるくなったりする、とのことだった。

つまり、心不全のような症状なのだ(急性でなく、慢性の心不全ですけどね)。その指数を示すBNPという値も僕は元々高かった。

http://med.matsusaka.or.jp/kenshin/wadai15.html

グズグズしていたけれど、これ以上もう放置できないと、先週の木曜日、かかりつけの医師にそれを訴えた。

医師は胸のレントゲンを撮り、「肺に水も溜まってませんし、心臓も普通だし」と言った。しかしレントゲンだけでは納得できない。「心臓のエコー検査をしてください」とお願いした。「そうですね、じゃぁ明日の午後」と医師。

そして翌金曜日、再度その医院へ行き、エコーの検査をしてもらったのだ。その結果は

「心臓の働きは正常すけどね~」と医師。しかし、弁が少し開いていて、血液も少し逆流しているとか。「まぁ、軽度ですけど」と医師は言ったけれど、それがどういうことなのか詳しい説明はなかった。

しかし、とりあえず、この検査で、心配していた心不全ではなかったことには安堵した。

でも、自分の体は自分が一番よくわかる。
やっぱり、何となくしんどい。違和感がある。

今日は早朝、1時間余り大和川堤防をウオーキングしたし、そのあと、ジムのプールで1時間以上泳いだ。そんなことは、これまで通り、できるのだ。そういう元気は、あるんですけどね。

でも階段を登ったり自転車を漕いだりしたら、足が異常に重い。立ちっぱなしの時も同様だ。

いったい、なんなのだろう?

そのうち、また普通に戻るんだろうか?

あまり気にし過ぎるから、そういう症状が出るのか。つまり、以前にも言われた自律神経の失調とかね。この自律神経でも、体がだるくなったりするらしいので。

よく、わかりませんわ。

ぶつぶつ。


★もしかして、年のせい?つまり加齢現象というやつ。まぁその方が、原因がわかってスッキリしますよね。でも、全体的に体力が落ちるならわかりますが、何かそうではないような気がするのですわ。

ぶつぶつ。

 


 

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タイ旅行 あの時はモミィのパパもまだ高校生

2018年05月26日 | 旅行

日大の「悪質タックル問題」は益々ヒートアップしており、それを取り上げたこのブログの閲覧数も、ここ1週間ほど、ふだんの倍近い数字がず~っと続いています。西城秀樹や日大や。やはり関心の高い時事ネタは閲覧数が増えますね。沢山の方々にお読みいただいて有難いことだと思っています。

しかし話題はガラリと変わります(これで閲覧数も減るでしょうね・笑)。

去る5月12日と13日の2日間、東京で「タイ・フェスティバル」という催しが行われ、その様子がテレビで流れていました。会場は沢山の人たちで賑わい、2日間で約30万人が詰めかけたとのこと。タイ料理をはじめ、タイに関連するさまざまなサービスを提供する200近いブースが出店され、ステージではムエタイや伝統舞踊、タイ人歌手のコンサートなどが行われたということです。

そして次の週の19日と20日には大阪で開催され、このあとさらに6月に名古屋と仙台で、8月には静岡で、この「タイ・フェスタ」が開かれる予定だという。それほど大人気のイベントなんですね。

聞けば今は空前絶後!のタイ・ブームだそうです。タイへ旅行する日本人の数もめちゃくちゃ増えているとのことです。ふ~ん? 空前のタイ・ブームなの? それは知らんかったな~ 

  …………………………………………………………………………


元号が平成に変わった年(1989年)に、一度タイへ旅行したことがあります。もう30年近く前のことですが、息子たちの学校が夏休みに入り、家族4人で海外旅行をしようと計画したのが東南アジアへの旅行。長男が17歳で次男が16歳。いずれも高校生でした。

しかし陸上部に入っていた次男は、試合の日程が入り、行けなくなった。まさか次男1人だけ家に置いて3人で旅立つわけにもいかず、妻が残り、結局僕と長男の2人で行くことになりました。

行く先は、マレーシア、シンガポール、タイ、香港の4カ所のツアーでした。

マレーシアからシンガポールへの旅を終え、シンガポールからタイのバンコク空港へ到着したら、2人の現地ガイドが出迎えてくれた。それがまだ学生じゃないかと思うほど若い男性2人で、1人がノム君という正式なガイドで、もう1人は見習いのようだった。2人とも何とか日本語は話せたが、時々何を言っているのかわからない。何か頼りなさそうだな、大丈夫か? と不安になったほど。しかしまあ、態度は誠実でマジメそうだったので、その点は安心できた。

まず中華料理店に入ると、中央に舞台があり、直立不動で歌う男性や、チャイナドレスの可愛い女性、そして八代亜紀そっくりの歌手が出てきて、それぞれ歌を歌うのだった。そしてそのあと、ホテルへ案内してもらったわけだが、チャオプラヤ川のほとりにあり、ベランダからはその大きな川が一望できた。


 
  ホテルのベランダから見たチャオプラヤ川。
 

翌日、ホテルの裏側のチャオプラヤ川の船着き場から細長い船に乗り込んで、船からバンコクの街を見学した。船が止まるたびに、物売りのおばさんたちが何人も小さな船で近づいてきて、僕らに麦わら帽子や果物などを売りつけようとしつこく迫ってくるので閉口した。

そのチャオプラヤ川を南に下り、遠方に「暁の寺」などを展望しながら、やがて支流に入って行った。「暁の寺」のことを、ガイドのノム君は「あれが、あかちゅきのてらです」と言っていた。舌がうまく回っていない。

細い支流に入ると、この川から民家の裏側が丸見えで、裸のお尻をこちらに突き出して洗っている女性とか、水浴びをする子供とか、洗濯をしている女性とか、さまざまな生活の姿が目に入って来た。観光地巡りもいいけれど、こういう実際の生活ぶりが見られるというのも、海外旅行の魅力のひとつだ。

その後、「暁の寺」に上陸した。それから王宮、エメラルド寺院なども回ったが、極採色で飾られた輝くばかりの造りに圧倒された。本当に素晴らしかったなぁ。

昼食後もいろんな名所を巡ったけれど、車の中でガイドのノム君が、僕と長男の関係を「キョウダイ、デスカ?」と聞いた。「いいえ。親子です」と僕は苦笑い。するとノム君は「ソーデスカ。オヤコ、デスカ」と言いながら、じ~っと僕と長男の顏を見比べていた(笑)。

また、ノム君は「ウシ、ありますか?」と聞いたので、僕は思わず長男と顔を見合わせた。「牛? いや、牛なんか、いないよ」と言うと、ノム君は不思議そうな顔をして僕を見つめる。そして「ウシですよ。ウシ」と繰り返す。やがてそれが「牛」ではなく「うち」→「家」のことだとわかった。「自分の家を持っていますか?」と聞いたのだった。で、「家、持ってますけど」と僕が返事すると、ノム君は、自分は将来家を持つつもりです、という意味のことを、たどたどしい日本語ながら、力強い口調で言った。

タイには2泊しただけだった。ノム君は空港でお別れをする時「いつか、ニホンにいきます」と僕の手を握った。僕は彼に、仕事で使っている名刺に自宅の住所をメモしたものを渡し、日本に来た時はきっと訪ねてくるようにと言うと「ハイ。ハイ」と何度も真剣な顏で頷いた。

そこから3時間足らずで香港に着き、そこでも2泊して旅は終わった。

旅行の様子は、当時の日記に詳しく記しているので、それを読み返すとその時の光景がありありと目に浮かぶ。

それにしても、タイ・バンコクのガイドノム君には強烈な印象が残っている。一生懸命になって日本語を話そうとする真剣な顔つきが強く印象に残った。

さて、旅行を終え、沢山撮った写真も出来上がり、その写真の中でノム君が写っていたものを数枚、あらかじめ聞いていたバンコクのノム君の住所へ送ってあげた。

すると、しばらくして、ノム君からハガキが届いたのでした。

それをご紹介します。これです。


 

一番上の行は「親愛なる昇さんへ」という意味でしょうね。

あなたの てがみ は しゃしん を
もらいました。どうも ありがとうござい
ました。 あなたのかぞくは おげんきですか。
おひまがあります。Thai(タイ)は また きてください
末筆 ながら ごけんこう ごかつやく
ごはってん を おいのり申しあげます。
           さようなら

そんな文面でした。
いかにも律儀なノム君らしい文章です。

「末筆ながら」というのが面白いですね~
「ご健康ご活躍ご発展をお祈り申し上げます」
というのもねぇ。ホント、面白いですわ。

「おひまがあります」というところが意味不明ですけど(笑)。
たぶん「おひまがあれば」という意味なんでしょうね。
とにかく一生懸命書いてくれたことは伝わりますね。

さて、
ノム君とは、
それ以降、ご無沙汰です。
あれから29年経つわけですが
今では日本語も流暢に話せるんでしょうね。
きっと「うし(家)」も建てたんだと思います。

タイ旅行と言えば、このノム君のことを思い出すので、
「タイ・フェスティバル」のニュースに見たのを機に、
今日のブログにその話を書いてみました。

 

*その時の写真を何枚か掲載します。


 
チャオプラヤ川の「水上タクシー」と呼ばれる船の中で。
左が当時17歳(高校2年)の長男。今のモミィのパパです。
その右にいるのが、ガイドのノム君です。
 


  
「暁の寺」の前で記念撮影。ノム君が撮ってくれた1枚。
ノム君は「あかちゅきの寺」と言ってましたけど(笑)
 


 
 チャオプラヤ川の支流に入ると、家の裏で洗濯などをする人たちが。


 
エメラルド寺院をバックに。
僕は40歳、長男は17歳。兄弟に見える???

 


 
ローズガーデンで像にエサをやる長男。
恐る恐るやっているところは、モミィが、
羊にエサをやっていた姿と似ています。


 
タイの民族舞踊を観ながらの夕食でした。
旅行もあとわずかで気が緩んだのか、
お酒を沢山飲んで酔っぱらいました。

 


 
街にはサムロと呼ばれる小型タクシーが沢山走ってました。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

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悪質タックル問題で前監督とコーチが会見

2018年05月24日 | ニュース・時事

日大悪質タックル問題で、昨夜8時から急きょ行われた内田前監督と井上コーチの会見に対して、首をかしげたり、怒ったりしている人は多いでしょうね。

前監督は「私からの指示ではありません」と否定し、おまけに「ルールを守るのが基本」とカッコまでつけていた。どの口で言っているんだ、と思う。

選手本人のみならず、多くの人たちの証言もあるのに、誰がその言葉を信じるだろう。また、コーチのほうは「相手選手を1プレー目で潰すのなら試合に出してやる」と言ったことは認めたけれど、「けがを目的としては言っていない」と話していた。しかし「選手を1プレー目で潰せ」と、具体的に関学の司令塔であるQBの選手を潰せ、と言っているのは、けがをさせろ、という以外にどんな意味があるというのか。

とにかく、前監督とコーチは、選手が勝手に勘違いしてああいう行為に及んだということで突っぱねようとしているのは明白である。もし「指示した」と言えば、刑事事件にされると有罪になりかねない。だから選手に責任を押し付けるというスタンスを徹底的に貫き通すつもりだろう。でもそんなことが、今の世間の空気の中で通用するのだろうか、と思ってしまう。

それと、昨日の会見の司会をしていた広報部だという爺ちゃんも変わった人だったね。質疑応答が重ねられていた時、その爺ちゃんが「もう、やめください。同じ質問ばかりでキリがないので、会見は終わります」と、いかにも不機嫌な顔で会見を強制終了した。そのあとも「納得する答えがないから質問するのです」という記者に「納得するまでやるのは時間の無駄」とも言った。こんな司会者って見たことがない。この爺ちゃんが日大広報部の職員だというのだからねぇ(この学校には定年ってのがないの?)。

それも含めて、日大という組織の閉鎖性を強く感じてしまったのは僕だけではないと思う。日本一のマンモス校なのにね~。むろん学生さんとは関係のない話なので、現役の日大生や日大卒の皆さんは学校のイメージダウンに大きな迷惑を被っていることだろうなぁ、と日大同様マンモス校の一つである近大卒の僕は思うのである(近大は大丈夫やろな?)。

なお、今日発売の週刊文春の新聞広告を見ると、内田前監督の「14分の自供テープ」という記事が大きく載っていた。今朝のテレビでもその一部が流されていたが、それによると、悪質タックルについては「あのぐらい、ラフプレーにならない」「宮川はよくやったと思いますよ」と言っていた。一方では「ルールを守るのが基本」と会見で言っているのに、あの、背骨が折れても不思議ではない危険で悪質なタックルを「ラフプレーにならない」と言っていたわけで、もう話にならない。これがまた大きな問題にされることは間違いないところだろう。
(一説には、昨夜、緊急で会見を開いたのは、今日その文春が発売されるから前もって弁解するためであろう、とも言われている)。

     http://bunshun.jp/articles/-/7477

内田前監督は日大のナンバー2と言われているが、その常務理事の職を謹慎するという。辞職ではなく「謹慎」である。これは「隠れる」のと同じで、ほとぼりが冷めるまで雲隠れするということですよね。で、テレビで扱われなくなった頃にはみな関心も薄れて、忘れていくだろう。その時に復帰すればいい、という思惑があるに違いない。ま、たしかにマスコミ報道もその時だけ大騒ぎして、後は知らんぷり、というのが多いですからね。日大側もそういう今の世相に期待しているように見える。

でもこの問題に関しては、昨日の会見を最後にうやむやに済まされるどころか、今日からさらに波紋が広がることは必至である。

昨夜、前監督は会見のあと、病院へ直行して入院したそうだ。
ちなみに、司会をしていた爺ちゃんもそのまま入院したという。
なんで司会者まで入院やねん?)

これからも、マスコミはしっかりと追及してほしいし、僕たちもその動向を見極めていきたい。

 

 

 

 

 

 

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日大悪質タックル事件 きょう加害者選手が会見 

2018年05月22日 | ニュース・時事

アメリカンフットボールの試合で日大の選手が関学大の選手を悪質なタックルで負傷させた問題が、驚くほど大きな社会問題となってきた。まあ、あの映像を毎日見せつけられていると、本当に背骨が折れそうで、死んでも不思議ではないようなえげつないタックルだったことが改めてわかる。

テレビでも先週から、西城秀樹さんの次にこの問題が取り上げられ、今週は、さらにこれがトップニュースに上がってきた。それまで姿を見せなかった日大の内田監督がやっと会見に応じたものの、自分が悪質タックルをした選手に「怪我をさせろ」と指示したことには一切触れなかった。都合の悪いことはごまかす、という態度がミエミエだった。

こういう態度に対して、昨日、被害を受けた関学大の選手の父親が怒りの会見をした様子が、今朝ほどのニュースで流れていた。さらに今日「悪質タックル」をした日大の選手(ネットには「宮川泰介」という名前も顏も出ている)が、会見を開くということになり、いったいこの騒ぎはどこまで広がるのかという様相を呈してきた。

ちなみに、昨日会見した被害者の父親・奥野康俊という人は、大阪維新の会に所属する現職の大阪市議会議員であり、バリバリの論客である。日大も、これはもう非常に手ごわい相手を敵に回すことになったといえる。

今日の宮川選手の会見は、午後にあるそうだが、日大側と一緒ではなく、個人として弁護士の同席のもとで行うとのこと。関係者の話では、宮川選手は今日の会見で、「悪質タックル」は、監督やコーチの指示の下でやった、ということを話す予定だという。いよいよ、日大の内田監督やコーチ陣、いや、日大という学校そのものにまで影響が及びそうな気配になってきた。

宮川選手にしても、あれだけ毎日毎日「悪質タックル」の映像が流され、ネットでは名前も顔写真も経歴も全部さらされ、日本中から非難を浴びることになってしまった。おまけにその家族まで世間から何やかやと言われたりする。これでは理不尽すぎる、ということで、今回、特に家族の強い意向で思い切って会見を開くということになったんだろうと思う。そうでないと、宮川選手は永久に「極悪人」のレッテルを張られ、その家族は「極悪人の家族」と後ろ指を指され続けることになる。

悪いのは監督、コーチ、そして監督を中心とした日大アメフト部の体質だということを日本中に知らせなければならない、という切迫した思いが、本人もそうだが、特に親や家族などにあったのだろう。自分たちの名誉のためにも、このまま、宮川選手が単独でやった悪質なプレーということで幕引きをさせるわけにはいかない、という強い決意があったに違いない。

宮川選手の会見で、監督・コーチが今回の事件の共犯(あるいは主犯?)であることが明らかになれば、被害者の父親である維新の会の大阪市議も、さらに勢いを得て、打倒日大アメフト部に全力を注ぐことになるだろう。

きょうの午後からの宮川選手の会見に注目したい。

 

 

 

 

 

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今度は星由里子さんが

2018年05月20日 | 心と体と健康と

西城秀樹さんが亡くなった矢先に、今度は星由里子さんの訃報が流れました。さらに今日は朝丘雪路さんも。

昭和のアイドルや俳優さんたちが、次々と亡くなるって、寂しいですね。

星由里子さんは東宝の女優さんで、「若大将シリーズ」の加山雄三の相手役だけではなく、いろんな作品に出て、当時はトップ女優でした。僕より4歳上の吉永小百合(日活)、5歳上の星由里子、7歳上の倍賞千恵子(松竹)の3人の女優さんが、昔の僕が好きだった女優ベスト3でした。僕と同世代の団塊シニアには、そういう人が多いのではないかと思います。

中でも星由里子さんは、輝くような美貌の持ち主だった。前述の3人の女優さんの魅力を言葉で表すとしたら、吉永小百合はメチャ可愛いかったし、倍賞千恵子はメチャ優しそうだった。そして星由里子さんは、メチャ端正で綺麗だった。僕はこれまで、映画やテレビで見た女性で、ここまで美しかった人というのは、あまり見たことがない。

その星由里子さんが74歳で亡くなった。

死因は「心房細動」と「肺がん」だという。

なんで2つの死因があるのか、よくわからない。

ただ、「心房細動」というのが気になった。それは僕の持病でもあるからだ。

最近は「心不全」で亡くなった有名人が多い。

日本人の死因の第1位はがんで、第2位が心臓病だという。心臓病はたいてい心不全だったり心筋梗塞だったりするけれど、心房細動もこれらと無関係ではない。でも、著名人の死因として「心房細動」と発表されるケースは珍しい。

今回の星由里子さんが「心房細動」と出ていたことには、またまたショックを受けた。西城秀樹さんが亡くなった時も、脳梗塞から心不全ということだったし、何となく、自分も近いうちに何かが起きるのではないかという、イヤな予感みたいなものまで覚えてしまうほどである。

人はいつかは死ぬ。

そんな当たり前のことが、このごろまた、重く心にのしかかる。

 

 

 

 

 

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ブーメランストリート

2018年05月18日 | 心と体と健康と

昨日からずっと、テレビではどのチャンネルも亡くなった西城秀樹さんを特集しています。ファンならずとも、病魔と闘いながら歌と家族を愛し続けた姿が、多くの人々の共感を呼ぶのでしょうね。

かく言う僕も、歌手・西城秀樹の大ファンというほどでもなかったのですが、昨日のブログに書いたように、彼の病気に屈しない懸命な生き方に共感を覚えたからにほかならず、そういうことから彼に勇気づけられた人たちが日本中に沢山おられるんだろうなぁ、と、テレビを見ながら想像するんですよね。

西城秀樹といえば、一番印象に残っているのが、やはり「ハウス・バーモントカレー」のCMでした。

ハウス・バーモントカレー
リンゴと蜂蜜 とろ~り溶けてる 
ハウス・バーモントカレー

という曲が流れた後「ヒデキ 感激~!」というフレーズ。
このCMはあまりにも有名ですよね。
1973年(昭和48年)から12年間続いたという人気CMでした。

そして彼が60歳になったとき、
「ヒデキ 還暦~!」
という、チョー面白いギャグを披露してくれました。
まさに40年以上の歳月をまたぐ壮大なギャグでした!

さて、西城秀樹の歌の中で、最も好きな歌を1曲選んでみよ、と言われたら僕は躊躇なくこの曲を挙げます。

「ブーメランストリート」

です。

まず、歌詞のここのところが面白い。

カリッと音がするほど 小指をかんで
痛いでしょ 痛いでしょ~
忘れないでしょ~

カリっと音がするほど小指をかんだら痛いのに決まっとるがな。
「忘れない」に決まっとるがな。無茶するなぁ(笑)。

また、こんなのも 

ポキッと音がするほど体を抱いて
熱いでしょう 熱いでしょ~
忘れないでしょ~

ポキッと音がするほど体を抱いたら、背骨が折れるで。
(日大アメフトの『悪質タックル』じゃあるまいし)
「忘れない」に決まっとるがな。無茶するなぁ(笑)。

と、思わず突っ込みたくなるところがありますが、まぁそれは冗談として、僕は西城秀樹の歌の中でもこの歌がダントツに好きなんです。

ウオークマンにもむろんこの曲を入れて、歩きに出た時にいつも聴いています。何度聴いてもいい歌ですね。胸が騒ぎます。

これは作詞・阿久悠、 作曲・三木たかしという「津軽海峡冬景色」など数々の名曲を生んだお二人によって作られた歌でした。さすが、偉大なるコンビです。

そんなことをあれこれ想いながら、西城秀樹さんを追悼するテレビの情報番組を見ています。


 

 

 

 

 

 

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西城秀樹さん亡くなる。 残念。悔しい。

2018年05月17日 | 心と体と健康と

つい先ほど(5月17日の午後1時半頃)、全く突然に、西城秀樹さんが亡くなったというニュースを知って激しい衝撃を受けた。4月下旬に倒れて救急搬送され、意識が戻らないまま、昨夜遅くに亡くなったということだ。まだ63歳だった。死因は「急性心不全」ということだった。僕は10数年前からずっと西城秀樹さんの体の状態を気にかけ続けていた。それには深いわけがあった。

僕は2006年(平成18年)の6月22日、仕事中に突然右半身が麻痺する症状に襲われた。ものを言おうとしたら、ろれつも回らず、すぐに職場の同僚に近くの病院へ連れて行ってもらった。診断の結果「一過性脳虚血発作」という脳梗塞の一種の症状だったことがわかった。幸い麻痺は早い段階でマシになったが、ろれつがちゃんと回るようになったのは、ずっと後だった。後日、脳の専門病院で精密検査をしてもらったら、医師が「脳の細い血管が詰まったので軽く済みましたが、太い血管だったら最悪の事態でしたよ」とラッキーだったことを強調された。

原因は、持病だった心房細動(不整脈)で出来た血栓が、脳の血管を詰まらせたとのこと。

その時、真っ先に頭に浮かんだのが、西城秀樹さんのことだった。

彼が脳梗塞で倒れたのは、その3年前の2003年のことだったけれど、倒れた日が6月22日だった。3年違いだが、僕がその症状に襲われたのも6月22日だった。月も日もまったく同じ、6月22日。

僕としては妙な因縁を感じていた。

そして今度は2011年12月に「西城秀樹、脳梗塞再発」が報じられた。その報に接し、僕は「彼は再発を防ぐための生活をきちんとしていたのだろうか?」などと思いをめぐらせ、自分ことのように心配をした。でも彼はそこからまた立ち直ったようなので、勇気づけられた。

と同時に、やはり脳梗塞は再発率が高いのだと改めて認識した。心房細動を抱えている自分は、さらに要注意なのだと肝に銘じた。

このたび西城さんが亡くなったのは急性心不全ということだったけれど、3ヵ月前に亡くなられた大杉漣さんも同じく急性心不全だった。

その時のブログにも書いたけれど、僕は定期的な血液検査でBNPという数値がケタ外れに高い。主治医は「心房細動のある人はだいたい高いです」と言うが、ネットなどで調べると、この数値が高いのは心不全と密接に関係しているということである。それと最近、階段を少し上がっただけで息が切れ、足が極端に重く、だるくなったりする。それも心不全の症状の一つだというので、近々、大きな病院へ行って、これについての精密検査を受けなければならないな、と思ったりしている。が、グズグズして、なかなか実行に移せていないのだが、この西城さんの「急性心不全」での訃報を聞いたとき、やっぱり脳梗塞と心不全はどこかでつながっているのかな? と思わざるを得なかった。

西城さんは最近は元気にコンサートなどに出ておられるようだし、僕よりも若い。これからもずっと活躍を続けていくんだろうな、と思っていた。だから、この突然の訃報には言葉も出ないほど驚いたのです。

先ほど、ちょうどブログの別の記事をアップし終えたところだったけど、このニュースを知って急きょこの記事を書き、差し替えることにしました。

僕は西城さんの頑張りを心の支えにしていたので、本当にショックです。たまらなく残念で、悔しくて、つらいです。

 

 

 

 

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カピバラが1位 ふぎょぎょ!

2018年05月14日 | ズレズレ草

昨日は「母の日」でしたね。

午後から友達と遊びに行ったモミィが、夕方帰ってきて、妻に「これはい」と言って、カーネーションをプレゼントしていました。

    

 …………………………………………………………………………

さて、話はたちまち変わります。

昨日の新聞に面白い記事が載っていました。堺市にある農業公園の「ハーベストの丘」という場所でのことです。

このハーベストの丘というのは子供たちに人気のあるスポットで、とても可愛い動物たちが人気で、モミィも小学生の時に3度行き、馬に乗ったり羊に餌をやったりして喜んでいました。

 


 
モミィがハーベストの丘に最初に行ったのが小学2年生の時。
羊に餌をやっています。恐る恐るなので腰が引けてます(笑)。


で、その新聞によると、このゴールデンウィークに、ハーベストの丘を訪れた子どもたちに「どの動物がいちばん好きですか?」という、園では初の「動物選挙」を行ったそうなのです。そこで、第1位に当選したのが

カピバラだったのです。

しかし、これはまぁ言えば「番狂わせ」だったみたいで、ほかの人気動物たちがカピバラに負けたことが、園の関係者の人たちにとっても意外だったとのこと。また、カピバラ自身も、その投票結果を「不本意」と受け取ったようで、園は、そのカピバラのコメントを発表しました(笑)。

自分が1位になったことに驚いたカピバラが「なぜ立候補してしまったのだろう」とか「どうしてこんなことに」とか言ってグチをこぼしたらしいです。アハハ。それを、園が発表したという記事を読んで、僕は大笑いしました。

ま、そんな他愛もないトピックスでしたが

実は、この1位に当選したカピバラの名前が、

「のん」

という名前だったのです。

ふぎょぎょ!
(これは「半分、青い」の中で主人公の鈴愛が言う言葉です)

このハーベストの丘を訪れた子供たちの人気投票で1位になったのは、
僕と同じ名前の「のん」だった~

ふぎょぎょ!
(もう、ええわ)

やれやれ

これと言ったヤマもオチもない話でしたが、
つまり「のん」というのを言いたかっただけでした。



昨日のその新聞記事です ↓

 

 

*追伸

小学2年生だったモミィを連れてハーベストの丘に行った時、そのカピバラの場所にも行ったのですが、檻の中を覗いても、残念ながら姿を見ることができませんでした。その時はカピバラの名前が「のん」ということも書いてませんでしたが、いちおう写真だけは撮っておきました。


 

 
   
2013年3月撮影

 

 

 

 


 

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「半分、青い。」 の失聴と、耳鳴り

2018年05月12日 | 心と体と健康と

NHK連続テレビ小説「半分、青い。」のことですが、この一風変わったタイトルの意味は、ドラマを見ている人にはわかりますよね。最初の頃、こんなシーンがありました。

雨がザーザーと降っていたある日、小さい頃の病気が原因で左の耳が聞えない主人公の鈴愛(すずめ)が傘をさしていると、右耳でしか雨の音が聞えないので、
「半分だけ雨降っとる。右(耳)だけ雨降っとる!」と母に叫びます。

鈴愛からみれば、左耳側は雨が降っていない、つまり晴れている(青い)というわけ。そして雨が上がったあと、鈴愛が空を見て、
「半分、青い。」
とつぶやく。
胸を打つシーンでしたね。

そしてドラマの今週の展開は、高校を卒業した鈴愛が、漫画家をめざして東京に出て、トヨエツが演じる人気漫画家・秋風羽織のところに弟子入りする、というところです。出てくる人たちの軽妙な会話と鈴愛の天衣無縫なキャラクターが、何とも言えず楽しいです。

ところで、つい最近まで知らなかったのですが、脚本を書いている北川悦吏子さんも、左耳が聞えないそうなんです。ある雨の日に傘をさしていると左側だけ雨の音がせず、それがちょっとおもしろく感じ、タイトルの「半分、青い。」もそのとき一緒に思いついた、と語っておられたとか。つまりご自身の体験からこのドラマが生み出されたということなんでしょうね。

それにしても、片耳が聞えないというハンデを、不幸とは考えず「おもしろい」と感じるのは、何という素晴らしい感性だろ。マイナスとしか思えないようなことも、プラスになり得るモノがあるんだということで、勇気づけられます。

「耳」と言えば、僕の場合は耳鳴りです。2007年の9月に耳鳴りが発症してから、もう10年半もの間、ず~っと24時間休むことなく「ジーン・ジーン・ジーン」と左耳の奥で鳴り続けています。「鳴る」というより「鳴り響く」という表現のほうがわかりやすいでしょうね。左の耳の奥から脳にかけて鳴り響いているのです。しかも最近ますますその音が増幅してきているようで、気にしないようしていても、やはり気になるし、不安や苛立ちを覚えずにはいられません。

「耳鳴りは治りません。慣れることです」
というのが、耳鳴りに対する医学界の見解なので、耳鼻科へ行ってもほぼ相手にされず、心療内科への受診を勧められたりします。わかってもらえないんですよね~耳鳴りの辛さが。

耳鳴りに慣れる、というのも無理な話で、「慣れる」というより「あきらめる」しかないんですよね。

そんな耳鳴りは、僕にとっては100%マイナスだと思っています。

でも、鈴愛のように片耳が失聴しても、100%マイナスとは思わず、
「半分、青い。」
の気持を持つヒロインのドラマを見ていると、「人生に100%マイナスのことなんて存在しないのよ」と語りかけてくれているような気もするんですよね。

もしかして、自分のこの耳鳴りも、何かプラスのことがあるのだろうか? 
と、ドラマを見ながら、ふと思い巡らしたりもします。

で、僕が脚本家だったら、この左側の耳鳴りをテーマにして、どんなタイトルのドラマを作るだろうか、と妄想してみました。その結果、

「半分、うるさい!」

というタイトルぐらいしか思いつきませんでした(笑)。
(どんなストーリーやねん!)

すみません。何のイミもない、ただのボヤキです。
やっぱり耳鳴りがプラスになるようなことを探すのは難しいです。

しかしそれでも、

「人生に100%マイナスのことなんて存在しない」

ということを、信じたいですね。

 

 

    


 

 

 

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「フツー」 ってどういう意味?

2018年05月08日 | ズレズレ草

NHKの連続テレビ小説「半分、青い」は15分があっという間に過ぎるほど面白い。中でも登場人物の会話が秀逸ですね。主人公の高校生たちや周りの大人たちのセリフの一言一言が実に心地よく響き、見ている間、ずっと自分でも微笑んでいるのがわかります。さすが北川悦吏子さんの脚本だ。あの「ロングバケーション」や「愛していると言ってくれ」の北川さんですよね。やっぱり並みの才能ではありませんな。

「半分、青い」については、また書こうと思っていますが、今日はこのドラマからは少し逸れた話です。

ドラマの中で主人公の鈴愛(すずめ)が、「わからんくなった」とか「聞えんくなった」という言葉を使っていたことに僕は少し驚きました。

3月下旬のブログで、かかりつけ薬局の薬剤師さんが「これまでのお薬が、効かんくなったんですよね」と言ったのを聞き、最近は大人もこんな不思議な言葉づかいをするんだ、と思った話を書きました。モミィがよく使う言葉で、僕はてっきり最近の子供たちが使うテキトーな造語だと思っていたのです。

ところが「半分、青い」で鈴愛ちゃんや、そのお母さんが、ドラマの中でその種の言葉を使っているのを聞いてビックリ。これは一つの方言かも知れませんが(このドラマの舞台は岐阜県)、大人としても正しい言葉の使い方なんだ、ということを知った次第です。つまり「効かんくなった」という言葉づかいは「ヘンな日本語」ではなかったわけですよね。

まあ、最近は「ヘンな日本語!」と思われる言葉もいろいろと出てきますけどねぇ。

この間は、東国原英夫が「汚名挽回しなければだめですよ」と言っていたけれど、これは正しくは「名誉挽回」ですよね。「汚名」だと「汚名返上」と言わなければならないでしょ。汚名みたいなものを「挽回」してどないするねん、な~んてツッコミを入れたくなります。

他にも気になる言葉づかいがいろいろとあります。特に気になるのが、「耳ざわりがいいですね」という言い方。これって漢字では「耳障り」と書くわけで、つまり不快な騒音などに対して「耳障りだ」という使い方が本来です。同じような用法として「目障り」というのがあり、「目障りだからあっちへ行ってくれ」というような時に使いますよね。「目障りがいい」なんて言わないもんね。なのに「耳障りがいい」というのは、なんで…?

これは「さわる」という字を、接触するという意味の同音の「触る」と混同されて、「耳障り」を「耳触り」と勘違いしているんですよね。で、「肌ざわりがいい」と同じような意味で「耳ざわりがいい」と言うように、へんてこりんな言い回しなっています。この言葉を聞くたびに、僕は面くらいます。

また「役不足」という言葉は、本来は自分は能力があるのに役が軽すぎる、という意味なのですが、よく「私は役不足です」と、謙遜のつもりで「自分の力不足」の意味で使ったりする人が多い。しかし意味は「オレのような大物にこんな軽い役ができるか」ということです。何も知らずに、そう言っているわけで、コワいですね~

「気の置けない仲間」というのは仲のいい人、という意味なのに、何となく親しめない人、という意味で使う人も結構います。

「流れに棹(さお)さす」というのは勢いづかせるという意味ですが、逆に進行を妨げるという意味で使ったりすることがよくあります。これも間違いですよね。

最後に、最近特に使われているのが、「普通に」という言葉ですよね。普通は普通だと思うのですが、これがちょっと意味が変わってきているらしい。たとえば先日の新聞のコラム欄に書いてありましたが、家に遊びに来た若い学生さんに手料理をふるまったら、「フツーにおいしい」と言われ、料理自慢の奥さんがショックを受けたという話でした。言ったほうは「お世辞ではなく、実際においしい」という気持ちだったのかも知れませんが、その、最近の若い人の言い方を知らなければ、「普通においしい」と言われたら、ガックリ来ますよね。

昔の通知簿で言えば、「普通」というのは5段階のうちの「3」ですもんね。「良くも悪くもない」という程度ですわ。

ま、そんなことで、連続テレビ小説「半分、青い」の話から、また例によって脱線してしまいました。

今日の話は面白かったでしょうか? はぁ? フツーですか? な~るほどね。もしそうなら、フツーにうれしいです(笑)。

 

 

 

 

 

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世界卓球女子 「コリア」 を破る

2018年05月05日 | スポーツの話題

いやぁ、昨日はテレビの前で興奮しましたね~。スウェーデンで行われている世界卓球の女子、日本対コリア。

しかし「コリア」って何なんだ。韓国と北朝鮮が、準々決勝で対戦するはずだったのが、その試合の冒頭で、突然「合同チームにします」ということで戦わずして準決勝に進出。こんな勝手なことを世界卓球連盟もよく認めたものだ。連盟の会長は「異例ですが、これは平和へのサインです」と得意顔で述べたようだけれど、それとこれとは別だろ。しかも大会が行われている最中に、だ。明らかにルール違反である。何が「平和」なんだ。それよりも、世界卓球大会の「平和」を乱しているじゃないか。バカめ。

と、ちょっと言葉が悪くなりましたが、実際の話、大会の最中にいきなり「合同チームにします」なんてことが通るってのは信じられない話です。

その「コリア」と対戦するのが日本なんだから、これはもう、試合が始まる前から「絶対に負けたらアカン。勝ってくれ~」と思いますよね。

そんな気合の入った試合が、昨日の午後7時から始まりました。裏番組ではプロ野球・巨人対横浜ベイスターズの試合があり、0対0の緊張が続いて、巨人ファンの僕は菅野の力投に魅せられていましたが、7時からは卓球を見なければならないので、テレビのチャンネルを変えました。

その日本対コリアの女子団体戦。最初に出てきたのが伊藤美誠選手でした。前日のウクライナ戦で彼女は苦戦しながらも粘り勝ちしました。この伊藤美誠ちゃんは、以前のブログにも書いたけれど、大阪の「関西卓球アカデミー」というところに所属していて、そのコーチというのが、高校時代の恩師で、僕の結婚式の司会までしてくれた大内という先生だった。そんな縁の深い選手なんです。

その伊藤が、昨日とはまるで違った一方的な試合で相手の韓国の選手を3対0で破り、次に登場したのが石川佳純選手。この選手も、かつてはわが街藤井寺市のすぐ隣の羽曳野市にある中学・高校に在籍して活躍、まあ、言わば僕らにとっては地元の人です。

その石川佳純ちゃんの相手は、2年前のリオ五輪で敗れている北朝鮮の選手でした。今度は絶対に勝ってほしい! 試合は一進一退の激戦となり、2対2のあと最終の第5ゲームまでもつれ込んだ時は、もうテレビの前で「佳純ちゃん、がんばって~」と大声をあげて応援していた僕でした。

相手が何度かマッチポイントを迎えたので「あぁ、もうダメか」と何度思ったことだろう。その都度、佳純ちゃんは劣勢を跳ね返し、14対14まで粘り続けた。そしてそのあと、2つを連取して16対14で劇的な勝利をつかんだのでした。

わ~い。やったぞ~。パチパチパチ。

最近、テレビのスポーツ放送を見て、これほど胸が騒いだことはありません。

そして最後に出てきた平野美宇ちゃんは、韓国の選手を相手に安定した戦いぶりで、3対1で快勝し、日本は「コリア」にストレート勝ちするという最高の結果となりました。

あぁ、勝ててよかったなぁ。今日は夜に中国との決勝戦があります。優勝してほしい気持ちはもちろん強いですけど、昨日勝ったことが何より嬉しかったので、今日は昨日ほど興奮はしないんじゃないか、と思ったりね~

な~んて言いながら、いざ試合が始まるとまた熱くなるんでしょうけど。

 

  

  

佳純ちゃん、よく頑張ってくれました。

 

 

★伊藤美誠ちゃんに関連したブログです 

伊藤美誠(みま)選手のコーチが“あの人”だったとは…

伊藤美誠選手のコーチ・大内先生からの贈り物

 


 

 

 

 

 

 

 

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直木賞作家・新橋遊吉さんって知ってます? 

2018年05月03日 | 思い出すこと

ちょうど1ヵ月ぐらい前のことです。新聞の訃報欄に「あの人」の名前が載っていました。えっ?「あの人」が亡くなられたの?と、その人にまつわる自分の学生時代のことを思い起こしたのでした。忘れられない人だったんですよね。

あれは僕が大学4年生のとき。

梅田にあったサンケイスポーツ社の報道部で、夕方から深夜にかけてのアルバイトをしていました。プロ野球の関西の各球場で取材している記者たちが、社の報道部に電話をかけてくるのですが、その電話を、待機している僕たち学生アルバイトが受け、記者が試合経過や結果を伝えて来るのを電話で聞き取り、原稿用紙に書き込んでいくという仕事でした。受話器を持ちながら、かなり手早く書き取らなければならないし、字の間違いにも注意しなければならない。何度も聞き返したり、モタモタしていると記者から怒鳴られたりする。今は電子機器で送信されてくるので、電話で原稿を書き取るなんていう原始的なことはやりませんが、何しろ時代は今から48年前、1970(昭和45)年のことですからね~。メディアの世界も、まだ電子化されていない時代でした。

僕たちが電話で聞き取って書いた原稿は、主任さんが目を通して加筆修正し、それが印刷に回され、新聞記事になる。そうして出来上がったサンケイスポーツ紙を見て、僕たちアルバイト仲間は、野球記事のあちこちの部分を指さして「あ、これはオレが書き取った部分や」な~んて言い合ったものでした。

さて、そのサンケイスポーツの競馬欄には、競馬通で有名だったある作家がコラムを連載していました。ま、コラムというよりもレースの予想だったでしょうかね。そのタイトルが、

「遊吉の一発勝負!」

というものでした。毎週、競馬がある土・日曜日に記事が掲載されていました。

その作家というのは、新橋遊吉という人でした。少し前に「八百長」という競馬小説で直木賞を受賞した人で、僕も本好きだったので名前はよく知っていました。その新橋遊吉さんが、僕らのすぐそばに来て、主任や編集部の人たちと話している姿に「わっ、直木賞作家がすぐそこにいる」と、かなりコーフンしたものです。

ツノダさんという僕を可愛がってくれていた主任の方がいたのですが、僕が「あの人、新橋遊吉さんですよね。すご~い!」と憧れの念を漂わせていると、ツノダさんは「仕事が終わったあと時々2人で飲みに行くんだよ。次に行くときは一緒にどうや?」と言ってくれました。「ホントですか。やったぁ!」と、僕は直木賞作家という雲の上の人と飲みに行けることに有頂天になりました。

そしてそれが実現したのはそれからほんの数日後で、午後11時前後、仕事もほぼ終わったあと、ツノダさんと新橋遊吉さんが例によっておしゃべりをした後、「じゃ、帰りにイッパイやりましょか」ということになり、ツノダさんが「お~い、一緒に行くか?」と僕に声をかけてくれたのです。

タクシーでどこかの居酒屋まで行き、そこで2人に交じって一緒にお酒を飲み、ツノダさんが「この子はあんたに憧れてるそうやで」と僕を紹介してくれました。「へぇ~。それは、ありがとうね」と、遊吉さんは、極めて庶民的で、僕みたいな学生に対してもやさしく接してくれる人でした。

その店にどれくらいの時間いたのかわかりませんが、さて帰ろうという時、ツノダさんが僕に、「〇〇クン、もう真夜中やから遊吉さんのところに泊めてもらいなさい」と言ったのです。「はぁ?」と僕はビックリ。サンケイスポーツ社からタクシー券をもらっているので、そこから家まで自分で帰ることはできたのですが、横でほろ酔い機嫌の遊吉さんが「いいよ。うちに泊まりなさい。汚い所やけど」と言ってくれたご好意に甘え、ツノダさんと別れて遊吉さんが止めたタクシーに乗り込み、遊吉さんのマンションに行きました。

遊吉さんは独り暮らしで、部屋は、やっぱり散らかっていて汚かったです(笑)。遊吉さんは僕に気を配ってくれのか「何か、食べるものはないかなぁ」と、冷蔵庫を開けて何かを取り出したのですが、それは賞味期限がとっくに過ぎているひからびた豚肉だったり、その他、食べられるようなものは皆目ありませんでした。ま、僕もお腹はすいていなかったので、畳の部屋で座布団を枕にそのままゴロンと横になり、すぐに寝てしまいました。

そして朝、遊吉さんはまた、「何か食べるものはないかなぁ」と冷蔵庫を開けたので僕も「いいです、いいです。もう帰りますから」と笑ってしまいました。

「ふ~む」と、ブツブツと何ごとかをつぶやきながら、遊吉さんはまだ半分、居眠っているような様子でした。

「じゃ、帰ります。ありがとうございました」と僕。
「あ、帰るの? そう? 気をつけて。帰りの道、わかる?」
なんだか子供みたいに思われていたようです(笑)。

直木賞作家の方の家に泊めてもらった、というのは、後にも先にもその1回だけです。行って、眠っただけですが、今から思えば貴重な経験でした。

僕はそのあとすっかりファンになり、遊吉さんの本を何冊も読んだのですが、さすがに時が経つにつれ、徐々に遊吉さんのことは記憶の底のほうに沈んで行きました。

それからもう50年近い歳月が過ぎました。

4月初旬の新聞に、新橋遊吉さんの訃報が小さく載っていたのを発見して驚き、その昔の記憶がみるみるうちに蘇ってきました。

訃報が報じられたのは4月ですが、実際に亡くなられたのは2月ということでした。「腎不全で死去。84歳」とありました。遊吉さんは僕より15歳年上だったんですね。

冷蔵庫からひからびた肉を出して「あれ、これはもうダメやな」と、つぶやいておられた遊吉さんのことを懐かしく思い出しながら、ご冥福を祈った次第です。

 

 

新橋遊吉さんのことは、ここに詳しく出ています。
よくもまぁ、これだけ競馬に関する小説を書けたなぁ、と感心しますわん。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%A9%8B%E9%81%8A%E5%90%89

 

 

 

 

 

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「平成」 もあと1年

2018年05月01日 | 日常のいろいろなこと

今日は平成30年5月1日です。

え?それがどないしたん? と言わないでください。来年の4月30日に平成が終わり、5月1日に新しい元号になるんですよね。

そんなことで、平成時代もあと1年となりました。
(その前に天皇陛下が亡くなったらどうなる?なんて考えてはいけません)

さて
昭和から平成に変ったのは、1989年(昭和64年)の1月8日でした。その前日の7日に昭和天皇がお亡くなりになったわけですね。それで翌日の8日に元号が平成に変わりました。

で、僕は1月9日が誕生日なので、元号が変わった翌日に誕生日を迎えたわけですが、それがちょうど40歳の誕生日という節目でした。思えば平成になった1月8日という日は、僕の30代最後の日だったことになります。

あれから来年でもう丸々30年になるんですねぇ。う~む。早いなぁ。

来年の5月1日に新しい元号に変わったときは、僕は70歳になっています。

つまり平成の時代は、僕が40歳から70歳までの30年間だったことになります。

昭和が「もう過ぎ去った時代」と言われて久しくなりますが、いつか平成時代も「昔やなぁ」と言われる時代が来るんでしょうね。(まだまだ先の話でしょうけど)。

ま、それはそれはともかく、来年の5月1日の新しい元号になるまではなんとか元気に過ごせて、このブログも続けていられたらいいなぁ、と思っています。最近、ちょっと体調がヘンな感じなので、わりにマジメにそんなことを考えたりしています。

ほんと、トシですねぇ~。ぐすん。

何せ「新しい時代」だった平成も、あと1年で終わりなんですからね。

 

 

 


 

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