僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

お年玉年賀はがき 2等賞に当たった時のこと

2025年02月07日 | 思い出すこと

早いもので、もう2月に入って1週間経ちました。
節分も終わり、今はバレンタインデーが世間を騒がせています。
どんどん、どんどん、日にちが経っていきますね。

ところで、お正月の年賀状の「お年玉賞品当せん番号」が先月に発表されましたが、引き換え期間は7月22日まで、とのことですが、当選された方はもう賞品をもらいましたか?

僕は「年賀状じまい」をしているので、いただいた年賀状も十数枚と少数です。それでも、今年はその中で下2けたの「お年玉切手シート」が1枚だけ当たりました。まだもらいに行っていませんけど。

で、今日はこの「お年玉年賀はがき」のことなんですが…

2004年のことだと記憶しています。いまから20年少し前のことで、
モミィが生まれる前の年でした。

この年、お年玉付年賀はがきの2等賞が当たったのです。

年賀はがきの番号は全部で7ケタですよね。
それで、2等賞は下6ケタということで、10万枚に1枚の確率です。
その10万分の1の確率の2等賞に、当選したわけなんです。

その1月中旬に、当たりくじが新聞発表された日。
ハガキの番号を、1枚1枚丹念に照合し、全部、チェックを終え、
「あ~、また切手シールだけかぁ」
と軽くため息をついて、それで一応終わったのですけど。

お~っと、まだ調べていない年賀ハガキがあった。
書き損じて、隅っこに置いていたハガキが1枚あったのです。
ついでにこれも調べておかなければならない。

それを見ると…
その、書き損じたハガキの番号を見て、ビックリ仰天!
まさかと思ったそのハガキ。
2等賞の下6ケタの数字と、ピッタリと一致していました。
10万枚に1枚の2等当選のハガキが、こんなところから出てきたのです。

翌日、友だちのドイロン君から、僕の携帯にメールが入りました。

「あなたからもらった年賀ハガキが、もうちょっとで2等賞に当選するところでした。わずか数番違いだったのです。あなたが出されたハガキの中に、2等賞があるはずです。誰に当たったのでしょうね~」
…と、書いてありました。

で、僕は、ドイロンに、返事を送りました。
「そのハガキはたまたま書き損じのハガキだったので、出さずに僕が持ったままです」
なんとまぁ、悪運の強い…
な~んてことは、優しいドイロン君だから、思わなかっでしょうけどね~

そんなことで、「奇跡の2等賞」を得たのでした。

そしてそのハガキを持って、近所の郵便局へ行き、
「すみません。年賀ハガキ、2等が当たったんです」
と言ったら、カウンターの女性局員が、いぶかしげに、
「はぁ?」と聞き返したので、
「えぇ、お年玉年賀ハガキ、2等なんです」
と、ハガキをその人の目の前に見せたのでした。

すると、彼女はビックリした表情でまわりを見て、
他の局員の人たちも集まって来て、ハガキを確認し、
「へぇ~」と皆さん、顔を見合わせ、
「では、どうか、本局の方へ行ってください」
と、一人の男性局員に言われ、そこから、かなり距離のある本局まで行きました。

と、まぁ、こんな調子で、面白かったですわ。

ちなみに、当時の2等の賞品は、
ふるさとパック(地域特産物小包…約5000円)5個セットか、電子辞書のどちらで、価格的には2万5千円相当でした。

僕は電子辞書をもらいました。その電子辞書は今でも使っています。特に、このブログを書く時、物事や言葉の表現を確認するのにすご~く便利です。

今はもう、「年賀状じまい」などと言って、年賀状とはほぼご無沙汰していますけど、こんな貴重な思い出もあるんですわ。えへへ~

 

 

 

 

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TBSとオウム真理教

2025年02月03日 | 思い出すこと

高熱が出てから1週間が経ちました。
熱のほうは2日くらい前にほぼ平熱に戻りましたが、まだ鼻はグスグス言うし、喉の違和感も残っています。
年を取ってくると回復力も衰えてくるのかなぁ、と、しょんぼり。

さて、中居正広クンの問題は今やフジテレビ局の問題に発展して、同局に対する批判は広がる一方です。CMを辞退する企業も増え、今後テレビ局として、ちゃんとやって行けるのか? と思われるほどですよね。
また、ホントかウソか知らないけれど、フジテレビは中居クンに100億円の損害賠償請求をする…などという話もネットで飛び交っていますしね。
ホント、大騒動です。

そんなテレビ局の不祥事で思い出すのが、「TBSとオウム真理教」です。
一応ネットで確認したら、事件の発端は1989年(平成元年)でした。

このころ、オウム真理教が「怪しい宗教団体」のように報じられ始めていました。そのオウム真理教を強く批判していた一人に坂本弁護士という方がおられました。
で、TBSテレビが、ワイドショーで放送するために、その坂本弁護士にオウムに関するインタビューをしたのですが、その録画が放送される前に、そのことを知ったオウム側が、TBSにインタビューの映像を見せるように強く要求したとのこと。

そして結局、TBSは放送前に、それをオウム幹部に見せたということです。
それから間もなく、「坂本弁護士一家殺害事件」が発生。
坂本弁護士ご本人と奥様、そして子供さんの3人が殺害されたのです。
なんともひどい事件でした。

しかしオウムの関与は疑われたものの、確たる証拠も出なかったのか、捜査は終了し、事件は一時迷宮入りとなりました。この時は、TBSがインタビュー映像をオウムに見せたことは隠していたので、話題には上がりませんでした。もし公表していれば、坂本弁護士に関する事件に対して、もっとオウムへの疑いが濃厚になっていたはずなんですけどね。

そして6年後の1995年(平成7年)3月20日に、地下鉄サリン事件が起きました。これがオウム真理教によるテロと判明し、強制捜査の結果、坂本弁護士一家殺害事件もオウムの犯行だったことが明らかになりました。そしてその犯行の動機になったのが、TBSが坂本弁護士のインタビュー映像を、放送前にオウムの幹部に見せたことだった、ということでした。

これが分かったことで世論は当然の如くTBSを強く批判。
TBSは自局のワイドショーの放送をすべて打ち切り、
以後10年くらいはこの局ではワイドショーはなかったんですね。

とにかく、あの時も大騒動でした。

今回の「フジテレビ大騒動」を見ながら、
当時の「TBS大騒動」を思い出した次第です。

 

 

 

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大河ドラマ「べらぼう」と「♪学生時代」と

2025年01月10日 | 思い出すこと

昨年のNHK大河ドラマは「光る君へ」でしたね。
毎週、楽しみに見ていたので、終わっちゃって寂しいです。
紫式部(まひろ)が主人公で、吉高由里子さんにも魅せられました。
(以前も書きましたが、僕は彼女のファンですしね~)

さて、
百人一首は全部暗記している僕ですけど、この時代の人たちは和歌で自分の心境を表すので、ドラマの中にもいくつもの和歌が出ていました。むろん、百人一首に詠まれている歌も出てきました。清少納言とか和泉式部とか藤原ナンチャラの母、とかの歌がね。

でも、主人公の紫式部が百人一首にある和歌を詠うシーンは出てこないなぁ、と思っていたのですが、とうとう最終回に出てきました。

めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に、
雲隠れにし 夜半の(よわ)の月かな

思わずテレビの前で「出た!」と叫んだ僕でした。
妻はそんな僕を見て、笑っていました。
妻もこの「光る君へ」が大好きでした。


そして、

今年の大河ドラマは、ご承知のとおり、
「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」
というドラマです。
「蔦重栄華乃夢噺」って、ちょっと読みにくいですけど、
「つたじゅう えいがの ゆめばなし」と読むそうですね。

解説によると…

喜多川歌麿、葛飾北斎、山東京伝、滝沢馬琴らを見だし、東洲斎写楽を世に送り出したことで知られる“江戸のメディア王”蔦屋重三郎(1750‐1797)。 通称「蔦重(つたじゅう)」の波瀾万丈の生涯を描く。

ということだそうです。

これまでは、戦国時代か幕末を舞台にして人気を博していた大河ドラマですが、前回の平安時代に続き、今回は江戸時代なんですよね。
「明和9年、第10代将軍徳川家治の時代」ということだそうです。

そして、
その第1回目を先日の日曜日に見たんですけど…

吉原の大火事からドラマが始まりました。
そこで主人公の蔦重が、火事で身寄りを亡くした少年と出会うシーンがあります。そして蔦重は、その少年を自分の暮らす吉原に連れて行き、面倒をみてやることになるんですよね。

その少年の名前が「唐丸(からまる)」と言います。

それを見て、僕はビックリ仰天しました。
蔦重の「蔦(つた)」と、唐丸(からまる)です。

そして主人公の蔦重は、後に狂歌、戯作の制作も行い、
その際に、蔦唐丸(つたのからまる)と号した、と言われています。

つたの からまる!

う~~~ん。

僕と同世代の人たちはよく知っていると思いますが、昔、僕が高校から大学へ行った頃に、ペギー葉山の「学生時代」という歌が大ヒットしました。
題が「学生時代」ですから、当時の僕らにピッタリの歌ですよね。

その大ヒットした歌の出だしが、

♪ つたの絡まるチャペルで 祈りを捧げた日~
 夢多かりしあの頃の 想い出をたどれば~

というものだったんですよね。
そうです。
「つたのからまる」なんです。
この大河ドラマでも、蔦唐丸(つたのからまる)ですもんね。
そりゃ、びっくりしましたわ。

そんなことで、今年の大河ドラマが終わるまで、つまりこれから1年間、
毎週日曜日になれば、僕は、
「♪つたの絡まるチャペ~ルで 祈りをささげた日~」
という、懐かしい、ほんとに懐かしい歌を、心の中で口ずさみながらこのドラマを見ていることになるのでは、と、ニンマリしながら思っています。

 

ペギー葉山 学生時代

 

 

 

 

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僕の父と妻の父 何という偶然!

2024年12月22日 | 思い出すこと

僕の父(義父)は2002年の12月に亡くなっています。
先日、妻が「今年はおとうさんの年回忌じゃなかった?」
と言ったので、そういうことに疎い僕はネットで調べてみました。
そうしたら、2002年に亡くなった人は、今年、年忌法要を行う年とありました。「23回忌」なんだそうです。

それを妻に伝えると、
「やっぱりね。じゃぁ法要に行きましょう」
となって、先日、天王寺の一心寺へ行き、年忌法要をしてもらいました。

早いものですね。
父が亡くなってから、もう22年が経ちました。

父は12月の30日に病院で亡くなったのですが、その日は僕の勤務先の市役所の年末年始休暇が始まった日で、朝もゆっくり過ごしていました。すると電話が…

母からの電話で、父の訃報でした。
急いで長男の運転する車で妻と病院へ行ったのですが、
お葬式をいつするか、で、葬儀屋さんと話し合いました。
お正月になると火葬場も開いていないので、今日の30日にお通夜をして、明日の31日の大晦日にお葬式を挙げるのがいいのでは、という葬儀屋さんの提案で、そうすることに決めました。

そして、亡くなった翌日の大晦日にお葬式を挙げました。

そこで、なんとも偶然と言うか、不思議な巡り合わせと言うか、
その話をさせてもらいますと…

実は妻のお父さんが、それよりかなり以前に亡くなっていたのですが、
亡くなったのは12月29日でした。
そして30日にお通夜が行われ、お葬式は翌31日でした。

つまり、妻のお父さんも、大晦日の日にお葬式でした。
そして僕の父もまた、大晦日の日にお葬式だったのです。

何なんでしょうね~
この偶然は。

そんなことで、
父の「23回忌」の法要で一心寺へ行ったあと、阿倍野で妻と昼食を取りながら、妻のお父さんと僕の父の、生前の話題で会話が弾みました。

2人の父親も、あの世できっと喜んでいるでしょう。

「お互い、大晦日に、葬式をやったんですな~」
と、手を握り合ったりして(笑)。

 

 

 

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13日の金曜日

2024年12月13日 | 思い出すこと

今日は13日の金曜日ですね。

僕がいつまで経っても忘れることができないのが、昔々、大昔の映画、
「13日の金曜日」です。
あのシリーズの第1作目の映画は、ホントにホントに、恐かった。
今もあの映画を思い出すとぞっとします。

映画が上映されたのは1980(昭和55)年の8月でした。
その後この映画のシリーズは10作以上製作されましたが、この第1作を超えるものはない。と僕は思っています。

そこで、その大昔の映画の話ですけど。

僕はこの映画の試写会を申し込み、運良く当たったので、一人で大阪御堂筋の会館へ出かけて、その映画を見たのです。

試写会だったので、映画の始まる前に、舞台に著名な女性アナが出てきて、この映画の成り立ちや概要を説明してくれました。そして、最後に気になる言葉を残したあと、舞台を下りたのです。

その気になる言葉というのは…

「皆様、この映画が完全に終わるまでお席を立たないでくださいね」
という言葉でした。

つまり映画が終わって、エンディングロールになった時にも、そこで立って出て行ってはいけない、ということです。僕はそれを何となく聞いていたのですけど。

そして映画が始まった。

「13日の金曜日」シリーズは多くその後沢山ありましたけど、僕が見たのはその第一作目でした。

そのストーリーを紹介しますと…

あるキャンプ場の近くの湖で一人の少年が溺れて行方不明になった。その事故が起きたのが、13日の金曜日だった。その後、そのキャンプ場では奇怪な殺人事件が次々に発生し、さらにキャンプ指導員の男女2人も殺害される。そして、そのキャンプ場は閉鎖される…

そんなことがあってから何年か後に、そのキャンプ場が再開されることになった。何人かの若い元気な指導員候補生の男女がこのキャンプ場を訪れた。そして、そこでまた、その男女が次々と殺されていくのだ。(この殺され方が、また恐い)

最後にたった一人生き残ったのが、アリスという女性だった。

震えながら恐怖の夜を過ごすアリスのところへ、一人の見知らぬ中年の夫人が現れた。その夫人は、以前キャンプ場の湖で溺れた少年の母親だった。彼女が言うには、息子が溺れかかっていたとき、キャンプ場の指導員たちは遊びほうけていて、結局、見殺しにされて息子は死んでいった。それを恨んだ中年夫人は、2人の指導員を殺害した。そして今回の連続殺人も、自分の犯行である、と、恐るべき事実をアリスに告げたのだった。

ギャッ! この母親が犯人だったの? と驚くアリス。声も出ないほど、恐怖で身がすくんだ。そしてそのアリスに、母親が襲いかかってきた。

すさまじい格闘の末、アリスはなんとか相手を倒す。どうにか一命をとりとめたアリス。そして、いよいよ映画はラストシーンに入る。

夜が開け、それまで暗かった映画の画面もパッと明るくなり、朝日を反射してキラキラ光る美しい湖に小舟が浮かんでいる。その小舟の中から、アリスがすくっと身を起こして微笑んだ。
見ていてホッと胸をなでおろすシーンでしたね。

犯人の女(母親)は死んでしまった。
遠くからパトカーのサイレンも聞こえてきた。
自分を助けに来てくれたのだ。

舟の上で「あぁ助かったのだ」という安堵の表情で両手を広げ、天を仰ぐアリス。そしてエンディングロール画面に変わった。映画は終わったんですよね。

出演者、製作者らの名がスクロールされる。字ばかりのスクリーンを見ながら、そろそろ席を立つ観客もいた。

あぁ、恐かったなぁ。でも、最後の一人(アリス)は助かってよかった。そう思いながら、バッグを持って席を立とうとした瞬間、スクリーンには、再び先ほどの湖の小舟の光景が映し出された。
映画はまだ終わってなかった?
そして驚くべきシーンが。

湖の中からいきなりガバっと、泥だらけの小さな子供のような生き物が飛び出し、舟にいたアリスに飛びつき、ギュっと首を締めたのだ。

「キャ~~~!」 
と叫ぶアリス。
同時に観客からも悲鳴が上がり、映画館全体がどよめきました。

僕も思わず「わぁっ!」と叫んでしまった。椅子から転げ落ちるかと思ったほどです。いや~、このときは、本当に、本当に驚きましたね~

もう、映画は終ったはずだったのに、まさか、最後にそんな仕掛けが待っていたとは。

「皆様、この映画が完全に終わるまでお席を立たないでくださいね」
と、試写会の最初に女性アナが言ったのは、このことだったのだ。

と、まあ、そのときのことを、今も生々しく思い出すのです。

僕は、これまでの長い人生の中で、これほど恐い映画のラストシーンをいまだにありません。

試写会が終り、電車を乗り継いで帰途につき、藤井寺の駅から家まで歩きました。時間はかなり深夜に近く、人影のない道路をテクテク歩きながら、今見た映画のラストシーンがどうしても頭に浮かんでくるんですよね。

心臓が凍りつくような恐怖感に駆られる。
家に近づいてきて、溝のある薄気味悪い道に出た。そこを通るのが、もう恐くて恐くて仕方なかった。(もともと僕は大の恐がりなんです)

僕はそこから一目散に走った。なりふり構わず、思い切り走った。もしかして、溝の中から泥まみれの子供が自分の首に飛びついてくるのでは!

ぎゃぁ~
ぎゃぁ~

と、心の中で悲鳴を上げながら、一目散にわが家へ疾走したのです。

とまぁ、
そんなことで、13日の金曜日が来る度に、その映画を見た恐怖の夜のことを思い出すのです。今日も思い出したのでここに書きました。

なんだかねぇ。
死ぬまで忘れられそうにないかも、ですね~

 

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高校野球 京都勢が68年ぶりに優勝!

2024年08月23日 | 思い出すこと

きょう、夏の高校野球の決勝戦が行われましたね。
ご承知のように0対0で延長戦にもつれ込む大接戦の末、京都国際が2対1で関東第一を下して初優勝を飾りました。

さて、ここから、めちゃ古い話になるのですが

僕の両親は、結婚してから京都市上京区・西陣にある母の実家で暮らしていました。
実家は母の父(つまり祖父)が経営する、小さな自転車店でした。
なので僕が生まれたのもそこでしたが、間もなく両親が離婚、父が出て行きました。そして母は大阪へ出て行った。僕は京都の実家に残されて、祖父たちと暮らし、幼稚園までそこに住んだのです。

そして、幼稚園在園中に母が迎えに来て、僕を大阪へ連れて行き、小学1年生の時に母が再婚することになった男の人と3人で大阪市内で住むようになりました。その再婚相手、というのが、言うまでもなく僕の義父です。(なので僕は、その時から今の名字に変わりました)

その後も、春休みや夏休みになったら、僕は「生まれ故郷」である、京都の母の実家へ行って、ず~っとそこで過ごしていました。祖父が僕のことをすごく可愛がってくれましたしね~。

当時はまだテレビがなかった時代で、僕は祖父といっしょによくラジオを聴いていたのですが、祖父が一番熱心に聴いていたのが高校野球でした。

当時は京都代表の平安高校が全国屈指の強豪校でした。
高校野球が始まると、祖父はいつもラジオを聴きながら、
「がんばれ、平安!」
と、熱い応援を送っていたので、祖父のそばにくっついていた僕も、同じようにラジオに向かって「がんばれ、平安!」と叫んでいました。

当時は、京都代表は必ず平安高校だったようで、とにかく「高校野球といえば平安高校」というのが大昔からの僕の記憶です。

そしてきょう、京都代表の京都国際が見事に優勝を遂げました。
優勝の瞬間、テレビでは、こう言ってました。

「京都代表が優勝したのは 1956年の当時の平安高校以来68年ぶりです」

やっぱり平安高校の名前が出てきた。

それにしても、なんとまぁ、68年ぶり!

(平安高校自体は、今は別の学校名になっているようですけど)

京都代表が優勝したきょう、祖父はきっと草葉の陰で喜んでいるに違いありません。久しぶりにおじいちゃんの顔が浮かび、僕自身も、あの頃のことを懐かしく思い出した次第です。

おめでとう、平安高校! 

じゃなかった。京都国際高校!

 

 

 

 

 

 

 

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自転車旅行 出発の日

2024年06月17日 | 思い出すこと

きょう6月17日は思い出の日です。
毎年この日が来ると「あの時のこと」を思い出し、感慨に浸ってます。

これまでもブログに書いてきましたが、今年もまたそのネタです(笑)。

1969(昭和44)年、20歳の学生時代。自転車で東日本一周の旅に出発したのが6月17日でした。

大阪から福井~石川~富山~新潟~秋田~青森と日本海側を走り、北海道を時計回りに1周して本州に戻り、今度は下北半島から岩手、宮城、茨城、千葉、東京、名古屋と太平洋側を走り、大阪に帰って来たのが8月25日。70日間の自転車一人旅だった。あれからなんと55年の歳月が経ちました。
改めて「早いなぁ」と驚きます。

「あの日」は朝から雨が降っていた。いざ出発という日に、いきなり雨とはなんやねん、と暗い気分になった。後から知ったが、この日が梅雨入りした日だったそうです。

それにしても、何も出発の日から雨が降らなくてもいいじゃないか、と、僕は天を恨んだ。だけど、その後の旅では、当然ながら何度も雨に遭い、この程度の雨でへこたれてるようではだめだと思い知らされたわけですが。

特に北海道の帯広から襟裳岬へ向かって走った時は、バケツをひっくり返したような大雨で、海岸沿いの道路は雨宿りする場所さえなく、ひどい目にあったものだった。大雨の中、僕はイヤホーンでずっとラジオを聴いていたのだけど、この時はちょうど、当時19歳だった和田アキ子の大ヒット曲だった「どしゃぶりの雨の中で」が流れていたのにはビックリしたものでした。(実に強烈なタイミングの歌でした。和田アキ子も19歳ですよ)。

70日間の旅はほとんど野宿という、いわゆる放浪の旅みたいなもので、そんな中でも、心温まる人々との出会いや、珍体験、爆笑体験、恐怖体験など、数え切れないほどのハプニングの連続で、その後の人生では決して体験できないことが沢山ありました。誠に濃密な70日間でした。


いつか曽野綾子さんの本のこんな文章を読んだことがあります。

若いうちから、楽しかったことをよく記憶しておいて、これだけ面白い人生を送ったのだから、もういつ死んでもいいと思うような心理的決済を常につけておく習慣をつけるといい。(中略)。やはり冒険はいいものだ。冒険は心の寿命を延ばす。若い日に冒険しておくと、たぶん死に易くなる。

いつまでも心に残る文章です。

とにかく、若い日に冒険しておくと「死に易くなる」そうなので、ちょっと楽な気分にもなりますね(笑)。

その思い出深い自転車旅行の出発の日が、6月17日でした。

あれから55年だなんてね~
今のこの気持ち、どう表現していいのかわかりません。

 

 

 

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ジャンプの笠谷選手が亡くなる ~1972年の思い出~

2024年04月26日 | 思い出すこと

先ほどのニュースを見て驚いた。
「笠谷幸生さんが亡くなった」というニュースだった。享年80歳。
スキージャンプの選手で、札幌冬季五輪の英雄だった人だ。

えっ、笠谷幸生さんが?
何ともまぁ、久しぶりにこのお名前を聞いたわけですが。

 ………………………………………………………………

あれは1972年(昭和47年)の2月のことでした。

初めて日本で行われた冬季五輪。場所は北海道の札幌だった。
僕は結婚した翌年で、23歳。妻はお腹が大きかった。
4月に子供が生まれる、という時期でした。
(ちなみに、そのお腹の子は、今のモミィのパパです。古い話やねぇ~)

そんなお腹の大きい妻と2人で暮らしていた僕は、テレビの冬季五輪に夢中になっていたのです。

中でも最高に興奮したのがスキージャンプでした。
そこで笠谷選手が、冬のオリンピックで日本人として初めての金メダルを獲得したのです。しかもその種目、銀メダルに金野選手、銅メダルに青地選手と、1位から3位までの全部のメダルを日本選手が独占するという、夢のような結果でした。世界各国でも「快挙」として称賛されたようでした。

きょう、その笠谷選手が亡くなったとの報を聞き、長男が生まれた1972年(昭和47年)当時のことを思い出し、あの年は笠谷選手のことをはじめ、本当にいろんなことがあったんだなぁと思ったものです。

 
この本は、朝日グラフの「増刊」ということで、1972年を回顧する本で、僕の本棚にあったものを引っ張り出して、先ほど写真を撮りました。

 
 その本の最初のページに、笠谷選手の写真が載っています。
 やはり、1972年のトップスターだったんですよね。

当時はオリンピックは夏季、冬季とも、同じ年に行われており、この年は2月に札幌で冬季、8月にミュンヘンで夏季オリンピックが行われました。

それにしてもこの1972年というのは、いろんなことがありました。

田中角栄首相のもとに日中の国交回復があって、パンダが日本にやって来た。

 
 初めて日本へ来たパンダはカンカンとランラン。
 これはランランです。


大きな事件として、連合赤軍が浅間山荘に立てこもったあの事件は、日本中がテレビに釘付けになりました。

グアム島で、横井庄一さんが終戦から28年間、生き残ってジャングルの穴倉で生活をしていたことが発見されたのもこの年。

大阪ミナミでは千日デパートが焼け、100人以上の死者を出し、中でも7階のアルサロのホステスさんたちから大量の死傷者が出た、という事故もありました。

 ………………………………………………………………………

そして今日ですが、19年前の4月25日に、JR福知山線の尼崎で、列車がスピードを出し過ぎてカーブを曲がり切れずマンションに激突し、107名の方々が亡くなられた日でした。僕は当時、勤務先の市役所で執務中でしたが、同僚が「えらいことが起きたで!」と顔色を変えて伝えてくれたのを今でもはっきり記憶に残っています。
19年前と言えば2005年。その年の秋に、モミィが生まれました。

そんなことで、最近は特に、自分が歩んできた人生と、過去の世の中の出来事を思い比べることが多くなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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八代亜紀さんの「舟唄」で思い出す映画

2024年01月24日 | 思い出すこと

もう一ヵ月近く前になりますが、八代亜紀さんが亡くなったニュースには愕然とし、しばらく信じられない思いでした。

最近は自分と同世代の有名人が亡くなったという報道が多くなったような気がしてなりません。明らかに他人事ではありません。
八代亜紀さんともほぼ同世代ですしね。

さて、八代亜紀さんといえば「舟唄」で、僕もこの歌が大好きです。
そして

僕にとっては忘れられない映画の中で、この歌が出てきます。そしてそのシーンが特に忘れられないシーンとなりました。

1981年に制作された「駅  STATION」という名作。
主演の高倉健さんと倍賞千恵子さんが、居酒屋のテレビで紅白歌合戦を見るシーンが有名なんですよね。ご存知の方も多いと思いますが。

二人は身を寄せ合い、黙ってテレビの紅白を見ています。
ジュディ・オングが「魅せられて」を歌い、そのあとしばらくしたら小林幸子が出てきて「おもいで酒」を歌う。健さんと千恵子さんは身を寄せ合い、一言も言葉を交わすことなくじっとテレビを見ています。そして、ラストに八代亜紀が出てきて「舟唄」を歌うのです。この曲が流れる始めると、健さんは千恵子さんの肩を抱き、千恵子さんも健さんの手を握りというシーンでした。

調べてみると、これは1979年の紅白歌合戦でした。
この年は、この「舟唄」がレコード大賞の本命だと言われながらも逃し、翌年の「雨の慕情」で大賞を獲得したのですが、やはり「舟歌」が素晴らしい。

以来、お酒好きの僕は、一杯飲みながら「お酒はぬるめの燗がいい~」な~んて口ずさむのです。

そうか。
あの歌が生まれてからもう45年も経つのですね。

思い出深いその映画のシーンをネットで探してみるとすぐに出てきました。

そのひとつをここで再現してみます。

 

 

あぁ、何度見てもジーンときます。
よかったですわ。
この映画。
このシーン。

 

 

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18年前の「初めてのブログ」を紹介します

2023年09月19日 | 思い出すこと

前回「阪神優勝」の記事を書きました。
「2005年以来、18年ぶりの優勝」ということで、さらに続けて、
「2005年といえば、モミィが生まれた年です。阪神が優勝を決めたのがその年の9月の下旬。モミィが生まれたのも、ちょうその頃でした。もう、そんなに年月が経つんですよね~」と書きました。

そこでまた、あることを思い出したのですが

僕が初めてブログというものを始めたのもこの2005年だったのです。
その年の夏。書店で眼についた「ブログを始めてみよう」という本が面白そうなので買ったのが、そもそもの出発点でした。

今はその「初めてのブログ」はネット上から削除していますが、原文は僕のパソコンに残っています。ブログタイトルは今と同じ「僕のほそ道」です。

そこで今日は
その第一回目、つまり僕が初めてブログに書いた文章をそのままここに掲載したいと思います。その内容はなぜ「僕のほそ道」というタイトルにしたのか、ということをダラダラと書いたものですなんですけどね。
おヒマなら、読んでよね~

 …………………………………………………………………………

第一回目のタイトルは
「はじめまして。きょうからブログを始めます」
というものでした。(2005年07月26日)。

ここから、当時の文章をそのまま載せます。

          

ブログを開設するに当たって、まずタイトルが要りますよね。
そこで考えたのが、何かをもじったタイトルでいってみよう、ということ。
まず、四字熟語の「空前絶後」から「空言舌語」という言葉を浮かべてみた。
で、念のために検索してみたら、すでに使っている人が何人かいた。
へぇぇ、いるんだなぁ、と感心した。

次に古典文学をもじってみる。 
「平家物語」「平気物語」とシャレてみたのだが、これも使っている人が数多くいた。ふーむ、みな同じようなことを思いつくのだなぁ、とこれまた感心して、次にチャレンジしてみる。
もっと人の思いつかないようなものを考えなくっちゃ。

しかし人の思いつかないものを考え出すというのは至難の技であった。
「徒然草」にひっかけた「常々草」はみんな使っていたし、まさかなぁと思った「ズレズレ草」もいくつかあった。
「十六夜日記」ならぬ「いざ酔い日記」も数え切れないほど使われている。
 みんな、手ごわい。
う~ん。さらに頭をヒネる。

「土佐日記」にヒントを得て、「ドサ日記」。これは、どうだ!
いや、これもありました。

「枕草子」をもじって「枕のそうじ」。まさかこれは、ないだろ!
いえ、ありました。

ひたいから汗がにじみ出てくる。
僕はこれら自分の発想をひとつずつYahoo検索で確認していったのだが、考えてみたら、すべてがブログのタイトルとして使われていたのではなかったようである。それ以外で使われている言葉もあったんだろうけれど、それにしても、これでもか、これでもかと次々繰り出す珍タイトルは、すべて誰かがどこかで使っているのである。
大きな衝撃を受けた。

それでも僕はあきらめずに考え続けた。しかし
川端康成「伊豆の踊り子」からの連想で「伊豆のココリコ」っていうのが浮かんだが、調べてみたら、こんなものですら先客がいたのには腰を抜かしそうになった。誰が考えるんだろうね、こんなアホこと。ま、僕も考えたけど
太宰治「走れメロス」「恥知れメロス」にアレンジしても、やはり使っている人がいる。くぅぅ。どんな人や!

ギブアップする前に、最後に映画の題名をもじろうと、思いついたのが「ラストサムライ」
これを「ラスト寒ない?」というタイトルにしたら、どうよ。
う~ん。信じられないことに、これもね、1件出てきました。
もう、脱帽です。ギブアップです。

結局「僕のほそ道」というタイトルに決めました。これは、今のところブログタイトルとしては見かけないようですが、別のところで使っている方がおられます。でもね、もう、そんなこと考えていたらキリがないので、これに決めた~

 ……………………………………………………………………………

というのが僕が書いた最初のブログです。
「僕のほそ道」のタイトルの由縁でもあります。

阪神優勝やモミィの誕生と同じ、18年前のことです。
このブログは 2006年2月6日まで続けた末、閉じました。

そして今のこのブログは2007年12月1日から始めて、やがて16年を経過しようとしています。これは、まぁ、長く続いています。

最近は、日々の生活の変化も少なくなり、ブログを書こうという気力もつい衰えがちですが、でも、もう少し頑張って続けて行きたいと思っています。

何歳になっても、常に自分を磨くことに努めたい
そういう思いだけは、持ち続けたいですもんね。

 

 

 

 

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鯉のぼりと 鯨のぼり??

2023年05月02日 | 思い出すこと

僕が高校生の頃(大昔ですけど)、「文通」というのが流行していました。
会ったこともない人と手紙のやりとりをするわけですが、若い者向けの雑誌にも、「文通コーナー」というのがあって、そこに登録すると住所・氏名・年齢等が雑誌に掲載されて、それを見た人がその中の誰かに手紙を出し、「文通」が始まるというような形でした。

で、僕の場合は、高校生だった僕に、近所の薬屋さんのお姉ちゃんが、
「うちの親戚の女の子と文通せえへん?」と言ってきたのでOKしました。
その親戚の子というのは、徳島県の穴吹というところに住んでいました。
住所と氏名を聞いて僕は手紙を出しました。
「三宅知子」という人でした(よ~く覚えているでしょ、へへっ)。

1年間ぐらい、手紙のやりとりをしたのですが、結局会うことはなかったです。
ところで

その手紙で、僕は恥ずかしい間違いをしてしまった。
今日はその話なのですが、その間違いは何かというと

季節がちょうど今頃で、あちらこちらに鯉のぼりが見えていました。それを僕は手紙に書いたのですが、えらい間違いをしてしまいました。
「鯉のぼり」を間違って「鯨(くじら)のぼり」と書いたのです(笑)。
漢字の「鯉」と書くところを「鯨」と書いてしまったんですよね。
今はパソコンだから「こいのぼり」と打てば「鯉のぼり」と出ますが、当時は全部筆記だったのでね。漢字の書き間違いもありますよね~

「そろそろ鯨のぼりの季節になりましたが、お元気ですか?」
と書いたのだと思います。
すると相手の人が、
「『鯨のぼり』って面白いですねぇ」
と書いてきたのです。

それを見て「しまった。えらい間違いをした!」
僕は、穴があったら入りたいくらい恥ずかしい思いをしました。
「すみませ~ん。『鯨』ではなく『鯉』でしたね~」
というような返信をしたと思います。

そしてそんな記憶の底に消えかかっていた大昔のエピソードを、つい最近思い出したのです。
それは、NHKの「列島ニュース」という番組を見た時でした。
九州・宮崎市の佐土原町という町で、
「くじらのぼり」が掲げられているというニュースでした。
それを聞いて僕は「くじらのぼりだって?」とビックリ仰天。高校生の頃の文通相手の人に「鯨のぼり」と手紙に書いたあのことが、電光の如くよみがえってきたのです。

ニュースによると、宮崎市・佐土原町の「くじらのぼり」は、同町の商工会青年部が毎年「こどもの日」に向けて掲げているもので、鯨のようにたくましく育ってほしいという願いが込められており、この地方の名物になっているとのことでした。

文通の話は50年以上昔のことですが、まさかこの年になって「鯨のぼり」という存在を知り、実に感慨深いものがありました。

まぁ、そんなことでしたけど。
しかし「文通」と言うのも、今は死語となりましたね。

SNSのような形で、ネットで見知らぬ同士がつながるというのが今の時代ですけれど、かつてはこういう「文通」というのがあったんですよね。現代社会ではSNSがきっかけとなった犯罪が多発していますが、当時は「文通」で犯罪が起きたなんてこと聞いたことがありません。

やっぱり昔は、それなりの風情があって、良かったですねぇ(笑)。


 

 宮崎市・佐土原町の「くじらのぼり」の写真です。
 「鯉のぼり」ではなく、「鯨のぼり」ですよ(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

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初詣 道明寺天満宮で思い出すこと

2023年01月07日 | 思い出すこと

先日4日、新春恒例の道明寺天満宮へ初詣に行きました。

ここは毎年初詣に来るのですが、実はこの天満宮は僕にとって特別な記憶に残っている場所なんですよね。

で、またまた古い話になるんですけど

僕が小学1年生の時に母が再婚し、知人に預けていた僕を迎えに来た。そこから3人暮らしが始まった。住んだのは大阪市東住吉区の加美というところの狭いアパートの一室。新しい父親は商売をしていると母から聞いたけれど、実際は商売と言っても店舗はなく、露天商だった。店を出す場所は日によって異なり、父の地元だった柏原をはじめ、八尾、堺、羽曳野、松原、そして四天王寺さんも毎月21日に店を出し、父母は大阪のいろんな場所で露天商を営んでいました。僕はそういう親の仕事を「昼店、やってんねん」と人に言っていました。学校や近所の友達にはそういう子は一人もいませんでしたけどね。

父の露天商仲間は何十人もいて、一応父はそのグループの組長をしていました。(よく『暴力団』と間違われましたが、まぁ露天商はテキヤと言われたりしていましたからねぇ)。

僕も小学生の時は、休みの日は必ずついて行き、まわりの露天商の人たちから「のぼるちゃん、のぼるちゃん」と、可愛がってもらっていました。

そしてお正月の3日間に店を出していたのが、道明寺天満宮だったのです。
だから僕は、毎年お正月は父母といっしょにそこへ行き、店の後ろに座ったり、周辺をうろついたりしていました。
つまり僕の正月というのは「道明寺天満宮」そのものだったわけです。

今もここは、昔同然に屋台が出ているけれど、たこ焼きや唐揚げ、カステラなどの食べ物やボールすくいなど遊戯系の店ばかりです。でも両親が出していた頃は、今よりもっと店の種類が多く、食べ物などの他に、日用品や着物の生地、小間物、化粧品をはじめ、いろんな店がありました。で、うちの親は小間物と、財布やバンドの皮製品を扱っていました。

何しろ当時は昭和30年代で、まだスーパーマーケットもなかった時代です。
だから、どの地域で昼店を開いても、お客さんが多く、父の店にも常に人だかりがして、僕も中学ぐらいになると手伝ったこともありました。

今はもう、お正月以外には露店は少なくなっていますが、僕はお正月にこの道明寺天満宮に来るたびに、「あぁ、うちの親が小間物なんかを出していた露店はこのあたりやったかなぁ?」と、当時を思い浮かべるのです。

さて、年月を戻し
先日4日は、モミィが友だちと遊びに行くのに昼過ぎに家を出たので、僕らの初詣は午後からの出発になりました。

天満宮まで直接歩くと約50分程度ですが、少し道順を変えてみました。

大和川沿いの美しい風景を見ながら堤防の道を行くと、


中央からやや左の白く細長い建物が最近完成した柏原市役所です。
さらにそのすぐ右側に見えているのが二上山です。
前回ブログの「初日の出」で紹介させていただきました。
それにしても、空の雲の形がすごかったです~
この川の右側の向こうに道明寺天満宮があります。

僕等は写真の手前にある橋を渡り、
テクテク歩いて天満宮へ向かいました。


 
 そしてここが道明寺天満宮の入口付近です。
 お参りを済ませて帰るところです。
 妻が立っている横に露店が並んでいますが、
 今はほとんど食べるものばかりですね。


こういうお店が並んでいるのを見ると、
例によって少年時代を思い出します。

でもね。
そのころ、果たして初詣をしていたのか? 
したのを忘れたのか、本当にしていなかったのか?
そんな記憶は全然ありませ
ん。

まぁ、とてつもなく古い昔のことですからね~

さて、
また来年も、元気でテクテクと歩いて、
ここへ初詣に来られることを祈るばかりです。

 

 

 

 

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「ブラボー!」で思い出すあの時のこと

2022年12月05日 | 思い出すこと

さて、今夜というか、今夜から明日に日付が変わる午前零時から、W杯の決勝トーナメント初戦の日本対クロアチアの試合が行われますね。

ところで、このW杯の日本代表のメンバーの一人、長友佑都が日本チームの快挙に際して「ブラボー!」と叫びまくっていたことはご承知のとおりです。

僕はこの「ブラボー!」を聞くと必ず思い出すことがあります。以前も書いたことがありますが、この機会にもう一度書いてみたいと思います。

「ブラボー!」というのは、イタリア語ですね
それで、2005年にイタリアのフィレンツェに旅行した時のことですが

妻と2人でフィレンツェの街を歩き回ったあと、少し疲れたので、通りがかりの小さなお店に入りました。店の中にはお客さんはおらず、店のおばさんが一人いました。僕はそのおばさんに、いちおうイタリア語でビールを注文した。
「ビッラ・ペルファボール」
ビールはイタリア語で「ビッラ」と覚えていたし、「ペルファボール」は英語でいう「プリーズ」の意味です。

しかし
おばさんはすぐに返事を返してくれず、「ビッラ? ムニャムニャ?」と何やら僕に尋ねた。何だろう?と考えていると、おばさんは通じていないことがわかったようで、今度はわかりやすくジェスチャーで説明をしてくれました。

そのジェスチャーを見て、
「ビールというのは瓶のビールか? ジョッキの生ビールか?」
と聞いていることがわかったのです。
「ビッラ」には二通りあったのですね。
(日本もそうですけど)

それで、僕も身振り手振りでジョッキの仕草をしたら、おばさんはウンウンとうなずいて生ビールをテーブルへ運んできてくれました。
あぁ~~! 
その生ビールのよく冷えていておいしかったこと!

飲みながら、こっそりイタリア語の辞書を出し「生ビール」のイタリア語を調べてみると「スピーナ」だということを知りました。そして2杯目を頼もうと、またおばさんのいるカウンタへ行き、おばさんに声をかけました。
おばさんがこちらを見た時、僕はここぞとばかりに、
「スピーナ・ペルファボール」 と叫んだのです。

するとそのおばさんは一瞬、
「スピーナ?」
と言って驚いた様子でしたが、すぐそのあと、破顔一笑。
輝くような笑顔で僕の両腕をつかんで、
「ブラボーッ!」
と、店中に響き渡るような大声を上げて、喜んでくれたのです。

それは「アンタ。いつのまにその言葉を覚えたの。すごいわねぇ!」という表情でした。単語ひとつ覚えただけで、あんなに喜んでもらえたことって、これまでなかったことでした。
あの「ブラボー!」と言われた瞬間のことは、終生忘れらないです。

フィレンツェの街の中を流れるアルノ川の川沿いにあった小さなお店でしたが、本当に懐かしい思い出です。

長友選手が「ブラボー!」と叫ぶ姿をテレビで見るたびに、あのフィレンツェのお店のおばさんの「ブラボー!」の声と表情を思い出します。


  
これが、そのお店でスピーナ(生ビール)を飲んでいる写真です。
結構いい気持になってきているようで、たぶん2杯目かな?

 

 

 

 

 

 


 

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「舞いあがれ!」と近鉄バファローズ

2022年10月28日 | 思い出すこと

朝ドラの「舞いあがれ!」を毎日楽しみに見ています。
今は主人公の舞ちゃんも東大阪へ戻り、大学1年生になりましたね。

そこで、舞ちゃんたちがよく行くお好み焼き屋の「うめづ」というお店の主人(山口智充さん)なのですが、いつも近鉄バファローズのユニフォームを着ているんですよね。つまり近鉄の大ファンなわけ。僕はドラマで彼のユニフォーム姿が出て来るたびに懐かしさで胸が躍ります。今は無くなった近鉄バファローズだけど、このドラマの時代にはまだあったんですね。

 
  10月26日(水)の朝。BSプレミアムの放送での1シーン。
  (わが家のテレビより)
  

そこでドラマの時代設定を調べてみたのですが…

ドラマの最初のほう、舞ちゃんがおばあちゃんのいる五島列島へ行ったのは小学校3年生(たぶん8歳)で1994年の設定でした。そして今はそれから10年後ということですから、2004年ということになります。そこで近鉄バファローズの球団史を調べてみると、なんとこの2004年のシーズン終了後に、当時のオリックス・ブルーウェーブに吸収合併されています。つまりこの年が近鉄バファローズの最後の年になったんですよね。

その翌年からオリックス・バファローズとして今日に至っているわけですが、そうすると「舞いあがれ!」のお好み焼き屋「うめず」の主人が着ている近鉄バファローズのユニフォームも、この年限りとなります。ドラマの中で、この主人が近鉄球団が無くなることを知ったとき(たぶん、そういうシーンがあると思うのですが)どれだけ嘆き悲しむのだろうか、と、いささか心配になってきますわ。

さて、近鉄バファローズといえば、本拠地がわが街・藤井寺でした。近鉄電車の駅の前に藤井寺球場があり、子どもたちが小学生の頃はよく家族連れで観戦に行ったものです。今はもう取り壊されて、昔の面影はありませんけど。

そんなことで、「舞いあがれ!」を見ていると、久々に近鉄バファローズのユニフォームが見られたり、自転車旅行で行った思い出の五島列島・福江島の景色を楽しめたり、高校・大学と7年間通った東大阪市の空気を感じたりと、いろんな記憶がよみがえってきます。

あ、そうそう。小学生だった舞ちゃんが五島から東大阪に帰って来た時、お父さんに連れて行ってもらった生駒山の山頂にある遊園地で「飛行機」に乗って喜ぶシーンも懐かしい。僕もこれに乗ったことがありますが、山の頂上にある遊園地の飛行塔だけに、本当に空を飛んでいるような感覚がありました。

 

これまでの僕の人生で、遊園地で乗った乗り物の中で一番気分が爽快だったのが、この生駒山頂の飛行塔だったと思います。

ちなみに、逆に一番恐ろしかった乗り物は? と言えば
これはもう忘れもしない、東京ディズニーランドで妻と乗った、
「ビッグサンダー・マウンテン」でした。

2人とも「ギャァ~!」と悲鳴を上げっぱなし。あんな怖い目には、もう二度と遭いたくありません。

なんだか話がバラバラになってきました。
まぁ、いつものことですけど(笑)。

 

 

 

 

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ウエストミンスター寺院・エリザベス女王とダイアナ妃

2022年09月16日 | 思い出すこと

エリザベス女王の死去は世界各地でも大きく報じられていることと思います。今月の19日に予定されている国葬には天皇陛下も出席するとのことで、世界中から皇族や首脳陣が弔問に訪れるのでしょうね。

今日は静養地のスコットランドで亡くなられた女王のご遺体がロンドンに戻って来た様子が何度もテレビで映し出されていました。女王が生前に過ごされたバッキンガム宮殿も映り、葬儀が行われるウエストミンスター寺院も映っていましたが、その周辺は無数の人々で埋め尽くされていたのを見ると本当に国民から愛されていた女王様だっんだなぁと改めて思いましたね。

僕はロンドンには一度だけ行ったことがあります。中でも最も印象に残っているのがこのバッキンガム宮殿の周辺で、特にウエストミンスター寺院が忘れられません。ここはあのダイアナ妃の葬儀が行われた寺院なのでした。

ロンドンへ旅行したのは1999年1月で、妻と長男と3人での旅行でした。実はその1年半前に、ダイアナ妃が交通事故で非業の死を遂げたのでした。あの時は世界中の人たちが衝撃を受け、悲しんだ。そして僕たちがロンドンに行った時も、まだまだダイアナ妃の死に対するロンドンっ子の悲しみは消えていなかったようで、ツアーのガイドさんも熱い口調で彼女に関するいろんなエピソードを語ってくれました。 


 
テムズ川にかかる橋の上で。
後方の国会議事堂にそびえるビッグベンに向かって橋を渡り、
その裏側にあるウエストミンスター寺院へ行った。

ウエストミンスター寺院の前に来ると、
「こちらが、ダイアナ妃の葬儀が行われた寺院です」

とガイドさんが説明をしてくれました。
「そう…。ここでダイアナ妃の葬儀が
あの、美しかったダイアナ妃の顏が眼に浮かびました。

   
 ウエストミンスター寺院前で。

背景の寺院が白っぽくてわかりにくいので、
ネットの写真を載せます 

 
これだとわかりやすいですね。


そして、エリザベス女王がおられるバッキンガム宮殿もこの近くにあります。

ガイドさんの説明では、宮殿の建物の上の奥にある窓から旗が出ている時は女王様がご在宅で、出ていないときはご不在だということでしたが、その時は、かなり遠くで少しだけしか見えなかったのですが、
「あ、旗が出ていますね。女王様はいらっしゃいます」
とガイドさんが笑顔で言ったことを覚えています
まあ、窓からお顔を出されて手を振っていただけたら
嬉しかったのですが、一日中そんなことできませんしねぇ。

さて、そこから「衛兵の行進」というのが始まりました。

バッキンガム宮殿から兵隊さんたちが行進してくるのですが、これを目当てに大勢の観光客が訪れるということでした。

やがてその時間がやって来ました。

 
  画面後方に見えるのがバッキンガム宮殿です。

 

 
 そして衛兵たちが行進を始めました。
 迫力満点でしたよ。

このたびのエリザベス女王の死去に伴い、葬儀がウエストミンスター寺院で行われると聞き、その寺院の名称からダイアナ妃を思い出し、そしてロンドンの街をめぐった時の記憶が鮮明によみがえってきた次第です。

ダイアナ妃が亡くなられてから25年。
当時36歳という若さでした。

一方、エリザベス女王は96歳というご長命でした。
まさに大往生ですね。ご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

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