僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

バルセロナのクレヨンしんちゃん

2011年06月30日 | 旅行

海外旅行中、宿泊ホテルの部屋でテレビを見るのは、なかなか楽しいものである。
日中のあわただしい観光スケジュールを終え、ホテルの部屋に戻るとホッとする。
缶ビールなどを飲んでくつろぎ、その日1日の出来事を思い浮かべながら、
言葉のわからないテレビをぼんやりと眺める楽しみは、格別のものがある。

バラエティ番組など、日本で見る番組とそっくりそのままのものがある。

日本のバラエティの企画や発想も、外国からのパクリが多いかも知れない。

いつかローマのホテルで見た現地のクイズ番組は、
日本の 「クイズ ミリオネア」 とまったく一緒だったもんね。
まあ、どっちが真似たのか、知らないけれど。

元号が昭和から平成に移った1989年、マレーシアのマラッカで泊まったとき、
つけっぱなしにしていた部屋のテレビに、ドラマ「武田信玄」が流れていた。
前年にNHKで放映されていた中井貴一主演のNHK大河ドラマである。

コトバは吹き替えではなく日本語のままだったが、画面を見て驚いた。
なんと、四ヶ国語の字幕が出ていたのである。
したがって、画面の下半分は字幕だらけだ。
それが邪魔になって、画面がよく見えない~。

翌日、現地の人に訊いたら、この国では英語、マレー語、中国語、タミル語、
という4つの言語が事実上の公用語として認知されているとのことであった。

日本人には理解しにくい多民族国家の一端を、
テレビを通じて垣間見ることができたことは、いい経験だった。

 …………………………………………………………………………

今から10年前。…といえば21世紀が始まった2001年のことだが、
スペインのバルセロナのホテルで偶然「クレヨンしんちゃん」を見た。

いつもホテルの部屋ではテレビをつけっぱなしにしているので、
そのときもテレビから流れるスペイン語を耳だけで聴き流していたが、
ふとテレビ画面を見ると、 「クレヨンしんちゃん」 だったので驚いた。

番組は吹き替えだった。
だから、しんちゃんはスペイン語でしゃべっていた。
言葉はわからないが、雰囲気は十分に伝わってきた。
しばし時間と空間から抜け出して、僕は 「しんちゃん」 に見入った。

日本では「子どもに見せたくない番組」の上位を占めるモンダイ番組だが、
スペインでは、まあ、吹き替えだから言葉もそう下品にはならないだろうし、
国民性もずいぶん違うので、こういう日本のアニメは親も歓迎するのだろう、
時間帯も、いわゆるゴールデンタイムの放送だし…と思って見ていたのだ。
見れば見るほど、スペイン語を話すしんちゃんは可愛かった。

ところが、ごく最近、こんなニュースを聞いた。

スペインで放送されている 「クレヨンしんちゃん」 が、 
教育上問題があるとして、放送時間帯が変更されたとか、
される予定だとかいった、そういうニュースだった。

いったいどういうこと…?

少なくとも10年前にバルセロナで 「クレヨンしんちゃん」 が放映されていた。
それが10年経った今ごろになって、「教育上問題がある」 とはナンなのだ。

遠く離れた異国を旅しているとき、ホテルに戻ってホッと一息つくと、
テレビに、わがニッポンの 「クレヨンしんちゃん」 が映っていた。
…あのときの懐かしくて嬉しかった気持を思い出すと、
無闇にこの番組を非難する気にはなれないし、
今回のスペインでの 「何を今さら」 の対応にも疑問を感じる。

「クレヨンしんちゃん」も、世界の各地で放映されているわりには、
あちらこちらで問題視されて、ちょっと気の毒過ぎ~ですよねぇ。

これが 「サザエさん」 だったら、何の問題もないのでしょうけど。

 

 

 

 

 

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アクセス数にびっくり

2011年06月29日 | 日常のいろいろなこと

先ほど、このブログの編集画面を見て、ゲゲゲゲ~っと、のけぞった。
昨日のアクセス数が、いつもと1ケタ違っていたのである。
「禁酒生活1ヵ月レポート」 に対するアクセス数である。

数字を見た瞬間、寝ぼけているのではないか?…と思った。

閲覧数  5,735
訪問者数 3,219

…という数字が出ていたのである。 

ちなみに、その前日は、

閲覧数  522
訪問者数 250 

…で、今回の10分の1以下である  (いつも、そんなものなのだ)。
そのランキングは、160万1,292のブログ中、4,697位だった。

しかし今回のランキングを見ると、160万1,642のブログ中、54 位だった。

なんかの間違いじゃない…?

いつも何千位というポジションにいるので、54位というのは信じ難い。

普段から特にランキングに一喜一憂しているわけではないけれど、
アクセス数が多いと、それだけ励みになるのは、当然のことだろう。

しかしこれだけ極端な数字が出ると、なんでやろ…? と考えてしまう。

1ヶ月禁酒をしたというだけの話で、これだけアクセス数が増えるわけ?

ブログを書くのは好きだけど、ブログの仕組みがよくわからない僕は、
こんなことにウトく、ただ、なんでやろ…? と首をかしげるばかりだ。

考えてみれば、訪問者数とか閲覧数とかの意味も、よくわからない。

そこで、ネットでちょっと調べてみた。
(ブログをしている人なら誰でも知っているのでしょうけど、僕は…)

それによると、訪問者数(IP)というのは、文字どおりアクセスしてくれた人の数。
閲覧数(PV)というのは、その人たちが見てくれたページの総数…ということだ。

たとえば、AさんとBさんとCさんの3人が、のんブログを訪問してくれたら、
この場合は訪問者数が3ということになる。それは、まあ、わかる。

で、閲覧数というのは、のんブログを訪問してくれた3人の方のうち、
Aさんは1ページ読み、Bさんは2ページ読み、Cさんは3ページ読んだ場合、
閲覧数は6、ということになる…ということだ。

つまり今回は、3,219人の方々が、延べ5,735ページにアクセスしてくださった…
…と、まあ、そういうことになるみたいである。

それがどうしたん…? と言われても返答のしようがないのですが。

でもやっぱり、これほど多くの方々に見ていただいたことは、望外の喜びである。

それにしても。

なんでやろ…? 

 

 

 

 

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禁酒生活1ヵ月レポート

2011年06月28日 | 心と体と健康と

禁酒をして1ヵ月以上が経った。 今日でちょうど5週間だ。

20歳の時に飲酒を始めてから今日までの何十年というもの、
1ヵ月以上も飲まなかったというのは、これが初めてであろう。

職場の野球チームの練習中に足を骨折して仕事を休んでいたときも、
生まれて初めて不整脈が出てしばらく安静にしていたときも、
その不整脈の心臓カテーテル手術で入院をしたときも、
糖尿病の数値が上がり医師から禁酒を促されたときも、
一過性脳虚血発作で約2週間自宅療養したときも…

それぞれ、一定期間、禁酒をしたことはある。

しかし、どれも最大で約3週間までで、1ヵ月も続けていたことはなかった。
しかも今回は、やむを得ぬ事由ではなく、自分の意志で行ったものである。
そこのところが、これまで経験済の禁酒とは大きく意味合いが違っている。

一時は専門病院へ行き、アルコール依存症の治療を受けようと思った。
自分の意志だけで禁酒するなど、絶対に無理だと思い込んでいたから。

そして大阪・天王寺にある専門クリニックへ電話をした。
電話に出られたケア・マネージャーさんと話をしたあと、
いよいよ治療を受けることを決め予約申し込みをした。
それでは2週間後に来てください…ということになった。

その2週間の間、自分の意志で禁酒をした。それほど辛くはなかった。
再びクリニックに電話し、ケア・マネさんに  「自分で出来そうだから」
と言い、もし出来なくなったときには治療を受けますから、と伝えた。

この事実経過が、僕にある種の覚悟を植えつけることになったのだろう。
今になって思えば、クリニックに電話したことが、大きな転機になった。

1ヵ月余りの禁酒で、体の調子や生活内容がどう変わっのたか…?

 ………………………………………………………………………………

体調にはいろいろな変化があった。

睡眠障害がさらにひどくなったこともそのひとつだったけれど、
禁酒しはじめてから数日経ったある日、突然「頻尿」が起きた。
トイレへ行って30分ほどしたら、またオシッコに行きたくなる。
それが2日間ほど続き、こりゃ~困ったことになったとビビッた。
ただでさえ、お医者に行くのがイヤなのに、こんな症状で行くなんて…

落ち込んでいると、3日目くらいから普通に戻ったので、ホッとした。
禁酒と関係あるのかないのかわからないけれど、初めての経験だった。

そんな初めての経験が他にもあった。

ある朝、部屋で物を取ろうとしゃがんだ瞬間に、背中に激痛が走った。
「あ、痛っ。 うぅ…」 とその場にうずくまり、そのまま動けない。
ちょうどモミィを幼稚園に送っていく直前だったが、
妻に代わってもらい、1時間ちょっと寝転んだままだった。
痛みは徐々にゆるみ、2日後には普通に戻った。

ブログを書き終えた後、急に吐き気とめまいと寒気がして、
床に座り込んでしまったこともあった。

めまい、吐き気、寒気には、その後も一定期間悩まされた。

腰痛、とくに股関節あたりの痛みが激しくなったこともあった。

最近では、前回書いた指先のつぶつぶもあった。
(美人女医さんのおかげで劇的に治り始めていますが)

どの症状も禁酒との因果関係はわからない。
禁酒しなくても、そんな症状が出ていたかも知れない。

しかし、ものの本によると、禁酒には過度なストレスがかかり、
そのストレスから、体のあちらこちらに異変が起こりやすい…
ということも書かれてあったので、無関係ではないかもしれない。
耳鳴りも最近、かなり大きくなり、今まで以上に悩まされている。
さまざまな形で 「禁断症状」 みたいなものが出ていたのだろう。

禁酒そのものは、さほど辛いものではなかった…
と前述したけれど、それは 「思ったほど…」 という注釈つきであり、
実際は、全くないということではなく、やはりそれなりに辛いものだ。

飲みたい! …と思うことはしょっちゅうある。
それより何より、ビールのない夕食、というのに戸惑う。

夕食が近づいてくると、晩酌の楽しみを思ってワクワクする…
そういう永年の習慣がなくなるというこの「喪失感」は大きい。
その時間帯にぽっかり大きな穴が開いたような気分である。

これまで1時間以上、時には2時間ぐらい、食卓に座っていた。
ビールやチューハイを飲みながら、しゃべって食べて、という夕飯。

それが、いきなり白いご飯を前にしても、何をどんな順序で、
どんなスピードで食べていいのやら…
そんなことすら、わからない。 (アホやがな)

仕方ないのでジンジャエールをビール代わりに飲んでいる。
それでも夕食に30分もかからないのだから、拍子抜けする。
これで1日が終わってしまうのかと思うと、あまりにも寂しい。

…が、それも、まあ、気持ちの持ち方次第なのだろうとは思うけど。
もともとお酒を飲まない人が、夕食を寂しいとは思わないでしょうからね。

うちの妻にしても、アルコールはいっさい口にしない。
結婚以来、ずっ~といっしょに夕食をしているというのに、
どんなペースで僕の長い晩酌につき合ってくれていたのだろう、と改めて思う。

2年余り前に仕事を退職して、日常生活は激変したけれど、
今回、禁酒により、また生活が激変したわけで、
しかも今回の「激変」のほうが、より強烈にわが身に応えるのだ。

しかしこの「激変」が悪い方にばかりに向いているわけではない。

肝心の、良くなったことについても、書かなければならない。

「禁断症状」をほぼ乗り越えたと思われる今は、体調は上向きだ。

当然のことだけど、禁酒によるプラス面もいろいろと出てきている。

何より、これまでの慢性的な下痢症状がなくなった。
これまで、毎朝、お腹をこわしたような状態だったのが、
これが自分の体か…? と驚くほど、しっかりした便通に変わった。
これだけでも、大きな変化である。

次にビールからの摂取カロリーがなくなった分、体重が減った。

気になっていたお腹のポッコリも、かなり引っ込んできた。
少し窮屈だったTシャツも、ゆったり…な感じで体を包んでくれる。
ジョギングをしていても、体のダブつきを感じなくなり、軽快になった。

二日酔いがないので、怠けグセも少しは影を潜めたのか、
スポーツジムの水泳にも、ほぼ毎日通っている。

また、夕食後の時間が増えて、いろんなことが出来るようになったが、
特に、モミィに買ったエレクトーンを、自分でも練習するようになった。

本屋さんで幼児用のピアノの教材を買ってきて一人で練習をしてみる。
右手でメロディは何とか弾けても、同時に左手で伴奏を弾くのが難しい。
両手の指をたどたどしく動かして 「メリーさんの羊」 などを弾いたりしている。

昔から音楽は嫌いではないので、夕食後のひととき、
酒に酔う代わりに、鍵盤を叩いて「ピアニスト気分」に酔うのだ。

そんなとき、禁酒もいいものだなぁ … とちょっとだけ思ったりする。

まあ、あくまでも、ちょっとだけ … ですが。

 

 

 

 

 

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指の先のつぶつぶ

2011年06月25日 | 心と体と健康と

半月くらい前、左手薬指の第一関節より上、つまり指の先のほうに、
ぷつんと、直径1ミリあるかないほどの小さなツブが出来た。

さわってみると、痛い。トゲが刺さっているような痛さだった。
何だろうと思いながらも、そのうち治るだろうと放置していた。

すると、すぐそばにまたひとつ、そしてまたひとつ…と、
同じ指先にそれが増え始め、やがて古いのはつぶれて皮がめくれ、
しかし、新しいものがまたぷつんと出来てくるという具合に、
その指先だけ奇妙なつぶつぶだらけとなり、異常な様相を呈してきた。

気がつくと、指の爪のほうの側にも、つぶつぶが出始めた。
ぐるりと360度、つぶつぶである。

なんじゃ、これは…?

お医者へ行かず、傷テープを貼りながらプールで泳いだりするものだから、
テープを外すと指先はふやけ、ずるりんと大きく皮がむけ、
むけた皮の中にもつぶつぶが出来、むけていない部分にも出来る。

放っておいて治るどころか、いくらでも悪くなっていくみたいだから、
昨日、妻に勧められるまま、隣接市にある初めての皮膚科へ行った。

診察室には、濃い目の化粧をした若くて綺麗な女医さんがいた。
医院とは思えない、なにか場違いな雰囲気が漂っていた。

患部の皮膚の一部をピンセットで引き剥がし、顕微鏡で調べてもらった結果、
「大丈夫です。陰性です。感染するようなものではありませんから」
ということであった。
「症状から見て、カンポウ、ですね」と、長い睫毛をパチパチさせながら、
美人の女医さんは、「汗泡」という文字を、メモ用紙に書いて見せてくれた。

副腎皮質ホルモン剤の軟膏を出してもらい、1日2回塗ること、
塗ってから1時間以上は水に濡らさないこと、などの注意を受け、
10日後に経過を見るのでもう一度来てください、ということで診察は終わった。

今朝も、朝一番に左手の薬指に軟膏を塗った。
多いめに塗ると早く治るような気がするので、コテコテに塗る。

だから、今こうしている時も、左薬指の先のほうはベタベタ状態だ。
パソコンのキーがこの指では打てないので、なんだか不便である。

左手の残りの4本の指も勘が狂って、入力がスムースにいかない。
わずか指1本が、これほどまでに全体の入力リズムを狂わすとは。

今日は 「禁酒1ヶ月達成!」 という記事を書くつもりだったけれど、
こんな調子ではちょっと無理なので…

今日はこれで店じまいです。 
どうも、お愛想なしで。

ではみなさん  Have a nice weekend !

 

 

 

 

 

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「一人だけの男」 の井戸端

2011年06月23日 | 日常のいろいろなこと

ほぼ毎日、午前10時頃から12時過ぎまで、スポーツジムのプールへ行っている。
(正確に言うと、フィットネスクラブ 「コスパ」 のプールですけど)

通い始めて2年近く経つが、おかげで苦手だったクロールも少しはマシになり、
最近は手足をバタバタさせる癖も改善され、ゆとりを持って泳げるようになった。

水の中をふわふわと漂うように泳いでいると、自分の身体が自分でないような…
不思議な感覚が全身を包み込み、心の隅々まで潤してくれる。

 ………………………………………………………………………………

6月に入ってからはたいてい毎日通っているが、その前の5月は、
体調を崩したり、いろいろなことが重なったりして、ほとんど行かなかった。

6月初旬、久しぶりにプールへ行ったとき、
多くの女性の方たちから声をかけられた。

「あらぁ、お久しぶりね~。心配してたのよ」
「長いこと見なかったけど、どうしてたの…?」
「もう、やめちゃったのかな~と思ったわ」
「どこかお具合でも悪かったのですか…?」

そう聞かれるたびに、
「いえ、まあ、ちょっとサボっていただけで…」
と、ひたすら恐縮する僕であった。

毎日同じ時間帯に同じレーンで泳いでいる人の約8割は女性である。
プールの端で休憩しながら、おしゃべりに花を咲かせる。

ほとんどの女性はニコニコ顔で、仲間も多いみたいだけれど、
男性のほうはムッツリ顔で、ひとり黙々と泳いでいる人が多い。

休憩なしで1時間前後泳ぎ続けることは僕にはとうてい無理だから、
25mプールを2~3往復ほどしたら、プールの端に立って休憩する。
そこへ後ろから泳いできた人がやって来ると、
「どうぞ、先に行ってください。僕は休憩中ですから」と声をかける。
「はい。ありがとうございます」とUターンして泳ぎ続ける人もいれば、
「あたしもしんどいから休憩しますわ」
と、横で一休みする人もいる。
そんなとき、ちょっとした会話を交わしたりする。

そういうことが積み重なって、顔なじみの人たちが増えてきた。
中には若い女性もいるが、たいていは僕と似たような年齢の女性たちだ。

6月初旬に久しぶりに行った時、そんな人たちから声をかけられたのである。

しかしまぁ、ドサクサにまぎれて(笑)、いろんなことを聞いてくる人たちもいた。

お仕事は何…?
お住まいはどこ…?
ずっとこの町に住んでいるの…?
ここへは自転車か何かで通っているの…?
お年はおいくつ…?  昭和何年生まれ…?
な~んて、最後は決まって年齢を聞かれるのである。

「昭和24年生まれです」と言うと、
「ええ~っ、そしたら、お孫さんも…いてはるの?」
などと聞かれ、「います」 と答えると、また他の人が、
「可愛いやろな~」 「何歳?」 「男の子? 女の子?」
など、次々と質問が途切れることなく続き、次は、
「うちは孫はもう、中学へ行ってますねん」 とか、
「ダンナと2人暮らしで退屈やし、早く孫の顔が見たいわ~」
などと、水泳そっちのけで、話題はどんどん広がっていく。 

そこへまた別の女性が泳いで来て、
「どうしたん? みんな、えらい盛り上がってるやないの」
と、話に加わってくるので、プールの隅っこはますます井戸端化していく。

ふと見ると、レーンでは誰も泳いでおらず、
みんな隅でかたまって話している…という風景も、珍しくない。

その井戸端に 「一人だけの男」 である僕が交じっているのである。

そうそう。  「一人だけの男」 と言えば…

毎日モミィを送り迎えしている幼稚園でも、
ほとんどがママ、つまり女性で、男性は僕の他は1人か2人しかいない。

さらに、モミィに付き添って週一度通うヤマハ音楽教室に至っては、
教室内は、もう、先生も子どもも保護者も、ぜ~んぶ女性である。
ここでは僕は、100パーセント 「一人だけの男」 なのだ。

まあ、そんな状況だから、だんだんそういう環境に慣れてきた。

今ではすっかり、プールで女性たちとの井戸端を楽しんでいる僕なのである。

井戸端というよりプール端 … と呼んだ方がいいかも知れませんけどね。

 

 

 

 

 

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父の日とサボテンの花

2011年06月21日 | 日常のいろいろなこと

梅雨時だから仕方ないものの、毎日のように雨が降り、うっとうしい。
洗濯物が、なかなか乾かない(笑)。

一昨日は父の日だった。

カーネーションに象徴される5月のさわやかな季節の母の日に比べ、
父の日は、梅雨時のじめじめした時期に、
贈られる物と言えばネクタイやベルトなど、
ギューギューと締めつけられるものばかり。
ちょっと差がありすぎるんと違うか…?

と思っていたら、博識な doiron のブログを読むと、

この父の日の歴史をたどると、
その起源は南北戦争にまで遡り、
アメリカ大統領の演説などを通じて
人々に認知されてきたという由緒正しい日なのです。
決して、「母の日があるのに、なぜ父の日がないんだ」
という親父のひがみで生まれたわけではないので、
父の皆さんは胸を張って主張してください。

…と書かれてあった。

そ~か。 なるほどなぁ。 ひがんではいけないのだ。

その父の日には、次男のお嫁さんから毎年プレゼントをもらう。
現役の頃はネクタイをもらったこともあるが、最近はお酒が多い。
僕が何を一番喜ぶかを、彼女はよ~く知ってくれているのである。

しかし、今、僕はお酒をやめている。

先日、次男夫婦が1歳半の子を連れてわが家に遊びに来たとき、
僕が禁酒中だと告げると、次男のお嫁さんは、
「えぇ~! ほんまですか…? じゃぁ、父の日には何を…?」
贈ったらいいのだろう? という、とても困った顔をした。

僕はそんな彼女を気の毒に思い、
「わざわざ気遣ってもらわなくてもいいから、何もいらんよ」 
と言ったけれど、19日の父の日の午後、贈り物が届いた。

中身はサボテンだった。
お礼のメールを送ると、
「お酒以外に思いつかなく、最終的に私の趣味に走らせてもらいました」
という返信が来た。彼女はサボテンは可愛いので好き、とのことだった。



   

 

サボテンは、実は僕も好きなのである。

5年ほど前、ホームセンターで鉢植えのサボテンを買ってきて、
窓際に置いて、毎日それを眺めて気分を和ませていたことがある。

でも… それにしても、サボテンはいっこうに大きくならなかった。
そのことを近所の園芸通のおばさんに話したことがあったが、ある日、
「これ、しばらくお家に置いといて」と、サボテンを2鉢持って来てくれた。
「夜に花が咲くのよ。楽しみにしておいてね」
近所のおばさんは、僕を慰めてくれるように、そう言った。

これまでの人生、いろんなものを人から借りたけれど、
サボテンを借りたのは、後にも先にもこれ一度だけである。

そして、夕食後、それはそれは見事に、サボテンの花が咲いた。



  
  左端が買ってきたサボテン、あと2つが、借りてきたサボテンです。
   


その昔、1969年に 「サボテンの花」 という米映画が公開された。
熟年男と若い女との恋愛に、熟年女が絡む一級のラブ・コメディだった。
熟年男のウォルター・マッソーと熟年女のイングリッド・バーグマン。
2人の恋が実るラストシーンは、多くの映画ファンを魅了した。
そのラストシーンで、鮮やかに咲いたサボテンの花が映し出されるのだ。

サボテンの花言葉は、遅咲きの恋…?

そんな昔のことを、思い出したりする。

財津和夫の歌にも「サボテンの花」というのがあった。

約20年前に放映されたTVドラマ「ひとつ屋根の下」の主題歌でもあった。
(ドラマには江口洋介、酒井ノリピー、福山雅治らが出ていた)

「サボテンの花」の歌は、ちょっと切ない。

「ほんの小さな出来事」から、彼と彼女の間の愛に傷がつき、
彼女は、編みかけの手袋も、洗いかけの洗濯物もそのままにして出て行く。
彼は彼女のことを忘れられない。
やがて彼女の育てたサボテンが小さな花を咲かせるが…
それでも彼女は戻ってこない。 

サボテンの花言葉は、叶わぬ恋…?

そんなサボテンにちなんだ面白い話がある。

「サボテンは、毎日怒鳴ったり、ののしったりしたら、よく育つ」 というのだ。
 
つまり…

サボテンに向かって、「こら! お前なんか大嫌いだ。バカバカバカ!」
などと、来る日も来る日も叫び続けると、やがてサボテンが怒りだし、
トゲが攻撃的になって、屈強かつ美丈夫なサボテンに成長する。

逆にあまりに可愛がると、サボテンにトゲがなくなり丸くなってダメになる…
ということなのだそうである。 いまは亡き中島らもさんが、そう書いていた。

ほんまかいな…?

しかし、父の日にもらったサボテンに「バカバカ~」なんて怒鳴っていれば、
それを見て次男のお嫁さんは、
「お父さんは、やっぱりお酒以外のものはみんな嫌いなんや」
とガッカリすると思うので、決してそんなことは言いませんけど。

さて、このサボテン。 花が咲いてくれるのは、いつ頃だろうか。

 

  

 

 

 

 

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神様がくれた(?) Tシャツ

2011年06月19日 | 日常のいろいろなこと

5月25日から禁酒を始めて、今日で数えて26日目になる。
(まだ26日か~。長いなぁ。もう1年近くも経ったような気がするよ)

こんなに長い間お酒を飲まなかったのは、あまり記憶がない。

体調や日常生活にいろいろな変化が出てきているが、
そのことは、禁酒1ヶ月を達成した時に詳しく書くことにする。

今日は、とりあえず、この写真 … っていうことで。

                   


 


えへへ~。

昨日、スポーツジムからの帰りにスーパーへ寄ったとき、
衣料品売り場でこのTシャツを見つけました。

別に Tシャツを買おうと思っていたわけではないのに、
たまたま売り場を通りがかって、目についたのがこれでした。

このTシャツが、積み重ねられた一番上にあったのですが、 
同じものは他になく、どうやらこれ一枚キリだったようです。

しかもそれが…
最近スーパーでは数少なくなってきたSサイズだった。  ぴったり~。

これは禁酒の神さまが僕に 「着よ」 とおっしゃっているのに違いない。

僕は980円の値札のついたそのTシャツを手に、レジへと向かった。




  


さっそく、着てみました。

しかし、これで表を歩くのは、さすがに恥ずかしいですけどね。
 

     

 

 

 

 



 

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東野圭吾 「手紙」 のこと

2011年06月17日 | 読書

いい本を読み終えると、ふつう、感動する。
「感動」とは便利な言葉だ。
「いやぁ、サイコーに感動しました」
「もう感動、感動の連続でしたね~」
「感動で胸がいっぱいになりました」
などなど。

でも、あまり感動ばかり連発してたら、あかんど~。
…な~んちゃって。

と、ダシャレを言っているような場合ではない厳粛で深刻な一冊の本を読んだ。

先日のブログ 「初めての東野圭吾」にコメントをくださった見知らぬ方が、
東野圭吾の「手紙」を、次のような簡潔な文章で勧めてくださった。

「これもとても考えさせられる良い作品です。他の東野ミステリとは毛色の違う
 ヒューマンな人間ドラマですが、印象に残る言葉がたくさんあり一読の価値ありです」

僕はさっそく「手紙」の文庫本を買い求め、その小説に没頭した。

かなり以前に、映画の「手紙」は見ていた。
テレビドラマの「白夜行」で主演をした山田孝之が、ここでも主人公だった。
それこそ「感動」の涙を流さずにはいられない、心が熱くなる映画だった。

しかし、今回原作を読み、映画は原作とかなり違っていることを知った。
筋書きだけ追えば映画とほぼ変わらないのだが、受ける印象がまったく違う。

映画は原作を元にして独自に仕上げられているのだから、当然だけど、
映画と小説はそもそも別ものであるということを、改めて知らされたのである。

いまさらストーリーの解説でもないが、書かなければ後が続かないので書きます(笑)。
ちょっと長いですけど…。

ご承知のように、これは両親のいない兄と弟の物語である。
…というか、大半は弟のほうの物語なんだけれども。

勉強好きな高校生の弟を大学に進学させたい一心で、兄はある裕福な家に空き巣に入る。
仏壇から分厚い1万円札の束の入った封筒を見つけ、ポケットに入れた彼は、
それだけでさっさと逃げればよかったのに、台所で天津甘栗を見つけ、
弟の大好物だったことを思い出し、「いいお土産になる」とポケットに入れる。
グズグズしているうちに、別の部屋で寝ていた老婆が起きて、ふすまを開ける。
警察へ電話しようとする老婆ともみ合い、持っていたドライバーで彼女の喉を刺す。
そして、強盗殺人、という途方もない重罪を背負って、兄は刑に服するのである。

以後、弟は「強盗殺人を犯した男の弟」というレッテルを貼られる。
ここから、この小説は弟の直貴(なおき)に次々起こる辛い出来事に密着する。

アルバイト先で、「そのこと」がわかると辞めさせられる。
次にアルバイトをしたエスニック料理店には人の良い店長がいたけれど、
兄が人を殺して服役中であることを知ると、「辞めろ」とは言わないものの、
それとなく重い雰囲気になり、やがて周囲の皆が知って、変な雰囲気になる。
仕方なく、そこも辞めざるを得なくなる。

大人とは不思議な生き物だ。
ある時は差別なんかいけないといい、ある時は巧妙に差別を推奨する。

直貴はそれを痛感する。

大学の通信教育のスクーリングで出会ったミュージシャンの寺尾から仲間入りを勧められ、
直貴はバンドのボーカルとしてライブの舞台に立ち、初めて生きる喜びに浸る。

寺尾は、直貴を誘ってカラオケに行ったとき、
ジョン・レノンの「イマジン」を歌った直貴の非凡さを見抜いたのだ。
この「イマジン」も、本作のキーワードのひとつである。

観衆たちは直貴の美声に拍手を送り、バンドはやがてプロダクションの勧誘を受ける。
しかしプロダクションの身上調査で兄のことが発覚し、直貴はメンバーから外される。

何で兄貴のために俺がこんな目に、と直貴は兄を恨み、絶望の渕に沈む。

やがて、通信教育から昼の大学へ通うようになった直貴に最も大きな転機が訪れる。
資産家の令嬢である朝美と知り合い、朝美は積極的に直貴を愛するようになる。
兄のことをどうしても打ち明けられないまま、直貴は朝美と愛を交し合う。
そして、朝美に請われるまま、彼女の両親に会うことになる。

「(家柄が)釣り合わないんだよ」と、朝美の両親や親戚が、直貴を疎んじる。
そこへ兄のことが発覚し、これが致命的になったことは言うまでもない。

朝美は「兄さんは兄さん、あなたはあなたでしょ。でも、なんで隠していたの?」
その問いに、直貴はうまく答えられない。もう、何がどうなってもいいと思う。
「あたしは親と絶縁して家を出るわ」と言い放つ朝美に、顔を曇らせる直貴。
「どうしたの? あたしがあの家から離れたら、あたしには関心がなくなるの?」
「まあ、そういうこと」
と、自暴自棄になった直貴は、そう言ってしまい、すべてが終わる。

そんな時にも、獄中の兄からせっせと毎月手紙が来る。
「お袋と食べたあのときのレンコン、おいしかったね」
などと書いてくる兄の手紙を見て、
「何を呑気なことを言ってやがる。こっちの苦労も知らないで」
と、兄への憎悪感がいよいよ膨れ上がってくる。
兄は厚い壁に守られている。しかし、こっちは…
毎日のように世間の厳しい風にさらされ、次々と人生を踏みにじられていくのだ。

直貴は兄の手紙を破り捨て、住所を移り、一切の連絡を絶つ。

そんな直貴の事情を知りながら、純粋に接してくれる由美子という女性がいた。
彼女は、刑務所にいる兄に、直貴になりすましてワープロで手紙を書いていた。

直貴は新たに電気店に就職し、ようやく人並みの生活を送り始めた。
しかしそれも、ある事件がもとで、兄のことが明るみに出て、左遷される。

これでもか、というほどに、直貴の行く道は差別と偏見に満ち溢れていた。

直貴のあまりにも過酷な境遇に、読んでいるうち、暗澹たる気持になってくる。
読めば読むほど、辛くなり、時々本を閉じて、ためいきを漏らす。

直貴が人並みの幸せをつかみかけていくシーンでも、読んでいるほうは、
このあと、必ず兄のことが原因で、奈落の底に突き落とされる…
それが百パーセント予測できるので、その展開が喜べない。
常に、絶望的な気持ちでこの本と向き合っていかなければならない。

小説の終わりの方で、直貴は由美子と結婚し、子どもができる。
しかし、その子どもも、まわりから後ろ指をさされ、差別されるのだ。

そんな救いようのない物語に、僕たちはひとつのヒントを与えられる。

電気店の職場を左遷されたとき、そこへ社長がやってきたのである。

映画でも、このシーンは話題になっていたが、社長は直貴に、
「会社にとって重要なのは、その人物の人間性ではなく社会性なんだ」と言う。
そして、「差別は当然なんだよ」と付け加える。
「犯罪者やそれに近い人間を排除するというのは、しごくまっとうな行為なんだ」
「君がいま受けている苦難もひっくるめて、君の兄さんが犯した罪の刑なんだ」

直貴は思う。
自分の現在の苦境は、兄が犯した罪に対する刑の一部なのだ。
犯罪者は自分の家族も社会性をも殺す覚悟を持たねばならない。
そのことを示すためにも差別は必要なのだ。
これまで自分が白い目で見られるのは、
周りの人間が未熟なせいだと決めてかかっていた。
これは理不尽なことなのだと運命を呪い続けていた。
それは甘えだったかもしれない。
差別はなくならない。問題はそこからなのだ。
そこからの努力を自分はしてきただろうかと考え、直貴は心の中で首を振った。
いつも自分は諦めてきた。諦め、悲劇の主人公を気取っていただけだ。 

このくだりは、何とも重い。

小説のラストは…
バンド仲間だった寺尾からもう一度歌わないかと誘われ、
2人で、千葉の刑務所へ慰問コンサートに行くことになった。
そこには、直貴の兄が服役していた。

寺尾と2人で舞台に立った直貴は、後ろの方で合掌している兄を見つけた。
直貴はマイクの前で立ち尽くし、曲が始まっても、声が出なかった。

 …………………………………………………………………………

読みながら、沈没していく船のように、どんどん気持ちが沈んでいく…
と言っていいかもしれない。

差別はいけないことだ、と考えている僕たちではあるが、
本当に、心の底からそう思っているのか…? 
と、この作品に問いかけられているようである。

読後、一口で「感動した」とは言えない重いものが残った。

結局あらすじだけの紹介に終わってしまったけれど、
この本に関する感想は、簡単に書き表せないということを、
いま、この文章を綴りながら徐々に感じて始めている。

もう少し、自分の中で熟成させてから、またここに書こうと思う。

きょうはこれで筆を置きます。

コメント欄でこの小説をお勧めくださった方に、心からお礼を申し上げます。

 

 

 

 

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生活保護と被災地救済

2011年06月15日 | ニュース・時事

僕の元職場だった大阪府松原市役所に勤めている U君から、一昨日メールが来た。
ボランティア休暇を取り、岩手県に入って頑張っている、ということだった。

U君は、震災から3ヶ月が経つというのに、被災家屋のほとんどが、
人が住めるようにはなっておらず、瓦礫ばかりで原型が見えない状態で、
復旧が長引くほど被災者は戻らなくなり、町や村が消えてしまうのではないか…
と心配し、政府は、二重ローンなどに苦しむ被災者の人たち一人ひとりに、
救いの手を差し伸べなければ、町や村の再生は不可能なのではないか? 
…との思いを、メールで送ってきた。 U君の言うとおりだと思う。

「個々の被災者にまで手が回らない」では済まされない政治の怠慢であろう。

内閣不信任案提出というカラ騒ぎのあと、今度は参院で問責決議がどうのこうのと、
政治家たちは相変わらず災害復旧そっちのけの政権争いに浮身をやつしている。

被災者の人たち一人ひとりの、まさに今の窮状を救うことが焦眉の急だというのに。

毎日、同じようなことばかり繰り返される「菅おろし」の政局報道にはうんざりだ。

その一方で、今日はこのニュースが気になった。

大阪市の生活保護の受給者が全国最多の15万人を突破した、というのである。
全国平均の受給率は1.57%なのに、大阪市の受給率は5.63%にも上っており、
大阪市民の18人に1人が生活保護受給者という異様な事態なのだ。

生活に困窮しておられる家庭への生活保護はむろん必要だけれど、
中には単に働かないだけの受給者もいるし、暴力団員が受給しているケースもあった。

かつて松原市役所にも、生活保護を受けながら、毎日のように市役所へやって来て、
行政の施策や職員の態度などに延々と文句つけ、時間つぶしをして帰る男がいた。
ねちねち・だらだらと市役所に居座っている暇があれば、働け、と言いたい。
この男は精神的な病気という医師の診断書をふりかざして、働かないのであった。
こんな男に税金を投じて生活を保護してやる必要など、どこにあるのかと、
違う部署で働いていた僕は、不思議で仕方がなかった。

本当に働く気があれば、生活保護に頼らなくてもやっていける人は多いはずだ。
それが、いったん受給者になったら、それに味をしめてしまい、自立しようとしない。
誤解を恐れずに言えば、そういう所帯が、かなりあるのではないか…と推測される。

大阪市のようにどんどん受給者が増えると、認定が甘いのでは、と思わざるを得ない。

生活保護費の負担割合は、国が4分の3で地方が4分の1である。

平松大阪市長は、今回のことに関して「生活保護費は国が全額負担すべきだ」
と会見で語ったが、まことにピント外れのお寒い発言と言わなければならない。

もし全額を国が負担するということになれば、どういうことになるか…?

市町村職員による生活保護の認定が、今以上に甘くなるのは目に見えている。
今でも国や地方の膨大なお金が、この生活保護費に注がれているのである。
ただでさえ逼迫する国の財政が、もはや立ち直れないほどの打撃を被るだろう。

震災の影響で、生活保護受給者は大阪市のみならず、全国的に増加しているという。

それならなおさらのこと、不正受給やそれに近い灰色受給を排除しなければならない。

被災地の人々が、どうにもならない窮地に陥っていることは、はっきりした事実だ。

働けるのに働こうとせず、生活保護という「特権」を手離さない「灰色」をしっかり見直し、
本当に困っている被災者救済のほうに財源を投入するのが筋というものだろう。

U君からメールをもらったあと、
「生活保護受給者がますます増加」 のニュースを見て、
どうも納得のいかない思いが、モヤモヤと胸の中にくすぶり続けている。

 

 

 

 

 

 

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絹川さん V  日本陸上選手権

2011年06月13日 | スポーツの話題

   
  女子5,000m、15分9秒の自己最高記録でゴール。
 


昨日の陸上
日本選手権の最終日。
女子5,000mが終わった瞬間、僕はテレビの前で「やったぁ~」と大きな声をあげ、
拍手を送っていた。 仙台育英高校出身で、21歳の絹川愛さんが優勝したのだ。

インタビューで涙ぐみながら話す絹川さんのアップの顔を見ながら、
「あぁ、よかったな~」 という思いだった。

絹川さんには、特別の思いがある。

4年前の2007年6月。
大阪長居の陸上競技場で行われた陸上日本選手権が忘れられない。

僕は連日、1時間ほどかけて自転車で競技場まで行き、スタンドで観戦した。

この大会は、8月に長居競技場で行われる世界陸上選手権大会の選考会も兼ねており、
男子200mの末續、ハンマー投げの室伏、棒高跳の澤野、走り高跳びの醍醐、
そして女子走り幅跳びの池田久美子、1万mの福士加代子ら、
日本の一流アスリートたちが出場していた。 

中でも僕の一番の楽しみは女子1万mだった。

大会何日目だったか忘れたが、夕闇が迫る午後6時半に女子1万mがスタートした。

福士加代子は、真っ黒に日焼けして、精悍さを増していた。
集団の真ん中あたりを走る福士に向かって、僕の横にいたヒゲ面のおじさんが、
「福士っ~、もっと前に出ろ!」と叫んでいる。(どういう関係の人なんや…?)。
先頭を切るのは2人。渋井陽子と、もう一人、同じ三井住友海上の選手だった。

「福士!」
「渋井!」
…など、選手がメインスタンドにさしかかるたびに、力のこもった声援が飛ぶ。

そんな中で、ひときわ目立ったのが、
「キヌカワさ~ん。ファイト!」 という、黄色い声援であった。
最前列に高校らしい制服を着た女の子が数人。僕の席の後ろにも女の子が数人。
「キヌカワさ~ん。ファイト!」
透き通るような可愛い声が、まわりに爽やかに響いた。

「キヌカワさんって、だれ…?」
手元の選手名簿を見ると、絹川愛(めぐみ)という選手だった。
所属は、「仙台育英高校」となっていた。 おぉ、仙台か~!

さきほどから声援を送っている子たちは、同じ高校の生徒たちなのだろう。

レースは残り7周のところ、メインスタンド前で福士が仕掛けた。
先行する渋井を抜き、先頭に出てぐいぐい差を広げていった。
「よ~し、よし、出よったぞ、出よったぞぉ」
と、ひげ面のおっちゃんが嬉しそうに連れの人に話しかけている。

福士が独走態勢に入ったあと、2番手争いは渋井と絹川だった。
「キヌカワさ~ん。ファイト!」の声援も、悲鳴に近くなる。

福士が1位でゴール!
渋井が絹川をふり切って2着でゴール。
そして、絹川がふらふらになってゴールインした。
  
最後の一滴まで全力を出し切ったのだろう。
絹川は、ゴール後、トラックで大の字になってノビてしまった。

しばらくして立ち上がった絹川は、また倒れて、係員に運ばれた。
翌日の新聞によると、そのあと過呼吸症状で救急車で病院へ搬送されたそうだ。

この日から、絹川選手のファンになった。
少し肩のとんがった体型で、全身を使って走るフォームが印象的だった。



   
     ゴール後、大の字になって伸びる絹川選手。



  
    そのあと立ち上がったが (写真右端) …
    写真はいずれも、2007年6月にスタンドから撮影したもの。


 
このレースで3位に入った絹川選手は、大阪の世界陸上への出場権を獲得した。

8月の大阪世界陸上の期間中に、僕は心房細動のカテーテル手術のため、
約1週間、K大学付属病院に入院して、世界陸上も病床のテレビで観戦した。

その世界選手権での絹川愛は、集団の中に埋もれたまま終わった。
期待された福士加代子も、10位と振るわなかった。

翌2008年は北京五輪の年だった。一段と成長した絹川さんを見たかった。
しかし彼女は、足の疲労骨折を始めとする体調不良に見舞われ、
北京五輪代表選考会となったその年6月の陸上日本選手権大会は欠場した。
「絹川、謎のウイルスによる感染症」などという怪しげな報道まで流れた。

それから3年間、絹川さんの名前は、ほとんど聞くことがなかった。
故障に苦しんでいた間、さぞ、失意の日々だったろうと思う。

仙台育英といえば、同校出身で北京五輪男子マラソン金メダルのワンジルさんが、
先日、急死したことも、絹川さんにとってショックだったに違いない。

「地獄を見ましたが、また地上に這い上がってきました」
レース後、彼女はそう語ったという。

いろんなことを考えると、昨日の鮮やかな復活劇は奇跡だったかも知れない。

絹川さんは、このレースで世界陸上A標準記録を突破し、
8月に開催される韓国での世界陸上に出場することになった。

あと2ヶ月。
怪我や体調に十分気をつけて、無事に晴れ舞台のスタートに立ってほしい。

キヌカワさ~ん。 ファイト!

 

 

 

 

 

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初めての東野圭吾 

2011年06月11日 | 読書

は~い、皆さん 「幸せのレシピ」は、いかがでしたか…?
キャサリン・ゼタ・ジョーンズの魅力が満載でしたね~
相手役のアーロン・エッカートも、やさしくてカッコよかったですね~。
それでは皆さん、さよなら、さよなら、さよなら。
(まだ始まったばっかりやがな)

ところで、昨日(10日)の午後9時からの新聞のテレビ欄を見ると、
金曜ロードショー「幸せのレシピ」と同時刻に、隣のチャンネルで、
「東野圭吾・3週連続スペシャル第一弾『11文字の殺人』」というのがあった。 

昨日は見なかったけれど、面白そうなので録画をしておいた。

東野圭吾といえば、今年の新春ドラマで「赤い指」というのがあったのを思い出す。
阿部寛が主人公の刑事役を演じ、なかなか見ごたえのあるドラマだった。

僕はその時、まだ東野圭吾という人の作品を読んだことがなかった。
「とうの」と読んでいたが、実は「ひがしの」だったことも最近に知った。

書店へ行くと、彼の作品群が目立った場所にズラ~っと並んでいる。
多くの作品が映画化・テレビドラマ化され、いま人気絶頂の感がある。

きっと人をひきつけるものがあるのだろう。 何冊か読んでみよう。
…と、最初に手に取ったのが「容疑者Xの献身」だった。

天才数学者がひそかに慕う女性が、執拗につきまとう元夫を、娘と2人で殺してしまう。
彼は、自首しようとするその母子を思いとどまらせ、自分の指示通りに動くように言う。
そうすることによって、彼はその女性に寄せる恋慕の情を
成就させたいと考えたのだ。

そして、母子のアリバイ工作をし、得意の緻密な思考で完全犯罪を企てる…。

久しぶりに密度の濃いミステリを読みながら、ハラハラドキドキの感覚を味わった。
小説は犯人の側から描かれているので、妙に共感し、つい犯人を応援したくなった。

しかし、途中から湯川という物理学者が登場し、事件の謎を解明していく。
彼が、テレビで福山雅治演じた探偵ガリレオであることは、妻から聞いた。
僕はテレビのガリレオ・シリーズを見ていないので、それを知らなかった。

小説は、天才数学者が完全犯罪まであと一歩というところで頓挫し、終わる。

こういうことを言ってはなんだけど、この本を読む前に、
山村美紗 の「百人一首殺人事件」というのを読んだのだが、
小説の醍醐味や、スリル・緊迫感など、まったく比較にならなかった。
直木賞や本格ミステリ大賞を受賞し、年間ミステリベスト1に選ばれたのも頷ける。
僕はこの一作で、すっかり東野圭吾のファンになった。

続けて「トキオ」、「レイクサイド」の2作を読んだ。
でも「容疑者Xの献身」からすると、いずれも読後感は「いまいち」だった。
期待が大きすぎたのであろう。 それでも、楽しんで読むことはできた。

「トキオ」は、トキオという名の息子が過去の世界にタイムスリップして、
若き日の自分の父親と出会い、いろいろアドバイスをしてやるという話だ。
なんだか「バック・トゥ・ザ・フューチャー」みたいだ。

それに「トキオ」といえば、沢田研二に同名のヒット曲がある。
「トキオが空を飛ぶ~」という歌だ。
その曲とこの小説と何か関係があるのかな? と思いながら読んでいたが、
結局そこに触れられないまま終わりかけたので、あぁ、関係なかったのか~
と思ったとたん、小説の最後の最後の一行に、ひょこっと沢田研二が登場し、
テレビの中で「トキオ」を歌っているところで、この物語は終わった。

また筋とは無関係だが、トキオが若き日の父とこんな会話をかわす場面がある。

父の偏った食生活を心配したトキオが「コレステロールが増えるよ」と忠告する。
トキオはさらに続けて「コレステロールって、知ってるだろ?」と訊く。
父は「知ってるさ。 電話代を受けた側が支払うアレだろ」
「それはコレクトコールやがな」

父がボケでトキオが突っ込みの、大阪漫才みたいだ。

そういえば、東野圭吾は大阪の人である。

父とトキオの2人は、犯罪がらみのいざこざに巻き込まれていくのだが、
クライマックスでは、「松原市の古いパン工場」で乱闘が繰り広げられる。
僕が長年勤めてきた松原市が、この小説の最後に出てきたのでびっくりした。
こういうのって、作者が大阪の出身の人でなければ出てこないだろうと思う。

もう1冊の「レイクサイド」も、読んでいて退屈はしなかったが、
ラストで明かされるあまりにも意外な犯人に、少し違和感を覚えた。
な~んとなく、無理があるような、そんな感じだ。
それでも、上質のミステリーとしての鑑賞には堪えうると思われる。

最近また、東野圭吾の文庫本を2冊買った。 「白夜行」と「秘密」だ。
2作ともかなり以前の作品だが、読んでいなければ古いも新しいもない。

そのうち、「白夜行」は、文庫で850ページもあるチョー分厚い本だった。
(本が重過ぎて、夜、ベッドに寝転んで読むには不向きですけど)

その850ページを、3日ほどで読み終えた。
実は、一昨日にこれを読み終えたばかりで、今も余韻が抜けきらない。

これは読み始めたら、ほんと、もうやめられない、止まらない。
読めども読めども、厚い残りページはなかなか薄くなってくれず、
いつ終わるのかと読み急ぐのだけれど、やがて残り少なくなると、
今度は一気に読み終えるのがもったいない気がしてくるのである。

なにせ850ページである。
最初の殺人事件が起こって、それが結末を迎えるまで、19年の歳月が流れる。
そこにはさまざまな人物が登場し、多くの事件が起こる。

物語の中心は大阪で、僕に馴染み深い地名もわんさと出てきて楽しい。

しかし歳とともに記憶力が減退する僕には、この小説はちょっと厳しくもあった。

主人公というものが存在しないので、誰に感情移入していいのかわからない。
章が変わるたびに新しい人物が登場し、新しい事件が起こる。
それぞれ別個の短編小説を読んでいるような気分になるが、
それがまた、過去の人物、事件などと密接に関係しており、
なかなか精緻にして複雑多岐をきわめる。
登場人物を書きとめながら読めばよかったな~と途中で思った。

それでも、一昨日はラストまでの400ページほどを一気に読み終え、
久しぶりにミステリ小説から伝わってくる快い感覚に酔った。

圧倒された…という言葉が、この本の感想に最もふさわしいかも知れない。

本作は、1999年の夏に刊行された作品だというから、ずいぶん時が経つ。
なのに、今年に入ってからこの単行本が書店でやたらに目に付いたのは、
今年の1月に映画化され、大々的な宣伝が行き届いていたからだろう。
本のオビに、ヒロイン雪穂の役を演じる堀北真希が写っていたもんね。

僕が「白夜行」を読み終えたとき、
「それ、だいぶ前にテレビドラマで見たじゃない」 と妻が言った。

話を聞いて記憶をたぐると、思い当たった。
へぇ…?。あっ、あれか…? あれが「白夜行」だったんだ。

そのドラマは、言われてみれば僕も見たことがある。5~6年前だ。
妻が主役の山田孝之の大ファンで、僕も妻の横でテレビを見ていた。
雪穂役の綾瀬はるかを見たのは、それが初めてだったような気がする。

あのドラマのオープニングはあまりに衝撃的だったので、それは覚えている。
でも、毎週見ていたようだけど、次回以降のストーリーはよく覚えていない。
たぶん、それ以降、ビールを飲みながら、ぼんやり眺めていたのに違いない。
だから小説を読んでいても、それがあのドラマの原作とは気がつかなかった。

小説の最後に、ドラマの冒頭と同じ場面が出てきて、初めて2つが重なった。
つまり、テレビドラマのオープニングシーンは、小説のラストシーンだった。

「あぁ、忘れていてよかった~」と心から思った。
ドラマをしっかり覚えていたら、この本の興味は半減していただろう。
まったくストーリーがわからないまま読んでこそ、夢中になれる。

ドラマや映画を見てから小説を読むと、かえって支障が生じるものだ。
第一、犯人や結末がわかっていて読むミステリなんて、面白くもない。

東野圭吾は、これからもいろんな作品を読んでみたい。 
それから言えば、テレビの「東野圭吾・3週連続スペシャル」っていうのも、
うかつには見ないほうがいいかもな~、なんて、今、思ったりしている。

昨晩から東野作品5冊目の「秘密」 を読み始めている。

浅田次郎さんが言ったとおり、酒を飲まないと、本が沢山読める。

 

 

 

 

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「幸せのレシピ」

2011年06月09日 | 映画の話やTVの話など

         

         10日の「金曜ロードショー」で放映されます。
    

夜あるいは昼間からビールを飲んでしまう習慣を断つと、
映画を見たり本を読んだりする時間が増える。 

そういえば、1年ほど前に、作家の浅田次郎さんが、
「酒を飲んでいるヒマがあれば、私は本を読む。
 酒のために時間とお金を浪費している人たちの気が知れない」 
と、新聞に書いていたのを読んで、
う~む、僕も酒にうつつを抜かしているヒマがあればもっと映画でも見なきゃな~、
と内心忸怩たる思いに打たれたことがあったっけ。 

わが家のディスクレコーダーに録画したままだった映画のひとつを見て、
胸が熱くなったことを、前々回のこのブログに書いた。 

その映画 「幸せのレシピ」 が、明日、10日の午後9時から、
日テレの「金曜ロードショー」で放映されるというので、
今日はこれについて書きます。 ネタバレはありませんのでご安心を。

まだ見ておられない方には、ぜひお勧めしたい一本です。

http://www.ntv.co.jp/kinro/

「幸せのレシピ」 は、今年の1月か2月にBSで放映された。 
僕はそれを録画していて、そのままにしていた。 

で、先週、この映画を見て、「あぁ、なんでもっと早く見なかったんだろう」
と、後悔した。 いわばラブコメディだけど、ぐぐ~っと胸に迫るものがあった。

これは2007年の9月に日本で公開された映画だ。
2007年の9月といえば、僕にとっておぞましい耳鳴りが発症した時である。
当時、新聞か雑誌でこの映画の紹介記事を読んだことは覚えているが、
何となく良さそうな映画だという印象はあったけれども、
耳鳴りで混乱していた時なので、映画どころではない、という心境だった。

それから4年近く経ち、やっとこの映画を見ることになった。

ヒロインのキャサリン・ゼタ=ジョーンズが何とも魅力的である。

ずいぶん昔、大阪南御堂会館で 「マスク・オブ・ゾロ」 という映画の試写会を見て、
そこに出てきた若き彼女の、輝くばかりの美しさが、いまでも忘れられない。

その彼女も40歳を過ぎ、こんなに魅力的な中年女性を演じるようになったのだ。
(すでに 「シカゴ」 でアカデミー賞助演女優賞を受賞してはりますけど…)

映画の最初のほうのあらすじだけ、紹介します。

ニューヨークのマンハッタンの有名レストランのシェフをつとめる彼女(名前はケイト)は、
仕事が生き甲斐のすべてだった。 料理人としての誇りも高く、自尊心も強い。 

しかし、自分の腕に自信を持ちすぎ、客から味についてのクレームが来ると、
つかつかとそのテーブルに行き、
「ホットドッグがお似合いよ」と言い放って客を怒らせてしまう。 
レストランの女性オーナーは
「どんなことでも、お客さんの言うことに逆らわないで」
と頼み、いらだつケイトにセラピーの治療を受けさせる。

そんなとき、姉が9歳の娘を乗せて、車でケイトのところへ会いに来ようとしている。
ケイトと姉は、仲が良さそうだ。 姉の娘は9歳でゾーイという。

しかし、悲劇が起きる。
姉の車が交通事故に遭い、姉は亡くなって娘のゾーイが残される。
姉はゾーイと2人暮らしだったため、ゾーイは一瞬にして孤児となる。
ケイトは、ゾーイを引き取り、いっしょに暮らす決意をする。
本業のシェフ以外に、大きな責任を抱え込んでしまうのだ。

ケイトの憔悴ぶりを見かねて、レストランのオーナーは、ケイトを1週間休ませる。

ここから展開されるケイトと姪のゾーイとのやりとりが興味深い。
9歳で過敏なゾーイは、むろん母を亡くしたショックからすぐには立ち直れない。
ケイトは懸命にゾーイを慰め、近くの学校へ転校させ、送り迎えをし、精一杯尽くす。
それでも、はじめての2人暮らしにケイトは戸惑い、ゾーイは時に反抗する。
反抗はするけれど、徐々に心も開いていく。 この映画の一番の見どころだ。
見ながら、なんとなく、わが家のモミィのことを思ったりした。

そんな気苦労な休暇が終わり、ケイトが再びレストランへ出勤すると…

厨房には、副シェフとして新たにオーナーから雇われた見知らぬ男がいた。
ケイトにとってこの厨房は自分の聖域であった。
しかし、今、この男 (アーロン・エッカート) が厨房を仕切っているのである。
それを見て、カッと頭に血がのぼるケイト。

映画はここでギア・チェンジし、次のストーリーへと広がって行く。

これ以上書くと、まだ見ておられない方に迷惑になるので、やめておきますが。

僕はこの映画を部屋で一人で見ていたのをいいことに、何度か涙を流した。
仕事では傲慢なまでに頑固なケイトが、ゾーイには腫れ物に触るように気遣う。
一方、心を閉ざしながらも、ケイトに遊んでもらうと、無邪気に喜ぶゾーイ。 

別に悲しいシーンでもないのに、そんなところで、なぜか涙ぐむのである。

これも歳のせいでしょうか。 ぐすん。 (また涙ぐむ)

 


  
   料理にクレームをつける客に 「反撃」 するケイト。 痛快なシーンだ。



  
  姪のゾーイと暮らし始めたけれど、ゾーイは容易には心を開いてくれない。

 

 
  
新入りの副シェフが気に入らないケイト。  さて、このあと、どんな展開が…?

 

 

 

 

 

 

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2001年苦痛の旅

2011年06月07日 | ランニング

まず、冒頭から上記のタイトルの説明をしなければならない。
これは 「2001年宇宙の旅」 という映画の題にひっかけたダジャレです。
1968年に公開された映画なので、ご存知でない方も多いでしょうね。
しかし、あぁ、ダジャレに説明をつけるとは…。 最悪のスタートだ。 
(しかも、ほとんどシャレになっていない。 とほほ)

さて、今日は久しぶりに朝の6時頃から、大和川堤防へ出て、ジョギングをした。
勤めていた頃は、朝しか走る時間がなかったので早朝ジョギングが日課だった。
しかし、時間が自由に使える身になって、この習慣が崩れ、走る時間が減った。
まったく自由であるということは、 僕の性格からしてどうしても怠惰を招くようだ。

やはり、長年続けた日課が狂うと、生活の質が微妙に劣化する感じがある。

曇天で比較的涼しい中を走っていると、忘れかけていた感覚が戻ってきた。
泳ぐことやら歩くことやら、好きな運動は多いけれど、やっぱり走ること。
これが心身にこの上ない心地よさをもたらす、というのを改めて実感した。
まあ、歩いているのか走っているのか、わからないようなスピードだけど。

走りながら、ふ~む、6月と言えば… 
…と、ある思い出深いマラソン大会を思い出していた。

ちょうど今から10年前の6月だった。

2001年。 21世紀の幕が開いた年である。

その年の3月下旬のある日のこと。
たまたま手に取った読売新聞夕刊に、赤穂100キロマラソンの記事が載っていた。
6月3日に開催されるとのことである。

ランニングをさぼっていた僕は、体重がわが人生最大の数値を示し、
これではいかん、と思いながらもグズグズして、怠け続けていた。

その新聞記事を読み終えた瞬間、何のためらいもなく、決めた。
「うむ。 これしかない! 赤穂へ行こ~」 

当時、52歳だった。
ナマってしまった身体で100キロにチャレンジするのは、かなり難しい。
それに、レースまでの準備期間が2ヶ月しかないのは、ちょっと苦しい。

しかし練習期間が短い方がダレなくて済む、という利点もあるし、
あれこれ考えるより、とにかくやってみようという気持ちが勝った。

さっそく参加申込書を取り寄せ、4月1日から練習を開始した。

ほぼ毎日、走る日が続くと、日常生活もピリッとしはじめ、
気持ちのほうも、何となく充実してきた。
2ヶ月間、練習で走った距離は830km。
体重は5kg 減って、お腹がひっこんだ。

そして、レース開催日の6月3日がやってきた。

場所は 「忠臣蔵」で有名な、あの赤穂である。
赤穂海浜公園の1周5キロの周回コースを20周する。
スタートは午前5時だ (…なので前日は赤穂駅前ホテルに泊まった)。
制限タイムは14時間である。

14時間あれば、なんとかなりそうだけど、
なんたって2ヶ月間での急仕上げである。
完走をめざすには、決して無茶をしてはいけない。
(レースに出ること自体が無茶、という考え方もあるが … むふっ)

14時間すべてを使うつもりでペースを考えなければならない。

午前5時。 パーンという号砲で、スタートした。
選手たちはみんな歓声とともに威勢良く飛び出した。
おいおい、100キロやで。 この先、100キロあるんやで。

僕は集団の最後尾をゆるゆると走った。 

何周か走っているうちに、どんどん気温が上昇してきた。 
その暑さのためか、チラホラと棄権する選手が出始めた。

僕はエイドステーションの水とスポーツ飲料をガブガブ飲んで、
バナナ、梅干、ビスケット、チョコレートなども食べまくった。

80キロ地点を9時間40分で通過したとき、完走を確信できた。

残りの20キロは1キロごとに走ったり歩いたりを繰り返し、
13時間 04分のタイムで、ゴールインすることができた。

制限時間まであと1時間残していたが、走っている人は見当たらなかった。
みんな、すでにゴールし終えたか、あるいは棄権したかのいずれかである。

僕がゴールしたときは、係員らもテントをたたみ始め、
まだレースは終了していないはずなのに、帰る準備などをしていた。
僕はほとんど、というか、完全に、というか、ビリに近い順位だった。

それなのに、不思議なことが起こった。
係員の一人が僕のところへやって来て、こう言った。
「え~っと、○○さん。 50歳代の部で1位です。 おめでとうございます」
「え…? うっそぉ」
わが耳を疑った。 
「いや、ほんとです。 1位です。 どうぞ、これ、優勝メダルです」
そう言って、立派なメダルをくれた。

半信半疑でケースに入ったままのメダルを受け取り、改めて選手名簿を見た。
それぞれ氏名の後ろに年齢が書いてあったが、50代は全部で9人いた。
もし係員が言ったように、僕が50代で1位だったということであれば、
僕以外の50代の選手は、全員が棄権したとしか思えないのである。
つまり完走したのが1人だから、 必然的に1位ということになるわけ。 

思いも寄らぬ 「おまけつき」 でレースが終わった。
あとにも先にも、「優勝」 と名の付く 「栄誉」 はこれ一つだ。
32歳でジョギングを始めてから、ちょうど20年目のことだった。

あれから10年経ったが、以来、大会には一度も参加していない。

ウルトラマラソンは、僕にとっては走る競技というより、旅みたいなものだった。
まぁかなりの苦痛を伴う旅だけれども、終わるとこれほど感慨深いものはない。

今年、突発的に、フルマラソンに挑戦しようという気を起こして、
いくつかのレースを目標にしたのだけれど、いずれも挫折した。

もう一度ああいう過酷なレースを体験したい、という思いと、
あんなしんどいことは…もういらん、という思いが交錯する。 

もう、マラソン大会に出ることはないのかなぁ~。
今朝、堤防を走りながら、そんな思いに耽った。

 

 

   
   赤穂100キロマラソンで 「年代別優勝メダル」 を
   ケースに入ったまま、もらった。 … 10年ひと昔。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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アルコール依存症 ? 続き

2011年06月05日 | 心と体と健康と

昨夜、旧知の間柄である doiron ちゃんからコメントをもらった。
アルコール依存症の治療というのはどんな治療になるのか?
そして、はたして治療が必要なのか?
…ということが書かれていた。

おっしゃるとおり、です。

アルコール依存症専門のクリニックへ電話をしてから10日間というもの、
僕も、ず~っとそのことについて、考え続けていた。

まず、アルコール依存症に関する正確な知識を得るため、2冊の本を読んだ。

『おサケについてのまじめな話』~アルコール依存症という病気~(小学館)
(西原理恵子・月乃光司 著)

http://www.shogakukan.co.jp/books/detail/_isbn_9784093878647

「アルコール依存症を治す」 (中村希明 著)

http://www3.ocn.ne.jp/~osakexx/hon036.html

この2冊だ。

2冊は、僕にとって、さまざまな意味において示唆に富んだものであった。
そして、初めて自分とアルコールとの関係に、真剣に向き合うことができた。

昔、よく 「アル中」  という言葉が出回った (今でも言われているが)。
アルコール中毒者の略称で、飲んだくれて堕落した廃人同様の人たち…
そういう暗くて絶望的なイメージが、この言葉にはつきまとっていた。

その点、アルコール依存症という名は、アル中よりも症状が軽そうだ。
自分はアル中ではないけれど、アルコール依存症ではあるかも知れない、
などと僕は勝手に思っていたわけである。

しかし、実際には、それは大きな誤解であった。

この2冊の本で知ったのだが、アルコール依存症とアル中は、一緒なのだ。

「中毒」という言葉は、食中毒がそうであるように、
生体に入った薬物・毒物に対する反応で機能障害が生じることを指すので、
自らの意思で飲酒し、慢性の症状を示すこの病気には適切ではない…

…そいういうことから、「依存症」 という表現に統一されるようになった。

今は 「中毒」 が正式な用語として使われているのは、
短時間のアルコール節酒によって生じる 「急性アルコール中毒」 だけだそうだ。

だから 「アルコール依存症」 は、昔で言う 「アルコール中毒」 そのものなのだ。

単に呼び方の問題にせよ、これは僕には大きなショックだった。
そして、もう一度、本当に自分はこの病気なのか?
本当に治療が必要なのか?
そんなことを、改めて考え直してみた。

その治療であるが、まず酒を飲むと気分が悪くなる抗酒剤というのが処方される。
むろん症状によってさまざまだけど、とりあえず酒を飲まさないための処置である。

実際、前述の 『おサケについてのまじめな話』 を読んでいると、
著者のひとり西原理恵子さん(漫画家)の夫がアルコール依存症になり、
病院で処方された抗酒剤を飲んだあと、こっそり自動販売機の酒を飲み、
その場で昏倒して頭を10針縫った、という話が出てくる。
恐ろしい薬だ。

しかし、それを一生飲み続けるわけにもいかない。
最後は自主的に酒を飲まなくなることが、治療の目的である。

内観治療に加えて、専門医によるカウンセリング。 
さらに、自助グループでのミーティング…。

アルコール依存症から抜け出すためのさまざまなプログラムがある。

しかし、本に出てくる依存症の患者たちは、みんな途方もない大酒飲みである。

飲むと豹変して、相手を徹底的に罵倒したり、暴力をふるったり、飲酒運転したり、
物を破壊したり、仕事にも行かず毎日朝から飲酒に浸ったり、幻覚にうなされたり…
前述の本の著者である月乃光司さんに至っては、家に火をつけたこともあったという。

いや。 いくらなんでもねぇ。
僕はこんなにひどくない…。
こういうのを依存症というのなら、僕などまだまだヒヨコである。

だいいち、酒の場で人とケンカなど、したことない。 
もちろん、暴力をふるうなんて、とんでもない話で、するわけがない。
まあ、二日酔いで仕事を休んだことは何度かあったけれど、
朝から酒を飲んで仕事に行かなかったことはないし、幻覚も起こらない。

でも、酔うとぐでんぐでんになるのは間違いのないところだ。

日曜の昼間に家で飲み過ぎて酔いつぶれ、夜の約束を忘れてしまったこともある。
途中から記憶がプッツン途切れ、どうして家に帰ったかわからないこともザラだ。
まわりの人たちに、ずいぶん迷惑をかけたり、信頼を裏切ったことがある。

酒で失敗するたびに、あぁ、ダメだ、これから禁酒しよう、と心に誓う。
しかし、1日たつと、もうそんなことをケロリと忘れたかのようにまた飲む。
そして、また失敗し、あぁ、ダメだ、これからはゼッタイ禁酒だ…と、
こんな恥ずかしいことを、これまでいったい何百回繰り返してきたことか。

「お酒が好きなら、別に禁酒なんてせず、適度な量を飲めばいいじゃん」
そう言ってくれる人がたくさんいる。
そうですね。
お酒は、適度な量だと、身体にもいいらしい。
つまり、節度を守ると、お酒も強い味方になる、ということだ。

しかし、アルコールに対する節度というのが、僕には欠けている。
飲む前は、きょうは軽く飲むだけにしよう、と心に決める。
しかし、一口飲むと、殊勝な気持ちは虚空に消え、止まらないお酒になる。

といっても、家で毎日そんなことをしているわけではない。
ごくおとなしく、ビール2本ぐらいで終わることは常にある。

しかし何かの拍子に、外でも家でも、メチャメチャ羽目を外してしまうのである。

こうして自分とお酒との関係を、あれやこれやと分析していくと、
特に定年退職したあとは、毎日、飲酒するのが一番の楽しみになっている。
そのため、ほかの趣味が後回しになっていることに気づくのである。

最近、映画を見なくなった。

衛星放送などで、見たかった映画があると、せっせと録画することはしている。
それがたまっていくのが気になるが、夜は飲むと眠くなり、面倒くさくなる。
(日中は何やかやと、することが多いので…)

映画を見る気もせず、それ以上に目が疲れる読書もせず、ごろんとベッドに寝転び、
ぼんやりしながら眠気が襲ってくるのを待つ。

睡眠導入剤を飲み、いったん寝ても、また目が覚める。
何度も夢を見るような浅い眠りで夜を過ごし、やがて夜が明ける。

こういう生活習慣を見直さなければ、禁酒は無理なのではないか…と思った。

夜に、飲酒以外の楽しみを持つこと。
これが禁酒、あるいは断酒の成功の一番の近道だと、本にも書いてある。

  …………………………………………………………………………

さて、話はアルコール依存症専門クリニックへ電話をした時に戻る。

そこで治療を受けようと決心し、電話で予約をお願いしたものの、
ケアマネージャーの女性が、予約は2週間先になります、と言ったので、
正直なところ、ちょっとがっかりした。
僕はすぐにでも治療を受け、生活習慣を変えるきっかけにしたかったのだ。

しかし、考えてみると、治療が始まるまで2週間あるけれど、
この期間、お酒はどうしたらいいのだろう…?
飲みながらその日の来るのを待つのかいな…?
それともその2週間を禁酒して過ごすのか…?

これはなかなかむずかしい問題である。
ヒマな人間にしか味わえない悩みでもあるけれど (笑)。

まあ、考えるまでもなく、2週間、酒を断つことが先決だろう、と思った。

その日、つまりクリニックへ電話した5月25日だけれども、
その日から、僕は禁酒生活に入った。

禁酒は思いのほか大した苦痛もなしに始めることができた。
これまで何度か禁酒は経験したが、飲みたいのを我慢しての禁酒だった。
毎晩、ビールに変わるノンアルコールビールを飲んで、しのいだ。

しかし、なぜか今回は、飲みたいという気が湧いてこない。
そういう欲求が起きたら終わり…という切羽詰った心境もあるのか、
ノンアルコールビールのお世話にもならず、淡々と食事が出来ている。

テレビでビールのCMを見ても、あぁ飲みたいな~とは、思わない。

なんで、こういう気分に変わってきたのか…?

ひとつは本気で治療しようとクリニックへ電話したことがよかったと思う。

もうひとつは、孫娘のモミィを養女として引き取ったことを機会に、
自分の健康は自分でしっかり守り、決して家族に心配をかけてはならない、
…という自覚が、遅まきながら彷彿と湧き出でてきたのでは … と考える。

もう、自分は若くはないのである。
ここで酒浸りになると、本当に命に関わってくることは間違いない。

禁酒してから10日目に、僕は再びクリニックへ電話した。

ケアマネージャーの女性に、とりあえず、予約をキャンセルしたい、と伝えた。
「どうされたのですか…?」
と、女性がキャンセル理由を訊いてきたので、僕は次のように答えた。

そちらへ電話をして予約した日から禁酒を始めて今日で10日目になるが、
今のところ自分の意思で禁酒を続けられている。
この調子で行けば、まだまだ続けられるような気がする。
多少、禁断症状のようなものは出たけれど、今のところ身体に異常はない。
禁酒のきっかけを作ってくれたのは、そちらへ電話をしたことだと思う。
もう少し、自分の意思で禁酒が継続するよう頑張りたいと考えているので、
今回はキャンセルさせてもらうけれど、もし、これに失敗したときは、
自力では酒を断てないものと判断して、そちらの治療を受けたいと思う…。

だいたい、そんなことを話した。
電話の向こうの女性も、
「わかりました。何かありましたら、いつでもご相談ください」
と、あたたかく言ってくださった。

  ……………………………………………………………………………………

今日で禁酒12日目になる。

夕方になっても、ビールを飲みたいという気持ちは起こらない。
それより、心はその反対の方向に動いていることを、かすかに感じる。

きのうの夜、久しぶりに、録画していた映画の一つを見て、何度も涙ぐんだ。

「幸せのレシピ」  という映画だった。

 

 

 

 

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やっぱりアルコール依存症 ?

2011年06月04日 | 心と体と健康と

被災地を歩いたあと、仙台で、モーローとなるほど酒を飲んだ。
翌朝も、ホテルの近くにあるコンビニへ行き、缶チューハイを買った。
昼もビールを飲んだ。 断片的な記憶しか残っていないけれど…。

午後から仙台市若林地区を歩いた。
しかし、僕はもう正気を失っていた。
そこまでバスに乗って行ったのか歩いて行ったのか、よく覚えていない。

それでも、大阪へ帰ってから自分が撮ったデジカメ写真を見て、
かなり輪郭のある記憶がよみがえってきたのは、せめてもの幸いだった。

まず、写真には、バス中の光景が写っていた。
そういえば … バスに乗ったんだなぁ、と思い出した。

次に、若林区の 「霞目」 という住居表示が写っていた。



  



このあたりでバスを降りて、歩いたのだろう。

この地域は、被災していないようで、町並みは落ち着いていた。

水田が美しく広がっているのを見て、思わず嗚咽を漏らしたのを思い出した。



 

 

しばらく歩いたあと、広い賑やかな道路に出た。
ここははっきり記憶しているのだけれど、道路脇にバス停があった。
バス待ちをしておられた女性に 「仙台駅に行きますか?」 と尋ねたら、
「もちろんですよ~」 というふうに、笑顔で頷いてくださった。

そのあと僕は、午後7時半に仙台駅前を発車した夜行バスに乗り、
12時間半後の翌朝8時、大阪阿部野橋に到着したのだが、記憶はほとんどない。

最後に記憶しているのは、仙台駅に着いてコンビニへ行き、
缶チューハイと弁当を買って、飲みながらバスを待ったところまで、だった。
次に気がついた時は、もう自宅のベッドの上にいた。

(途中、バスの中でトイレに行ったのだけは、覚えてる)

酔う、というのは、何とも不思議なものである。

記憶が飛ぶほど飲んでいるのに、間違わずにバスに乗って一夜を過ごし、
翌朝、阿部野橋から電車に乗って、ちゃんと自宅へ帰っているのだ。

その場その場では、それなりに、行動しているようなのである。

…そんなことで、家に帰ったのが、5月22日の日曜日の朝だった。
しかし、それもロクに覚えておらず、とにかく、そのまま寝たみたいだ。

長い酔いと眠りとから覚め、いま何時…? と枕元の時計を見ると、
もう、その日の夕方になっていた。 

そこで、友だちに、「いま帰りました」 とメールを打ったけれど、
よ~く考えてみれば、朝に帰宅しているのである。 
ふぅ~、とため息が出た。

 ………………………………………………………………………………

最近ますますエスカレートする僕の飲酒ぶりに、妻が心配した。
モミィもいるので、身体をもう少し大事にしてほしい…
と、しみじみ言われた。 まあ、そのとおりだと思う。

アルコール依存症。

たぶん、僕はこれなんだ。

酒を飲み始めるとブレーキがきかなくなる、というのは、
意志が弱いとかという問題を通り越して、すでに病気なんだそうである。

病気だとすれば、治療が必要である。

僕は覚悟を決めた。 その治療を受けよう。

ネットで調べたアルコール依存症専門のクリニックへ電話した。

電話口に、ケアマネージャーの女性が出た。
僕はその人に、自分の飲酒状態を、詳しく話した。

「毎日通うということになるかも知れませんが、それでもいいですか?」
そう言われたので、かまいません、と答えた。
それで飲酒癖が治るなら、毎日だって通う。

「では、予約は2週間先になりますが、6月×日  ということで」
う~ん。 かなり先だな、と思いながらも、仕方がない。
「はい。 結構です。 よろしくお願いします」

そう言って、受話器を置いた。


その6月×日が、だんだん近づいてきた。

 

 

 

 

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