僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

キムタクと山口智子 ついでに日本シリーズ

2012年10月31日 | 映画の話やTVの話など

「月9ドラマ」にキムタクが久々に登場している。
「PRICELESS」 という、むずかしいタイトルのドラマである。
かと思えば、火曜日には山口智子が復帰したドラマが始まっている。
こちらは阿部寛との共演で「ゴーイング マイ ホーム」というドラマだ。

キムタクと山口智子といえば…
これはもう、言うまでもなく、
「ロングバケーション」ですよね~

「ロングバケーション」の第1回目を見ましたか?
僕は今でも、あれだけ強烈なドラマの冒頭を見たことがありません。

山口智子が花嫁衣裳のままで、裾をまくりながら街の中を走って行く。
そして、とあるマンションの階段をハァハァ息を切らせて駆け上がる。
その一室の前に来て、彼女はドンドンドン!と思い切りドアを叩く。
ドアが開いて「はぁ…?」と出て来たのが若き日のキムタクだった。

山口智子は、その日は結婚式を挙げる日であった。
しかし、式の当日になっても相手の花婿が来ない。
彼女は花婿が住むマンションへ疾走するのである。
その花婿のルームメイトが、キムタクだったのだ…

花嫁姿の山口智子を見て「はぁ…?」と驚くキムタクの表情がいい。
とてもいい。 見ているほうまで、はぁ…???という気持ちになる。
僕はそれ以来キムタクのファンになり、妻も大ファンになった。

1996年のドラマだというから、もう16年前のことになってしまった。

かなり前のことだけれど、どこかの新聞で過去の人気ドラマの特集があった。
「あなたの思い出のドラマ」というアンケートの特集記事だったけれど、
人気が高かったベスト5に、この「ロングバケーション」が入っていた。
他は「北の国から」「東京ラブストーリー」「大地の子」「太陽にほえろ」だった。

それだけ、この “ロンバケ” の人気はすごいものがあったのだ。

その「ロングバケーション」の再放送が、先週から始まった。

なんで今、再放送なん…?
…と思うと、答えは簡単だった。

キムタクの「PRICELESS」も、山口智子の「ゴーイング マイ ホーム」も、
いずれもフジテレビだから、その宣伝の一環として、
“ロンバケ” の再放送を流しているのだろう。

でもね。
この企画は、今の2つのドラマよりも、ず~っと“ロンバケ”のほうが面白いよ…
…と、フジテレビが、むしろそちらのほうを宣伝しているようなものである。

今回はキムタクの役どころも複雑で、話の筋にもついていきにくい。
山口智子は共演の阿部寛の陰に隠れがちで、
しかもぽっちゃりと太り、昔の面影が薄れた。

“ロンバケ” は、以前再放送されたときビデオテープで録画したが、
今ではテープも処分してしまった。

ちょうど良い機会なので、今回、改めて録画しているところだ。

これでもう、いつでも好きなときに見られるのでありがたい。
特に、食事の支度をしながら見るのには、おあつらえ向きだ。

今どきのドラマはどこかひねり過ぎたり、現実から浮いていたりする。
(韓流ドラマが人気があるのは、展開が正統だからだろう)

“ロンバケ” も非現実的な話かもしれないが、男女の心が滲み出ているし、
ストーリーも素晴らしい。 今でもこのドラマを見ると、胸がときめく。

キムタクと山口智子の2つの新しいドラマのおかげで、
「ロングバケーション」 の再放送が実現したのだから、
この2つのドラマには心から感謝しているところである 

  ………………………………………………………………

ところで話はコロッと変わりますが…

プロ野球日本シリーズ第3戦は札幌ドームに舞台を移したが、
巨人がいいところなく完敗を喫して、日ハムが今シリーズ初勝利。
対戦成績は巨人の2勝1敗となったが、
なにやら暗雲が立ち込めてきた感じがする。

それにしても第2戦は珍しい試合だった。
1回裏、巨人の先頭打者長野が放った右中間のフライは、
打った瞬間が普通の外野フライかな、と思ったけれど、
あらら~という感じで、スタンドに入る先制本塁打になった。

試合はそのまま1対0で巨人が勝った。
僕はテレビのニュースなどを見てから野球中継をかけたりするんだけど、
この日は最初から見ていた。 おかげで長野のホームランを見ることができた。
いつものように2回表くらいから見ていたら、肝心のシーンを見逃すところだった。

以前、巨人が大阪ドームにやって来たので、仕事を終えて見に行ったことがある。
相手はヤクルトだったが、終業間近に来客があったりして、職場を出るのが遅れた。

球場に着いたとき、1回の両軍の攻撃は終わっていた。
スコアボードを見ると、巨人が、1回に3点か4点かを先制していた。
試合はそれ以降、巨人にまったく得点が入らず、そのまま試合は終了。
巨人は勝つには勝ったけれど、結局その1回の得点がすべて…
一番いいシーンを見損なって、僕はがっかりした。

そのことを思い出させるような先日の第2戦だったが、
先頭打者の先制ソロホームランで1対0のまま終わる…
というような試合も、めったにお目にかかれない試合ですよね。

巨人は札幌でもそのまま勝ち星を重ねるかと思いましたけど。
甘くはありませんね。
むしろ、長野の本塁打の後、得点できなかったのが、最後に響いてくるかも…

どうも、巨人ファンとして、悪い予感がするんだなぁ。

 

 

 


 

 

 

 

 

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「くびちょう」 ってナンだ?

2012年10月29日 | 雑記

ひと口に地方自治体…といっても、さまざまである。
僕が勤めていたのは市だけれど、都道府県も町も村もみんな地方自治体である。

そして地方自治体の長は、それぞれ知事、市長、町長、村長などと呼ばれるのだが、
これらを総称したのが 「首長」 という言葉である。

読んで字の如く、「しゅちょう」 だけれど、
このところ、橋下大阪市長らが記者会見などの場で、
しきりに 「くびちょう」 という言葉を使っているのが耳に障る。
これは 「首長」 つまり「 しゅちょう」 のことなんだけれども、
「くびちょう」 と言われたら何のことやらわからぬ人もいるのではないか? 

「くびちょう…? くみちょう…? 組長…?」 
と聞き間違える人もいるかも知れない。

(地方自治体の 「組長」 って、どんなんや~)

これは、「首長(しゅちょう)」 と言えば、
「市長」 や 「首相」 などとまぎらわしいこともあるので、
言葉に出すときは、あえて 「首長(くびちょう)」 とわかるように言う、
いわゆる業界用語みたいなものである。 

しかし、わかるように言う言葉なんだけれども、
一般の人たちにはわかりにくい言葉である。 
お茶の間に流れるテレビの記者会見で、 
「くびちょう」 と言われても、ピンと来ない視聴者は多いはずだ。 

市立と私立を区別するため、私立を 「わたくしりつ」 と言ったり、
私道を市道と混同しないように 「わたくしどう」 と言ったりするのと、
まあ、同じようなものなのだろう。

とにかくこれらは業界用語なので、TVなどのニュースでは、
「わたくしりつ」 とは呼ばないし、「くびちょう」 とも言わないそうだ。 
「しりつ」 「しゅちょう」 と、正規の呼び方を使う…
…というのは、まあ、当り前のことでしょうけど。

そんななわけで、「くびちょう」 という言い方は公共放送にはなじまない…
ということを、テレビ番組出身の橋下サンなら自覚できるはずだけど、
どうもそういうことには鈍感なのか、あるいはわざと使っているのか…
とにかく、一筋縄ではいかない人だからね、橋下サンは。

ところで、広辞苑で 「くびちょう」 と引いても 「首長」 は出てこない。 
ひとつだけ、「首帳」 というのが出てくる。 

「首帳」 とは何か…?
戦場で討ち取った敵の首と、それを討ち取った者との氏名を記した帳簿…
のことだそうである。 昔々の話である。

僕が勤務していた市の議会などでは、たいていの議員は、
「しゅちょう」 とも 「くびちょう」 とも言わなかった。
ほとんど、「自治体の長」 という言い方をしていた。
これが本来の、わかりやすい呼び方であろう。

ただ、昔に一人だけ首長のことを 「しゅうちょう」 と言う議員がいた。
しょうちょう…といえば、「酋長」 を連想する。
その人はず~っと 「しゅうちょう」 と言い続けていた。
しかし 「しゅうちょうではありません。 しゅちょうです」
と訂正してあげる人は、まわりに誰もいなかった。 
ベテラン議員だったので、顔をつぶすようなことは言えない
…という遠慮があったのだろう。 

先輩に当たる人に間違いを指摘するのは、むずかしいことだ。 

ま、それはそれとして、地方自治体の首長…
…という言葉自体を、別の言葉に改めたほうがいいのではないかと思う。

そんなことを思っていた矢先に、あるTV局のアナウンサーが、
「くびちょう」 という表現について、

「公の席で 『くびちょう』 を連発するのは考えものだ」 
と言ったので、わが意を得た思いだった。

そのアナウンサーはさらに、「首長」 というまぎらわしい語句は使わず、
たとえば 「自治体のトップ」 とかいう表現に変えたらどうか…と提言していた。

その意見には、大賛成である。

とにかく、「くびちょう」 というのは、日本語では、
敵の首を取った武将の手柄を記す 「首帳」 しかないのである。 

とてもじゃないが、現代で使う言葉ではござりませぬ。

 

 

 

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巨人・中日の決戦といえば…

2012年10月27日 | スポーツの話題

22日、プロ野球セ・リーグのクライマックスシリーズで、巨人が中日に3連敗の劣勢を跳ね返して日本シリーズ進出を決めたことは、子どもの頃からの巨人ファンであった僕としては大いに喜ばしい出来事だった。

翌日の新聞の見出しに、「高木監督10・8の雪辱ならず」 とあったので、えっ? と思ってその記事を読んだ。

中日の高木監督は17年ぶりの監督復帰だという。
そ~か。 高木監督は昔にも采配を振るったことがあったのか…

そして高木監督が 「あの時」 も中日の監督だったとは…
すっかり忘れてしまっていたことである。

「あの時」とは、新聞見出しに書かれていた「10・8」、
今から18年前の、1994年10月8日のことである。

巨人と中日が、勝率が同率首位で並び、しかも両チームが偶然にも最終戦で対戦する日程となっており、勝った方がリーグ優勝…という史上初の劇的状況が出来上がったことを覚えておられる人も多いだろう。 当時、巨人は長島監督だったが、中日は誰が監督をしていたのか忘れてしまっていた。 それが高木監督だったと、先日の新聞記事で知ったわけだ。

僕にとって忘れがたいのは、この 「世紀の一戦」 が行われる日が、ヨーロッパへの海外研修に出発する日だったことだ。 当時は今よりもっともっと巨人に熱中していた僕は、このことがどれほど残念だったか!

1ヶ月前に開港したばかりの関西国際空港を午前11時半に飛び立ち、到着地であるロンドンのヒースロー空港まで約12時間のフライトであった。 初めてヨーロッパへ行くということで胸が躍ったことは確かだけれど、それ以上に気になった巨人・中日戦は、まさにその機内で過ごしているときに行われたのである。

夕方6時からナゴヤ球場で行われるこの試合を、ぜひテレビの実況中継で見たかった。
けれど、よりによってこの海外研修とぶつかってしまったのだ。 たとえどんな状況でも、せめて携帯ラジオで中継を聴くくらいのことはできたはずだったけれど、飛行機だけは例外である。 機内ではラジオを聴くことさえできない。 運の悪さをつくづく嘆くしかなかった。

しかし、思いも寄らぬことで試合経過を知ることができた。

機長が機内放送で、逐一試合の様子を報告してくれたのである。

「皆さん、いま、プロ野球、巨人・中日戦が始まりました」
その放送に、乗客の話し声はピタリと止み、みんな耳を傾けた。
むろん僕も、固唾を呑みながら、意識を耳に集中した。

機長の 「経過報告」 は、次のようなものだった。
まず、最初に、
「巨人の先発は槙原、中日の先発は今中です」

そして次の放送で、
「巨人が落合の本塁打などで2点を先制しました」 と機長。
それを聞いて僕は 「わ~い」 と快哉を叫んだことは言うまでもない。

しかし、次の放送では、
「その裏、中日が同点に追いつきました」 であった。 ありゃ~。

早く時間が経ってほしい。
早く次の機内放送を聞きたい…

すると次は、
「巨人が落合のタイムリーで1点をリードしました」
との報告。

後に中日の監督となった落合が、この時は巨人の4番打者として大活躍だ。
ちなみに、3番打者が松井秀喜で、5番打者が原辰徳であった。

その後も機長は、その都度、試合経過を放送してくれた。

巨人は外国人選手の本塁打、松井の本塁打などでどんどん加点した。
たまらない。 しびれるぅ~

そして最後に機長は試合が終わったことを告げ、
「中日ファンの方にはまことに残念ですが…」 と声を抑えて、
「6対3で巨人が勝ち、セ・リーグの優勝を決めました」 と言った。
僕は心の中で「バンザーイ」と叫んだ。

あぁ…。

思い出すなあ、あの時のことを。

あの時の中日の監督が、今の高木監督だったんだ。
きっと 「今回こそ」 と意気込んでいたに違いない。
なのにまた今回も惜しい負けてしまって、ちょっと気の毒な気もするけれど…

18年前のことが、つい昨日の出来事のように、よみがえる。

そして今日から、巨人対日ハムの日本シリーズの開幕だ。

 

 

 

 

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3日遅れの誕生パーティ

2012年10月25日 | モミィの成長日記

モミィが7歳の誕生日を迎えた日から1週間が経った。

誕生日は先週の木曜日だったけれど、学校の授業が3時45分まであり、
モミィのゆっくりしたペースで帰って来ると、帰宅は4時15分を過ぎる。

大急ぎでおやつを食べ、宿題をしているうちに5時をまわる。
木曜日は、5時半から近所のダンス教室に行かなければならない、
僕が送り迎えをしているのだけれど、終わって家に帰るのが6時45分頃。
それから食事をして、食べ終わると宿題の続きをし、
時間が残っていればエレクトーンの練習をする。

そんなことで、あっという間にお風呂に入る時間(8時)になってしまう。

モミィがお楽しみの誕生パーティを開く時間が、なかなか作れない。

翌日の金曜日も、5時半からダンスレッスンがあったので、
これもあわただしく時間が過ぎて、パーティが開けない。

パーティでは…
モミィが妻に手伝ってもらいながらケーキを作る。
買ってもらった誕生日プレゼントで遊ぶ。
妻に作ってもらったドレスを着る。
クラッカーを鳴らす。

…そんなことをするようだが、それがままならない。

土曜日は、午前中、小学校でPTAなどが主催する「フェスタ」が開かれ、
モミィはそこで手芸や、紙のお魚釣りや、卓球や、竹とんぼなどで遊んだ。

午後からは、いつも午前中にあるキックベースの練習があった。
この練習が1時から5時までの4時間、たっぷりと行われた。
つまり朝から夕方まで隙間なく行事があり、僕も付き添った。

帰りの自転車の後ろで「あぁ、もうクタクタやわ~」
とモミィが叫んでいたが、ずっと付き添っているこっちも疲れるわ。

翌日曜日は、またキックベースの練習が朝の8時から12時まで。

その午後、ようやく空白の時間がめぐってきたので、
お待ちかねの誕生パーティをやっと開くことができた。

  3日遅れぇの たよりを乗せてぇ… 

…という歌があったが、こちらは3日遅れの誕生パーティである。
(相変わらず古い歌を出してきて…すみません)

モミィが、妻と一緒に作ったケーキに、
7本のろうそくを立て、ひゅ~っと吹いて消した。

ぱちぱちぱちぱち。

そうだよね。 モミィも、もう7歳になったんだよね。

わが家に来て暮らすようになったのは2年前の8月からである。

の年の10月、幼稚園の年少さんで迎えた5歳の誕生日。
去年の10月は、幼稚園の年長さんで迎えた6歳の誕生日。
そして今年は、小学生として、初めての誕生日を迎えた。

あれから数えて3度目の誕生日を迎えたのだ。

あと10年たてば17歳だ。
17歳ねぇ。

その年になれば、彼女の人生の輪郭も少しは見えてくるかもしれない。

早くそれくらいの年頃になってほしいなぁ…という気持ちと、
でも、そんなに早く10年が過ぎたら、こっちはどうなるんだ…
という2つの気持ちがぶつかりあって、何となく複雑である。

ま、とりあえず、毎日楽しそうに過ごしているのを見て、安心している。

あまり先のことを考えても、未来のことなんて誰にもわからないし…

今が一番大事なんだものね。



  
   2005年10月。 生まれたばかりのモミィ。 

 

  
    3歳の誕生日に。

 

   
    5歳の誕生日の2日前に、幼稚園の運動会がありました。

 
 
     
       そして7歳に。
           自分でバースデーケーキを作ってます。

 

 

  
    小学校のフェスタで、生まれて初めて卓球をしました。

 

 

 

 

 

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遠隔操作…なぁ

2012年10月23日 | ニュース・時事

夕方、つけていたテレビのニュースから聞こえてきたのが…

「4人を、5人逮捕しました」 という報道だった。

なんのこっちゃ?
意味、わからへん。
4人を5人逮捕とは…?

テレビも何を言うてるんや~
…と思いながら、よ~く聞いてみると…

「4人を、誤認逮捕しました」 という話だった。 

「誤認」 を 「5人」 と、誤認しちゃいました。 

遠隔操作ウィルスで、他人のパソコンを通じて殺人予告を書き込んだ…
という、例の、何のことやらよくわからない事件に関してのことであった。

それにしても、誤認逮捕…というのは穏やかではない。
警察も、この種の犯罪については、遅れをとらないようにしなければね~

こうした先端技術にからむニュースは、僕などさっぱり意味がわからない。
何がどうなってそうなるのか、…そんなことが、ゼンゼンわからないのだ。

むずかしい時代になってきましたね~

その 「遠隔操作」 というものだけど。
去年の9月、びっくりした記憶が僕にはあります。

ブログにも書いたので、よく覚えている。 

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20110925 

…まあ、そんなことでした。

でも、このごろの事件関連ニュースはいよいよ複雑でむずかしいですね。

尼崎の連続変死事件も、時系列や人間関係が、何度聞いてもよくわからない。

…話がえらく入り組んでいて、何が何だか…わけわからないことだらけである。

ニュースはわかりやすいのがいい。 頭を悩ませなくて済むから。

明快にわかるニュースのひとつは、プロ野球セ・リーグの最終CSで、
わが巨人軍が、中日戦で3連敗したあと、なんと3連勝の大逆転で、
日本シリーズに進出することが決まった…というニュースであった。

ぱちぱちぱちぱち

僕も以前ほど巨人に入れ込んではいないが、やっぱりこれはうれしい。

それと、橋下大阪市長と朝日新聞グループの壮絶バトル。
これもわかりやすい話ですね~
今のところ、橋下の鼻息の荒さに朝日はタジタジ…の気配です。

…で、久しぶりに夜にブログを書いていると、眠くなりました。

もう、夜の10時半を過ぎました。 どうやら限度…?

おやすみなさい。 

 

 

 

 

 

 

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村上春樹と脳減る賞

2012年10月22日 | 読書

「村上春樹は不滅です」という10月12日のブログに、
「青豆さん」という方からコメントをいただきました。

「青豆」という名前は、そのブログにも書きましたが、村上春樹の長編小説、
「1Q84」に登場してくる女主人公で、陰の姿は 「女必殺仕置人」 です。

読むものを魅了せずにはいられない30歳の女性…青豆。
珍しい苗字なのでそれが彼女の悩みの種だったりします。

コメントをくださった「青豆さん」は、女性か男性か存じませんが、
村上春樹を検索してこのブログにたどり着いた、とのことでした。

「全くの初心者です。最初に読む村上作品は何が良いでしょうか?
 お勧めがあったら教えて下さい」

そう、コメントに書いてこられました。

先ほど、一応の返事はしましたが、 どうも自分でも物足りないと思ったので、
続きを、今日のこのブログで書くことにしました。

そんなことで、村上春樹の何から読み始めるか…? ということですが、
原則的には、言わずと知れたことで、何から読んでもいいわけですよね。

読書に 「こうあるべきだ」 というものはありません。
あくまでも自分流に、融通無碍に読めばいいと思っています。

それでも、村上春樹の何から読めば良いでしょうか…?
…と質問されたら、やはり黙っているわけにはいきませんよね。

貧弱な読書遍歴ですけれど、何かのきっかけになることが書けたら…
と思って、頭に浮かぶまま、少し書いてみることにしました。

何度も言いますが、村上さんと僕は、誕生日が3日違いで同い年。

生まれた場所が彼も僕も、京都市内で、これも同じ。

兄弟姉妹が全くいない一人っ子…というのも同じ。

血液型がA型で、またこれも同じ。
村上さんは 「山羊座・A型の呪われた血…」
な~んてどこかで書いていましたけれど、
そんなことはない…と思いたいですよね。

村上さんは早稲田大学在学中に学生結婚をした。
僕も同じく学生結婚だけど、今の妻と知り合ったのは、
早稲田大学ではないが、ワセダ速記学校というところだった。
(ワセダという名前だけは一緒なんだよ~ん)

村上さんも僕もマラソン大会を走る市民ランナーだったけど、
村上さんが初の海外マラソンを走ったのが34歳の時で、
僕が初めて海外のマラソンを走ったのも34歳の時だった。

…とまあ、僕と村上さんは類似点がとても多いのだけれど、
肝心の 「才能」 だけが、天と地ほどの大きな差がある。 

これが致命的なんですよね。 ぐすん

さて、僕は村上春樹を早い時期から読んでいたわけではありません。

その当時、すでに「ノルウェイの森」なども刊行されていましたが、
初めて読んだのは、「風の歌を聴け」という小説でした。

とりあえず僕は村上さんのこのデビュー作から読もうと思ったわけです。

まあ、わりに一般的な入り方ですよね。

続いて「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」
と読み進めるのが、村上春樹に無駄なく接触するための常套手段ではないかと、
まあ、僕は思っているのですが、この4つの作品はいろいろな形でつながり合い、
その作品群を通過すれば、村上作品とより深く付き合えるコツがつかめそうですね。

その次に「ノルウェイの森」などへ行かれると、味わいもいっそう良くなるかと…

いちおうそういう遍歴を経てから、
「国境の南、太陽の西」(僕は特にこの小説が大好きですが…)や、
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」 「ねじまき鳥クロニクル」
「海辺のカフカ」 などを読まれるのも、ひとつの方法ですよね。

しかし、やはりなんといっても 「1Q84」 は、すごい迫力です。
読むのにかなりの体力と気力を要しますが、一番のお勧めです。

いきなりこういう作品から入って衝撃を受けるのもいいかも知れません。

それと、僕は村上さんのエッセイも大好きです。

「村上朝日堂」 シリーズや 「村上ラヂオ」 など数多くのエッセイ、
それと読者とのネットでのやりとりを載せた「そうだ村上さんに聞いてみよう」
…などは、心をウキウキさせ、ついのめり込んでしまいます。
もちろん、笑いのエッセンスも満載です。

また 「走ることについて語るときに僕の語ること」 は、
ランニングをする僕などには、とても楽しく読めました。
(これはdoiron クンに借りて読んだ本だっけ)

また、「回文」を駆使した 「またたび浴びたタマ」 を読むと、
ほんと、村上さん言葉を扱う天才だなぁ…と感心しますね~

いろんな分野で楽しませてくれ、僕の人生に役立ってくれています。

…と、書けばキリがありませんが、以上、簡単にまとめてみました。

最後に、例のノーベル文学賞についてですけれど、
先日の僕のブログで、小説「1Q84」の中にあった、

「精神の鋭利さが心地よい環境から生まれることはない」

という文章を引用して、村上さんがもしノーベル賞を受けたら、
万が一…ひょっとして…心ならずも 「心地よく」 なってしまい、
それこそ「精神の鋭利さ」が磨り減ってしまったら、困りますよね…
と、書きました。 

それから後、何の本だったか忘れましたが、以前、村上さんが、
ノーベル賞のことを 「脳減る賞」 と書かれていたのを思い出しました。

やっぱりねぇ。
村上さんもよくわかっていらっしゃる。

ノーベル賞の受賞は、ある意味で「脳減る賞」になっちゃったりするんだ。

青豆さん。
そ~ゆ~ことで、「私流村上春樹の読み方」 でした。 
少しでもご参考にしていただければ嬉しいのですが… 

今週は、まだ読んでいなかった 「スプートニクの恋人」 を読もうと思っています。

ではね~

 

 

 


 

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「樅の木は残った」の思い出

2012年10月20日 | 思い出すこと

わが「珍友」の doiron クンが、
一昨日(18日)のモミィの誕生日に、
こんなコメントを送ってくれました。

       

こうしてのんさんが綴るモミィちゃんの成長日記を、
大きくなって本人が読んだらうれしいでしょうね~
大河日記 「モミィの記は残った」 なんてね。

読みながら、クスクスと笑った。
大河ドラマ 「樅の木は残った」 …をもじっている。 
うまいなぁ、相変わらず。

doiron クンのこのセンスにはいつも感心させられる。
「珍友」というより、年下ながら「畏友」と呼ぶほうがふさわしい。

ユーモアやパロディの達人だった井上ひさし氏がいなくなっても、
doiron クンがいれば寂しさも紛れるわい…と思うほどである。

その「モミィの記は残った」…じゃない、「樅の木は残った」の方は、
doiron クンもご存じないだろうけど、僕はかなりのファンなのである。

それにまつわる、忘れられない思い出がある。

それで今日はそのことを、つい書きたくなったわけで…


2006年(平成18年)の6月。
僕は脳梗塞に近い症状に襲われ、自宅療養を余儀なくされた。

その間、ほとんど床に伏せていたのだけれど、
病床で読んだ本が、山本周五郎の「樅の木は残った」だった。

この江戸時代前期に起きた伊達騒動を題材にした長編小説は、
調べてみると、1958年(昭和33年)に刊行されたものだった。
そしてNHKで大河ドラマ化されたのはそれから12年後、
1970年(昭和45年)のことだった。

大河ドラマ化される前年、つまり1969年だけれど…
僕は2ヶ月半をかけて自転車で北海道往復旅行をした。

その旅行中、仙台市を通ったとき、観光ポスターに、
「来年の大河ドラマの地、仙台市へようこそ!」
…という意味の宣伝文句が書かれていたのだった。

「へぇ、来年の大河ドラマは仙台が舞台なのか~」
と思いながら、そのポスターを眺めた記憶がある。
そのドラマというのが「樅の木は残った」なのだった。

でも僕は翌年のそのドラマは見ていない。
当時、まだ「遊び盛り」の大学生だったもんね。
自宅でTVドラマを見る習慣って、あまりなかった。

それから36年後。
何の縁か、病床で「樅の木…」を読んだのである。
読み終えると、今度は大河ドラマを見たくなった。

体が回復し、職場へ復帰できた頃、レンタルビデオ店で、
「樅の木は残った・総集編」というのを見つけて借りた。

平幹二朗が主人公の原田甲斐を演じ、
僕の好きな吉永小百合と栗原小巻が出ていた。
出演者たちの重厚な演技に、今のドラマとの差を見せつけられた。

そして8月、夏期休暇を利用して、宮城県へ行った。

この小説(ドラマ)の舞台は宮城県の柴田町というところである。

当時は仙台空港鉄道がまだ通っていなくて、仙台空港から、
タクシーでJR東北本線・館腰駅まで行き、列車に乗った。

そこから数駅先の、船岡という駅で降りた。
駅前に「原田ホテル」というのがあった。
原田甲斐にちなんでつけられた名前かな? たぶん。

 

 
  
 船岡駅前(2006年8月27日撮影)



駅からテクテク歩いて船岡城址公園へ行く。
ここに「樅の木」があるということだ。

ところでその時、僕は一人でなく、地元の知リ合いの人と一緒だった。
空港からこの船岡城址公園まで、その人に案内してもらっている。

公園は全体が山の中にあり、入り口からズンズン登って行く。

やがて、こんな場所に出た。


  

  

この細い道を上がって行くと、一本の樅の木が聳え立っている。

詳しくは柴田町のホームページをご覧ください 

http://www.town.shibata.miyagi.jp/index.cfm/69,0,73,214,html


そして公園の山頂へ着くと、とても美しい眺望が目に飛び込んできた。
遠く蔵王も見渡せて、「美しい日本」をしみじみ感じるまさに絶景だった。

その風景を眺めながら、2ヶ月前の自分の体のことを思った。

不整脈から血栓ができて、その血栓が脳血管を詰まらせたのである。

一時的に右の上半身が麻痺し、ろれつが回らなくなった。
しかしあくまでもそれは一時的であり、幸いにも回復した。

「詰まった場所が脳の細い血管だったので、ラッキーでしたね」
ひとつ間違えば車椅子生活になるところでした、と医師は言った。

それがこうして、2ヵ月後には「樅の木…」ゆかりの地を訪ね、
まばゆいばかりに光り輝く風景を目にすることができている。

これ以上幸せなことがあるだろうか。
この気持ちを、いつまでも忘れないようにしたい…

そう、強く肝に銘じたことを思い出す。

あれから6年の歳月が流れた。


今、このブログを書きながら、改めてそのことを心に刻んでいます。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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モミィの作文集

2012年10月17日 | モミィの成長日記

最近、モミィは約10日に一度、学校で書いた作文集を持って帰ってくる。

30数名のクラスの子どもたちが書いた全作文を、先生が自筆で書き写し、
それをまとめてプリントしたものを、子どもたちが家に持ち帰るのだ。

「1年〇組学級通信 ~すくすく~」 というタイトルがついている。

最近、これを読むのが僕の楽しみのひとつになっている。
クラスには幼稚園時代から知っている児童も沢山いる。
モミィだけでなく、その子たちの作文にも目を通す。

10月5日付けの「すくすく」には、運動会の感想を綴る作文が載った。
作文は、家で書いて持っていくのではなく、学校で書いたものである。

最初に担任の先生からのメッセージがあり、

今回は、少し長く書く作文に取り組みました。出来事だけでなく、
その時の気持ちを表現できるように、みんなに声をかけています。
「楽しかった」「おもしろかった」などのことばだけではなく、
自分の心の動きを知らせることができれば、すばらしいです。

…と書かれていた。

その運動会の、モミィの作文は、次のようなものだった。

うんどうかいのダンスが えがおでたのしく おどれました。
おじいちゃんもおばあちゃんも
「じょうず」
といってくれました。
「かわいかった」
ともいってくれました。 ぼうしと リストバンドをつけたので
とってもたのしかったです。
いえにかえってしゃしんとビデオをみました。
じぶんでもかわいいな すてきだなとおもいました。
パパはこれませんでした。しゃしんをみて
「すてき」 といってくれました。

…という作文だったけれど、
自分でも 「かわいいな、すてきだな」 と思うところが…
なんというか、ちょっとナルシスト…??

その10日後、10月15日に持って帰ってきた作文集は、
特に課題はなく、自由なテーマでの作文だった。

モミィはこの作文で、8日にあったエレクトーンコンサートのことを書いた。
作文を書いたのは、その翌日の9日だったようだ。

きのうエレクトーンのはっぴょうかいにでました。
みんなで考えたチームのなまえは ミックスジュースというなまえでした。
そのなまえはメンバーのうたちゃんが かんがえてくれました。
りゆうは いろんなひとがいるからです。
ひいたおんがくの なまえは 「ファンタスティックパーティ」 です。
いしょうは おばあちゃんがドレスをぬってくれました。
むらさきいろで おはなのがらの チュールがついたながめのドレスでした。

…という作文だった。
10月8日のこのコンサートは、3月に続いてモミィの2度目の舞台だった。
その時と同じメンバーの9人の子どもたちが、合奏をした。

ドレスはその3月に、妻が縫ったもので、
あれから7ヶ月経って、モミィも大きくなり、
もう、このドレスを着るのもこれが最後になるんだろうな~



 
    
コンサートがはじまる前に、全員で撮った写真です。
    左から3番目がモミィです。


 

  
    本番の舞台で。 左端がモミィ。

 


…と、楽しそうに毎日の生活を送るモミィです。

そのモミィも、明日18日には、7歳の誕生日を迎えます。

 

 

 

 

 

 

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モミィの 「合宿」 で酔ってしまった僕

2012年10月15日 | 日常のいろいろなこと

モミィが所属する地域のキックベースチームの「合宿」が土・日曜日にあった。
1泊して合宿…といえば、集中的に練習を行うイメージがあるけれど、
実際は「お泊り会」と呼ぶような、お遊びの1泊小旅行である。
キックベースの用具はいっさい持っていかず、遊びだけ。
1年に一度、いろんなところへ泊まりに行くのだという。

しかし、モミィはまだ、子どもたちだけで寝ることは心細いようで、
「その日に帰るほうがいい」と言うので、役員さんにお願いして、
僕とモミィだけはその日の夜のうちに帰らせてもらうことにした。

そんなことで、13日の土曜日に、モミィと僕は「合宿」に参加した。

人数は子どもが10人近く、大人は監督、コーチ、家族らで15人近く。
大人の方がかなり多い。

場所は、大阪府枚方市の山奥にある野外活動センターというところ。
昼前に着き、食事の用意をし、食後は焼き板ペイントなどで楽しみ、
夕方からバーべキューの準備をはじめながら、飯ごう炊飯もする。

食事が終わったら、「関西で一番大きい望遠鏡」で天体観測をする。

そして翌日は、朝食用にかまどでピザを焼き、そのあと、
近くにある野外アスレチックで遊び、午後、帰途につく…
配られた行程表には、そういうことが記されていた。

僕とモミィは、1日目の天体観測をする前に帰る予定を立てた。

ただ、この野外活動センターは、山奥なので交通機関は全くなく、
とても狭い山道をクネクネ行くので、車以外では行き来できない。

お世話をしていただく役員のママさんたちも、行く前に、
「でも夜に帰るといっても、どうして帰られるんですか…?」
と心配そうに尋ねられた。

それは、長男に車で迎えに来てくれるよう頼んでいたので大丈夫だった。
バーベキューが7時半前後に終わるので、8時ごろに来てと頼んでいた。

実はこういう行事に参加するのは気が進まなかった。
毎週小学校で練習をしたり、試合に行ったりと、
僕は常にモミィに付き添っているので、
監督、コーチ、ママさんたちとは会話を交わすけれど、
こういうレジャー的な催しに参加するのは初めてで、
皆さんと一緒に食事をするというのも、たぶん初めてである。

何となく居心地が定まらない。

野外活動センターに着いて、沢山の重い荷物をロッジへ運ぶ。
急坂で、荷物を持つ手がよろけ、足もよろける。

薪を燃やしてその上に置いた大きな鉄板で焼きそばを焼いた。
僕と、もう一人、部員のパパと2人で、豚肉を炒め、キャベツを入れ、
玉ねぎも入れてやわらかくなるまで炒めた後、大量のソバを投入した。
かきまぜるだけでも力がいる。しかし、この手の料理は僕の得意分野である。
薪を燃やしてこんなことをするのは、いったい何十年ぶりだろう…
と思いながら、気持も焼きそばのようにほぐれてきて、いい感じになってきた。

子どもたちは、6年生の子の指導で、食器を洗ったり、
その前にはキャベツや玉ねぎを切っていたりよく働いていた。
モミィも、食器を拭く役を与えられ、お手伝いを楽しんでいた。

ママたちは僕たちの作業をじっと見守っていたけれど、
あれ…? 他の男の人たちは…? と周囲を見回すと、
少し離れたテーブルで、もうビールを飲んでいるではないか。

ビールや焼酎が荷物の中に沢山あったので、夜は宴会かと思っていたが、
昼から飲み始めるとはまた、皆さんかなりのアルコール好きである。
これなら気が合いそうだ(なんだ、それは…?)。

…さて、そこからだった。

「どうぞ!」と焼きそばを焼いている僕に缶ビールが手渡された。
合間を見つけてプシューッと栓を抜き、グイッと飲む。うまい~

そばを焼き終わると、あとはお皿に盛る作業などはママたちがした。
僕は、男性グループに呼ばれ、ビールを片手にテーブルへ行った。

日ごろは難しい顔をし、口数も少ない監督やコーチが、今日は上機嫌だ。
僕にいろいろ話しかけてくるし、僕もアルコールが入るとよくしゃべる。

冗談を言い合ったり、誰かがボケて、誰かが突っ込んだりして、
笑いが絶えない中で、どんどんみんなの酒が進んでいった。

中でも大の酒好きのコーチがいて、この人が焼酎水割りを作ってくれた。
僕のグラスの中身が少なくなると、すばやくおかわりを作ってくれる。

「この男は練習の時は何もせんけど、こんな時だけよく動くんですわ」
と、他のコーチが冷やかす。

一方、子どもたちは、板を焼いてそこにペイントをする「焼き板」の作成。
モミィも上級生たちに教えてもらいながら、一生懸命にやっている。

子どもたちにまったく手がかからない分、大人の男はヒマである。

彼らは例外なく、みんなお酒が好きで、グビグビ飲んでいる。
僕も、同じようにグビグビ飲んだ。

そして、日が暮れたころに、僕の記憶がなくなった。

長男が、妻を横に乗せて車で迎えに来てくれたのは、8時頃だったそうである。
ぜんぜん、何も覚えていない。

ロッジから駐車場まで、崩れかけた狭くて急な階段を下りなければならず、
どうやら僕は、他のコーチたちに抱きかかえられて車へ来たそうである。

 

翌朝、長男がそう言っていた。 

一人で下りたら転げ落ちていただろうから、抱えて下りてくれたのだろう。

何しろ、夕方6時頃までは、みんなの写真を撮ったりしていたのだけど、
そのあと、プッツリと記憶が途切れているのである。

気がついたら日曜の朝で、着の身着のままで自宅の布団で寝ていた。

あぁ…、またもやこの有様である。 恥ずかしさで顔が赤くなる。

朝8時過ぎ、まだ合宿先にいる役員のママさん3人に同時メールを送った。

昨日ははしゃぎ過ぎ、飲み過ぎてご迷惑をおかけしました。
いい歳をしながら節度もわきまえず、本当にすみませんでした。
いつまで経ってもアホな私です。でも、めちゃ楽しかったです。
皆さんによろしくお伝えください。

…みたいな文章を送った。

さっそく一人のママから返事が来て、

昨日は楽しいお酒だとわかりましたよ。
楽しいお酒は良い事ですよ。

…と書いてきていただいた。

もう一人のママからも夕方、メールがあり、

お疲れさまです。二日酔いになっておられないでしょうか
楽しく過ごしていただけてよかったです。

…と返信をいただいた。

あぁ…
こういうときは、いつも 「よせばいいのに」 という古い歌が頭に浮かぶ。


 いつまでたっても、ダメな私ね~

 

   
    ロッジの前で。

 

  
   出来上がった焼きそばを、お皿に取り分ける。



   
    子どもたちはみんな楽しそう。 モミィは一番奥で帽子を被っています。
    僕もこのへんまでは、しっかりしていたはずですが…(午後6時ごろ撮影)
    
そのあとは、もうほとんど何も覚えていないんですよね~ トホホ。

 

 

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村上春樹は不滅です

2012年10月12日 | 読書

村上春樹氏ノーベル賞ならず…

昨夜のテレビやネットから今日の朝刊まで、
このニュースが大きく取り上げられていた。

日本時間の昨日の午後8時に発表されるはずだった。

ノーベル文学賞有力候補の村上春樹さんが栄誉に輝くかどうか…

僕もそれが気になっていたので、ずっとNHKテレビをかけていた。
午後8時、番組中にピポピポ~ンと速報音が入り画面上に字が…
「村上春樹さん、ノーベル文学賞受賞!」…と。

…そんな期待も、8時を過ぎると、とたんにしぼんでしまった。
速報が出なかったということは、受賞を逃したということだろう。

9時前のNHKニュースでそれを確認し、9時からのニュースで、
「今年こそと願っていたのに残念です」という沢山のファンの声を聞いた。

まぁ、負け惜しみではないが、まだまだチャンスはいくらでもあるし、
ノーベル賞を受けようと受けまいと、作品の価値が変わるわけでもない。

村上春樹氏も、性格的に、こういう名誉を欲する人ではない。
だから、それでどうということはないのであるが、
世間があまりに騒ぐものだから、村上さんも、
「やれやれ…」 という心境であろう。

村上さんの「1Q84」も、とても味わい深い小説である。

「青豆」という変わった苗字の女性と、
「天吾」という小説家をめざす男性が、
交互に登場しながら話が展開するのだが、
その小説の中で、こんな言葉が出てくる。

「精神の鋭利さが心地よい環境から生まれることはない」

主人公の天吾が、ある人物を評してこう表現するのだが、
村上さん自身、今回ノーベル賞など受賞してしまったら、
万が一…ひょっとして…心ならずも 「心地よく」 なって、
精神の鋭利さに翳りが出たら、ファンも困るだろうしね。

受賞を見送られて、むしろよかったのかも知れない。

 …………………………………………………………………

さて、ここからは蛇足ですが…

ご承知のとおり、日本人で初めてノーベル賞を受賞したのは、
1949年(昭和24年)の湯川秀樹氏で、物理学賞だった。
僕が生まれた年だったので、何となく縁を感じていた。

学生の頃、湯川秀樹の「旅人・ある物理学者の回想」という本を読み、
それまでイメージしていた堅苦しい学者先生という思いが取り払われ、
ちょっと内向的でもあり、魅力に富んだその人柄に一気に惹かれた。

そんなこともあって…

大学4年の時、就職活動のため提出した履歴書の
「尊敬する人物」 
の欄のところに、「湯川秀樹と桂米朝」
…と書いたら、担当の教授が、

「キミの好みはいったい何やねん」と首をひねりながら笑った。
(僕は当時全盛期の落語家・桂米朝も大好きだったので…)

でも、湯川秀樹を尊敬する気持ちには偽りはなかった。
その後結婚して出来た長男に、ヒデキと名づけた。

それが、まあ、今のモミィのパパですけど。

ちなみに、次男はナオキと名づけた。
ヒデキ…そしてナオキ。

もし次に3人目の男児が生まれていたとしたら…

たぶん 「ハルキ」 という名前をつけていたと思いますね。 

 

 

 

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「ノルウェイの森」 異聞

2012年10月10日 | 読書

きょう、10月10日はかつて「体育の日」だったが、
今はなんと、「お好み焼きの日」、だという。
今朝のNHKニュースで言っていた。
10月10日で、ジュウジュウ…
だからお好み焼きの日、なんだって。 ほんまかいな?


          


「ノルウェイの森」 といえばおなじみビートルズの曲だけれど、

今の日本人なら、村上春樹の小説をまず思い浮かべるだろう。

もちろん、この小説の題名もビートルズの曲からとったものである。

小説の冒頭。
1987年、ドイツのハンブルグ空港に着陸直後の飛行機の中で、
ビートルズの 「ノルウェイの森」 が流れてくる。
主人公は、その曲を耳にすると、頭を抱えこみ、朦朧となる。
曲は、18年前の出来事とつながっており、その回想が、
この長編小説の物語を構成している…

さて、村上春樹は、いつか書いたことがあるけれど、
生年月日が僕と3日しか違わない同い年で、血液型も同じA型、
京都生まれ、学生結婚、海外のフルマラソンを走ったのが34歳の時…
なども同じで、またこの10年間で最も多くの作品を読んだ作家でもある。

その村上春樹が、去る9月28日の朝日新聞の第1面に、
デカデカと顔写真が載り、大きな見出しが躍っていた。

朝、郵便受けから取り出した新聞を、玄関に入りながらチラッと眺めたら、
「村上春樹さん…」 と、白抜きの大見出しが目に飛び込んできたわけだ。

それを見て「ゲェッ!」と声を上げ、その場で動けなくなった。
なぜかというと、村上春樹が亡くなったのかと思ったからだ。

だって、1面に顔写真入りで「村上春樹さん…」とあれば、
たいてい、亡くなったという記事だと思いませんか…?

ところが、見出しを最後まで見てみると、
「村上春樹さん寄稿」だった。

領土問題から悪化した日中関係を憂える文章を、
村上春樹が朝日新聞に寄稿したという見出しだ。
3面に、その全文が掲載されていた。
な~んだ、それは?

 

  

 

なんで1面に、こんな大仰な見出しと顔写真を載せたのか…?
え~っ? 村上春樹が死んだのかぁ! と思ってしまうよね。
(思わん、思わん…という声も聞こえてきそうですが…)

でももし、それが今日の朝刊だったら、話はまた変わってくる。

1面にデカデカと「村上春樹さん…」と大きな見出しが出たら、
それはもう「ノーベル文学賞受賞!」の記事だと思うでしょうね。

京大の教授がノーベル医学生理学賞を受賞して話題になっているが、
明日に発表されるノーベル文学賞は、村上春樹が有力な候補である。

明後日の新聞に、再び大見出しと顔写真が載ることがあるのだろうか。

もし受賞すれば、対象となった代表的作品は「ノルウェイの森」だろうね。

ところで御本家ビートルズの「ノルウェイの森」のほうは、
とても静かな曲であり、「ミッシェル」などと旋律がよく似ている。

こういう曲はビートルズの中でも特に好きというほどではなかったが、
年を取るにつれて、いいなぁ…と思い始めてきた。
同じ音楽を聴いても、年齢とともに印象が変わる。

このビートルズの「ノルウェイの森」で面白い逸話を聞いた。

原題の「Norwegian Wood」は、「ノルウェイの森」ではなく、
「ノルウェイの木」と訳すべきだという説が今でも根強いという。
「森」であるならば、定冠詞をつけて「the wood」とすべきだが、
ただの「wood」だから「木」あるいは「木材」と訳すのが正しいというのだ。

つまり「ノルウェイの木」あるいは、「ノルウェイの木材」ですよね。

こうした説を主張する人たちによると、この曲の中身は、
「ノルウェイの木材でできた家具のある部屋」でのお話だそうで、
だから「森」より「木または木材」のほうが歌とマッチする…と言う。

ふ~む。よくわからないけど。

その昔、ジョン・レノンは、「Norwegian Wood」について、
「なんでこういう題をつけたのか忘れた」と言ったそうだ。

一方、これを小説のタイトルに使った村上春樹は、
「木」 「木材」 という説にはまるで耳を貸さない。

「ノルウェイの森はノルウェイの森なんだから、仕方ないじゃないか」
と言っているとか。

さらに、こんな言葉を続けたという。

「そんなことをいちいち気にするのは、木を見て森を見ず…だ」 と。

さすがの村上さんである。

ノーベル文学賞を、ぜひ受賞してもらいたいですね。
明日の発表が、楽しみです。

 

 

 

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体育の日とビートルズ

2012年10月08日 | ニュース・時事

5日はビートルズがレコードデビューして50周年に当たる日だったそうだ。
1962年のこの日、最初の曲「ラヴ・ミー・ドゥ」が発売されたという。

その頃僕は中学校に入ったばかりで、外国の音楽には興味がなかった。
「ラヴ・ミー・ドゥ」が発売された時も、ビートルズのことは知らなかった。
その2年ほど前に、十代でデビューした橋幸夫の「潮来笠」なら、
一番から三番までの歌詞を全部覚えたほどのファンだったけど(笑)。

ビートルズを知ったのは、今から思えばそのデビューの翌年だった。
「プリーズ・プリーズ・ミー」や「抱きしめたい」が日本でも大ヒットした。
その曲を聴き、まだ少年だった自分の魂が揺さぶられるほどの衝撃を受けた。

以来、ビートルズのファンである。
カラオケでもたまに「レット・イット・ビー」などを歌う。 (ヘタですけど…)

いま、週4日、スポーツクラブのコスパへ通っているが、
平日の会員は当然ながら年齢層が高いということを考慮に入れてか、
更衣室やパウダールームなどで流れてくる大半がビートルズの曲だ。

それらの曲に耳を傾けながら、風呂上りの体を拭いたり、整髪をしたり、
着替えたりしているわけで、それだけでも、ほのかな幸せを感じる。

この「ビートルズ50周年」はテレビニュースでも見たけれど、
ロンドンでは若者たちが「ラブ・ミー・ドゥ」を合唱し、
キャーキャーと騒いでいる光景が映し出されていた。

これが日本ならどうだろう…

橋幸夫の「潮来笠」が発売されてから50周年だぁと若者が騒ぐか…?

「そんな歌、聴いたことないわ」と言われるのがオチである。

その点、日本の音楽は、昔はロカビリーというのがあったけれど、
今の若者はポップミュージックで、年配者は演歌や青春歌謡など、
世代間で大きな隔たりがあって、ロンドンのような一体化はない。

数ヶ月前に、20何歳か年下の女性とカラオケに行った時、
僕が歌うたび、彼女は「かすかに聴いた記憶があるわ」とか、
「そういえば父が歌っていたわぁ」なんてことばかり言ってた。
「演歌って、おっちゃんおばちゃんの世界ですよね~」とも…
う~ん、そういえば若い者は氷川きよしを聴かないのかなぁ。
(僕が言う「若い者」とは、20代から40歳前後までを指します。
 勝手に決めつけちゃってますけど…)

ロンドンの若者がビートルズを熱唱しているニュースを見ていると、
老いも若きも一体となり、そこに世代間の隔絶はないように見える。

世代間の壁を音楽が取払う…というのは理想の一つだと思うけれど、
まあ、日本には若者ジャンルと年配ジャンルの歌の質がまるで違うし、
歌を通じて各世代がひとつになる…ってことは、ほとんどないものね。

ただ、「一体感」が生まれることも、たまにはある。

たとえば、先日の小学校の運動会である。

自分たちの子どもや孫が運動場へ行進をしてくる。
バックには、AKB48の曲が流れているのである。
これが運動会の華やいだ雰囲気とよく合っている。

父ちゃん母ちゃんも、ジイちゃんバアちゃんも、
曲に合わせて手拍子をし、児童たちに目を細める。

この光景は、なかなかよかったなぁ。
ジイちゃんバアちゃんも、AKB48に手拍子を打つんだもんね。

…ということで、ビートルズのデビュー50周年から、
話は運動会のことにまで及んできたけれど。
今日は体育の日だから、この話題もまっいいか。

しかし体育の日といえば、東京オリンピックの開会式が、
10月10日だったことにちなみ制定された祝日だったのに、

いつのまにか第2月曜日となってしまったのがちょっと残念だ。

東京オリンピックは1964年、つまり今から48年前のことになる。

ビートルズから50年だし、東京オリンピックから48年だし…
そりゃぁ、僕らも歳もとりますわいな。 ぐすん。

話はさらに変わりますが…
運動会といえば、昨日、次男の息子の運動会があった。
7月に3歳になり、通っている保育園での運動会である。

僕は朝からモミィをキックベースの練習に連れて行ったので、
その運動会を見に行くことはできなかったけれど、
妻が、隣接市にあるその保育園へ応援に行って来たので、
写真をここに添えて今日の体育の日のブログを終えます。


 
   
     左の端、まんまるい顔をしたのが次男の子です。
     (みんな、まんまるい顔してますけど…)

 

 

 

 

 

 

 

 

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わが町、女子ランナーの快挙

2012年10月05日 | ランニング

先日配られてきた市の広報10月号を見てびっくりした。

去る8月26日に、札幌で行われた北海道マラソンの女子優勝選手は、
吉住友里さんという20代の市民ランナーだったけれど、なんと彼女は、
わが家の近く住んでいる人で、モミィが通う同じ小学校の出身だった。

広報には、吉住さんのゴールの瞬間のカラー写真が掲載されていた。

いや~、全然知らなかったなあ。

妻にそのことを言うと、モミィがもらってきた学校新聞にも、
卒業生である吉住さんの優勝を祝す記事があったという。

吉住さんの記録は2時間39分07秒で、自己最高記録だそうである。

ぱちぱちぱちぱち  

今年の北海道マラソンは、男子の部で、埼玉県庁に勤める公務員ランナー、

川内優輝選手が優勝して話題になったレースだ。

北海道マラソンは日本で唯一の夏のビッグレースとして有名である。

そのレースの女子の部で優勝したのが吉住さんだから、これは快挙だ。

本大会は、来年の世界陸上の選考レースにもなっており、
もしかして彼女は、世界の舞台に躍り出すかも知れない。
わが町の誇りであり、ぜひ今後益々の活躍を期待したい。

話は遡るが、1995年の夏、有森裕子選手がこの北海道マラソンで優勝し、
その実績で、翌年のアトランタ五輪代表に選ばれた。

五輪代表選考の最後の1人は、かなりモメたけれど、結局、有森が、
「暑い夏の北海道マラソンを制した」という理由で選ばれたのである。

そのアトランタ五輪で有森は意地を見せ、銅メダルを獲得して、
バルセロナ五輪の銀メダルに続く2大会連続のメダリストとなった。

「メダルの色は銅かも知れないけど、自分で自分をほめてあげたい」
という名セリフも、このときに生まれた。

…ということで、北海道マラソンは歴史と伝統のある大会なのだ。

その大会で、わが町の市民ランナーが優勝したとは、嬉しい限りである。

そのうえ吉住さんは、大和川の堤防でもよく練習したそうである。
大和川堤防といえば、僕も何十年とここでジョギングを続けている。
たぶん、吉住さんとも、何度もすれ違っていたのだろうと思う。

ところで…
北海道マラソンは、僕自身も出場したことのある懐かしい大会である。

有森選手が優勝した翌年、つまり1996年の8月であるが、
妻との北海道旅行を兼ねて、このマラソンに出場した。
47歳の時だったなぁ。

有森選手が銅メダルを獲ったアトランタ五輪から数週間後のことで、
スタート地点の札幌・真駒内競技場には、その有森選手が来ており、
僕たちに「頑張ってくださ~い」とエールを送ってくれた。

で、僕のマラソンの結果はどうだったのか…?

ヘトヘトになりながらゴールした僕のタイムは、3時間57分だった。

このレースの制限タイムは3時間59分であった。

制限タイムまであと2分! 
…きわどいところだった。

順位は…?
えぇ~。 そんなこと覚えていませ~ん…
…というより、覚えられないような順位だったもんね。

翌日の北海道新聞に、全完走者の順位と記録が出ていたけれど、
その新聞も家に持ち帰ったが、どこに行ってしまったのかわからない。
下から何番目かに自分の名前が載っていたことだけは覚えているが…

一方、先日、女子で優勝したわがご近所の吉住さんは、
2時間39分の自己最高記録で、見事に優勝したのである。

同じ 「大和川堤防仲間」 のはずなのに、この大き過ぎる差は何…?

広報紙を見ながら、16年前の懐かしい自分のレースを振り返り、
わが町のヒロインに、ぜひ一度お会いしたいものだと思った。

 

 

 

 

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運動会秋景色

2012年10月03日 | モミィの成長日記

 久しぶりに日差しが戻ってきた。

日曜日、台風接近による悪天候で延期になった運動会が、2日後の昨日、
晴れ渡った空の下で開催され、児童たちが元気に運動場を走り回った。

火曜日だったので、日曜日ほど保護者たちも集まらないだろう。
そう思っていたし、「場所取り」もそれほど激しくないのでは…
…と予想していたけれど、場所取りのほうは近所のママによると、
早朝に並びに出かけたところ、もう30人ほど並んでいたとのこと。
やはり夜中から並んでいる人もいたそうで、これが日曜日開催なら、
夜中の列も、もっともっと長かっただろう…ということだった。

やはり平日でも、場所取りは厳しい争いが繰り広げられているのだ。

モミィは近所の小学生たちと7時20分に出て行ったが、
運動会は9時から開会である。

僕と妻は8時45分くらいに学校に着いた。
まだ児童や先生の姿は校庭にはなかった。
家族の人たちが次々と学校に入ってくる。

「場所取り」の位置は、本部席の反対側、
つまりバックストレッチの部分が大半で、
他に児童席もあるので、さほど広いスペースではない。

レジャーシートがびっしりと敷かれていた。
この日はまた暑かったので、炎天下の観戦は大変だろうと思った。



 
  夜中も含め、早くから並んでの場所取り。 でも、ここで見るのは暑そうだ。


僕らは建物の日陰で、涼しい風を受けながら立っていた。

去年、幼稚園児だったモミィを連れて見学した時よりも、
見学の人びとの数は、いささか少なく感じたが、それでも、
このために仕事を休んだのか、父親らしき人も多かった。

僕はモミィの幼稚園時代に毎日送り迎えをしていたので、
そのまま小学校に上がった園児のお母さんたちとも顔見知りで、
日陰で立っていると、いろんな人たちに会ってあいさつを交わす。

「あ、こんにちは。お久しぶりですね~」
と僕に声をかけてくれた人を、妻はほとんど知らない。
「あの人は、〇〇ちゃんのママでね、さっきのあの人は…」
と、僕が妻に説明する。

幼稚園送迎当時、お腹が大きかったママと会ったら、
可愛い男の子を抱いておられた。
「へぇ、あの時のお腹の赤ちゃんが、もうこんなに!」と驚いたり。

また、モミィが活動しているキックベースのお母さんたちとも会った。
「モミィちゃんはどんなお遊戯に出るんですか?」とか、
「1年生だから、可愛いでしょうね」とか言って、
「真ん中に場所をとってますので、疲れたらどうぞ来てください」
などと言ってくれたりするのだ。

その人が去ってから、僕はまた妻に、
「あの人は〇〇ちゃんのママで、会計の役をしてくれている人」
などとと説明するのである。

男の人とも、会ってあいさつを交わしたあと、
「あの人は、さっきの〇〇さんのご主人で、
 キックベースの試合の時、よく車を出してくれる人」
と、そのつど妻に説明をする。

さらに、モミィはダンス教室にも通っているので、
その送り迎えで知り合うお母さんも、顔だけは知っているので、
こんな場所で出会うと 「あらぁ、こんにちは!」 と言われる。

要するに、僕のほうが妻よりも圧倒的に顔見知りが多い。

普通、こういう場合は、たいてい妻のほうが地域情報に強く、
夫は自分の家族以外、地域の人々のことにはほとんど疎い。

しかしわが家はそうでもない。

これも幼稚園の送り迎えや土・日曜日のキックベースの付き添いなど、
モミィの対外サポート役を受け持ってきたからであろう。

仕事をしていた頃は、家庭の周辺のことにはまるで無知で、
近所の人の名前も知らず、地域とも全然
無縁だったのに、
退職をしてから、これほどいろんな知り合いができるとは…
なんだか、不思議な気がしてならない。

さて…
運動会は各学年の個人走やリレー、大玉ころがし、棒引き、綱引き、

組み立て体操、保護者参加種目など、いろんな競技があるのだけれど、
モミイの1年生は、50メートル走、ダンス、玉入れ、全学年の綱引き…
などで、当然だけど、幼稚園と違って、出番がなかなか回ってこない。

しかし、前述のように毎週キックベースの練習に付き添っているので、
モミィの先輩たちの顔はよく知っているから、その子らが走っていると、
「〇〇ちゃん、がんばれぇ」と応援できるので、退屈はしない。

こうして、
モミィの学年以外にも知っている子が沢山いると、
それだけ他の競技や演技にも目が行くので、楽しいものだ。

お昼にはいったん帰宅して昼食をとり、また学校へ戻って来た。

午後からは日陰もなくなり、暑い中をあちらこちらと、うろうろした。

全学年の競技でモミィが出てくると、その近くへ行き、写真を撮る。

僕など小さいデジカメ2個を使って、写真と動画を撮るのであるが、
他のパパやママたちは、立派なビデオカメラをわが子に向けている。
ズラ~とビデオカメラが並ぶ光景は、まるでニュース報道のようだ。

ナマの目で見るより、カメラのレンズを通して子どもの様子を見る。

よく幼稚園では、「ご自分の目で、しっかりと見てあげてください」
と言われたものだが、運動会はやはり「撮影会」の雰囲気も漂う。

しかしさすがに秋の風物詩、運動会は、熱気ムンムンであった。



 
 1年生の50m走。 モミィは左から2人目。 走っている4人中、4番目です

 

  
   ダンスはモミィの得意種目。 表情もイキイキ (中央)。


 
   玉入れ。 右端、しゃがんで玉を拾うモミィ。

 



 
  綱引き。左から3人目、こちら向きがモミィ。 この勝負は白組が負けました。

 

3時前にすべての種目が終り、閉会式となった。

なかなか楽しい運動会であったけれど、
それにしても暑くて暑くて、疲れてしまった。

そのあと、モミィが帰ってくるとおやつを食べてすぐにまた支度。

今日は火曜日なので、エレクトーンのレッスンが5時から始まる。
急がなければならない。 

「疲れたのになぁ~」というモミィを自転車に乗せ、
駅前のヤマハ音楽教室へ行き、そこで1時間、付き添った。

来週10月8日の祝日に、八尾のプリズムホールで合奏コンクールがある。
9月は主にその曲をずっと練習してきたが、今日が最後の合同練習日だ。

モミィのクラスは「幼児科」で、総勢9人。
なかなか9人の演奏がピッタリ合わないので、先生も一生懸命だ。

モミィも、運動会が終わると次は合奏コンクールである。

さらにその次の週末はキックベースの「合宿」が控えているし、
そのあとはダンスの発表会もある。 土・日は予定がギッシリ。

運動会の閉会式で、校長先生が「今日は宿題がありま~す」と言った。

その宿題というのは、「今夜は早く寝ること」だった。
「明日はお休みではありません。元気に登校してきてくださ~い」
そう言って、校長先生のあいさつは終わった。

本来、運動会の翌日は代休のはずである。
しかし日曜日の運動会が台風で流れても、月曜日は代休に変わりなし。
そして火曜日に運動会。代休が運動会の前日、という妙な日程になった。

今朝、モミィは眠そうに目をこすりながら、なかなか起き上がらない。

「ああぁぁ…ダイキュウがほしいわぁ~」
…と、布団の上でゴロゴロしながら、叫んでいた。

 

 

 

コメント (2)
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