僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

地下鉄サリン事件の前日、銀座の地下鉄で

2025年03月21日 | 思い出すこと

昨日、3月20日は、メディアで報道されているように、地下鉄サリン事件が起きた日でした。

この事件で、14人が死亡し、6300人以上が被害に遭った。
決して忘れてはならない、未曽有のテロ事件です。
その事件が起きたのは1995(平成7年)の3月20日。
今からちょうど30年前ですね。

この事件に関しては、個人的にも忘れられないことがあります。
以前にも書いたことがありますが、改めて書きます。

1995年といえば、1月17日に阪神大震災が起きた年です。

その年、僕と妻は3月に、休暇をもらってパリに旅行する予定だったが、震災の惨状を見て恐怖心が湧き、余震もあり得るという報道もあったので、海外旅行に行くのが不安になった。で、パリ旅行を秋に延期することにし、その代わりに2人で東京へ旅行に行ったのです。

東京ディズニーランドへ初めて行ったのもこの時。
当時の日記を見ると、旅行は3月17日から19日までの3日間。
ディズニーランドには18日に行った。
そして大阪へ帰る日の3月19日のことでした。

お昼に銀座で東京での最後の食事を楽しんだ。
その日は日曜日だったので、銀座の道路は歩行者天国になっていた。
そこをぶらぶら歩きながら、地下鉄銀座駅の降り口へ行った。

階段を降りようとしたら、そこに一人の男性が立っていて、ちょうどティッシュペーパーを配るような感じで何かのカードを配っており、僕にもその1枚のカードをくれた。

見ると、東京の地下鉄の路線図だった。
僕はそのとき何も思わずにそれをポケットに入れ、
地下鉄に乗ってから改めて取り出して見てみると、

その路線図の裏に奇妙で不気味な文章が載っていた。

カードには、2ヵ月前に起きた阪神大震災のことに触れながら、

「日出る国、災い近し」

と書かれてあったのです。
そして…
「間もなく日本に大震災以上の大きな災いが訪れるであろう…」
ということが書かれていた。

何だこれは? 地下鉄の路線図と、何の関係があるの…?

と僕は不思議に思いながらも、それ以上は考えず、またポケットにしまいこみ、その後は、東京駅から新幹線に乗って夕方に大阪に帰り着いた。

そして翌日。3月20日の月曜日の午前のことである。

勤務先の市役所へ出勤したら、
ロビーのテレビの前に職員たちが群がっていた。

何事かと思って、僕もテレビの前へ行ってみた。
画面にニュースが流れていたのだが、
地下鉄の構内らしき光景が映っている。

「何これ? どこの地下鉄? 何かあったの?」

と僕がそばにいた後輩職員に問いかけた。すると彼は、 
「東京の地下鉄で毒がまかれて、大騒動になっているそうですよ」
と、言った。
「えっ? 地下鉄で毒がまかれた?」

僕が地下鉄サリン事件を知ったのは、この時だった。

そして翌日、
3月21日は春分の日で、仕事は休みだった。

僕は朝からTVニュースやワイドショーを見続けた。
もちろんどのチャンネルも地下鉄サリン事件一色であった。
それらの番組の中でひとつ、あれ…? と思うレポートがあった。
事件の前日に「あるもの」が配られていた、というのだ。

あるレポーターが、
「実はこういうものが前日の午後、銀座で配られていたということです」
と言いながら、テレビ画面にカードを示し、それがアップで映し出されたのを見て、僕はびっくりした。
僕が受け取った、あの地下鉄の路線図カードとそっくりだったのだ。

「間もなく日本に大震災以上の大きな災いが訪れるであろう」
と書かれてあった。

これは絶対に間違いない。
僕が銀座の地下鉄の降り口で男性から受け取ったものと、
まったく同じものだった。

レポーターが続けて言うには、この路線図のカードは東京都などが公式に作製したものとは違うものであり
「この路線図の中心には霞ヶ関駅が描かれています」
ということだった。

僕は、銀座で受け取ったその路線図カードを出してもう一度確かめた。
するとやはり霞が関が路線図の中心になっていた。
あとからわかったことだけど、サリン事件の主な現場となったのは地下鉄霞ケ関駅だった。

テレビではレポーターが「事件の前日に配られたこのカードには何かの意図を感じます。サリン事件を予告したのでしょうか?」と興奮しながら言っていた。

思えば僕は、オウム真理教の男からその路線図カードを受け取ったのだった。
そしてテレビの前で、そのカードを握ったまま、茫然自失となった。

  ………………………………………………………………………

ついこの間のことのようですが、あれから30年が経ちました。

昨日、そして今日と、テレビでこの事件のことが報じられています。

事件の1日前に東京の地下鉄に乗った僕たちとしては、この事件は思い出しただけでぞ~っとします。もし、もう1日遅ければ、サリンの被害に遭っていたかも知れない、という恐怖感も、なくはなかったです。

あの年は、1月に阪神大震災が起き、3月にこの事件が起き、と、
本当に怖い年でした。

あれが、今から30年も前のこととは…

本当に、時の経つのは早いです。

 

 

 

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東日本大震災から14年

2025年03月09日 | 思い出すこと

自然災害というのは、本当に怖い。
岩手県の大船渡の山火事は、発生から約10日経ってようやく雨が降り、鎮火しつつあるようだけど、まだ多くの人たちの避難指示は継続しているそうです。

最近益々、地震や豪雨や大雪の自然災害や、今回のような大火事など、災害のニュースが増えています。水道管が破裂して道路に大きな穴が開いたニュースにも驚きました。

そして、今日は3月9日です。

あの東日本大震災が起きた日は、2011年の3月11日でした。
つまり明後日ですが、あの大惨事から14年、です。


あの年。

震災から2ヶ月余り経った2011年5月19日に、

僕は一人で、宮城県へ行きました。

テレビ報道などで、地元の人々が、
「ぜひこの被災地の現状を見ていただきたい」
と訴えておられたことに、背中を押されたのでした。

このことは以前にも書いたことがありますが、
決して忘れてはならないことなので、
改めてその時のことを再掲載します。

 …………………………………………………………………………………


大阪からの夜行バスで仙台空港前まで行き、
空港の前から歩き始め、名取市内を抜け、

仙台市若林区へ入る道を歩こうと考えた。

空港から沿岸部を北東の方角に歩き、名取川を渡り、
そして仙台市の若林区に入って、そこから内陸部の仙台駅方向へ…

そういう予定を立てていた。
歩く距離は20~30キロぐらいだろうか。


歩き始めたのは午前9時半ごろだった。
しかし、いきなり方角がわからなくなった。
地図を持っているのだが、どこがどこなのか?

道の両側の光景には、背筋が凍りついた。
見たこともない光景だった。

散らばった瓦礫。壊れた家屋。ひしゃげた車。転がる舟。
そして、茫漠とした荒れ野が視界の全てを占めるような光景。

どんな言葉を尽くしても表現できない光景だった。

震災から2ヶ月以上が経ち、瓦礫はかなり撤去された様子だった。

それでもこれだから、被災した当初は、
想像を絶するものであったに違いない。

僕が歩いている道は、人影はなかった。

そこへ、ひとり、自衛隊員風の若い男性が立っていた。
僕を見て頭を下げられたので、
「お疲れさまです」と、僕も一礼した。

少し先の道路が十字路になっていたので、
その男性に道を訊いた。

「名取川を渡って仙台市に入りたいのですが」と言ったら、

「この道をまっすぐ行くと海に出てしまいますので、
 あちらのほうへ行かれるといいです」

と、男性は左手を指して、

「○○ (地名らしかったが聞き取れなかった) へ出ますので、
 そこへ行けば、仙台市の若林地区へ入れると思います」

「ありがとうございました」

教えてもらったその道を、また歩き始めた。
相変わらず人影はない。 
どこをどう眺めても、人の姿は見えない。
そして車の姿も見えなかったのだが…

すると車が1台、後方からやって来て、僕の横で止まった。
車の中には、年配の夫婦らしき男女2人が乗っていた。
助手席の奥様らしき人が、窓を開けて僕に呼びかけた。

「キタガワさんのお寺へはどう行けばいいのですか…?」
と、道を尋ねられたのだ。

「は…? あの~、すみませんが…」
僕は、この土地の者ではないのでわかりません、と詫びた。
(心の中では、知ってるわけないがな! な~んて叫んでいた)

しばらく行くと、バス停があった。
高柳、という名の停留所だったので、また地図を広げた。
あ、あった。地図に高柳という地名が…。

初めて地図上で、自分の歩いている場所を確認できた。
このまま行けば、閖上大橋というところで名取川を渡れる。
「閖上」 とは難しい文字だけど 「ゆりあげ」 と読む。

すでに12時を回っていた。 
歩き始めてから、3時間近くが経過した。
歩きながら、パンを食べ、水を飲んだ。

やがて閖上 (ゆりあげ) 大橋の手前まで来た。

道路の真ん中に、警官が3人ほど立っていた。
僕がそのまま行き過ぎようとしたら、女性の警官が、
「どちらへ行くのですか?」と、厳しい口調で尋ねた。

「閖上大橋を渡って仙台市若林区に入るつもりです」と言うと、

「この先は、関係車両以外、行けません」 
と女性警官がきっぱり言った。

それなら…と、左側に行く道があったので、
「じゃあ、そちらの道を行きます」と言うと、
「その先は通行止めです」と、また、きっぱりと言われた。

僕は途方に暮れた。
 
「では、この道を引き返すしかない…ということですか?」
という僕の言葉に、女性警官は、そうです、とうなずいた。

戻るとすれば、最寄の駅はJR名取駅ということになる。

でも、空港方向から歩いて来たので、
名取駅への道がわからない。そう伝えると、

「この道をまっすぐ行けば名取駅です。歩きでは大変でしょうが」 
と女性警官はそう言い残して、元の場所に戻って行った。

僕は仙台空港の前から、道に迷いながら、ここまで歩いてきた。
だから、名取駅の場所はわかっても、そこまでの距離が不明である。

地図を見ると、確かに名取駅へ引き返す道はわかりやすかった。
しかし、現在地からはずいぶんと遠い。 

本来なら名取駅へ行く路線バスが走っている道路である。
バス停があるのだから、間違いない。
しかし、現在そのバスは運行されていない。 
名取駅まで、何の交通手段もないのである。

バス停に、名取駅までの全停留所名が表示されていた。
それを数えてみたら、全部で12あった。
名取駅まで、バス停が12ヵ所もあるのだ。 
バス停からバス停までの距離も長そうだ。
それを12ヵ所通過して行かなければならない。

ここまで来たのに、またこんなところまで戻るのか?
そうと思うと、急に足が重くなった。

でも仕方ない。

ここまで歩いて来た道を、僕はまた戻り始めた。

 

 
 以下はいずれも、その時に歩きながら撮った写真です。
 (2011年5月19日。名取市)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  
   歩いて歩いて、ようやく名取駅が近づいてくると、
    コンビニが1件、営業していました。
   これでやっと現実に戻れた気がしました。
   


 

 

 

 

 

 

 

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お年玉年賀はがき 2等賞に当たった時のこと

2025年02月07日 | 思い出すこと

早いもので、もう2月に入って1週間経ちました。
節分も終わり、今はバレンタインデーが世間を騒がせています。
どんどん、どんどん、日にちが経っていきますね。

ところで、お正月の年賀状の「お年玉賞品当せん番号」が先月に発表されましたが、引き換え期間は7月22日まで、とのことですが、当選された方はもう賞品をもらいましたか?

僕は「年賀状じまい」をしているので、いただいた年賀状も十数枚と少数です。それでも、今年はその中で下2けたの「お年玉切手シート」が1枚だけ当たりました。まだもらいに行っていませんけど。

で、今日はこの「お年玉年賀はがき」のことなんですが…

2004年のことだと記憶しています。いまから20年少し前のことで、
モミィが生まれる前の年でした。

この年、お年玉付年賀はがきの2等賞が当たったのです。

年賀はがきの番号は全部で7ケタですよね。
それで、2等賞は下6ケタということで、10万枚に1枚の確率です。
その10万分の1の確率の2等賞に、当選したわけなんです。

その1月中旬に、当たりくじが新聞発表された日。
ハガキの番号を、1枚1枚丹念に照合し、全部、チェックを終え、
「あ~、また切手シールだけかぁ」
と軽くため息をついて、それで一応終わったのですけど。

お~っと、まだ調べていない年賀ハガキがあった。
書き損じて、隅っこに置いていたハガキが1枚あったのです。
ついでにこれも調べておかなければならない。

それを見ると…
その、書き損じたハガキの番号を見て、ビックリ仰天!
まさかと思ったそのハガキ。
2等賞の下6ケタの数字と、ピッタリと一致していました。
10万枚に1枚の2等当選のハガキが、こんなところから出てきたのです。

翌日、友だちのドイロン君から、僕の携帯にメールが入りました。

「あなたからもらった年賀ハガキが、もうちょっとで2等賞に当選するところでした。わずか数番違いだったのです。あなたが出されたハガキの中に、2等賞があるはずです。誰に当たったのでしょうね~」
…と、書いてありました。

で、僕は、ドイロンに、返事を送りました。
「そのハガキはたまたま書き損じのハガキだったので、出さずに僕が持ったままです」
なんとまぁ、悪運の強い…
な~んてことは、優しいドイロン君だから、思わなかっでしょうけどね~

そんなことで、「奇跡の2等賞」を得たのでした。

そしてそのハガキを持って、近所の郵便局へ行き、
「すみません。年賀ハガキ、2等が当たったんです」
と言ったら、カウンターの女性局員が、いぶかしげに、
「はぁ?」と聞き返したので、
「えぇ、お年玉年賀ハガキ、2等なんです」
と、ハガキをその人の目の前に見せたのでした。

すると、彼女はビックリした表情でまわりを見て、
他の局員の人たちも集まって来て、ハガキを確認し、
「へぇ~」と皆さん、顔を見合わせ、
「では、どうか、本局の方へ行ってください」
と、一人の男性局員に言われ、そこから、かなり距離のある本局まで行きました。

と、まぁ、こんな調子で、面白かったですわ。

ちなみに、当時の2等の賞品は、
ふるさとパック(地域特産物小包…約5000円)5個セットか、電子辞書のどちらで、価格的には2万5千円相当でした。

僕は電子辞書をもらいました。その電子辞書は今でも使っています。特に、このブログを書く時、物事や言葉の表現を確認するのにすご~く便利です。

今はもう、「年賀状じまい」などと言って、年賀状とはほぼご無沙汰していますけど、こんな貴重な思い出もあるんですわ。えへへ~

 

 

 

 

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TBSとオウム真理教

2025年02月03日 | 思い出すこと

高熱が出てから1週間が経ちました。
熱のほうは2日くらい前にほぼ平熱に戻りましたが、まだ鼻はグスグス言うし、喉の違和感も残っています。
年を取ってくると回復力も衰えてくるのかなぁ、と、しょんぼり。

さて、中居正広クンの問題は今やフジテレビ局の問題に発展して、同局に対する批判は広がる一方です。CMを辞退する企業も増え、今後テレビ局として、ちゃんとやって行けるのか? と思われるほどですよね。
また、ホントかウソか知らないけれど、フジテレビは中居クンに100億円の損害賠償請求をする…などという話もネットで飛び交っていますしね。
ホント、大騒動です。

そんなテレビ局の不祥事で思い出すのが、「TBSとオウム真理教」です。
一応ネットで確認したら、事件の発端は1989年(平成元年)でした。

このころ、オウム真理教が「怪しい宗教団体」のように報じられ始めていました。そのオウム真理教を強く批判していた一人に坂本弁護士という方がおられました。
で、TBSテレビが、ワイドショーで放送するために、その坂本弁護士にオウムに関するインタビューをしたのですが、その録画が放送される前に、そのことを知ったオウム側が、TBSにインタビューの映像を見せるように強く要求したとのこと。

そして結局、TBSは放送前に、それをオウム幹部に見せたということです。
それから間もなく、「坂本弁護士一家殺害事件」が発生。
坂本弁護士ご本人と奥様、そして子供さんの3人が殺害されたのです。
なんともひどい事件でした。

しかしオウムの関与は疑われたものの、確たる証拠も出なかったのか、捜査は終了し、事件は一時迷宮入りとなりました。この時は、TBSがインタビュー映像をオウムに見せたことは隠していたので、話題には上がりませんでした。もし公表していれば、坂本弁護士に関する事件に対して、もっとオウムへの疑いが濃厚になっていたはずなんですけどね。

そして6年後の1995年(平成7年)3月20日に、地下鉄サリン事件が起きました。これがオウム真理教によるテロと判明し、強制捜査の結果、坂本弁護士一家殺害事件もオウムの犯行だったことが明らかになりました。そしてその犯行の動機になったのが、TBSが坂本弁護士のインタビュー映像を、放送前にオウムの幹部に見せたことだった、ということでした。

これが分かったことで世論は当然の如くTBSを強く批判。
TBSは自局のワイドショーの放送をすべて打ち切り、
以後10年くらいはこの局ではワイドショーはなかったんですね。

とにかく、あの時も大騒動でした。

今回の「フジテレビ大騒動」を見ながら、
当時の「TBS大騒動」を思い出した次第です。

 

 

 

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大河ドラマ「べらぼう」と「♪学生時代」と

2025年01月10日 | 思い出すこと

昨年のNHK大河ドラマは「光る君へ」でしたね。
毎週、楽しみに見ていたので、終わっちゃって寂しいです。
紫式部(まひろ)が主人公で、吉高由里子さんにも魅せられました。
(以前も書きましたが、僕は彼女のファンですしね~)

さて、
百人一首は全部暗記している僕ですけど、この時代の人たちは和歌で自分の心境を表すので、ドラマの中にもいくつもの和歌が出ていました。むろん、百人一首に詠まれている歌も出てきました。清少納言とか和泉式部とか藤原ナンチャラの母、とかの歌がね。

でも、主人公の紫式部が百人一首にある和歌を詠うシーンは出てこないなぁ、と思っていたのですが、とうとう最終回に出てきました。

めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に、
雲隠れにし 夜半の(よわ)の月かな

思わずテレビの前で「出た!」と叫んだ僕でした。
妻はそんな僕を見て、笑っていました。
妻もこの「光る君へ」が大好きでした。


そして、

今年の大河ドラマは、ご承知のとおり、
「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」
というドラマです。
「蔦重栄華乃夢噺」って、ちょっと読みにくいですけど、
「つたじゅう えいがの ゆめばなし」と読むそうですね。

解説によると…

喜多川歌麿、葛飾北斎、山東京伝、滝沢馬琴らを見だし、東洲斎写楽を世に送り出したことで知られる“江戸のメディア王”蔦屋重三郎(1750‐1797)。 通称「蔦重(つたじゅう)」の波瀾万丈の生涯を描く。

ということだそうです。

これまでは、戦国時代か幕末を舞台にして人気を博していた大河ドラマですが、前回の平安時代に続き、今回は江戸時代なんですよね。
「明和9年、第10代将軍徳川家治の時代」ということだそうです。

そして、
その第1回目を先日の日曜日に見たんですけど…

吉原の大火事からドラマが始まりました。
そこで主人公の蔦重が、火事で身寄りを亡くした少年と出会うシーンがあります。そして蔦重は、その少年を自分の暮らす吉原に連れて行き、面倒をみてやることになるんですよね。

その少年の名前が「唐丸(からまる)」と言います。

それを見て、僕はビックリ仰天しました。
蔦重の「蔦(つた)」と、唐丸(からまる)です。

そして主人公の蔦重は、後に狂歌、戯作の制作も行い、
その際に、蔦唐丸(つたのからまる)と号した、と言われています。

つたの からまる!

う~~~ん。

僕と同世代の人たちはよく知っていると思いますが、昔、僕が高校から大学へ行った頃に、ペギー葉山の「学生時代」という歌が大ヒットしました。
題が「学生時代」ですから、当時の僕らにピッタリの歌ですよね。

その大ヒットした歌の出だしが、

♪ つたの絡まるチャペルで 祈りを捧げた日~
 夢多かりしあの頃の 想い出をたどれば~

というものだったんですよね。
そうです。
「つたのからまる」なんです。
この大河ドラマでも、蔦唐丸(つたのからまる)ですもんね。
そりゃ、びっくりしましたわ。

そんなことで、今年の大河ドラマが終わるまで、つまりこれから1年間、
毎週日曜日になれば、僕は、
「♪つたの絡まるチャペ~ルで 祈りをささげた日~」
という、懐かしい、ほんとに懐かしい歌を、心の中で口ずさみながらこのドラマを見ていることになるのでは、と、ニンマリしながら思っています。

 

ペギー葉山 学生時代

 

 

 

 

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僕の父と妻の父 何という偶然!

2024年12月22日 | 思い出すこと

僕の父(義父)は2002年の12月に亡くなっています。
先日、妻が「今年はおとうさんの年回忌じゃなかった?」
と言ったので、そういうことに疎い僕はネットで調べてみました。
そうしたら、2002年に亡くなった人は、今年、年忌法要を行う年とありました。「23回忌」なんだそうです。

それを妻に伝えると、
「やっぱりね。じゃぁ法要に行きましょう」
となって、先日、天王寺の一心寺へ行き、年忌法要をしてもらいました。

早いものですね。
父が亡くなってから、もう22年が経ちました。

父は12月の30日に病院で亡くなったのですが、その日は僕の勤務先の市役所の年末年始休暇が始まった日で、朝もゆっくり過ごしていました。すると電話が…

母からの電話で、父の訃報でした。
急いで長男の運転する車で妻と病院へ行ったのですが、
お葬式をいつするか、で、葬儀屋さんと話し合いました。
お正月になると火葬場も開いていないので、今日の30日にお通夜をして、明日の31日の大晦日にお葬式を挙げるのがいいのでは、という葬儀屋さんの提案で、そうすることに決めました。

そして、亡くなった翌日の大晦日にお葬式を挙げました。

そこで、なんとも偶然と言うか、不思議な巡り合わせと言うか、
その話をさせてもらいますと…

実は妻のお父さんが、それよりかなり以前に亡くなっていたのですが、
亡くなったのは12月29日でした。
そして30日にお通夜が行われ、お葬式は翌31日でした。

つまり、妻のお父さんも、大晦日の日にお葬式でした。
そして僕の父もまた、大晦日の日にお葬式だったのです。

何なんでしょうね~
この偶然は。

そんなことで、
父の「23回忌」の法要で一心寺へ行ったあと、阿倍野で妻と昼食を取りながら、妻のお父さんと僕の父の、生前の話題で会話が弾みました。

2人の父親も、あの世できっと喜んでいるでしょう。

「お互い、大晦日に、葬式をやったんですな~」
と、手を握り合ったりして(笑)。

 

 

 

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13日の金曜日

2024年12月13日 | 思い出すこと

今日は13日の金曜日ですね。

僕がいつまで経っても忘れることができないのが、昔々、大昔の映画、
「13日の金曜日」です。
あのシリーズの第1作目の映画は、ホントにホントに、恐かった。
今もあの映画を思い出すとぞっとします。

映画が上映されたのは1980(昭和55)年の8月でした。
その後この映画のシリーズは10作以上製作されましたが、この第1作を超えるものはない。と僕は思っています。

そこで、その大昔の映画の話ですけど。

僕はこの映画の試写会を申し込み、運良く当たったので、一人で大阪御堂筋の会館へ出かけて、その映画を見たのです。

試写会だったので、映画の始まる前に、舞台に著名な女性アナが出てきて、この映画の成り立ちや概要を説明してくれました。そして、最後に気になる言葉を残したあと、舞台を下りたのです。

その気になる言葉というのは…

「皆様、この映画が完全に終わるまでお席を立たないでくださいね」
という言葉でした。

つまり映画が終わって、エンディングロールになった時にも、そこで立って出て行ってはいけない、ということです。僕はそれを何となく聞いていたのですけど。

そして映画が始まった。

「13日の金曜日」シリーズは多くその後沢山ありましたけど、僕が見たのはその第一作目でした。

そのストーリーを紹介しますと…

あるキャンプ場の近くの湖で一人の少年が溺れて行方不明になった。その事故が起きたのが、13日の金曜日だった。その後、そのキャンプ場では奇怪な殺人事件が次々に発生し、さらにキャンプ指導員の男女2人も殺害される。そして、そのキャンプ場は閉鎖される…

そんなことがあってから何年か後に、そのキャンプ場が再開されることになった。何人かの若い元気な指導員候補生の男女がこのキャンプ場を訪れた。そして、そこでまた、その男女が次々と殺されていくのだ。(この殺され方が、また恐い)

最後にたった一人生き残ったのが、アリスという女性だった。

震えながら恐怖の夜を過ごすアリスのところへ、一人の見知らぬ中年の夫人が現れた。その夫人は、以前キャンプ場の湖で溺れた少年の母親だった。彼女が言うには、息子が溺れかかっていたとき、キャンプ場の指導員たちは遊びほうけていて、結局、見殺しにされて息子は死んでいった。それを恨んだ中年夫人は、2人の指導員を殺害した。そして今回の連続殺人も、自分の犯行である、と、恐るべき事実をアリスに告げたのだった。

ギャッ! この母親が犯人だったの? と驚くアリス。声も出ないほど、恐怖で身がすくんだ。そしてそのアリスに、母親が襲いかかってきた。

すさまじい格闘の末、アリスはなんとか相手を倒す。どうにか一命をとりとめたアリス。そして、いよいよ映画はラストシーンに入る。

夜が開け、それまで暗かった映画の画面もパッと明るくなり、朝日を反射してキラキラ光る美しい湖に小舟が浮かんでいる。その小舟の中から、アリスがすくっと身を起こして微笑んだ。
見ていてホッと胸をなでおろすシーンでしたね。

犯人の女(母親)は死んでしまった。
遠くからパトカーのサイレンも聞こえてきた。
自分を助けに来てくれたのだ。

舟の上で「あぁ助かったのだ」という安堵の表情で両手を広げ、天を仰ぐアリス。そしてエンディングロール画面に変わった。映画は終わったんですよね。

出演者、製作者らの名がスクロールされる。字ばかりのスクリーンを見ながら、そろそろ席を立つ観客もいた。

あぁ、恐かったなぁ。でも、最後の一人(アリス)は助かってよかった。そう思いながら、バッグを持って席を立とうとした瞬間、スクリーンには、再び先ほどの湖の小舟の光景が映し出された。
映画はまだ終わってなかった?
そして驚くべきシーンが。

湖の中からいきなりガバっと、泥だらけの小さな子供のような生き物が飛び出し、舟にいたアリスに飛びつき、ギュっと首を締めたのだ。

「キャ~~~!」 
と叫ぶアリス。
同時に観客からも悲鳴が上がり、映画館全体がどよめきました。

僕も思わず「わぁっ!」と叫んでしまった。椅子から転げ落ちるかと思ったほどです。いや~、このときは、本当に、本当に驚きましたね~

もう、映画は終ったはずだったのに、まさか、最後にそんな仕掛けが待っていたとは。

「皆様、この映画が完全に終わるまでお席を立たないでくださいね」
と、試写会の最初に女性アナが言ったのは、このことだったのだ。

と、まあ、そのときのことを、今も生々しく思い出すのです。

僕は、これまでの長い人生の中で、これほど恐い映画のラストシーンをいまだにありません。

試写会が終り、電車を乗り継いで帰途につき、藤井寺の駅から家まで歩きました。時間はかなり深夜に近く、人影のない道路をテクテク歩きながら、今見た映画のラストシーンがどうしても頭に浮かんでくるんですよね。

心臓が凍りつくような恐怖感に駆られる。
家に近づいてきて、溝のある薄気味悪い道に出た。そこを通るのが、もう恐くて恐くて仕方なかった。(もともと僕は大の恐がりなんです)

僕はそこから一目散に走った。なりふり構わず、思い切り走った。もしかして、溝の中から泥まみれの子供が自分の首に飛びついてくるのでは!

ぎゃぁ~
ぎゃぁ~

と、心の中で悲鳴を上げながら、一目散にわが家へ疾走したのです。

とまぁ、
そんなことで、13日の金曜日が来る度に、その映画を見た恐怖の夜のことを思い出すのです。今日も思い出したのでここに書きました。

なんだかねぇ。
死ぬまで忘れられそうにないかも、ですね~

 

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高校野球 京都勢が68年ぶりに優勝!

2024年08月23日 | 思い出すこと

きょう、夏の高校野球の決勝戦が行われましたね。
ご承知のように0対0で延長戦にもつれ込む大接戦の末、京都国際が2対1で関東第一を下して初優勝を飾りました。

さて、ここから、めちゃ古い話になるのですが

僕の両親は、結婚してから京都市上京区・西陣にある母の実家で暮らしていました。
実家は母の父(つまり祖父)が経営する、小さな自転車店でした。
なので僕が生まれたのもそこでしたが、間もなく両親が離婚、父が出て行きました。そして母は大阪へ出て行った。僕は京都の実家に残されて、祖父たちと暮らし、幼稚園までそこに住んだのです。

そして、幼稚園在園中に母が迎えに来て、僕を大阪へ連れて行き、小学1年生の時に母が再婚することになった男の人と3人で大阪市内で住むようになりました。その再婚相手、というのが、言うまでもなく僕の義父です。(なので僕は、その時から今の名字に変わりました)

その後も、春休みや夏休みになったら、僕は「生まれ故郷」である、京都の母の実家へ行って、ず~っとそこで過ごしていました。祖父が僕のことをすごく可愛がってくれましたしね~。

当時はまだテレビがなかった時代で、僕は祖父といっしょによくラジオを聴いていたのですが、祖父が一番熱心に聴いていたのが高校野球でした。

当時は京都代表の平安高校が全国屈指の強豪校でした。
高校野球が始まると、祖父はいつもラジオを聴きながら、
「がんばれ、平安!」
と、熱い応援を送っていたので、祖父のそばにくっついていた僕も、同じようにラジオに向かって「がんばれ、平安!」と叫んでいました。

当時は、京都代表は必ず平安高校だったようで、とにかく「高校野球といえば平安高校」というのが大昔からの僕の記憶です。

そしてきょう、京都代表の京都国際が見事に優勝を遂げました。
優勝の瞬間、テレビでは、こう言ってました。

「京都代表が優勝したのは 1956年の当時の平安高校以来68年ぶりです」

やっぱり平安高校の名前が出てきた。

それにしても、なんとまぁ、68年ぶり!

(平安高校自体は、今は別の学校名になっているようですけど)

京都代表が優勝したきょう、祖父はきっと草葉の陰で喜んでいるに違いありません。久しぶりにおじいちゃんの顔が浮かび、僕自身も、あの頃のことを懐かしく思い出した次第です。

おめでとう、平安高校! 

じゃなかった。京都国際高校!

 

 

 

 

 

 

 

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自転車旅行 出発の日

2024年06月17日 | 思い出すこと

きょう6月17日は思い出の日です。
毎年この日が来ると「あの時のこと」を思い出し、感慨に浸ってます。

これまでもブログに書いてきましたが、今年もまたそのネタです(笑)。

1969(昭和44)年、20歳の学生時代。自転車で東日本一周の旅に出発したのが6月17日でした。

大阪から福井~石川~富山~新潟~秋田~青森と日本海側を走り、北海道を時計回りに1周して本州に戻り、今度は下北半島から岩手、宮城、茨城、千葉、東京、名古屋と太平洋側を走り、大阪に帰って来たのが8月25日。70日間の自転車一人旅だった。あれからなんと55年の歳月が経ちました。
改めて「早いなぁ」と驚きます。

「あの日」は朝から雨が降っていた。いざ出発という日に、いきなり雨とはなんやねん、と暗い気分になった。後から知ったが、この日が梅雨入りした日だったそうです。

それにしても、何も出発の日から雨が降らなくてもいいじゃないか、と、僕は天を恨んだ。だけど、その後の旅では、当然ながら何度も雨に遭い、この程度の雨でへこたれてるようではだめだと思い知らされたわけですが。

特に北海道の帯広から襟裳岬へ向かって走った時は、バケツをひっくり返したような大雨で、海岸沿いの道路は雨宿りする場所さえなく、ひどい目にあったものだった。大雨の中、僕はイヤホーンでずっとラジオを聴いていたのだけど、この時はちょうど、当時19歳だった和田アキ子の大ヒット曲だった「どしゃぶりの雨の中で」が流れていたのにはビックリしたものでした。(実に強烈なタイミングの歌でした。和田アキ子も19歳ですよ)。

70日間の旅はほとんど野宿という、いわゆる放浪の旅みたいなもので、そんな中でも、心温まる人々との出会いや、珍体験、爆笑体験、恐怖体験など、数え切れないほどのハプニングの連続で、その後の人生では決して体験できないことが沢山ありました。誠に濃密な70日間でした。


いつか曽野綾子さんの本のこんな文章を読んだことがあります。

若いうちから、楽しかったことをよく記憶しておいて、これだけ面白い人生を送ったのだから、もういつ死んでもいいと思うような心理的決済を常につけておく習慣をつけるといい。(中略)。やはり冒険はいいものだ。冒険は心の寿命を延ばす。若い日に冒険しておくと、たぶん死に易くなる。

いつまでも心に残る文章です。

とにかく、若い日に冒険しておくと「死に易くなる」そうなので、ちょっと楽な気分にもなりますね(笑)。

その思い出深い自転車旅行の出発の日が、6月17日でした。

あれから55年だなんてね~
今のこの気持ち、どう表現していいのかわかりません。

 

 

 

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ジャンプの笠谷選手が亡くなる ~1972年の思い出~

2024年04月26日 | 思い出すこと

先ほどのニュースを見て驚いた。
「笠谷幸生さんが亡くなった」というニュースだった。享年80歳。
スキージャンプの選手で、札幌冬季五輪の英雄だった人だ。

えっ、笠谷幸生さんが?
何ともまぁ、久しぶりにこのお名前を聞いたわけですが。

 ………………………………………………………………

あれは1972年(昭和47年)の2月のことでした。

初めて日本で行われた冬季五輪。場所は北海道の札幌だった。
僕は結婚した翌年で、23歳。妻はお腹が大きかった。
4月に子供が生まれる、という時期でした。
(ちなみに、そのお腹の子は、今のモミィのパパです。古い話やねぇ~)

そんなお腹の大きい妻と2人で暮らしていた僕は、テレビの冬季五輪に夢中になっていたのです。

中でも最高に興奮したのがスキージャンプでした。
そこで笠谷選手が、冬のオリンピックで日本人として初めての金メダルを獲得したのです。しかもその種目、銀メダルに金野選手、銅メダルに青地選手と、1位から3位までの全部のメダルを日本選手が独占するという、夢のような結果でした。世界各国でも「快挙」として称賛されたようでした。

きょう、その笠谷選手が亡くなったとの報を聞き、長男が生まれた1972年(昭和47年)当時のことを思い出し、あの年は笠谷選手のことをはじめ、本当にいろんなことがあったんだなぁと思ったものです。

 
この本は、朝日グラフの「増刊」ということで、1972年を回顧する本で、僕の本棚にあったものを引っ張り出して、先ほど写真を撮りました。

 
 その本の最初のページに、笠谷選手の写真が載っています。
 やはり、1972年のトップスターだったんですよね。

当時はオリンピックは夏季、冬季とも、同じ年に行われており、この年は2月に札幌で冬季、8月にミュンヘンで夏季オリンピックが行われました。

それにしてもこの1972年というのは、いろんなことがありました。

田中角栄首相のもとに日中の国交回復があって、パンダが日本にやって来た。

 
 初めて日本へ来たパンダはカンカンとランラン。
 これはランランです。


大きな事件として、連合赤軍が浅間山荘に立てこもったあの事件は、日本中がテレビに釘付けになりました。

グアム島で、横井庄一さんが終戦から28年間、生き残ってジャングルの穴倉で生活をしていたことが発見されたのもこの年。

大阪ミナミでは千日デパートが焼け、100人以上の死者を出し、中でも7階のアルサロのホステスさんたちから大量の死傷者が出た、という事故もありました。

 ………………………………………………………………………

そして今日ですが、19年前の4月25日に、JR福知山線の尼崎で、列車がスピードを出し過ぎてカーブを曲がり切れずマンションに激突し、107名の方々が亡くなられた日でした。僕は当時、勤務先の市役所で執務中でしたが、同僚が「えらいことが起きたで!」と顔色を変えて伝えてくれたのを今でもはっきり記憶に残っています。
19年前と言えば2005年。その年の秋に、モミィが生まれました。

そんなことで、最近は特に、自分が歩んできた人生と、過去の世の中の出来事を思い比べることが多くなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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八代亜紀さんの「舟唄」で思い出す映画

2024年01月24日 | 思い出すこと

もう一ヵ月近く前になりますが、八代亜紀さんが亡くなったニュースには愕然とし、しばらく信じられない思いでした。

最近は自分と同世代の有名人が亡くなったという報道が多くなったような気がしてなりません。明らかに他人事ではありません。
八代亜紀さんともほぼ同世代ですしね。

さて、八代亜紀さんといえば「舟唄」で、僕もこの歌が大好きです。
そして

僕にとっては忘れられない映画の中で、この歌が出てきます。そしてそのシーンが特に忘れられないシーンとなりました。

1981年に制作された「駅  STATION」という名作。
主演の高倉健さんと倍賞千恵子さんが、居酒屋のテレビで紅白歌合戦を見るシーンが有名なんですよね。ご存知の方も多いと思いますが。

二人は身を寄せ合い、黙ってテレビの紅白を見ています。
ジュディ・オングが「魅せられて」を歌い、そのあとしばらくしたら小林幸子が出てきて「おもいで酒」を歌う。健さんと千恵子さんは身を寄せ合い、一言も言葉を交わすことなくじっとテレビを見ています。そして、ラストに八代亜紀が出てきて「舟唄」を歌うのです。この曲が流れる始めると、健さんは千恵子さんの肩を抱き、千恵子さんも健さんの手を握りというシーンでした。

調べてみると、これは1979年の紅白歌合戦でした。
この年は、この「舟唄」がレコード大賞の本命だと言われながらも逃し、翌年の「雨の慕情」で大賞を獲得したのですが、やはり「舟歌」が素晴らしい。

以来、お酒好きの僕は、一杯飲みながら「お酒はぬるめの燗がいい~」な~んて口ずさむのです。

そうか。
あの歌が生まれてからもう45年も経つのですね。

思い出深いその映画のシーンをネットで探してみるとすぐに出てきました。

そのひとつをここで再現してみます。

 

 

あぁ、何度見てもジーンときます。
よかったですわ。
この映画。
このシーン。

 

 

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18年前の「初めてのブログ」を紹介します

2023年09月19日 | 思い出すこと

前回「阪神優勝」の記事を書きました。
「2005年以来、18年ぶりの優勝」ということで、さらに続けて、
「2005年といえば、モミィが生まれた年です。阪神が優勝を決めたのがその年の9月の下旬。モミィが生まれたのも、ちょうその頃でした。もう、そんなに年月が経つんですよね~」と書きました。

そこでまた、あることを思い出したのですが

僕が初めてブログというものを始めたのもこの2005年だったのです。
その年の夏。書店で眼についた「ブログを始めてみよう」という本が面白そうなので買ったのが、そもそもの出発点でした。

今はその「初めてのブログ」はネット上から削除していますが、原文は僕のパソコンに残っています。ブログタイトルは今と同じ「僕のほそ道」です。

そこで今日は
その第一回目、つまり僕が初めてブログに書いた文章をそのままここに掲載したいと思います。その内容はなぜ「僕のほそ道」というタイトルにしたのか、ということをダラダラと書いたものですなんですけどね。
おヒマなら、読んでよね~

 …………………………………………………………………………

第一回目のタイトルは
「はじめまして。きょうからブログを始めます」
というものでした。(2005年07月26日)。

ここから、当時の文章をそのまま載せます。

          

ブログを開設するに当たって、まずタイトルが要りますよね。
そこで考えたのが、何かをもじったタイトルでいってみよう、ということ。
まず、四字熟語の「空前絶後」から「空言舌語」という言葉を浮かべてみた。
で、念のために検索してみたら、すでに使っている人が何人かいた。
へぇぇ、いるんだなぁ、と感心した。

次に古典文学をもじってみる。 
「平家物語」「平気物語」とシャレてみたのだが、これも使っている人が数多くいた。ふーむ、みな同じようなことを思いつくのだなぁ、とこれまた感心して、次にチャレンジしてみる。
もっと人の思いつかないようなものを考えなくっちゃ。

しかし人の思いつかないものを考え出すというのは至難の技であった。
「徒然草」にひっかけた「常々草」はみんな使っていたし、まさかなぁと思った「ズレズレ草」もいくつかあった。
「十六夜日記」ならぬ「いざ酔い日記」も数え切れないほど使われている。
 みんな、手ごわい。
う~ん。さらに頭をヒネる。

「土佐日記」にヒントを得て、「ドサ日記」。これは、どうだ!
いや、これもありました。

「枕草子」をもじって「枕のそうじ」。まさかこれは、ないだろ!
いえ、ありました。

ひたいから汗がにじみ出てくる。
僕はこれら自分の発想をひとつずつYahoo検索で確認していったのだが、考えてみたら、すべてがブログのタイトルとして使われていたのではなかったようである。それ以外で使われている言葉もあったんだろうけれど、それにしても、これでもか、これでもかと次々繰り出す珍タイトルは、すべて誰かがどこかで使っているのである。
大きな衝撃を受けた。

それでも僕はあきらめずに考え続けた。しかし
川端康成「伊豆の踊り子」からの連想で「伊豆のココリコ」っていうのが浮かんだが、調べてみたら、こんなものですら先客がいたのには腰を抜かしそうになった。誰が考えるんだろうね、こんなアホこと。ま、僕も考えたけど
太宰治「走れメロス」「恥知れメロス」にアレンジしても、やはり使っている人がいる。くぅぅ。どんな人や!

ギブアップする前に、最後に映画の題名をもじろうと、思いついたのが「ラストサムライ」
これを「ラスト寒ない?」というタイトルにしたら、どうよ。
う~ん。信じられないことに、これもね、1件出てきました。
もう、脱帽です。ギブアップです。

結局「僕のほそ道」というタイトルに決めました。これは、今のところブログタイトルとしては見かけないようですが、別のところで使っている方がおられます。でもね、もう、そんなこと考えていたらキリがないので、これに決めた~

 ……………………………………………………………………………

というのが僕が書いた最初のブログです。
「僕のほそ道」のタイトルの由縁でもあります。

阪神優勝やモミィの誕生と同じ、18年前のことです。
このブログは 2006年2月6日まで続けた末、閉じました。

そして今のこのブログは2007年12月1日から始めて、やがて16年を経過しようとしています。これは、まぁ、長く続いています。

最近は、日々の生活の変化も少なくなり、ブログを書こうという気力もつい衰えがちですが、でも、もう少し頑張って続けて行きたいと思っています。

何歳になっても、常に自分を磨くことに努めたい
そういう思いだけは、持ち続けたいですもんね。

 

 

 

 

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鯉のぼりと 鯨のぼり??

2023年05月02日 | 思い出すこと

僕が高校生の頃(大昔ですけど)、「文通」というのが流行していました。
会ったこともない人と手紙のやりとりをするわけですが、若い者向けの雑誌にも、「文通コーナー」というのがあって、そこに登録すると住所・氏名・年齢等が雑誌に掲載されて、それを見た人がその中の誰かに手紙を出し、「文通」が始まるというような形でした。

で、僕の場合は、高校生だった僕に、近所の薬屋さんのお姉ちゃんが、
「うちの親戚の女の子と文通せえへん?」と言ってきたのでOKしました。
その親戚の子というのは、徳島県の穴吹というところに住んでいました。
住所と氏名を聞いて僕は手紙を出しました。
「三宅知子」という人でした(よ~く覚えているでしょ、へへっ)。

1年間ぐらい、手紙のやりとりをしたのですが、結局会うことはなかったです。
ところで

その手紙で、僕は恥ずかしい間違いをしてしまった。
今日はその話なのですが、その間違いは何かというと

季節がちょうど今頃で、あちらこちらに鯉のぼりが見えていました。それを僕は手紙に書いたのですが、えらい間違いをしてしまいました。
「鯉のぼり」を間違って「鯨(くじら)のぼり」と書いたのです(笑)。
漢字の「鯉」と書くところを「鯨」と書いてしまったんですよね。
今はパソコンだから「こいのぼり」と打てば「鯉のぼり」と出ますが、当時は全部筆記だったのでね。漢字の書き間違いもありますよね~

「そろそろ鯨のぼりの季節になりましたが、お元気ですか?」
と書いたのだと思います。
すると相手の人が、
「『鯨のぼり』って面白いですねぇ」
と書いてきたのです。

それを見て「しまった。えらい間違いをした!」
僕は、穴があったら入りたいくらい恥ずかしい思いをしました。
「すみませ~ん。『鯨』ではなく『鯉』でしたね~」
というような返信をしたと思います。

そしてそんな記憶の底に消えかかっていた大昔のエピソードを、つい最近思い出したのです。
それは、NHKの「列島ニュース」という番組を見た時でした。
九州・宮崎市の佐土原町という町で、
「くじらのぼり」が掲げられているというニュースでした。
それを聞いて僕は「くじらのぼりだって?」とビックリ仰天。高校生の頃の文通相手の人に「鯨のぼり」と手紙に書いたあのことが、電光の如くよみがえってきたのです。

ニュースによると、宮崎市・佐土原町の「くじらのぼり」は、同町の商工会青年部が毎年「こどもの日」に向けて掲げているもので、鯨のようにたくましく育ってほしいという願いが込められており、この地方の名物になっているとのことでした。

文通の話は50年以上昔のことですが、まさかこの年になって「鯨のぼり」という存在を知り、実に感慨深いものがありました。

まぁ、そんなことでしたけど。
しかし「文通」と言うのも、今は死語となりましたね。

SNSのような形で、ネットで見知らぬ同士がつながるというのが今の時代ですけれど、かつてはこういう「文通」というのがあったんですよね。現代社会ではSNSがきっかけとなった犯罪が多発していますが、当時は「文通」で犯罪が起きたなんてこと聞いたことがありません。

やっぱり昔は、それなりの風情があって、良かったですねぇ(笑)。


 

 宮崎市・佐土原町の「くじらのぼり」の写真です。
 「鯉のぼり」ではなく、「鯨のぼり」ですよ(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

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初詣 道明寺天満宮で思い出すこと

2023年01月07日 | 思い出すこと

先日4日、新春恒例の道明寺天満宮へ初詣に行きました。

ここは毎年初詣に来るのですが、実はこの天満宮は僕にとって特別な記憶に残っている場所なんですよね。

で、またまた古い話になるんですけど

僕が小学1年生の時に母が再婚し、知人に預けていた僕を迎えに来た。そこから3人暮らしが始まった。住んだのは大阪市東住吉区の加美というところの狭いアパートの一室。新しい父親は商売をしていると母から聞いたけれど、実際は商売と言っても店舗はなく、露天商だった。店を出す場所は日によって異なり、父の地元だった柏原をはじめ、八尾、堺、羽曳野、松原、そして四天王寺さんも毎月21日に店を出し、父母は大阪のいろんな場所で露天商を営んでいました。僕はそういう親の仕事を「昼店、やってんねん」と人に言っていました。学校や近所の友達にはそういう子は一人もいませんでしたけどね。

父の露天商仲間は何十人もいて、一応父はそのグループの組長をしていました。(よく『暴力団』と間違われましたが、まぁ露天商はテキヤと言われたりしていましたからねぇ)。

僕も小学生の時は、休みの日は必ずついて行き、まわりの露天商の人たちから「のぼるちゃん、のぼるちゃん」と、可愛がってもらっていました。

そしてお正月の3日間に店を出していたのが、道明寺天満宮だったのです。
だから僕は、毎年お正月は父母といっしょにそこへ行き、店の後ろに座ったり、周辺をうろついたりしていました。
つまり僕の正月というのは「道明寺天満宮」そのものだったわけです。

今もここは、昔同然に屋台が出ているけれど、たこ焼きや唐揚げ、カステラなどの食べ物やボールすくいなど遊戯系の店ばかりです。でも両親が出していた頃は、今よりもっと店の種類が多く、食べ物などの他に、日用品や着物の生地、小間物、化粧品をはじめ、いろんな店がありました。で、うちの親は小間物と、財布やバンドの皮製品を扱っていました。

何しろ当時は昭和30年代で、まだスーパーマーケットもなかった時代です。
だから、どの地域で昼店を開いても、お客さんが多く、父の店にも常に人だかりがして、僕も中学ぐらいになると手伝ったこともありました。

今はもう、お正月以外には露店は少なくなっていますが、僕はお正月にこの道明寺天満宮に来るたびに、「あぁ、うちの親が小間物なんかを出していた露店はこのあたりやったかなぁ?」と、当時を思い浮かべるのです。

さて、年月を戻し
先日4日は、モミィが友だちと遊びに行くのに昼過ぎに家を出たので、僕らの初詣は午後からの出発になりました。

天満宮まで直接歩くと約50分程度ですが、少し道順を変えてみました。

大和川沿いの美しい風景を見ながら堤防の道を行くと、


中央からやや左の白く細長い建物が最近完成した柏原市役所です。
さらにそのすぐ右側に見えているのが二上山です。
前回ブログの「初日の出」で紹介させていただきました。
それにしても、空の雲の形がすごかったです~
この川の右側の向こうに道明寺天満宮があります。

僕等は写真の手前にある橋を渡り、
テクテク歩いて天満宮へ向かいました。


 
 そしてここが道明寺天満宮の入口付近です。
 お参りを済ませて帰るところです。
 妻が立っている横に露店が並んでいますが、
 今はほとんど食べるものばかりですね。


こういうお店が並んでいるのを見ると、
例によって少年時代を思い出します。

でもね。
そのころ、果たして初詣をしていたのか? 
したのを忘れたのか、本当にしていなかったのか?
そんな記憶は全然ありませ
ん。

まぁ、とてつもなく古い昔のことですからね~

さて、
また来年も、元気でテクテクと歩いて、
ここへ初詣に来られることを祈るばかりです。

 

 

 

 

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「ブラボー!」で思い出すあの時のこと

2022年12月05日 | 思い出すこと

さて、今夜というか、今夜から明日に日付が変わる午前零時から、W杯の決勝トーナメント初戦の日本対クロアチアの試合が行われますね。

ところで、このW杯の日本代表のメンバーの一人、長友佑都が日本チームの快挙に際して「ブラボー!」と叫びまくっていたことはご承知のとおりです。

僕はこの「ブラボー!」を聞くと必ず思い出すことがあります。以前も書いたことがありますが、この機会にもう一度書いてみたいと思います。

「ブラボー!」というのは、イタリア語ですね
それで、2005年にイタリアのフィレンツェに旅行した時のことですが

妻と2人でフィレンツェの街を歩き回ったあと、少し疲れたので、通りがかりの小さなお店に入りました。店の中にはお客さんはおらず、店のおばさんが一人いました。僕はそのおばさんに、いちおうイタリア語でビールを注文した。
「ビッラ・ペルファボール」
ビールはイタリア語で「ビッラ」と覚えていたし、「ペルファボール」は英語でいう「プリーズ」の意味です。

しかし
おばさんはすぐに返事を返してくれず、「ビッラ? ムニャムニャ?」と何やら僕に尋ねた。何だろう?と考えていると、おばさんは通じていないことがわかったようで、今度はわかりやすくジェスチャーで説明をしてくれました。

そのジェスチャーを見て、
「ビールというのは瓶のビールか? ジョッキの生ビールか?」
と聞いていることがわかったのです。
「ビッラ」には二通りあったのですね。
(日本もそうですけど)

それで、僕も身振り手振りでジョッキの仕草をしたら、おばさんはウンウンとうなずいて生ビールをテーブルへ運んできてくれました。
あぁ~~! 
その生ビールのよく冷えていておいしかったこと!

飲みながら、こっそりイタリア語の辞書を出し「生ビール」のイタリア語を調べてみると「スピーナ」だということを知りました。そして2杯目を頼もうと、またおばさんのいるカウンタへ行き、おばさんに声をかけました。
おばさんがこちらを見た時、僕はここぞとばかりに、
「スピーナ・ペルファボール」 と叫んだのです。

するとそのおばさんは一瞬、
「スピーナ?」
と言って驚いた様子でしたが、すぐそのあと、破顔一笑。
輝くような笑顔で僕の両腕をつかんで、
「ブラボーッ!」
と、店中に響き渡るような大声を上げて、喜んでくれたのです。

それは「アンタ。いつのまにその言葉を覚えたの。すごいわねぇ!」という表情でした。単語ひとつ覚えただけで、あんなに喜んでもらえたことって、これまでなかったことでした。
あの「ブラボー!」と言われた瞬間のことは、終生忘れらないです。

フィレンツェの街の中を流れるアルノ川の川沿いにあった小さなお店でしたが、本当に懐かしい思い出です。

長友選手が「ブラボー!」と叫ぶ姿をテレビで見るたびに、あのフィレンツェのお店のおばさんの「ブラボー!」の声と表情を思い出します。


  
これが、そのお店でスピーナ(生ビール)を飲んでいる写真です。
結構いい気持になってきているようで、たぶん2杯目かな?

 

 

 

 

 

 


 

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