羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

鞭……方向を変えるタイミングが命

2014年10月29日 13時19分48秒 | Weblog
 床に添わせるようにしてならす鞭の音もかなりいい音だが、空中で鞭を回転させて鳴らす音は、一段と乾いた鋭い音になる。
 実際を言葉にしてみたい。
 まず、音を鳴らすには、円を描く途中で、方向変える必要がある。
 そのタイミングをつかむコツは、言葉では表現しにくい。だから「コツ」なのだけれど。上手くタイミングがつかめないと怪我をするハメになる。
 野口三千三先生から伺った話。
「ある劇団で、勝手に振らないようにと注意して、ちょっとその場を離れたすきに、カッコいいからやってみたい衝動を抑えられなくなったらしい役者の卵が、自分の頬を傷つけちゃったことがあるのよ」
 鞭先きの通り道が大事で、逆方向に腕を伸ばすタイミングが悪いと、音がでないばかりか、顔に絡まってしまうのが空中でまわす危険と難しさである。

 この方向を変えるタイミングは、鞭先が残っているうちでないと、先端がいちばん遠い所を一番速いスピードで通り抜けることは出来ない。
 音が出るときのスピードは、音速から亜音速。音は衝撃波によって生まれる。
 その速度を得るための方向変えは、タイミングが命なのである。
 この時、先端が残っているかどうかを、目で見て確認してからでは遅い。
 目で見る感覚ではなく、からだ全体で鞭の動きを感じて、方向を変えるタイミングをはかるしかない。
 床に添わせて鳴らす場合も同じである。動体視力が相当よいアスリートは別かもしれないが、視覚よりも全体感覚が生きる“直感”を磨くことしかなさそうだ。

 大きく円を描きながら、方向を変える少し前に、肘を胴体に引きつける。そこで一呼吸の間をとって、僅か斜め上方に向かって一気に腕全体を放り投げる。そのタイミングがズレると、鞭の先端が自分の方に向かって来て怪我をするか、スピードがでないで不発に終わるかである。

 実は、方向を変えるタイミングは、毎回、異なる。
 私の場合、違いを感じるのは、からだの中心軸にある避雷針とでも言いたい長軸に添った何かで、鮮鋭化した意識ではない。むしろその避雷針に意識がすっと沈み込んで脚の裏とつながった感じのような実感が得られた時に、よい音が鳴ってくれる。
 自分が自分の意思で鞭を振る・鳴らすのではなく、鞭のなかに溶け込んでいくような感じだ。
 
 と、書いてきたが、どの言葉も虚しい。こまかなところが言語化できなーい。
 この感じ、もどかしさは、何処から来るのだろう?

 一つ言えることは、音が出る前の短い緊張感と音が鳴ったと同時に得られる開放感は、鞭でしか味わえない独自の快感であることに間違いない。

 何時、何処で、方向を変えるのか。
 方向を変えるとは何か?昨日のブログに書いた野口の問いかけは、永遠の課題だ。
 そう簡単に答えは出ない。
 鞭に限って言うならば、それは、きっと、生命活動の象徴だからだ。
 つまり、生命現象の運動(振動・波動・流動)は、円・波・渦・螺旋によって行われる。これらの動きがが短時間に集約して起こる結果が、鞭の音速・亜音速から生まれる音なのではないだろうか、と今のところ空中で鞭を鳴らしたときに得られるからだの実感である。
コメント
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