僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

皆さま、良いお年を!

2012年12月31日 | 日常のいろいろなこと

大晦日…と言えば、あぁ、あれからちょうど10年経ったのかと思う。

2002年(平成14年)の12月30日、早朝に父が亡くなった。そしてその日のうちにお通夜、翌日の大晦日に告別式というあわただしい流れの中で、てんてこ舞いしたことが忘れられない。

不思議な話だけれど、それよりかなり以前、妻の父親も年末に亡くなり、大晦日がお葬式だった。共に大晦日が父親の告別式になったという、奇妙な共通点を持つ僕たち夫婦である。

それとは関係ない話だが、妻が10人きょうだいの末っ子で、僕が一人っ子という正反対の家族構成も、僕たち夫婦の奇妙と言えば奇妙な点なんだけれど…

 …………………………………………………………………………

さて、今日の大晦日は、朝から冷たい風が吹きまくり、寒いですね~

現役で勤めていた頃は年末年始の休暇が楽しみで、大晦日は1年を振り返り、また来年への抱負を日記に記して決意を新たにしたものですが、なにせ今は年末年始どころか春夏秋冬すべて「休暇」です。今年は年末年始休暇が9連休の大型連休の人が多い、とニュースで言っているのを聞いても、こちらは退職してから、もう1,000連休以上していますし、平均的な寿命で没するとしたら、これから、まだまだ何千連休が続くやら…。

今、現役バリバリで働いておられる皆さん。やがて退職してフリーの身になると何千連休が待ち受けています。今からその時の過ごし方を考えておきましょう

今年もこのブログを続けて来られたのは、やはり読んでくださっている方がいらっしゃるということが大きな励みで、継続の原動力になっています。来年(もう明日のことですけど…)は6年目を迎えます。社会には何の役にも立たないヒマネタの多いブログですが、来年もよろしくお願いします。

とりあえず今年もまずまず元気でやってきました。来年も、大晦日に自分の葬式などがあったりしないように健康に留意して、毎日を楽しみながら過ごして行きたいと念じています。そして自分が楽しむだけでなく、楽しい話題を提供して、読んでくださる方をクスッとでも笑わせるようなブログにしたいですね。

それでは、今年1年、ありがとうございました。

皆さま、どうか良いお正月をお迎えください~

 

 

 

 

 

 

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ウダウダ・奈良巡礼記

2012年12月29日 | ウォーク・自転車

23日(日)、日本ウダウダ会の面々が寄り集まって今年最後の「歩こう会」を決行した。今回の行く先は、奈良の西寄りにある西大寺、平城宮跡、法華寺、唐招提寺、薬師寺などを巡るという、まことに知性と教養が溢れ出て、ぐしょぐしょになるかと思われるほどの行程であった。 

     

 

 

僕は、これらのお寺や遺構は、チラリと見たことはあってもゆっくり訪れたことはなかったので、今回のウォーキングは大いに楽しみだった。おまけに前日は雨模様だった天気も、この日はすっきりと晴れて快適なコンディションとなった。


今回の出席者9名、近鉄線の大阪難波駅に集合し、奈良線に乗って西大寺駅で降りた。本日のスタートは、まず駅名にもなっている西大寺だったけれど、僕らにとってはお寺より駅名、あるいは地名としてのほうが西大寺は有名だった。それどころか西大寺というお寺そのものがあることにすら気付かなかった始末だ。そんなことをしゃべっていると、「ウダウダの阿闍梨(あじゃり)様」と呼ばれるFさんが、「東の東大寺に対する西の西大寺や。東大寺を建てた聖武天皇の娘のナントカ天皇が西大寺を建てはったんや」と、解説をしてくれた。「な~るほど」と一同、深く納得。



 
   西大寺

 

西大寺の次は平城宮跡へ向かった。

2年前の2010年(平成22年)に平城遷都1300年を迎え、奈良市全域において数々の記念事業が行われたのは記憶に新しい。そのメイン会場になったのがこの平城宮であった。地上の構造物はないけれど、地下の遺構は良好な状態で保存されているという。しかしまぁ、この発掘というのがひどく大変な作業なんですよね。

 

 
   朱雀門

  

   

     平城宮中心部の配置図


それにしても広い。東西が約1.3km、南北が約1kmにも及ぶという。僕たちはその南門である朱雀門へまず行った。この朱雀門は1998年に復元されたもので、色鮮やかであった。門の前にボランティアの解説員さんがおられ、いろいろと説明をしてくれた。「平城宮というのは、いわばお役所です」「ここを囲む平城京に、そのお役人たちは住んでいました」などなど。

朱雀門でひとしきり説明を受けた僕たちは、そこから、真正面に小さく見えていた第一次大極殿の方へ歩いて行った。こちらは2年前の遷都1300年の時に復元されたというから、これまたピカピカの建物である。

 

 
   第一次大極殿へ向かうウダウダ仲間たち



 そのあと、遺構展示館に入り、そこにもまたボランティア解説員の方がおられたので、詳しいお話を聞かせてもらった。

平城宮の見学には思いのほか、長い時間がかかった。とにかく広いところだから、中を歩くだけでも相当かかる。そのあと、法華寺へ行き、お参りだけして出た。「尼寺」と門のところに書かれてあった。



 
   法華寺


 

お昼を過ぎたので道端の食堂で昼食をとり、次のコースである唐招提寺と薬師寺に向かった。

  ………………………………………………………………………………

僕の好きな作家の一人、五木寛之氏に「百寺巡礼」という著書がある。10年前に、当時70歳だった五木氏が2年間で日本全国100の寺を巡る旅をしたときの記録で、1冊に10箇所のお寺が掲載され、全10巻のライフワークとなっている。(ちなみに五木寛之氏と「暴走老人」こと石原慎太郎氏は、生年月日がまったく同じである。分野は違うがお2人とも80歳で、実にお元気なことである)

さてその「百寺巡礼」の第一巻が「奈良」である。そこに、唐招提寺も薬師寺も載っている。

僕たちはまず唐招提寺へ行った。ここは鑑真和上のお寺である。

高校生の頃、井上靖の「天平の甍」を読み、唐から何度も日本への渡航を試みるが暴風に妨げられて挫折を繰り返し、しかも失明までして、それでもついに来日を果たす鑑真の物語は今も忘れ得ない読書体験として心の中に刻まれている。その鑑真が奈良に来たのちに建立したのが唐招提寺だった。


 

 
  唐招提寺の奥にある鑑真和上の墓所



五木寛之氏は「百寺巡礼」の中でこう記している。

「唐招提寺は私が大好きな寺の一つだ。これまでも何度か訪れたことがあるが、境内の自然の美しさや堂宇の魅力とともに、独特の風格のようなものを感じさせるお寺だ」

そして、お寺の中を奥へ歩いて行くと、広くて立派な鑑真和上の墓所がある。またその途中に、北原白秋の歌碑もあった。五木寛之氏はこの本で、白秋についても詳しく書いている。白秋は、唐招提寺を訪れて数多くの歌を詠んだという。

白秋は晩年、病気と失明の危機に襲われ、残り少ない自分の人生と向き合いながら創作への努力を続けるのだが、その支えとなったのが、唐招提寺で出会った両目を閉じた鑑真の像だったそうだ。

白秋の歌碑は、

水楢(なら)の柔き嫩葉(わかば)はみ眼にして花よりもなほや白う匂はむ

というものであった。

 


 
  北原白秋の歌碑



唐招提寺といえば、まず金堂が有名である。お寺の入り口でもらったパンフレットにはこう書かれている。

南大門を入り、参道の玉砂利を踏み締めて進むと、誰もが眼前に迫る金堂の威容に圧倒されます。豊かな量感と簡素な美しさを兼ね備えた天平様式、正面に並ぶ八本のエンタシス列柱の吹き放ちは、遠くギリシャの神殿建築技法がシルクロードを越え、日本まで伝来したかのように感じさせます。


 
  唐招提寺金堂


ところで五木寛之氏の「百寺巡礼」では、唐招提寺拝観の中心でもあるこの金堂が解体大修理の最中で、「南大門に立つと見えるはずの金堂の代わりに、巨大な銀色の建物が目に飛び込んでくる。まるでジャンボジェット機の格納庫のようだ。金堂はすっぽりその建物に覆われている」と描写されていた。

これは唐招提寺が建って1200年ぶりの大修理だったという。「百寺巡礼」は今から10年前のことだから、その中で五木氏は「すべての解体修理が終り、金堂が私たちの前にふたたび美しい姿を現すのは平成21年の予定である」と書かれていた。あぁ、よかった。今日は当然のように見えている金堂も、数年前までは見られなかったわけで、これはなかなか幸運だった。

…とそこまではよかったのだが、このあと、薬師寺へ行って、今度はこれと正反対の現象に出くわすことになるとは…

薬師寺の魅力は2つの塔である…と五木氏は書いている。「この光景を見ると、薬師寺に来たという感じがする。2つの塔のコントラストと調和が、この寺のいちばんの見どころかもしれない」

この時は「新しく華麗な西塔と、古びて貫禄のある東塔」という描写がされていたけれど、なんとまあ、僕らが薬師寺にむかって歩いている途中で、前方にその塔の風景が見えてきた時、塔はひとつだけで、もうひとつは「巨大な銀色の建物」にすっぽりと覆われていたのである。どうやら、「百寺巡礼」で書かれていた「古びて貫禄のある東塔」が、ただいま修理中なのであった。とほほ。


 

  
   薬師寺の前。見えるのは西塔だけ…

 

薬師寺の前まで行ったものの塔が工事中では弾む心もしぼんでしまい、中に入るのは次の機会にしようということになった。ただ、薬師寺といえば必ずといっていいほど出てくる写真が、大きな池からの美しい遠望である。仲間のSさんが「池の向こう側からぜひ薬師寺の姿を見たい」と言うのでそれに付き合うことにした。道に迷いながら、かなり歩き、ようやくその池の対岸にたどり着いた。そこにはパンフレット等に載っているとおりの薬師寺の遠望があった。

しかし…


 
  本来の薬師寺の遠望(資料写真より)。

           ↓


  
  
ところが、今はこうである。なんだかねぇ…


やっぱりこれではどうしようもない。
「東塔が修復されたらもう一度、この場所に来よう」
その言葉を最後に、僕たちは帰途についた。

で、いつ東塔の工事が完成するのかというと…2018年だという。

…忘れてしまいそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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モミィ・クリスマス

2012年12月25日 | モミィの成長日記

 

 

先日、モミィを地域のキックベースチームから退部させた。

5月に入部して以来、7ヶ月間、土・日・祝日はほとんど練習や試合があって、暑い夏には真っ黒に日焼けし、今月は寒風吹きまくる中で足の指に霜焼けを作りながら頑張っていたけれど、モミィも学校の宿題や他の習い事(エレクトーン、体操、ダンス)もあって時間に余裕なく、またずっと付き添う僕自身も土・日・祝日がすべて潰れてしまうのは、いかにフリーの身とはいえ、つらい。モミィを勧誘するとき、監督さんは「練習は土曜日だけで、たまに日曜日に試合があります」と言ったので、まあ土曜だけならと応じたけれど、実際に入部してみると、試合がない日曜日にも練習はあり、雨が降っても学校の体育館で練習があり…と、すべて土・日・祝日はキックベースに明け暮れたのである。冬の季節に入って、僕の気持ちもそろそろ限界に近づいていた。

加えてチームは、今、6年生と4年生が3人ずつ、それ以外は1年生のモミィだけで計7人だ。キックベースは11人制なので、今でも他市のチームと合同で活動しているが、6年生3人が来春卒業してしまうと、あとはモミィを入れて4人しか残らない。見通しは暗く、解散の可能性もある。

アトピーなどのアレルギーを抱えるモミィが、グラウンドで真冬の風にさらされるのを、特に妻が気にしていた。医師からは「もう少し体力がついてからしたほうがいい」と、アトピーが悪化する可能性も指摘したので、そんなことも重なって、この際、やめさせることにしたのである。先輩の選手たちや選手のお母さんたちに可愛がってもらい、大変お世話になったことを思うと申し訳ないことだけれど、背に腹は変えられない。そういうわけで先日、退部を申し出たのである。

この22日から24日までの3連休も、本来なら3日ともキックベースで予定が埋まっていた。22日練習。23日試合。24日練習…と。そんな予定がなくなったことは、正直言ってとてもうれしかった。

22日(土)は、妻とモミィと3人で、僕が耳鳴りのTRT治療に通っていた病院でもある大阪城横の大〇前病院に義姉が入院しているので、そのお見舞いに行った。お見舞いの帰り、天満橋地下のレストラン街で食事をし、ショッピングモールをうろうろしたあと、ソファのある休憩所でガラス越しに見える大川の風景を楽しみながら、モミィが持参のおやつをおいしそうに食べていた。

学校が休みでも、キックベースがあるとどこにも出かけられなかったので、こういう時間を持つのは本当に久しぶりであった。

そして翌日23日(日)は、僕が一人で「お出かけ」をした。例のウダウダ会の歩く会で、今回は、奈良を歩き回ったのである。平城京跡、法華寺、唐招提寺、薬師寺と巡り、体力と教養(?)を磨き、夕方には大阪へ戻り、ちゃんこ鍋を囲み、飲み放題の「大宴会」を繰り広げて今年の納めとしたのである。同じ日、モミィと妻は、長男(モミィのパパ)の車で近郊の大型店舗へ行き、モミィの部屋に敷くホットカーペットを買ったり、食事をしたりして楽しんだそうである。

3連休最後の昨日24日はクリスマスイブであった。モミィはあらかじめ学校のクラスの仲良し友だち2人をわが家に遊びに来るように呼びかけており、クリスマスパーティをするという。2人のお母さんたちは、電話で「本当にお邪魔してもいいのですか? 申し訳ありませんね」と恐縮しておられたが、ケーキを食べて遊ぶだけなのでお気遣いなく…と妻がニコニコ笑って返事をしていた。

また、夜は夜で次男夫婦が3歳のケイを連れて遊びに来るというので、僕は夜の献立を考え、朝から買い物に行き(ジャスコの食料品売り場は7時から開いている)、お昼までにすべての下ごしらえをして、昼食後、3階の自室にこもって昨日訪れた奈良のお寺のパンフレットやネットなどを見ておさらいをした(次のブログに書くつもりです)。

やがてモミィのお友だちがやってきたようで、階下が子どもたちの声で賑わい始めた。前々回のブログに書いた標準語を話す女の子も来ていた。モミィやお友だちのキャ~キャ~とうれしそうな声が響く中で、僕も落ち着いた気分になれた。キックベースも心身を鍛える意味で貴重だったけれど、こうして休日にお出かけをしたり、お友だちを呼んでクリスマスパーティをしたりと、モミィが気楽に普通の楽しみを味わえるのも捨てがたいものがあった。モミィのアトピーの悪化を心配していた妻は、退部したことで心から安堵したようである。



   
     夕方にやって来た従兄弟のケイと(24日)


 
そして今朝…

今のこの時間はまだモミィは目覚めていないけれど、昨夜から「サンタさんからのプレゼント」を楽しみにしている。今、クリスマスツリーの下にそのプレゼントが置かれている。間もなく起きて来てプレゼントを見つけ、モミィは喜ぶだろうなぁ。


 

  

   

では、モミィ・クリスマス!…じゃなかった。

メリー・クリスマス!

 

 

 

 

 

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世界滅亡の日…?

2012年12月21日 | 日常のいろいろなこと

きょう2012年12月21日はマヤ暦による世界滅亡の日なのだそうだ。中国ではこの終末論が拡大して、影響を受けた男が数日前に学校で刃物を振り回し、子どもたちを刺傷させるというおぞましい事件も起きた。

テレビニュースを見ていると、マヤ文明の遺跡に集まった人たちの中の一人の紳士は「ここにいれば宇宙人が助けに来てくれる」と真面目な顔をして言っていた。フランスの小さな村では「ここいれば生き残れる」と噂が広まって大勢の人が集まり、警察官まで出動する騒ぎの中、インタビューされた中年男性は「世界滅亡の危機が来ても警察官が救ってくれるさ」と語っていた。こちらはどこまで本気やら冗談やら…

マヤ文明で用いられた長期暦というのが、2012年12月21日から12月23日頃に1つの区切りを迎えるとされることから連想された終末論であるという。よくある話のひとつだろうけれど、世界中のマスコミが煽るせいか、騒ぎが各国に波及しているのはちょっと怖い話だ(その点、日本人は概ね無関心なのでよかった)。

「世界の滅亡」をテーマにした映画では「渚にて」や「ディープ・インパクト」「インデペンデンス・デイ」などが有名だけれど、僕らの世代はこういうテーマになると必ず「ノストラダムスの大予言」を思い出す。五島勉という人が書いたこの本は1973(昭和48)年に発行され、バカ売れして、どこの書店にも在庫がなくなるほどブームになった。「1999年の7月に“恐怖の大王”が来て人類が滅びる」…という話で、翌年には東宝で映画化もされた。でも僕はこの本は読んで、な~んだつまらない…という感想しか持てなかった。同じような時期に刊行された小松左京の「日本沈没」のほうが、その何十倍も面白かった。

定かではないが、この「ノストラダムスの大予言」の影響を受けて、後にオウム真理教が生まれた、とも言われている。終末論というのは、とにかくそこから広がって行く恐ろしい要素をいっぱいはらんでいる。

さて、年の瀬も迫ってきた。2012年もあと10日で無事(?)に暮れようとしている。平成24年というのは、僕が昭和24年生まれだけに、何となく親近感を覚えてきた1年間だった。

で、来年は平成25年…ということは、平成の御世になって早くも四半世紀が過ぎるわけである。あれからもう四半世紀か?…と思うと不思議な感じがする。

あれから、というのは…
昭和天皇が崩御されたのが昭和64年(1989年)1月7日だった。そして1月8日に元号が昭和から平成に変わった。たまたまその翌9日は、僕が40歳の誕生日を迎えた日だった。つまり平成が誕生した1月8日は、僕の30代の最後の日でもあったのだ。そのことが、大げさではなくつい最近のことのように思われる。「月日の経つのは早いなぁ」というのは、近頃の僕の口癖になってしまった。

「昭和族」という言葉がある。いろんな意味合いで使われるようだけど、たとえば元号が平成に変わって、昭和生まれの人の年齢が、単純に引き算ができないから何歳なのか分りにくくなった。そこで、昭和から通算して数え、今年は昭和でいうと87年なので、それを頭に入れておけば昭和何年生まれの人はいま何歳かすぐにわかる。うちの母親は昭和3年生まれだが、親の年齢をいちいち覚えていられなくても、87から3を引いて84歳だとすぐに分かるから、なかなか便利だ。

この「今年は昭和で言えば〇〇年だ」と言う人のことも「昭和族」と称するそうである。僕もその意味で「昭和族」の一人なんだなぁと思う。

さあ、来年は「昭和88年」だ~。また頭を切り替えなければ。

ちなみに去年は「大正100年」だった。

「昭和100年」を迎えるのは、あと12年ちょっとである。…とずいぶん先のことを書くようだけど、この調子ならあっという間に経ちそうだ。

もっとも、まだ世界が滅亡していなければ…という条件つきですけれど。

 

 

 

 

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小さな恋のメロディ ♪

2012年12月19日 | 日常のいろいろなこと

最近、モミィは、やたらと「標準語」で話す。

たとえば学校で先生に褒められたことを家で報告する時、これまでなら「きょうなぁ、学校でなぁ、先生にほめられてん」とベタベタの大阪弁で言っていたのが、近頃は「あのさぁ、あたしね、きょう学校でね、先生にほめられちゃったの~」という具合だ(ひっくり返るわ)。

標準語を使うようになったのは友だちの影響らしい。モミィには学校の同じクラスでとても仲良しの友だちが一人いる。色白で目のパッチリした可愛い女の子で、僕もモミィが習い事で急がなければならない時、学校まで迎えに行くのだが、いつもその子とモミィの2人が手をつないで校門から出てくる。

そして僕がその子に「こんにちは、〇〇ちゃん。今日は寒いネェ」と言うと、〇〇ちゃんは「そうよね、とても寒いからさ、今日は温かいジャンバーを着てきたの」と、柔らかな表情で「標準語」をしゃべるのである。なんだか大人の女性と話しているような錯覚を起こしてしまう。モミィの言葉づかいは明らかにその子の影響を受けているようだけど、言葉だけでなく、他にもさまざまな影響を、いろいろな友だちから受けていることが、家に帰ってからの会話でよくわかる。まだまだ幼いと思っていても、やはり子どもは家から見えないところで、しっかりと成長しているのだ。

モミィは学校であったことをいろいろと妻に話すので、そばで聞いていると面白い。最近、最も関心を引いたのはモミィの「小さな恋」のお話である。

モミィは幼稚園時代からずっと「わたし、男の子、嫌いやねん。男の子はいたずらしたり暴れたり、いっぱい悪いことするから」と言っていたのに、このごろ急に心境が変化したようで「あたしさ~、好きな男の子がいるのよ」な~んて言い出すのだから驚く。

「へぇ~、好きな男の子ができたの?」と妻が言うと、モミィが「ウン」と頷いて、話の続きをする。しかしモミィが心を寄せる男の子は「イケメンでさぁ、女の子のファンが多いの。だから私のことは、相手にしてもらえないの」と言うのだ。ふ~む、片思いか…と僕は横でその会話を聞いている。妻はそれを聞いて「なぜ相手にしてもらえないとわかるの?」と尋ねる。

モミィによると、その男の子が日直の時の話だったけれど、何かを質問する遊びがあって、みんなハーイ、ハーイと手を挙げるのだが、誰を当てるかは日直の子が決めるらしく、その日、日直だったイケメンの男の子は、モミィがずっと手を挙げ続けたにもかかわらず、「ワタシを当てたんは8番目やでぇ、ホンマに、ずっと手あげてたのになぁ」と、ここは大阪弁で語るモミィなのであった。せめて2番目か3番目に当ててほしかった、と嘆くので、「まあ、しかたないでしょ。その男の子も好きな子が沢山いるんだろうし」妻が言うと、モミィは「あのな、その子はな、男の子としか遊べへんねん。女の子は嫌いみたいやねん」。な~んや、それは…?やっぱりまだ7歳だ。話の焦点がイマイチ合っていない。

あははは~、と僕はそれを聞いていて横で笑ってしまった。

悲しき片思い…というものでもない。今でもモミィの会話の中には、何度も何度もイケメン君が登場してくるが、標準語をしゃべる親友の〇〇ちゃんもイケメン君が好きで、何とかちゃんも何とかちゃんも、み~んなそのイケメン君が好きだけれど、無視される…

…と嘆くモミィである。話を総合すると、女の子たちがイケメン君に集団で恋をして集団でフラれているという話のようだ。そしてイケメン君にそれほどモテる秘訣をぜひ聞きたいと思う僕なのである。うひひ~(気持ち悪い~!)。

元々同世代の子どもたちより“おくて”だったモミィだけれど、小学校に入ってからのこの8ヶ月間で、驚くほどの成長を見せた。子供同士というのは家庭では与えられない影響をお互いに与え合うんだなぁと、改めて思う。

特にモミィは僕たち2人の間で育ってきたので、家庭内できょうだいに鍛えられることもなく、実におっとりした子で、幼稚園時代は集団の中でいつもぐずぐずモタモタしていた。それが一番の心配のタネだった。でも、最近、「あのさぁ、テレビのさぁ、プリキュアをちゃんとビデオで録画しておいてね。のんちゃんはさぁ、忘れんぼだからねぇ」など、おしゃまを言うモミィを見て、まぁまぁ普通に育ってくれている…と実感するのだ。生意気なことも言う年齢に入ってきたけれど、それも成長のあかしなのだろう。

…と、以上モミィの近況でした。

 ………………………………………………………………………………

ところで、今日のタイトルに掲げた「小さな恋のメロディ」は、ご存知の方も多いと思いますが、大昔の映画のタイトルです。

      



イギリスのパブリック・スクールに通う少年ダニエルと少女メロディの恋の物語で、背景に流れるビージーズのテーマ曲が絶品だった。特に、メロディちゃんが手ですくいあげた金魚を水溜りのようなところに放すところでこの曲が流れるシーンは、思い出すだけで涙がポロポロこぼれそう…。

この映画が日本で公開されたのが、ちょうど僕が結婚した年(1971年→昭和46年)だった。東京に住んでいるKさんという友人が大の映画好きで、数日置きに自分が見た映画の感想を手紙で僕のところへ書き送って来ていた時期で、中でも「小さな恋のメロディ」は彼はぞっこんお気に入りのようだった。そして手紙に書かれてあったのが、「主人公のダニエル少年を演じたマーク・レスター君の顔が、のんさんにそっくりなので余計に親近感を覚えます。ぜひ一緒に見ましょう」というものであった。そして「〇月〇日に大阪へ行きますので、一緒にこの映画を見ましょう」と書き、本当に大阪まで新幹線でやって来た。友人は新婚のわが家に数泊し、2人で「小さな恋のメロディ」を見に行った。彼はこの映画を何度見たかわからないほど見たそうだけど、映画館でダニエル少年が出てくるたびに「ほら、似てるでしょ?」と僕の耳元でささやいたのである。

ダニエル少年を演じたマーク・レスターは当時まだ10歳ちょっとだった。金髪でとても可愛い少年だった。僕は22歳の大人である。そんな可愛い男の子と、どこが似てるん…?と思いながら見ていたが、友人は最後まで「ほら、似てるでしょ?」と映画館でささやき続けたのである。

そんな思い出がよみがえってきます。

ちなみに…

写真上が当時のマーク・レスター。

下が当時(22歳)の僕ちんです。



 

 

   


 

ゼンゼン違うでしょ?

でも、何のかんのと言いながら、モミィや映画をダシに自分の若い頃の写真を載せるなんて、まぁ僕もちゃっかりしてますわ。

ど~も、失礼しました~ 

 

 

 

 

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総選挙は終わったけれど

2012年12月17日 | ニュース・時事

今回の総選挙は予想通り自民の圧勝に終わりましたね。各党の議席数も新聞等で公表されていた世論調査どおりの結果といえます。世論調査というのは実によく当たるものですね。じゃぁ世論調査だけで当落を決めたらどうでしょう。膨大な選挙費用もかからないし、わざわざ投票に行っても世論調査と同じような結果が出るだけなんですから。憲法も法律もそのように変えちゃいましょうよ(笑)。

それと、例によって、あの出口調査ですね。各テレビ局は投票締め切りの午後8時になったとたん、出口調査に基づいて全国の選挙区の候補者の当確をズバッズバッと出すのだから、あっという間に大勢が判明する。これから開票作業に入ろう…というより、投票所から開票場所まで票を運搬しようという人たちも、何だか力が抜けるでしょうね。作業をやる前から結果がわかっているなんてね。そしてテレビで「当確」を知った候補者の事務所では、万歳を連呼している。開票作業なんて、最終的な数字を出すだけのためにやっているようなものですよね。

開票前に「結果」がどんどん出てくるので、まあ、テレビを見ているほうとしては、深夜まで起きている必要がなく、8時半頃にはだいたいの結果がわかるのだから、いつまでもテレビにかじりついている必要もない。翌日の月曜日に備えて早く寝ることも出来る。これは結構なことでしょう。そう考えると、出口調査による選挙結果の先取り発表は、マスコミによる、国民の寝不足を解消するための心のこもったサービス…と思えばいいんですよね~

それにしても民主党の惨敗ぶりはひどいじゃあ~りませんか。230議席から57議席にまで減るとは…いかに国民の皆さんが今の政治(政権)に腹を立てていたかがはっきり現れていますね。

…ということで、前回の総選挙では、自民党をさんざん批判してきた民主党が「歴史的」な大勝利を遂げたものの、わずか3年余りで今度は民主党をさんざん批判してきた自民党が圧勝し、また政権が入れ替わるわけですが、これまで何の前進もないし何の変化もない。むしろ後退の一途である。どこが政権を取っても似たり寄ったりで、いつまで同じことが繰り返されるのか? 今回の選挙結果によってどう変わるのか…? 本当に暮らしが良くなるのか? そんなことについても国民はみな懐疑的になっていることでしょう。

自民党の今回の大勝は、他にこれといって投票する政党もなく(政党の数も多すぎましたしね)、かといって棄権するのもナンだし、と、悩んだ末、仕方なく昔からなじみのある自民に票を投じた…という人も沢山いると思います。ちなみに投票率は戦後最低だったとのこと。ということは、戦後最低の選挙だった、とも言えるかも知れません。自民党は大勝したからといって、決して手放しで喜ぶべきではありません。むしろ、身を引き締めてもらわなければ。そうでないと、また民主党と同じ道を歩みますよ。 

とりあえず民主党に政権を取らせたのが間違いだったという国民の明白な審判が下されたわけですから、次の政権はそれよりはもう少しマシなことをしいや、と言いたいですよね。

ぶつぶつ… ぶつぶつ…

 


 

 

 

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年賀状の季節

2012年12月15日 | 日常のいろいろなこと

今年も年賀状の季節がやって来た。
僕は毎年、年賀状は少し早い目から作り始めている。

なにせ根が怠け者だから、意識して早い時期から手をつけなければ、いくらでも放っておき、ギリギリになって大慌てとなってしまう。慌てると年賀状も手抜きとなり、どの人にも全て同じものを出す、ということになる。年賀状はパソコンで作るので、これまでなるべく相手(グループやお付き合いの程度の違い)によって文面も変え、時には載せる写真も変えて、いちおう工夫はしてきたつもりである。だから何かと時間がかかるのである。

あっ、それと妻の分、長男の分、そしてモミィの分…もある。これらもハガキに宛名をプリントし、通信面には家族それぞれのリクエストに応じ、好みの写真を選ばせてプリントして渡す(文面はそれぞれ自分たちで書く)。

モミィもお友だちや親戚の子どもたち、幼稚園時代の先生と今の小学校の先生らに年賀状を書くというので、ハガキと同じ大きさの紙を何枚か用意し、写真のスペースも作り、空白部分に「おめでとうございます。がっこう、たのしいです」な~んてことを書く練習をさせてから本物のハガキに清書(…のわりにはデコボコの字だけど)させた。

…ということで、年賀状作りもほぼ終わった。

年賀状は儀礼的なもの…と割り切れば、街の印刷屋さんに注文したら何の手間もかからないけれど、もう少~しこだわりたいと思う。特に仕事を退職してからはそれまで交流のあった人たちと会う機会がめっきり少なくなり、年賀状でしか挨拶を交わせない人たちも多い。…となると、これが貴重な機会でもある。やはり、それぞれの人たちに近況を問いかけたり、自分の日常を報告したりしたいけれど、その場合、相手がどういう立場の人で自分とどう関わってきたかによって、問いかけや報告の仕方も違ってくる…ということで、親密な友人なら、たまにジョークやお笑いを入れることもあるし、先輩に当たる人にはちょっと丁寧な言葉遣いを入れたりする。

今年いただいた年賀状の束を取り出して1枚1枚読み返しながら、印刷された年賀状の余白に何かひと言書き添えてくれている人たちの分をピックアップし、その人たちに対して、今回の年賀状に返事のようなものを書き添える。

たとえばある人から「去年は〇〇マラソンを走りました。今年は海外の大会に出られたらいいなァ」と年賀状に書かれていた場合なら、今回は「海外マラソン、実現しましたか?」という言葉を添える。「最近、ウォーキングを始めました」と書いてこられた人には、今回は「ウォーキング、続いていますかぁ」…のような感じで。

…ところが、「書く」と言っても、僕は字が下手くそなので、書き添える文もパソコンで打つ。だから1枚1枚、文章を打ち込んでは印刷し、打ち込んでは印刷するという作業になるので、その分、時間がかかってしまうのだ。
(まあ全部が全部そうしているわけではありませんが…)

妻は達筆のほうなので、いいなぁと思うのだが、こんなとき、僕みたいな悪筆は不便だとつくづく思う。元々字が下手だったけれど、勤めている時は字を書く機会も多いのでそれなりに誤魔化してきた(笑)。でも退職してからはキーボードばかり叩いているし、スマホも持つようになったので、字を書く機会が少ない。すると右手の筋肉が字の書き方を忘れてしまったのか、たまに字を書くとミミズが這ったような字になる。

ある時、キッチンで買い物のおぼえ書きを僕が平仮名でメモしていたら、モミィがそれを覗き込んで「これ、何て読むん?」と聞くので「〇〇やがな」と言うと、「読みにくい字やなぁ」などとぬかすのだ。

そこまで言うか…?
ほんまにもう…。

それでもパソコンというものが存在するおかげで、下手な字をさらけ出さずに年賀状を書けるというのはありがたい。まさにパソコンさまさま~である。

それでは皆さま、明けましておめでとうございます。

 (まだ早い、ちゅうねん!)

 

 *追伸(15日夜)

今日から年賀状の受付が始まったとのこと。
夕方のTVニュースを見て、初めて知りました。
今日から25日までの間に投函するのがいいそうです。
 
でもねぇ。
年賀ハガキは11月から発売されているので、

すでに年賀状を投函した人もいるのでは…?
そんな場合は、どうなるのでしょうね~?

  

 

 

 

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ブログを始めて5年、耳鳴りは…

2012年12月13日 | 心と体と健康と

このブログを始めたのは2007(平成19)年の12月からである。
あれからちょうど5年が過ぎた。ついこの間のことのように思えるのにね。

それまで別のブログを約2年間続けていて、それは結構楽しいものだった。ところが2007年の8月、持病の不整脈で心臓のカテーテル手術を受けたところ、失敗に終り、がっかりした。ブログを書く気力も萎え、そして1ヶ月が過ぎた9月下旬、今度は突然の耳鳴りが発症して、これでもう完全に気が滅入ってしまい、仕事に行くのが精一杯の状態となり、ブログどころではなくなってしまった。で、そのまま更新せず放っておいた。

しかし12月になり、このままでは自分はダラダラと惰性で生きていくことになる…と多少大げさかも知れないがそんな反省をした。とにかく気を紛らわせることをしなければ、と、その12月からまた新しいブログを開設し、これを書くのを楽しみにすることで生活の充実化を目ざしたのである。

ところが…である。
最近、また耳鳴りが大きくなってきた。大きくなってきたのでそれに気を奪われ、ブログの更新が滞るようになった。5年前、耳鳴りを克服するつもりで開始したブログなのに、その耳鳴りが大きくなったから更新ができないというのも変な話だ…と、自分で自分を笑ってしまった。やはり初心を忘れてはならない。

…と、ウダウダと書きながら、今、耳を澄ますと(いや、澄まさなくとも)、頭の中で耳鳴りがジージーと鳴り響いている。僕の耳鳴りはたぶんもう治らないものと諦めている。医師の決まり文句である「耳鳴りは慣れるほかありません」という言葉も「耳鳴りは諦めるほかありません」と言い換えたほうが現実的で、むしろそう考えたほうが気持ちの整理がしやすいのではないかと思うほどである。

耳鳴りを意識しないように訓練するTRT療法も、続けていればブログ同様5年になるのだけれど、大〇前病院へはもう1年以上も行っていない。耳に装着し、そこから出るノイズで耳鳴りの意識レベルを下げるとされる治療器(TCI)も、この1年間、わずかな例外を除いてほとんど付けていない。付けるのが面倒くさいのである。最近、耳鳴りが大きくなったことで久しぶりに付けてみたら、電池が新しいにも関わらず、すぐにノイズが小さくなって、やがて消えて行く。どうやら器具の寿命が尽きたようだ。(器具は6万円したのだが、5年経つのだから仕方ないか…)。

今はなるべくウォークマンを聴くようにしている。聴くのは主に英会話で、せめて耳鳴りに一矢を報いるために英会話くらいマスターしてやろうという大作戦を立てているのだけれど、これも持続力のない僕なので、なかなか身につかない。

ところで、耳鳴りで最も危険なのは、耳鳴りがストレスになり苦痛を感じ、その苦痛が刺激になって耳鳴りがより強く感じ、さらにそれが刺激になって苦痛が強まるという悪循環である。これだけは絶対に避けなければならない。この悪循環に陥ることだけないようにと、そこは万事にいい加減な僕も、十分に気をつけている。これさえ注意しておけば、耳鳴りなんてどうってことない…と思えばいいんだから。(…とえらそうなことを書いていますが、実は僕も最近、悪循環に陥りかけて喘いでいます。トホホ)

言うまでもないが耳鳴りはストレスから生じることが多い。ストレスを溜めないように…とよく言われるけれど、それは無理というものだ。お金はなかなか貯まらないけれど、お腹の脂肪とストレスだけはすぐに溜まるのだから困ったものである。

耳鳴りは自律神経とも密接につながっているようなので、それと深い関わりのある睡眠のリズムにも気をつけよ、と言われている。そういえば僕は耳鳴り発症以来、ずっと睡眠障害が続いている。睡眠障害の主な原因として上げられるのは「身体の緊張」「脳の興奮」「心の不安」の3つだそうだが、僕の場合、3つとも耳鳴りが引き起こしていることは明白である。ほんと、困ったことだにゃ~

でも、いずれにしろ耳鳴りを気にしないようにしなければね…

仕事でも用事でも趣味でも没頭しているときは耳鳴りを忘れる。やはり耳鳴りが気にならないような生活術を自分なりに身につけることが大切だというのが基本のキである。…と、まあ、いつも同じようなことを書いて結論に代えている。

このブログを開始して丸5年となり、それを記念して(どんな記念や…?)、改めて耳鳴りのことをくどくど書いたけれど、物事をのんびり楽観的に考えることも大事だということを肝に銘じ、これから耳鳴りに関してもなるべく愚痴はこぼさず、楽しいブログの記事を書き綴っていきたいと思っています。

堂々巡りで、まとまりのない文章でしたが、最後までお読みくださった方、どうもお疲れさまでした。これを読んでストレスが溜まりませんように。

 

 

 

 

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中村勘三郎さんと耳鳴り

2012年12月07日 | 心と体と健康と

歌舞伎俳優の中村勘三郎さんが5日の未明に亡くなってから、その日も、その翌日の6日も、TVワイドショーはトップニュースで勘三郎さんのことを伝えていた。ひとりの芸能人が亡くなって、これほど大きく報じ続けられるのも、最近では珍しいことだ。

森繁久弥さん(96歳)や森光子さん(92歳)が亡くなられた時は、年齢的にも「大往生」という印象が強く、ニュースとしての衝撃性は少なかったと思うが、勘三郎さんは57歳という若さで、これから歌舞伎界の重鎮としての道を歩み始めようという矢先だっただけに、惜しむ声も多いのだろう。明るい人柄や人当たりのよさと真面目さが共存し、今どき少なくなった「正統派芸能人」として幅広く支持されていたと思う。その死がこれほどまでにマスコミで取り上げられたのは、昭和62年の石原裕次郎と、平成元年の美空ひばり以来ではないかと思うほどだ(2人とも52歳で亡くなった)。

勘三郎さんの死因は、報道によると、急性呼吸窮迫症候群ということだった。今年の6月に食道がんが発見され、手術をして、舞台復帰に向けて療養している時に、この「急性呼吸…」を発症し、病状が悪化した末、死に至ったという。

勘三郎さんは去年に「特発性両側性感音難聴」という症状で入院をされていたことも報じられていた。一昨日、テレビでそれを見ていた僕は、それが「突発性…難聴」と聴こえたので、えっ?と思って、画面の字幕を確認すると「突発性」ではなく「特発性」だった。「特発性って、なんだろう?」とすぐに辞書を引いて調べたら、「原因不明のこと」とあった。

「特発性」という言葉があるということも知らなかった。

「突発性難聴」なら、僕が耳鳴りに悩まされた頃から何度も聞いた言葉だった。耳鳴りが発症した時、最初に耳鼻科へ行って診てもらったら、医師は「突発性難聴ではありません」…と、よかったねぇという口調で僕に告げた。で、診察はそれで終わりそうだったので「耳鳴りで困ってるんですけど…」と言っても医師は取り合ってくれず、「突発性難聴ではありませんので治療の必要はありません」と再び言われた。「じゃ、耳鳴りはどうすれば…?」と尋ねると、「神経的なものですから、心療内科の受診をお勧めします」と冷たく扱われたのだった。

その後、TRT療法というのを受けるため大〇前病院というところへ行った時も、「突発性難聴じゃありませんね」と言われた。つまり耳鳴りと聞けばまず突発性難聴かどうかを調べるのが普通のようだ。で、そうでなければ、命に別状がないので、あとは医師も、耳鳴りだけならそれに慣れることが第一ですね…などと曖昧な口調で終わってしまう。むろん、耳鳴りの原因はほとんどの場合不明であるから、治療のしようがないのであろう。

ちなみに勘三郎さんの場合は「特発性両側性感音難聴」ということで、左右両側ともに難聴だったけれど、「突発性難聴」は、大部分が一側性だという。

で、その病状が回復し、退院して復帰の記者会見をした時の勘三郎さんの映像も見た。その席で「今でも耳鳴りがします」と述べておられた。当時の新聞記事もテレビ画面に出ていたが、「勘三郎、尋常でない耳鳴り!」などという見出しがデカデカと載っていた。耳鳴り…と聞けば敏感に反応する僕は、勘三郎さんの言葉や新聞の見出しに強い衝撃を受けた。

それにしても勘三郎さんは、せっかく去年「特発性両側性感音難聴」が治ったのに、今年は食道がんが発見されるというのも、よくよく不運としか言いようがない。そしてさらに急性呼吸窮迫症候群という症状に見舞われて不帰の人となった。57歳といえば、僕より6歳も年下である。本当に惜しい。

子役の頃から「中村勘九郎」として人気があった人だ。あの可愛かった「勘九郎ちゃん」を映画などでよく見ていた僕も、長年のファンの一人だった…と言わせてもらってもいいかも知れない。

「特発性…」から1年以上、勘三郎さんは亡くなるまで、他の病気と併せて、耳鳴りにもずっと悩まされていたのだろうか…と思ったりするのである。

ご冥福をお祈り致します。

 

 

 

 

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足を引きずりながら思ったこと

2012年12月05日 | 思い出すこと

土曜日に左足の膝を打撲し、その日の午後と日曜日は、せっせと患部を消毒したり薬を塗ったりして傷口を保護しながら、湿布薬を貼ってなるべく安静にしていた。膝のすぐ下のあたりをちょっと触るだけでズキンと痛むし、曲げても痛い。ただ、じっとしている時はもちろんだが、左足を伸ばしたままで右足に体重をかけてゆっくり歩けば、ほぼ痛みはないので、その点はなんとか救われた。

心なしか傷のまわりが腫れているように感じたが、気のせいかも知れない。右の膝をなでて左の患部と比べてみるけれど、腫れているようでもあり、どちらも同じようでもある。なんとも頼りないことだ。

そうこうしているうち、月曜日になったので、近所の〇〇外科クリニックへ行くことにした。骨に異常がないかどうかを調べてもらわなければならない。たぶん大丈夫だと思うけれど、大事をとるに越したことはない。

左足を曲げると痛くて自転車には乗れないので、ぼちぼちと歩いて行った。めざす医院までは約1キロだ。途中でじわ~っと痛みが出始めたので、さらにゆっくり、あえて左足を引きずるようにして歩いた。背後から腰の曲がったお婆さんが、よろよろと歩きながら、僕を追い抜いて行った。

この外科クリニックへ行くのは、ほとんど初めてである。

「ほとんど」というのは、実は若い頃、サイクリングをしていて、スピードを出し過ぎ転倒し、額を血まみれにしながら駆け込んだのがこの外科クリニックだった。つまり、これまでに一度だけ行ったことがあるのだ。

それ以来、外科というものにはあまり縁がなく、この医院にも行っていない。いったいどれくらい経つのかと記憶をたどってみたが、どう考えても30年以上昔のことである。それでも、外科というとここを思い出すので、こうしてトボトボ歩いて向かっているのだ。

昔のことを思い浮かべながら、ようやくその外科クリニックに到着し、さらに長い間待たされたあと、診察室に呼ばれた。

「どうしましたか…?」と診察室で、60歳くらいの医師が尋ねた。

「はぁ、実は…」と、自転車に孫を乗せようとして転倒したことを説明し、左足のズボンをめくり上げると…。いきなり「このへんですか?」と、かさぶたになりかけている傷口のすぐ下をグイと押さえた。

「痛い、痛い、いた~~い」そこ、押さえんな~
ほんまに、無茶苦茶するで、このおっさん。

30年前と同じ医師なのだろうか? 年齢的にはそんな感じだ。まあ、そんなことはどうでもいいけど、いきなり押さえるなよ。まったくぅ。

「ではレントゲンを撮りましょう」
レントゲン室へ行き、2枚撮ってもらったあと、そこを出て待合に戻る。

月曜日だからか、もともと患者が多い医院なのか、待合室は大勢の患者で埋まり、座る場所もぎゅうぎゅう詰めである。見渡すと圧倒的にお年寄りが多い。

待合ソファの狭い空間を見つけて座ると、「どないしはりましたんや?」と、隣のおばあちゃんが僕に話しかけてきた。「自転車でこけたんですわ」と答える。「そら危ないわぁ。わたいもなぁ、もうこの歳やから自転車はよう乗らんけど、昔は自転車でようこけたわ」と身を乗り出す。そして、聞いてもいないのに、「わたいはなぁ、肩から腰から膝から…そこらじゅうが痛いんで、電気かけに来てますねんわ。それになぁ、このごろ、歯もぜんぶ抜けて…あんた、物が食べられしませんね。歯ほど大事なもんはないよ~。なにせ、物が食べられへんからね」そう言いながら、「ああ…、年とったら、あきまへんなぁ。あっちもこっちも悪うなって。ほんまにな、…あきまへん」と言って溜息をついた。

そして再び診察室に呼ばれ、先ほどのレントゲン写真の説明を受けた。

医師から2枚の写真見せられ、「骨に損傷はありませんね。どこもきれいですよ」と言われたときは、ホッと胸をなでおろした。もう少し上を打撲すれば膝の皿にヒビが入っていたかも知れないけれど、下だったからよかったようだ。まあ、不幸中の幸いだと思っておこう。

診察を終え、医師の指示通り、レーザー光線(といっても、鉛筆の先の丸いようなものを自分で患部にコツンと当てるだけ)と、低周波のリハビリを受けて、医院に着いてから約2時間後に、そこを出た。

左足を引きずってゆっくり帰途につきながら、また遠い昔に怪我をしたことを思い出した。今度はサイクリング中の怪我ではなく、職場の仲間で作った野球チームの練習中に、打球を追ってぬかるみに足を取られ、左足首をぐねったことを思い出したのだ。

僕は倒れたまま動けず、みんなに抱えられて一人の友人の車に乗せられた。土曜日の午後だったので、開いている医院が見当たらず、とりあえず家の近くの整骨院へ運び込んでもらった。

そこで応急手当をしてもらっているとき、そこから見えるテレビではプロ野球の中継が映し出されていた。ちょうど試合終了とともに、観客席からテープが乱れ飛び、選手たちが狂喜乱舞しているところだった。

今も忘れられないシーンである。

この時、僕が住んでいる大阪府藤井寺市を本拠地とする近鉄バファローズが、阪急ブレーブスとのパ・リーグのプレーオフに勝って、チーム創設以来初めてのリーグ優勝を飾った日だった。「お、やった~!」と、足首の痛みも忘れるほど、僕はテレビを見て興奮した。今、その試合をネットで調べると、1979(昭和54)年10月16日のことだった。僕が30歳の時だったんだなぁ…。

月曜日になって整骨院から病院に連れて行ってもらい、レントゲン検査の結果、足首が骨折していたことが判明し、1ヶ月間、仕事を休むこととなった。

そこで話はプロ野球に戻るが、あの日パ・リーグで優勝した近鉄は、当時「赤ヘル軍団」と呼ばれていた強豪広島カープと日本シリーズを戦った。仕事を休ませてもらっていたおかげで、当時は昼に日本シリーズが行われていたのだが、普通なら見られない平日の試合も全部テレビで見ることができたし、しかもその日本シリーズが、プロ野球史に残る名勝負だった。

3勝3敗で迎えた第7戦、広島が1点リードして迎えた9回裏、近鉄は無死満塁の絶好のチャンスを迎えた。一打逆転サヨナラ優勝である。しかし、広島の投手・江夏はここを踏ん張って0点に押さえ、広島が初の日本一に輝いたのである。今では伝説の「江夏の21球」と呼ばれた試合だ。

怪我のおかげで自宅でこの試合を見ることができた。仕事を休んで野球に興奮して…不謹慎かも知れないが、まあ、33年前のことだからお許し願おう。文字通り「怪我の功名」であった。

ところで、その骨折が自分の人生まで変えた…ということも、最後に書いておかなければならない。1ヶ月間、自宅療養をしていた僕は、こんな怪我をした自分の体の弱さに失望した。強い体を作りたい…という願望が日に日に膨れ上がっていた。

近くの大和川堤防をジョギングするようになったのは、その怪我がきっかけだった。やがてフルマラソンを完走できるまでになり、その後、タイムは遅いけれど、いろいろな大会に出て、「趣味は?」と聞かれて「走ることです」と答えられるようになった。走る喜びを分かち合う友だちにも恵まれ、その人たちとは今も親交が続いている。走ることを通じてとても素晴らしい経験を重ねてきた。

これも「怪我の功名」と言っていいだろう。

ところで、今回の左膝のこの怪我も、今後、何か良いことに繋がればいいのになぁ、と思う。

人間万事塞翁が馬…。悪いことがあれば良いこともある。その繰り返しが人生なんだと思うと、次は良いこと…あるかな?

 

 

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自転車で転倒 いてててて~

2012年12月02日 | 日常のいろいろなこと

昨日の土曜日。 恒例であるモミィたちのキックベースの練習が、お昼に終った。

は~い、みんなおつかれさ~ん、と監督、コーチ、僕たち保護者らが声をかける。

部員たちはリュックを担ぎ、帰り支度をして自転車に乗り、
監督コーチたちは単車に乗り、お母さんたちも自転車に乗った。

みんながそろそろ小学校の門を出ようというときに…

モミィは自転車に乗れないので、僕が乗せて送り迎えをしているが、
自転車にまたがって、「さあ、後ろに乗るか」とモミィを促がした。

自転車にまたがっている僕からみて、モミィはいつも左側から座席によじ登る。
だから左側にモミィの体重がかかるため、自転車が左側へ傾く。
そこで僕は、左脚をヨイショと踏ん張って自転車を垂直に保つようにし、
モミイが座席におさまるのを待つ。

最近はモミィの体も大きくなり、力も強くなってきているので、
彼女が両手で自転車の椅子部分を握り、エイヤと掛け声とともに席によじ登る時、
これまで以上に大きく左に傾く自転車を、僕は懸命に左脚で踏ん張るのである。

それは絶対に油断してはならない瞬間なのに、昨日は、つい油断してしまった。

ちょうどすぐ隣で監督さんが単車にまたがったところだったので、
その監督さんと言葉を交わして、そちらに気を取られていた。

そのとき、モミィがグイと自転車を手元に引き寄せて乗ろうとしたのだ。
僕の左脚は、油断していたので100パーセントの力を入れていなかった。
モミィが乗ろうとして左側に大きく傾いた自転車をとっさに踏ん張れなかった。

「あっ、あっ、あ~~ぁ!」
と思っているうちに、モミィを乗せたまま自転車は左側地面に転倒した。
ガシャンという音とともに、僕も自転車ごと横転し、下半身を強打した。

それよりモミィが心配だった。モミィは…?
自転車から落ちて頭でも打ったら大変なことになる。
自分よりとにかくそのことで一瞬パニックになった。

自転車ごと倒れたままの恰好で見上げると、モミィは立ち上がっていた。
座席に座る前に自転車が倒れたので、あわてて飛び降りて、
地面に手をついたけれど、怪我はなかったようであった。
自転車の下敷きにならずにも済んだ。

あぁ、よかった~。
僕は胸をなでおろした。

しかし、僕のほうは両足を思い切り打撲して、しばらく立てなかった。
周りの人がみな心配そうに見てくれていたので、
両手を上げ、大丈夫です、と元気に声を出した。

上半身は無事だったので、両手をついて立ち上がろうとした。
「よっこらせぇ」という感じで、ゆっくり立ち上がると、
左足の膝とその下のあたりが、焼けついたように痛い。
右のふくらはぎも、歩くと激痛が走る。
両足ともまともに足を運べず、よろよろと歩き出した。

「大丈夫ですよ、すみません、ご心配かけました」
大きい声でそう言って、僕は精一杯の笑顔を振りまいた。

「うん、歩けてるから、骨は折れていないわ」
監督さんがそう言って、そこでみんなは解散した。

再びモミィを、今度は注意深く自転車に乗せ、
グイ~っとペダル漕ぎ出したが、左膝が強烈に痛む。
右のふくらはぎも、なぜここなのかわからないが、痛い。

ペダルを漕ぐのに脚を回すたび、痛みが走り、顔をしかめる。

「もう、絶対あんなこわいこと、せんといてな」
と、帰り道、自転車の後ろでモミィが言う。
「わかってるわ。それよりモミィも、自分の腕の力で席に乗りや」
今後は、僕もそうだが、モミィにも気をつけさせなければならない。
「自転車にぶら下がるようにしがみつかず、腕の力で乗るようにね」

お互いに今回の教訓を生かさなければならない。

帰宅して家の中を歩くと、痛みが一段とひどくなった。
左ひざからは、かなりの血が流れ、妻も心配そうだった。
血が流れているのは、膝の皿の部分に近いところだが、
最も痛むのは血の出ている場所の下…膝の下である。

今春、頚椎ヘルニアで診察を受けたときに、
有り余るほどの湿布薬をもらっていたので、
傷口を消毒し、傷薬を塗った後、湿布をした。
右足のふくらはぎの部分にも湿布をした。

立っているだけでも痛むので、夕食を早い目に終え、
6時半か7時頃には、自室に引きこもってベッドに横になった。

 ………………………………………………………………

そんなことで、昨晩は早く眠ったようなので、今朝は未明に目が覚めた。

ベッドの中に入ったまま、いま、このブログを綴っている。

怪我の状態が昨日よりひどくなっていたら検査してもらう必要もあるが、
さっき、湿布を貼り替えたとき、悪化はしていないようだった。
でも、よくなっている気配も、あまりない。左足を曲げると痛む。
だから階段も半歩ずつ上がり降りしている状態である。

どちらにしても今日は日曜日ということなので、
明日の様子をみて、医者へ行くかどうか決めようと思う。

しかしこんなことではウオーキングや自転車もままならない。
明日からの水泳にも行けるかどうかもきわめてむずかしい。

回復が少しでも早まるよう、しばらくは安静にしておこう。

それにしても事故や怪我というのは、日常のちょっとした油断から起きる。

お互いに気をつけましょうね。

ちなみに…

キックベースの場所で怪我をするのは、これが2回目です。トホホ。

                

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/1aa8b0300aa7ea6940354acbaea5cd90

 

 

 

 

 

 

 

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