僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

プチ禁酒の効果は?

2015年11月29日 | 心と体と健康と

昨日(28日)の土曜日の午後。
3人で出かけた大型商業施設のフードコートに、
お馴染みのケンタッキーフライドチキンの店があった。
そこに大きく「28日はニワトリの日」とあった。

こんな語呂合わせの日が、とても多いですね。

11月は「いい」と読めるので、11月22日は「いい夫婦の日」であったり、
26日は「いい風呂の日」であったり、今日29日は「いい肉の日」だったり。
…で、昨日の28日は「ニワトリの日」だったそうだ。

さて、午後のそのフードコートで…

妻とモミィは3時のおやつと称して目の前でケーキを食べていた。
僕は…といえば、静かに、飲み慣れないコーヒーをすすっていた。
いつもなら、ちょいと冷たい生ビールで喉を潤しているところだ。
しかし今は「プチ禁酒中」である。そういうわけにはいかない。

仕方なく、熱いコーヒーを、ちびりちびり飲んでいる。
「少し食べてみる?」
…と妻がケーキをフォークでひと口分僕に向けて差し出してくれたが、
「いえ、結構です」と、せっかくだったけれど丁寧にお断りした(笑)。

コーヒーはともかく、ケーキまで手を出す気には、まだならない。

しかし、不思議なことに、コーヒーが美味しかった。
それと、熱い日本茶もおいしく感じるようになった。

どんな時にも、ほとんどビールばかり飲んでいたので、
不思議な感覚である。“禁酒効果”というものだろうか?

 ………………………………………………………………………

禁酒といえば、4年前に2ヶ月間の禁酒をしたことがある。

その1ヶ月目に「禁酒生活1ヶ月レポート」という記事を書いた。

これを読むと、ほぼ忘れていた当時の様子がよみがえってくる。
特に、禁酒を始めたころの体調の変化は、大いに参考になる。

たとえば、禁酒直後は睡眠障害が強くなった…と書いているが、
今回も、眠りが浅くなって、昼にやたらと眠くなるのである。
まさか…それが禁酒と関係あるとは思っていなかったので、
4年前も同じ状態だったことを知り、そうか…とナットク。

4年前は他にも「頻尿」が起きたり突然気分が悪くなったりと、
禁酒後しばらくの間、さまざまな体調異変が起きたようである。
今回は、少し気分が悪くなることはあったものの、
4年前ほどの症状までには至っていない。

でもそんな悪いことより、もちろん、いいことのほうが多い。

4年前は、ゆるかったお腹の状態がよくなり、体重も減り、
禁酒によりできた時間を活用して、趣味の幅を増やしたり…
…という禁酒の効用についても、いろいろと書いている。

今回は禁酒からそれほどの日数は経たないけれど、
やはり体重が減り、少~しお腹がへっこんできた。

これは、考えてみたら当たり前の理屈である。

僕はビールを飲む分だけ食べる。
だから、缶ビール(500ミリ)を1本でやめておけば、
食べる量もそこでストップするのだけど、2本目を開けると、
ほとんど1本目と同じ量を、また食べてしまう…という始末。
これでは、いくら運動しても、ポッコリお腹はへこまない。

今はビールの代わりに、ノンアルコールを飲んでいる。
近頃のこの種の飲み物も進化してきて、ビール気分を味わえる。
それでもそんなに沢山飲めるわけでもなく、350ミリが1本だ。

飲む量と食べる量が比例するので、これで食べる量がガクンと減った。
食べる量が減ると、体重が減るのはごく自然な現象ですよね。
そして、ゆるみ気味だったお腹の調子も前回同様よくなった。
やはり禁酒効果は顕著に現れてきていると言っていいだろう。


さて、問題はこれからである。

明日、2ヶ月に1度の定期検査があり、いつもの血液検査に加え、
肝臓のエコーの検査がある。一応、これに備えての禁酒だった。

そして、その2日後の12月2日は、走る仲間たちとの忘年会がある。
これにはもちろん出るし、もちろん「飲むぞ~」の意欲満々である。

しかし、せっかくプチ禁酒には成功したのだから、
「元の木阿弥」にはしたくない。

今回、比較的楽に禁酒ができたのは、ノンアルコールのおかげである。
食べる量も、飲む量に合わせて「腹八分目」以下におさまっているし…
こうなると、徹底してお腹をへこませたいし、体重も減らしたい。

なるべくノンアルコールで自分の欲求をかわす日を増やすのがいいだろう。
自分の体の中から「これは何の飲み物やねん?」との声が出たら、
「これは、のんアルコール。つまり、のんのアルコールやでぇ~」
…と言い聞かせておくことにしますわ。


* 追伸

本日はウダウダ会の忘年会を兼ねた歩こう会の日です。
本来ならば当然、僕もこれに参加していたはずですが、
何しろ明日が検査日という日なので、涙を呑んで欠席です。

「歩こう会」とは言いながら、
この会は歩いた後の飲み会がお楽しみです。
(むろん僕もそれが目当てですけど)

特に今回は忘年会も兼ねて…ということですから、
飲むことの方にさらに重点が置かれているでしょうね。
「歩こう会」というより「あるこーる会」です。むふふ。

では、ウダウダ会のみなさん。
お気をつけて、行ってらっしゃ~い。

飲み過ぎないようにね。
(あんたに言われたら終わりやわ…との声)

 

 

 


   

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釈然としない 

2015年11月28日 | ニュース・時事

昨日、テレビを見ていたら、こんなニュース速報が画面の上に出た。

オウム真理教・菊池直子被告が無罪の判決

つまり…
1995年5月にオウム真理教が起こした東京都庁小包爆発事件に関わったとされる元信徒・菊地直子被告の控訴審判決で、東京高裁が、懲役5年とした一審・東京地裁の裁判員裁判判決を破棄して、逆転無罪を言い渡した…というニュースである。

このニュースを聞いて「なんでやねん」と思った人は多いはず。僕もその一人である。無罪の理由は、一口で言えば客観的証拠に乏しい、ということだった。


これは地下鉄サリン事件から2ヵ月後に起きた事件だった。当時の東京都知事は青島幸男で、その青島知事宛てに送られてきた小包を秘書課の職員が開けた際に爆発し、職員は両手の指の半分以上を失ったということである。

オウム真理教がらみの中でも最悪の事件となった地下鉄サリン事件は、3月20日の月曜日に起きた。たまたま僕は、その前日まで東京にいた。3月17日から19日まで、2泊3日で妻と2人で東京ディズニーランドへ行ったのだった。3日目の3月19日、銀座から地下鉄に乗ろうとしたら、階段の降り口で一人の男がカードのようなものを配っており、僕にも手渡した。何かと思って見れば、地下鉄の路線図だった。しかし、その路線図の裏には、

間もなく日本に、大震災以上の大きな災いが訪れるであろう…

という意味の文が書かれていた。「大震災」というのは、その2ヶ月前である1月に起きた阪神淡路大震災のことである。「変な路線図だな」と思いながら、大阪へ帰った。そして翌日、出勤した職場で、地下鉄サリン事件の衝撃のニュースを見たのだ。

翌21日。春分の日で仕事が休みだったので、家でずっとテレビを見ていた。当然ながら、どのチャンネルも前日の事件を流し続けていた。

その中のひとつを見て、驚いた。あるワイドショーのレポーターが「オウム真理教はその前日、このようなものを銀座で配っていました」と、僕がもらったのと同じ地下鉄路線図をテレビカメラに向けていた。「あ、これと一緒や」と、僕はバッグに入れていた路線図を取り出して、背筋が寒くなった。こんなことがあったので地下鉄サリン事件のことはよく覚えているし、小包爆発事件の時も「またオウムか。警察は何してるんだ」と腹立たしく思ったものだった。

菊地直子被告も、小包事件だけではなく、これら一連のオウム事件に何らかの形で関わっていることは十分に考えられる。そして、小包事件があってから17年間も逃亡生活を送っているのである。何もしていないのに逃げるか…?

「何もしていないけど疑われているから逃亡していた」というわけ? それは…あまり説得力がないように思うのだけれど。

それと、昨日の判決の背景にはこんなことも考えられる。つまりオウム真理教の事件がだんだん風化してきて「オウムを絶滅しろ」という根強かった世論が、最近はゆるんできている。なにしろ20年も昔のことだから…。

そういう、かつての世論の後押しというものがなくなってきたことも、この判決に、微妙に影響しているのかも知れない(情緒的な感想ですが)。

しかし今回は無罪判決だったけれど検察はきっと上告するだろうから、最終の判決は最高裁まで持ち越されるはずである。


それにしても、オウムの元凶・麻原死刑囚は、まだ死刑が執行されていない。もう20年間も飯を食わしてもらって生き延びているのである。その理由は、平田信やこの菊地直子らの共犯者の公判が続いており、事件の全容が明らかになっていないから…ということのようだが、まったく釈然としない。死刑判決は確定しているのだから。

むろん、今回の判決も釈然としない。このオウム事件のその後の推移に関しては、釈然としないことだらけである。

 

 

 

 

 

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運転経歴証明書とマイナンバー

2015年11月26日 | 日常のいろいろなこと

先日、このブログで、警察署に行って運転免許証を自主返納し、
その代わりに「運転経歴証明書」をもらう手続きをした…
…ということを書きました。(「運転免許証を自主返納」


そして先週、その「運転経歴証明書」というのをもらってきました。

こういうモンですわ ↓

 
  
無愛想な顔をしていますが
  これはこの証明書用の顔で、
  普段はもっとニヤけてます。


前回のブログにも書きましたが、
家で撮影して切り抜いたこの写真を持参したら、警察の人が、
「少~しだけ顔が左に寄っているようですね~」ということで、
「他に写真はありませんか?」と言われてしまいました。
「ありませんけど、これで行けるんちゃいますのん?」
と言うと「そうですね。じゃ、これで行きましょうか」
とあっさりOK。…というような経緯がありました。
ところで、これ、左に寄ってますか…?

写真は、顔がピッタリ真ん中に来なければならない…
とのことでしたが、これくらいなら分からないでしょ。

これで免許証と同等の身分証明書が、無事にできました。


ところで、話は「マイナンバー」のことに変わりますが、
わが家へは、23日の祝日にそれが簡易書留で届きました。
大阪府はマイナンバーの届くのがかなり遅れていたので、
あぁ、ようやく届いたか…という感じでした。

封筒の中には「通知カード」と「個人番号カード交付申請書」があり、
申請したら「個人番号カード」というのが交付されるそうです。

個人番号カードは、本人の申請により交付され、
それは個人番号を証明する書類や本人確認の際の
公的な身分証明書としても利用できるうえ、他にも、
いろいろな行政サービスを受けられるICカードだとのこと。

この個人番号カードの見本をネットで確認したのですが、
このようなカードでした。
 

こう見ると、公的な身分証明書ともして利用できる…
という点で「運転経歴証明書」とダブっていますよね。
ちょっとガクっときましたが、ま、あくまでも別物だからいいか。

いずれにしても「個人番号カード」も申請しようと思っています。

で、これにもまた、チェックの厳しい顔写真がいるのですよね~
最近6ヶ月以内に撮影したもので正面、無帽、無背景のもの…
運転免許証や経歴証明書、パスポートなどと同じですね。
さらに、顔が右か左かに寄っていてもいけません(笑)

     
      
これがOKで…

 

 
  
こんなのがダメ(まぁ、わかりきってますけど)

本当は笑顔でVサインでも出した写真を載せたいんですけどね~

 

なお、「個人番号カード」についてはここに詳しく載っています。

https://www.kojinbango-card.go.jp/kofushinse/

 

これまで、あまりピンと来なかったマイナンバー制度でしたが、
これを機会に、少~しだけでも勉強しておこうと思っています。

 

 

 

 

 

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ダブル選 維新圧勝の理由は

2015年11月24日 | ニュース・時事

ダブル選 維新圧勝 大阪都構想 再挑戦へ

…というのが、昨日のある新聞の一面の見出しでした。

知事選は予想どおり現職の松井が圧勝し、
大阪市長選は新人の吉村が予想以上の差で勝った。
別に逸材とも思えない松井知事がこれだけ票を伸ばし、
知名度のない吉村氏が有力対抗馬に大きな差をつけた…
これはどうみても、橋下人気のおかげでしょう。

でも、その橋下が声高に叫んだ大阪都構想は、
今年5月に行われた住民投票で、僅差とはいえ否決されました。
つまり橋下維新が過半数の支持を得られなかったということでしょ?

なのにねぇ。なんでこの選挙で維新が圧勝するわけ?

と、思って、僕は自分でいろいろ考えてみましたが…

やはりこれは、都構想というものが実現すると、住民にとって、
いろいろと周辺のものが変わる…ということが気になるわけで。

で、変わる変わると言っても、具体的にどう変わるのか…? 
そして、大阪市というものがなくなるのも、なんだかねぇ

「大阪都になったら、いったいどうなるんや?」とか
「今までより、ほんまに良うなるかどうかわからんで」
…という疑問もあり、何よりも都構想がどういうものか、
実際にはよくわからないという人が今も多いと思うんです。
(僕もそのうちの一人ですけどね)

現実に何かが大きく変わるということにためらう人は多い。
5月の住民投票で、反対票が賛成票を上回ったのは、
「橋下はんはええけど、どう変わるのか、ちょっと心配」
という懸念が反映されたものではないかと思うのです。
まあ、橋下の威勢のよさに尻込みした、とも言えます。

また、あの時は自民や共産などが不安感を煽りましたからね~
で、結果、住民投票では否決ということになりました。

だけど、今回の選挙では維新が圧勝しました。

これはありていに言えば、この選挙は5月の住民投票と違い、
維新が勝っても、いきなり何かが変わるということではない。
大阪都構想に再挑戦…と言っても、まだまだ先のことである。
そのうち、大阪都になると何がどう変わるのか、
詳しいこともわかるようになってくるだろう…

ということから…
今度は、安心して維新に投票できる…と思ったのではないでしょうか。

まぁ、いい加減な分析ですけれど、
何だかそういうこともあったのでは、という気がします。


それにしても、投票が締め切られた午後8時ピッタリに、
テレビに「当選確実」の字幕が流れたのは、驚きます。
(まぁ、これも最近は毎度のことですが…)

票はまだ投票箱の中に眠ったままで、自治体職員たちは、
各投票所から、票を開票場所に運んで行こうという時。

そのあと集計がされ、開票事務が始まるのですが…

それよりはるかに先に当選確実が発表されるのですから、
開票する人たちも、ゼンゼンやり甲斐がありませんよね。

 

 

 

 

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きょう 大阪ダブル選挙

2015年11月22日 | ニュース・時事

きょう、大阪府知事と大阪市長の「ダブル選」が行われる。

とは言え、僕が住んでいるのは大阪府藤井寺市だから、
知事選の投票をするだけで、大阪市長選は関係がない。
大阪市民だけ「ダブル選」で、僕らは「シングル戦」だ。

しかし今回の争点は、知事選・市長選をひっくるめて、
5月の住民投票で廃案になった「大阪都構想」である。

新聞によると、選挙戦最終日の昨日も、
「都構想賛成派と反対派が激しい論戦を繰り広げた」そうだ。


5月の住民投票は大阪市民だけを対象としたものなので、
僕たち府下各市の住民の声はゼンゼン反映されていない。

そんなことで、大阪維新の会は、今回の大阪府知事選で、
大阪市民だけでなく大阪府民全体に都構想の是非を問う…
そういう姿勢で臨み、結果によって再挑戦を狙っている。

そしてその大阪府知事選で現職の松井一郎が勝ち、
また大阪市長選も、維新の会の新人候補が勝てば、
再び大阪府都構想案が議論されることだろう。

こうした流れを批判する自民党はじめアンチ維新陣営は、
街のあちこちに、こんな感じのポスターを貼っている。

「大阪都構想 → 二度づけ禁止!」

二度づけ…とは、通天閣周辺の「新世界」の名物の串カツ屋で、
お客さんたち共用のソースがあり、ここに二度漬けてはダメ…
ということで「ソースに漬けるのは一度だけ」のマナーである。

それにひっかけて、半年前に住民投票で否決されたものを、
また「もう一度、大阪都構想を問う」という維新の姿勢を、
「二度づけ禁止!」と非難しているポスターなのである。

選挙ポスターにしては、なかなか面白いなぁと感心した。

大阪では自民党から共産党まで、どうやらアンチ維新みたいだ。
それでも維新の会は大阪では強い。やはり橋下人気は衰えない。

今日の選挙も、今夜に開票されるけれど、
府知事選は、維新の現職・松井が勝つような雰囲気である。

問題は大阪市長選だが、こっちのほうは激戦と言われている。
40歳の維新の新人候補と、41歳の自民党前大阪市議の戦いだ。
どっちが勝つのだろうか…? やはり、維新のほうが強いか…
自分が投票する選挙より、しないほうの結果が大いに気になる。


ところで…

先日モミィが学校から走って帰ってきて、ランドセルを背負ったまま、
「そこに『二度づけ禁止』ってポスターがあったけど、何のこと?」
と、ハァハァ息を切らせながら僕に聞いた。

「それはね、こういうことや」と、モミィにわかるように…

「新世界のお店で、串カツを二度つけてはダメなのにぃ、
維新の会は一度結果が出たのにまたやろうとするからぁ、
それは串カツの二度づけとおんなじでぇ、あかんやろ~」
…というイミである、と説明してやったら、

「わぁ、その新世界に連れて行ってぇ。串カツ食べた~い」
とモミィは叫んだ。
おいおい、話の意味、わかってへんがな。


さて今、午前7時半だ。すでに投票は7時から始まっている。

今日は昼前に次男の子ケイ(6)がママに連れられて遊びに来る。
お昼ごはんを一緒に食べて、モミィはそのまま泊まりに行く。
2人は大の仲良しで、お互いこの2日間を楽しみにしている。

ケイたちが来る前に、投票だけは済ませておこう。


ではでは、僕たち大阪府民は、今夜の開票速報に注目します。

 

 

 

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あの北の湖が…

2015年11月21日 | スポーツの話題

昨日の夜9時からのNHKニュースを見ていたら、
「大相撲の北の湖理事長が死去されました」と流れた。

その前に見た夕方6時台のニュースでは、
北の湖理事長が貧血で救急車で搬送された
…と報じられたばかりなので、
まぁ貧血ということなら…と思っていたところ、
いきなり、亡くなられたと聞いて驚いた。

北の湖は昭和28年生まれで、僕より4歳年下である。
すでに今朝からいろいろと報じられているように、
この人の現役時代の強さといったら、
それはもう憎たらしいぐらい強かった。
いや、憎たらしいぐらい…ではなく、憎たらしいそのもので、
うちの母親などは「北の湖は大嫌い」と言っていたほどである。

なぜなのか…と言えば、単に強かっただけでなく、
体が大きい上にふてぶてしい表情、そして相撲も、
相手を押し出した後も土俵下に突き落としたり、
その相手に手を貸さずさっさと勝ち名乗りを受けに戻る…
…という態度などが嫌われる理由だった。

今の相撲界では大関稀勢の里が、体つきや風貌が似ているが、
とてもじゃないが、強さでは北の湖とは比べものにならない。

もし、今のようにモンゴル勢が優勝を独占している時代に、
北の湖がいれば、どんな顔つき、どんな相撲であろうが、
大人気の力士になっていたに違いない。

でも、当時は外国人力士と言えばハワイ出身の高見山以外になく、
まわりには、宿敵と言われた人気力士輪島や、
それ以上の人気力士貴ノ花らがいたので、
北の湖は常に悪役として見られていた。

ある時、大関貴ノ花と北の湖が優勝決定戦で争い、
貴ノ花が勝って初優勝を決めたことがある。その時、
日本中が歓喜に湧いた…と言っても大げさではない。
今から思うと、北の湖には気の毒な話だが、
僕も大喜びをしたのを覚えている。

そういえば、子どもの好きなものの代名詞として…
「巨人・大鵬・玉子焼き」というのがあったけれど、
これにひっかけて、子どもの嫌いなものとして…
「江川・ピーマン・北の湖」と言われた時代があった。

江川の場合は強引に巨人入りしたことで
「ゴリ押し」の代名詞となったわけだけれど、
北の湖とピーマンは、何の罪もないのにここに入れられたわけで、
まぁ北の湖ご本人も「なんでやねん?」の心境だったでしょうね。
(ピーマンもさぞ迷惑だったでしょう)

しかし、裏を返せば、それほどまでに強かったということでもある。


昭和の大横綱と言われた北の湖が亡くなったことで、
大相撲も、ますます日本人力士像の影が薄れていくような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

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最悪! 野球・日本対韓国 

2015年11月20日 | スポーツの話題

   ~ 激おこ ぷんぷん丸 ~ 

 
こんな結末って、あっていいのか?

「まさかの逆転負け」「悪夢の最終回」なんて言葉、
今日はいっさい、目にしたくない。耳にしたくない!

それにしても何なのだ、あの最終回の逆転のされ方は。

あぁ、もう悔しい。残念。


野球の世界一を決める第1回「プレミアム12」

日本は予選を見事に勝ち抜き、準決勝まで進出した。
それまでの勝負強さは他国を圧倒していた。
韓国にも、予選で5対0と文句のない勝利。

そして、昨日の準決勝で、再び韓国を相手に、
予選同様、大谷が出てきて6回までノーヒットに抑えた。
その間、日本は打線が湿り気味だったが、4回の裏、
相手の下手くそな守備もあって、3点をもぎ取った。

そのあとは…
大谷が韓国打線をバッタバッタとなぎ倒し、
韓国は7回にようやく初安打が出たが、そこも生かせず、
8回には大谷に代わって出て来た則本が完璧に三者凡退に抑えた。

8回を終了し、韓国は1安打のみで、ニ塁ベースすら踏めなかった。

もう、日本中が日本の勝利を信じていただろう、
テレビ解説者も、
「決勝戦は誰を先発に持って来るでしょうね」な~んて言っていた。

そして、問題の9回を迎えた。

先ほどの則本の投球を見たら、3点をひっくり返されるなんて、
とても考えられなかった。あとは、試合終了の瞬間を待つばかり…

あぁ…それなのに、それなのに。
韓国は8番からの下位打線から始まったというのに…

先頭打者として出て来た代打に簡単にヒットを打たれ、
次にまた代打に出て来た選手にセンター前にはじき返され、
次の1番バッターには三塁線を抜かれて1点を取られてしまった。
8回まで1本しかヒットのなかった韓国打線が、3連続安打を放った。

解説が「キャッチャー嶋のリードがおかしいのでは」と言っていた。
つまり、どの打者にも同じ様な配球を要求したと言うのだ。
しかしまあ、そんなことはこっちにはわからない話だ。
それより、この韓国の豹変ぶりはいったい、何なんだ!

ノーアウト2、3塁だから、一打同点の大チャンスである。

そして…
続く2番バッターにはなんと死球を与え、無死満塁となった。
日本はまだ2点リードしているが、韓国ベンチはお祭り騒ぎ。

則本がマウンドから去り、次に出て来た松井が四球…で押し出し。
これで韓国はあと1点差に迫った。まだノーアウト満塁である。
まともに見ていられないシーンである。

また別の投手(増井)が出てきて、今度は4番打者に2点打を浴びた。
これで、あっというまに4対3。まさか?まさか?の逆転劇である。

ぷっつんとキレてしまった僕は、そこでテレビを消して、寝た。


結局日本は、大谷の見事なピッチングだけが目立った試合であった。

日本の打線が不振だったのが痛かった。
何度も追加点のチャンスがあったのに、

「ここで1本出れば決まり」というところでことごとく凡打。
3番山田、4番筒香、5番中田、6番松田らがチャンスに打てない。
7回にはノーアウト1、2塁というチャンスに4~6番打者が不発。

日本は韓国同様の6安打だったが、7番中村、8番平田が2本ずつ。
そして9番の嶋が1本…と下位打線にしかヒットが出ていなかった。
最後に9回裏二死から中田がヒットを打ったようだが、焼け石に水だ。

打線がモタモタしていたことが、9回の「悪夢」を招く伏線となった。

結果が出たから言うわけじゃないが、昨日の試合は、
リードしていても、日本の打線はダメダメ打線だった。
こんなことでは、ひょっとして最後に逆転されるかも…
…という悪い予感がした人も、中にはいただろうと思う。

この試合では、日本の2連打は4回の一度だけである。
あとはヒットが続くということは全くなかった。

繰り返すが、安打数は両チームとも「6」だった。
しかし韓国は、8回までわずか1安打だったのに、

9回に安打、安打、安打、死球、四球、安打…と、
ノーアウトのまま四死球を挟み4安打を連発したのだ。
日本は3回以外、打線がつながらず、何度も好機を逃した。

この差が、こんな逆転負けを喫することにつながったのだ。
素晴らしい投球を見せた大谷が報われず、とても気の毒である。

まったくもう、何とも言いようのない悔しい試合内容であった。

それも…よりによって韓国を相手に、こんな負け方をするなんて…。
7時からテレビでずっと応援していた人たちも、めちゃ悔しいだろう。

韓国は、昨日の試合のことを、今後少なくとも10~20年は、
野球の世界大会がある度に「歴史に残る奇跡の逆転勝利」として、
何度も何度もこの9回表の攻撃を語り継ぎ、映像を流すのだろう。

「東京ドームの奇跡」などという題名をつけてね。やれやれ…

もう、情けないやら腹立たしいやら…。

きょうは朝から「激おこぷんぷん丸」の僕なのである   

 

参考までに、激おこぷんぷん丸とは… ↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%80%E3%81%8A%E3%81%93%E3%81%B7%E3%82%93%E3%81%B7%E3%82%93%E4%B8%B8

 

この悔しさを紛らわすため(?)に、2009年のWBCの決勝戦、
日本対韓国の試合のことを書いたブログを引っ張り出しました。
イチローの決勝打で日本が優勝した時の記事です。
僕が仕事を退職する直前に行われた大会でした。

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/85ebc2bac2da13cb62e3f2dff6006171

これでも読んで、せめてもの慰めとしますわ(慰めになりませんか?)

ちなみに、このブログの中で、こんな文章を書いています。

とにかく韓国を破って優勝を決めたことはサイコーである。
これで、大会中のいろんな不満もすべて帳消しだ。
「終わりよければすべてよし」とはよく言ったものだ。

…と。

今回の大会は、これと全く逆でした。
この試合までは、素晴らしい戦いぶりだった日本。
最後の最後に、こんな信じられない逆転劇で敗退した。
「終わりよければすべてよし」の正反対となったわけで… 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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N からの電話

2015年11月18日 | 思い出すこと

昨晩、学生時代からの友人のNから電話がかかってきた。
最近は長い間会っていないし、電話も1年ぶりぐらいである。

Nは「今日、喪中のはがきが届いたけど…」と切り出し、
「お母さん、亡くなられたんやね。…それはどうも」
…と、弔意を表してくれた。


Nとは大学入学時にオリエンテーションを受けているとき、
たまたま僕の前に座っており、それがきっかけで交友が始まった。
よくわが家に遊びに来ていたので、うちの母もNをよく知っていた。

僕が結婚しても、Nはわが新婚家庭へ邪魔をしに来た(笑)。
お酒を飲んでわいわい騒ぎ、そのまま泊まっていく時もあった。
(酒飲み2人の相手をしてくれた妻には苦労をかけました)

僕が結婚した時、Nは披露宴で友人代表スピーチをしてくれた。
その数年後、今度は彼の結婚披露宴の時に、僕は司会をした。

それから、今度は家族ぐるみの付き合いが始まり、
定期的にお互いの家を訪問し合い、お酒を交わし合った。
Nも、彼の奥さんも、うちの息子たちを可愛がってくれた。
やがてN夫妻にも女の子が誕生し、遊びに行くと喜んでくれた。

それから20数年が経ち、その女の子(A子ちゃん)が結婚した。
その結婚披露宴の席で、僕は来賓の祝辞を仰せつかった。

Nの結婚披露宴の司会をしたのがついこの間のことのようで、
20数年の年月の流れる早さには、驚くばかりだった。

そのA子ちゃんから、今でも毎年年賀状が来るのだけれど、
今年は息子さんたちの、柔道着姿の勇ましい姿が写っていた。
(来年のお正月、年賀状をもらえないのは寂しいなぁ)


「A子ちゃんや、孫さんたちも、元気そうやねえ」と、
Nとの久しぶりの電話での会話で、まずその話をした。

それから、お互いの日常生活について近況報告をし合った。
そして、Nは「そろそろ身辺整理もしなければなぁ」と言った。

なるほど、身辺整理かぁ…。
実は僕も、それが今かかえている課題なのだ。

僕自身も、山ほどある写真や、ずっと書いてきた日記類や、
読書ノート、昔々の自転車旅行記やマラソン日記、
それに、妻との海外旅行を写真と文章でまとめた旅行記など…

中には、僕が北海道自転車旅行中に妻に出した手紙などもある。
20歳の時に、今の妻に当てた手紙をざっと読み返すと、
顔から火が出るほど恥ずかしい。

大阪へ帰り、結婚するまでの間も、僕は妻に手紙を書き続けた。
それを妻がファイルに綴じていて、結婚後、僕に見せた。
だから、そういうものもわが家にあるわけだ。


そういう思い出深い物が、人にはいろいろとあるんですよね。
でもそれらは、いつかは整理しなければならない。

Nが「身辺整理をしなければなぁ」というのも、よくわかる話だ。

ただ、僕は何でも書くことが好きなので手紙や日記が多くある。
でも、Nはそれほど日記を書いたりしていた様子はない。

「身辺整理って、どんなものがあるの?」と僕は尋ねた。
「そうやなぁ、写真とか…他にもいろいろとねぇ…」
…とNは何やら考えながら話を続けるのだが、
突然、こんなことを言ったのである。

「あんたからの手紙も、沢山あるねん」

はぁ? 僕がNに送った手紙が沢山あるって…?
またそれを、今の今まで手元に置いていたわけ…?

「ホンマかいな。いつそんな沢山の手紙を送ったんや」と僕。
「何言うてるねん? 大学の時からず~っとや」と彼は続ける。
「旅行先からの手紙やら海外からのハガキやら、
 その外も何やらかんやらと…いっぱいあるで」

僕はそれを受けて、
「あのなぁ、なんでそんなもん、残してるねん。
 さっさと捨てたらええがな。もっと大事なもんのこと考えや」
と、伝えたことは言うまでもない。

「捨てるのもなぁ…」とまだNはブツブツつぶやくように、
「なんか悪いような気がして」と言いながら、
「これ、全部あんたに返そか?」なんて言い出した。

「いらんわ」

もちろん、断った。いらんいらん。そんなもん。
「身辺整理」の話が、とんでもない話に発展した。


…まあ、昨晩は、そんな会話を交わしながらの長電話だった。

Nよ。改めて言います。僕の手紙など、さっさと捨ててください。

と言っても…

パソコン嫌いのNは、このブログの存在も知らないしなぁ。

 

 

 

 

 

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喪中につき…

2015年11月17日 | 日常のいろいろなこと

先週だったか、1通の喪中はがきが届いた。

もう、そんな時期に入ってきたんだ。

僕のところも、今年の5月、母が88歳で亡くなった。

今回は年賀状ではなく、喪中のはがきを出さなくてはならない。

11月も後半に入ったらそろそろ出そうと思っていたので、
少し早いかなぁと思いながらも、出すことにした。


うちは、13年前に父親が亡くなっている。
その時は、どんな喪中のはがきを出したのだろう…
と、何か残っていないか探してみたが、どこにも見当たらない。
というより、喪中はがき自体、出した記憶がまったくないのだ。

なぜだろう…とよく考えてみたら、父親が亡くなったのは、
12月30日の朝で、その夜にお通夜、翌日に告別式を行った。
つまり大晦日がお葬式だったので、喪中はがきどころではない。
すでに年賀状を出し終わっていたわけだから…。

ということで、その喪中はがきをパソコンで作成することにした。

ネットで調べると、喪中はがき用の背景の透かし絵がいくつもあった。
そのうち一つを選び、それをワードへ貼り付け、自分で文章を打った。

あとは枚数分だけプリントして、喪中はがきは出来上がった。
宛名を印刷するのも含めると、丸々1日がかりの仕事だった。

そして11月も後半となった昨日の16日の夕方に、投函した。
今日か明日ぐらいに、それぞれのご家庭に届くことだろう。


新年の年賀状を出せないのは正直言って寂しいけれど、
これだけは、仕方のないことですものね。

 

 

 

 

 

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2週間 プチ禁酒宣言

2015年11月16日 | 心と体と健康と

アルハラというのがあるそうだ。

セクハラ、パワハラ、マタハラと同じハラスメントで、
アルハラと言うのはアルコールハラスメントのことである。
どういうことかというと…

宴席で、無理に「飲め飲め、さあ飲め」
と酒を勧めて強制的に飲ませることをいう。
それで急性アルコール中毒になる人もいるので、
お酒が好きでない人に無理矢理勧めるのはよくない。

ちなみに僕はこれまで生きてきた人生で、
アルハラというものを受けたことがない。
たまには受けてみたい気はするのだが…

とは言ってもお酒の飲みすぎはいけません(どの口で言っているのだ)。

僕は、お酒を多めに飲むと心房細動が起きる確率がかなり高くなる。
それには、医師も、
「心房細動には、寝不足、ストレス、不安、疲れ、アルコールなど
いろいろな原因がありますが、あなたの場合はわかりやすい体ですね」
と褒めてくれるのだ(笑)

その心房細動による脳梗塞を防ぐための血液サラサラ薬である
ワーファリンを、毎日服用しているので、それが効き過ぎると
出血しやすくなって薬の数を減らさなければならないし、
(今は3,5錠服用しています)、
効いていないと効果がないので薬を増やさなければならないので、
2ヶ月に1度、血液検査を受けて薬の効き具合を診てもらうのだが、
同時に、かつて罹っていた糖尿病や尿酸値の数値や、他にも中性脂肪、
コレステロール、肝臓の数値なども併せて調べてもらっている。

特に問題なのが肝臓の数値である。

中でもガンマGTPというのは、酒による肝臓のダメージ度なので、
毎回注目している。いつも、普通の人より数値は高いのだが、
何年か前、2ヶ月禁酒したらまったく基準範囲内まで下がった。

ちなみに僕は40代の頃から人間ドックで「脂肪肝」と言われ続けてきた。
あまり気にしていなかったが、前回、いつもの病院での検査・診察のとき、
話の流れの中で、
「以前に脂肪肝だと言われたんですけど」と医師に伝えると、
「じゃあ、次回は肝臓のエコー検査もしましょうか」と言ってくれた。

退職してから一度もエコー検査をしていないので、これはチャンスである。
「ぜひお願いします」と喜んでお願いした。

「アルコールは控えめにしてくださいね」と言いながら、医師は笑っていた。

笑うということは、深刻ではないということだ。
アルコールを飲むな…ということではない。
「控えめに」ということは飲んでもいいということだ。
つまり「禁酒しなさい」ではない。(くどいなぁ)。

しかしねぇ、いくら自分に都合のいい理屈を並べても、
やはり自分の体のことである。せめて節酒はしなければ…
…と思いながら毎日が過ぎて行っ
た(節酒もしないままに)

先の検査・診察日は9月末だった。
次の検査はそれから2ヵ月後の11月31日だ。
これまで、ためしに何度か禁酒をしようと思い、
ちょっとやってみたのだが、すぐにまた飲んでしまう。
でもあっという間に日が経ち、検査日まであと2週間に迫ってきた。

「2週間禁酒したら肝臓はかなり回復しますよ」
と以前、酒飲みの友達が言っていたことが思い出される。

そ~か。あと2週間か。
わずか2週間…ともいえるが、禁酒の2週間ほど長いものはない。
でもこの機会に少しでも肝臓をいたわってやらなければならない。

でも、ここはひとつ、がんばってみよう。

このブログに書くことで、きっと守れると信じている。
「禁酒に失敗」したらここで「懺悔」することを誓います(笑)。

しかしまぁ少々大げさなこの話ですが…
お酒を飲まない人には、さっぱり理解できないでしょうね。

 

……と、今これを書き終えてパソコンを閉じようとしたら、
ジンさんが早々にコメントをくださっていました。

11月に31日はありませんが…とのご指摘。
あわわ。ほんまですね。30日の間違いでした。

アルコール性肝障害を心配するよりも、

アルコール性脳障害を心配したほうがよさそうです。

ジンさん、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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恐怖の パリ同時多発テロ

2015年11月15日 | 旅行

パリで、身の毛もよだつ恐ろしい事件が起きた。

コンサートホールやサッカー場などで「同時多発テロ事件」が起きて120人以上の人たちが死亡したという。パリはかつて「花の都」ではなかったのか。今年1月にもイスラムを風刺した新聞社などをイスラム過激派が襲撃した事件があったばかり。今回、またもイスラム過激派→「イスラム国」による犯行であると見られている。もう「花の都」や「文化・芸術の華やかな街」のイメージは影が薄れ、テロ集団が跳梁跋扈する危うい都市となりつつある。


初めてパリへ行った時(1994年)の印象は、大方の人がそうであるように、言葉で表せないほど素晴らしいものだった。その時は、大阪府内の自治体職員の合同研修会でヨーロッパを訪れたのだったが、こんなに見所が多くエレガントな街は見たことがなかった。ぜひ妻にも見せてあげたい…と思い、翌年の10月、2人でパリへ個人旅行をした。しかし、今になって思えば、当時からパリはイスラム過激派に脅かされており、決して安全な街ではなかったのである。

僕たちが行く数ヶ月前、パリ市内の地下鉄サンミッシェル駅爆弾テロ事件というのが起き、10人が死亡。翌月にも同じ地下鉄で、凱旋門駅爆弾テロ事件が起きて、イスラム過激派が関与しているとされた。

僕たち夫婦がパリへ行ったのはその直後だった。

パリでの初日、街に出た時のことだ。地下鉄のモンパルナスの駅で降りて、そこから国鉄の駅までかなりの距離があるのだが、そこを歩いて行くと、防弾装備姿で自動小銃を持った治安部隊の隊員たちがズラ~っと並んで立っていたのが今も目に焼きついている。日本では決して見ることのない「厳戒態勢」という雰囲気で、足がすくむほどだった。

爆発物を仕掛られるのを防ぐため、その時のパリ市内のゴミ箱はすべて撤去されていて、あちらこちらの道端にゴミが散らかっていたのも、忘れられない。

幸い、僕たちが滞在している間は何事もなかったけれど、今回のテロ事件の報道に接して、20年前の旅行での厳戒態勢のことを思い出したわけである。


パリへはその後にも、1999年と2009年の2度行っているけれど、その時はそういう空気は感じられなかったように思うのだが、そんな単純なものではなく、今回こんなフランス史上最悪のテロ事件が起きた。どうもイスラムがらみの国際情勢というのは、日本人にはなかなか把握しにくいところがある。

さて、これからパリへ旅行しようと計画している人は大変だなぁと思う。一部のツアーは中止になっているそうだが、飛行機自体は飛んでいるので、個人旅行の人は、判断に苦しむところだろうなぁ。僕だったらどうするかな…?と考える。う~ん、やはり今回はやめておくだろうなぁ。


こうして「イスラム国」のテロがどんどんエスカレートしてくると、もう安全な国というものが地球上から消えてしまうことになる。日本も、今後十分に気をつけなければならないと思う。(どう気をつければいいのか、わからないけど)


それにしても、この同時多発テロが起きたのは、パリ現地時間で13日の金曜日だった。

この日に犯行が行われたのは、何か意味があるのだろうか…?

それとも単なる偶然なのだろうか…?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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運転免許証を自主返納

2015年11月13日 | 日常のいろいろなこと

…と、まあそういうことで。

運転免許証を自主返納して、その代わりに「運転経歴証明書」をもらう手続きをするために、警察署へ行った。

昼前だったが結構混んでいた。ほとんどが免許の更新手続きの人のようだった。「案内」の看板のところにいた人に「免許証を返納したいんですが」と伝えると、カウンターの上の整理券を取ってくれと言われたので、それを持って長椅子に座って待った。

男の人や女の人が次々名前を呼ばれ、視力検査をしていた。それを見ながら、自分は今後こういう検査もしなくていいんだなぁ、と思った。運転免許を取って45年。その間、何度免許証の更新をしてきたことだろう。それがもうなくなるというのも「身辺整理」のひとつなんだろうな、と、少し改まった気分になる。


…それにしても最近のニュースを見ていると、高齢者の自動車事故がやたらと多い。ついこの間も、93歳の女性が高校生をひき逃げしたり、76歳の男性が運転する車が飲食店に突っ込み10人以上ケガをさせたり、宮崎市では73歳の男性が車で歩道を暴走して女性2人が死亡する事故などが続々と報じられている。

こういう状況を受けて、自治体でも、高齢者の免許証の自主返納を呼びかけているようである。大阪府の公安委員会は2年前に、65歳以上の人が免許証を返納すると、それに代わる「運転経歴証明書」を、正式な身分証明書として発行してくれる…という制度ができた。で、僕も「そりゃ便利でいいわ」と返納することにしたのである。僕など、免許証は身分証明のためにだけ、これまで更新してきたわけだから…。

それで、自主返納する人も一挙に増えたそうである。しかし、車がなければ生活できないという人もいるので、これは僕みたいに簡単には済まない問題も数多くあることは確かである。


さて…その警察署で順番を待っていたら、やがて僕の番号が呼ばれた。カウンターに行くと、男性係官が「免許の更新ですか?」とまず尋ねたので、「いえ違います、免許証を返納したいのです」と答えた。すると相手は、「取り消しですね。では、今、この瞬間から運転が出来なくなりますが、よろしいですか?」と確認をした。その時僕が「へっ? 実は車で来ているんだけど帰りはどうしたらいいの?」な~んて言ったら相手はズッコケただろうなぁ(笑)。


むろんそんな冗談を言える雰囲気でもなく「はい、結構です」と微笑む僕なのであった。そして、運転免許証を手渡した。係官は僕の免許証を見ながら、すぐにどこかに電話をした。

「こちら○○警察署です。免許の取り消しです。免許番号は…」
と、僕の免許証に掲載してある長い番号を電話で伝えたあと
「ではよろしくお願いします」
と言って切った。電話の先は大阪府公安委員会なのだろう。

電話を切った係官は僕に、
「これでこの免許は取り消されました。今後、運転はできません」
とまた念を押した。わかってるっちゅうねん。

「では、顔写真をお持ちですか?」

「運転経歴証明書」に添付する顔写真のことで、むろん用意してきた。縦3センチ、横2.4センチの顔写真で、これまでの免許証と全く同じ規格であるが、この写真は前夜、自宅で妻に撮ってもらい、プリンタで印刷し、規格どおり慎重にハサミで切り抜いた写真だった。

係官はその写真を見て、「う~ん」と首をかしげ、
「他に写真はお持ちじゃないですか?」
と、少し困った顔をして僕に訊いた。

「ありません。ちゃんと縦3センチ、横2.4センチになってるでしょ」
と僕はその写真の何が不都合なのかわからず、抗弁した。
「この顔写真がねぇ…」と係官。
「全体に見て、少し右に寄ってるんですよね」
よく見ると、確かに…わずかだが右に寄っている。一目見ただけではわからないほど、ほんのわずかだけどね。こういう顔写真を1ミリも狂わさずに真ん中に切り抜くのは、なかなかむずかしいのだ。

「この程度だったらいけるんじゃないですか?」
と僕が言えば、係官は僕の免許証の写真の部分にその写真をかぶせてみて、
「ふ~む。いけますかねぇ…」とつぶやいたあと、
「ま、これでいきましょうか」と納得してくれた。やれやれ…

「では、この書類に1,000円の証書を貼ってください」と言われ、
すぐ横にある窓口で証書を買って貼り、再びそれを係官に渡した。

「これですべて手続きは終了です」と係官。
「運転経歴証明書は11月17日以降にこちらでお渡しします」


以上で免許証の返納とそれに伴う取り消し処置が終わった。

45年間のつき合いに、あっけなく終止符が打たれたわけだ。
まあ、それほど親密なつき合いでもなかったけれど(笑)。

 

 

   

  

  

 


 

 

 

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運転免許証ものがたり

2015年11月08日 | 日常のいろいろなこと

運転免許証の切り替えが、2ヵ月後に迫ってきた。

僕はもう何十年も車の運転はしていないペーパードライバーだけれど、運転免許証はいちおう毎回更新している。これはやはり、市役所や銀行、auショップ、郵便局へ書留を受け取りに行くとき等々、身分証明書として便利であるから、運転もしていないのに、それなりに重宝してきたのである。

そして、言うまでもないことだが、僕の免許は「ゴールド免許」である。つまり僕は「優良運転手」なのだ。えへん! ここ数十年、ず~っとこのゴールド免許が続いている。

うむ。よ~く考えてみれば(考えてみなくても)、僕は無事故・無違反の以前に無運転なのだ。「無運転」で事故を起こさないのは当たり前だ。あはは。

しかし、まったく運転していない人間にゴールド免許を授けてくれるのだから、まあ公安委員会というところも、なかなか寛大である。

  ………………………………………………………………

僕が運転免許を取得したのは、21歳のときである。
自転車で2ヵ月半の北海道往復旅行をした翌年だった。
自転車で走っている時、車は楽だな~とつくづく思った。
大阪へ帰ったら絶対車の免許を取るぞ、と心に決めていた。

そしてその翌年になってすぐ、教習所に通った。

しかし…

初めて路上教習に出たとき、隣席にいた教官が、
「わっ、あぶないっ!」と叫んだ。
「はぁ…?」
と僕が首をかしげると、教官は、胸を撫で下ろしながら、
「いま、そこを歩いていたお婆さんを当てかけたんだよ!」
そう言って、教官は、げんなりした表情で、
「あんたの横に座っていると、生きた心地がしないよ」と嘆いた。
それでも僕は、合格し、運転免許を取得した。

そして父の車を拝借し、友達のいる京都へ行ったり、
大阪近郊をドライブしたりした。
叔母が住んでいた、日本海の丹後半島まで走ったこともある。

そんなある休日のこと。

僕は妻を乗せて、大阪から京都に向かっていた。
京都府に入り、宇治の近くで信号が赤になった。
上り坂の途中であり、僕はブレーキを踏み、停車した。
このあたりで右折するはずだったが…と僕は信号待ちを利用して、
手元の地図を広げてみた。

…そのとき、である。

隣に座っていた妻が、「あ。下がってる…」と言った。
「えぇ? 下がってる?」と僕が聞き返すと、
ガッチャン!
と音がして、背中に衝撃を感じた。

「なんだ、なんだ」と後ろを向くと…、
僕の車は、後方の車にぶつかっていた。
上り坂なのに、サイドブレーキも引かず、足で踏んでいただけで、
しかも、地図に気を取られて、足がブレーキから離れたのだった。
僕の車はスーッと音も無くバックして、後方の車に当たってしまった。

後ろの車から降りてきた年配の男性は、僕を見るなり、
怒るというより、呆れた様子で、
「あの~、あんたねぇ…免許証、持っているの?」
と、いぶかしげに問いかけた。

僕は注意力が散漫な人間である。
ひとつのことをし始めると、他のことが留守になる。

職場でも、車をバックでガレージに入れるとき、鉄柱にぶつけた。
音に驚いてかけつけた車両担当者が、信じられないという顔で、
「あのね、バックでの車庫入れは、アクセルを強く踏んじゃダメ」
と言ったあと、
「あの~、これは、余計なことかもしれないけど…」
と、彼は、車の後ろに刻まれた無残な傷跡を眺めながら、
「車の運転は、やめておいたほうがいいんじゃないの?」
そう言い、心配そうな口調で、
「いつか、人でもハネたら、取り返しがつかないよ」

僕は彼の言葉に納得し、それ以来、車の運転をピタリとやめた。

加害者にもならず、自分が死ぬこともなく元気でいられるのは、
このときの車両担当者の人のアドバイスのおかげである。

特に、今のようなご時世なら、僕は飲酒運転で警察に捕まり、
残りの人生を棒に振っていたことも十分に予想される。
まさに、ありがたい、至宝のアドバイスであった。

確かに僕は、短い運転期間であったが、
運転しながらよそ見していて、中央分離帯に乗り上げかけたり、
考えごとをしていて、踏切の遮断機の前で急ブレーキをかけたり、
狭い道でもう少しで溝に落ちかけたりと、危ないことだらけだった。

要するに、僕は車の運転には向かない性格だったのだ。

…今でも怖い夢を見ることがある。
踏切の遮断機が下りているのに、僕の車は進んで行く。
ブレーキを踏む。力いっぱい踏む! しかし車は停車しない。
チンチンチンチン… と警報が鳴り響く踏切。
下りた遮断機を、押しのけて踏切内に進入し始める。
どんなにブレーキを踏んでも、じわじわ~っと車は前に進む。
「ぎゃぁ~。止まれ。止まってくれぇ!」

スピルバーグ監督の映画「激突」の踏切シーンみたいである。
踏んでも踏んでも、ブレーキがきかない。
チンチンチンチン… 電車がやってくる。うわあ~~ぁ。
た、た、た、助けてェ、助けてくれェ~~…
…そこで目がさめるのである。

これが「優良運転手」の僕が見る夢なのです。とほほ。

 …………………………………………………………………………

そこで最近知ったのが「運転免許証の自主返納」というものである。
65歳以上になると、免許証を自主返納すれば、
「運転経歴証明書」というものを交付してくれる。
これが免許証と同じ効力を持つ身分証明になるそうだ。

今も身分証明書にしか使っていない免許証なので、
「運転経歴証明書」があればそれで十分ではないか…

しかも提携している企業・店舗などでこの証明書を提示したら、
たとえば、ホテルやレストランでの割引や、
買い物での割り引きなどの特典もあるそうだ。

僕も65歳を過ぎているので、資格はある。
では、この際、警察署に行って免許証を返そう…

で、先週の水曜日(4日)に、警察署に出向いた。

そのことは、次回に詳しく書きたいと思います。

 

 


 

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リハビリをする人 される人

2015年11月06日 | ランニング

9月22日の夜、突如左のふくらはぎが痛み、3日目ぐらいからさらに痛みがひどくなり、26日に整形外科病院へ行ったら「肉離れです」と診断された…という話を、9月29日のブログに書きました。

それ以降、毎週リハビリに通い、6週目にあたる一昨日、ようやく完治し、リハビリ担当の人から「終結宣言」をしてもらった。

今回、僕を担当してくれた若い男性の理学療法士さんは、
「もう大丈夫でしょう。あとはご自分で、これまでリハビリで行ってきたストレッチや患部の筋トレを続けられて、徐々にジョギングなどを始めてください。肉離れは癖になることもありますので、運動後は、ストレッチや筋トレで必ずケアしてくださいね」
ストレッチはまぁわかるが、運動後の筋トレもケアのひとつとは知らなかった。…ということで、病院通いもひとまず終わった。

思えば、発症した頃は、かつて経験したことないほどの痛みだった。最初は患部を冷やすことから始まって、週を追うごとにリハビリ内容も、患部のマッサージや各種ストレッチから、後半になると両足や片足でピョンピョン跳んだり、右足を浮かし左足だけで爪先立ちを繰り返したり、同じく右足を浮かして左足だけで膝の曲げ延ばしをするスクワットなど、かなりきつくてバランスも取りにくい運動も、指示されるとおり何とかできるようになり、この度の「卒業」となった。

で、その翌日に当たる昨日は、スポーツクラブも休みだったので、回復度を確かめたくてウズウズしていたこともあり、自宅から大阪城まで歩いてみようと思い立ち、9時ごろに家を出た。ざっと15キロほどの道のりである。

大和川を渡り、長居通りを歩き、かつての大阪女子マラソンのコースだった今里筋から勝山通り、そして桃谷に出てから、JR環状線に沿って鶴橋、玉造と歩き、その次の森之宮に大阪城公園があるので、そこをゴールと決めて歩いた。しかし…

数日前までの涼しさから一転して、昨日はまるで夏のような強烈な日差しが照りつけ、その暑さにバテてしまった。おまけに足も重い。どうにか鶴橋まで歩いたけれど、あと環状線の駅2つ…まで迫りながらダウン。ちょうど大型スーパーがあったので、冷房の効いたその建物に入って椅子に座り、やれやれ…あぁしんど。妻にメールをしてから、電車に乗って帰宅した。「無理してはダメよ」と妻から返事が来た。

目標の9割以上は歩けたというのに、ゴール目前での中止。これまでの自分なら、ここまで来たのだからもう一息頑張ろう…と思ったはず。それを思いとどまったのは「進歩」かも知れないが、それにしてもだ…「徐々にやっていってください」とリハビリ師に言われていたのに、いきなり長い距離にチャレンジしてしまった。この調子乗りの性格はなかなか直りませんわ。というより、もう直らんか?


さて、話はそのリハビリ師さんのことになるのだが、20代後半か30代前半の男性である。初めてリハビリを受けた時、パソコンで僕のデータを見て「ランニングをしておられるんですね」と言ったので「いや、まぁそれは昔のことで、今は歩くか軽いジョギング程度です」と答えた。
「マラソンのレースには何度か出られたことあるんでしょう?」と彼。
「えぇ、30代から50代の前半まで出ていました」と僕。
と会話を交わすのだが、彼はその間、僕のふくらはぎをなでたり押さえたりしている。マッサージをしてもらいながらの会話である。


「へぇ、そうなんですか。どんなレースに出られました?」
「最後は52、3歳の時、赤穂の100キロマラソンに出ました」
「えっ? 100キロマラソン? すご~い」彼の目が輝いた。
「それと、北海道マラソンとか、ニューヨークマラソンとか…」
ちょっと自慢しちゃいました。彼はそのたびに、「へぇ」と驚いた様子。

彼にはそれなりの理由があったのだ。
「僕もですね…実は12月に初めてフルマラソンに出るんですよ」
ということだった。

なるほど。そういうことで、僕の話に強い関心を示したわけだ。

「えっ? そう。どこの大会ですか?」と僕が聞く。
「12月13日の奈良マラソンです。今からドキドキしているんですよ」

それから、合計6回、リハビリを受けたけれど、僕がリハビリの指導を受けて、必要なことがひと通り済んだあとば、彼は僕の足をいろんな角度で持ち上げたり、押さえたりさすったりしながら、話はマラソンのことに終始した。

「レースには何回くらい出られました?」と彼。
「そうですね、20回数回ですかねぇ」
「えぇ、そんなに。どれくらいの記録をお持ちですか?」
「自分のフルマラソンの最高記録は3時間27分です」と僕が言ったら、
「そんなに速いんですか!」と驚いていたようだ。

今でこそマラソン大会の制限タイムは6時間とか7時間で、4時間台、5時間台で走ったらいいわ…という雰囲気があるが、僕らの時代は「サブスリー」(3時間を切る)のが市民ランナーの夢だった。2時間30分台で走った友人がいるし、ここへコメントをくれるドイロン君も、ほぼ3時間ジャストという記録を何度か出している。

3時間台前半の記録を持っている友人は沢山いる。だから僕の自己記録など、そんな友人たちの記録から見れば平凡なものである。だから、あまりいろんなことを質問されてもなぁ。えらそうなことは言えない。

その若いリハビリ師は「何とか5時間を切りたいです」と言う。
まあ、それなら何とか僕の経験でも、お役に立つかもしれない。
(奈良マラソンの制限時間は6時間です)

そして「どういうペースで走ればいいんですか?」とか、「練習ではどれくらいの距離を走ったらいいのですか?」とか、「空腹に備えてチョコレートとか持って走った方がいいですか?」とか、いろいろ質問をしてくるのである(チョコレートは溶けてしまうで~)。

僕は…
「そうやねぇ、最初は飛ばしたくなるけど、我慢して抑えてね」とか「練習では、やはり30キロは走っておいたほうがいいでしょね」とか、いろいろ答えるのだけど、僕だってド素人である。あまり参考にはなりませんよ…と一言添えておく。

そんなふうに、リハビリ師さんが僕にいろいろ走ることに関して質問して、僕が逐一それに答えていると、そばにいた人たちから見ると、どっちがリハビリをされているのかわからへん…みたいな雰囲気でしたね~(笑)

で、マラソンの「先輩」である僕の話が終わると、今度は「では立ってください。スクワット、やってみてください」と言われるまま、僕は「はい。こんな感じでいいですか」と聞き「あ、そうです、いいですよ~」という返事をもらう。ここで立場が普通に戻るのである。


一昨日、最後のリハビリを終えて、その人とはお別れとなった。

「12月の奈良マラソン、完走されることを祈ってます」と僕。
「ありがとうございます。頑張ります!」とリハビリ師さん。
この言葉で、彼との6週間の「お付き合い」は終わった。
それにしても、彼の奈良マラソンの結果、気になりますね~

頑張ってくださ~い。

でもレースの翌日、足を引きずって病院へ出勤したら、
リハビリを受けに来た患者さんと間違われまっせ~(笑)

 

 

 

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ユニバーサル・スタジオ・ジャパン 

2015年11月04日 | 日常のいろいろなこと

   

 

10月31日…といえばハロウィーンの日でしたが、その日、
2年半ぶりにユニバーサル・スタジオ・ジャパンへ行きました。

去年登場した「ハリー・ポッター」のエリアがモミィのお目当てです。

朝の7時台前半の電車に乗り、8時頃にUSJの駅に到着。
開場時間は8時半とのことでしたが、すでに開いており、
ジェットコースターが人を乗せて轟音を響かせていました。

何時頃から開いたのでしょうねぇ???

とりあえず「ハリー・ポッター」へ急ぎます。
このエリアはいきなり入場できず、整理券が必要なので、
「セントラルパーク」というところで発券してもらいました。

まだ早い時間帯だったので、すぐに入場できました。

 

 

    
     ハリー・ポッターエリアの入り口で。

 

 
  いよいよハリー・ポッターの世界へ。
  

 

 
 ビア樽の形をした売店で魔法界人気のバタービールを売っていた。
 最初、子どもがジョッキーでビールを飲んでいるので驚いたが、
 ノンアルコールで、子どもたちにとても人気があるそうだ。
 僕は名前は「のん」でも、のんアルコールには関心ありまへん。

 

    
     バタービール(資料写真)

 

 
  ホグワーツ城が見えてきた。
  

  

 

 


 

  お城の中をめぐる。
 「ダンブルドアの校長室」や「闇の魔術に対する防衛術の教室」
  「グリフィンドールの談話室」や「必要の部屋」などを見る。

 ただし、世界初の3Dといわれる超人気の乗り物、
 「ハリー・ポッター・アンド・ザ・フォービドゥン・ジャーニー」
 は、なんと4時間待ちの行列だったので、これはパスした。

 

   
    ここの売店では「魔法の杖」がいっぱい売られていた。
   モミィも「ハーマイオニーの杖」というのを買った。
    ハーマイオニーとは、ハリーの親友の女の子です。

 

 
  「ホグワーツ特急」には写真の列が。

 

     
   まだ10時台だったが、モミィが事前に調べて行きたがっていた
  「三本の箒」という評判の店に入り、早い目の昼食をとった。
  さすがに人気があるので、この時間帯でも大勢並んでいた。

  ここはホグワーツ魔法魔術学校の先生や生徒たちもお気に入りの、
  老舗の“パブ兼宿屋”ということで知られています。
 

 
 レストランの中の様子。
 天井をはじめ、建物のあらゆる造りが凝っている。
  

 

  
  ここで僕たちが注文した3品です。手前から…

 「フィッシュ&チップス」
 (白身魚のフリッターとフライドポテト、タルタルソース添え¥1,750)

 「ポークリブ」
 (皮付きコーン、ローストポテト添え¥2,000)

 「シェパーズパイ&ガーデンサラダ」
 (挽肉と野菜、マッシュポテトのココット焼き、サラダ添え¥1,750)

 

ハリー・ポッター・エリアを出て、また広い場内に戻ります。

 

 
   朝来た頃に比べるとどんどん人の数が増えていた。
  「エルム街の悪夢」にも長蛇の列で、ここが最後尾。

  待ち時間は210分…と示されています。3時間半!

 

  
  USJは2001年にオープンしたが、その当時妻と2人で来たことがある。
 その時、最も迫力をおぼえたのが「バックドラフト」だったので、今回
 待ち時間が短そうだったので、また入ってみた。やはり迫力満点。
 でも恐がりのモミィは終始妻に抱きつき「キャー」と叫んでいた。

 

  
  ホラーは大の苦手のモミィ。
 コーヒーカップの乗り物が大好きで、この日も乗ったよん。

 

  
   ハロウィンということで…なのか、顔や脚に血が…

 

   
  こちらはジョーズのエリアで、ヒゲの女性がポーズ。
  「血だらけ女」も多かったが「ヒゲ女」も大勢いた(笑)。

 

  
  ややっ、こ、これは…婦人警官?
  右手に拳銃を握っている。こわっ。

 

 
 そして午後2時半からパレードが始まった。
 僕たちは1時間前から歩道に座って待っていた。
 日陰の寒さがこたえたか、帰宅して翌日にかけ、鼻グスグスだった。

 

 
  は~い。パレードもこれで終了です。


…というようなことで、パレードが終わり、しばらくして帰途に着きました。

入れ違いにこれから入場してくるお客さんがドド~と押し寄せて来ました。

6時からゾンビが出たりしてモミィが恐がるので、早めに出たのですが、
駅からこちらに向かってどんどん人の群れ、仮装の群れがやってきます。

夜は夜で楽しいのでしょうが、あちらこちらに「死体」が転がっていたり、
木だと思っていたらそれが突如動いて襲いかかろうとしたり、
それはもう、大人でも怖い…と長男が言ってました。
モミィがそれに耐えられるわけ、ありませんよね。

実を言えば、僕も恐がりなので、ゾンビが現れたら心臓がまたパクパクです。


それにしても、ハロウィーンということもあって、
お客さんたち、特に若い男女の仮装がとても面白かったです。

前回はスヌーピーやスノーマンなどのキャラクターがいましたが、
この日は仮装のお客さん自体がキャラクターで、抜群に目立っていました。

警備員のような格好をした人も何人か見かけましたが、
これが本物の警備員なのか仮装なのか、見分けがつかないほど(笑)。

ハロウィーンと重なって「えらい人やろなぁ」と心配していましたが、
普段見ることの出来ない珍しい光景で、大いに楽しませてもらいました。

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余談になりますが、このUSJへ行く前日の10月30日に、
モミィの英検5級の合格証書と成績表が郵送されてきました。

翌日に行ったUSJは、はからずも、
モミィの合格のお祝い行事にもなりました。


 

 

 


  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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