僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

 ソフトバンクCM犬の謎

2007年12月31日 | ニュース・時事

う~、寒い。
昨日から、大阪の天気も荒れ模様で、寒い寒い。
昨晩も、嵐のような猛烈な風が吹き荒れて、雨戸がガタガタガタッーンと大きな音を立て、雨戸ごと外れて吹き飛ばされてしまうのではないかと心配したほどだ。

今月に一戸建て住宅を購入して引っ越したばかりの知人の市会議員が、
「木の家って寒いねぇ」とぼやいていた。
「木の家ってなんやねん…? 普通は木の家と違うんかいな」
と、ヘンなこと言うおっさんやな、と僕は問い返す。
「ずっとマンションに住んでたんやけど…」
と、その市会議員はつぶやくように続けた。
「マンションの部屋の中は暖かいでぇ。冬でも薄着で十分や。隙間がないから風も入ってこないしなぁ。木の家に移ってから、家の中でも厚着せな、いてられへんようになった。家の中がこんな寒いもんやったとはなぁ」

あぁ、なるほど。マンションというものに住んだことのない僕は、そういうことを初めて認識した。そうか、マンションは「木の家」よりう~んと暖かいのか…。

…なんていうことを思い浮かべながら、世間の人々は寸暇を惜しんで立ち働いているはずの大晦日の午前中、僕は、隙間だらけの寒い「木の家」の一室にこもって、冷えきった指にハアハアと息を吐きかけながら、足元に電気ストーブをつけて、パソコンの前でこんな「よしなしごと」を打っている。
ずいぶん暇な人間である。

話はガラリと変わりますが…

その市会議員との雑談の中で、話題がテレビCMのことに及んだ。
テレビのCMの中には、なんとなく気になるものが時々ある。
昔、緒形拳が、ずいぶん年下の女性と肩を並べて花火を見ているCMがあり、「恋は遠い日の花火…」な~んてセリフが入っていたのが、あの2人の関係がどういうものなのか、気になって仕方なかったことがある。

その市会議員が言うに、今一番気になるCMは、ソフトバンクの宣伝で、しゃべる犬が出てくる、あのCMなんだそうだ。

「あの家族は、いったい、どないなっとんねん?」
と、市会議員が、顔中疑問だらけにして僕に問いかける。
さすがに日頃、市民からいろいろと相談を受け、地域の充実発展と住民福祉の向上を掲げて活動しているマジメな(?)市会議員である。いろんな家族を見てきているだけに、あの「家族構成」がマジメに気になるらしい。

お母さんが樋口可南子で娘が上戸彩。
ここまでは、まあ、普通である。
しかし、不思議なことに兄は黒人であり、もっと不思議なことに、父は犬である。父である犬は、娘のデート現場に突然を現れたり、重要な会議に出席したりして、なかなか父親らしい存在感を示している。
「しかし、なんぼCMや言うても、あれはわけがわからん過ぎるで…」
市会議員はぼやくのだが、…わからんのは当たり前の話である。
CMの中の上戸彩ちゃんも、
「私だってわからないわよ。なんでお父さんが犬なのかも…」
と言っているのだから、見ている者にわかるはずがない。

そんな折、先日買ったある週刊誌にその「父親犬」の謎が解明されていた。

それによると、このCMはなかなか奥の深い仕掛けがあるようなのだ。

お父さんとお兄さんは、呪文かなんぞをかけられたのか(?)それぞれ「あの姿」に変えられてしまった、という設定なんだそうだ。その理由は秘密だが、やがて明らかにされる予定らしい。
お父さんの犬の声は北大路欣也が演じているので、このCMの完結編では、犬がパッとあの万俵大介(「華麗なる一族」)の北大路欣也に変身するのだろうか? 

それにしても、あの犬は「ペットタレント事務所」(そんなんが、あるんや~!
)に所属するプロの人気タレント犬で、天然記念物とされる北海道犬ということで、名前はカイ君といい、年齢は4歳。日本人ばなれした色白で丸顔のルックスが超人気なんだそうだ。あはははは。

高いところが苦手で、階段を駆け上がるシーンなどは嫌がるので、そんな場合は「スタントマン」として、カイ君の姉の「ネネ」が代役を務めているそうである。姉弟ともタレントなんてところはゴマキみたいだ。
…って、今の時期にそんなこと言ったら、だめだワン。

そ~ゆ~ことですが…
これだけ犬のCMシリーズで話題を集めているソフトバンクだけれど、実際のソフトバンクショップでは犬などのペットを連れて入るのは禁止をしているという。

なんだ? それは…?

犬のCMのお陰でドコモをしのぐ加入者を獲得した会社にしては、ちょっと犬に対して冷淡過ぎるのではないか…?

愛犬家のお客は、遠慮することはいりませぬ。
ソフトバンクショップへ、気にせず犬を連れて行くべきであります。
店員さんが、それを見て
「あ、すみません。犬を店の中へ入れるのはちょっと困るんですけど…」
と難色を示したら、こう言えばいいのです。

「いえ、これは犬ではなく、僕の父です」

あぁ~、店員さんの反応を、ぜひ見てみたいなぁ。

(… やっぱりヒマなのか、僕は)

  …………………………………………………………

皆さま。
今年は何かとご心配をおかけしたり、激励の言葉をいただいたり、
いろいろと気にかけていただきありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。

どうぞ、よいお年をお迎え下さい。

                     
              2007年12月31日  ~ のん ~

 

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 9連休がはじまった…けど

2007年12月29日 | 日常のいろいろなこと

昨日に御用納めとなり、今日から年末年始の休暇に入った。
今年は9連休という長期休暇となる。
長いなぁ~、今回は。

「正月はどこかへ行くん?」
と、昨日まで、職場のいろんな人からそんな質問を受けた。
「いや。どこへも行かへん。どこも人だらけやし、しんどいだけや」
「初詣も、行かへんの?」
「近くの、人の少ない神社しか行かない」

僕は昔から、人が大勢集まるところが嫌いだ。
できることなら、行かずに済ませたい。
行列に並ぶ、という行為など、苦痛以外の何物でもない。

去年の大晦日。
一杯飲んでいい機嫌で調子に乗って妻を誘い、夜中に電車に乗って橿原神宮まで初詣に出かけた。しかし、そのあまりの人の多さにたまげてしまい、おまけにお参りをするのに何時間も並んで待つという最悪の事態にはまりこんでしまった経験が、僕をますます消極的にさせてしまった。大晦日は、紅白歌合戦が終わったら寝る…。ずっとそういう生活を続けてきたのに、去年は何を血迷ったか、はしゃぎ過ぎたのである。


さて、その9連休であるが…
長いように思えるが、僕にとっては例年とさほど変わることはなさそうだ。
年末の3日間は慌しく過ぎて、お正月になると、ぐーたらと日を送ってうちにいつのまにか1月6日の日曜日が訪れて、
「げぇ! もう明日から仕事か?」
な~んて、叫ぶのは、今から目に見えている。

要するに、休みがいくら長くても、それなりの計画を立て、ある程度の覚悟をもってそれを実践しない限り、あっという間に終わってしまうものなんだもんね。年末年始の休暇というのは、僕みたいな人間には、計画を立てたり、それを実践したりするようなことは不可能で、ただ成り行きに流されていくだけで終わってしまう。いつもそうだ。
むろん、旅行や帰省で過ごす人たちは別だけれども…

僕は、この9日間、な~んの予定もない。
耳鳴りがこれ以上大きな音にならないように願うだけの毎日だ。
病院もお休みだしね…。

この時期、テレビを見ていると、必ず海外旅行へ行く人たちがニュースで取り上げられ、何人かの旅行者がニコニコとインタビューに応じている。今日もテレビ画面から僕の目と耳に飛び込んできたその光景…。

「ベトナムからカンボジアへ7日間行きます。アンコール・ワットの遺跡を見るのが楽しみです」

「韓国へ行くんですけどぉ。あたしは食べること、この人(友達を指して)は、お買物なんですぅ」

「ヨーロッパです。ボーナスを全部つぎこみました。あはは」

そんな夕方のニュースを、ビールを飲みながら眺めていた僕なのである。

海外旅行に舞い上がる人たちがいる一方で、殺人事件が報じられる。
交通事故や思いも寄らぬアクシデントで大人や子供が死ぬニュース。

テレビニュースを見ていると、羨ましかったり、気の毒だったり…

…なんてことを書いているうちに、
9連休の最初の日も、もう終わりかけている。

 

 


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 母の 「 引越し 」

2007年12月26日 | 日常のいろいろなこと


先月27日に母が施設に入所してからほぼ1ヶ月が経った。
それまで、約1年間、入院生活が続いていた。

あれは昨年の11月17日のことだった。
数年前に父が亡くなってから一人暮らしをしていた母は、老人会のカラオケ中に脳出血で倒れ、救急病院に運ばれた。右半身が麻痺し、医師からはその場で「これからずっと車椅子生活になるでしょう」と言われた。そのとき母は78歳であった。

そして、約1ヶ月経って、救急病院からT病院に移った。

T病院では、母はずっとリハビリを続けていたが、現状を維持するのが精一杯で、回復の見込みは極めて薄い…と、そこの医師からもそう言われていた。

母の意識ははっきりしており、言葉も普通に話せる。時々つじつまの合わないことを言うが、認知症というほどのものではない。といっても、母がどこまで自分の病状を認識できているのか、よくわからない部分もあるけれど…

入院先では、母は最初の頃は家に帰りたがったりしたが、やがて環境に順応してきたのか、無理なことは言わなくなった。

記憶や思考がやや曖昧になっていたことが、むしろ母の心の中に、ほっこりとした空間を生み出したようにも見える。体の半分が動かなくなったというのに、決して現状を嘆いたり、駄々をこねたりしないのが、僕から見て不思議だった。これまでは、すぐ悲観的になり、感情の起伏も大きかった母だったけれども、そういうところが影を潜めてしまった。自分がこんな不自由な身体になって入院していることをひどく苦痛に感じている…というようには見えなかった。僕としては、これは、せめてもの救いであった。

しかし、それとは全く別の、重要な問題もあった。

当然のことだけれど、いつまでも入院をしていられるわけではなかった。
いつかは病院を出なければならない時が来る。
その際、母の一人息子という立場にある僕は、どう対処するべきなのか。

これについては、病院に入ったときから、担当の人から、
「今から次の段階のことを考えておいたほうがいいですね」
という意味のことを言われていた。
次の段階というのは、退院したあとの母の身の振り方である。
「退院」といっても病気が治って退院できるわけではあるまい。
要介護度4~5、という重い症状は、これからもほとんど変わることはない。

「自宅で介護されるのか、あるいは施設に申し込むのか、ということで…」
と担当者は淡々と説明をしてくれた。
言われるまでもなく、それは母が倒れた日からずっと考えてきたことだ。

わが家での介護は、現実の問題として、どう考えても不可能である。
老人ホームなどの施設でお世話をしてもらう以外に選択肢はない。
「施設入所については、相談に乗ってくれるのですか?」
そのとき、病院の担当者に、そう尋ねた。
「できるかぎりのことは…」
担当者の言葉から、何とかしてくれそうな雰囲気を、感じ取ることができた。

老人の入院患者を多く抱えるこの病院は、退院後の患者の処遇には一定の指針を持っているようであった。そして、入院した当初から、この近辺にある3つの特別養護老人ホームの存在を教えてもらった。

一般に、特別養護老人ホームは、簡単に入所できないと言われている。
要介護老人がどんどん増えて、定員の「空き」を何年も待つのが普通だそうだ。
それでも、少しでも早く入所できることを願って、3ケ所全部に申し込んだ。

…僕たちは運がよかったのだろう。
今年の7月に、3つの施設のうちのひとつから電話があり、
「間もなく入所できそうです」ということが伝えられた。
施設の場所も、自転車で10分以内で行けるところで、とても便利である。

そのあと、少し行き違いがあって「間もなく」だったはずが、夏を過ぎ、秋になっても連絡がなく、ちょっと不安になったけれど、専門的な知人を介して施設側に確認をしてもらったりして、ようやく先月(11月)の27日に、母は、病院を退院し、特養施設に入所することができたのである。

最初の施設への申し込みから、住民票の異動その他役所への諸届けなど、入所に関する一連の手続きや母の入所の際の付き添いなどは全て妻が一人でしてくれた。

そんなことで、最も大きな課題だったことが一応落ち着き、安堵している。

4年前に父が亡くなり、母の一人暮らしが始まったときは心配が多かった。
「話し相手がいない」「寂しい」「面白くない」「夜、眠れない」
母は、いつも愚痴をこぼしていた。

しかし、母はそこに40年以上住んでおり、近所付き合いも多かった。
元気なうちは、1人でもそこで暮らすことが最善であったと思う。
僕もあまり親孝行とは言えず、母の家を訪ねる回数は多くなかった。
しかし、常に心配なことは心配であった。

老人の1人暮らしは何が起こるかわからない…
そんな不安が、ここ数年の間、ずっとつきまとっていた。

こんな結果になってしまったことは、決して良いとは思わないけれど、
施設に入った母は、毎日安全に暮らしていることは間違いないのだ。
それに、ニコニコと機嫌よく過ごしていることも事実である。

母に関する心の負担がずいぶん軽くなった、というのが、今の正直な感想である。

 

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 ソラ を紹介します

2007年12月18日 | モミィの成長日記

    

前回は2歳2ヶ月のモミィを紹介しました。
きょうは、その弟のソラを紹介したいと思います。
写真の左がソラで、右がモミィです。

本名は空(そら)。今年5月15日に生まれました。いま、7ヶ月です。
ボワシエールさんのBebeちゃんより2ヶ月早いのですが、同い年ですね。

1番目の子どもと2番目に生まれた子どもの顕著な違いは何でしょう?
いろいろありますが、僕自身の経験では、写真の量が違うことですね。
長男の赤ちゃんの頃の写真はたくさんありますが、次男はその半分くらいしかありません。「珍しさ」が半減してくるのでしょうか。
珍しさがなくなったから写真も少なくなる…な~んて、僕もひどい父親ですね。
どちらも可愛さは同じだし、そのように差別する気など毛頭ありませんけどね。
でも、写真の数は、やっぱり最初の子のほうが、圧倒的に多い。

モミィとソラにもその傾向がはっきり出ています。
モミィが7ヶ月の頃までには何百枚と写真を撮りましたけれど、ソラの写真は、僕の撮った数ではせいぜい数十枚です。なんと十分の一。半分どころの騒ぎではありません。まあ、これは「珍しさ」だけではなく、それなりに理由もありましたが。

ソラが生まれたことで、ママがソラにかかりっきりになるので、モミィがわが家で寝泊りすることが増えたことがその原因です。だから、僕から見れば、モミィは同居の家族みたいな存在ですが、ソラは休みの日以外にめったに顔をみることはありません。だからモミィと違って、見るたびにどんどん大きくなっていきます。

要するに…
前回会ったときは首も据わっていなかったのに、次に見るとしゃきんと首が立っている。今まで座布団の上に寝転んだ静止していたのに、次の時は寝返りをうつ。その次に見ると、もう寝返りをうちまくりで、10回転ぐらいして壁にぶつかっている。その次に会ったときは、這うようになっている。そして今では密林の兵士のように、匍匐(ほふく)前進して、欲しい物に手を出そうとあがき回る。欲しい物をその手につかんで、悪さをしたがっているのです。

そんな具合で、あっという間に7ヶ月が経ちました。

しかし、まあ、さすがに男の子だな~と思う時があります。
モミィは抱かれていてもじっとしていましたが、ソラは要注意です。
ソラを抱いていて、急にパンチを食らったことがあります。
それがまた、強烈な右フックだったりして、「ぎゃぁ!」と叫びますよ。
痛いのなんのって、「こらぁ~」と文句を言いたくなるほどです。

いきなり爪で目の上を引っかかれたこともあります。…油断も隙もない。

握力も、モミィの同時期のそれとは比較にならないほど強いので、首などを、とがった爪でギュッと握られると、皮膚が破れるのではないかと思うほど痛い。
(爪を切っておいてくれ、爪を!)

ソラは長い間ミルクを吐いていました。
抱くと必ずミルクを吐き、抱いている者の服がミルクだらけになります。
幽門に何か不具合があるのかもしれない、という医師の見立てでした。
ずっと病院に通っていたのですが、最近は吐かなくなったようです。
まずは、一安心。

少し人見知りをするようになってきたのか、先週、久しぶりに会って僕が抱くと大泣きしました。でも、数日、続けて遊びに来て顔なじみになると、もう泣かなくなりました。すぐに慣れるのですね。

2人並べて写真を撮るのには苦労します。
ソラは基本的にカメラ目線できょとんとした顔を正面に向けてくれますが、モミィは写真を嫌がってか、ちょこちょこ走り回り、じっとしていません。どうにか2人がくっついたので、さてシャッターを押そうとすると、またモミィが下を向いたり離れて行ったり後ろ向きになったりして、なかなか撮らせてくれない。冒頭の写真は、やっとこさ撮れた1枚です。

それにしても、…子供というのは、疲れを知りませんね。
こちらは、つきあうのに、ほとほと疲れます。

自分の子供たちが小さかった頃のことって、ほとんど忘れましたけど。

やっぱり、こ~ゆ~感じだったのだろうか…

 

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 引きこもりの日曜日

2007年12月16日 | 心と体と健康と

    看板の写真を撮っていると 「田舎モンみたいですねぇ」 と部下に言われた
 

先週から風邪気味だったのだけれど…
一昨日・昨日と忘年会が続き、調子よく飲みました。
しかし、快楽の代償は必ずやって来る…
昨晩から咽の奥が痛み、鼻がツンツンに詰まって明らかに風邪の悪化です。

本来であれば、今日は、のこたんさんがブログで紹介しておられた芭蕉の「奥の細道のむすびの地」の碑のある大垣へ行くつもりでした。朝5時17分の最寄り駅の始発電車に乗って、大阪駅を6時なんぼ発の新快速で米原まで行き、そこで乗り換えて大垣に8時なんぼに到着して、ぶらぶら歩いて、写真を撮って、早い目に帰ってきて、明日のブログ記事にこのことを載せよう…

そんな目論見は、体調メロメロのせいでみごとに外れました。
大垣行きは延期です。残念無念。

今、僕は、家の中で、マスクをし、毛糸の帽子をかぶり、銀行自動支払機の防犯カメラに写っている不審人物のような姿で、パソコンに向かっています。

2日間の忘年会のことを書きます。

一昨日は、職場の忘年会で、最近、職場の近くにオープンした「かに道楽」へ行きました。難波の道頓堀の「かに道楽」はおなじみですけれど、その支店が最近、あちらこちらにオープンしているのです。

 

       

       さあ、準備完了 いただきま~す

 


メニューはこちらです。

いちおう「雪月花」という会席を頼みました。

ビールや日本酒や焼酎のお湯割りが、よ~く合いそうでしょう?

翌土曜日は、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの入口にある「ホテル日航ベイサイド大阪」での宴席に出かけました。
こちらは、夜ではなく、お昼です。


 

 
   
R ユニバーサルスタジオジャパン駅から降りたところ
     左端に 「ホテル日航ベイサイド大阪」 の文字がチラッと見えています

 

ここは、バイキング方式になっており、しかも、ビールやワインの「飲み放題」という恐怖のシステムのおまけつき。これまた飲み放題となると、お酒の誘惑に弱い僕は、風邪気味なことも忘れ、しかも耳鳴りまでも忘れ、ビール、チューハイ、白ワイン、赤ワインと飲みまくり、結局、夕方に家にたどり着いたときはふらふらで、もう夕方の6時ごろにベッドにもぐりこみ、といって朝まで熟睡できるわけもなく、朝の8時ごろまで、寝転んだままぐずぐずしていました。

症状は…風邪引き 及び二日酔い 並びに三日酔い。

朝の5時17分の電車に乗って大垣に向かうどころか、8時ごろまでベッドでのびていました。咽は今も痛みますが、アルコールが抜けていくと少しずつ症状が穏やかになりつつあります。これはもう、風邪引きというより、酒引きと言ったほうがいいかもしれませんね。

実は明日、大事な会議があり、それが終わると、そのメンバーが集まる格式ばった忘年会が、大阪市内のホテルで行われます。僕はそれの世話役に当たっており、司会進行役もしなければなりません。明日までに、なんとかこの不快な症状を消し飛ばさなくてはならないのです。

そんなことで、今日は一日、どこへも行かず、のんびりと家で過ごしました。

といっても、耳鳴りを気にしないためにも何かをして気を紛らわさねばなりません。それには、このパソコンが役立ちます。

このごろ、パソコンを開けると必ず見るページがあります。
耳鳴りに悩む人たちの掲示板で、いろんな情報提供あり、体験談ありで、たいへん参考になり、励まされますし、同じ悩みを持つ人たちに共感を覚えます。

以前にもご紹介しましたが、「耳鳴り治した~い!」 という掲示板です。

最近、ブックマークもつけました。
僕には、毎日欠かせない貴重な掲示板なのです。

昨日の朝、その掲示板で、ある衝撃的な事実を知って驚き、初めてその掲示板へ「のん」の名前で書き込みをしました。

すると、今日、パソコンを開けてみると、この掲示板のメンバーの方のお2人からさっそくコメントが入っていました。

akiraさんとyukariさんです。

akiraさんは、心房細動(不整脈)と耳鳴りを持っている、という、僕とまったく同じ症状の方で、それだけで親近感を持ってしまいますよね。

また、yukariさんは、いま通院されている病院が、なんと、僕が通う大手前病院だと言うことで、こちらもあまりの偶然のことに、驚きを通り越して言葉もありませんでした。

世の中は、広いようで狭いです。

耳鳴りの辛い症状と、それに伴う不安や閉塞感を、ともに共有しているという感覚は不思議なものです。初めて知り合ったのに10年の知己のような印象を持ってしまいます。やまぶきさんと知り合えたこともそうですし、また、unsuiさんという方からも昨日コメントをいただき、「自分は、耳鳴りは意識の切り替えによって消すことができる」と教えていただきました。こうした貴重な情報を得ることは、ネットならではであり、そのめぐり合いは運命的でもあり、耳鳴りに負けないぞ、という闘志を与えてもらう原動力になることでもあります。そこがネットの素晴らしいところでしょうね。

辛いのは自分ひとりだけじゃない。

そう思うと勇気も希望も湧いてきます。
いつか、必ず、何とかなる! という気にもなってきます。

今日はパソコンと向き合い、akiraさんとyukariさんとunsuiさんたちにお返事を書きながら、つくづくそう思いました。風邪と酒のため、たまたま家にこもることになった1日でしたが、こうした方々とパソコン、ネットを通じて対話が出来る幸福感に浸ることの出来た意義深い1日であったと思いました。

 

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 大修行 ! 讃岐うどん巡り

2007年12月14日 | ウォーク・自転車



10人足らずの仲間が寄って「仙人をめざす会」というのを作っている。
清廉かつ厳粛な人格を有することが、メンバーになるための必須条件である。
僕は、言うまでもなく、その条件を完璧に満たすメンバーの1人である。

毎年夏になると、奈良県にある大峯山(修験場があり、女人禁制で有名)へ修行に行く。朝早くから山頂へ登り、昼ごろ下山して、なじみの旅館で風呂に入り、ビールを飲み、昼寝をして帰るというまことに厳しい修行を積む。何年かに一度は、四国の剣山や石鎚山へも遠征したりする。

その「仙人をめざす会」の幹事が、このたび修行の場として選んだのが、四国香川県の高松市、「讃岐うどん巡り大修行」であった。これの何が「修行」なのかは、参加したメンバーにもよくわからなかったが、あまりそういうことで悩んだりすると、仙人にはなれないのである。

…そんなことで、11月のある爽やかに晴れた土曜日、「仙人をめざす会」の5人が、讃岐うどんめぐり修行に出たのであった。

大阪を朝6時半に出発し、明石大橋から淡路島を通過して、9時半には高松市内へ着いた。市立駐車場に車を置き、一行は県庁などを横に見ながら歩き始め、間もなく、めざす1軒目の讃岐うどん「丸山製麺所」へ到着した。

小さな店だ。営業時間は朝の6時から午後2時までとある。
朝食にうどんを食べる人が多いのだろう。

 
        丸山製麺所  (11月10日撮影。以下同じ)

僕たちは全員かけうどんを注文した。すべてセルフサービスである。
鉢にうどんの玉だけ入ったものを受け取り、自分で湯がき、ひしゃくでだし汁をすくって鉢に注ぐ。そして、備え付けのネギと天かすをパラっとかけて出来上がり。

「ちゅるちゅるツルツル・ちゅるちゅるツルツル…」
うどんのコシもだし汁も、なかなかのものである。

かけうどん一杯くらいは3分程度で食べ終える。
ちなみに代金は、ひとり分が140円であった。

「よろしいかな? では…」
幹事の号令により、我らはすぐに立ち上がり、次のうどん店へ向かう。

5分も歩かないうちに、次の店に到着した。
「松下製麺所」という、ここも、ごく小さな店である。


 
       松下製麺所


ここでも同じように自分でうどんを湯がき、ダシを入れ、ネギと天かすを放り込む。店内は、地元の人や観光客ふうの人で込み合っている…というより、狭いので、10人も入れば満員である。
「ちゅるちゅるツルツル・ちゅるちゅるツルツル…」
先ほどのうどんとは微妙に硬さが違うし、ダシは少し濃い目である。
う~ん。ツルツル。ふむふむ…。ツルツル。
店によって、それぞれに特徴があるが、甲乙つけがたい味わいだ。。

「では、次へ参ります」
またも幹事の号令で、一同席を立ち、鉢をカウンタに戻して外へ出る。
2杯くらいでは、まだまだ満腹にはならない。
わりに食べられるもんだなぁ…と思いながら次の店をめざす。

幹事役が地図を見ながら歩くのだが、次の店(塩田麺業)はシャッターが閉まっていて休みだった。
「土・日曜日はお休みです」
と張り紙がされていた。
「んりゃりゃりゃりゃ~…?」
と、仙人をめざす5人に動揺の色は隠せなかったものの、そこは百戦錬磨の修行を積んできたツワモノどもである。すぐに気を取り直し、
「ほんなら、次行こか」とせわしなく幹事を促す。

「では、次は…。え~っと、次は~ねぇ…」
と、幹事はまた地図に目をやり、午前中最後の修行場を指で示し、
「ここからだいぶ歩かなあきまへんで」
と言い、香川県庁のほうへ歩き出した。
4人は金魚のフンのように、幹事の後ろを付いて歩く。
全員、幹事から地図を配られているのだが、誰も見ようとしない。

ぞろぞろ歩き始めたそのときであった。
ついにメンバーの一人が、あまりの修行の厳しさに音を上げた。

「まだ行くんか? わしはもう、うどんは食べられへんでぇ」

最年長(70歳)のヤマさんが、お腹をなでる仕草をした。
「腹いっぱいやがな~。おまえら、よう食えるなぁ…」
年齢のせいか、胃袋が小さくなっているのだな…お気の毒に。

情けは人の為ならず…
みんなはヤマさんの声を無視して、黙々と先を急いだ。

3軒目の店「さか枝」は、これまでで一番大きくて観光客も多く、少し俗化されたような雰囲気があった。ここのうどんは量が多く、さすがに食べ終えたときは満腹になったけれど、ほかのメンバーはちくわの天ぷら(一個80円)なども皿に入れて食べていた。たいした食欲である。ヤマさんだけは何も食べず、隅っこのほうでつまらなそうに立っていた。



          さ か 枝


3軒のうどん修行を終えた一行は、そのあと、予定通り琴平電鉄に乗って源平古戦場として有名な屋島へ行き、南嶺にある屋島寺まで登った。不整脈の手術以来、激しい運動を控えていた僕は、みんなに気遣ってもらいながら、ゆっくりゆっくりと登ったけれど、頂上に着いて、展望台から瀬戸内海の青々とした風景を見ると、久しぶりに心が勇壮感に満たされていくのを感じた。


 


 
登りきったところに屋島寺がある(四国八十八ヵ所第八十四番札所)

 

  
      瀬戸内海が広がる  (展望台で)

元の道を下ったところに、四国村というのがあって、その入口部分に「わら家」という大きなうどん屋がある。ここが、本日最後の修行の場となるのだ。






  

 

大きなたらいに5人分のうどんがドドド~ンと入っている。
一行はまた「うまい、うま~い」と叫び、美味なツユに浸けながらツルツルと麺を吸い込んでいったのである。
僕は、ここではうどんはあまり食べなかった。
最後の超人的な苦行に挑戦するためである。

その血も凍りつくような最後の難行・荒行である「生ビール一気飲み」で、僕は、グビグビグビ~っと、目にも留まらぬ早業で飲み干したのだ。
そして、お代わりを注文した。みんなジョッキの中の半分も減っていない。
「のんさん。あんた、不整脈で調子悪い…言うてたん、ほんまかいな?」
と、みんなから怪しまれた。

言われてみれば、そうである。
夏に入る前から、これまでずっと、いろんな誘いをほとんど断ってきた。
飲み会であろうが、歩く会であろうが、登山であろうが…
「体調を崩していますので」と、ことごとく断り続けた。

だから、最後の苦行で見せた僕の一気飲みには、みんな驚いたようだ。

しかし、我々は「仙人をめざす会」なのである。

これくらいの「変わり身」を見せずして、何が仙人であろうか。



 

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モミィの成長日記 

2007年12月12日 | モミィの成長日記

    モミィはブロックで遊ぶのが好き。 僕はブログで遊ぶのが好きですけど。
  

みなさん、こんにちは。 

モミィで~す。

平成17年10月生まれで、今は2歳2ヶ月です。
たんぽぽさんの「姫ちゃん」は、同じ年の12月に誕生されたので、モミィが2ヶ月ほどお姉ちゃんです。でも同学年ということになりますね。
ちひろさんの「のすけクン」は、平成18年の9月のお誕生なので、モミィはのすけクンの1歳上、ということになります。

さて、このモミィと僕との関係ですが、なかなか複雑です。
え~、つまり、僕の長男のその長女…という、まあ込み入った間柄なのです。
(どこが込み入っているのだ?)

わが家から長男夫婦が住むマンションまで、歩いて2、3分の距離です。
そんなことから、ほぼ毎日、モミィとは顔を合わせています。

モミィには今年5月に誕生した弟がいます。
空(ソラ)といいますが、これは次の機会に紹介させてもらいます。

今日は、モミィが最近やたらに口数が多くなったことについて書きます。

元々言葉を覚えるのは遅かったのですが、最近、急にしゃべりはじめました。

例えばこの土・日は、モミィは自宅に帰らずわが家で寝泊りをしていましたが、外出しても家にいても、とにかくしゃべる、しゃべる、よくしゃべる。

しゃべれども、しゃべれども、まだしゃべる。延々としゃべる…。

外に出ると、まっすぐ歩かないで、あちらをきょろり、こちらをきょろり。
「おはな…きでい(きれい)。かぜ、きちゅい。ちゃぶい、ちゃぶい。ちんごう(信号)あお。ばちゅ(バス)きた。ばちゅ、ばちゅぅ~、きたぁ」

こんな調子で、ず~~~っと、ず~~~っと、しゃべりっ放しです。

僕は四六時中いっしょにいるわけではないから、まあいいのですが、妻は朝から晩までモミィにつきまとわれて、延々と話しかけられています。そのつど、妻は丁寧に返事をし、モミィと根気よく会話をしていますが、横で聞いていて、僕にはさっぱり意味がわからないことが、しばしばあります。
モミィ語は、時にはスペイン語より難解だったりする。

昨日も、寝転んでいる僕の顔をのぞきこんで、こんなふうに言った。

「ぼんぶじゃんばぁ おぶどに あぁってぐうがぁ~ね」

聞こえたままを書くとこんな具合になるのだが、これを妻が翻訳すると、

「モミィちゃんは お風呂に入ってくるわ~ね」

と言っているのだそうである。

「へえ、そうか。これからお風呂にはいるんやな。ええなぁ~」
と、すぐに返事をしてやれば本人は目を輝かせ、またそのセリフを繰り返す。

しかし「はぁ…? なにやねん…? どないしたん…?」
と僕が首をかしげると、じっと僕の目を見て、やっぱりそのセリフを繰り返す。

「ぼんぶじゃんばぁ おぶどに あぁってぐうがぁ~ね」

そして「ぼんぶじゃんばぁ、ぼんぶじゃんばぁ…」といつまでもしゃべる。
だんだん、トーンが高くなってくる。
必死に訴えている様子がよくわかるのだが…。
「う~ん。なに言うてるのか、わからんなぁ…」
と言うと、しばらく僕の顔を眺めてから、やがて黙り、ニィっと笑うのである。

相手が理解できないからと言って、不満顔をすることはない。

モミィは、大人同士の会話にも、強引に割り込んでくる。
自分以外の人たちの会話を、黙って聞いているということがない。

昨晩、風呂に入る前に僕が「パジャマ、どこにあるん?」と妻に尋ねていると、
それを横で聞いていたモミィは、ドタドタと僕のそばに寄ってきて、
「ぱ~じゃま、ぱ~じゃま!」と叫んでから、
「ぱ~ぁじゃまは、ぱんちゅはいて、ぱ~じゃまはくねんで。ぱ~じゃまは、ぱんちゅはいて、ぱ~じゃまはくねんで。ぱ~じゃまは…」と、故障したテープのように、同じ言葉を何度も何度も僕の耳元で、大声で繰り返す。

これは、いつもモミィが風呂から上がってきて、妻からパンツ(おむつだけどね)とパジャマのズボンをはかせてもらうときに、
「パンツをはいてからね~、次にね~、パジャマをはくんだよ~」
と説明されて、はかせてもらっているものだから、それが頭に刷り込まれているのであろう。モミィは、僕が一言「パジャマ」という言葉を発すると、自分のその状況をとっさに思い浮かべるのだ。そして、こう叫ぶ。

「ぱ~ぁじゃまは、ぱんちゅはいて、ぱ~じゃまはくねんで」

つまり「パンツをはいてから、パジャマ(のズボン)をはくんだぞぉ」
と僕に大声で、何回も繰り返して、教えてくれているのである。

わかってる、つ~の。

僕も、ちゃ~んと、パジャマの下にパンツはいています。

 

 

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 これが最後の手帳なのだ

2007年12月11日 | 日常のいろいろなこと


先日、システム手帳の月間予定と週間予定の2種類のリフィルを買った。
来年…つまり、2008年の分である。

手帳が新しくなると気分も引き締まる。
この手つかずの白いページに、来年はどんなことが書き込まれるのか…

そんなことを思いながら…
新しい年のリフィルをバインダーにはさみ込んで、パラパラと順番にめくって行って、最後のページをよ~く見ると、2009年の3月31日であった。

げぇ~

2009年の3月31日 !!! …といえば、僕の定年退職の日じゃないか。

          

あぁぁぁぁぁ~ 

もう、この手帳の最終ページが、38年間の勤務生活の最後になるのか…

う~ん、早いものだなあ…。

この手帳が終わると「現役引退」かと思うと、少し寂しい。

ちなみに「その日」 → 2009年3月31日は、火曜日だ。

今日も火曜日だから、数えてみると…え~っと(電卓で計算している)

出たぞ。68週間だ。あと68週間後の火曜日…

今から数えて68回目の火曜日が → 3月31日 → 退職の日、となる。

僕の「お勤め」は、あと68週間なのである。

…それを日数にすると、…え~っと(また電卓で計算。ヒマだな、僕も)

え~っと、476日だ。残すところ476日なのである。

…ん ?????????????(ふと、ここで我に返る)

476日 !

まだ、476日も…

仕事に行かなければならないのか。

あぁ~ 長いなあ ……  …… (何だそれは?)

 

 

  
  2009年3月のページ。 これが 「現役」 で使う手帳の最後のページになる。

 

 

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 75歳の挑戦 三浦さん

2007年12月10日 | ニュース・時事

先ごろ、新聞で、プロスキーヤーの三浦雄一郎さんに関する記事を読んだ。
75歳の三浦さんが、来年5月にチョモランマ(エベレスト)への登頂にチャレンジする、という記事だった。

三浦さんは4年前の70歳の時、当時としては世界最高齢でチョモランマに登頂したが、その後、最高齢の記録は他の人に更新されたということだ。今回は75歳で再び最高齢記録をかけて挑戦する。

まだ学生の頃だったと思うが、1970年代に入ったころ、「エベレスト大滑降」という映画を見た。8,000メートルの地点からスキー滑降を成し遂げる人の物語だったが、その人物が三浦雄一郎だった。自転車で北海道まで往復70日間の旅をした後だった僕は、この映画に感動し、ますます冒険の世界に魅せられていった。

その三浦さん。今は74歳になるというのに、来年、また世界記録をめざす。
体力はもとより、その気力はどこから湧いてくるのだろうか。

人は幾つになっても夢を持つこと、その夢の実現に向かって努力し続けること、 さらに困難や危険を承知の上での諦めない一歩づつ、小さな一歩づつの積み重ね がいつか世界一の頂上に立てるのだということを教わりました。

三浦さんの言葉である。

何歳になっても「夢」を持つことが大事なんだなぁ~

しかし、そんな三浦さんも、前回、70歳でチョモランマ登頂後、病気になった。
病気というは「不整脈」(心房細動)である。

この病気は、僕とまったく同じである(そんなところだけ一緒じゃなぁ)。

僕はこの8月、不整脈(心房細動)を治してもらうため、カテーテル手術を受けたけれど、手術中に不具合が生じて中止され、治せないまま退院した。

三浦さんもカテーテル手術を受けた。
一応手術は無事に終えたものの、その後また不整脈が再発した。
そのため、2度目のカテーテル手術を受けたという。
(カテーテル手術も、2回も3回もしなきゃならない場合があるのだ)

そして、先ごろ、リハーサルとして約1ヶ月間、チョモランマへ遠征して、高度順化を行いながら、体調を確認してきたということがその記事に書かれていた。

「75歳という年齢と持病をぜひ越えてピークに立ち、できる限り高所からのスキー滑降もしたい」と語る三浦さんである。

持病の不整脈で2度のカテーテル手術を受けても、まだ完治しているかどうかわからない状態にある三浦さんが、この年齢で世界の最高峰に挑もうとしている。

う~ん。すごい。怖いもの知らずだな~。

僕などは、怖いものだらけである。

僕の不整脈は今のところ薬でコントロールできているが、もう1度カテーテル手術を受けるか、と聞かれたら、あの苦しい検査、痛い手術を思い出し、「よっしゃ、やりまっさ!」とはすぐに言えないと思う。

三浦さんにとっては、カテーテル手術なんぞ、チョモランマ制覇の前には、その辺に転がっている石ころ程度にしか感じていないのだろう。

まあ、同じ不整脈仲間、カテーテル仲間ということでも、三浦さんを応援したい。

…で、それに刺激されて、僕も来年は7年ぶりのフルマラソンにでも出ようかと奮起して、一昨日の土曜日、久々にジョギングをしたのであるが…。

                    

しかし…
昨日も、今日の朝も、足が痛い、腰が重い、股関節がおかしい。

もう年か…とは、三浦さんのことを思うと言えないのがつらい。

 

 

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 耳鳴りに悩む人たち

2007年12月08日 | 心と体と健康と

耳鳴りがどういうものかということは…
耳鳴りにもいろいろあるので一口では説明が難しい。

しかし、これほどやっかいなものだとは、これまで本当に想像もできなかった。

耳鳴りで悩んでいる人は多いようです。
たとえば、このブログです。

http://plaza.rakuten.co.jp/trtkokufuku/diary/200705040000/

耳鳴りを特殊な訓練法で意識から消そうというTRT療法というのがあります。
このブログは、それで耳鳴りを克服した人が掲載しているのですが、
そこに書き込んでいる人たちの苦悩の声は、読むたびに身につまされます。

こんなサイトもあります。

http://www3.zero.ad.jp/yousan/bbs

こういうのを読むと、いろんな情報が出てきて参考になったり、
気休めになったり、あるときはまた不安が増強してみたり…

耳鳴りになった最初の一ヶ月くらいは何も手につかず、
インターネットで「耳鳴り」のことばかり見ていました。
耳鳴りを治すこと以外に何の関心も持てない日々でした。

そして、こういうネット情報を見ると、やはり、耳鳴りというのは、
不治の病に近いような…、そんな印象も受けてしまいます。
そんなこと、考えたくもないのですが…

最近、やまぶきさん、という女性の方とネットで知り合いました。

  私も耳鳴りで苦しんでおります。
  10月19日に突然それは起こりました。
  耳鳴りがこんなに辛いものとは…。

そう、書かれていました。

9月26日に僕が発症してから約3週間後にやまぶきさんも耳鳴りに…。

人には突然、何が襲ってくるかわかりません。
理不尽なことですが、それを事実として受け止めるしかありません。
つらいですけどね。

やまぶきさんは、最初の頃はパニックになり、泣いたとおっしゃっています。

僕にはやまぶきさんの気持ちが痛いほどわかりました。

僕も、当初は絶望的な気持ちになりました。
ガンですら治すことのできる時代に、耳鳴りが治せないだなんて…
朝も昼も夜も夜中も…キーンと頭に響き続けるいまわしい音。
…死んだらこの苦しみから解放される。
真剣にそう思った瞬間も、大げさではなく、何度かあったほどです。

やまぶきさんも、最近は少し落ち着いてこられたようです。
読みながら、そ~か、とりあえずよかったぁ、とうれしくなります。

 やまぶきさんのブログです。

 

 

 

 

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 メガネ・メガネ・メガネ

2007年12月07日 | 日常のいろいろなこと

僕は昔から軽いめの近視&乱視だった。運転免許証用として、若い頃からメガネは持っていたけれど、映画館で掛けるくらいで、ほとんど裸眼で過ごしてきた。だから一個目以外のメガネは何十年と買っていない。それで生活に支障を生じることもなかった。

しかし、年とともに僕と同世代の友人らはだんだん老眼がかかってきて、文字を読むときには老眼鏡をかける者が増えてきた。裸眼でも小さな文字が見えていた僕だけど、少しばかりそのことが気になってきた。

「それ、ちょっと貸してよ」
と、ある時友人の老眼鏡を借りて新聞の文字を見ると、ものすごくはっきり、しかも大きく見えた。あぁ~僕も老眼になったのか…と、なんだか一人前になれたような感慨を覚えた。そして早速近くの「ビジョ○メガネ」へ行き、この際だからと老眼用と近視用の2つを作ってもらった。メガネ代はどちらも3万なんぼだった。
それが4年ほど前のことである。

なのに、せっかくあつらえた2つのメガネも…

近視用のメガネは、飲み屋で酔った時に行方不明になってしまった。
次の日、心当たりの店に問い合わせたけれど、わからないまま…。
でもまあ、なくても特に不便を感じなかったから「いいかぁ」と新たに買うのはやめた。

一方、老眼鏡の方も、せっかく作ったのに、メガネ店で合わせるときに僕の距離の取り方がまずかったのか、書類を25センチくらいに近づけないと焦点が合わないのだ。何度もメガネ店へ行くのも面倒くさかったし、裸眼でも本や新聞は読めたのでさほどの不便も感じず、「これでいいかぁ」とそのまま放置していた。要するに、どちらも3万なんぼを払ったわりには貢献度はゼロ。ほとんど役立たずだった。

それから約4年の歳月が経った。

最近、目がかすむことが多くなってきた(あ~ぁ、年だなぁ…)。

耳鳴りが始まって以来、気分が沈んでいたこともあり、せめて目だけは疲れさせたくないと思い、先月に近視&乱視用のメガネを作った。今度は「ビジョ○メガネ」はやめて「メガネの愛○」へ行った。まあ、どこでもいいんだけど…。

新しいメガネを掛けると遠くの景色もスカッと見えるようになり、人の顔のシワまではっきり見えた。だから僕は、メガネをかけて妻の顔を見るのが怖いのだ。
(妻へ。これはあくまでギャグです)

しかし遠くを見るのはいいが、文字を読む時はメガネが邪魔になるので外す。
最近、裸眼では、新聞などの字が少しぼやけて読みづらくなった。例の3万なんぼの老眼鏡を出して掛けると、相変わらず25センチまで近づけなければピントが合わない。それでも、まあ25センチに近づけたらはっきり見えるのだからまだマシだが、困るのはパソコンを打つときだ。

裸眼でパソコンの画面を見ていると、目がとても疲れる。
これをなんとかしたい。

遠くの景色は近視用メガネで十分だし、文字は25センチ以内ので老眼鏡で足りる。
しかし、パソコンを打つときは、近視用では近すぎるし老眼用では遠すぎる。
目の位置からパソコンまでの距離はおよそ40~50センチである。
この距離がなかなか微妙なのだ。

妻が、「メガネ屋さんに行って相談してみれば?」と言うので、先週の日曜日(2日)にまた「メガネの愛○」へ出向き、悩みを打ち明けた。
「遠でもなく、近でもない、中距離用のメガネってあります?」
「それってパソコン用ですよね? ありますよ」
と店の人は、こちらの心の中を見透かしたようにあっさり答えた。
「だいたい60センチくらいのところまでよく見えますよ」
…ということでレンズを合わせてもらった。

ふ~む、なるほど。合わせレンズの入ったメガネを掛けてみると…
新聞を持った両手を前に伸ばし、首を後方にそらせて60センチほどの距離をとっても文字がはっきりと見えた。20センチくらいに近づけてもよく見える。
手元用(つまり老眼用)とパソコン用を兼ねたメガネだという。
「わりと最近に開発されたものなのです」
ということであった。行ってよかった~

来週にそのメガネが出来上がってくるので、楽しみにしている。
最近は耳鳴りのために物事に集中できず、本も新聞もあまり読まなくなったが、加えて目が疲れることが活字離れに拍車をかけている。
こんな調子が続けば、僕の生活律はちゃらんぽらんに乱れてしまう。

今度のメガネこそ、自分の生活と健康に貢献してくれることだろう。
耳鳴りの不快感を少しでも拭うため、他の身体機能は快適にしておきたい。
特に目だけは、良好な状態を保ちたい。

この日はそのメガネと別に、近視&乱視用のサングラスも注文した。
ウオーキング、ジョギング、自転車、登山の時などに使いたい。

遠用(つまり近視&乱視用)のメガネとサングラス。
そして手元用兼パソコン用のメガネ…。
結局、この一月ほどで3つのメガネを買った。

年を取ると、身の回りのものにいろいろお金がかかるものなのです。

これから、この3つのメガネをうまく使いこなしていかなくっちゃ。

飲み屋で失ったりしている場合ではないのだよ、のんべえクン。
                          

 

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 御堂筋とイチョウと芭蕉と

2007年12月04日 | ウォーク・自転車

「僕のほそ道」というブログで、芭蕉のことを何度か書きました。
それどころか、「あたしゃ、芭蕉の子孫のほそ道でごぜ~ます」
などとふざけていた僕ですが、芭蕉の「おくのほそ道」には、学生時代からさまざまな影響を受けていたことは事実です。

今日はその芭蕉に関連したお話です。

   ………………………………………………………

先日、仕事の関係で三重県の伊賀市役所へ行った。

伊賀と言えば、ご承知のように芭蕉の生誕の地である。「芭蕉翁生家」も「芭蕉翁記念館」も伊賀市役所のすぐ近くにある。僕はそこへ行ったことがなく、まさに絶好の機会だったのだが、あいにくその日は他の人たちといっしょだったので寄り道もしていられず、用務が終わると、そのままみんなと一緒に帰途についた。

くやしい~。

仕方なく、駅前の芭蕉の像を携帯電話で撮影して、せめてもの名残を惜しむ「旧名ほそ道」クンなのでした。


              
              伊賀の駅前の芭蕉像(11月20日・携帯で撮影)

   ………………………………………………………

芭蕉は伊賀で生まれたのだが、亡くなったのは大阪の地だった。

つい先ごろ、大阪の御堂筋の名物、イチョウ並木が1年で一番美しい季節を迎えていた。御堂筋のイチョウのピークはほんの数日しかないと言われているので、僕は12月1日(土)に、ウオーキングを兼ねて大阪市内へ出かけた。イチョウを見ることのほかに、もう一つ目的があった。

穏やかな小春日和で、歩くには申し分ないコンディションだった。

葉はかなり散り始め、最も美しいとされる時期からは、ちょっと遅れたかも知れないが、それでも、視界の先の先まで黄色の連なり広がって行く鮮やかなイチョウに、御堂筋はいつもより一段と映えて見えた。

陽光に透ける黄金色のイチョウの葉はキラキラと眩しいほどに輝き、大阪の街をいつも以上に華やげていた。風に舞い、道路に降り注ぐ黄色い葉を見ると、しみじみと冬の訪れを感じるのだった。




御堂筋のイチョウ並木 (12月1日撮影・以下同じ)



このイチョウ並木の下に、芭蕉終焉地の碑が建っている。

この写真を撮ることが、今日のもうひとつの目的だった。

場所は、地下鉄本町駅のそば。南御堂(みなみみどう)の前だ。

芭蕉はこの場所で亡くなったと伝えられている。

伊賀に帰郷していた芭蕉は、門人同士のモメごとを仲裁するために大阪を訪れる。1694年(元禄7年)9月のことだ。そこで体調を崩し、10月が近くなると容態が悪化しはじめ、10月12日、花屋仁左衛門という人の屋敷で、この偉大なる俳聖は、51歳の生涯を終えた。

…とまあ、知ったかぶりをする僕であるが、正直に言うと、南御堂の真ん前の御堂筋の真ん中にこんな石柱が建っていたとは…、最近まで知らなかった。「芭蕉の子孫」が聞いてあきれる~(苦笑)。

渋滞している車の間を縫って、車線の分離帯に建てられている碑のところへ走る。しゃがみこんで写真を撮っていると、ずらりと並ぶ車の中から、じろじろと見られているような気がして、ちょっと恥ずかしかった。
 

 

御堂筋の緑地帯に、石柱がひっそりと立っている。
「此附近芭蕉翁終焉ノ地ト伝フ」とある。

 

御堂筋は、大阪の梅田から難波までの南北を貫く約4キロの幹線道路であるが、「御堂筋」という名称は、東西両本願寺別院の南御堂・北御堂がこの道路沿いに建っていることから名付けられた。

その南御堂(東本願寺難波別院)の附近に花屋仁左衛門の屋敷があり、ここが芭蕉の終焉の地となったということである。

僕はカメラを手にしたまま信号を渡り、南御堂の境内に入って行った。
ここに、芭蕉の句碑がある。

本堂の南側にこじんまりとした庭園があった。
そこに、芭蕉の最後の句となった
「旅に病で ゆめは枯野をかけまはる ばせを」
の大きな句碑が建っていた。

 *一般には「…枯野をかけめぐる」と伝えられているが、
  
ここの句碑には「…枯野をかけまはる」(芭蕉翁行状記)
  と刻まれていた。

 

南御堂の庭園。
「旅に病で ゆめは枯野をかけまはる ばせを」の碑

 

南御堂の庭園。
写真右側が「旅に病で…」の碑。

句碑の手前(写真左側)の立て札には、こう書かれていた。


  芭蕉句碑

  旅に病で ゆめは枯野をかけまはる ばせを

   この句は芭蕉の臨終の句の一つで、この大阪の地で吟ぜら
  れたものである。
   芭蕉は元禄七年(1694)秋 伊賀から門人達に迎えられて
  大阪に着いたが 滞在中に病気になり 養生のかいもなく10
  月12日この南御堂前で花を商う花屋仁左衛門の屋敷で51歳を
  一期として旅の生涯を閉じた。
   この句碑は後世 天保の俳人達によって建てられたもので
  ある。
   当南御堂では 芭蕉を偲んで毎年芭蕉忌勤修され 法要の
  後盛大に句会が催されている。
                      南御堂
                        難波別院

 

南御堂の本堂のラックに並べてあった「南御堂と芭蕉」という冊子をもらって、南御堂を出た。御堂筋のイチョウを眺めながら歩き始めると、右足の指に痛みを感じた。どうやらマメができたようだった。

時計を見ると午後1時半。
朝8時から歩き始め、食事や休憩時間を除くと4時間ちょっと歩いただけで、もう足にマメができるとは…半年余り運動不足が続いていたツケが回ってきた感じである。

う~ん。
今年は何だかんだと心身のトラブルで、ずいぶん脚力が落ちた。
芭蕉の「強さ」を見習わなければ…。

当時としてはかなり高齢の46歳で「おくのほそ道」の旅に出た芭蕉は、5年後にこの大阪で客死するのだが、このときも、当然ながら伊賀から大阪まで歩いて来ているのである。途中「暗がり峠」という奈良と大阪を遮る峻険な峠があるが、芭蕉はそこを越えて大阪に入っている。最後まで強靭な脚力は衰えていなかったものと思われる。

何をするにしても「歩く力」は重要である。

その驚異的な歩行力から「伊賀の忍者だった」…との説もある芭蕉にあやかって、僕も強い脚力を身につけたい。

「イチから鍛え直さなきゃな~」

イチョウ並木の木漏れ日を浴びながら、足のマメの痛みで今年の長かったブランクを肌で感じたけれど、よ~しガンバローと、気を入れなおして再び御堂筋を歩き出す「旧名ほそ道」クンでした。 
 

 

 

 

 

 

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 自己紹介と近況報告

2007年12月01日 | 心と体と健康と

こんにちは。
新たに始めたブログの第1回目ですから、まず自己紹介から始めます。
名前は「昇」です。今年79歳になる母が、僕を出産した頃に人気絶頂だった(らしい)霧島昇という歌手のファンだったことから、「昇」と名付けたそうです。こういう名付け方って、今もよくあるケースですね~。

しかし、まあ霧島 昇と言われても…
ご存知の方はどれだけおられるのでしょうか?

♪花も嵐も踏み越えて~

…という「旅の夜風」という歌が有名です。
「旅の夜風」は大ヒットした映画「愛染かつら」の主題歌だそうです。

「愛染かつら」…? はあ…? ナンですかそれ…? 
…って言う方にご参考までに。

こういう感じです。

ご存知でしたか…?

僕は、昭和24年生まれの団塊世代なのですが、この映画や歌は、僕が生まれるより10年以上も前にヒットしたもので、タイトルや歌のサワリ部分を耳にしたことがあるだけです。自分の名前の由来となったこの歌手のことは、詳しくは知りませ~ん。念のため言っときます。

ついでですが…
ブログのタイトル「陽はまた昇る」は、自分の名前の「昇」に引っ掛けたというだけです。意味もオチも何もありません。

…で、名前が「昇」だから、のんと日常でも呼ばれています。

うちの子供などは、生まれてから一度も僕のことを「パパ」とか「父ちゃん」とか呼んだことがなく、幼児の頃からずっと「のんちゃん」と呼んできました。まあ、これは、自分が早く結婚して早く子どもができたものだから、「お父さん」などと言われるのが照れくさくて、意図的にそう呼ばせたものなのです。子どもたちはもう30歳代になっていますが、未だに僕のことを「のんちゃん」と呼んでいます(笑)。

最近ことばを覚え始めた2歳の孫まで、僕のことを、
「のんんっ!」と妙な発音で叫んでおります。

ということで、このブログでは、僕の名前は「のん」です。
のんちゃん、のんすけ、のんべえ、のんちん、のんたん、のんぽこ、何でもいいです。でも「のんすけ」というと、ちひろさんちの「のすけクン」を連想してしてしまいますね。(そんな可愛いもんですかい!)

以上が、とりあえずの自己紹介でした。

   ………………………………………………………………

さて、ここから暗くて長~い話になることをお許しください。

僕の近況ですけれども…
今年の8月下旬、K大学附属病院で、持病の発作性心房細動(不整脈)の手術を受けました。

カテーテル・アブレーションと言って、管を血管内に入れて心臓部にある患部を焼き切る治療ですが、手術途中に、不都合が生じ、危険な事態に陥る可能性がある、ということで中止されてしまい、8日間も入院したというのに何の成果もなく、失意の中で退院する…ということになってしまいました(ガッカリ)。

これについては、生まれて初めての入院・手術という体験談としてまた詳しく書く機会があると思いますが、とにかく結果は思いも寄らぬ残念なものに終わりました。

それ以後、K大学附属病院には行かず、約1ヵ月後の9月21日、この分野では最高峰と言われている国立循環器病センターに出向き、再手術に関する相談をしたところ、僕の現在の心房細動の状態では、あえて危険な手術をする緊急性はない…、という所見が示されました。そして当分の間、薬で様子を見る方がいいのではないか、ということになりました。

今後、心身ともに生活改善をして薬治療を続けようと決心した一方で、手術を勧めるくれる人たちもあって、それでまた迷ったりして、心が揺れ動きました。その上さらに、いろいろなことも重なってストレスが高じたのか、…いったい何が原因だったのかわかりませんが、9月26日に突如、身体に、かつて経験したことのない異変が起こりました。

その日の午後9時ごろでした。
風呂の湯舟に浸かったとたん、ジーンというかキーンというか、高い音の耳鳴りが、左耳の奥のほうでし始めたのです。セミの鳴く声のようでもあり、金属音のようでもある大きな音量が、頭中に響きます。その夜は、やかましさと不安に加え、動悸と吐き気までして、一睡もできませんでした。

次の日も、その次の日も、頭の奥で響くキーンという音は鳴りは止みません。同時に動悸が激しく打ち、吐き気が続きます。いつもの主治医のところに駆け込んでも
「耳鳴ですかぁ…。う~ん、治るのはむずかしいですね~」
と腕組みをするばかりです。普段正常な血圧も、この時は上がっていたことから、降圧剤と吐き気止めをもらって帰るだけでした。

次に耳鼻科へ行くと、
「聴力は悪くないです。神経から来ているものでしょう」
とあっさり言われ、ビタミン剤を出してくれただけ。
さらに、吐き気が止まらないので胃腸科へ行き、初めて胃カメラというものを飲んで検査をしてもらいましたが…これも異常なし。

別の日、近くにある大きな病院の循環器科へ行くと、「不安症でしょう」と言われて精神安定剤を出され、脳外科のほうへ行くとCT検査の結果も異常なしで、「うつ、自律神経失調、男の更年期…みたいなものでしょう。心療内科の診察を受けることを勧めます」と言われる始末でした。僕は「耳鳴り」の治療に出向いているはずなのですが、医師から返ってくる言葉は、それと何の関係があるのか?? と思われるようなことばかり。

うつ…?
自律神経失調…?
男の更年期障害…? 

   

なんで僕がうつなんだ。冗談ではありませぬ。

でも、2人の医師から安定剤を飲めと言われ、心療内科を勧められた。
精神安定剤って、何のためにそんなものを飲むわけ?
「…僕の症状は精神病?」と医師に聞きました。
「心療内科は、精神病院のようなところとはまた別です」
と医師は説明する。
「でも、この耳鳴りが精神的な病気なんて…」
なんだか、納得がいかない。
でも、医師によると、たとえば頭痛でやってくる患者の半分以上は自律神経の乱れなどが原因であり、耳鳴りも同じ原理で心身症として現れる。だから、心療内科で診てもらうのがいい、と言うのです。

そこで、次は、近くにある心療内科を、インターネットで探して出かけて行きましたが、たどり着いた先は、廃屋のような建物の怪しげな診療所でした。ヌーっと姿を現した無口で不気味な医師は、
「耳鳴り? う~ん。難しいよ、これは…」
とぶつぶつ言いながら、僕の喉元と耳の後ろに2箇所の注射をしましたが、なんか、ちょっと怖かったです。…それによって耳鳴りは一時的には静まったものの、1時間ほどすると、またジーンキーンと大きな音が響き出しました。
「耳鳴りは耳鼻科では治らんよ。1年ほど経ったら慣れるそうだけど」
無表情に言い切る医師。
「治らん…? 1年経ったら慣れる…? ……??」
僕はがっくりと肩を落として、診療所を出ました。
なんだかなぁ…。

それで…
いよいよこの耳鳴りが、ただごとではないことを感じ始めました。
これは、大阪市内の大病院に行って診察してもらわなければなるまい。

そして、10月9日に、大阪城のそばにある大手前病院へ行き、そこの耳鼻科で診察を受け、医師から「CT検査だけではわかりませんから」と言われて、数日後に脳のMRIの精密検査も受けたのですが、やっぱりこれも異常なし。脳の病気から来ている耳鳴りではなく、命に別状はない、ということでした。そして、精神安定剤やビタミン剤、血流のよくなる薬など、何種類かの薬をもらいました。

僕の耳鳴りは、「耳を澄ませば聞こえる」程度のものではなく、かなりの音量で、ず~~っと鳴り続けています。この苦痛は、耐えがたいものです。不整脈は、発作が出たときだけは苦しいですが、普段は何もありません。しかし、耳鳴りは、休む間なしに鳴り続けるのです。

脳血管に異常はないと言われて一応は安心しましたが、原因がわからないので、この先どうなるのかという不安が、いよいよ募るばかりでした。

大手前病院での診察は現在も継続していますが、耳鳴りはいっこうに止みません。経験のない人にはわかり難いでしょうが、24時間休みなく、頭中をキーンという強烈な音が響きわたり、本当に煩わしいものです。気にしてイライラしてくると、本当に気が狂いそうになります。しかし、外からは音も聞こえないし、音量も人にはわからない。だから、医師にも、この苦痛の度合いは、よくわからないのではないかと思います。

耳鳴りのおかげで集中力も注意力も湧いてこず、何事にも根気がなくなり、やる気も失せて、仕事も半分以上手がつかない状態が続きました。
注意力が散漫になるので、物忘れも激しくなり、毎日、あれをどこに置いたのか…?、家や職場でうろうろすることの連続です(とほほ)。

僕の耳鳴りは、脳が何かの拍子に意味のない音を感知して、そこに回路ができてしまい、そのためずっと鳴り響くという、最も治りにくい部類に入る耳鳴りの症状なのだそうです。脳で感知している音が響くのだから、たとえ耳を切り落としても、この耳鳴りは治らない、というものなのだそうです。

原因が不明だから、治療の施しようもないっていうわけ。

発症して2ヶ月以上が過ぎましたが、それまで左耳だけだったのが両耳に響くようなり、さらに最近また音が大きくなってきたような気がします。地下鉄に乗っていても、耳の奥の「キーン」とか「ジーン」とかいう音は、響いています。これだけ医学が進んでいる時代でも、耳鳴りを治すことは至難の技とされているという事実を、僕はこれまで、まったく知りませんでした。世の中には、いろんな病気で苦しんでいる人がいる、ということを、この年になって、初めて、わが身をもって知ることになったのです。

苦痛を少しでもやわらげるため、デパスという安定剤(抗不安剤)を服用しています。昼に1錠、夜寝る前に1錠飲んでいます。

耳鳴り、という言葉はよく聞いていましたが…
あの、飛行機の中でツーンとなるような、そんなんじゃありません。
耳の中よりも、頭の中がキーンと響き続けるのです。
耳鳴り、というより、頭鳴り、です。
こんな「病気」が世の中に存在していたのですね。
耳鼻科もお手上げ。

あとは、音が気にならないようにするため、心療内科、精神科の受診を考えるべきである、ということが家庭医学書には書かれています。カウンセリングなんかが有効だ、ということも言われています。要するに、治るのは難しいけれども、「慣れる」ことは可能である、ということなんでしょうね。

悶々とした日々が続きました。

「夜明けの来ない夜はない」と言いますし、「止まない雨はない」とも言います。しかし…。耳鳴りのない、静かな日は、もう自分の人生には戻ってこないのかも知れない、と思ったりします。そう思うと、不安が高じて、また動悸がしたり、吐き気がしたりするのです。今はただ、この耳鳴りによって引き起こされるストレスで心身のバランスが崩れ、それがまた耳鳴りを大きく感じさせるという悪循環にだけは陥らないように、何とかストレスをためず、意識的にリラックスをするように心がけています。

自分をリラックスさせ、自律神経を制御する方法としては…

自律訓練法
筋弛緩法
認知療法
ヨーガ
瞑想
座禅
などなど…いろいろあるみたいですが…。

つまり、耳鳴りが気にならないようにするには、セルフコントロールが大事なのだそうです。まあ、こんな大きな音が気にならないわけないだろ、と思っていますけど、ビールを飲んだりしてワイワイ騒いでいるときは、耳鳴りを忘れることがあります。だから、何か、耳鳴りを意識から封じ込めると、苦痛を感じなくなる、という理屈になるのだと思います。耳鳴りは治らなくても、それとうまく付き合って行くわけですね。まあ、そんなことができるようになるかどうか、まだわかりませんけれども。

今のところは精神安定剤に頼る日々です。

抗不安剤のデパスは、飲むとたしかに気分が落ち着いて、わずかですが耳鳴りの苦痛がやわらぎます。夜も、少しだけ、眠りやすいような気がします。こういう薬に依存するのは怖い感じもするのですが、でも、副作用が少なくて安全な薬だというし、耳鳴りは静まらないけれど、飲むと何となく心地よくなるので、最近はけっこう気に入ってきています。

そんなことで、ずっと、毎日毎日、耳鳴りとの格闘でした。この2ヶ月間、職場では表面上は辛うじて平静を保っていましたが、心の中はどん底状態でした。仕事の書類作成で日付を間違えたり、単純ミスを繰り返し、同じことを何度も部下に尋ねたり、意味のない指示を何度もしたり、自分でも情けないなぁ、と思いました。休みの日は、ベッドで横になったまま、何もしないで過ごすこともありました。何もしたくない。どこへも出かけなくない。ただ、布団をかぶって寝転んでいるだけ…。うつ病にかかった人の気持ちが、わかるような気がしました。

2ヶ月余り経った今では、ちょっと落ち着いてきたようです。
耳鳴りが弱くなったのではありません。
「仕方ないじゃん…」という気持ちが徐々に湧いてきました。
とにかく、この頭の中で響く音を気にしないようにしたいのです。

気を紛らわせるために、せっせと身体を動かすようにしています。

気分に多少の起伏はありますが、ここのところようやく気持ちにわずかなゆとりが出始めたかな~、という感じになってきました。夜も(安定剤がよく効いた時は)眠れる時間も出てきました。それでも、耳鳴りは益々うるさく鳴り続けています。もうひとつの心房細動(不整脈)のほうは、薬のコントロールがうまく効いて治まっているのが、せめてもの救いです。

「陽はまた昇る」は、前述のように、自分の名前をもじった単純なタイトルですけれども、まあ、考えてみれば、この言葉も自分の支えにはなるかな~と思っています。耳鳴りはキーンキーンと響いていても、気にせず、共存できる日が来ることを信じて、文字通り「日はまた昇る」ことを期待し、「まあまあ、そこそこ、楽しく」過ごせるように、自分を変えていきたい…という思いを込めて、今回このブログを立ち上げることにしました。これが、日々の生活を楽しむ快適なリズムの一環になってくれたらいいな~と思っています。

初回から思い切り泣き言を並べてしまいました。
おまけに、同じことばかりだらだらと繰り返し…

自己紹介…とは言いながら、自分の心と体のことばかりを書き連ね、読んでくださった皆さんは不快な思いをされたかもしれません。次回からは気分を一新して楽しい話題を取り上げて行きたいと思いますので、気軽に遊びに来てくださることをお待ちしています。

長々とした愚痴につきあっていただき、ありがとうございました。

くどくど書くだけ書かせていただいたおかげで、少し気分も軽快になってきました。  

 

 

 

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