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 僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

きょう松原市長選挙

2009年05月31日 | 議会&役所

僕がこの3月まで38年間勤めてきた市の市長選挙の投票がきょう、行われる。
いや、厳密に言うと、今現在、行われている最中である。
その市というのは、大阪府松原市である。

市長選挙の投票というのが、これまで、松原市ではわりに少なかった。
候補者が一人だけで、無投票、というのが多かったからだ。

したがって、ここ35年間の市長選挙というのは無風状態に近いものだった。

しかし、ずいぶん昔になるが、大荒れに荒れたこともあった。

昭和49年…(僕が役所に入って3年目だ)。
松原市では、全国ニュースに報じられるような政変劇があった。
社会党系のH市長が、松原市内の地区(当時はそう呼んでいた)に対して次々と巨額の予算を投入したものだから、議会から猛反発を受けた。そのあげく、議会はついに市長の不信任案を提出し、それを可決した。

この場合、市長は、辞職するか、議会への対抗措置として議会を解散するかのどちらかを選ばなければならない。H市長は、議会を解散する道を選んだ。

予算をめぐる長と議会の対立から、議会が解散に追いやられたのはわが国でも前代未聞のケースとして、連日、全国の新聞・テレビ等で報じられた。

昭和49年の暑い夏の盛りのことだった。

議会は解散させられて、汗だくの選挙に臨み、新しい議員たちが出揃った。

そして、この新しく選ばれた議員たちが、再び市長を不信任議決した。
これでH市長は、自動的に失職することになった。

そのあと出てきた元職員のD市長が、昭和49年から27年間、市長を務めた。
…なんと、27年間である。ずいぶん長い在職期間である。

本来なら7期だから7回選挙があるはずだった。が、ほとんどの選挙は対立候補が出ず、無投票当選を続けた。そして、そのD市長が健康上の理由で辞職したのが平成13年で、そこに出てきた次の市長は、これも元職員のN市長だった。

僕は、その政変劇のあった昭和49年の翌年である昭和50年から議会事務局に配属されたので、D市長が出発したころに議会での公務員生活がはじまったわけだ。だから、政変劇の詳しいことは知らない。人から話を聞く程度だった。

さて、27年間勤めたD市長のあとを継いだN市長は、かつての僕の上司であった人だった。お酒が好きで、よく飲みに連れて行ってもらった。とても温厚な人で、どちらかと言えば、政治家向きではないような気がした。しかし、4年の任期を経たあと、次も選挙に出たが、対抗馬が出ず、無投票で当選した。松原市の市長選は、本当に無投票が多い。住民に市長を選ぶ機会が与えられないというのも、深刻な問題ではあるが、とにかく対抗馬が出ないのだ。これはいかがなものか。

N市長は、平成13年から市長になって8年間、市政をつかさどってこられた。

不運なことに、ここ数年で松原市民病院が膨大な赤字を抱えることになり、これを閉鎖しないことには、松原市全体に悪影響が及ぶ、という緊急事態に至った。だいたい、市民病院は、まじめにやればやるほど赤字が嵩むのである。

去年11月、N市長は苦渋の選択をした。
松原市民病院を閉鎖することに決めたのである。

今の時代を象徴するようなニュースに、マスコミが飛びついた。
僕が事務局長をしていた議会にも、多くの報道陣が詰め掛けた。

N市長自身は、最後まで病院を閉鎖したくなかったようであるが、諸情勢がそれを許さなかった。まさに、断腸の思いで病院閉鎖を決められたのであろう。

そして、6月16日で2期目の市長任期が切れるのをきっかけに、次の選挙には出馬しないという声明を、3月の議会で発表した。その議会での発表の様子が載った新聞の写真に、市長の後ろに僕の顔が写っていたことは、いつかこのブログで書いたことがある。(すみません、関係ない話で…)

そして、今回の市長選挙は、2人の、新人同志の対決である。

病院の閉鎖に賛成をした自・公・民の推薦を受けた元自民党市議のSさんと、共産党の推薦を受け、病院閉鎖に待ったをかけ、福祉最優先政策を声高にとなえる団体役員のUさんとの一騎打ちとなった。Sさんは1週間前まで市議会議員だったので、よ~く知っているが、Uさんは、顔を知っている程度で話したことはあまりない。

元自民党市議のSさんは、一昨年から去年にかけて1年間、議長をしていたので、僕は特にこの人とは、その1年間は毎日のようにいっしょだった。会議や管外出張でいろんなところへも行った。彼は38歳という若さであり、何でも決断が早いし、勉強熱心で、行動的である。

現在その投票の真っ最中であり、午後10時ぐらいには大勢が判明するだろう。

選挙のことだから、フタを開けて見ないとわからないが、やはり、自民・公明・民主の推薦を受けているSさんが、かなり有力であろうと思う。

開票事務に参加する役所の友達から、大勢の判明次第メールを送ってもらうことになっているが、地元のNHKニュースでも報じるだろう。

今夜の投票結果が楽しみである。

しかしこれまで鳴かず飛ばずだった松原市の行政が、これからどう大きく変革していくのか…。よっしゃ、やっと面白い展開になってきたぞ~という時に、定年で退職…というのもね、なんだか、映画で延々と退屈なシーンを見せられて、さぁ、ここからだ~!  というクライマックスになったとたん「はい、もうあたなは終わりだから出てください」と映画館から追い出されたような気もしないではない。なんだかなぁ…。

まあ、これから職員給与も大幅に削減されるなどの思い切った政策が展開されていくと、仕事の方もますます大変になってくるので、自分が辞めた時期は、いい潮時だったのかなぁ、と言えるかもしれない…。

どちらにしても、今夜の結果は、待ち遠しいなぁ。

 

 

 

 

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モミィのフォト日記 ~スペイン村~

2009年05月30日 | モミィの成長日記

先週、モミィを連れて妻と3人で伊勢志摩方面へ1泊旅行をした。
宿泊は近鉄鳥羽駅の真ん前にある戸田屋。
初日は鳥羽の水族館へ行き、2日目は志摩スペイン村へ行った。

新型インフルエンザの騒動がピークに達していた頃で、水族館も、旅館も、スペイン村も、人の数は少なかった。地元のTVニュースでも、この騒動の影響で、伊勢志摩方面の修学旅行や一般の観光客が減り、深刻な状況になりつつあることを報じていた。

それにしても、モミィは元気一杯である。
飛んだり跳ねたり踊ったりしながら、一日中歌ったりしゃべったりしている。
黙っているのは、物を食べているときと寝ているときだけだ。

いや、食べているときも、何やかやと話したがる。
「お口の中に物が入っているときは、お話してはだめよ」
と妻に言われたときだけ、「あい」と返事してしばらくは黙る。
寝ているときは、さすがにしゃべりはしないが、あちらこちらへと、ごろごろ寝返りを打ちながら、こちらのふとんにまで押し寄せてくる。そのたびに、僕は目を覚まし、寝る位置を変えなければならない。そんなことで、モミィは24時間、じっとしていることがない…と言ってもいいほどだ。

僕たちが行ったのは平日だったので、小中学生の子どもを持つ家族の姿はほとんど見なかった。ただ、老人が多いのには驚いた。特にスペイン村からの帰り、シャトルバスに乗ったとき、隣にいる人たちを見てびっくりしたのは、平均年齢が80歳を遥かに超えていると思われるお年寄りのグループだった。
スペイン村は、当然だけれど、家族連れや若い人向きのレジャー施設だと思うのだが、こうした高齢の人たちもたくさん来ている光景を目にすると、それはそれでなんとなくわかる気がする。
広々としていて空気がきれいで、イベントが豊富で、遠くの景色もいい。特にこの日などは人が少なかったので、わりあいのんびりとした雰囲気であった。

水族館でも、お年寄りが多かった。
旅館でも、そうであった。
どこもかしこも、お年寄りだらけである。
僕も定年退職して、平日にこうして旅行に来るわけだから、同じ立場だ。
いよいよ高齢化社会の到来だなぁ…なんてことを実感させられる。

お年寄りが多いのは、僕らも利用した「まわりゃんせ」という、近鉄が発行する企画切符の影響もあるだろう。これは大阪から伊勢・志摩・鳥羽方面への4日間有効のフリー切符(パスポート)だが、三重交通バスや地元の観光船などに乗れるだけでなく、水族館やスペイン村など、いろんな観光施設に入場できて、料金は9,500円である。ふだんは関心が薄いお年寄りも、せっかくだからスペイン村にも行ってみよう、と思っても不思議ではない。

水族館が2,400円、スペイン村が2,800円という入場料を考えると、特急往復を含む交通費とあらゆる観光施設めぐりがフリーでできるこの「まわりゃんせ」の料金は、かなり格安だと言える。

さて、初日に入った鳥羽水族館は、モミィは予想したほどは喜ばなかった。
いろんな珍しい魚に、僕などはずいぶん興奮したが、モミィは最初だけだ。
どれも同じ魚に見えるのか、退屈をし始めた。
途中から水槽には見向きもせず、「ジュースほしい」などと言い出す始末。
スペイン村は4歳から有料だから、3歳のモミィは無料である。
しかしこの水族館は3歳から有料なのだ。
モミィは「まわりゃんせ」はない。
だから、水族館ではモミィにだけ料金を払っているのである。
おい、モミィ。お金かかっとんねんぞ、しっかり見ぃや。

翌日は、午前中からスペイン村である。
鳥羽から特急で20分ぐらいだったろうか。
鵜方という駅で降りて、シャトルバスに乗ると10分あまりで着く。

スペイン村の入口で、一人のお年寄りが、僕のところに近づいてきて、
「ここも、これがあったらタダで入れまんねんなぁ」
と、「まわりゃんせ」のパスポートを見せながら話しかけてきた。
とてもうれしそうだった。

それにしても、どこへ行ってもかなりひっそりとしていたのには、子どもたちの姿をあまり見かけなかったからだろう。もともと伊勢志摩方面は、修学旅行のメッカである。僕らも小学生の時の修学旅行の行く先は「お伊勢さん」であり、二見浦の夫婦岩で記念写真を撮った。しかし、いま、この修学旅行シーズンに、新型インフレのため子どもたちが来なくなったことが、伊勢志摩一帯のレジャー観光地にとっては大きな打撃となっているに違いない。

それでも、スペイン村には1組だけ、小学生たちが来ていた。
数十人が入口のところでしゃがんで、先生の話に耳を傾けていた。
「いいかぁ。必ずマスクはつけておきなさいよ。わかったね~」
「は~い」
返事が終わると、子どもたちはカゴから解放された鳥たちのように園の中を走りながら散らばっていった。みんなマスクはしているが、大はしゃぎである。
あぁ、やっぱり、こういう姿を見ないとなぁ…。
遊園地らしくないよねぇ。

最初は、スペイン村というものがどういうところなのかよくわからないようで戸惑っていたモミィも、小学生たちを見て安心したように見えた。

僕たちはいくつかの乗り物に乗り、幼児用のプレイルームでモミィを遊ばせたあと、12時45分からのパレードを見た。

パレードを見て、モミィの血は騒いだようである。
毎日、テレビの「お母さんといっしょ」を見ながら、
「♪ぐるぐるぐるぐる、どかぁ~ん」と叫び、大声で歌い、両手を上げたりパチパチたたいたり、足でぴょんぴょんと跳ね回ったりしているモミィである。
パレードが近づいてくると即座に「お母さんといっしょ体操」を始めた。

パレードの人たちも、みんなモミィに「オーラ」「コンニチハ」などと声をかけながら踊っている。一人の背の高いスペイン人が、モミィを連れてパレードの中へ入っていった。どちらかといえば人見知りをするモミィなのに、嫌がらずについて行ったのには僕も妻も驚いた。パレードの中で、狼のキャラクターといっしょに踊ったりしている。テレビで狼が出てくると両手で目を塞ぎ、怖がるモミィなのに、この日ばかりはちっとも怖がらなかった。

「おもしろかったねぇ。また来ようね」
と、モミィは家に帰るまで、何回もこの言葉を繰り返していた。

 

  
   
行きの電車の中。モミィはさっそくおにぎりにかぶりつく。
      食い気一本の3歳7ヶ月である。
     ただし、前の弁当は大人用です。念のため。

 

  
   
鳥羽駅に到着。
     ホームにも、人影はほとんどない。



 
  水族館。 しかしモミィは すぐに飽きた様子だった。



 
  
  

 

 
  
翌日はスペイン村へ。 まるで ほんまもん のスペインへ 来ているような…


 

 
  
これまでこういうものには乗ったことがなかったモミィ。
   最初は 少しためらっていた様子だったが、
   
「おうまさんに乗る」  と自分から言い出した。
 


 
 
なんといってもまだ幼児である。こういうところで遊んでいると、
  
「次へ行こう 」 と言っても、なかなか動かない。




 
   
パレードに興奮して喜ぶモミィ



 
  
観衆が少ないせいもあってか、みんなモミィに声をかけて行く。

 

 
  
オー コンニチハ と声をかけられ、それに応じるモミィ



 
   
モミィは 異人さんに連れられて 行っちゃった~ 



 



 



    

     日頃 「お母さんといっしょ」 で鍛えている踊りの成果か…?

       モミィは みんなと 楽しく踊っていた。

 

 

 

 

 

 

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大相撲で気になること

2009年05月24日 | スポーツの話題

なんだかなぁ…。
今日の大相撲の千秋楽を見ていて感じたが、これが真の国技と言えるのか?
いや、国技というよりも、それ以前に、まっとうなスポーツと言えるのか?

優勝争いは白鵬、日馬富士、朝青龍のモンゴル3力士だった。
(もう1人、稀勢の里もいたけれど、事実上はこの3人だ)
昨日今日と、熱戦が繰り広げられた末、大関日馬富士が初優勝を遂げた。
見ていても力が入ったし、それそれで、まあ、よかった。

しかし、優勝争いとは全く関係のないところで、怪しげな「戦い」があった。
千代大海、琴光喜、魁皇の「国産」のベテラン3大関である。

彼らは優勝争いに加わるどころか、毎場所、勝ち越すのに精一杯である。
今場所も終わってみれば、この3力士は、そろって8勝7敗だった。

特に千代大海は今場所がカド番だったが、12日目までに5勝7敗となり、残り3日間で1敗したら最後、もうその時点で大関陥落のところまで追い詰められていた。しかも、全身怪我だらけの状態である。
当然、今度こそ負け越して大関から落ちるだろう…と思った。
…なのに、13日目も14日目も勝ち、千秋楽の今日も一方的な相撲で勝って、結局3日間、すべて白星で飾り、8勝7敗と勝ち越したのだった。

千代大海のカド番は、これが13回目だそうである。
13回ものカド番を、すべて勝ち越して大関の座を守ってきたわけだ。
いや、まあ、あっぱれと言おうか、奇奇怪怪と言おうか。

しかしあれだけ足を引きずっているのに、よく3連勝もできたものである。
火事場の馬鹿力、なんていう言葉があるが、そんな単純なものなのか?
いずれにせよ、これでまた彼は来場所から2場所は、大関の地位安泰である。

同じく昨日まで7勝7敗だった琴光喜は、今日、魁皇に勝ってこれも千秋楽に勝ち越しを決めた。

魁皇は、と言えば、千代大海や琴光喜より先に8勝を挙げ、勝ち越しを決めてから、この2人と対戦したわけだけれど、いずれも簡単に負けている。勝ち越してから足を負傷したそうで、11日目から5連敗だった。勝てる見込みがないのであれば、途中休場すべきである。カド番大関に勝ち星を与えるために休場しなかったのではないか…とまで勘ぐりたくなるほどだ。僕は昔から魁皇のファンなのだから、そんなことを思うと、余計に情けないし腹立たしい。

…で、3大関とも、場所が終わってみれば8勝7敗。
まずは、めでたし、めでたし、というところか。

これって、本当に真剣勝負をしているのか…?
相撲だけは、どこまで真剣でどこからが「芸」なのかわからない部分がある。
同じ日の、東京競馬場のオークスでのブエナビスタが勝ったレースは、これぞスポーツ、という醍醐味を見せてくれた。あらゆるスポーツに八百長はないはずである。しかし…大相撲だけは、そう断言できないような展開が多すぎる。

大相撲は、あの品格のカケラもない朝青龍のおかげで、あらゆる面でのレベルが地に落ちてしまったが、それに歯止めがかからないまま、最近は、外国人力士たちばかりの優勝争いの陰に隠れて、日本人大関たちの「互助会活動」も、徐々にあからさまになってきた。3人そろって8勝7敗なんて、確率的に言っても、ほぼあり得ない数字である。どう見ても恣意的なものとしか思えないのである。

優勝争いはモンゴル人力士ばかりだし、日本人の最高位である大関3人はこんなありさまだし…。

大相撲の将来は真っ暗である。子どもの頃からの大相撲ファンであった僕としては、このごろは、つまらないこと甚だしい。せめて、一日でも早く、諸悪の根源である朝青龍を相撲界から追放してくれ~。

…というようなことで、今回のブログは、20日~21日の、鳥羽&伊勢志摩スペイン村の旅のことを書こうと思っていたのに、夕方に大相撲を見て、その話に触れずにはいられなかったので、こんな話題になってしまった。あ~ぁ。

ついでに、新型インフルエンザの話だけれど…

大阪でも、明日の月曜日から学校の休校措置が解かれるという。
結構なことだ。早く
街全体を普通の生活に戻さなければならない。
慎重になるに越したことはないが、過剰な反応はもっとよくないと思う。

昨日、僕の知人のタクシー運転手デ・ニーロ君が、ヨーロッパ旅行から帰ってきたお客さんを乗せた話をしてくれた。

そのお客さんは、10日前に日本を出るとき、
「こんなインフルエンザが流行っている時期に外国に出かけるのは危ないよ」
と、いろんな人から忠告されたらしい。それでも強引に旅に出た。
ところが今回、日本へ帰ろうとしたとき、現地の人から、
「こんなときにニッポンへ帰るの? なんという危険なことを!」
と言われたという。 あのなぁ…。

 

 

 

 


 

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新型インフル騒ぎの中で 旅行へ行くこと

2009年05月20日 | 日常のいろいろなこと

  「おそらく私の人生で、間違いなく
   
マスクをした人間を一番多く見た日だったでしょう」

アナザービートルさんが、一昨日のコメントにそう書いておられた。

ふ~ん。なるほどね~。そういえば… 

今日(19日)外出して周りを注意深く眺めていると、やっぱりマスクをした人がたくさんいた。意識して眺めると、あ、あちらにも、…こちらにも。
僕はのんびり構えているけれど、人々の警戒感は募る一方のようである。

大阪と兵庫ではどんどん感染者が増えて、ニュース番組は通常枠を拡大し、この新型インフルエンザの情報を流し続けている。その中で、浜崎あゆみ、大塚愛、倖田來未らが、大阪・神戸の公演を中止したとのニュースもあった。いよいよ僕らの住む大阪もヤバくなってきたのだろうか。そのうちプロ野球・阪神戦で甲子園に来るのを嫌がる球団が出てくるかも知れない。
えらいことになってきた。

この先、どれほど感染が広がっていくのか、予測がつかない。こういう時は、僕なんかは、役所で働いていた時はいろんな情報も入って来たが、家にいると、身近な人たちのこれらに対する認識の度合いや現実的な対応なんかについては、よくわからない。元部下の若い人から、「インフルエンザは大丈夫ですか? 気をつけてください」とメールが入って来るぐらいである。

まあ、大阪と言っても、昨日までは北部地域に感染者が多く、大阪府の南の方にあるわが藤井寺市はまだ安全圏だと思っていたら、今日の午前のニュースで、八尾市でも感染者が出た、と報道された。八尾市と言えば、昔ヒットした勝新太郎の主演映画シリーズ「悪名」の舞台として有名だが、藤井寺市のすぐ隣の市である。僕が毎朝ジョギングをしている大和川の堤防の対岸が、八尾市なのである。対岸だから…
「対岸の火事」などと悠長なことを言っている場合ではないのだ

…それにしても、ほとんどの感染者が高校生以下だ。大阪府下でも、各学校の休校が相次いでいる。有名なカラオケチェーン店が、このたび高校生以下の入場をお断りする、と発表した。同じような対応をする店も増えて来ている。

一方、会社でも、ラッシュ時の人ごみを避けるため、時差出勤を奨励しているところがあるようだし、昼食も、一度に社員食堂に集まらないように、グループ分けして時間帯を設け、その時間内でお昼ご飯を食べる会社もあった。
なんだか大層なことになってきた。


今朝の午前9時頃、僕は大和川の堤防をジョギングしていた。そんな時間帯にいるはずのない中学生か高校生風の男子たちが、僕と同じ堤防を走っていた。河川敷を見下ろすと、これも中高校生みたいな男の子たちが、キャッチボールをしていた。

「なんで? なんでみんな、今ごろの時間に、こんなとこにおるねん?」
不思議に思ったが、帰宅して初めて、大阪のかなりの学校が、今日から休校に入ったことを知った。この中高校生たちも、学校が休みなのだった。

で、夜は、火曜日恒例のECCの英語教室に行った。
いつもは一緒に習っている同じクラスの高校生の男の子が欠席をしていた。
先週から僕らのクラスに入って来た大学生も、同じく欠席だった。
みんな、外出禁止令が出ているのだろう。気の毒に。

普段は賑やかなECCが、生徒や学生たちが来ていないことに加え、社会人の中にも外出を控える人がいたようで、各教室やロビーは、閑散としていた。

う~ん。そうすると、朝の中高校生たちのように、学校が休みだから大和川に遊びや運動をしに来きた…というのはどうなのだ…? あまり外に出てはいけないのではないか。気の毒だけど、家に引きこもっていなければ、休校している意味を成さないのではないか…?。

…とは思うのだが、若いのに自宅にこもってエネルギーを持て余すというのもストレスになるだろう。同情するが、まあしかし、ここは我慢して、あまり外へ出歩かないようにしなければね~。

生徒諸君。つらいだろうけど、外をウロウロしないようにしてくだされ。

…と、人にはそんなことを言っている僕なんだけれども、僕自身はいい気なもんで、20日から、伊勢志摩の鳥羽へ1泊で旅行をする。つまり、ウロウロしに行くわけである。例によってモミィを連れて、妻と3人での旅行だ。

ま、どんな旅行かと言うことだけ紹介しますと…
「まわりゃんせ」という、近鉄特急列車のチケットや、スペイン村、水族館などの入場券を含めた割安な企画切符を利用しての旅行である。
鳥羽の水族館を見て、鳥羽駅近くにある戸田屋という旅館に泊まり、その翌日は志摩スペイン村へ行く予定だ。
天気予報によると、出発日の明日20日(日付で言えば今日か?)はだが、スペイン村へ行く21日はの予報で、天気のほうはちょっと気がかりだけど、

う~む、天気以上に気がかりなのは…

「あんたたち、大阪から来たの…? イヤやねぇ~、帰って帰って!」
な~んて、旅館の人から追い返されたりしないだろ~ね…ってこと。
心配やなぁ…  

僕らが大阪から来たというだけで、急に相手がマスクしたりして。

えらい時期に旅行とぶつかったものだ。
こういうときは、あまり旅行などしないほうがいいのだろうけど。
水族館やスペイン村はガラガラに空いているのではないだろうか…。
でも、インフルエンザを理由に取りやめるのもどうかと…。


マスクは…したほうがいいのだろうかなぁ。
僕と妻とモミィと、全員マスク姿…?

モミィは可愛いピンクのマスクを持っているけれど。
3人揃ってマスクでは、それはそれで、かえって、目立ちそうだ。

…あれやこれやと考えながら、このブログを書いていると、もう午前零時になってしまった。日付が19日から20日に変わった。

あ~、遅くなってしまった。
明日…じゃない今日の旅行は、むろん予定通りに行きますけど。

では、寝ます。   なさ~い。

 

 

 

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ソラの2歳の誕生日

2009年05月18日 | モミィの成長日記


「兵庫・大阪で96人」

きょうの朝日新聞の朝刊1面の大きな見出しである。
新型インフルエンザに感染した人たちの数だ。

連日、NHK大阪なども、ニュース枠を拡大してこのことを報道している。
昨日の新聞一面も、民主党の鳩山さんよりこちらの方が大きな扱いであった。

大阪に住んでいる僕たちとしてはとても気になる記事であるが、罹患した高校生たちが、さほどの重体とかいう症状ではないのが、なんとなく救いである。
外出するときはマスク…と思うのだけれど、外に出ても、道行く人々は、ほとんど誰もマスクはしていない。

僕は元々鼻アレルギー(花粉症ではないのですが)の症状があり、気温の変化に鼻がついていけない体質なので、季節の変わり目には、くしゃみがよく出る。で、夜寝るときにマスクをしたりしているので、わが家にはマスクは常備しているけれど、今回の感染騒動で、マスクが飛ぶように売れ、品切れが相次いでいる、という報道もあった。

でも、前述したように、大阪の街を歩いていても、マスクをしている人は、ほとんどいない。さほどの危機感は見てとれない。全国各地の学校は、京都や大阪への修学旅行を中止したりしているが、そんなことする必要はないと思うけどね~。関西に住んでいても、別にどうってことないもんね。注意することに越したことはないけれど、せっかくの修学旅行まで中止だなんて、子どもたちがかわいそうじゃん。そう思いません?

まあ、とにかく、大阪では、毎日毎日このニュースで持ちきりであるが、とりあえず、こういう物騒なことは、一日も早く収束してほしいものである。

昨夜は僕の元の職場である○○市議会の女性議員にお誘いをいただき、夜遅くまで飲んだ。3月末に退職をした自分にはもう関係のないことだが、今月末に市長選挙もあって、○○市はなにやかやと情勢が混沌としているようである。

「お知恵を…」とその議員さんはおっしゃったが、僕の「お知恵」は、すでにもう枯れているので、申し訳ないけれど、適切な意見は述べられない。
でも、やはり元の仕事の話となるとついのめり込んでしまう。自分は決して仕事人間ではなかったけれど、少しはそういう面もあったのかなぁ、な~んて。

ところで、今週、モミィの弟のソラが2歳の誕生日を迎えた。

モミィの場合は、2日に一度、わが家に泊まりに来て、まるでうちの子どものような生活をしている。(ちなみにモミィは、3歳7ヵ月です)。

朝の10時前後にママからメールが来て、僕がモミィを迎えに行く。歩いて2~3分のところに住んでいるから、すぐに迎えに行ける。そして、その日はモミィは「お泊り」で、翌日の午後5時ごろまでわが家にいる。5時に家まで送って行き、その日は「実家」に泊まる。翌日、また午前10時ごろにママからメールが来て僕が迎えに行き、その日は「お泊り」で、翌日の午後5時まで我が家にいる…という生活を繰り返しているので、モミィの場合はほとんどわが家で過ごしていると言っていいような生活だ。

ずっと相手をしてる妻も、疲れるだろうなぁ、と思う。
実際、モミィが何かの用事で朝から来ない日は、妻もほっとしているようである。くつろいだり、たまっている用事をしたりと、そばで見ていても、自分だけの貴重な時間を、大切に使っているのがよくわかる。こういう光景を見ていると、育児って大変なんだなぁ、と改めて思う。だから、今は炊事と買物は、全部僕がしている。夜、飲みに行くときなども、妻とモミィの食べるものは、僕が用意してから出かけるのだ。料理をするのが大好きですからね、僕は。
えへへ。これって、僕の趣味なのです。

さて、ソラのほうはまだ小さいので、朝10時にモミィを迎えに行くと、いっしょについてくるが、昼前には「マンマやから帰ろうね」と言う。
「ハ~イ」と、ソラは答えて、12時前に僕がソラをまたママのマンションに連れて帰る、という流れである。だから、モミィに比べて、ソラは僕たちといっしょに過ごす時間が短いので、いささかなじみがうすい。その分、ソラの成長ぶりに、驚いたりすることが多い。

昨日も「もう、帰る時間やで」と言うと、
これまでは「ハ~イ」と素直に答えていたのに、その時は、
「まだ~」と言って抵抗した。
ゲ~ッと僕も妻もびっくりした。
いつのまにか、自己主張をするようになったのだ。

まあ、そんなことでソラは2歳の誕生日を迎え、先日、我が家でささやかな誕生パーティをしました。ロウソクは2本です。
…僕やったら、60本やがな。
げげげ。


 

   
   
きょうから2歳だぞぅ。 ソラで~す。



  
   お誕生日ケーキのローソクを吹いて消すモミィとソラ。



    
    これは今年のお正月の初詣の写真です

   

 

 

 


 

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フレッツ光 て 何や ?

2009年05月14日 | 日常のいろいろなこと

 
  


今年の3月のことだ。
休日だったので、僕は家にいた。
電話が鳴った
家にかかってきた電話は、僕は出ない。妻が出る。

しばらく電話の相手の話を聞いていた妻が、
「…代わってくれる?」
と、受話器を持ったまま、僕に言った。
ふつう、妻はめったにそういうことは言わないのだけど…。
「誰からの電話やのん?」
「インターネットとか、光とか…。毎日かかってくるから困ってるの」

電話はNTT西日本のなんとか、という男性からだった。
「あ、ご主人様ですか。光ファイバーに変えられるとお得ですよ」
男性は、100パーセントの愛想をギンギラギンにむき出している。

僕のところは、インターネットはADSLでやっている。
別段、不便なこともなく、そのままでいいのだけど…。
しかし、電話の男性は、口達者で歯切れはいいが、ネチネチと執拗だった。
妻も、毎日のようにかかってくるこの電話に閉口しているようだった。

光ファイバーというのは、僕も名称だけは知っている。
テレビのコマーシャルで、唐沢クンがしていたり、長沢まさみちゃんがイチローとやっていたり、とにかくインターネットや電話は、今では「光」でなきゃダメなのだというようなことを、間断なく日本国民に訴え続けているご時世である。で、かかってきた電話の相手は、長沢まさみちゃんが宣伝している方の会社の営業員である。

まあ、いちおう電話の前に座って、じっくりNTTの営業員の話を聞く。
インターネットだけではなく、光電話というのも説明してくれる。
なんだかよくわからないが、料金のことを力説する。安いのだそうだ。

口車…とはよく言ったものだ。
これだけ流暢に説明をされると気持が揺れる。
今の世の中はすべて光ファイバーを中心に動いているかのごとくである。
そ~か。自分は時代に遅れているのか…と思うと、少しアセる。

もののはずみ、とはこういうことを言うのだろう。
「では、お願いします」と、僕はその口車に乗った。

「は。どうもありがとうございます。では…」
男性はそう言って、今、僕が持っているパソコンの機種を聞いた。
わが家にはノートパソコンが2台ある。
1台は、5年ぐらい前に買った富士通のFMVというやつだ。
もう1台は、2年ほど前、職場で話題になってみんなが買ったので便乗して買ったDELという格安のノートパソコンだ。
インターネットは富士通のパソコンのみで、僕の部屋に置いている。
DELは、リビングに置いて、妻がエクセルで家計簿などをつけている。

「あの~。2台ともインターネットをしたいのだけど。ケーブルが邪魔なので、無線でできるインターネットがいいな~、と思っていますが」
僕がそういうと、
「あ、それなら市販の半額で無線LANのルーターを提供させてもらいます」
と、男性が言った。
「では、このあと、5分以内に別の者から電話がありますのでよろしく」
と言い、電話は切れた。

5分後。今度は違う会社の女性から電話がかかってきた。
「お宅のパソコンはサービスパック2か3ですか?」と聞く。
「はぁ…?」
わけのわからないことを聞く。
「サービスパックが1だったら、光はできませんので」
「なんですか…? そのサービスパックとかいうのは…」
「マイコンピュータのプロパティに書いていますから調べてください」

先ほどの男性に比べると、かなり無愛想である。
言われたとおりに調べると、2つともサービスパックは3だった。

「では、5月の9日の土曜日に工事をさせていただきます」
「5月…? それはまたずいぶん先ですね」
「光の工事は予定が詰まっておりますので、それぐらいになるのです」

そ~ゆ~ことで、先週土曜日の9日に、光ファイバーの工事の人たちが来た。

外から電線(電話線?)をわが家につなぐ工事をするので、近所の人たちは、何ごとかと外に出て眺めている。一方で、別の作業員さんが室内の電話口で端末をつけている。3つも4つも器具がならび、配線はもうぐちゃぐちゃなほど多い。無線のルーターと、子機は、その数日前に宅急便で送られてきた。

作業員さんは、ひととおり終えると
「では、説明します。この端末機はむにゃむにゃ…。こちらの端末機はむにゃむにゃ…。これはむにゃむにゃ…で、むにゃむにゃをするときのむにゃむにゃです。まあ、むにゃむにゃな時は、むにゃむにゃしてください」

そう言って、手早く工具類を片付け、「では失礼します」と言うので、
「あ、ちょっと待ってください。これをパソコンにつなぐにはどうしたらいいのですか? 無線LANもつけなきゃならないし」と聞くと、
「いや、僕たちは工事だけなので、それはご自分でしてください」
「え? 自分で…?」

たしか、最初に電話がかかってきたとき、NTTの男性は、僕がパソコンにつないだりはできない、と言うと、
「大丈夫です。全部させてもらいますから」
そう言ったはずである。その話はどうなっちゃってるんだ?

僕が、作業員さんに不満を漏らすと、
「パソコンに関することは、その方に連絡していただきますように」
そう言って、荷物をまとめて帰って行った。



   
    
無線LANを含めるとこれだけ端末機がある。



パソコンをADSLから光ファイバーに変える。
しかも、それを無線LANに変える。
そんな、2つのことを一度にできるわけあらへんがな…と思った。

困ったなあ。

無線LANの器具が入った箱の中から1枚のチラシが出てきた。
そこには…
「やっぱりインターネットは無線LAN。でも、設定がちょっと苦手…。
そんなときは、専門スタッフにおまかせください!」
と書かれている。出張サービスだから、もちろん有料である。

料金を見ると、無線LANパソコン1台の設定 → 9,800円
2台以上パソコンをお使いの方は、1台あたり → 6,000円
合計、15,800円もかかる。

それも無線LANだけの話である。
その前に、ADSLから光に変える設定をしなければならない。
それを頼んだら、また余計に料金を加算請求されそうである。
これは、なんとしても自分でやらなければならない。

作業員さんが置いていった説明書をパラパラめくる。
なんだか、簡単にパソコンに接続できるようなことが書かれてある。
それを、じっくり読んでみた。

そして、説明書どおりにパソコンとLANケーブルをつないで、ナントカインストールというCDをパソコンに入れてみた。次々と指示が出てくる。途中で、「なんとかが中国語なので、それを英語に変えてよろしいですか?」というようなメッセージが出て、「OK」をクリックしたら、「正常にインストールできませんでした」という恐怖のメッセージが出た。

また一からやり直しである。途中でまたメッセージが出た。
「なんとかが英語なので、それを中国語に変えてよろしいですか?」
なんじゃ、そら。
わけのわからないまま、「OK」をクリックすると、今度はうまく行った。
そして、「インストールが完了しました。インターネットへの接続をします」とのメッセージ。「OK」をクリックしたら、うれしいことにインターーネットのヤフーの画面が出た。

ぱちぱちぱち。

その次は、ケーブルを外して、無線LANに変える作業が控えていたが、すでに夕方になっていたので、「光接続ばんざ~い」と一人で言いながら、ビールを飲んだ。いったんビールを飲んでしまうと、込み入った作業はゼッタイにできない。無茶苦茶にしてしまうか、途中で居眠ってしまうかである。

翌日の朝。アタマにもカラダにもまだ垢がついていないフレッシュな状態で、無線LANの設定に挑戦した。

ところが、1台目の富士通のパソコンに、CDを入れても起動しない。
何度やっても、同じである。うぅぅ~。
説明書のあちらこちらを読む。
「CDがダメな場合はインターネットで設定ができます」
という項目を見つけたときは、「これや~」と快哉を叫んだ。
そして、ネットにつなぎ、画面の指示のとおり進めていき、最後に子機を装着してインターネットに接続すると、やった~~~~。大成功!

ぱちぱちぱち。

もう1台のDELのパソコンは、CDが起動して、こちらは簡単に成功した。
あとは子機をUSBに差し込むだけで、インターネットができる。

ぱちぱちぱち。

若い人ならこんなことは朝飯前だろうけれど、僕らの世代にはむつかしい。
それでも、無事に出来たのは、まことに慶賀すべきことである。
その日は日曜日だったので「まぁ、今日はええやろ」と昼にビールを飲んだ。

自分で全部接続したことを友達に自慢した。
その友達は、僕よりもっとパソコン音痴である。
「へぇぇ~、すごいなぁ」と友達は感心してくれた。
「そうや。そんなこと、昼ビール前や」

ということで、今は僕の部屋と、リビングの2台のノートパソコンでインターネットができるようになった。妻も、時々インターネットをするときは、僕の部屋に来ていたのだが、今はいつでも手軽にリビングでできるので喜んでいる。ごちゃごちゃとした端末機も、テレビの裏に隠したので目立たない。しかも、光になったら、画面のスピードがこれまでよりも断然速い。

「不思議ねえ。線もないのにインターネットが出来るなんて」
と、妻は大いに喜んでいる。僕もずいぶん便利になった。

あの、調子のいいNTT西日本の営業員に、今は感謝である。

他人の「口車」に乗ってみるのも、時にはいいものである。

 

 

 

 

 

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マスクに関する大考察

2009年05月11日 | ニュース・時事

新型の豚インフルエンザ感染者がまた一人増えた。
別の高校生で、先の3人と一緒に語学研修に出かけていたという。

この高校生たちは、カナダ・オンタリオ州のナイアガラの滝や、トロントのCNタワーの隣にあるロジャースタジアムで行われた大リーグの試合観戦にも行っていた。その際、現地のカナダ人は、ほとんどマスクはしていなかったそうである。

今回のニュースを聞いていると、マスクをつけるという習慣そのものが、カナダや米国などの外国にはあまりないように見受けられる。
高校生たちの話では、カナダのオンタリオ州でも、新型インフルの感染が広がっていたにもかかわらず、マスクをしている人をほとんど見かけなかったという。そういえば、思い当たる節がある。

1月にナイアガラの滝へ行ったとき、滝の近くは歓楽街になっているのだが、そのひとつにカジノがあった。僕と妻と妻の姉は、一度覗いてみようとカジノの入り口まで来た。そのまま入ろうとしたら、入り口にいた警備員が僕のところへ寄ってきて、立ちはだかった。そして僕の口元を指差して何やら英語で尋ねた。

僕は、あまりの寒さに鼻が冷たくなりすぎるので、マスクをしていたのだ。

ガードマンは、そんな僕のマスク姿を怪しみ、それを指差したのである。

「あんたは、なんでマスクなんかしてるねん?」と詰問したのだ。
僕は、「寒いからやがな」と答えると、相手は、
「もうここは建物の中や。寒いことあれへんから、マスクは取りなはれ」
とナイアガラなまりの英語で言った(ほんまか…?)。

まあ、逆らってどこかへ連行されたりしては困るので、マスクは外した。

そんなことを思うと、はっきりと断定はできないが、あちらの人たちにとっては、マスク姿というのはいささか不自然なものに映るのだろう、ということは推察できる。

外国の新型インフルの蔓延は、そこに住む人たちがマスクに無頓着だったことと関係しているのかもしれない。とにかく、マスク、うがい、手洗いの3つは、普段から風邪などの予防にも、とても大事なことだという認識は、日本人が一番きちん持っているのではないかと思う。その点はいい国民性である。

マスクは、日本人が伝統的に身に着けてきたものかもしれない。

団塊世代の僕たちが子供のころに夢中になった漫画に、「まぼろし探偵」というのがあった。この探偵もマスクをしていたので、僕たちも、そんなマスクに憧れたものだ。

「まぼろし探偵」は正義の味方の少年である。
「装束」は、赤い帽子、黄色いマフラー、そして黒いマスクであった。


 ♪ 赤い帽子に黒マスク 黄色いマフラーなびかせて  
   オートバイが 空飛べば 事件の起きた ときなのさ
   行くぞ それ! 
   元気な少年 まぼろし探偵  ♪

       
子供のころ、「まぼろし探偵」や「月光仮面」がヒーローだった。
マスク、覆面、仮面、頭巾…。こういうものを身に着けていないと、なかなか日本のヒーローにはなれないのだ。

ところで、またまた話は脱線するのであるが…
そんな昭和30年代のヒーローたちのパロディが、いま、存在する。
それもちょいとエロっぽいヒロインとなっての再登場なのだ。

「けっこう仮面」というのがある。「月光仮面」の遠い親戚であろう(?)。
主人公は女性である。ほとんど裸の姿で登場し、悪者をやっつける。
ちゃんと見たわけではないが、予告編のようなものは何度か見た。

その正義の味方「けっこう仮面」に、今度は…
「まぼろしパンティ」というライバルが出現したのだそうである。
これも裸の美少女だということである(見たことはない)。
顔を見せるのが恥ずかしいから、パンツをマスク代わりにかぶるのだそうだ。
で、ヒロインの名前が、まぼろしパンティ。

なんのこっちゃ…?

すみません。
大型連休も昨日で完全終結。
きょうから社会に緊張感がもどり、仕事が始動する日だというのに…
こんなことを書いていていいのだろうか。

実は今回、パソコンのインターネットを、ADSLから「フレッツ・光プレミアム」というのに変えた。TVで長沢まさみが宣伝しているアレである。

おととい、数人の作業員さんたちがうちの自宅とその周辺の配線・配管工事にやってきて、端末装置をセットして帰って行った。この機会に2台あるノートパソコンの両方ともインターネットができるようにしたかったので、無線LANでつなぐため、ルーターやその子機というものも新たに購入した。
でも、そういうパソコンやネットの仕組みについては僕はまるで無知である。


「あと、パソコンにつないだりはご自分でしてください」
と作業員さんたちは、そのひとことを残して引き上げていった。

「え…? 自分でつなぐ…? やってくれないの…?」
一応、そう言ったのだが、
「僕たちは、工事するだけですから」とのことだった。
まあ、それはそうだろうね~。しかし…

僕は、何度も言うが、そういうことは全く苦手である。
だけど、なんとか自分でがんばらなければならない。

その日(一昨日)の午後からと昨日の午前中ずっと、説明書を睨みながら、光ファイバーへの接続と、無線LANの設定に悪戦苦闘したのである。


そのことについては、また次回にくわしくお伝えします。

今日は、これからウオーキングです。
日本全国の働いているみなさま。すみません。

 

 


 

 

 

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新型インフルエンザ

2009年05月09日 | ニュース・時事

今朝のニュースで、大阪の高校生たちが新型インフルエンザに感染していたことが確認された…と報じられていた。わが国では初めてのことである。

ついに国内で感染者が出たということだが、この高校生たちは海外から帰国した空港内で感染が確認されたもので、日本国内で感染したものではない。やっぱりこの時期の海外旅行や研修は要注意だ。とくに米大陸の諸国は怖い。今回のこの人たちは、カナダのオンタリオ州に滞在していたという。

カナダのオンタリオ州といえば、今年1月に行って来たばかりである。
それも、厳寒のナイアガラなどへ行って、ぶるぶる震えながらの旅だった。
シーズン・オフなので、見所も少なく、閉鎖していたところも多かった。

「こんなことなら、どうせ4月から退職して暇になるのだから、4月か5月の気候のいいときに来たほうが、ずっとよかったよねぇ」
同行の妻たちと、そんなことを言い合ったものである。

だから、成り行き次第では僕らもこの時期にカナダへ行っていたかも知れない。おまけにアメリカのデトロイトで乗り換える便、というのも同じである。
そう思うと、ちょっと背筋が寒くなる。
まあ、寒い1月でも何でも、早く行っておいてよかったんだなぁ…と思う。

まったく、人生は一寸先は闇だというが、本当に何が起こるかわからない。

だいたい、これまで僕は、海外旅行を予定すると、何かしらアクシデントが起きる…ということが多かったように思う。

僕にとって、初めての海外旅行だったニューヨークシティマラソンへの参加は1983年10月であったが、飛行機は大阪からソウルで乗り換え、そして大韓航空でアラスカ経由のニューヨーク行きの便であった。その1ヶ月前の9月1日、それと全く同じ大韓航空の便が、ソ連戦闘機のミサイルで撃墜され、大きな国際問題になっていた。

「撃ち落されたあれと、おんなじ飛行機に乗っていくねん」
と言ったら、うちの母親が、
「あんた、そんな飛行機に乗って大丈夫か」と  していた。

1995年は秋にパリへ旅行したが、この直前にヨーロッパではテロ騒ぎがあり、パリの街の中は、僕たちの旅行中、街のどこもかしこも警察官や軍隊(?)だらけで、ルーブル美術館やベルサイユ宮殿などは言うに及ばず、ちょっとした本屋に入ろうとするだけでも、厳重な荷物検査などが行われ、うんざりした。おまけに、ゴミ箱を置いておくと爆弾を仕掛けられる恐れがあるということで、街の中のすべてのゴミ箱が撤去され、パリの街はゴミだらけであった。

2001年の10月には、妻と2人でニューヨークへ行く計画を立てた。旅行社に代金を支払い終えたあとで、あの同時多発テロが起きた、僕たちは仕方なく、急きょ行く先をスペインに変更した。しかしスペインはアメリカの同盟国であり、アメリカ・英国に次ぐ危険な国だと後から知った。しかも、マドリッドで滞在したホテルは、最も危ないといわれていたアメリカ大使館の真ん前だった。(旅行社も、もっとちゃんとしてくれぇ)

2003年には、クイズに当たってハワイへ行くことになった。
ゴールデンウィーク直前の4月だった。
しかし行こうと思った矢先に「SARS」騒動が起きた。
このときは、マウイ島とオアフ島に行ったわけだが、入国審査のチェックの厳しかったこと、厳しかったこと。それに、飛行機の中でも、自分の健康状態に関するカードを、細かく書かされたことを覚えている。

思えば、何かそういう運の悪いときに旅行がぶつかってしまうことが多かった。今回、この時期にカナダ旅行をする可能性もあったことを考えると、どうやら、そういう悪いめぐり合わせからはひとまず解放されたのかな、と思う。

しかし、この新型インフルエンザ騒ぎは、いつまで続くのであろうか。

今回は「震源地」のメキシコを中心に、アメリカ、カナダなどの北米から、昨日はアルゼンチンなどの南米にまで、多くの感染者広がっていることが報じられていた。アルゼンチンなぁ…。

9月に、アルゼンチンに行く予定である。

観光だけではなく、首都のブエノスアイレスでレストランのシェフをしている甥に会いに行く。しかし
今のままだったら、とても行ける状態ではない。

まあ、まだ4ヶ月も先のことだし…。
それまでには、完全に収束してくれるとは思いますけどね~ 

頼んまっせ、ほんまに 
     


 

 

 

 

 

 

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久しぶりに歩いたけれど

2009年05月07日 | ウォーク・自転車

大型連休もほぼ終わり、今日から仕事という人も多いだろうな。
僕はカレンダーとは関係なく朝を迎え、日中を過ごし、夜を迎える。
しかし、いくら毎日が日曜日だと言ってもね~。
やはりメリハリが必要だ。何かを義務づけて、生活を律するべきであろう。

そこで、毎週水曜日を「いちにちじゅう、からだをうごかす日」と決めた。
まあ、ウオーキングか自転車で、そこらじゅうをほっつき回るだけですが…。

そして昨日、その第1回目を、おごそかにとり行なったのでアル。

大阪市内へ歩きに行こうと計画し、朝の6時半からリュックを背負って家を出た。雨が降りそうで降らないが、時々思い出したように降る…というわけのわからない天気だったが、歩くのには、暑くなくて、ちょうどよかった。

まずテクテクと長居公園まで歩いた。
大阪女子マラソンのスタート・ゴールとなる長居競技場があるこの公園は、1周2.8キロの周回コースがあり、僕もここでよくマラソンの練習をした。この周回コースを15周すると、ちょうどフルマラソン距離になるので、練習の時にも、何度か15周走ったことがある。(ただし、むかしむかしの話です)。

久しぶりに長居公園へ来て、懐かしい感じがしたが、ジョギングやウオーキングやラジオ体操や太極拳などをする人たちで賑わっていた。周回コースをぐる~っと歩いて回ってみた。

そこから地下鉄御堂筋線に沿った「あびこ筋」を北へ歩き、天王寺からは上町通りを歩いて大阪城公園で休憩した。食事もとった。

大阪城公園から進路を西にとって、淀屋橋に出た。
そして
今度は、御堂筋を難波方向(南)に向かった。

御堂筋は閑散としていたが、左に曲がって心斎橋筋に入ると、今度はものすごい人の数に驚いた。そのギャップは、怖ろしいほどである。

長居公園には老若男女を問わず、いろんな層の人たちがいたが、ただ、若い女性の姿だけは、あまり見かけなかった。ジョギングや太極拳など、若い女性には縁がないのかも知れない。しかし、この心斎橋筋を群がって歩いているファッショナブルな女の子たちを眺めていると、近郷近在の若い女性たちは、全部ここへ集まってきたのではないかと思ってしまうほどである。

ところで、このあたりから急に右ひざが痛み出してきた。
右ひざの内側が、ズキズキ痛む。
そのうち治るかも…と、そのまま無理に歩き続けたのが間違いだった。

難波の高島屋前から日本橋の電気屋街を歩いて阿部野橋に向かったのだが、ひざの痛みはどんどん激しくなり、まともに歩けなくなってきた。なんとか地下鉄恵比寿町までたどり着いたが、階段を下りるときは悲惨だった。手すりにしがみつき、右足を曲げないように下りる。曲げたら痛い。階段だけではなく、平坦なところも、びっこを引かなければ歩けない。あぁ~、えらいこっちゃ。

地下鉄とバスを乗り継ぎ、右足を引きずりながら午後3時過ぎに帰宅した。
家に入ると、ドタ~っと倒れた。

どれくらい歩いたのだろうか…?
だいたい25キロから30キロまでのあいだ、だっただろうか…? 

これまでは、30キロや40キロ歩いてもどうということはなかったのに…。

つまり、その、「これまでは…」という高慢な思い込みが、良くないのだ。

先週はジョギングで、超スローペースだったが、久しぶりに10キロを走った。
これで何となく自信が戻った。それが結果的に悪かったのだろう。自分の脚力をつい過信してしまったことが、このていたらくとなった。 ぐすん

去年、腰痛や首痛で通った整形外科医からもらった湿布薬が残っていたので、それを引っ張り出して、ひざにベタベタと貼って寝た。

           

今朝起きたら、痛みはかなり和らいでいるようなので、ちょっと安心している。まだ外出していないので、はっきりとはわからないけれど…。

それにしても、こんなアクシデントが起きるとは、予想もしなかったことだ。
やっぱり無理してはダメ…ということである。

そういえば、このごろ、いろんな人たちから一番多くかけられる言葉は、

「無理してはいけませんよ~」である。

その言葉が、つくづく骨身に沁みた昨日の1日であった。

 



 

  
  道頓堀のグリコの看板は、相変わらずの人気だ(5月6日午後撮影)。
   このあたりから、右足ひざが痛み出してきた

 

 

 

 

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1989年のベースボール

2009年05月05日 | スポーツの話題

なんだか村上春樹の「1973年のピンボール」みたいなタイトルですが…。

退職後にやらなければならないことの一つに、「身辺整理」があった。
人から見ればガラクタのようなものが、あちらこちらに溜まっている。
いつまでも置いていたところで、使わないようなものがほとんどだ。
捨てるかなんかして、どんどん整理しなくちゃならない。

その一つが、これまでせっせとテレビから録画してきたビデオである。
録画はしたものの、いつ見るかわからないビデオが、家にたくさんある。

もはや今はDVDの時代である。
いや、それどころか、さらに新しい…え~っと、なんやったかいな…?
そうそう、ブルーレイとかいう「新兵器」も登場しているみたいだし。

ビデオなどはもう、すっかり時代遅れになってしまった。
レンタル店でも、ビデオは隅っこの方に追いやられている。
前世紀の遺物…と言ってもいいほどだ。

それでも、わが家には、サッカーJリーグが誕生した1993年のW杯予選の試合の数々や、1984年のロスから去年の北京までの五輪総集編(NHKで録画した)とか、瀬古利彦や高橋尚子のマラソンの録画とか、水泳や冬季五輪や大相撲や競馬などのスポーツやいろんなドキュメンタリーとかが100本以上残っている。「古畑任三郎」シリーズのようなドラマや、「砂の器」「ゴッドファーザー」「風と共に去りぬ」など、なかなか手放し難い映画もその中に含まれている。これまで何度と捨てて整理をしてきたのに、まだこのありさまだ。

昨日、ためしに、そのうちの一つを無作為に取り出してみた。
ビデオの背中に「1989年スポーツ総集編」と書いて貼ってある。
なんでこういうものをビデオにまで撮って大事に保管していたのか…?
自分でも、よくわからなかった。
捨てよう、と思ったが、その前にちょっとだけ見てみることにした。
1989年の年末のNHK総合テレビの番組を収録したものだ。

しかし、見ているうちに画面に釘付けされてしまった。
そのまま、ビデオを最後まで見てしまった。
う~ん。捨てるのはもったいな~い(またこれだ)

  ………………………………………………………………………

1989年といえば、今からちょうど20年前である。
その年のスポーツの動きが、このビデオを見ていると、よ~くわかる。

フィギュアスケートの伊藤みどりが世界選手権で日本人初の優勝を遂げ、ゴルフではジャンボ尾崎が40歳を過ぎても大活躍していた。大相撲では、貴花田(後の横綱貴乃花)が17歳で史上最年少の関取(十両)になり、競馬では、20歳の騎手・武豊が史上最速で通算300勝を達成していた。

その中でも、とりわけこの年は、野球が面白かった。

まず高校野球だ。

春の選抜大会は、僕の地元大阪の上宮高校と愛知の東邦高校の決勝戦だった。
試合は1対1で延長戦に入る。
10回表、上宮が1点を取り、いよいよ10回裏の東邦の最後の攻撃。
上宮のエース宮田はツーアウトまで取り、優勝まで「あと一つ」と迫る。
ランナーが2塁にいた。次の瞬間…
東邦の打者がセンター前にヒットを放ち、同点にされた。あぁ~! 
しかし打った東邦の選手が2塁をオーバーランした。
上宮の野手がボールを受けて、タッチをして…アウト! 
…と思われたが、ボールは野手と走者の間を抜け、誰もいない外野の芝生の上をコロコロ転がって行った。東邦のランナーが小躍りしてホームインし、劇的な逆転サヨナラ勝ちで優勝したのだった。

このときアナウンサーが「あぁ、ボールは転がる、転がる、転がる…無情にも、無情にも…」と叫んだあと絶句したのを、今でも覚えている。上宮の遊撃手の元木大介(後に巨人)がグラウンドにうつ伏したまま、泣きじゃくった。

夏の選手権大会の決勝も大熱戦だった。
宮城県の仙台育英が、東北初の優勝をかけて東京の帝京と決勝戦を戦った。
これも0対0の延長戦に入るという息詰まる投手戦だったが、10回表に帝京が2点を奪って優勝した。

それよりさらに20年前の1969年の夏、太田幸司投手を擁する青森県の三沢高校が決勝戦で引き分け再試合という熱い戦いを演じたが、結果は準優勝だった。

そして20年後のこの年も、惜しくも東北勢の優勝はならなかった。そしてそれ以来、まだ東北勢は、甲子園での優勝がない。

プロ野球はさらにエキサイトした。

ダイナミックなフォームの村田兆治が200勝を上げ、時の人になっていた。39歳の村田と投げ合っていたのが、当時彼より13歳年下の若武者工藤であった。その若武者は46歳の今も、横浜で現役として投げ続けているのがすご~い。

西武の清原が、顔面ギリギリの内角攻めに腹を立てて、投手にバットを投げつけて処分を受けたのも、この年の出来事だった。

大阪の南海ホークスが福岡ダイエーに身売りして、九州へ行ってしまったのもこの年だ。しかしダイエー・ホークスは序盤から最下位に低迷し、それは福岡市議会にまで取り上げられ、「こんな調子では由々しき事態になるのではないか」と議員から、福岡市長に厳しい質問が飛んだりした。
それに対して福岡市長が
「私が応援に行ったときは、わりに勝っております」
と答弁したのには、笑ったけど…。

さて、大阪から南海ホークスが消えたのは寂しかったが、それ以上にうれしかったことがある。この1989年という年は、僕たちが住む藤井寺市を本拠地とする近鉄バファローズが、西武、オリックスと、最後の最後まで三つどもえの死闘を繰り広げた末、みごとリーグ優勝を遂げたのである。藤井寺球場で仰木監督が胴上げされたのは、市民である僕たちとしては、これほど嬉しく、誇らしいことはなかった。

しかし、しかし、である。
僕は小学生の頃から、かなり熱心な巨人ファンであった

25歳に藤井寺に移り住んでからは、セ・リーグは巨人で、パ・リーグは近鉄を応援していた。まあ、両者が日本シリーズで顔を合わせることは、まずないだろう、と思っていたので…。

しかしこの年、まさかと思った近鉄が優勝し、そしてセ・リーグは、藤田監督の巨人が優勝した。ありゃりゃ…。

巨人VS近鉄の日本シリーズとなってしまったのである。
藤井寺で育ったわが家の子どもたちは、もちろん近鉄ファンである。日頃からテレビで巨人を応援していた僕は、2人の息子たちから「大阪に住んでいるのになんで巨人や?」という冷たい視線を浴びてきたわけだけど、このときは、
僕は子どもたちといっしょに地元近鉄の方を応援することにした。

その近鉄が、藤井寺球場での初戦に勝ち、勢いに乗って3連勝したのである。
宿願の日本一まで、あと1勝である。
誰もが近鉄のV1を予想したことであろう。

ところが…
近鉄が3勝目を挙げたとき、勝利投手だった加藤が、試合後のインタビューで「巨人は大したことありませんよ。パ・リーグの球団よりずっと弱いです」と放言した。これには巨人ファンが激怒した。いちおう近鉄を応援していた僕だけど、こういう傲慢な言葉にはいい気はしなかった。もちろん巨人選手たちも、それでかなり憤激したのであろう。

そのあと巨人が「激怒の4連勝」をして、まさかの逆転優勝を果たしたことは、ご存知の方も多いと思う。

特にポイントになったのが、巨人が1勝した次の試合。つまり第5戦だ。
7回まで両軍の接戦が続いた。
7回裏、巨人が2・3塁のチャンスを迎え、打者は好調クロマティ。
近鉄ベンチはためらわず、クロマティを敬遠して、満塁策をとった。
そして、次の四番打者の原(現巨人監督)と勝負に出たのである。
原は今シリーズ、18打席ヒットなし…。
巨人がここまで近鉄にやられてきたのは、ひとえに原の不振が原因だった。

その原のバットが火を噴いた。
満塁ホームランを放ったのだ。
巨人はその勢いに乗り、後の試合も連勝して、日本一の栄光に輝いた。

藤井寺球場で、巨人の藤田監督が宙に舞った。

「巨人はパリーグの(最下位の)ロッテより弱い」
とインタビューで言った近鉄の加藤投手は、「口先男」などとマスコミに叩かれ、そこでほぼ選手生命を終えた。
口は災いの元…とは、よく言ったものである


…ふむ、ふむ。な~るほど。
1989年は、そういうことがあった年なのだなぁ~。
ビデオを見ていると、その頃のいろんなことを思い出し、感慨深かった。

1989年は、1月に元号が、昭和から平成に変わった年だった。
僕が40歳の誕生日を迎える前日に、昭和天皇が亡くなられ、平成になった。
僕自身にとっても、格別に印象深い年であったと言える。

さて、巨人が日本一になって、その年のプロ野球は終わった。

そして秋に行われたドラフト会議では、ひときわ注目を浴びた選手がいた。
社会人野球のエース、21歳の野茂英雄投手であった。

その前に、もう一人注目の選手として、上宮高校の元木大介がいた。
甘いマスクで、甲子園には元木目当ての女の子が押し寄せた。
その元木は巨人以外には行きたくない、と公言していたが、
巨人は元木を指名せず、別の大森という選手を指名した。
元木は結局、ダイエーホークスに指名された。
その瞬間、元木大介は涙を流し、ホークス入りを拒否したのだった。
1989年は、元木大介が2度泣いた年でもあった。

それはさておき…
ドラフト会議は前評判のとおり、12球団のうち8球団が野茂を1位指名した。
8球団が、それぞれ野茂を当てようと意気込んでクジを引く。
7つの球団が順番にクジを引き終わり、最後に近鉄の仰木監督が引いた。
なんと、その最後のひとつが「当たりクジ」だったのだ。
残り福…とは、よく言ったものである

そんなことで、野茂は、わが町・藤井寺の球団に来てくれたのである。

  ………………………………………………………………………

…と、この「1989年のベースボール」の話は、野茂のことで終わるわけですが、ノモ、と言えば…

急に話が飛んで恐縮ですが、前回ECCの英語教室のことを書きました。

ECCでは講師も受講者も、みんな、実際の苗字ではなく、愛称で呼び合うことになっています。サマンサとかキャンディとかトニーとかエリックとかトーマスとか、なんとかかんとか…。

で、最初に行った日、僕はどういう愛称にするのか、スタッフの方がいろいろ考えてくれたのですが、「エリック」とか「トーマス」とかいうのも、なんだか恥ずかしい感じなので、僕は本名が「のぼる」という名前だから、下の一字を省略して…
「じゃ、ノボっていうのは、どうですか?」と言いました。

それを聞いてスタッフの人は、
「は~い、ノモねぇ ! う~ん、いいですよ~ それでいきましょうね」

「え…???? ノモ…? 」

ノボが(なまって…?)ノモになってしまいました。

で、僕はいま、ECCでは、ノモと呼ばれています。

僕の英語のほうも、野茂のトルネードにあやかって、勢いよく上昇したいものですが…。これだけはねぇ。




 *近鉄バファローズ無き後、藤井寺球場は廃止され、
  今はその場所に学校やマンションが建っています。
  時代の流れを感じますね~。

 

 

 

 

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英語教室

2009年05月02日 | 日常のいろいろなこと

早いもので、もう5月になってしまいましたね。

昨日の夜、元の職場の若い人たちと1ヵ月ぶりに会って、飲みました。
「どうですか。もう、落ち着きましたか?」と尋ねられた。
どう返事していいのやら…。

退職して1ヶ月になるけれど、まだまだ実感が湧かない。
仕事に行かないという生活は、もちろん社会人になってからは初めてなので、
やりたいことはたくさんあるけれど、なんとなく日課が定着しない。夜寝る時間や朝起きる時間も、ばらばらである。

そうこうしているうちに、世の中はゴールデンウィークに入った。
今年は、曜日の関係で、4月25日の土曜日から今月10日の日曜日まで、なんと16連休の会社もあるという。

数日前の平日の昼、家の近くを歩いていると、
「あ、いいですね~。会社のほうは、もう連休に入っているんですね」
と近所のおばさんから声をかけられた。

連休…? 
そのとき、初めて世間が連休に入りつつあるということを知った。

「16連休ですか…? いいですね~」
と、僕が定年退職をしたことを知らない近所の人は言う。
それを言われると、困るのである。
僕はもう、ずっと連休なのだ。
「大型連休」どころではない。
生きている限り「連休」が続くのだ。
なんか、けったいな話ですけどね…。

   ……………………………………………………………………

4月14日から、駅前のECCへ通い始めている。
英語の勉強は、退職後のひとつの大きな目標でもあった。

レッスンは「レギュラーレッスン」と言って、学校の授業形式のレッスンが毎週火曜日で1回が80分。それともうひとつ、僕は「フリータイムレッスン」というのも取っている。これも週1回だが、数人で外国人講師を交えて会話をする形式である。これは1回が40分だ。

それぞれに、レベルチェックテストというのがあって、それによって、どのレベルのクラスに入るかが決まる。そのテストを2度受けたわけだが、結果は、悲惨なものであった。

「レギュラーレッスン」のレベルチェックテストは3月に受けた。
英語検定のテスト方式ということだが、英検がどんなテストをしているのかも知らなかった僕は流れてくるテープの英語と格闘…すらできず、ただボーっと聴いていて、いいかげんなところに○印をつけるだけだった。あ~ん(泣)。

「フリータイムレッスン」にもレベルチェックテストがあり、これは5日前の27日に受けたばかりである。これはテープを聴いて○印を打つテストではなく、アメリカ人女性と1対1で会話をする。日本語はいっさいなく、すべて英語だから、「あのぉ、ちょっと今の○○の意味がわからないんですけど…」と日本語で聞き返しても、日本語では教えてもらえない。これも冷や汗をかきっぱなしであった。

まぁそんなことで、4月の新学期から、英語教室の生徒になった僕である。

「レギュラーレッスン」はこれまで3回行って、やっと少~し慣れたかなァという感じである。あ、そうそう。女性講師の方が、とても素敵なのです。

授業はすべて英語で進められるが、初めて受講したとき、クラスの人たちの自己紹介があった。僕以外の人たちは、みんなここのECCで2年目を迎える人たちで、雰囲気には慣れている様子だった。講師さんとも親しげに話していたし、僕だけが要領を得ない新参者であった。第1回目に顔を合わせた「クラスメート」は、ソーシャルワーカーをしている女性、看護師の女性、技術者の男性、高校2年生の男の子と僕の5人であった。

講師さんが、「 What do you do ? 」
とそれぞれに尋ねた。
職業は何か…? という質問だ。

「アイアム ア ソーシャルワーカー」
「アイアム ア ナース」
「アイアム ア エンジニア」
「アイアム ア ハイスクール ステューデント」
と、一人一人、講師さんの質問に対する答えを返す。
最後に僕の番がきた。

「ホワット ドゥ ユー ドゥ ?」

僕は返答に困った。

…無職って、英語で、どういうねん…???

仕方なく、「アイ ハブ ノー ジョブ」と答えた。
失業者みたいであるが、ほかに適当な英語は思いつかない。

僕がそう答えると、それまで笑顔で反応していた周囲の人たちが、固まった。
僕は続けて「アイ アム シックスティ ヤーズ オールド」と言った。
「定年や」と言ったつもりだが、まわりは固まったままで、反応なし。

しかしさすがに講師さんは、ニコーっと笑って、
「オー リタイア!」とフォローしてくれた。
定年退職というのは、英語では「リタイア」でOKのようである。
「イエス、イエス、リタイア~」と、ホッと一息ついた僕である。

リタイアというと、これまでマラソンをしてきた僕にとっては禁句中の禁句であったけれど、これからの英語教室では、たびたびこの言葉を使わなければならないようである。とにかく僕は、もう現役ではないのだ。

さらに今週火曜日には、講師さんから「皆さん、連休はどういう計画を持っておられますか…?」という質問があった(もちろん英語で)。クラスメートの人たちは「ハイキング」とか「ショッピング」とか「勉強に専念!」とか、いろいろと言われていたが、僕は言葉に詰まり、ひと言「ナッシング」と答えるだけであった。

僕は「エブリデー イズ ホリデー」なんだもんね。

 

 

 

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