僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

自転車旅行 出発の日

2024年06月17日 | 思い出すこと

きょう6月17日は思い出の日です。
毎年この日が来ると「あの時のこと」を思い出し、感慨に浸ってます。

これまでもブログに書いてきましたが、今年もまたそのネタです(笑)。

1969(昭和44)年、20歳の学生時代。自転車で東日本一周の旅に出発したのが6月17日でした。

大阪から福井~石川~富山~新潟~秋田~青森と日本海側を走り、北海道を時計回りに1周して本州に戻り、今度は下北半島から岩手、宮城、茨城、千葉、東京、名古屋と太平洋側を走り、大阪に帰って来たのが8月25日。70日間の自転車一人旅だった。あれからなんと55年の歳月が経ちました。
改めて「早いなぁ」と驚きます。

「あの日」は朝から雨が降っていた。いざ出発という日に、いきなり雨とはなんやねん、と暗い気分になった。後から知ったが、この日が梅雨入りした日だったそうです。

それにしても、何も出発の日から雨が降らなくてもいいじゃないか、と、僕は天を恨んだ。だけど、その後の旅では、当然ながら何度も雨に遭い、この程度の雨でへこたれてるようではだめだと思い知らされたわけですが。

特に北海道の帯広から襟裳岬へ向かって走った時は、バケツをひっくり返したような大雨で、海岸沿いの道路は雨宿りする場所さえなく、ひどい目にあったものだった。大雨の中、僕はイヤホーンでずっとラジオを聴いていたのだけど、この時はちょうど、当時19歳だった和田アキ子の大ヒット曲だった「どしゃぶりの雨の中で」が流れていたのにはビックリしたものでした。(実に強烈なタイミングの歌でした。和田アキ子も19歳ですよ)。

70日間の旅はほとんど野宿という、いわゆる放浪の旅みたいなもので、そんな中でも、心温まる人々との出会いや、珍体験、爆笑体験、恐怖体験など、数え切れないほどのハプニングの連続で、その後の人生では決して体験できないことが沢山ありました。誠に濃密な70日間でした。


いつか曽野綾子さんの本のこんな文章を読んだことがあります。

若いうちから、楽しかったことをよく記憶しておいて、これだけ面白い人生を送ったのだから、もういつ死んでもいいと思うような心理的決済を常につけておく習慣をつけるといい。(中略)。やはり冒険はいいものだ。冒険は心の寿命を延ばす。若い日に冒険しておくと、たぶん死に易くなる。

いつまでも心に残る文章です。

とにかく、若い日に冒険しておくと「死に易くなる」そうなので、ちょっと楽な気分にもなりますね(笑)。

その思い出深い自転車旅行の出発の日が、6月17日でした。

あれから55年だなんてね~
今のこの気持ち、どう表現していいのかわかりません。

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャンプの笠谷選手が亡くなる ~1972年の思い出~

2024年04月26日 | 思い出すこと

先ほどのニュースを見て驚いた。
「笠谷幸生さんが亡くなった」というニュースだった。享年80歳。
スキージャンプの選手で、札幌冬季五輪の英雄だった人だ。

えっ、笠谷幸生さんが?
何ともまぁ、久しぶりにこのお名前を聞いたわけですが。

 ………………………………………………………………

あれは1972年(昭和47年)の2月のことでした。

初めて日本で行われた冬季五輪。場所は北海道の札幌だった。
僕は結婚した翌年で、23歳。妻はお腹が大きかった。
4月に子供が生まれる、という時期でした。
(ちなみに、そのお腹の子は、今のモミィのパパです。古い話やねぇ~)

そんなお腹の大きい妻と2人で暮らしていた僕は、テレビの冬季五輪に夢中になっていたのです。

中でも最高に興奮したのがスキージャンプでした。
そこで笠谷選手が、冬のオリンピックで日本人として初めての金メダルを獲得したのです。しかもその種目、銀メダルに金野選手、銅メダルに青地選手と、1位から3位までの全部のメダルを日本選手が独占するという、夢のような結果でした。世界各国でも「快挙」として称賛されたようでした。

きょう、その笠谷選手が亡くなったとの報を聞き、長男が生まれた1972年(昭和47年)当時のことを思い出し、あの年は笠谷選手のことをはじめ、本当にいろんなことがあったんだなぁと思ったものです。

 
この本は、朝日グラフの「増刊」ということで、1972年を回顧する本で、僕の本棚にあったものを引っ張り出して、先ほど写真を撮りました。

 
 その本の最初のページに、笠谷選手の写真が載っています。
 やはり、1972年のトップスターだったんですよね。

当時はオリンピックは夏季、冬季とも、同じ年に行われており、この年は2月に札幌で冬季、8月にミュンヘンで夏季オリンピックが行われました。

それにしてもこの1972年というのは、いろんなことがありました。

田中角栄首相のもとに日中の国交回復があって、パンダが日本にやって来た。

 
 初めて日本へ来たパンダはカンカンとランラン。
 これはランランです。


大きな事件として、連合赤軍が浅間山荘に立てこもったあの事件は、日本中がテレビに釘付けになりました。

グアム島で、横井庄一さんが終戦から28年間、生き残ってジャングルの穴倉で生活をしていたことが発見されたのもこの年。

大阪ミナミでは千日デパートが焼け、100人以上の死者を出し、中でも7階のアルサロのホステスさんたちから大量の死傷者が出た、という事故もありました。

 ………………………………………………………………………

そして今日ですが、19年前の4月25日に、JR福知山線の尼崎で、列車がスピードを出し過ぎてカーブを曲がり切れずマンションに激突し、107名の方々が亡くなられた日でした。僕は当時、勤務先の市役所で執務中でしたが、同僚が「えらいことが起きたで!」と顔色を変えて伝えてくれたのを今でもはっきり記憶に残っています。
19年前と言えば2005年。その年の秋に、モミィが生まれました。

そんなことで、最近は特に、自分が歩んできた人生と、過去の世の中の出来事を思い比べることが多くなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八代亜紀さんの「舟唄」で思い出す映画

2024年01月24日 | 思い出すこと

もう一ヵ月近く前になりますが、八代亜紀さんが亡くなったニュースには愕然とし、しばらく信じられない思いでした。

最近は自分と同世代の有名人が亡くなったという報道が多くなったような気がしてなりません。明らかに他人事ではありません。
八代亜紀さんともほぼ同世代ですしね。

さて、八代亜紀さんといえば「舟唄」で、僕もこの歌が大好きです。
そして

僕にとっては忘れられない映画の中で、この歌が出てきます。そしてそのシーンが特に忘れられないシーンとなりました。

1981年に制作された「駅  STATION」という名作。
主演の高倉健さんと倍賞千恵子さんが、居酒屋のテレビで紅白歌合戦を見るシーンが有名なんですよね。ご存知の方も多いと思いますが。

二人は身を寄せ合い、黙ってテレビの紅白を見ています。
ジュディ・オングが「魅せられて」を歌い、そのあとしばらくしたら小林幸子が出てきて「おもいで酒」を歌う。健さんと千恵子さんは身を寄せ合い、一言も言葉を交わすことなくじっとテレビを見ています。そして、ラストに八代亜紀が出てきて「舟唄」を歌うのです。この曲が流れる始めると、健さんは千恵子さんの肩を抱き、千恵子さんも健さんの手を握りというシーンでした。

調べてみると、これは1979年の紅白歌合戦でした。
この年は、この「舟唄」がレコード大賞の本命だと言われながらも逃し、翌年の「雨の慕情」で大賞を獲得したのですが、やはり「舟歌」が素晴らしい。

以来、お酒好きの僕は、一杯飲みながら「お酒はぬるめの燗がいい~」な~んて口ずさむのです。

そうか。
あの歌が生まれてからもう45年も経つのですね。

思い出深いその映画のシーンをネットで探してみるとすぐに出てきました。

そのひとつをここで再現してみます。

 

 

あぁ、何度見てもジーンときます。
よかったですわ。
この映画。
このシーン。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

18年前の「初めてのブログ」を紹介します

2023年09月19日 | 思い出すこと

前回「阪神優勝」の記事を書きました。
「2005年以来、18年ぶりの優勝」ということで、さらに続けて、
「2005年といえば、モミィが生まれた年です。阪神が優勝を決めたのがその年の9月の下旬。モミィが生まれたのも、ちょうその頃でした。もう、そんなに年月が経つんですよね~」と書きました。

そこでまた、あることを思い出したのですが

僕が初めてブログというものを始めたのもこの2005年だったのです。
その年の夏。書店で眼についた「ブログを始めてみよう」という本が面白そうなので買ったのが、そもそもの出発点でした。

今はその「初めてのブログ」はネット上から削除していますが、原文は僕のパソコンに残っています。ブログタイトルは今と同じ「僕のほそ道」です。

そこで今日は
その第一回目、つまり僕が初めてブログに書いた文章をそのままここに掲載したいと思います。その内容はなぜ「僕のほそ道」というタイトルにしたのか、ということをダラダラと書いたものですなんですけどね。
おヒマなら、読んでよね~

 …………………………………………………………………………

第一回目のタイトルは
「はじめまして。きょうからブログを始めます」
というものでした。(2005年07月26日)。

ここから、当時の文章をそのまま載せます。

          

ブログを開設するに当たって、まずタイトルが要りますよね。
そこで考えたのが、何かをもじったタイトルでいってみよう、ということ。
まず、四字熟語の「空前絶後」から「空言舌語」という言葉を浮かべてみた。
で、念のために検索してみたら、すでに使っている人が何人かいた。
へぇぇ、いるんだなぁ、と感心した。

次に古典文学をもじってみる。 
「平家物語」「平気物語」とシャレてみたのだが、これも使っている人が数多くいた。ふーむ、みな同じようなことを思いつくのだなぁ、とこれまた感心して、次にチャレンジしてみる。
もっと人の思いつかないようなものを考えなくっちゃ。

しかし人の思いつかないものを考え出すというのは至難の技であった。
「徒然草」にひっかけた「常々草」はみんな使っていたし、まさかなぁと思った「ズレズレ草」もいくつかあった。
「十六夜日記」ならぬ「いざ酔い日記」も数え切れないほど使われている。
 みんな、手ごわい。
う~ん。さらに頭をヒネる。

「土佐日記」にヒントを得て、「ドサ日記」。これは、どうだ!
いや、これもありました。

「枕草子」をもじって「枕のそうじ」。まさかこれは、ないだろ!
いえ、ありました。

ひたいから汗がにじみ出てくる。
僕はこれら自分の発想をひとつずつYahoo検索で確認していったのだが、考えてみたら、すべてがブログのタイトルとして使われていたのではなかったようである。それ以外で使われている言葉もあったんだろうけれど、それにしても、これでもか、これでもかと次々繰り出す珍タイトルは、すべて誰かがどこかで使っているのである。
大きな衝撃を受けた。

それでも僕はあきらめずに考え続けた。しかし
川端康成「伊豆の踊り子」からの連想で「伊豆のココリコ」っていうのが浮かんだが、調べてみたら、こんなものですら先客がいたのには腰を抜かしそうになった。誰が考えるんだろうね、こんなアホこと。ま、僕も考えたけど
太宰治「走れメロス」「恥知れメロス」にアレンジしても、やはり使っている人がいる。くぅぅ。どんな人や!

ギブアップする前に、最後に映画の題名をもじろうと、思いついたのが「ラストサムライ」
これを「ラスト寒ない?」というタイトルにしたら、どうよ。
う~ん。信じられないことに、これもね、1件出てきました。
もう、脱帽です。ギブアップです。

結局「僕のほそ道」というタイトルに決めました。これは、今のところブログタイトルとしては見かけないようですが、別のところで使っている方がおられます。でもね、もう、そんなこと考えていたらキリがないので、これに決めた~

 ……………………………………………………………………………

というのが僕が書いた最初のブログです。
「僕のほそ道」のタイトルの由縁でもあります。

阪神優勝やモミィの誕生と同じ、18年前のことです。
このブログは 2006年2月6日まで続けた末、閉じました。

そして今のこのブログは2007年12月1日から始めて、やがて16年を経過しようとしています。これは、まぁ、長く続いています。

最近は、日々の生活の変化も少なくなり、ブログを書こうという気力もつい衰えがちですが、でも、もう少し頑張って続けて行きたいと思っています。

何歳になっても、常に自分を磨くことに努めたい
そういう思いだけは、持ち続けたいですもんね。

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鯉のぼりと 鯨のぼり??

2023年05月02日 | 思い出すこと

僕が高校生の頃(大昔ですけど)、「文通」というのが流行していました。
会ったこともない人と手紙のやりとりをするわけですが、若い者向けの雑誌にも、「文通コーナー」というのがあって、そこに登録すると住所・氏名・年齢等が雑誌に掲載されて、それを見た人がその中の誰かに手紙を出し、「文通」が始まるというような形でした。

で、僕の場合は、高校生だった僕に、近所の薬屋さんのお姉ちゃんが、
「うちの親戚の女の子と文通せえへん?」と言ってきたのでOKしました。
その親戚の子というのは、徳島県の穴吹というところに住んでいました。
住所と氏名を聞いて僕は手紙を出しました。
「三宅知子」という人でした(よ~く覚えているでしょ、へへっ)。

1年間ぐらい、手紙のやりとりをしたのですが、結局会うことはなかったです。
ところで

その手紙で、僕は恥ずかしい間違いをしてしまった。
今日はその話なのですが、その間違いは何かというと

季節がちょうど今頃で、あちらこちらに鯉のぼりが見えていました。それを僕は手紙に書いたのですが、えらい間違いをしてしまいました。
「鯉のぼり」を間違って「鯨(くじら)のぼり」と書いたのです(笑)。
漢字の「鯉」と書くところを「鯨」と書いてしまったんですよね。
今はパソコンだから「こいのぼり」と打てば「鯉のぼり」と出ますが、当時は全部筆記だったのでね。漢字の書き間違いもありますよね~

「そろそろ鯨のぼりの季節になりましたが、お元気ですか?」
と書いたのだと思います。
すると相手の人が、
「『鯨のぼり』って面白いですねぇ」
と書いてきたのです。

それを見て「しまった。えらい間違いをした!」
僕は、穴があったら入りたいくらい恥ずかしい思いをしました。
「すみませ~ん。『鯨』ではなく『鯉』でしたね~」
というような返信をしたと思います。

そしてそんな記憶の底に消えかかっていた大昔のエピソードを、つい最近思い出したのです。
それは、NHKの「列島ニュース」という番組を見た時でした。
九州・宮崎市の佐土原町という町で、
「くじらのぼり」が掲げられているというニュースでした。
それを聞いて僕は「くじらのぼりだって?」とビックリ仰天。高校生の頃の文通相手の人に「鯨のぼり」と手紙に書いたあのことが、電光の如くよみがえってきたのです。

ニュースによると、宮崎市・佐土原町の「くじらのぼり」は、同町の商工会青年部が毎年「こどもの日」に向けて掲げているもので、鯨のようにたくましく育ってほしいという願いが込められており、この地方の名物になっているとのことでした。

文通の話は50年以上昔のことですが、まさかこの年になって「鯨のぼり」という存在を知り、実に感慨深いものがありました。

まぁ、そんなことでしたけど。
しかし「文通」と言うのも、今は死語となりましたね。

SNSのような形で、ネットで見知らぬ同士がつながるというのが今の時代ですけれど、かつてはこういう「文通」というのがあったんですよね。現代社会ではSNSがきっかけとなった犯罪が多発していますが、当時は「文通」で犯罪が起きたなんてこと聞いたことがありません。

やっぱり昔は、それなりの風情があって、良かったですねぇ(笑)。


 

 宮崎市・佐土原町の「くじらのぼり」の写真です。
 「鯉のぼり」ではなく、「鯨のぼり」ですよ(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阪神淡路大震災から28年

2023年01月17日 | 思い出すこと

きょうは阪神淡路大震災が起きた日で、新聞・テレビ等でも大きく報じられていました。以前もこのブログに掲載したことがありますが、この日を忘れないために、また掲載します。

1995年(平成7年)1月17日。
あの日の朝。
震源地からかなり遠いわが家でも、大きな揺れがありました。
午前6時前。まだ真っ暗の中、ガタガタガタっと猛烈な揺れを感じて目が覚め、恐怖に駆られ、布団にもぐったまま収まるのを待ちました。

僕自身、人生で経験した最も恐ろしい地震でした。

収まった後、すぐにテレビをつけて震源地は神戸だと知りました。僕が住む大阪南部では、大きな被害もなく、震度4ということでした。あれだけ揺れたのに。

あの日から28年の歳月が経ったのですね。

当時から保存していた震災当時の新聞記事を掲載します。
 

  
   1995年1月17日(地震当日)の夕刊一面。  

 

  
  同じ1月17日夕刊の社会面。
  高速道路が途中で折れて、バスが落ちかけている写真などもありました。
 

  
  翌18日(水)朝刊。
  地震発生から半日が過ぎても燃え続ける神戸市街。


 
  1月18日夕刊。
  激しい地震で家が倒れ、焼け野原になった神戸市街。

  
 
 1月19日(木)朝刊。災害の全貌が、徐々に明らかになってきました。
 写真は、活断層が動き、地表に生じた亀裂が一直線に延びたさま。


 
  1月19日夕刊。
  19日になっても、三宮中心街の高層ビルで火災が発生しました。
  (写真は、煙に包まれる高層ビル)
  救助に当たった自衛隊や機動隊は、生存可能者を優先しました。
  生き埋めになった遺体の捜索・搬出まで手が回らないので、
  それらを、地元住民の手で行なった地域も少なくなかったそうです。

  
 
  1月20日(金)の朝刊。
  写真は、倒壊したビルの中から57時間ぶりに救出された子ども。
  この9歳の男児は、救出の瞬間「まぶしい」とつぶやいたそうです。
  新幹線の新大阪~京都間は、この日から運転が再開されました。


 
  1月21日(土)朝刊。
  当初、震度6と発表されていましたが、気象庁の詳しい調べで、
  神戸の三宮地区と淡路島北部は震度7だったと判定されました。
  僕が生まれた昭和24年に震度階級「7」が設けられて以来、実際に
  震度7が確認されたのは、これが観測史上初めてということでした。
  (16年後の2011年3月、東日本大震災の時の宮城県も震度7でした)

  

 
  1月24日(火)朝刊。震災から1週間が経った。
  死者はついに5,000人を超えたと報じられた。

この震災で亡くなられた方は、最終的には6434人とされています。

地震は自然災害の中でも最も恐ろしいもののひとつですが、
さらにもうひとつ、地震に関する情報を報道で知りました。

日本の地震被害として最大の10万人を超える死者を出したと言われる関東大震災から、今年は100年になる、ということです。
1923年(大正12年)の9月1日に起きたのですね。

今年1年、穏やかに過ぎてくれますよう、改めて祈ります。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初詣 道明寺天満宮で思い出すこと

2023年01月07日 | 思い出すこと

先日4日、新春恒例の道明寺天満宮へ初詣に行きました。

ここは毎年初詣に来るのですが、実はこの天満宮は僕にとって特別な記憶に残っている場所なんですよね。

で、またまた古い話になるんですけど

僕が小学1年生の時に母が再婚し、知人に預けていた僕を迎えに来た。そこから3人暮らしが始まった。住んだのは大阪市東住吉区の加美というところの狭いアパートの一室。新しい父親は商売をしていると母から聞いたけれど、実際は商売と言っても店舗はなく、露天商だった。店を出す場所は日によって異なり、父の地元だった柏原をはじめ、八尾、堺、羽曳野、松原、そして四天王寺さんも毎月21日に店を出し、父母は大阪のいろんな場所で露天商を営んでいました。僕はそういう親の仕事を「昼店、やってんねん」と人に言っていました。学校や近所の友達にはそういう子は一人もいませんでしたけどね。

父の露天商仲間は何十人もいて、一応父はそのグループの組長をしていました。(よく『暴力団』と間違われましたが、まぁ露天商はテキヤと言われたりしていましたからねぇ)。

僕も小学生の時は、休みの日は必ずついて行き、まわりの露天商の人たちから「のぼるちゃん、のぼるちゃん」と、可愛がってもらっていました。

そしてお正月の3日間に店を出していたのが、道明寺天満宮だったのです。
だから僕は、毎年お正月は父母といっしょにそこへ行き、店の後ろに座ったり、周辺をうろついたりしていました。
つまり僕の正月というのは「道明寺天満宮」そのものだったわけです。

今もここは、昔同然に屋台が出ているけれど、たこ焼きや唐揚げ、カステラなどの食べ物やボールすくいなど遊戯系の店ばかりです。でも両親が出していた頃は、今よりもっと店の種類が多く、食べ物などの他に、日用品や着物の生地、小間物、化粧品をはじめ、いろんな店がありました。で、うちの親は小間物と、財布やバンドの皮製品を扱っていました。

何しろ当時は昭和30年代で、まだスーパーマーケットもなかった時代です。
だから、どの地域で昼店を開いても、お客さんが多く、父の店にも常に人だかりがして、僕も中学ぐらいになると手伝ったこともありました。

今はもう、お正月以外には露店は少なくなっていますが、僕はお正月にこの道明寺天満宮に来るたびに、「あぁ、うちの親が小間物なんかを出していた露店はこのあたりやったかなぁ?」と、当時を思い浮かべるのです。

さて、年月を戻し
先日4日は、モミィが友だちと遊びに行くのに昼過ぎに家を出たので、僕らの初詣は午後からの出発になりました。

天満宮まで直接歩くと約50分程度ですが、少し道順を変えてみました。

大和川沿いの美しい風景を見ながら堤防の道を行くと、


中央からやや左の白く細長い建物が最近完成した柏原市役所です。
さらにそのすぐ右側に見えているのが二上山です。
前回ブログの「初日の出」で紹介させていただきました。
それにしても、空の雲の形がすごかったです~
この川の右側の向こうに道明寺天満宮があります。

僕等は写真の手前にある橋を渡り、
テクテク歩いて天満宮へ向かいました。


 
 そしてここが道明寺天満宮の入口付近です。
 お参りを済ませて帰るところです。
 妻が立っている横に露店が並んでいますが、
 今はほとんど食べるものばかりですね。


こういうお店が並んでいるのを見ると、
例によって少年時代を思い出します。

でもね。
そのころ、果たして初詣をしていたのか? 
したのを忘れたのか、本当にしていなかったのか?
そんな記憶は全然ありませ
ん。

まぁ、とてつもなく古い昔のことですからね~

さて、
また来年も、元気でテクテクと歩いて、
ここへ初詣に来られることを祈るばかりです。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ブラボー!」で思い出すあの時のこと

2022年12月05日 | 思い出すこと

さて、今夜というか、今夜から明日に日付が変わる午前零時から、W杯の決勝トーナメント初戦の日本対クロアチアの試合が行われますね。

ところで、このW杯の日本代表のメンバーの一人、長友佑都が日本チームの快挙に際して「ブラボー!」と叫びまくっていたことはご承知のとおりです。

僕はこの「ブラボー!」を聞くと必ず思い出すことがあります。以前も書いたことがありますが、この機会にもう一度書いてみたいと思います。

「ブラボー!」というのは、イタリア語ですね
それで、2005年にイタリアのフィレンツェに旅行した時のことですが

妻と2人でフィレンツェの街を歩き回ったあと、少し疲れたので、通りがかりの小さなお店に入りました。店の中にはお客さんはおらず、店のおばさんが一人いました。僕はそのおばさんに、いちおうイタリア語でビールを注文した。
「ビッラ・ペルファボール」
ビールはイタリア語で「ビッラ」と覚えていたし、「ペルファボール」は英語でいう「プリーズ」の意味です。

しかし
おばさんはすぐに返事を返してくれず、「ビッラ? ムニャムニャ?」と何やら僕に尋ねた。何だろう?と考えていると、おばさんは通じていないことがわかったようで、今度はわかりやすくジェスチャーで説明をしてくれました。

そのジェスチャーを見て、
「ビールというのは瓶のビールか? ジョッキの生ビールか?」
と聞いていることがわかったのです。
「ビッラ」には二通りあったのですね。
(日本もそうですけど)

それで、僕も身振り手振りでジョッキの仕草をしたら、おばさんはウンウンとうなずいて生ビールをテーブルへ運んできてくれました。
あぁ~~! 
その生ビールのよく冷えていておいしかったこと!

飲みながら、こっそりイタリア語の辞書を出し「生ビール」のイタリア語を調べてみると「スピーナ」だということを知りました。そして2杯目を頼もうと、またおばさんのいるカウンタへ行き、おばさんに声をかけました。
おばさんがこちらを見た時、僕はここぞとばかりに、
「スピーナ・ペルファボール」 と叫んだのです。

するとそのおばさんは一瞬、
「スピーナ?」
と言って驚いた様子でしたが、すぐそのあと、破顔一笑。
輝くような笑顔で僕の両腕をつかんで、
「ブラボーッ!」
と、店中に響き渡るような大声を上げて、喜んでくれたのです。

それは「アンタ。いつのまにその言葉を覚えたの。すごいわねぇ!」という表情でした。単語ひとつ覚えただけで、あんなに喜んでもらえたことって、これまでなかったことでした。
あの「ブラボー!」と言われた瞬間のことは、終生忘れらないです。

フィレンツェの街の中を流れるアルノ川の川沿いにあった小さなお店でしたが、本当に懐かしい思い出です。

長友選手が「ブラボー!」と叫ぶ姿をテレビで見るたびに、あのフィレンツェのお店のおばさんの「ブラボー!」の声と表情を思い出します。


  
これが、そのお店でスピーナ(生ビール)を飲んでいる写真です。
結構いい気持になってきているようで、たぶん2杯目かな?

 

 

 

 

 

 


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「舞いあがれ!」と近鉄バファローズ

2022年10月28日 | 思い出すこと

朝ドラの「舞いあがれ!」を毎日楽しみに見ています。
今は主人公の舞ちゃんも東大阪へ戻り、大学1年生になりましたね。

そこで、舞ちゃんたちがよく行くお好み焼き屋の「うめづ」というお店の主人(山口智充さん)なのですが、いつも近鉄バファローズのユニフォームを着ているんですよね。つまり近鉄の大ファンなわけ。僕はドラマで彼のユニフォーム姿が出て来るたびに懐かしさで胸が躍ります。今は無くなった近鉄バファローズだけど、このドラマの時代にはまだあったんですね。

 
  10月26日(水)の朝。BSプレミアムの放送での1シーン。
  (わが家のテレビより)
  

そこでドラマの時代設定を調べてみたのですが…

ドラマの最初のほう、舞ちゃんがおばあちゃんのいる五島列島へ行ったのは小学校3年生(たぶん8歳)で1994年の設定でした。そして今はそれから10年後ということですから、2004年ということになります。そこで近鉄バファローズの球団史を調べてみると、なんとこの2004年のシーズン終了後に、当時のオリックス・ブルーウェーブに吸収合併されています。つまりこの年が近鉄バファローズの最後の年になったんですよね。

その翌年からオリックス・バファローズとして今日に至っているわけですが、そうすると「舞いあがれ!」のお好み焼き屋「うめず」の主人が着ている近鉄バファローズのユニフォームも、この年限りとなります。ドラマの中で、この主人が近鉄球団が無くなることを知ったとき(たぶん、そういうシーンがあると思うのですが)どれだけ嘆き悲しむのだろうか、と、いささか心配になってきますわ。

さて、近鉄バファローズといえば、本拠地がわが街・藤井寺でした。近鉄電車の駅の前に藤井寺球場があり、子どもたちが小学生の頃はよく家族連れで観戦に行ったものです。今はもう取り壊されて、昔の面影はありませんけど。

そんなことで、「舞いあがれ!」を見ていると、久々に近鉄バファローズのユニフォームが見られたり、自転車旅行で行った思い出の五島列島・福江島の景色を楽しめたり、高校・大学と7年間通った東大阪市の空気を感じたりと、いろんな記憶がよみがえってきます。

あ、そうそう。小学生だった舞ちゃんが五島から東大阪に帰って来た時、お父さんに連れて行ってもらった生駒山の山頂にある遊園地で「飛行機」に乗って喜ぶシーンも懐かしい。僕もこれに乗ったことがありますが、山の頂上にある遊園地の飛行塔だけに、本当に空を飛んでいるような感覚がありました。

 

これまでの僕の人生で、遊園地で乗った乗り物の中で一番気分が爽快だったのが、この生駒山頂の飛行塔だったと思います。

ちなみに、逆に一番恐ろしかった乗り物は? と言えば
これはもう忘れもしない、東京ディズニーランドで妻と乗った、
「ビッグサンダー・マウンテン」でした。

2人とも「ギャァ~!」と悲鳴を上げっぱなし。あんな怖い目には、もう二度と遭いたくありません。

なんだか話がバラバラになってきました。
まぁ、いつものことですけど(笑)。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウエストミンスター寺院・エリザベス女王とダイアナ妃

2022年09月16日 | 思い出すこと

エリザベス女王の死去は世界各地でも大きく報じられていることと思います。今月の19日に予定されている国葬には天皇陛下も出席するとのことで、世界中から皇族や首脳陣が弔問に訪れるのでしょうね。

今日は静養地のスコットランドで亡くなられた女王のご遺体がロンドンに戻って来た様子が何度もテレビで映し出されていました。女王が生前に過ごされたバッキンガム宮殿も映り、葬儀が行われるウエストミンスター寺院も映っていましたが、その周辺は無数の人々で埋め尽くされていたのを見ると本当に国民から愛されていた女王様だっんだなぁと改めて思いましたね。

僕はロンドンには一度だけ行ったことがあります。中でも最も印象に残っているのがこのバッキンガム宮殿の周辺で、特にウエストミンスター寺院が忘れられません。ここはあのダイアナ妃の葬儀が行われた寺院なのでした。

ロンドンへ旅行したのは1999年1月で、妻と長男と3人での旅行でした。実はその1年半前に、ダイアナ妃が交通事故で非業の死を遂げたのでした。あの時は世界中の人たちが衝撃を受け、悲しんだ。そして僕たちがロンドンに行った時も、まだまだダイアナ妃の死に対するロンドンっ子の悲しみは消えていなかったようで、ツアーのガイドさんも熱い口調で彼女に関するいろんなエピソードを語ってくれました。 


 
テムズ川にかかる橋の上で。
後方の国会議事堂にそびえるビッグベンに向かって橋を渡り、
その裏側にあるウエストミンスター寺院へ行った。

ウエストミンスター寺院の前に来ると、
「こちらが、ダイアナ妃の葬儀が行われた寺院です」

とガイドさんが説明をしてくれました。
「そう…。ここでダイアナ妃の葬儀が
あの、美しかったダイアナ妃の顏が眼に浮かびました。

   
 ウエストミンスター寺院前で。

背景の寺院が白っぽくてわかりにくいので、
ネットの写真を載せます 

 
これだとわかりやすいですね。


そして、エリザベス女王がおられるバッキンガム宮殿もこの近くにあります。

ガイドさんの説明では、宮殿の建物の上の奥にある窓から旗が出ている時は女王様がご在宅で、出ていないときはご不在だということでしたが、その時は、かなり遠くで少しだけしか見えなかったのですが、
「あ、旗が出ていますね。女王様はいらっしゃいます」
とガイドさんが笑顔で言ったことを覚えています
まあ、窓からお顔を出されて手を振っていただけたら
嬉しかったのですが、一日中そんなことできませんしねぇ。

さて、そこから「衛兵の行進」というのが始まりました。

バッキンガム宮殿から兵隊さんたちが行進してくるのですが、これを目当てに大勢の観光客が訪れるということでした。

やがてその時間がやって来ました。

 
  画面後方に見えるのがバッキンガム宮殿です。

 

 
 そして衛兵たちが行進を始めました。
 迫力満点でしたよ。

このたびのエリザベス女王の死去に伴い、葬儀がウエストミンスター寺院で行われると聞き、その寺院の名称からダイアナ妃を思い出し、そしてロンドンの街をめぐった時の記憶が鮮明によみがえってきた次第です。

ダイアナ妃が亡くなられてから25年。
当時36歳という若さでした。

一方、エリザベス女王は96歳というご長命でした。
まさに大往生ですね。ご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知床の観光船 あの絶景を思い出す

2022年04月24日 | 思い出すこと

北海道・知床半島の沖合で、26人が乗った観光船が遭難したニュースには、誰もが大きな衝撃を受けたことでしょう。今日(24日)の午後8時半の時点では、これまで10人が見つかり、いずれも死亡されたと報じられています。

死亡された10人の方々は全員が知床岬の先端付近で見つかったといい、船そのものはまだ見つかっていない。沈没したのか、あるいは遠くへ流されたのかと言われていたけれど、海上保安庁は「沈没した」との見方を示したそうだ。

「日本最大の秘境」と言われる知床半島を観光船から眺める光景は、僕も昔に行ったことがあるけれど、本当に素晴らしい。そんな最高の眺めを楽しむために乗った船でこんな恐ろしい事故が起きるとは、なんという悲惨なことだろう。

 …………………………………………………………………………

僕がこの観光船に乗ったのは北海道自転車旅行の時。もう50年以上も前のことで、時期は7月。網走の知り合いの家に数日お世話になっていたが、
「ここまで来たのだから、ぜひ知床の観光船に乗ってらっしゃい」
と勧められたので。

網走から列車に乗って斜里で降り、そこからバスに揺られること約1時間半でウトロ港に着いた。ウトロから知床をめぐる観光船は何種類かあったが、僕は、「ウトロ〜知床岬折り返し」のコースを選んだ。
片道約40キロ。所要時間は往復で4時間30分。

船からの景色はまさに絶景だった。

 
 1000m以上の山々(ほぼ火山)が連なり、
 海岸線は断崖が続く。左の方に滝が見える。


 
  ここが知床岬の先端です。


  
  同じ船に乗った女性に撮ってもらった。

 

  
  その時のパンフレットと、スタンプ。
  処分できなくて、今も手元に残しています。


知床の観光船と言えば、この日のことがよみがえります。
その日は 1969年(昭和44年)の7月21日だったのですが、
アポロ11号が人類で初めて月面に着陸した日でもありました。

そんな思い出深い観光船で、このようなことが起きるとは。
今もまだ、信じられない思いです。


 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

好きだった歌謡曲を思い出す日々

2022年03月27日 | 思い出すこと

近年はテレビの歌番組も少なくなりましたね。Jポップは別として、演歌・歌謡曲となると、地上波だとNHKの「うたコン」くらいしかないので、BSの歌番組を見て昔を懐かしんでいます。大好きだった歌が出て来ると、胸が熱くなり、涙がこみ上げてきそうになったり
歳、ですかねぇ。

僕は歌謡曲の歌詞が大好きで、歌を聴いて「ああ、いいフレーズだなぁ」と心に残ったものは数え切れないほどあります。

初めて覚えた歌謡曲は、小学生の頃で、橋幸夫の「潮来笠」だった。
何度も聴くうちに1番から3番まで歌詞を全部覚え、親やその知人の人たちの前で声を張り上げて歌ったこともある。
しかし歌詞の意味はわからない。たとえば2番の、
♪ 田笠の紅緒がちらつくようじゃ 振り分け荷物重かろに」は、
♪ たがさのべにおがちらつくようじゃ ふりわけにもつおもかろに」
って、耳から聴いて覚えたままを歌った。言葉の意味は全然わからずに。

それ以降、どれほど多くの歌に惹かれただろう。

沢田研二の「勝手にしやがれ」は、
行ったきりなら幸せになるがいい 
戻る気になりゃいつでもおいでよ~
というフレーズ。いいなぁ、ここ。
当時20歳代後半だった僕は、この部分が強く心に残った。
彼女に出て行かれても愚痴を言わない優しい男! な~んてね。

この作詞は阿久悠さんですが、同じく沢田研二の「サムライ」という歌詞は、その出だしの部分がすごい。
♪ 片手にピストル 心に花束
唇に火の酒 背中に〇〇を

というところでクイズです。
この〇〇には、何という言葉が入るでしょうか?

これはいつか聞いた話ですが、ある人が若者たちにこのクイズを出したら、
「入れ墨!」という答えが一番多かったそうです。
なるほど、「背中に入れ墨」ねぇ。
でも、ちょっと平易ですかね~(笑)。不正解です。
正解は「人生」でした。

♪ 片手にピストル 心に花束
唇に火の酒 背中に人生を
アアア
アアア

というふうに歌は続いて行きます。

イルカが歌う「なごり雪」も大好きです。タイトルも素敵だし。
汽車を待つ君の横で僕は
時計を気にしてる
季節はずれの雪が降ってる
東京で見る雪はこれが最後ねと
さみしそうに君がつぶやく

南こうせつの「神田川」は、ラストの歌詞に惹かれました。
♪ 若かったあの頃 何も怖くなかった
ただ あなたのやさしさが 怖かった~
聴き終えても、ジーンと余韻に浸れます。

さて、石川さゆりの「天城越え」の歌詞も傑出していますね。
♪ 隠しきれない 移り香が
いつしかあなたに 浸みついた
誰かに盗られる くらいなら
あなたを殺して いいですか
(強烈な歌詞ですよね)

ところで、僕はこの歌は愛人の胸中を歌ったものと思っていた。でも、何かの本に書いてあったのは、これは愛人ではなく、本妻だとのこと。つまり、その男に妻の香りが浸みついていても当然のことで、隠す必要はない。だから「隠しきれない移り香」というのは、夫に愛人ができたことを知った妻の視点に立った歌とわかる、ということでした(何の解説や)。
話は逸れますが、この歌に出て来る「浄蓮(じょうれん)の滝」は、一度伊豆方面へ旅行した時に実際に行ってみたのですが、思ったより小さかったのを覚えています。

最後に、小林幸子が歌う「雪椿(ゆきつばき)」も大好きです。
やさしさと かいしょのなさが
裏と表に ついている
そんな男に 惚れたのだから
私がその分 がんばりますと

よく言いますよね。
やさしい男には、かいしょがないって。
まぁ、平たく言えば僕のような男です。
え? なに?
アンタには? 両方とも? ないやろって? 

ほっといてちょ~だい。

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東側諸国 の地下鉄が深くて怖いわけ

2022年03月06日 | 思い出すこと

ロシアに侵攻されているウクライナの様子が連日テレビで放映されている。ひどいことをしますねロシアも。プーチンはこの暴挙を正当化するようなことを何やかやと言っている。何を言っても通らないことは明白なのに。

ほんまに、このおっさんの顔が悪魔の顏に見えてきますわ。

さて、ウクライナの首都キエフでは、地下鉄構内に大勢の人が避難している映像が何度も流れていました。地下鉄に避難? と、最初は少し驚いたのですが

報道によると、キエフの地下鉄はとても深い所にあり、テレビで映っていたアルセナーリナ駅というのは地上から105mの深さで、世界一深い地下鉄駅だということです。ちなみに、東京で一番深いのが都営大江戸線の六本木駅が42mとのことですから、それの2倍半の深さですよね。

調べてみると、「旧」も含めて東側諸国の地下鉄はだいたい深いようです。理由は、かつての冷戦時代、核シェルターとしての利用を想定して設計されたとのこと。そういうことであれば、今回のロシアの侵攻で地下鉄に避難するというのは、ウクライナの人たちにとっても、普段からそこが避難場所のひとつだという認識があったからなのかな~と思ったりもします。

そこで僕が思い出したのが、妻との旅行でハンガリーの首都ブタペストへ行った時のことです。ハンガリーはウクライナと国境を接していますが、僕がこれまで旅したヨーロッパ諸国の中では、このハンガリーが一番東にある国でした。

そして、このブダペストで、地下鉄に乗るため切符を買い、エスカレーターでホームに下りようとした時のことです。

地下鉄のホームは、かなり深かった。エスカレーターに乗っても下が見えないほどです。しかもそのエスカレーターのスピードが、ものすごく速かったのです。

ガタガタガタ~ッと猛烈な音を立て、急角度で下って行くのだから、僕と妻は思わず手すりにしがみついた。怖い! 

とにかく地下が深いので、エスカレーターの距離も長く、そんな猛スピードで下って行くのになかなかホームへ到着しない。そんなことは予想もしていなかっただけに、突然の恐怖に全身が固まってしまいました。

あの時は本当に驚いたし、怖い思いをしました。

ハンガリーは、現在は違いますが、以前は東側国家、つまり旧共産圏だったわけで、ウクライナも過去はロシア色が濃い国家でした。僕はそのウクライナの首都キエフの地下鉄が「世界一深い」ということを知り、
「なるほど。そういうことだったのか」
と、ブダペストの地下鉄を思い出したわけです。

学生時代からの知り合いで東京に住むKさんが、モスクワへ旅行に行った時、
「地下鉄へ下りるエスカレーターがとてつもなく長く、猛スピードでした」
とハガキに書いて送ってくれたことも、思い出しました。

これらに関してWebサイトを見て行くと、やはり旧ソ連時代の東側の国々の地下鉄はどこもだいたい深い、ということを確認できました。

今回のキエフ市民の方たちの地下鉄への避難の話と、自分のブダペストの地下鉄のエスカレーターでの驚きの体験の話が結びつくとは、思いも寄らなかったことでしたけどね~

ブダペストへ行ったのは西暦2,000年ちょうどでした。
ウィーン旅行の時に、列車で隣国のハンガリーへ日帰りで行ったのでした。
今からもう20年以上も前のことになりますが、あのエスカレーターの怖かったことを、今回、改めて思い出した次第です。

 

★以前、ブダペストへの旅行の顛末を書いたことがあります。
 地下鉄のエスカレーターのことも詳しく書いています。
 長い記事ですが、一応ご参考までに。

 ハンガリーという国は (2015年9月17日)

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カーリング・鈴木夕湖さんのお名前の由来と僕の思い出

2022年02月21日 | 思い出すこと

冬季五輪も昨日で閉会しましたね。

今日のテレビで、この大会の視聴率のベスト3が紹介されていましたが、それによると、1位がカーリング女子の決勝(対イギリス戦)、2位もカーリング女子の準決勝(対スイス戦)、3位が羽生選手が出ていたフィギュアスケート男子のフリーでした。なんとまぁ、1、2位がカーリング女子ですわ。それだけでも人気の高さがわかります。僕もカーリングのことばかり書きましたしね。

自分のブログを読み返してみても、2010年のバンクーバー大会、14年のソチ大会、18年の平昌大会と、いずれもカーリング女子のことを書いています。2010年にはカーリング女子のことを「カー娘」と呼ばれていたことも書いていますが、これはモーニング娘の「モー娘」をもじった愛称でした(笑)。

さて、そのカーリング女子チームの、鈴木夕湖(ゆうみ)選手のことです。

4年前の平昌大会のメンバーも、今回と全く同じだったのですが、当時、僕は鈴木夕湖選手のことを、日記に詳しく書いています。

なぜそれを日記に書いていたのかというと、理由がありまして

彼女は1991年に北海道の常呂町(現在は北見市)で誕生されたとのこと。ご自宅はサロマ湖の近くだそうです。そしてご両親は生まれて来た女の子に、サロマ湖に沈みゆく夕陽の美しさをイメージして「夕湖(ゆうみ)」と名付けた、と4年前の新聞に書かれていました。そのことに僕は強く引き付けられたのです。

その鈴木夕湖選手のお名前の由来を知って、僕自身の忘れられない思い出と重なりました。

夕湖さんが誕生されたその1991年に、僕は「サロマ湖100キロマラソン」に参加して、初めて100キロという長い距離を走りました。

その100キロマラソンの制限タイムは13時間でした。僕はサロマ湖畔のコースをヨタヨタと走り続け、何とか制限タイム内の12時間24分でゴールすることができました。男子の部で完走した選手は611人で、僕の順位は584位でした。つまり611人中、ビリから27番目でした(笑)。

 
  レース後にもらった完走記念メダルです。
  あれからもう30年も経ったのですね~


サロマ湖には、20歳の時の自転車旅行でも通りました。つまり、自転車旅行とマラソン大会で2回行っているわけで、それも含めて僕にとってはとても思い出深いサロマ湖なのです。

そのサロマ湖に沈む美しい夕陽から名付けられたのが鈴木夕湖さん。

今回の五輪で、日本のカーリング女子チームは11試合も行われました。テレビで、何度も何度も彼女の姿を見ながら、サロマ湖畔を走った100キロマラソンのことをず~っと思い浮かべていた僕でした。


  
   「セカンド」で活躍した鈴木選手。

鈴木夕湖選手は、いま30歳。まだまだ若い。
ぜひ次の冬季五輪にも出場してほしいです。

 

 

★おまけ

 
 20歳の時の自転車旅行。
 サロマ湖畔で撮った1枚です。
 まだ未舗装道路が多かった北海道でした。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コインロック式ショッピングカートを見て!

2021年12月06日 | 思い出すこと

2000年(平成12年)、オーストリアのウィーンへ旅行した時のことですが

ウィーン市内の百貨店の地下食料品売り場へ行って買い物をしようと、入り口付近に並んでいたショッピングカートを引っぱり出そうとしたら、チェーンで他のカートとつながっている。つまりロックされていて、カートが引き出せない。
「えっ? なんで?」
と不思議に思い、よ~く見ると、お金(硬貨)を入れるとロックが解除されて引き出せる仕組みになっていた。そして、カートを返す時に元どおりにロックしたらそのお金が戻って来るという仕組みだった。
むろん、そんなの、これまで見たこともなかった。

「なんでこんな手間なこと、せなあかんの?」
と、妻にブツブツ言いながら、しぶしぶ10シリング硬貨を1枚、カートの手元にあるコイン入れに入れたら、チェーンロックが外れて使える状態になった(当時まだオーストリアの通貨はユーロではなくシリングだった)。

そして買い物をしてレジを済ませ、カートを戻そうとした時にまた予期せぬことが起きた。一人の男性が近づいてきて僕のカートに手をかけ「貸してくれ」とのジェスチャーをする。僕が一瞬ポカンとしたら、男性が10シリング硬貨を僕の手に握らせた。つまり男性は、カート置き場でお金を入れて取り出すのが面倒だったのか、僕に10シリングを渡してそのカートを使おうというわけだ。

まぁ、僕としてもカートを元に戻してロックすると10シリングが戻るのだから、同じことだし、むしろ面倒が省ける。ま、こういうことはこの国ではしょっちゅうあるんだろうな、と思いました。

そんなことを、かつてのウィーン旅行で経験したのですが、先日、そのことを久しぶりに思い出したのです。

先月から、僕らがいつも行く藤井寺駅前のイオンの前に、「サンディ」というスーパーがオープンしました。食料品がかなり安いお店です。そしてそこのカート置き場を見ると、鎖でつながれていました。100円を入れるとロックが解除されて使えるようになるという仕組みで、まさにあのウィーンでの出来事を思い出させるものでした。

  
  コインロック式のショッピングカート。
  (ネット写真から)


そんな時、今度はわが家から歩いて30分ぐらいのところにある「イズミヤ」というスーパーが、リニューアル・オープンしたというので、先週、妻と散歩がてら行ってみました。すると、なんとまぁ、そこも同じようにショッピングカートがチェーンでつながれ、100円入れなければ出せない仕組みになっていたので、またもやビックリしました。

ウィーンで目にして以来、20年以上も見たことがなかったスーパーのコインロック式カートを、つい最近、2度も続けて見るとはねぇ。

でも、なぜそんなことをするのだろうか?
お客さんに面倒くさいと思われるんじゃない?

理由を調べてみると、カートを元に戻さないお客さんが結構いるみたいです。駐車場のあちこちにそのまま置かれていたり、店内でもその辺に放置されていたり、というのが多いという。そしてこれらを所定の場所に戻す作業を、店員さんや警備員さんがされており、それが案外重労働であったりする、というようなことだそうです。人手不足のスーパーだと、散らばったカートをひとつひとつ回収するのも案外大変なことなのかも知れません。

それでこういう手段を取るようになったということ。

でもお客さんが100円硬貨を持ち合わせていなかったらどうするの?
と思ったら、「イズミヤ」では、カート置き場の隣に100円玉の両替機が置かれていました。なるほどねぇ。

僕らはまだ一度もコインロック式のカートは使っていませんが、そのうち、買い物を終えた人のカートを、その人に100円渡して「それ、もらいまっせ」とやっちゃおうかな、な~んてことを思ったりしています(笑)。

 

 

今日の1枚は、上の記事にちなんで、
ウィーンのシェーンブルン宮殿での写真です。
(2000年10月16日)

 

ここはマリー・アントワネットが少女時代を過ごした宮殿でもあります。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする