僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

出るのはため息ばかりで…

2013年10月30日 | ランニング

プロ野球日本シリーズは1勝1敗で舞台を東京ドームに移し、昨日、第3戦が行われた、結果は、楽天が一方的な試合で2勝目をあげた。巨人はとにかく打てない。あまりにも打てなさ過ぎる。両チームが日本シリーズで対戦したらどちらを応援しようかとワクワクし、2戦目のマー君が投げた試合はそれこそどちらにもエールを送るという気持ちで見ていたが、昨日の試合に限っては完全に巨人のほうに「しっかりしてくれぇ」と力が入った。あんな試合では両軍の対決を楽しむ気分にはなれない。このうえは巨人も打線が奮起し、盛り返して再び宮城へ行き、できれば第7戦までもつれ込む総力戦で日本中を沸かせて欲しいものだ。


…と、よそのことを言っている余裕は実はない。マラソンが迫ってきた。日本シリーズが最後までもつれこめば、第7戦の日に当たる11月3日に大会がある。あと4日だ。めっきり涼しくなり、練習にはちょうど良い気候になってきたけれど、遅すぎるでしょ。もういくらも練習はできないんだから。


昨日も長距離走をやってみたが、気温はいいのに体も足も重く、20キロを走ったり歩いたりトロトロ…。42キロは遥か彼方にある。おまけに夜には唾を飲み込むとのどが痛い。まさか風邪の前兆ではないだろうな…と思いたい。急に寒くなったので、風邪だけには気をつけなければ。


さらに気になることだが、週間予報で11月3日の天気を見ると、大阪は雨の予報である。その前日まではずっと晴れなのに、なんで3日だけ? ああ、雨の中を走るなんて~


昔は雨でも何でも平気だった。今からちょうど30年前、ニューヨークシティマラソンで雨の中を走り、びしょぬれになってゴールしたことがある。走っている間ずっと、森進一の当時のヒット曲「紐育(ニューヨーク)物語」という歌の一節「♪マンハッタン・イン・ザ・レイン~ 30年生きちまったよ~」なんて口ずさみながら、雨のマンハッタンの景色をむしろ楽しんで走ったことがある。でもなぁ、あれからまた30年生きちまったよ~(笑)。淀川沿いのコースで横殴りの雨に打たれながら走るって、あまり心地よいとも思えませんしね~ 


…と、筋肉がパンパンに張っている足を撫でながら、ぶつぶつ。


こんなとき、いつも浮かぶのは村上春樹のエッセイ「走ることについて語るときに僕の語ること」の次の部分である。


マラソンを走るということについて…痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)。きつい、もう駄目だと思ったとして「きつい」のは避けようのない事実だが「もう駄目」かどうかはあくまで本人の裁量に委ねられている。この言葉は、マラソンという競技のいちばん大事な部分を簡潔に要約していると思う。


この文章でいうところの「もう駄目」という自分の裁量に委ねられた部分が、今の僕にはずいぶん早くやって来るように思われるのである。つまり我慢強く粘る…ということができにくくなってきたわけで、ここ数ヶ月の練習で、つくづくその言葉の意味を思い知らされましたね~ これも年のせいでしょうか。皆さんから温かいご声援をいただいているのに、レースを4日後に控えて、出るのはため息ばかり…でゴザイマス。

 

 

 

 

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耳鳴り 奇跡の90分

2013年10月28日 | 心と体と健康と

先週の水曜日に一通の葉書が届いた。肉筆でギッシリと隙間なく文章が書かれていたが、要するに「いい酒があるので貴兄に振舞いたい」というお誘いであった。差し出し主は日本ウダウダ会の会長さんである。翌日さっそく電話があり、「明日の金曜日はどうや?」との問いあわせ。夕方にモミィをダンスに連れて行く日だが、それは妻に任せることにして、「僕は大丈夫です」と返事した。


翌日、電車に揺られて15分、河内天美という駅から歩いて5分程度のところにある、メンバーの一人が所有する狭い作業小屋で、鍋を囲み酒を飲んだ。皆はここを「避難小屋」と呼んでいる。男性5人、女性1人がまさに膝を突き合わせるように固まって飲んだ。ひとり、料理が上手な人がいて、その人が鍋の加減をみはからって、僕らの器においしいところを入れてくれる。骨付きの鶏肉が絶品であった。そんなことでビールやコップ酒が、かなり進んだ。


家に帰って布団に潜るとすぐ寝てしまったようだが、眠りの浅い僕は夜中に何度も目が覚めた。深酒をしたときは、ごくたまに耳鳴りが聞こえなくなるときがある。「あ、聞こえない」とボケた頭が一瞬冴えるのだが、意識するともうだめで、そのあとすぐ「キーン」という耳鳴りがしてくるのである。1日24時間、決して消えない耳鳴りの唯一の例外が、その瞬間なのである。しかし日常飲んでいる程度では消えてくれない。むしろ大きくなる。ところが…その小屋で酒を飲んだ翌日のことであるが…


土曜日だったので、いつもより長くベッドの中にいた。時計を見ると7時。モミィも妻も、学校が休みなのでまだ寝ている。ごそごそひとり起き出した僕は、とんでもないことに気がついた。なんと、耳鳴りが消えているのだ。夢ではないかと思った。6年間、消えたことのない耳鳴りが、今、起きてうろうろしていても聞こえてこないのである。なんだこれは!


しかし、耳鳴りは意識するとすぐにやってくる。一瞬の油断もならない。僕は気を紛らわすために、故障中のTCI(音響療法用治療器)の代わりに最近使っているipodを耳鳴りの左耳にはめて雑音のスイッチを入れてまず防衛策を取った。ひょっとして、うまくいけば、このまま消えてくれるかもしれない…と、自分でも楽観的過ぎるとは思ったが、そう信じたかった。死ぬまで逃れられない(と思っていた)耳鳴りから、開放されるなんて、…いや、これは一時的なものだ。昨日の酒が残っていて、頭がまだ麻痺しているに違いない。もう間もなく「キーン」という音が右の耳から聞こえてくるのだろう。


でもひょっとして奇跡が…いやいや、今だけだろ。


自問自答を繰り返しながら、30分ほど経ったけれど、耳にはめているipodの雑音から、キーンといういつもの耳鳴りは聞こえてこない。間違いなく、この6年間で30分以上も聞こえてこなかったのは、これが初めてである。そわそわドキドキしながら、お茶をわかしたり、洗濯機に衣類を放り込んだり、とにかく身体を動かして、用事をして、意識を耳鳴から遠ざけようと必死だった。


1時間経ってもまだ聞こえてこなかった。本当に喜んでいいのか…? 今喜んだら、また元に戻ったときの反動があまりに口惜しい。…そのうち、少しずつだけど、左耳の騒音から突き抜けてくるように「キーン」という音が、小さいながらも聞こえてきた。ああ、やっぱりなぁ。


「キーン音」は徐々に通常のボリュームに戻ってきたので、ipodを外すと、やれやれ、いつものとおり、高温のキーンという馴染みのイヤな音が響いていたのである。やはり、酒を沢山飲んだことによって脳がボケていたせいで、耳鳴りもボケていたのだろうか。脳が戻れば耳鳴りも戻る…と、まあ、こういうことか。(といっても、これまではもっと酔っていても耳鳴りは続いていたのだ)


6年ぶりに起きた耳鳴りの奇跡も、わずか90分程度で終わってしまった。


でも、まあ、耳鳴りのない時間を少しでも過ごせたことは幸せだったかも。

 

 

 

 

 

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レース本番まであと10日

2013年10月24日 | ランニング


11月3日に開かれる第17回大阪・淀川市民マラソンまであと10日となった。準備はOK…? 完走の自信は…? う~ん、ムニャムニャムニャ…。


これからは走り込みではなく「調整」の期間となるので、今からジタバタしても仕方ない。練習で溜まった筋肉の疲労などを取りながら、レース当日の体調をピークに持っていくことが大事である。…な~んちゃって、言うことだけは立派だけど、実態は大違い。この数ヶ月間、我慢強く距離を積み上げることもできず、日焼けばかりが目立つ始末だ。とほほ。


いちおう練習で20キロは走れるようになったので、10月中ごろに30キロ走にチャレンジしてみた。大和川・石川サイクルラインを15キロ先まで走り、折り返したところ、20キロを過ぎたとたんに足が持ち上がらなくなり、23キロぐらいからは1時間以上ず~っと歩きっぱなしで、ヘトヘトになって帰宅した。まあ、こんな調子です。


昨日、大会本部から参加通知書とガイドブックが郵送されてきた。レース受付は大会の前日(11月2日)で、そこへこれを持って行き、ゼッケンなどを受け取ることになっている。ちなみに、その日とレース日の2日間とも、Qちゃんこと高橋尚子さんがゲストとして見えられるとのことで、それだけが楽しみである。


2週間ほど前、妻とモミィと一緒に、このマラソンの大会本部が設置される場所(スタート・ゴール地点)へ行った。つまり下見である。地下鉄の守口駅で降りて、淀川の方向に歩いて行くと、やがて大きな堤防が見え、「淀川河川公園」との標識があって、堤防にのぼると予想以上に広々とした眺望が開けた。


景色はいい。ジョギングする人もチラホラ見える。しかしこの時、風が強かった。当然ながら、遮るものが何もないので、かなり強烈に吹き付ける。レース当日もこんな強風だったら、向かい風の時は走りづらいだろうな…と想像し、思わず肩をすくめた。とてもじゃないが、当日は、大地を蹴り、風を切って走る…という具合にはいきそうにもない。


ま、ともあれ今のところたいした故障もせず、どうやらスタートラインに立てることは間違いなさそうだ。もっとも、故障しなかったのは、裏を返せばそれほど練習していない証拠でもあり、いいのやら悪いのやら…

 

 

  
  
昨日届いた参加通知書とガイドブック。
  ゼッケンナンバーはフルマラソン男子の部「F6304」とある。

 

 

 


このあたりに大会本部が設置される。写真は淀川の下流に向かって撮ったものだが、フルマラソンは写真の右方向(上流)つまり京都方面に向かってスタートし、10キロちょっと先の枚方大橋手前で折り返し、スタート地点に返ってくる。そこが中間点で、そこから今度は下流に向かって塚本というところまで行き、また折り返し、スタート地点に戻ってきてゴール…ということになる。

 

 

 

 

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比叡山・延暦寺 半日回峰!

2013年10月21日 | ウォーク・自転車


先日、歩く会の「日本ウダウダ会」で比叡山・延暦寺へ行った。


「日本ウダウダ会」もメンバーが増えて、15人になった。6、7人で近畿の山々や野辺を歩いていた頃からみると倍以上の人数に増えた。人格高潔にして慈愛に満ち、大酒を飲んでウダウダ言う…というたぐい稀なる人物だけが会員となれる「狭き門」ではあるが、その門がどんどん突破され、会員が増える一方であるのはまことに慶賀すべきことである。この勢いではやがて「維新の会」も凌ぐのではないか、とまことしやかに囁かれているほどである(ウソつけ!)。


また今回は、現役で公職に就かれている女性の方の姿もあった。その方とは以前から仲良しだったけれど、ここ1、2年はご無沙汰していた。前回、僕は体調が悪く欠席したが、この方はその時から参加し、今回が2度目。ウダウダ会では僕と初めて一緒になった。その方はウダウダ会についてこんな感想を漏らした。


「のんちゃん(…と、僕のことをこう呼んでくれる)、この会は酒盛りだけの会かと思ってたら、山登りとかするんやね~。私、びっくりしたわ」


なるほど~。たしかに1時間だけ歩いて5時間ぐらい酒を飲むときもあるけれど(なんだ、それは?)、それはまあ、ごくたまに…のことである。いちおうウダウダ会は、野山も巡るし、崖っぷちも歩くし、シカやイノシシの死骸を横目に鬱蒼たる山中をうろついたりもする。酒盛りはそれが終わってからである。つまり歩く修行と酒の修行の両方ですね~(どちらが主かは想像にお任せ…です)。


さて、この日は14名の参加で、待ち合わせ場所からマイクロバスに乗って一路比叡山へ。登山口から登るのではなく、山の上の方までバスで行って、横川(よかわ)というところから西塔、東塔へと尾根歩きをしたのである。

 

 
   比叡山の尾根を歩く。


比叡山の延暦寺というと一つのお寺と思うかもしれないけれど(いや、一つの寺には違いないのだが)実際には横川、西塔、東塔の3つのエリアに分れており、それがさらに細かく分かれていて、お堂の数は数えきれないほどあるという。


この日僕たちが歩いた横川~西塔~東塔が、まあ最もポピュラーなコースには違いない。そこはあの千日回峰行でも通る道だ。千日回峰といえば、20数年前にテレビで紹介されて一躍有名になったわけだけれど、その時の行者であった酒井雄哉(ゆうさい)師が、先日亡くなられた。僕もウルトラマラソンなどに興味を持ちかけていた頃に千日回峰のテレビを見て、こういう荒行が生身の人間にできるのか…と大変な衝撃を受けただけに、酒井師が亡くなられた記事を見て、思わず新聞の写真に向かって手を合わせたものだ。


横川から西塔へ歩く間に「玉体杉」という見晴らしのよいところへ出た。道端に大きな杉の木があり、説明の立て札があった。それによると、千日回峰の行者はここで止まって、京都の御所に向かい、玉体加持(天皇のご安泰をお祈りする)をするそうである。同時に、ここが行者の唯一の休憩場所だという。

 

 
  「玉体杉」の立て札を読む。



眼下に京都の街が見える。少し曇っていたが、うっすらと御所の緑が見えた。御所は、僕が生まれ育った場所の近くにあり、幼児の頃、歩いて母によく連れられて遊びに行ったようで、御所の中で菓子袋を握って立っている写真もある。しかし最近は、もう何年も、御所には行っていないなぁ。


また歩き続けると、やがて尾根道からやや広い道になり、西塔の釈迦堂へ出た。立派な建物である。ここでしばらく休憩し、また歩き始めると、読経らしき声が響いてきた。傍らに「ただいま常行堂・法華堂において修行中ですので、お静かにお願いいたします」との大きな看板が立っていた。何か、別世界に来たような感じだった。

 

  
    釈迦堂。

 

  
   修行中です。お静かに…

 


東塔が近づくと人の数も多くなる。東塔の本堂は根本中堂だ。そこへ来ると、これまでの道中がウソのように観光客で賑わっていた。むろん、皆さん、車に乗って来られているのである。まあ「比叡山の延暦寺へ行こうか」といえば、たいていこの場所を指している。僕もかつて息子と車で来たのはこの根本中堂だった。当時、延暦寺といえば、このお寺だけを指すのだと思っていたもんね。

 

   
    根本中堂に到着。 この日の「修行」は終わり~

 


千日回峰ならぬ「半日回峰」をしたあと、ウダウダ会一行はぞろぞろと根本中堂の駐車場へ行った。そこで横川で降りたマイクロバスが待ってくれていた。時計は12時過ぎ。「あぁ、お腹が減ったなぁ」とみんながつぶやく時間である。


ひと月ほど前に会長から送られてきた今回の案内には、「登山中の食事は不要にしておいてください。おやつ程度まで」と書かれていた。昼過ぎにはバスでJR坂本駅の前へ着く。そこの「料亭」を予約しているから、弁当は持ってこなくてよい…ということであった。さあ、これから「料亭」でビールを飲んで、ご馳走を食べるのだ。待ってましたぁ! の瞬間が迫ってきた。


全員が乗り込んだバスは、スイスイと道路を下って行った。JR坂本駅が見えてきた。「料亭はどこですかいな?」とみんなで言っているうちに、バスは止まり、ゆっくりバックし始めて、一件の店の前に横付けした。


「はい皆さん、本日はお疲れ様でした。お待ちかねの料亭に着きましたよ」


と会長のあいさつを受け、みんな貴重品だけを持ってバスを降りた。「料亭」にしては小さな店だった。いや、あまりに小さすぎる店だ。そして…

入り口にかかっていた暖簾には「お好み焼き」と書かれていた。 じぇじぇじぇ~ 

 

 

 

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ハッピー・デイ

2013年10月19日 | 日常のいろいろなこと

昨日はハッピーなことが2つあった。ひとつは巨人が広島に3連勝してCSを突破、日本シリーズ出場を決めたこと。去年日本一の座に輝いた巨人だが、今年日本一になるとなんと40年ぶりの「連覇」ということになるそうだ。40年前というと1973年で、あの歴史に残る9連覇を達成した時である。そうか…。あれ以来、巨人は一度も日本シリーズの連覇をしていなかったのか? …と、巨人ファンでありながらそのことに気がついていなかった。ま、とにかくCSを突破したので、テレビを見ていた僕はハッピーな気分だった。


もうひとつは、昨日、モミィが8歳の誕生日を迎えたこと。朝起きて、いきなり「私、背が伸びたわ~」と叫びながらキッチンへ走ってきた。「なんで?」と聞くと、「だって私、今日から8歳になったんだもん」と言う。「そんなぁ…。8歳になったからといって急に背が伸びるかいな」と返すと、わけもなくニコニコ笑っている。8歳になった朝のモミィの第一声はそれだった。何のことやら…


モミィも少しずつ成長していく。大きくなっていく。でも、もっともっと、早く大きくなってほしいと僕たち夫婦は願っている。早く成長して、一人前になってほしい。…ということは、僕らもどんどん年を取っていくわけだけど、そんなことは構わない。モミィが一人立ちできる大人になったら、僕たちも安心して死ねるというものである(笑)。

 

 

 
  生まれた頃のモミィ。

 

 
  3歳の頃。

 

  
   今年は小学2年生に。6月の運動会で(左側)。

 

 

 

 

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ダルビッシュ投手の弟が…

2013年10月18日 | ニュース・時事

プロ野球のCSも、巨人が広島に連勝、楽天がロッテにまず1勝と、順調にセ・パ優勝チームが勝って、夢の巨人・楽天の日本シリーズが実現しそうな雰囲気になってきた。楽しみだなぁ。が、そんな折…


一昨日の朝、新聞を読んでいると、隅のほうに「ダルビッシュ投手の弟、傷害容疑で逮捕」という小さな見出しの記事が目についた。人を殴るなどして怪我をさせたという。記事を読んでさらに驚いた。住所を見てみると、
大阪府藤井寺市大井4丁目、とあった。げ~っ。藤井寺市は僕が住んでいるところだが、その中でも大井というのはわが家からすぐ近くのところである。藤井寺市というのはとても小さい市で、日本で「面積の小さい市ベストテン」第6位に入っていたようなところである。


http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/200810/sanko/small_shi.htm


そんな小さい市だと言っても、やはりそこそこの広さはあるんだけれど、この大井というのは、前述のように、ホント、わが家からきわめて近い場所にある。こんな近所にダルビッシュの弟が住んでいたとは、知らなかった。


もっとも、ダルビッシュ投手自身も、藤井寺のお隣の羽曳野市出身で、もともとこの辺の人である。彼が少年野球の頃に活躍したチームの練習場が大和川の支流である石川の河川敷にあり、僕のジョギングコースでもあるので、よく知っている。世界のダルビッシュが僕らと同じ地域の人であるというのは誇りだけれど、その弟がわが家のすぐ近くに住んでいたというのは驚きだった。


もう少し違う話題でそのことがわかれば、このブログにも、ダルビッシュ投手に関する楽しい記事が書けたと思うのだけれど、なにせ残念なニュースだけに、これ以上、書きようがないですね。う~ん、どういう事情があったのかわからないけれど、本当に残念なニュースでした。 

 

 

 

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マリー・アントワネットの日

2013年10月16日 | 旅行


僕が初めてパリの地を踏んだのは1994(平成6)年の10月16日だった。19年前のちょうど今日のことである。なぜ日まで細かく覚えているのかというと…


このとき僕は、ある組織団体の海外研修グループの一員として旅行に参加していた。僕にとっては初めて訪れるヨーロッパで、アムステルダム、ウィーン、ベルンを訪れたあと、最後にパリに入ったのである。


バスに乗ってホテルへ行く途中、コンコルド広場にさしかかった。バスが止まり、そこでガイドさんがひとこと説明したことが、今でも心に残っている。このコンコルド広場は、あの王妃マリー・アントワネットがギロチンで処刑された場所であり、その処刑日が、1793年の10月16日だったというのである。「そうです、みなさん。今日と同じ日にマリー・アントワネットはここで亡くなったのです。しかも去年がちょうど没後200年でした。今日は201年目ということになります」。それから毎年、10月16日という日が来ると、この悲運の王妃のことを思うのだ。

 


  
  パリ中心部にあるコンコルド広場。ここでマリー・アントワネットは処刑された。
  左側の向こうの方に、かすかにエッフェル塔が見えている。

 

昔、僕は遠藤周作が好きで、「沈黙」や「海と毒薬」のようなシリアスな小説から抱腹絶倒のユーモア小説やエッセイまで、ほとんどの作品を読んだ。もう一人好きな作家に北杜夫がいたが、遠藤さんと北さんは無二の親友で、テレビで2人が対談に出たときは、漫才を見ているよりおもしろいやり取りを交わしていた。


その遠藤周作が、もう30年以上も前だが、朝日新聞の日曜版(だったと思う…)に、「王妃マリー・アントワネット」という長編小説を連載していた。僕はそれを毎週楽しみにして読んだ。連載が終り、単行本になるとそれを買い、また読み直した。その頃からマリー・アントワネットには惹かれるものがあった。


それが、初めてパリに行き、最初に説明を受けた場所が王妃の処刑されたコンコルド広場であり、しかもその日が処刑日と同じ10月16日だったとは、何とも強烈な洗礼を浴びたような気がした。


マリー・アントワネットはオーストリアの女帝マリア・テレジアの末娘で、本来ならそこでお姫様として一生幸せに暮らしていたはずなのに「政略結婚」でフランスのルイ・16世のもとに嫁がされ、フランス革命の渦に巻き込まれてわずか38歳の若さでその命を絶たれてしまったのである。


彼女が住んでいたパリ郊外のベルサイユ宮殿の見学コースの中でも、人気の場所は、「鏡の回廊」と「アントワネットの寝室」だ。寝室のベッドは水平ではなく、やや上半身が起きた形になっている。ガイドさんは「この当時はまっすぐ寝ると死んだ人と見なされるので、みんな上半身を少し起こし気味にして寝ていたのです」と言っていた。へえぇ~~。

 

  
  ベルサイユ宮殿の入り口。 観光客で賑わう。

  

   
    宮殿内の礼拝堂。ここでアントワネットは結婚式を挙げた。

 

     
     宮殿に飾られていた肖像画。
     こよなくバラを愛したアントワネット。
     まさに「ベルサイユのばら」ですね。


 

その後、僕は妻とウィーンへ旅行した。アントワネットが生まれ育ったシェーンブルン宮殿にも行った。そこには12歳の時のアントワネットの肖像があった。そのわずか数年後に、彼女はこの宮殿を去り、夫となるルイ・16世の待つパリへと向かったのである。ウィーンからパリまで、23泊24日だったというから、まあ、たいへんな時代だったんだ。

 

 
  ウィーンのシェーンブルン宮殿前で。
  マリー・アントワネットはここで生まれ育った。

 

   
   シェーンブルン宮殿には、
   彼女が12歳の時の肖像画もあった。



ウィーンを出発したアントワネットの一行が最初に泊まったのがドナウ河畔にあるメルク修道院というところだった。実は僕たちは、ウィーンから列車に乗ってこのメルク修道院にも行ったのだ。ところがその時は、アントワネットが泊まった場所とは知らずに行った。「薔薇の名前」という、ショーン・コネリーとクリスチャン・スレーターが主演し、中世の修道院で発生した連続殺人事件を修道士のショーンコネリーが謎を解いていくという映画があって、そのロケ地がメルク修道院ということで興味をそそられたのだった。マリー・アントワネットが最初に泊まったところだとは後から知った。その時に知っていれば何か発見があったかも知れないのに。残念でした~

 

 
 メルク修道院は、ウィーン西駅から列車で1時間少し。


 

 
  同修道院前で。

 


数年前、何かの映画で、マリー・アントワネットが処刑される時のシーンを見たけれど、何の映画だったかどうしても思い出せない。でも、ラストシーン、冷静で、淡々と処刑に臨む彼女の目の表情や一挙一動を、胸が張り裂けるような思いで見たことはよく覚えている。(映画といえば、ヒラリー・スワンクがアントワネットを陥れるラ・モット伯爵夫人を演じた「マリー・アントワネットの首飾り」というのも見応えがあった)。


世間知らずのお姫様ゆえに贅沢の限りを尽くし、民衆から強い反発を買った「愚かな女」のイメージを植えつけられたフシもあるけれど、彼女の生涯をたどってみると、やはり「悲運」という言葉以外に浮かんでくる言葉はない。…と、僕は思う。


ともあれ今日は2013年の10月16日。マリー・アントワネットが断頭台の露に消えた日から、ちょうど220年が経った日…ということになります。

 

  

 

掲載写真について  コンコルド広場とベルサイユ宮殿関係は2008年のパリ旅行の時に撮影したもので、ウィーンとメルクの写真は2000年に撮影したものです(13年前! 懐かしいなぁ)。なお2つの肖像画は資料写真です。   

    

 

 

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パリのカフェでの聞き間違い

2013年10月14日 | 旅行


妻と2人でパリへ行った時のこと。まだ海外旅行に慣れていない頃だ。


モンパルナスの駅前で小さなカフェに入った。奥にカウンターがあり、そこに3人ほど男の客たちが立ったままコーヒーを飲んで何やら大声でおしゃべりをしていた。カウンターを挟んだ向こう側に、店のマスターらしき男がヌーッと立っていた。ここでは、テーブルに座るのとカウンター前に立つのとでは、同じ飲み物を注文しても値段が違うそうだ。むろん、立ち飲み(?)のほうが安い。


僕たちはテーブルに座った。しかし座ってもウエイトレスが注文を取りにくるわけでもなく、そのままほったらかしである。あ、これは自分から行かなければならないのだとわかり、カウンターのマスターらしき男のところへ行き、「カフェ・ドゥ」とちょっと緊張して注文した。


「カフェ?」と男は怒鳴るように反復し、そのあと「バケツ!」と、さらに大きな声で僕に言った。「はぁ…? バケツ…?」…あの雑巾なんかを洗うときに使うバケツか…? なんや、そら? 僕たちはコーヒーを飲みたいのである。まさかコーヒーがバケツに入って出てくるわけでもあるまい。


「バケツ…?」と僕は男に聞き返した。男はまた「バケツ!」と叫び、僕の様子を窺った。僕は何が何だかわけがわからず、ただポカ~ンとしていると、「あ、こいつはダメだ」と悟ったのか、男は「もういい」という仕草をして、コーヒーを2つ入れて僕に手渡したのである。


コーヒーを運んで席に戻り、妻に「あのおっちゃん、バケツって言ってたけど、何のことやら…」とつぶやいて、僕たちは店の隅でひっそりとコーヒーを飲んだ。他に座っているお客は一組もなかった。


…今から思えば、マスターらしき男が「バケツ!」と叫んだのは「バゲット」つまりパンのことだった。それが僕のお粗末な耳には「バケツ」に聞こえたのだ。やれやれ…。まだ朝のうちだったので、コーヒーを注文したらパンも食べるのではないか…と相手は「親切」に言ってくれたのかも知れない。まあその時は、怒鳴るような口調に「親切」など感じるわけなかったけれど…


今は日本のお店でフランスパンが「バゲット」と表示されたりして、半ば日本語化していますが、その言葉がまだ普及していなかった1990年代のお話です。むろん僕もバゲットという言葉自体を知らなかったので、「バケツ」がパンのことだったとは、思いも寄りませんでした(笑)。



個人で海外へ行くとこういうバカみたいな勘違いや失敗談がヤマほどあります。このブログでも、また少しずつ紹介していきたいと思います。でも、こんな話は人生に何の役にも立たない話ですから、ムダな時間を過ごせない方は、お読みにならないほうがよろしいかと…

 

 

 

 

 

 

 

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4年半ぶりの再会 2

2013年10月11日 | 日常のいろいろなこと


僕が約38年間勤めた市役所での仕事というのはどういうものだったのか…を、誰もそんな話は聞きたくないわ、という声に逆らいながら(笑)、ざっと書いてみようと思います。


僕は学校を卒業してすぐ、ある和楽器店に就職した。大学4年の時に学生結婚したので、とりあえずどこでもいいから就職しなければ…と思い、大学のクラブで邦楽(琴・尺八)を演奏していた関係上、そういう和楽器を取り扱っている店で働こうと思い、そこへ就職した。


仕事は、阿倍野近鉄百貨店4階に入っていたその和楽器の売り場の店員だった。百貨店だから土・日曜も出勤だし、一日中立ちっぱなしだし、お客が少ないので売り上げも少ない。何より店自体が個人経営で、入ってみてわかったことだが、業績も下火になっていた。世間を知らないまま社会に出た僕だが、将来への不安が日増しに大きくなってきた。妻が時々「市役所とかの公務員になったら?」と言っていたこともあり、僕はさっそく転職をすることに決めた。


当時は市役所職員の中途採用が新聞の求人欄によく載っていたので、近隣都市であった松原市の職員募集を毎日新聞で見つけて、まだ試験も受けていないのに、さっさと和楽器店に退職願を出した。勤めてわずか3ヶ月だったが、今でもあの百貨店で働いた3ヶ月は、10年くらい働いたような気がするほど長かった。


その年(1971年・昭和46年)の8月から市役所に勤め始めた。最初の部署は「秘書課・市史編さん室」というところだった。当時「松原市史」が全何巻かで発行される計画だったので、専用の部署ができ、そこへ最初に配属された職員が僕だったというわけ。資料だらけの個室にポツンと入れられて、執筆委員のいろんな大学や高校の先生たちが訪れ、その人たちのお相手をしながら指示に従い、事務を執る…という仕事が始まった。


市役所というのは住民票とか税とか、健康保険とか福祉とか教育とか、市民の人たちの便宜を図る組織なのに、自分は市民とはまるで接触のない場所に配属されたことで、気分も塞ぎがちな1年半を送った。が、1973(昭和48)年に課税課へ移り、ここで初めて市役所らしい仕事に巡り合い、大勢の同世代の仲間と一緒に仕事を始めることになった。しかし、職場の雰囲気と仕事にすっかりなじんだ2年後に、また僕に異動の辞令が来た。どうもコロコロと職場が変わる。今度は、議会事務局という、なんの仕事をしているのやらわからないところへ異動した。1975(昭和50)年のことだった。


それから実に16年間、議会事務局で過ごした。26歳から42歳までそこにいたのである。おかげで市議会議員とすっかり顔見知りになった。しかし、ここも長年いると嫌気がさしてくる。当時「人事異動への希望」というアンケート調査があり、僕は「他の課へ行きたい」と便箋に何枚ものレポートを書いた。どうやらそれが人事担当者に通じたのか、翌年、総務課の文書法規係というところへ異動させてもらった。1991年のことで、もう昭和ではなく平成(3年)になっていた。


前回のブログで、〇谷クンと久しぶりに会ったことを書いたけれど、彼とはこの時に一緒に仕事をした。しかしそこはわずか2年いただけで、僕はまた移動した。なんだかねぇ…。2年やそこらで異動することが多いかと思えば、議会事務局のように16年もいたりと、極端に長いか短いかどちらかだった。


その次に行ったのが広報の担当だった。どこのご家庭にも役所が発行する「広報〇〇」というのが配布されてきますよね。あの広報紙を作る担当で、もともと文章を書いたり新聞を作ったりするのが好きな僕には歓迎すべき仕事だった。


ところで当時の広報紙作りは、レイアウト用紙や原稿や写真を印刷業者に渡して、戻ってきたゲラを見てチェックし、また印刷業者に戻す、という作業をしていたわけだが、その頃はパソコンを使って紙面を作ることが全国各地の広報紙で現れ始めていた。うちの広報にも業者がやってきてそれを勧めている時だったが、広報の先輩たちはことごとく断っていた。彼らには新しいことを始めるのを嫌がる傾向があった。


しかし、いずれはそうなるのだから早いうちがいいでしょう…と、僕は上司たちを説得し、「でも、操作とか、できるのか?」という問いにも「習ったら絶対できますよ」と、僕は若い職員たちに「大丈夫だよね?」と念を押し、彼らの同意を得た。20数年の役所生活で、最も仕事にやりがいを感じた時だった。


そのころはまだウィンドウズは存在しておらず、広報紙作成にはマックのパソコンが最適だったのでそれを導入し、専門家から操作方法を習い、自分たちでレイアウトや見出し、背景色や全体バランスなどを考えながら、新しい広報紙作りを始めたのである。思い出深い時代だった。


このとき、僕と同時期に広報へ異動してきた来た女性がいた。〇川さんという僕の息子たちより2、3歳年上だけ…という若い子だった。ぽわ~んとした雰囲気でおとなしい女性だったが、仕事への意欲は満々だった。僕が覚えたてのパソコンでの編集操作を彼女に教えたのだが、とても物覚えがよく、スイスイと覚えていくのには驚いた。若い人の頭の柔らかさにはとてもついていけない…とまだ40代だった僕も、このときすでに思い知らされたものである。


広報の仕事を6年間したあと、僕は再び議会事務局へ異動となり、役所人生の残りの10年間をそこで過ごし、2009(平成21)年に定年退職をした。結局、役所生活約38年のうち26年を議会事務局で過ごしたことになる。


 ……………………………………………………………………………………


そして話は現在に戻ります。話の趣がガラッと変わりますのであしからず。


先週の土曜日のことです。


土曜日はモミィがスイミングスクールへ行く日だ。朝8時に家を出て、駅前のコスパへ3人で行く。そこへ着くと、妻がモミィを連れて更衣室へ行き、僕は見学席に座る。やがて妻が戻ってきて、一緒にモミイたちのプールの様子を眺め、スクールが終わると妻はまた更衣室に向かう…という流れである。


妻が更衣室に行ってからモミィと戻ってくるまで10分ほど時間があるので、僕は場所を移動し、壁を背にした長椅子に座り、うつむいてぼんやりしていた。しばらくすると、僕の真ん前に一人の女性が立ち、僕がもたれている壁の上の方を熱心に眺めていることに気づいた。視線を上げて女性の顔を見ると、どこかで見た顔である。は~て、と思い、チラリチラリと上目で顔をうかがう。が、思っている人かどうか、確信が持てない。よく似ているけれど、ちょっと違うような…。彼女は壁の上のほう、つまり僕の頭の上を凝視している。壁に何かのポスターが貼ってあるようで、それを見ているのだろう。


僕はまた視線を戻して、目を閉じようとした。その時…


「あぁ…?」という声が聞こえた。前の女性である。「〇〇さん!」と僕の名を呼んだので、僕ももう一度彼女の顔を見た。メガネをかけていたのでわかりにくかったが、やっぱりそうだった。あの広報で6年間一緒に仕事をした〇川さんだったのだ。「ポスターばかり一生懸命見ていて、〇〇さんだということに気がつきませんでした。お久しぶりで~す」と〇川さん。「ホントにねぇ、元気?」「はい、おかげさまで」と言いながら、僕の隣へ座った。


彼女とは、僕が広報係を出てからは、顔を合わせた時に立ち話を交わす程度だったけど、やがて彼女は結婚し、赤ちゃんもできた。その赤ちゃんが…なんと、三つ子ちゃんだと聞いたときにはびっくりした。双子ちゃんはよく聞くけれど、自分の知人で三つ子ちゃんというのは、初めてのことだ。


翌年の年賀状には、同じ顔をした男の子3人が並んでいる写真が添えられてあった。とても微笑ましい写真だった。そしてその後一度だけ、〇川さんがその子たちとスーパーで買い物をしているところを偶然出会ったことがある。初めてこの目で見た3人は、キャアキャアと歓声を上げながら、売り場の間を走り回っていた。その時は3、4歳ぐらいだったと思う。僕もまだ退職前だった。


その〇川さんと、このスイミングスクールでばったり出会ったのである。これもまた、退職以来4年半ぶりの再開である。少し痩せて顔つきが変わったような気がした。三つ子ちゃんを育ててきたのだから、そりゃ痩せもするだろうね~。「ちょっと痩せたかな?」と言うと、「えぇ、これでもかなり戻ったんですよ」と〇川さんは笑った。


「ところで、三つ子ちゃんは…?」と僕が聞くと「パパが更衣室に行ってくれているので、今、着替えている途中だと思います」と〇川さん。男の子は男子用更衣室だから、ご主人が行っている…ということである。「いつも土曜日…? それにしては会ったことないけど」と僕が再び聞いたら、「ふだんは日曜日なんですけど、明日運動会なので、今日に振り替えました」ということだった。


「三つ子ちゃんはもう小学生でしょ? 何年生になったの?」と僕が聞く。
「2年生です」
えっ? じゃぁ、モミィと一緒だったんだ。ふ~ん、そうだったのか。2005(平成17年)生まれなんだ。

そこへ着替えを済ませたモミィが来た。後ろに妻もいた。〇川さんは一度、他の若い人たちと一緒にわが家に遊びに来たことがあるので、妻も彼女のことは知っている。


「お久しぶりです」と〇川さんは妻に会釈したあと、モミィに「こんにちは~」と手を差し伸べると、モミィもちょっと緊張した面持ちで「こんにちは」と返答した。「むかし、いっしょに、お仕事をしていたのよ」と、僕のほうを向きながらモミィに説明する〇川さんであった。


子どもたちは着替えるのが遅いので、まだまだかかりますから…と言う〇川さんに、「では、お先にね~」と手を振ってその場を離れた。


この週は月曜日に〇谷クンと会い、土曜日に〇川さんと会った。いずれも4年半ぶりの再開だった。退職すると、長年勤めてきた職場でのいろいろな仕事も、かなりのスピードで記憶の中から消えていく。それだけに、こういう出会いは、ひときわ深~い感慨を覚えるんですよね。


長々と書きましたが、おつき合いいただき、ありがとうございました!

 

 

 

 

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4年半ぶりの再会 

2013年10月07日 | 日常のいろいろなこと


先週、かつて勤めていた職場で一緒に仕事をしていた人と偶然会った。しかも別々の場所で2人と出合った。2人とも僕が退職した2009年(平成21年)3月以来年賀状の交換はしていたが会う機会はなかっただけに、とても懐かしかった。


まず先週月曜日(9月30日)のこと。2ヵ月に一度定期的に通っている松原市の徳〇会病院で、検査・診察を終え、薬をもらうのを待っていたとき、僕のほうをのぞき込んでニコニコしている男性が見えた。「あっ!」と驚いた。〇谷クンではないか。「久しぶりぃ~」と、思わず僕も声がはずんだ。〇谷クンは、今日はここの皮膚科で診察を受けてきました…と言いながら、僕の隣に座った。元々息の合った「コンビ」だったので、会話が盛り上がったことは言うまでもない。


〇谷クンとは、市役所で、91年(平成3年)4月から93年3月までの2年間、総務課の文書法規係という部署で一緒に仕事をした。僕より10歳近く年下で、当時は僕が係長で彼は係員だったけれど、彼は法律に詳しく、その前に大阪府庁に派遣され、そこであらゆる法律知識を磨き上げて戻ってきた優秀な職員だった。僕は2年間、〇谷クンにおんぶにだっこ、という状態で、彼なしには何もできないほど、彼に頼りっきりで仕事をさせてもらった。


それに加えて、〇谷クンは僕たちが作っていた「ランナーズ」という走る会のメンバーでもあり、駅伝も一緒に出たし、フルマラソンの大会にも一緒に出た。だから、同じ係で仕事をしたのは2年だけだが、ランニング仲間として、そのつき合いはとても長い。〇谷クンは今でもマラソンはバリバリの現役で、話を聞くと、この12月の奈良マラソン(僕は抽選に外れた)に出るという。「昨日、30キロ走りました。その前の日は20キロ走ったのですけど…」と事も無げに言うので、僕は「へぇ~、すごいなぁ」と感心するばかり。翌日、僕が大阪城まで走り、2日後に21キロを走ったのは、彼から元気をもらったからである。しかし、彼のように30キロ走…というのは、まだ無理なんですよね~。


病院を出て、右と左に別れるとき、携帯のメルアドの交換をしようと、2人で慣れない“赤外線での送(受)信”をしたが、「送(受)信されませんでした」とのそっけないメッセージが出ただけ。仕方ないので、携帯電話の番号だけ交換した。その後すぐ、〇谷クンからハガキが来て、「近いうちにジョギングを御一緒しましょう。私のメルアドをご報告しておきます」と書かれ、PCと携帯の2つのアドレスが記されてあった。それを登録し、彼の携帯のほうにメールを送ったら、すぐにまた返信が来た。


〇谷クンとは4年半ぶりに会ったわけだけれど、会話を交わしながら、お互いちっとも変わっていないことを感じた。まるで数日会っていないだけ…という感覚なのだ。こんな調子で、年月だけどんどん過ぎて行くんだろうなぁと思う。


で、続いて先週の土曜日(10月5日)、これまた4年半ぶりに、意外な場所で出会った元職場の人のことを書こうと思っていましたが、もう午前5時になってしまったので、これから走りに行きます。その人(女性です。しかも三つ子のママ)の話は次回に書きます。では、お日様が顔を出す前の涼しいうちに、ちょっと走ってきま~す。

 

 

 

 

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大阪城まで走って…

2013年10月04日 | ランニング

もう一度、昔に戻ってフルマラソンを走りたい!…と思い立ったのが今年の5月だった。それを機に、途切れかけていた朝のジョギングの回数を増やしたが、それでも10キロ走るのが精一杯だった。6月にやっと20キロ走ができた。参加するレースも、11月3日に行われる大阪・淀川市民マラソンに決まった。しかしそのあとがイマイチだった。今夏の暑さを言い訳にするつもりはないけれど、とにかく暑くて走るのが大変だった(言い訳してる~!)


しかし、レースはまだまだ先だと思ってグズグズしているうちに、ふと気がつけば10月。あと1ヶ月ではないか 「ぼちぼち、のんびり行こう」と思っていたらいつの間にかレースは1ヵ月後に迫っていた。10月の声を聞いたとたん、さすがに「これは何とかしなければ…」と本気でアセった。


9月の20日に、6月以来の20キロ走をした。走り終えた時、もうこれ以上一歩も走れないほど全身のエネルギーを使い果たした…という感じだった。「この調子ではとても完走はおぼつかない」とも思った。だが、まだまだ努力が足らないことはわかっていた。やれる限りやらなければ…と、何とか自分を奮い立たせたりした。ただ不整脈の心配や、不整脈の薬が血糖値を下げるのでそれで気分が悪くなったり、あるいは体にストレスを与えているせいか、耳鳴りがヤケに大きくなったりで、決して体調は良いとはいえなかった。


それでも、とにかく悔いは残すまいと、この10月の1日に、自宅から大阪城まで走った。大和川を越え、大阪市内に入り、長居通りを西へ走ると湯里6丁目交差点がある。ここを右折して今里筋に入り、大池橋で左折して勝山通りを走り、そして大阪城へ…というコースをとる。湯里6丁目から大阪城までは、1982年(昭和57年)から始まった大阪国際女子マラソンのコースでもあった。女子マラソンは、長居スタジアム(わが家と反対方向)から長居通りをこちら(東)へ走り、湯里6丁目交差点から今里筋に入って、あとは同じ道をたどるのである。


僕も以前は何度かこのコースをジョギングしたものだった(といっても20年以上も前ですが…)。自宅から往復で35キロぐらいだと思う。これを走ればフルマラソンの完走は間違いないというひとつのバロメーターでもあった。ちなみに30年続いたこの大阪女子マラソンのコースも、2011年に変更され、現在は長居通りや今里筋を走らない。これはちょっと寂しい。


ま、そんなことで、かつては大阪城をランニングで往復したものだけれど、この日は大阪城へ着いて、広い公園内をぐるりと回ったら、もう足が棒になった。ヘナヘナと大手門の前に座り込み、自動販売機で買ったスポーツ飲料を飲みながら、中国人観光客ががやたらに目立つ周囲の光景を眺めていると、ベビーカーを押した一人の若い女性が、「すみません、西の丸庭園へ行きたいのですが…」と僕に道を尋ねた。リュックも担がず、小さなウエストバッグだけの軽装だったので、たぶん近所の人間と思われたのだろう。でも僕は大阪城には詳しい(耳鳴りでお世話になっていた大手前病院もすぐ近くだし)。「この橋を渡って門の中に入ったら、すぐ左側に見えてきますよ」と教えてあげた。


 

  
    大阪城の玄関口、大手門でこの日のランニングは終了。

 

さて、これからどうするか。そろそろ昼時である。家を出てから3時間が経っている。途中、数多くの信号があるのでチョコチョコと走っては立ち止まり、結構時間はかかったが、その分休憩にもなるので、僕にはちょうどよかった。


しかし、もうこれ以上走るのは無理だ。売店でパンを買って食べ、ここから地下鉄に乗って帰ろうか…と思ったけれど、せめて天王寺まで歩こうと思い直した。大阪城大手門の最寄の地下鉄駅・谷町4丁目から数えて天王寺は4つ目の駅である。地下鉄駅4つ分の距離なら歩けるだろう。日差しが強くなってきたので、ビルの日陰の側の歩道を選んでテクテク歩いた。それにしても片道とはいえ、大阪城まで走って来られたのはよかった、と何となくホッとした。


テクテクテクテク。天王寺までの道のりは思ったより長く感じられた。前方に日本一高いビル、「あべのハルカス」が見えてきたので車道に出てスマホでパチリ。あやうく車に轢かれるところだった(ぎょぇっ)。


天王寺が目の前に近づいてきた。右側に天王寺公園がある。その向こうに天王寺動物園があるので、道の端にデカイ宣伝の看板が立っている。キリンやライオンやゾウやクマなどの絵が大きく描かれている。それを眺めたあと、前方に視線を向けたとき、驚いたことに、向こうからクマが歩いてきたのである。歩道をこちらに向かって歩いている。カッターシャツを着て、カバンを手に提げて、革靴を履いて…


あっ、と叫んだ。向こうから歩いて来たクマ…じゃない人物は、わがウダウダ会の会長ではないか! 大きくふくよかな体躯で、人懐っこい顔と、前かがみで飄々と歩く姿がまるでクマのプーさんみたいなので、僕はこの2歳年上の気の優しい先輩を、ひそかに「クマさん」と呼んでいた。天王寺動物園のクマの看板を見たすぐあとに、まさかこんなところで「クマさん」と出会うなんて、まったく思いも寄らなかった。


うつむき加減に歩いていたクマさん…じゃない、会長の前を塞ぐように僕は立ち止まり、「は~い、〇〇さん」と声をかけた。相手は驚いて「ぎゃっ。…な、な、な~んや、あんたかいな」。僕の服装を上から下まで眺め回し、目をまん丸にして驚いていた。「何してるん? こんなとこで。そんな恰好して…」


都会の雑踏の中で、ジョギング姿の僕と会うなんて思いも寄らなかったようで、「どうしたん?」と聞かれたので、家から大阪城まで走り、そこからここまで歩いて来た。これから近鉄電車で帰宅するところです…と説明した。


「へぇ~、家から大阪城まで…?」と言いながら、会長は「今が夕方やったら、一杯飲みに行くのになぁ」と腕時計を見て、グイっと酒を飲む仕草をして残念がり、これから日本橋の電気店に買い物に行くところだと言った。別れ際「ほんなら8日頼むで~。あんた、前回休んだからなぁ、今回はぜひ来てや」と言い残し、手を振って反対方向へ歩いて行った。8日(火)はウダウダ会で比叡山へ「修業」に行くことになっている。前回のウダウダ会は、僕は体調が悪くて行けなかったので、今度は絶対に来てや…と念を押された。さて会長は、僕と別れたあと、天を仰ぎ、「なるほど、クマも歩けば棒に当たるやなぁ」と思いながら、歩いて行かれたのだろうか?(…思うわけないやろ!)。


~会長さんがこのブログを読まれないことを、心から祈っています~


…と、そんなことで1日は大阪城まで走り、2日後の昨日(3日→レースのちょうど1ヶ月前)は、5時半に家を出て大和川のコースを21キロ、つまりハーフマラソンの距離を走った。


だいぶスタミナはついてきたように思ったが、それでもこれが精一杯だった。フルマラソンの半分を走ったら、もうそれ以上一歩も走れない状態だった。「う~む、ハーフマラソンの部に申し込んでおけばよかったかなぁ」な~んて思ったり、相変わらず自信のないことばかりが頭の中を巡る僕だった。練習で21キロを走って、本番で「倍返し」できたら言うことなし…なのだが、この「倍返し」は至難のワザである。半沢直樹さん、力を貸してくださ~い。


とにかく、21キロを走るのに3時間かかった。これを単純に倍にするとフルマラソンのゴールは6時間。でも最後はヘバるだろうから、もっともっと時間がかかる。あぁ、これまで14回のフルマラソンで4時間半をオーバーしたことは一度もなかったのに…


いや、こうなればタイムはもう関係なし。何よりも42.195キロを完走できるかどうかが問題ですよね。あと1ヶ月、どれだけ頑張れることやら…

 

 

 

 

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