僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

頚椎ヘルニア…だって?

2012年06月25日 | 心と体と健康と

左側の首と肩の痛みと手のしびれがひどくなってきたので、
病院で首のMRI検査を受けた…ということを先日のブログに書いた。

そしてその検査から約1週間後、専門医から検査結果を聞いた。

「頚椎のヘルニアですね…」と医師が説明を始める。
壁にMRIによる僕の首の縦断画面像と横断画面像が貼られている。

それによると…

まず、縦断画面像で、「これが脊髄です」と、
医師は、脳と直結する脊髄を示し、
「この中に脊柱管(せきちゅうかん)というのが通っていまして、
 それはトンネルのようになっており、髄液が通っています」
「はぁ…」と僕は目を凝らして画面をのぞき込む。
「これはきれいに通っていますね。異状ありません」
「はぁ…」
「次に、ここが首の骨です。7つあります。この連なりが頚椎です」
「はぁ…。なるほど…」
「それぞれの骨には異状はありません。きれいです」
「は…? 異状はないのですか?」
「そうですね」と言いながら、医師は骨の模型を僕に見せてくれ、
「骨と骨の間でクッションの働きをする椎間板(ついかんばん)があります」
そして、医師は模型を使って頚椎の構造をひと通り説明してから、
「あなたのこの4番目の骨の下…」
と、今度はまた僕の首の画像を指し示し、
「ここの部分が薄く濁って映っていますよね。この椎間板というか…
 これが磨り減っていますね。 ここが神経を圧迫しているのでしょう」

…と、まあ、そういうことなんだそうである。

椎間板ヘルニアというのは腰だけに出る症状だと思っていたが、
首から腰まで連なる背骨のどこにでも出る…ということだった。

そのあと、医師は僕の手や足を持って、
「ギュッと力を入れてください」と指示。
最後には握力検査もし、僕の痛みやしびれの程度を確かめた。

診察はそれでほぼ終わった。

「それで、これからのことですが…」
と医師は一呼吸置いてから僕に言った。

「治療には、手術やブロック注射というのがありますが…」
僕の場合は、さほど緊急性のある症状ではない、という。
手術はむろんのこと、ブロック注射も、
「手にまったく力が入らないほどの症状だったら考えるのですが…」

手の感覚が全くなくなるほどの重症の患者さんも沢山いるという。
その場合は、手術、ブロック注射などが必要だけれど、
今の僕の状態なら、しばらく様子をみたほうがいいということだった。

「人には自然治癒力もありますしね」と医師は言う。
知らないうちに治る…というケースもよくあるそうだ。

「様子をみましょう。次は1ヵ月後に来てください」

最後に医師は、こうも言った。

その間、痛みやしびれが強くなれば鎮痛剤を服用するのがいいが、
僕は脳梗塞予防薬のワーファリンを飲んでおり、鎮痛剤を飲めば、
そのワーファリンの効果が減じられるので、こちらでは出せない。
今かかっている循環器の病院で、鎮痛剤の相談をしてください…

「わかりました。そうします」

…と、そんなことで、僕は診察室を出た。

それから数日経つが、痛みやしびれは収まらない。
まだ我慢できないほどではないが、気にすればするほど、
なんとなく、痛みとしびれが強くなるように感じてしまう。

これ以上ひどくならないよう願うしかない。

それと、耳鳴りもそうだけど、やはり生活のリズムが悪いと、
こういう症状はどんどん悪くなっていくような気がする。

何かに気が紛れていると、その時はほぼ忘れるのである。
まあ、それだけ大したことのない症状だとも言えるのだろうけど、
夜寝るときなどは、左側だけでなく、右手もジーンとするような…
さらには、両足までジンジンするような感じがするから気が滅入る。

「人には自然治癒力もありますしね」
と言った医師の言葉が、今は唯一の頼りであり、支えである。

人が治癒力を発揮するためには、気持ちが元気でなければならない。

なるべく気にしないようにしなければ…

…できるかなぁ。
 

 

 

 

 

 

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原監督、1億円騒動

2012年06月22日 | ニュース・時事

大阪に住みながら小学生の頃から大の巨人ファンだった僕も、
いやぁ、今回の「原監督1億円騒動」には参った参った。

原監督がモンダイの「女性」と「関係を持った」のは1988年というから、
まだ時代も昭和の御世であり、むろん彼は現役バリバリ選手であった。

東海大相模高で甲子園に出場した頃から、原はスーパースターだった。
そして巨人の4番打者になったのだから、その人気は半端じゃなかった。

その「関係」から18年後、元暴力団員にそれをネタに1億円を要求され、
原監督は、球団や家族に黙って、一人で1億円を工面して渡したそうだ。

そこがおかしい…と、誰でも思う。

いくらリッチとはいえね~、18年前のことを持ち出されて、
ハイわかりました、と言って、ふつう、1億円も渡すか…?

女性関係でこんな大金を払っていたら、清原なんか、どないなるねん!
(清原さん、ごめん)

なんとまあ、世間知らずというか、勇気に欠けるというか…
栄光に包まれてきた坊ちゃん気質が災いしたようにも見える。

タチの悪い人間に絡みつかれた原監督も可愛そうな気がするが、
言われるままに金を渡したことは、どうみても首をかしげる話だ。

昨日はテレビのニュースやワイドショーはこの話で持ちきりだった。
(ただし僕の知る限り、読売系のテレビ局では見なかったなぁ)

フジテレビ系が、最も派手にこのことを報じていたようだ。
…そういえば、今日から巨人ヤクルト戦だもんね(関係ないか)。

あぁ、せっかく交流戦で優勝して盛り上がったジャイアンツなのに…

…と、まあ、今日は自分の頚椎のMRI検査の結果について、
先日、病院で説明を受けたことを書こうと思っていたけれど、
なんだかこのニュースが気になって気になって、
どうしても書かずにはいられなかった

あの昭和49年(1974年)に長島茂雄が引退した時、
「巨人軍は永遠に不滅です」という名セリフを吐いた。
V10ならず、巨人が不動の王座からすべり落ちた時だった。
ちょうど、僕らが今の藤井寺市に引っ越してきた年だったなぁ。

江川投手のドラフトの「空白の1日」はもう古い話だけれど、
最近、また何やら巨人軍のロクでもない話が相次いでいる。

この件も、実は清武前代表が暴露した、と巨人側が言っている。
原監督も、清武前代表に  「あんたしかおらん」 とFAXを送った。

なんだかねぇ…
原監督個人の問題だけでもなさそうな今回の騒動である。
とりあえずナベツネさんも、ええ加減に辞めはったらどうですか?

巨人軍の醜聞(スキャンダル)は永遠に不滅です…

な~んて、言われないように。

あぁ、昔の長島や王がいた頃の巨人が懐かしいなぁ (遠い目)。

 

 

 


 

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要するに僕は…

2012年06月20日 | 雑記

モミィが小学校へ行き始めてから、幼稚園への送り迎えがなくなった分、
ますます自由な時間が増え、あれもしよう、これもしようと思いながら、
いろんなことに手を染めてはいるけれど、どれも中途半端なままである。

けだし僕は、欲張りなのだろう。
それに、コツコツと継続することが苦手でもある。

ひとつのことを始めても、すぐに別のことがしたくなる。

こんなことでは、実を結ぶものも結ばないよね~

因果な性格、というほかない。

だから、テレビなどで 「その道一筋に生きる」 という人を見ると、
文句なしに敬服し、自分の生き方は間違っていたように感じてしまう。

でもなぁ…
いろんなことをやりたい、やろうと思うのは、いいことじゃないか?
…と、たまには自己弁護をして気分を良くしようとするのだけれど。

この間、ある本を読んでいたら、こんな格言に出くわした。

怠け者は いつも何かをしたがっている


が ~~~~~~~~ ん。

要するに、僕は怠け者…ということなんだ。  ぐすん 。

 

 

 

 

 

 

 

 

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メガネのモミィ

2012年06月16日 | モミィの成長日記

先週半ばから約1週間体調を崩していたモミィも、
今ではすっかり元気を取り戻し、食欲も旺盛だ。

やはり子どもは、食欲がないと心配ですよね。

そのモミィが、5月からメガネをかけ始めている。

幼稚園の最後の頃、園で視力検査があり、そこでひっかかった。
「念のため、眼科で検査を受けていただきますように」と言われたのだ。

4月に入り小学生になってから眼科へ連れて行った。
一般的な検査をしてから、次に精密検査の予約をして、
後日、再びその眼科で、本格的な検査をしてもらった。

診断結果は、遠視と乱視が混じっている、とのことだった。

妻と2人で、医師の説明を聞いた。

医師は、
「それで、メガネが必要かどうかということなんですが…」

と言い、「う~ん」と腕組みしながら、うつむいて考え込んだ。
「むずかしいところやな~」と目を閉じ、独り言をつぶやいた後、
「どうされます、メガネは…?」と僕たちのほうを向いた。

医師が言うには…

メガネをかけるのには抵抗があるかも知れない。
女の子だし、かけずに済むものならそれに超したことはない。
それに絶対にメガネをかけなければならないほど悪くもない。

しかし、視力は9歳まで発達していくものだから、
今、物がやや霞んで見える状態ではあるけれど、
そのままで成長していくよりも、メガネをかけて、
物がはっきり見える状態で成長していくほうが、
少なくとも遠視が改善される確率は高いし、
脳にもいい影響を与えることは間違いない。

…と、まあそんな説明だった。

(それなら、かけたほうがいいに決まっているじゃん)

「わかりました。メガネをかけさせます」
僕も妻も、思うところは同じだったので、すぐにそう返事した。

そのあと、モミィに、
「メガネをかけることになったよ」

と告げると、ごく普通に「うん」と返事した。
別に何の抵抗も感じていないようである。
…というより、ちょっとうれしそうな顔も見せた。

そして「メガネの愛眼」で、メガネをつくってもらった。
モミィが選んだピンク色の可愛いフレームのメガネである。

今のメガネは、軽いし、お洒落だから、あまり違和感はない。
遠くから見たら、かけているのかいないのか、わからないほどだ。
それに、モミイがこのメガネをかけると、ちょっとだけ賢そうに見える(笑)。

大好きなテレビ「プリキュア」「ムーミン」「トムとジェリー」「お猿のジョージ」など、
メガネをかけて真剣に見ているモミイの顔が引き締まって見えるから不思議だ。

顔だけでなく中身の方も、もうちょっと引き締まってぇ… とは言いませんけどね~

 

 

 


 

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首・肩の痛みと手のしびれ

2012年06月14日 | 心と体と健康と

しばらく小康状態が続いていた左の首と肩の痛みが、またひどくなった。
おまけに、新たに左手の親指と人差し指のあたりが、しびれ始めた。

もう5ヶ月近く前の話になるけれど、1月22日の朝に、
寝違えたような痛みを左の首・肩に感じたのが始まりだ。

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20120124

そのうち治るだろう…と悠長に構えていたのが甘かった。
2月に入って痛みは増し、たまらず整形外科へ行き診察を受けた。
レントゲン撮影の結果、頚椎の一部分が磨耗している…とのことだった。
まあ、加齢により、骨と骨の「すきま」が狭くなってきている、という説明だ。

とりあえずその日から毎日、痛み止めの静脈注射と低周波の治療を受けた。

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20120204

しばらく医院に通い、それで完治したわけではないけれど、
なんとか痛みをごまかしながら生活を送れるくらいにはなってきた。
そこで、ある方から勧めていただいたので、整骨院に通うことにした。

で、もう一箇所の弱点でもある腰と、この頚椎の部分のケアを始めたのだ。

この整骨院では、マッサージの他、いろんなことをしてもらったが、
首の痛みがどうしても取れないので、鍼を初めて打たれたりした。

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20120212

それからしばらく、毎日のように整骨院に通い続けたが、
少しマシになってきたようなので、やがて途切れてしまった。

それが2月下旬のことだった。

それからは何もせず、冬が終り、春が過ぎ、6月になった。

首と肩の痛みはボチボチだったが、前述のように、左手がしびれ始めた。

だらん、と手を下げていると左手の親指と人差し指がビリビリとしびれる。
姿勢によって、しびれたり、しびれなかったりする。
それでも生活に大きな支障をきたすほどでもなく、
いつものように「そのうち治るやろ」の調子で、
なるべく痛みやしびれの出ない姿勢をとる…
そんな感じで最近まで来たのだけれど…。

そこへまた左の首と肩の痛みがひどくなってきたのだ。
痛みとしびれの二重苦。 これはもう、何とかしなければ。

町の整形外科へ行くと、レントゲンで骨の「老化現象」を指摘され、
低周波(電気)治療のために、毎日通うことになるのだろう。

5ヶ月前と同じような経過を繰り返すことは、明らかである。

そこで、隣の羽曳野市にある有名な島〇病院へ行くことにした。
整形に主力をおいた病院で、プロ野球選手や力士らも来るという。

先日、その島〇病院へ行った。

首と腰のレントゲンを撮影し、それをもとに医師の説明を受けた。

まず、「腰と首のどちらの痛みがきついですか」と聞かれたので、
「首のほうです。腰は少し痛みますが、大したことありません」と答えた。

「その首の部分ですけど…」
と、医師は壁に大きく貼られた僕のレントゲン写真を指し、
「上から4番目の頚椎の、ここの隙間がほとんどありませんよね」
つまり、以前も言われたように、軟骨が磨り減っているということだ。

医師はそのあと、頚椎のヘルニアがどうのこうのと言った。
僕の症状がヘルニアなのか、ヘルニアかも知れないということなのか…?

「頚椎のMRIを撮りましょう。それで今後どうするかを決めることになります」

「わかりました。 よろしくお願いします」

そして検査予約をし、別の日また病院へ行きMRIの検査を受けた。

ところで、この病院には頚椎専門の医師がいるそうだ。
その医師に僕のMRIの結果をみてもらい、判断してもらうという。

ただし、その医師の診察日は火曜日だけなので、
次の診察日は19日の午前ということになっている。

やはり大病院は違う…と妙に感心しながら、
首、肩の痛みと手のしびれを我慢しつつ、
19日の来るのを待つ僕である。

 

 

 

 

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難しすぎる~ 子供の名前

2012年06月11日 | 雑記

モミィが病気になってから6日目になるが、まだ症状は完治せず、
今日も学校を休ませることになった。

熱は昨日、38度台から7度台まで下がり、寝るときは6度台にまでなった。
しかし、口の中にヘルペスができているので物を口に入れると痛がり、
また、元々のアレルギー性皮膚炎なので、熱で風呂に入れないこともあり、
あちらこちらがたまらなく痒いようだ。
しかし、これでも一時に比べたら落ち着いてきたようだ。
口の中さえ治ってくれたら、もう大丈夫だと思うのだけれど…

………………………………………………………………………………

話題をコロッと変えます。

最近の子供の名前が読めなくなってきている…とよく言われますが、

モミィの幼稚園と小学校の園児、児童のクラス名簿をサッと眺めると、
確かに男の子も女の子も、大半がふり仮名がなければ読めない名前。

ここでそれらの実名を挙げるのはさすがに控えますが、
手元の、ある資料から、読めない名前をピックアップしてみた。

長女が「詩麻(しいま)」で次女が「芹華(せりか)」の姉妹。
兄妹では「一石(いっせき)」と「二鳥」(にちょう)というのもあった。

「今人(いまじん)」って、ジョン・レノンか~。

「映月(えるな)」は、月をルナと読むわけ?
「風月姫(ふづき)」って最後の「姫」はいらんのでは…
「来来(らら)」となれば、パンダの名前と間違えられそうだ。

ある新聞の「お誕生日おめでとうコーナー」にも、読めない名前が多かった。

笑凪(女)、魁壱(男)、麗旺(男)、緒海(女)、榛崇(男)、発行力(男)…。

僕には、どれも読めませ~ん。

また、こんなのも。

一(ユニカ。男)、良恵那(りべか)、久怜愛(クレア)、海飛(カイト)。

雲(くも)、不思議(はてな)、風里(ふわり)、樹哉(じゅや)、緋色(ヒーロー)。

ある市の広報には、「森まりも」と「武藤とむ」という名が載っていた。
回文になっている。つまり、下から読んでも「もりまりも」「むとうとむ」。
これはまあ、まだしゃれた部分が感じられますけどね…

来音(ライオン)くんってなぁ。 大きくなって親を恨むのでは…

「大王」と書いてひろお、と読むらしい。
「万富」と書いて、かずよしと読むらしいが、読めるのか? ほんとに。

一輝男(かずきお)って、なんで「一輝」じゃだめなんだろうと思います。
明美子(あけみこ)という子もいたけれど、どうしても「子」がつけたかった?

そのほかにも、
未来乃(みらの)ちゃん。母親はブランド狂い?
石(いし)くん。名づけた父は墓石屋さんだったそうだ。

最近は、漢字を英語読みするのが流行っているそうです。
「未来」と書いて、「みらい」「みき」ではなく、「フューチャー」と読むらしい。
そういえば、「明日」と書いてトモロウと読む子もいたようだ。
「飛躍」と書いて、「ジャンプ」とかもいたよ。
「真珠子」は「パールコ」。 留子は「ルーシー」…… 

やれやれ…

そして、愉快くんという名前。
ズバリ快活そうな名前だけれど、お葬式とかは出にくいよね。
「愉快さんが弔問に来てくれました」 とは、なかなか言いにくいもんね。

ちなみに、わが家の2軒隣に、1歳半ぐらいの可愛い男の子がいる。
いつもママに付き添われて、そのへんを散歩している。
みんなが 「とらちゃん」と 呼んでいるのだが、正式な名前は知らない。
まさか、柴又の寅さんの寅次郎ではないだろう。

で、その「とらちゃん」の姉(小学5年)とモミィは一緒に登校するので、
あるとき、
妻がその女の子に 「とらちゃんって、どんな名前なの?」 聞いたら、
女の子は 「とらま」 と、うつむいてボソボソと言った。

「へぇ、とらま君ねぇ。字はどう書くのかなぁ?」 と妻が再び尋ねると、
女の子は 「あのな、漢字は難しいねん」 と言いながら、歩いていった。

「とらま」…。
どんな漢字なのか?
興味、あるなぁ。

 

 

 

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小児救急はなぜ少ない?

2012年06月09日 | モミィの成長日記

水曜日の夕方、モミィが熱を出した。
お腹も少し、こわしていたようだ。

翌木曜日の朝、妻と2人で駅前の小児科へ連れて行った。
診察を受け、風邪薬、抗生物質、頓服の解熱剤、胃腸薬などをもらって帰った。

その日の症状はあまり変わらなかったが、38度前後の熱が続いた。

そしてその翌日の金曜日の早朝…

モミィといっしょに寝ていた妻が僕のところへ来て、
「モミィの様子がおかしいの」
と、心配そうな顔で言った。

39度以上の熱があり、口内炎や喉の痛みを訴えて、
お茶も水もアクエリアスもジュースも、何も飲まないという。
モミィは布団の上で 「痛いよう、しんどいよう」 とシクシク泣いていた。

むろん、こんな早朝に、まだどこの医院も開いていない。

「救急病院に連れて行ったほうが…」 と妻。
「そうやね。救急…って、どこにあるのかなぁ?」 と僕。

消防なら詳しいだろうと、地域の消防本部に電話をした。

電話口に出てきた消防士に、
「小学校1年生ですが、発熱がひどく、救急病院を探しています」
と伝えると、「じゃ、メモのご用意をお願いします」 と言ってから、
「え~っと」 と何かを調べている様子。

「小児科ですね…。小児科…。 え~、河〇総合病院がありますね」
「どこにあるのですか?」
「東大阪市の〇本付近だと思います。電話番号を言います」
僕は言われるままにメモしたが、ここからはずいぶん遠い。

「遠いですね。 もっと近くにはないのですか?」 と聞くと、
「小児科が…なかなか、ないのです」 と申し訳なさそうな声に、
「わかりました。ありがとうございました」 と電話を切った。

モミィはもう乳幼児ではなく小学生だし、症状は風邪である。
小児科でなくても、内科の先生でも診てくれるのではないか。

そう思って、急いでネットで近隣の救急病院を調べてみた。
消防士が言ったように、内科や外科は沢山あるが、小児科はない。

そこで、僕も何度も通ったことのある城〇病院へ電話をした。
「小学1年の女の子で、高熱が出てます。診てほしいのですが」

すると電話に出た男性は、「申し訳ありませんが…」 と前置きし、
「それは小児科になります。当方に小児科はありませんので…」
「でも、内科の先生がおられるでしょう? 風邪の症状ですから」
なんとか診てもらえないか、と僕は言おうとしたけれど、
「すみません。ダメなんですよ。内科の先生は診られないのです」

これ以上言っても押し問答になるだけだ、と思った。

「では、どこかこの辺で小児科の救急のあるところ、知りません?」
と聞いてみたが、相手は「ちょっと、それは…」と口ごもったので、
「わかりました」と僕は電話を切った。

次は自分が2ヵ月に一度通う徳〇会病院に電話をした。

ここならどんな状況でも患者を引き受けてくれるはずだ。

「もしもし、うちの小学校1年生が、熱で苦しんでいるのですが…」
「は? 小学生さんですか?」
「そうです、小学1年生です」
「それは小児科に…」
「ええ、わかっているのですが、この辺に小児科の救急がないのですよね」
「はぁ…」
「で、風邪引きのようだし、内科の先生に診てもらいたいと思いまして」
「はぁ…、しかし、小児科の先生がいませんので…」
「だから、内科の先生に診てもらいたい、ということで…」
「いえ、内科の先生では小児の治療法はわからないわけで…」
「わからない? なんで? 風邪引きぐらいがわからないの?」

救急でなければ、普通は、内科でも小学生を
診てくれるはずだ。

電話の相手は黙ったままなので、
「僕もそちらの病院へ何年も通ってるんですよ。なんとかなりません?」
と、僕は別の方向から攻めてみた。 しかし…
「はぁ…。すみません…」 という声が返ってくるだけである。

「ですから、なぜ内科の先生が小学生の風邪を診られないのですか?」
…と、自分でもしつこいとは思いながらも、懸命に食い下がる。

「薬の出し方とかがですねぇ、小児科の先生しかわからないのです」
「薬の出し方…?」
「はい。子供さんの場合、出す薬の量が年齢によって違ってきますので…」
「はぁ…、う~ん、まあ、そりゃそうだと思いますが…」
「そこが内科医は専門外とのことで、出来ないことになっています」

へぇ~
そういうこと…?

「じゃぁ、いったい何歳までが小児科なのですか?」 と質問を変えた。
「15歳未満です。ですから、14歳までが小児科です」

14歳までは小児科…?
14歳と言えばすでに中学生ではないか。
それでもまだ小児科なのか?

「15歳以上は薬の量が大人と一緒ですので、内科医が診られるのです…」

「…ふ~ん。 わかりました。 朝早くからどうも」 と僕は電話を切った。

何のことやら…

結局僕は最初に消防で教えてもらった河〇総合病院に電話した。

電話の受付の男性は、僕の話をきちんと聞いてくれ、
「わかりました。ではお名前と生年月日を教えてください」
と言った。

「はい。 名前は〇〇、生年月日は、昭和…」 と僕。
「あのぉ、お子様のお名前と生年月日なんですけど…」
げっ。 恥ずかし~
つい、自分の名前と生年月日を言ってしまったのだ。

「すみません。名前はモミィ、生年月日が平成17年の…」

…ということで、行く準備をしたら、妻が 「ちょっと」 と声をかけた。
「どうしたの?」
「熱が38度に下がったの」
さっきは39度5分くらいあったのに…

それに、口の中を痛がって飲めなかったジュースも今は飲んでいる。

あちらこちら電話をしているうちに、モミィの症状が和らいできたようだ。

「どうする…?」
「医院の開く9時まで待っても、いけそうやね」

そんなわけで、すったもんだのあげくの果て、結局、
救急病院に頼らず、かかりつけの医院へ行くことにした。
河〇総合病院には、キャンセルの電話をかけ、お詫びした。

医院では、昨日今日と2日連続で来たものだから、
モミィに、点滴をすることを勧めた。

「てんてき、イヤや~」
とモミィが言っても、またしんどくなるよ…と妻が言い聞かせ、
看護師さんについて、処置室のほうに2人で入って行った。

あぁ、やれやれ…
なんとか一段落したようである。

この2日間、初めて学校を休んだ。

そして今日の土曜日は、口内炎が出来てそれが痛いと言っている。
午前9時半現在、熱は37度台である。

機嫌はずいぶんよくなって、口数も増えてきた。

この土・日曜日はキックベースの練習には行けないけれど、
2日間で完治させ、月曜日からまた学校へ行けるようになってほしい。

それにしても…

どうして小児科救急がこれだけ少ないのか?
しかも、14歳までは小児科…というではないか。
時間外に切迫した症状を起こす子も多いはずだ。
そのことが腑に落ちないし、不思議でしようがない。
これでは子育て中のママたちも、不安で仕方ないだろう。

なんとかならんもんでしょうか…?

 

 

 

 

 

 

 

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入れ墨の公務員

2012年06月07日 | 議会&役所

      
       ご存じ 「入れ墨判官」。 
       この人も昔の公務員…?

 

大阪市の橋下市長が市職員の入れ墨の有無を調べたことがマスコミを賑わした。

入れ墨をしている市の職員がいたなんて、初めて聞いた人も多かったろう。

新聞によると…
先月末の大阪市の発表では、職員約3万4千人のうち、
入れ墨をしていると申告した職員は113人だった。
113人のうち、107人は環境局や交通局の現業職員で、
中には女性も5人入っていたというから、へぇ~~という感じ。
まあ、タトゥーと言われるおしゃれっぽいものかもしれないけど。

また、この調査に対して回答を拒否した職員が15人いたそうだが、
この人たちは入れ墨をしているから拒否したのか?
あるいは、人権モンダイだとか何とか言って拒否しているのか?

少なくとも公務員である限り、入れ墨調査と人権は無関係だろ。

余談ですが…
入れ墨といえば、誰でも遠山の金さんを思い出す。

ご存知、入れ墨判官・遠山金四郎。
「神妙にしろいっ」
啖呵を切って片肌を脱ぎ、桜吹雪の入れ墨を見せつける。

金さんは江戸町奉行だから、これも、まあ昔の公務員である。
この時代は公務員がおおっぴらに入れ墨を見せびらかしても、
上役から注意されたり、町民から批判を浴びることはなかったんでしょうね。

しかし今は平成の世である。
入れ墨は、どうしてもヤクザやチンピラを連想させる。

入れ墨をしているから素行が悪い…とはむろん限らないけれど…

10年少し前、妻とオーストリアに旅行したとき、
国境を越えてお隣のハンガリーへ行った。

首都ブダペストで土産物店などが並ぶ繁華街を歩いたが、
ひとつ路地に入ると、目つきの悪い、入れ墨の男たちがたむろしていた。

実に不気味な光景だった。

そのあと、僕たちは国会議事堂を見学するため、
広い道路の歩道を歩いていたら、突然男が寄って来て、
ベラベラベラと何かを勧誘するようなことを話しかけてきた。

うるさいので、あっちへ行けと言うと、いつのまに現れたのか、
警察官のような帽子を被った男たちがバイクで僕たちを取り囲み、
「パスポートを見せろ」 と言ったのだが…みんな入れ墨をしている。

「警察官が入れ墨するか?」 と不審に思いながらも、
僕は単純だからパスポートをポケットから出そうとしたら、
横から妻が「警察と違うわ。行くわよ!」 と僕の腕をひっぱったので、
僕たちは素早く男たちの囲みを突破し、その場から逃げ去った。

とっさに 「ピンときた」 という妻によると、
警察官を装うパスポート泥棒の手口がガイドブックに載っていたそうだ。

それにしても、ハンガリーは怖い国だと思った。
なにしろ、入れ墨をしている男たちが多かった。
入れ墨と言えば、真っ先にその出来事を思い出すほどだ。

だから、入れ墨にはロクな印象がない。

ましてわが日本国で、公務員が入れ墨を入れるなんてねぇ。

僕が勤めていた松原市役所にも、目立つ入れ墨をしていた職員がいた。
その職員が公園を清掃したあと、暑いのでシャツを脱いだらしい。
入れ墨がモロに見えた。

近くの住民がそれを見て恐れをなし、市役所に通報した。
「今、公園に入れ墨をした不審な男がいます」 と。
市役所から職員がすぐに現場へ行ってみたら…
その 「不審な入れ墨男」 は、市の清掃担当職員だった。
…という、笑えない話も実際にあった。
住民もあきれたでしょうね~

ついでだけど、ある市議会議員は、昔、腕に入れ墨をしていた。
その人は議員になるとき、腕を焼いて入れ墨を消した。
その腕の 「焼け跡」 を見せてもらったことがある。

今、公務員の身分で入れ墨をしているものは、
これくらいの根性を見せて、消してしまえばどうか。

さて、話は大阪市のことに戻るけれど…

市は今後、人目につく部分に入れ墨をしている職員については、
市民と接しない部署へ配置転換し、回答拒否職員に対しては、
懲戒処分にする方針で、処分内容を検討しているということだ。

こんなのは、遠慮せず、どんどん重い処分にすればいいと思う。

公務員としての自覚が足りなさ過ぎるぜぃ、
と杉ちゃんも言ってます。

 

 

 


 

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昭和46年 ~尾崎紀世彦~

2012年06月04日 | 思い出すこと

歌手の尾崎紀世彦さんが5月31日にがんで亡くなった。
69歳だった。

「また逢う日まで」が大ヒットしたのは昭和46年(1971年)だった。
繁華街を歩いていると、必ずこの歌が耳に入ってきたものだ。

その昭和46年という年は、僕にとって特に思い出深い年だった。

大学卒業間際に結婚式を挙げ、新婚旅行から帰ると、
数日後に卒業式に出席したことを思い出す。

4月、新社会人になった僕は、ある楽器店に就職したのだが、、
大阪阿部野橋の近鉄百貨店へ出向を命じられた。

つまり僕は近鉄百貨店の楽器売り場の出向店員になったのだ。

そして、楽器売り場の隣が、レコード売り場だった。

その売り場で、開店時間中、連日流れていた曲が、
その年に出た尾崎紀世彦の「また逢う日まで」だった。
すでに大ヒットのきざしを見せていた。

ほかのキャンペーン曲も流れるのだけれど、
ほぼ2、3曲に一度は必ずこの曲が流れた。
それだけ、他をぶっちぎっての大キャンペーンだった。

開店と同時に隣のレコード売り場からそれが聴こえてくる。

来る日も来る日も、ず~っとこの曲を、
全身に浴びるようにして僕は過ごしていた。

♪ タッタン タタンタタン 
  タッタン タタンタタン
  チャッチャ~ン チャンチャンチャ~ン 
  チャ~ン タタンタタン 
  また逢う 日まで~ 逢えるときまで~ 別れのそのわけは~
  話し~たくな~い なぜかさみしいだけ~ なぜかむなしいだけ~ 

イントロ部分から終わりまで、イヤでも歌の隅々まで覚えてしまう。
おそらくこれまでの人生の中で、最も多く聴いた歌は、この歌だろう。

今もその歌が記憶の中に鮮明に刻み込まれているし、
日常でも不意に歌詞が浮かんで、つい口ずさんだりする。

その「また逢う日まで」を毎日聴かせられながら、
比較的ヒマだった楽器売り場に立ち、自分の将来について考えていた。

百貨店業務は社会人1年生の僕には厳しいものだった。
まず、じっと立ったままでいなければならないのが苦痛だった。

日・祝日は休めないので、勤めていた妻ともすれ違いだ。
新婚なのに…休みの日が合わないのは寂しいものです。

また、出向社員なので、百貨店の正社員とは一線を画されていた。
時には正社員でない故に、みじめな思いをさせられることもあった。

学生時代、夢に描いていた社会人生活とはおよそかけ離れていた。

そして、妻とも相談して、この会社を6月末で辞めることにした。

妻の勧めで、どこかの市役所の試験を受けて就職しようと考えた。

その時はまだ妻が兄さんの経営する病院で働いてくれていたし、
近くに自分の両親もいたので、生活は困らないだろうと思った。

近鉄百貨店に最後に出勤した6月末日も、相変わらず、
一日中、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」が流れていた。

そして、僕はその歌に見送られるように、最後の仕事を終えた。

その後、夏に松原市役所の職員募集の新聞記事を見て応募し、
運良く合格して、その年の8月から地方公務員になった。

その年の暮れ、「また逢う日」は日本レコード大賞を獲得した。
と同時に、前年創設された日本歌謡大賞も同時受賞したのだ。

今年はこの歌しかない…と各界から絶賛されたものだった。

当時は大晦日に放送されていたレコード大賞のテレビ番組で、
最後に発表された大賞曲「また逢う日まで」を尾崎が絶唱した。

それを聴きながら、僕はこの1年を回想した。

昭和46年は大学4年生から始まり、3月に結婚・卒業し、
6月までをこの歌を毎日聴きながら、百貨店の楽器売り場で働き、

夏に転職し、大晦日は、今度は公務員として尾崎紀世彦を聴いている…

そんな自分の、昭和46年の変化に富んだ1年を思い出す。

尾崎紀世彦さんの訃報に接し、さまざまな感慨が胸をよぎった。

「また逢う日まで」をカラオケで熱唱する人は多い。
僕もそのうちの一人であることは言うまでもありません。

心よりご冥福をお祈り致します。

次にカラオケに行った時は、一番先に、この歌いますからね。

http://www.youtube.com/watch?v=pSQ7HpOkqhg&feature=related

 

 

 

 

 

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あいだみつをさんの詩

2012年06月01日 | 日常のいろいろなこと

前回、老後はお金より体力が大事…という記事を書いたら、
知人の hiro さんからいただいたコメントの中に、
「お金も、なければ不便です~」という文がありました。

そうですよね。

前回紹介した養老孟司さんの著書の中の、

きちんと歩けるほうが財布に100万円入っているよりも、ずっと幸せです。

…という言葉は、まったくそのとおりなのですが、
財布に100万円…も、めちゃ幸せと思いません?

同じくコメントをいただいたのこたんさんも、

「養老孟司さんの言葉は納得できますが、
 私もやはり 『財布に100万円』 魅力的に思います(笑)

と書いてくださいました。

お金に振り回されるっていうのもイヤですけど、
かと言って、「幸せはお金では買えません…」
な~んて、超然としているのもどうやろね~?

よ~く考えよう。 お金は大事だよ~

というCMも、流行りましたしね。

「お金も、なければ不便です~」
という hiro さんのコメントで思い出したのは、
僕の好きなあいだみつをさんの詩です。

有名な詩ですが、ここでもちょいと紹介します。

 

     

 

…ということですよね。


ここまで書いて、これでピリオドを打つつもりでしたが、
あいだみつをさんの詩、ということになれば、
もうひとつだけ…この詩をご紹介したいです。

 

 

 

僕の、退職後の座右の銘でもあります。

 

 

 

 

 

 

コメント (6)
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