僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

アルゼンチンの風に吹かれて

2014年03月31日 | 日常のいろいろなこと

いやまぁ、早いものですね~
…というセリフがすっかり口癖になってしまった。
今日は3月31日、つまり年度末。勤務している頃は大きな節目の日。
僕も38年間勤めた市役所を定年退職して、きょうで丸5年が経った。
これまた「いやまぁ、早いものですね~」と、ため息が漏れますね。


そんなことで、3月下旬から4月にかけては年度末をまたぐので何となく落ち着かない気分があった。今は仕事をしていないから関係ないじゃん…と思ってみても、モミィがいるのでやはり関係がある。25日から春休みに入り、4月8日が始業式。モミィも4月には小学3年生になるのだ。いやまぁ、早いものですね~


  ………………………………………………………………………………


さて、4年前から、毎年3月になると、アルゼンチンのブエノスアイレスでレストランのシェフをしている甥のヒロユキが、彼女のソルちゃんを連れて日本へ帰って来るようになった。で、先日もまた1年ぶりに、ヒロユキたちに会った。


…5年前。僕が退職した年の9月に、妻と、ヒロユキの母である義姉を伴って、アルゼンチンへ旅行した。10年以上日本を離れたままのヒロユキに再会した義姉が「たまには日本へ帰ってきてね」と言ったのがきっかけとなった。ソルちゃんも日本へ行ってみた~いと強く望んだようである。


翌年から、3月になるとレストランのオーナーから長期休暇をもらって、2人で日本へ来るようになった。その都度、僕たちも呼んでもらってみんなで食事をし、そのあとソルちゃんが大好きなカラオケへ行って騒ぐのが毎年の恒例の行事みたいになってきた。僕もカラオケ好きだからレパートリーは多い(自慢!…ただし古い歌ばかり)。ソルちゃんが「ニッポンのボンオドリのウタがスキ」と言うので、「河内おとこ節」なんかを歌ったりすると、ソルちゃんは「♪ヨイヨイッ」などと奇妙な合いの手を入れたり、踊ったりするのだ(笑)。


毎年カラオケで歌っていると、ソルちゃんも僕が歌ういくつかの歌を覚えてしまったようで「アノウタ、ウタッテヨ」とリクエストしたりする。そのひとつがシャ乱Qの「いいわけ」。とりわけ彼女の好きなフレーズが、

 

 ♪LONRY誰も孤独なのかい LONRY僕はひとりかい LONRY…


…のくだり。その「LONRY」の部分だけをソルちゃんが叫ぶように歌う。そこのところで大いに盛り上がるのである。


ところで、今年はヒロユキとソルちゃんの2人に加えて、初めてソルちゃんのお母さんも一緒に日本へやって来た。お母さんはカラオケは歌わないが、僕やソルちゃんが歌うと立ち上がって正面に出てきて、モミィを誘い出して2人で一緒に踊るのである。さすがタンゴの本場の国からやって来た人である。これには圧倒されましたね~

 

 
 
  左がソルちゃん(29歳) 右がソルちゃんのママ  

 

 
  ソルちゃんママにリードしてもらって踊るモミィ

 


それにしても、前回ソルちゃんらとカラオケを歌ったのがついこの間のことのように思えるが、もう1年も前のことである。いやまぁ、早いものですね~


ソルちゃんはモミィと会うといつも「モミィ、カワイイ」とギュッと抱きしめてくれる。モミィもソルちゃんのことが大好きで、毎年、会うのを楽しみにしている。また来年の3月になれば会えるだろう。その時にもまた「あれから1年…。いやまぁ、早いものですね~」とこのブログに書くのでしょうね、たぶん。

 

 

 


 

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イオンのこと 消費税のこと

2014年03月29日 | 日常のいろいろなこと

僕が住む大阪・藤井寺の駅前にあったイオンモール(旧ジャスコ)が2月末で閉鎖された。1973年(昭和48年)の12月オープンだから、約40年間わが町の駅前の顔として賑わっていたことになる。もっとも、取り壊されたあとは、周辺の駅前整備計画と連携して、もっと大きな店舗に生まれ変わるのだから、イオンがなくなってしまうわけではない。しかし、その新しいイオンができるまで、2年待たなければならない。おかげでこのごろ、何かと不便で仕方がない。僕に限らず、地域の人たちの買い物の中心地だったので、みんな困っているだろうなと思う。


僕が今の藤井寺市に引っ越してきたのは1974年の8月だった。その前は柏原市というところに住んでいたのだけれど、勤め先の役所から帰るとき、職場の同僚が時々家まで車で送ってくれた。その途中、藤井寺市を通過しているとき、向こうのほうに巨大な建物が建設されているのが見えた時のことを覚えている。


「なに…あれ?」と僕が指差すと、同僚は「なんか、大きなスーパーマーケットができるらしいで」と教えてくれた。今から思うと、それがジャスコだった。そしてそこがオープンして1年も経たないうちに、僕たち家族はそのジャスコのある藤井寺市に引っ越してきて、妻は毎日のように幼い子供たちを連れてジャスコへ買い物に通ったのである。


そのジャスコが、各地でどんどん店舗を増やしていった。名称もイオンモールに変わった。新しい店舗になればなるほど大きくなり、それに比べると、あの巨大に見えたわが町のイオンも、5階建てとはいえ、売り場面積は新しい各店舗よりかなり小型で、品揃えも、それらと比較してみれば貧弱であった。しかし…、しかし…、である。2月末に閉鎖されてみると、他に食料品店はあるとは言え、やはり衣料その他の雑貨などを手軽に見てまわれる場所は近くにはない。また、地階に小さいが、フードコート風にテーブルが置かれ、モミィは、そこでマクドのセットやサーティーワンのアイスクリームなどを食べるのを楽しみにしていたものだった。存在していた時にはさほど思わなかったが、いざ無くなると、その有難みがよ~くわかったのである。「早く新しいイオンができてほしいなぁ…」と、モミィはこのごろ、いつも言っている。


そのイオンがなくなったことで、近辺の2、3の食料品スーパーが異様に繁盛している。わが家の近くにサンプラザというスーパーがあるが、先日、コスパの帰りに寄ったところ、かつてないほどレジに長い行列ができているのにびっくりした。こんな光景、見たことない! それにはイオンがなくなったことと、さらにもう一つ原因があった。4月からの消費税率のアップだ。その前に買いだめをする人が増えてきて、しかも店も「増税前、大セール!」などと派手なチラシを出して集客作戦を図る。つまりこの3月は、イオンの閉店と増税直前が重なって、わが町の小型スーパーは客でごった返しているのだった。やれやれ…


消費税といえば、初めて実施されたのが1989年(平成元年)の4月だった。当時は3パーセントだった。僕らにはなじみの薄い制度で、まぁ、そんな大した影響はないだろう…と思っていた。翌年、僕は自宅を建て替えた。そして支払い時「消費税」として約70万円の請求額を見たとき、ギョッとした。あ、そうか、そうだったんだ! うぅぅぅぅ~。


今回の増税では、住宅ローン控除限度額が引き上げられるなど、住宅に関する増税緩和措置がとられているが、この時はそういうものはなかった(…と思う)。


たまたま、自宅を建て替えるのと、その直前に消費税というものが日本で初めて実施されたのと、時期がかぶってしまったのは、まぁ、嘆いても仕方ないことだと今では思っているけれど、消費税…といえば、いつもその時のことを思い出すのである。「増税前」の3月も明後日で終わるけれど、今回は家も建て替えないし(笑)、これといって買いだめするものもないので別段のことはない。しかし、イオンがなくなったのは、やはり不便である。ホント、毎日の買い物に「今日はどこへ行こう?」などといちいち考えなければならないから


 

 

 

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交友賛歌

2014年03月27日 | ランニング

月曜日はdoiron(ドイロン)クンから、また西高野街道でも歩きませんか、ついてはその作戦会議を開きましょう…ということでお誘いを受け、1年ぶりに会って大いに語り合った。


そして昨日は、doironクンと同じランニング仲間であるK島クンと会って飲んだ。これもまた、doironクン同様、1年ぶりの再会である。


これまでも書いたけれど、あの250キロを何度も走ったdoironクンもすごいけれど、K島クンのほうも、僕らの友達の中ではマラソンナンバーワンの実力者である。昔、まだランニングがブームでなかった頃、僕が篠山マラソンやニューヨークマラソンに出て、4時間台のタイムで完走したことが勤め先の市役所で話題になった。常々マラソンを走りたいと思っていた人たちが僕のところへ来て「教えを請う」みたいな形でさまざまな質問をされたことがあった。僕は大した記録でもないし、そこはまぁ、適当に返事したり、アドバイスめいたものをしていたのだけれど、「じゃぁ、一緒にレースに出よう」ということになって5キロや10キロを走り始めると、そういう人達はみるみる記録を伸ばし、僕は置いていかれるばかりだった。その中でもケタ外れのスピードを持っていたのが4歳半年下のK島クンだった。


1人やり出すとまた1人、また1人とマラソンを目ざす人間が輩出してきて、いつのまにか職場で「ランナーズ」という組織ができ、年長で海外マラソンの経験もあった僕が「会長」ということになった。それ以来、勤めている役所の中では、僕は「ランナー」というかなり固定したイメージを職員の人たちに植え付けたようであった。現在、退職しても、たまに役所に用事で顔を出すと「走ってはりますか?」というのが、僕に対する挨拶代わりの言葉になっている。


ところで、K島クンは、市民ランナーとしては、ダントツの実力の持ち主であった。別大マラソンに出場して2時間30分台の記録を出したこともある。当時、別大マラソンといえばエリートマラソンで、出場資格も厳しかった。そこに出るだけでもすごかったのに、さらに2時間30分台という、プロの実業団クラスのタイムで完走したのである。僕の周辺でこれほどのタイムを出した人間は他にいない。僕などいくら頑張っても3時間半を切るのが精一杯だったので、これには驚いた。


そのあと、トライアスロンに進出したK島クンは、世界的にも有名なハワイや琵琶湖の国際大会に出場し、驚くほどの好成績をおさめている。うちの市役所のみならず、南大阪一帯でも「K島」の名前は響き渡り、僕など大和川堤防を走っていると、顔だけ知っている人から「K島さんはどうしていますか?」と今でも聞かれる。彼は地域でも「有名選手」だったのだ。


元々大阪府大(作家・東野圭吾の先輩に当たる)で、山岳部に入っていたK島クンだったから、僕を山歩きにも連れて行ってくれた。六甲山脈を須磨から宝塚まで、山をいくつも超える恐怖の「六甲全山縦走」にも誘われたし、彼の車に乗り、白山へのゼロ泊弾丸登山も誘ってもらった。マラソンでは、1992年、サロマ湖100キロマラソンにdoironクンも含めて遠征をして、K島はレース後のテレビにも映ったほど先頭グループに近いところを走って好成績をおさめ、一方僕は、当時、制限時間が12時間半だったところ、12時間27分のギリギリのタイムでヘトヘトになりながらゴールした。ゴールから少し手前のところで、K島は僕に抱きついて「よかったよかった~」と、涙ながらに僕の頭をなでてくれた(よほど心配してくれていたのだろう)。4歳半年下の男に頭をなでてもらったのは、わが人生でこれが最初で最後である(笑)。その時、僕も涙が出た。


僕は後年、サロマ湖以外にも、四万十川や赤穂の100キロマラソンにも出場したが、その練習には必ずK島クンに伴走をお願いした。70~80キロを一緒に走ってくれる仲間なんて、そうザラにいない。その点、〇島クンがあまり練習をしていない時期でも、快く僕のパートナーを勤めてくれ、一緒に朝早くから夕方まで、にこやかに長い長い距離を付き合ってくれるのであった。


だから、K島クンとは、マラソンでも一緒にいろんなところへ行っているし、普段も長居公園などで5キロのタイムトライアルをして刺激をもらっていた。つまり、よき「師匠」であった。昨日、ビールを飲みながら、話がそういうところに及ぶと、懐かしいそんな話がズルズルズルと出てきて、話の尽きなくなる2人だった。そういう話をしているときが、一番幸せなんですよね~


さて、言い遅れたが、そのK島クンは、僕が勤めていた役所で、今は環境関係の部長職なのであるが、今月で定年退職を迎える。…ということは、あと仕事に出るのは…明日と明後日、そして土日をはさみ月曜日の3日間だけである。


「そうですねん。あと3日ですわ…」
K島クンは目を細め、感慨深そうに言った。
胸の中を去来するものは、いろいろあるのだろう。


5年前、僕が退職する際に、「走る会」で送別会をしてもらい、リュックとウェストバッグを記念品にいただいた。その段取りをしてくれたのがK島クンである。あれから5年経ち、退職者が相次ぎ、走る会も現職で残っている人間のほうが少なくなり、誰も送別会の世話をする人間がいなくなった。おととい、doironクンに「K島も退職やで」と言うと「大丈夫、私がいてますやん」と心強く言ってくれた。段取りをしてくれるそうだ。さすがに頼りになるdoironクンである。


みんなで退職祝をするのも大いに良い。僕は僕で、ランニングや山登りで、あまりにも大きな影響を受け、とてつもない経験までさせてもらったK島クンに対しては、ささやかだけれど、個人的にも30数年間勤めてきた労をねぎらいたかった。で、昨日は〇島クンを誘って、形ばかりだけれど、僕の気持として、〇島クンの退職をお祝いの真似事をさせてもらったわけである。


「体調は大丈夫ですか? 無理せんといてくださいね」


別れ際、K島クンはそう言って笑顔で手を降り、駅に向かった。


それを見送りながら、これまでいろんなことに誘って僕に無理させたのはお前やろ~と、僕はつぶやいた。(あはは~。冗談です。彼には感謝しています)。一昨日のdoironクンといい、このK島クンといい、僕は本当に良い友人に恵まれたなぁと、帰り道に、しみじみ思った。


最近、人と会うのが億劫に感じ始めていたので、この3日間で最も親しい2人と会って心ゆくまで話せたことは、僕に大きなプラス思考をもたらしてくれた。


先日ちひろさんがくださったコメントに、
「お友達と会う、というのは気持ちがとても浮き立つことですね」
という言葉がありました。本当にここ数日で、すっかり気持が浮き立ちました。

 

 

 

 

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続ける…ということ

2014年03月25日 | 日常のいろいろなこと

いろいろあってPCを開ける時間や気持の余裕がなくなり、10日ほどブログを休みました。時々ヘンなコメントが舞い込むので、コメント欄も閉じました。


それが昨夜、息がピッタリと会う友人と久しぶりに会い、モヤモヤ気分が一掃されました。友人とは、このブログにも時々登場するドイロンです。


ドイロンとは…。僕より7歳年下で、萩往還250キロ(3日間走りっぱなし)のレースを何度も完走したり、トライアスロンをしたりする鉄人であり、軽妙洒脱な会話で常に人を笑わす才人でもあり、数年前に定年を待たず会社を退職し、今は地方紙のライターとして、紀行文やインタビュー記事などを寄稿しているプロの書き手でもある。一方、家庭では、ドイロン夫妻のご両親4人とも介護が必要な身で、彼も奥さん共々毎日介護の日が続く…。昨日は「最近うちの犬まで要介護になりよりまして、全部で5人(?)になりましたわ」と笑っていたドイロン。たった一人の母親を特養施設に預けたまま、ほとんど顔も出しに行かない僕とは、えらい違いです。


一日も休むことなく、すでに2,000以上のブログを連続更新し続けているドイロンと会い、2人でビールを飲み交わしながら、様々な話に興じました。1年ぶりに会った懐かしさもあり、積もる話も山ほどありました。波乱万丈とも言えるドイロンの日常生活の話に吸い込まれながら、次から次へと途切れることなくいろんな話題が飛び出して、僕たちの会話は大いに弾みました。実に濃密な数時間を過ごせたことで、僕はすっかりドイロンの薫陶を受け、心のスイッチが切り替わったか、今朝、早速このブログに戻ってきたのでした。


歳を重ねると物忘れがひどくなり、物事が億劫になり、行動範囲や人との交流範囲が狭まったりしがちですけど、やがてそれがボケ症状に至る…な~んてパターンに陥るのを予防するためには、よくしゃべり、よく笑い、よく考え、そしてよく歩く(運動する)という4つが大事なのだそうです。


そして、ものを書く…というのも、「よく考える」中に入るもので、物忘れの進行を防ぐのに効果的であると、先日のNHK・Eテレの「団塊スタイル・危ない物忘れを見分ける」という番組の中で言っていました。老いることは仕方ありませんが、耄碌(もうろく)することはまた別なので、なるべくそうならないようにしたいものですよね。


どんなに短くてもいいから、やはりブログをコンスタントに続けることが僕にとっては精神衛生にもいいし、また、オジン臭くなるのも防いでくれるかも知れないし(笑)。さらに、いろんな方に読んでもらえる喜びに浸れることこそ無上の幸せであり、そういう幸せを感じられることが、自分の生きがいにもつながっていくのだろうなぁ~と、改めて思った次第です。

 

 

 

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あれから3年

2014年03月14日 | ニュース・時事

真夜中の1時半頃に目が覚めた。目を閉じてもしばらく寝付けない。そしてやっとウトウトしかけた時、ガタガタっと部屋が揺れた。あ、地震だ…と思って身構えていたら、しばらくして、止まった。


早朝に起きてPCを立ち上げると、Yahoo!の画面に地震速報が出ていた。午前2時6分、愛媛県を中心に最大震度5の地震があり、津波の心配なし…とあった。地震は西日本の広い範囲に及んでおり、僕が住んでいる大阪府藤井寺市は震度3であった。


震度3でもその一瞬、恐怖に襲われる。改めて東日本大震災がどれほどのものだったろうか…と思うと戦慄が走る。


3日前の3月11日…震災から3年が経った日、各地で追悼の行事が行われ、新聞・テレビもほとんどそれに関連する報道で埋め尽くされていた。テレビ番組も、当日は特に午後はどのチャンネルも震災・津波関連の特集を組んでいた。


いろんな番組を見た中で、特に印象が強かったのは、11日ではなく、その前夜の午後9時から放送されたTVSテレビの「テレビ未来遺産・震災直後…生死を分ける72時間になすべきこと」という番組だった。映像を見ているだけでも息を呑み、体が固くなった。数々の救助の場面が次々と映し出されていた。


中でも目を見張ったのは、気仙沼市の公民館に避難した450名の人たちの救出劇だった。押し寄せる津波に住民たちは市の中央公民館3階に逃げたが、孤立状態となった。その中に、一景島保育所の子どもたち71人もいた。恐怖の中、救助の来る気配もなく、むろん周囲は水没しているので歩いて脱出は不可能だ。絶体絶命のピンチの中、保育所の園長先生が家族に「火の海 ダメかも がんばる」とメールを打つ。それがロンドンに住む息子さんに届き、驚いた息子さんがツィッターにメッセージを流す。「…空からの救助が可能であれば、子供達だけでも助けてあげられませんでしょうか」。それを東京の鈴木さんという人が読み、「文章がしっかりしている。これはデマでなく本物だ」。テレビで気仙沼の火災も見ていたので間違いないと確信し、東京都の副知事にこの情報を送り、そこから、たまたま気仙沼に向かっていた東京消防庁の救助部隊に連絡され、ヘリが中央公民館に向かった。そして2日間をかけて450人が高台にある小学校へと無事避難させられた。高台の小学校で、ヘリから降りた子供たちが校庭で待っていた親たちと再会する場面では、涙があふれて止まらなかった。


こういう「奇跡の救出劇」が、この時、数多くあったのだろうと思う。


東日本大震災での死者、行方不明者、関連死者は2万人を超す。さらに、約26万7千人の人々が今もなお、避難生活を強いられているという。亡くなられた方々の御冥福をお祈りすることと併せて、震災を乗り越え、今も避難所で懸命に生活しておられる方々が26万人以上おられるということを、もう一度頭の中に焼き付けておかなければ…という思いを一層強くした。


マスコミも3月11日だけ集中的に特集を流すのではなく、もっと日常的に報じ続ける姿勢があってもいいのではないか。被災地の人たちは「私たちの悲しみは3月11日だけではありません。毎日、ずっとです」とおっしゃっていた。


さらに「復興」とは名ばかりで遅々として進まず、その予算を何に使っているのかわからないような現状を厳しく批判し、政府の尻をひっぱたくのも、マスコミの重要な役割ではないかと思うのだ。…言うまでもないことですけど。

 

 

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授業参観でびっくりしたこと

2014年03月10日 | モミィの成長日記

~ モミイ、モミイとテレビは騒ぐ ~ 

最近、テレビのニュースでやたらに「モミィ、モミィ、モミィ」という言葉が出まくっていた。わが家では当然ながらうちのモミィを連想してしまうので、ついつい目がテレビへ向く…。そんな日が続いた。

その「モミィ」というのは、今年1月、NHKの会長に就任した籾井(もみい)勝人氏のことである。この人が就任記者会見で「個人的意見」としながら、なんだかんだと言って物議を醸すこととなり、一躍「時の人」となった。だから「モミイ」は甚だイメージが悪い。最近、やっと彼に関する報道も下火になってきた。わが友ドイロンがモミィの登場するブログに「モミィの記は残った」(樅の木は残った)と名づけてくれ、大いに喜んだ僕だけど、こちらのモミイは、まったくねぇ~。はた迷惑ですわ


~ 学校で「回文」が流行 ~

モミィが僕に「かいぶんって知ってる?」と聞くので、「あ、上から読んでも下から読んでも同じ文…というやつやなぁ」。つまり回文。

「そうやで。クラスで、はやってるねん」とモミィ。「たけやぶやけた…みたいなもんやろ」と僕が言うと「そんなん誰でも知ってるで」とエラそうな口をきく。「だったら『マカオのおかま』はどうや?」「なに、それ?」と首をかしげるモミィ。うむ、8歳児には不適切な例だったか…と後悔。そこでモミィに「どんなんがあるの?」と聞くと「いま うんどうかい すいか うどん うまい」と得意そうに言った。なるほど~ 

村上春樹さんの著作のひとつに「またたび浴びたタマ」という、題名を見てもわかるように回文のかるた集がある。「マカオの…」も、たぶんそこに出ていたのだと思う。ま、いろいろな回文があるけれど、僕の好きなものにこんな異色作もある。「世の中ね 顔かお金かなのよ」→「よのなかね かおか おかねか なのよ」。で、これをまたモミィに教えてしまった。言ってからしまった…と後悔した。学校でモミィがそれを口にしたら、先生に眉をひそめられそうだもんね。


* ~ 授業参観でびっくりしたこと ~

先日、モミィの小学校で授業参観があった。珍しくその日は英語の授業だった。モミィは2年生だけど、何ヶ月かに1度、外国人講師が来て英語の授業をやるということは聞いていたので、興味津々で学校へ行った。その日は珍しく、教室の後ろの壁のそばに、保護者が座れるように椅子が並べてあった。そこに座っている人もいたし、立ったままの人もいた。僕が教室に着いたときはまだたくさんの椅子が空いていたので、入り口近くのひとつに腰掛けて授業を見学した。

講師はウェイという若い男性で、ゼスチャーたっぷりに児童たちの笑いを誘っていた。そして「ハワユー?」と大きな声で言い、児童たちに反復させる。次にウェイ先生は、隅に立っている担任のM先生に「ハワユー?」と言い、M先生はそれに対して「アイムハピー」と答える。ウェイ先生はまた児童のほうを見て、こんなふうにやりとりするんだよ、という意味のことを、ゼスチャーをまじえて英語で言う。そのやり方や雰囲気は、毎週月曜日にモミィが通うECCの英語教室とよく似ている。

そして、ウェイ先生が、児童の席の間をウロウロ歩きながら、「ハワユー?」と誰かを指名する態勢をとりはじめると、教室中がざわついた。「当てないで!」という仕草をする児童たちの1人を指差して、「ハワユー?」。しかし当てられた児童は無言のまま。ウェイ先生が小さな声で「アイムハピー…? アイムハングリー…?」などと助け舟を出すと、児童が小さな声で「アイムハピー」と言い「オーケー!」とウェイ先生が手を叩き、教室の子供も大人も拍手した。

さて次は…と、ウェイ先生がまた教室内を「ハワユー?」と言いながら歩き回る。…と、こちらのほうにやってきた。僕の目の前に座っている男の子の横まで来て止まり、「ハワ~…」と大声を出して、その子を当てるのかと思ってウェイ先生の顔をじっと見ていたら、「ハワ~ユー?」と、その後ろに座っていた僕に質問したのである。げぇっ。僕が当てられたのだ。保護者でっせ~。椅子に座っていたので児童と間違われた…なんてことあるわけないけど、まさか僕が「ハワユー?」と質問されるなんて。保護者たちの視線がいっせいにこちらに注がれ、児童たちもみんな振り返って僕のほうを見た。

僕はびっくりしながら立って「アイムファイン・サンキュー」と言い、ウェイ先生は「グッドジョブ!」とニッコリ笑って指でマルを作り、教壇のほうに戻って行った。…まぁそれにしても、参観に来ている保護者を当てるとは…普通の先生なら絶対あり得ないことだけど、さすがに外国人は違う…と妙に感心しながら、でもまぁ、モミィも見ている中で、当てられてすぐに言葉が出てきてよかったと、胸をなでおろした次第です。

 

 


 

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幻の「50」

2014年03月07日 | ランニング


「永遠の0」の次回作は「幻の50」に決まったようです。…というのはウソです。えへへ。小説・映画の話ではなく、僕のマラソンの話です。


去年12月に、大阪長居公園の周回コースで3月2日に行われるフルマラソン大会に申し込んだ。そして、その申し込んだ翌日の新聞に、ある医師の意見として「フルマラソンなどの激しい運動は(心房細動に)よくありませんが、早歩きで1日30分程度歩くなら、むしろ積極的にやったほうがいいでしょう」という記事が載っていた。参加費を添えてマラソン大会に申し込んだ次の日にそれを読んだものだから、僕はガクンとなって、そのことを12月22日のブログにも書いた。去年あたりから、持病の心房細動の発作がわずかだが出やすくなってきたようで、その記事はとても気になった。


その前には、11月の淀川マラソンに申し込み、暑い夏に走り込みを繰り返し、現地へ下見まで出かけて行った甲斐もなく、レース10日前から体調を壊して結局欠場せざるを得なくなり、悔しい思いをしていた。なんとかその無念を晴らそうと、3月初めに行われる昔なじみの長居フルマラソン大会に再度挑戦しようと、申し込んだわけだった。


まぁ、せっかく申し込んだのだから、完走できなくても周回コースなんだから行けるところまで行って、もうダメだと思ったらリタイヤすればいい…という気だったが、やはりそういう怠惰なことを考えていると練習にも身が入らない。おまけに1月から2月にかけて体中のそこらじゅうにトラブルが発生し、結局は11月の淀川マラソンに続き、またも参加費を払って申し込みながら欠場する…という、恥ずかしくて人に言えないような結末となった(言ってますけど)。

 

 

 

 

  これは、長居のフルマラソン大会の1週間前に、大会本部から送られて来た封筒の表書きである。中には案内文が入っていたが、大会当日は、この封筒と引き換えにゼッケンをもらうことになっていた。そのゼッケンナンバーを見ると「50」とあった。これまで僕がマラソン大会でもらったゼッケンはほとんどが4ケタか5ケタぐらいまであって、中途半端な番号ばかりだったけれど、50番という区切りのいいのは初めてだった。あぁ、惜しいなぁ。このナンバーをつけて走りたかったなぁ…なんて思っても、走れないんだから仕方がない。


現在もウオーキングなら長い距離も大丈夫だが、走って心拍が上がると、脈が飛んだり、乱れたりして具合が悪くなる。情けないですなぁ、ほんまに。


フルマラソン大会への申し込みもこれが最後なんでしょうね。たぶん。


僕の好きな田辺聖子さんが、エッセイの中でこんなことを書いておられる。


若さや栄光を失うとき…われわれは乗り換えしなければいけない。新しい行く先を求めて。「体力低下、気力減退線にお乗換え願いま~す」その連呼を耳にとめて、人ははっと我に返る。いつまでもこの線でいいと思っていたのは、誤りだった。ここから別の線に乗り換えて生きなくてはならないのだ。…そうやって、乗り換え乗り換えして乗り継ぎをしつつ、終点までやってくるのが、人間の一生かもしれない。


この言葉が、このごろ特に、胸にジンと沁みてくるのでございます~

 


 

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アンネ・フランクの家

2014年03月05日 | 旅行

東京都内の公立図書館などで何百冊もの「アンネの日記」や関連本が破られるという事件が起きている。最近は信じられない出来事が次々に起こるが、この事件などはその極めつけである。一体誰が、何のためにそんなことを…


「アンネの日記」は、多くの人たちがそうであるように、僕にとっても子どもの頃から、心の支えとなる一冊だった。世界中の子供たち、そして大人たちの心の中へ、生きることの大切さを永遠に呼びかける世界の宝物「アンネの日記」が、よりによってこの平和な国・日本で破られるとは、まさかの出来事である。日本の恥だろう…と誰もが思うはずだ。


犯人はまだ捕まっていない。こんな乱暴な手口なんだから、早々に見つかってもいいはずなんだけれど。とにかく一日も早く捕まえなければならない。

    ………………………………………………………………………………

 
今からちょうど20年前、僕が初めてヨーロッパへ旅行した時、最初に行った都市がオランダのアムステルダムだった。そしてまず見学に出かけたのが「アンネ・フランクの家」だった。少年時代からずっと行きたいと夢見ていた場所だ。その時の記録があるので、微力ながらアンネ・フランクに関して少しでも参考にしていただければと、今回のブログに掲載することにしました。最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。


  ………………………………………………………………………………


オランダのアムステルダムの運河の数は、イタリアのベネチアを上回り、大小合わせて165本もあるという。さらに、それにかかる橋が、1292 もあるのだそうだ(「JTBポケットガイド」による)。 まさに元祖・水の都である。


現在、僕が住んでいる大阪も、江戸時代から「浪花の八百八橋」と呼ばれた「水の都」だけれど、実際にはもちろん 808 も橋はない。だから、アムステルダムの、1292 という橋の実数は、僕たちには想像もつかないほどのスケールを感じさせる。



     
  この運河のすぐそばに アンネ・フランクの家がある。



「アンネの日記」のアンネ・フランクの家は、その数多いアムステルダムの運河の一つの畔に建っている。彼女の一家は、ドイツ・ナチの迫害から逃れるために、1942年から2年間、この家の奥にひっそりと隠れ住んでいた。


このあたりは、17世紀にできた商館がぎっしりと並んでいる。かつて、この地方では、家の間口の広さに応じて家屋税が課せられる仕組みになっていたため、間口を狭くし、奥行きを長くする建築物が多かった。アンネ・フランクの一家が、2年間もナチスの目から逃れられたのは、そういう特殊な建物であったことも大きな要因であったと言われている。


地図をたどりながら、そこへ向かった。アムステルダム駅から、そんなに遠くないところに「アンネ・フランクの家」があった。


行ってみて驚いた。家の周りには、観光客がズラリと長蛇の列をなしていた。世界中のありとあらゆる国から、多くの人々が、「アンネの日記」を残した少女の「隠れ家」を見学にやって来るのだ。


ナチスがユダヤ人を虐殺した数は500万人とも600万人とも言われているが、わずか15歳でその生涯を閉じたアンネ・フランクは、その日記を残すことによって、いまも戦争と人種差別を告発し続け、世界中の人たちの心の中に生き続けていることが実感される光景であった。長い列の後ろに並び、胸が少し熱くなった。


  
      
   
大勢の人が見学のために並んでいる。

 

ここでアンネの家の近くにある「西教会」のことについて少し触れておきたい。


アンネ・フランクの家に行くためには、その西教会の前を通ることになるのだが、教会の正面にアンネの像があり、見学客たちはここでまず記念写真を撮ったりする。アンネの像の前には、花が添えてあったが、1年中、花は絶えることはないという。この西教会はアムステルダム市内で最も高い鐘楼を持つ教会でもあるそうだ。

 

   
    
西教会の前に立つアンネの像。



…さて、家の前で並ぶ観光客の長い列も少しずつ前に進み、ようやく順番がやって来て、家の中に入ると、前後左右にいる誰もが、神聖な場所の雰囲気を壊すことを避け合うように、そろりと静かに歩きながら、神妙な顔つきで家の奥へ奥へと吸い込まれて行った。


家の中では写真撮影が禁止されているので、残念ながら僕が撮った写真はない。(ネット上ではいろいろ出ていますので、関心のある方は検索してください)


僕は行列について歩いているだけなので、部屋ごとの構造が、いまイチどうなっているのかわからない。しかし、隠し扉になっている本棚へやって来たときには、さすがに緊張が高まった。この裏側が、アンネの一家が隠れ住んでいた部屋へつながって行くのだ。この奥の空間で、一家は、肩を寄せ合い、小さな音を立てることもしないように、息を殺すように毎日の生活を送っていたのである。


アンネが日記を書いていた屋根裏部屋は、立ち入り禁止になっていた。部屋に通じる短い階段の真上に大きな鏡が設置されていた。僕たち見学客は、階段の下からその鏡をあおぎ見て、そこに映し出されている屋根裏部屋の様子を、わずかに見ることができるのであった。


また少し進むと、小さな渡り廊下のような造りになっているところに出た。少し見上げる角度の場所に小窓があり、その窓から近くの教会の鐘楼が見えた。それが、あの西教会の鐘楼だったのだ。


アンネは、その日記の中で、時を打つ西教会の鐘の音に感激し、

 「鐘の音がとても素敵に聴こえます。
  とくに夜は、鐘の音が私に何か安らぎを与えてくれます」

と書いている。


2年間、外の世界から隔絶されたアンネは、この小窓から見える教会こそが、唯一の「風景」であり、安らぎであった。息を潜めながら生きてきた彼女は、常に発覚・逮捕という恐怖にさらされながらも、希望を失わず、この小さな窓から教会に向かって敬虔な祈りを捧げ続けたという。命の尊さ、魂の純粋さというものを改めて感じさせられた。

       
小窓から、その鐘楼が見えたときの光景を、僕は今でもはっきりと覚えている。写真が撮れなかったので、記憶の中にしかない光景だったけれど、今これを書くに際して、どうしてもその写真が欲しくて、あちらこちらのサイトを探しまくり、やっとその画像を探し当てることができた。個人のHPではなく、公のサイトだったので、ちょっと拝借してここに掲載させてもらうことにした。ちょうど、これと同じ角度で、窓からの教会の鐘楼を、僕は目にしたのである。アンネ・フランクが、毎日見ていたであろう窓からの教会の鐘楼であった。

 

      
   
窓から見える西教会の鐘楼  (資料写真)

 

アンネの一家は、1944年8月、不幸にも密告によってナチスに逮捕され、翌45年3月に、アンネは、ベルゲン・ベルゼン収容所で病死した。しかし、潜伏生活の中で、屋根裏部屋で書き綴られた彼女の日記は、戦後、生き残った父親オットーによって出版されて世紀のロングセラーになり、人類の貴重な遺産となった。


  ………………………………………………………………………………


「アンネの日記」が発刊されたのは、彼女が死んで2年後の1947年であった。僕が生まれる2年前のことである。アンネは、1929年(日本流で言えば昭和4年)生まれだから、僕より20歳年上で、生きていれば、今年で85歳になる。健康でさえあれば、今でも、まだ元気に暮らしていられる年齢である。それが…わずか15年で人生を閉ざされてしまった。


でも人の命は、長いか短いか…だけの差でしかない。
「アンネの日記」は、永遠に生き続けていく。

 
私の望みは、死んでからも なお生き続けることです。 

               ~ 「アンネの日記」より ~


                    

 

 

 
 
アンネ・フランクの家には、さまざまな資料が展示されている。
 「アンネの日記」は、日本を含む約60カ国で翻訳、出版され、
  それら各国の本が1冊ずつ展示されたコーナーがこれである。
  (ここは、写真撮影が許されていた)。 



 

  

 

 

 

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15歳少女殺害事件容疑者逮捕

2014年03月04日 | ニュース・時事

去年8月に三重県で起きた15歳少女殺害事件で、18歳の男が逮捕されたことに関し、連日さまざまな報道がされている。


一昨日から、このブログのアクセス数が急に増えたので何でだろうと思っていたら、どうやら当時そのことについてブログに書いた「三重・15歳少女殺害事件」へのアクセスが多かったから、ということだったようだ。


事件は8月25日の深夜に起きた。少女は花柄のタンクトップに黒のミニスカート姿で、車もほとんど通らない暗い道路わきを1人で歩いていた(…というタクシー運転手の目撃証言がある)。夜の11時ごろである。これ自体、僕らの世代の人間には考えられない大胆なことだと思った。11時15分頃に少女の姉が携帯に電話したら応答がなかった。そして翌朝の26日になっても少女は帰って来なかった。夜になってもまだ帰って来なかった。そしてさらに丸1日が過ぎた27日に初めて家族から捜索願が出されたという。それが少し不思議だった。


そんな頃、毎週日曜日の午後6時から日テレで放送されている『真相報道 バンキシャ』という番組で、元検事の河上和雄さんという人が、「稚拙な犯行ですね。やったのは子供(未成年)でしょ」と言い切ったのである。断定口調だったので今も強く印象に残っている。こういう凄いコメンテーターもいるんだ。


と同時に、そのとき河上さんは、複数の少年たちの犯行だと思う…と言ったが、今のところ逮捕された18歳は「1人でやった」と供述しているそうだ。こちらのほうはどうなのだろうかと、ニュースを見守っているところである。

 

 

 

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8の倍数の年齢の時に…

2014年03月02日 | 心と体と健康と


今年1月に65歳の誕生日を迎えた時、ある方からこんなメッセージをもらった。「男は8の倍数の歳に体調が悪くなったりするそうですが、あなたは8の倍数である64歳を乗り越えたのですから、今日から体調が上向きになりますよ」…と。


8の倍数なぁ…。どこかで聞いたことがある。ちょっと調べてみた。


東洋医学では、女は7の倍数、男は8の倍数の年齢の時に、体調の変わり目が訪れる…ということが文献に書かれているそうである。つまり、その年齢の時は体に悪いことが起きるので要注意…という意味なんだろうか。


   http://www.yomeishu.co.jp/x7x8/


まあ、8の倍数といっても、8歳から16・24・32・40・48歳あたりまでは、健康な男性にとってさほど「体調の変わり目」も気になるとは思えないけれど、ただ、人生も50年を過ぎると、気がつかないうちにジワジワと老いの影が忍び寄ってくる。そんな時期に迎える最初の8の倍数は56歳ということになる。ここらあたりから、この「8の倍数説」を検証していくのがわかりやすいのではないか。


ただし、僕に関しては56歳の時(2005年→平成17年)は、体調を崩すどころか、今も印象に残る楽しい出来事が多かった。1月に妻とイタリアのフィレンツェに旅行したのが56歳の始まりだった。ドイツのフランクフルト空港で乗り換えた飛行機がフィレンツェ空港へ着こうとしたが、濃霧のため着陸できず、方向を変えてボローニャの空港へ着陸した。それを…他に1人の日本人もおらず、早口の外国語の放送の意味も分らない僕らは、フィレンツェ空港に着いたものと思い込み、荷物を持って外に出て、タクシーを見つけ、フィレンツェ駅へ行ってくれ…と頼んだ、すると運転手は驚き「フィレンツェだって? 旦那、ここはボローニャですぜ」と言われ、天地がひっくり返るほどビックリしたのを思い出す。いわば羽田空港に降りて、そこを伊丹空港だと思い込み、タクシーで「新大阪まで行って」と頼んだようなものである。こんなことから始まったフィレンツッェ旅行だけど、今から思えば僕らの海外旅行の最高傑作の部類に入っていた。


またその年の夏から、生まれて初めてブログというものを初め、多くの見知らぬ人たちとネット上で知り合うことができ、これまで経験したことのないウキウキした気分を味わった。


10月には仲間たちと100キロウオーキング大会に出場した。大阪城前から出発し、兵庫県の明石大橋が見える塩屋というところで折り返す往復100キロのコースを、23時間25分のタイムで「完歩」した。土曜日の午前10時に出発し、帰ってきたのが日曜日の午前9時25分だった。そのことをブログに書いたら、沢山のブログ仲間たちから「おめでとう」のコメントをいただき、うれしかった。


そしてそのウオーキング大会の2日後に、モミィが誕生した。8の倍数に当たっていた56歳の僕にとって、その年はとてもいい年だったのです。


ところがその翌年。仕事中に、不整脈が原因で、「一過性脳虚血発作」という、軽い脳梗塞の症状に見舞われ、短時間だったけれど右半分が麻痺し、ろれつが回らなくなり、病院へ運ばれた。これに始まって、翌年は不整脈の手術に失敗したり、耳鳴りが発症したり…と、体調面ではあまりいいことはなかった。8の倍数が過ぎた翌年からである。


そして去年の1月の誕生日に、また8の倍数の年を迎えた。64歳である。まあ、これくらいになると、みんな体に何らかのトラブルを抱えているものだから、僕も不整脈や耳鳴りのほかにも、腰痛や、アレルギー性鼻炎や、最近は指の第1関節に痛みが出る「ヘバーデン結節」なども加わり、一人前の年寄りになりつつあった(笑)。でも、大した異変もなくその1年は過ぎた。


そして今年1月の誕生日に65歳になり「8の倍数を乗り切った」はずだったのに、なんとまあ、それを待っていたように、立て続けに体に異変が起きているのである。トホホ。


前回も56歳を乗り切ったとたんに、体のあちらこちらに異変が起き始めた。


今回も64歳を乗り切ったとたん、わずかふた月足らずの間に、飛蚊症や胃腸病や心拍異常に襲われて、その都度、お医者のお世話になった。


「女は7の倍数、男は8の倍数の年齢の時に、体調の変わり目が訪れる」というのもアテになりませんねぇ。むしろ僕の場合はその翌年に大きな体調の変わり目が訪れた、ということになります。まあ年齢と共に、体のケアをその節目(倍数)の歳に特に意識しよう…という点では有効かもしれませんが…
 

 

 

 

 

 


 

コメント (2)
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