羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

1914年、漱石の「心」、百年後の読書から

2014年07月16日 13時11分46秒 | Weblog
 毎朝の楽しみ。
 それは朝日新聞朝刊の「心」を読むこと。
 回も重なって、本日は六十一回となった。
 すでに佳境に入っている。
 先生の過去が、明かされていく。
 読みながら、思う。
 単行本だと途中挫折しそうだが、新聞小説だと一日分量としてちょうどいい、ということ。
 現在の新聞小説に比べたら、倍とまではいかないまでも分量は多い。それでも読み易い。
 高校生の頃読んだものの何も理解できなかったわけだが、それもそのはず、であると納得している。
 
 野口三千三先生、我が父、二人の病と死に立ち会って、その後のさまざまな経験があって、小説に書き込まれている内容が、少しは理解できる今なのだと思うこと多し、ってわけ。

 もう一つの楽しみは、「回顧一九一四年」の付録を読むこと。
 百年前、第一次世界大戦の勃発と終戦とその後が、時代の大転換期であることがよく伝わって来る。
 ヨーロッパでは、戦場から負傷して帰国する兵士のために、義足・義手・義眼、車椅子、等々が次々につくられ改良され、それがそのまま現在の医療現場でさらに性能を良くしていくキッカケとなった。
 作曲家のラベルは、戦場で右手を失った親友のピアニストのために「左手のためのコンチェルト」を作曲したのだから、音楽とて戦争の悲惨さを担っていくのだ。

 翻って日本。
 一昨日のブログにも書いた「体育研究所」は、この大戦の教訓から、「体育」を学際的に研究する必要を慮って創設されたことを知ったばかりだ。
 戦争は医学・医療を進歩させ、人間の肉体への関心を高める皮肉な現象を引き起こす。

 さて、隣の新聞ページに掲載されている「リレーおぴにおん ー漱石と私」10回目は、芸大の美術解剖・評論家の布施英利さんがご登場となった。
 漱石の髭の形から、心境や作風の変化を読み解く、布施さんらしいお話だった。
 髭というものは、実は人工的なものだということを改めて読ませてもらった。
 残すにしても剃るにしても、髭の手入れをする行為は男子たる者、社会的に生きるコインを持つようなものらしい。表は責任、裏は虚勢の現れなのだ。この感覚は想像するしかない私だが……。
 
 実は、野口三千三先生は髭を伸ばそうとしてうまくいかなった。
 戦時中、カミソリを持ち歩けないので毛抜きで抜いていたという。その程度で間に合ったということをご本人は考えず、戦後になって髭をはやそうとしてみたものの茶色と白が混ざったもの、がぽちょぽちょと出てくるだけなので、諦めてやめたそうだ。
 そんな経緯があって、体操教室に参加する男性が髭をたくわえていると、遅かれ早かれ追い出されてしまっていた。教室に残りたければ、髭を剃るしかない。

 さて、漱石の髭だが、布施さんによると晩年の作品は、病気、職業や家庭といった「世間」と、自由や愛を貫く「自然」との葛藤が描かれている、という。したがって髭も、若いときいのようなねじ上げた形ではなく、自然を選びとった形に変化していく、とおっしゃる。
 なりほど!

 その話のあとに東大の解剖学教室にある「標本室」に保存されている漱石の脳について思い出を語られている。朝日新聞社には「デスマスク」があることも、この掲載記事で知ったところだ。
 脳といいデスマスクといい、亡くなってからも顔の立体遺影やからだの一部が残っているところに近代を背負った漱石の生きた時間の重さを感じさせられる。
 
 私にとってのデスマスクといえば、ベートーベン他、音楽家のそれを思い出す。写真がなかった時代には、楽曲を楽譜に残すだけではなく、顔を写し取ることで生きた証を残したのだろう。
 さらに養老孟司著『身体巡礼』で訪ねられた墓に納められている棺の話。また1988年頃だったと記憶しているが、岩波『図書」に書かれたフランスの「ジサン」と呼ばれる棺の上に施された亡くなったときの全身彫刻の話を思い出す。
 ジサンのなかには心臓を取り出す、内臓をとりだす、その後に縫いあわされた傷跡をそのまま彫刻したものまであるという。
 
 漱石がデスマスクを残し、献体までも行った、その心はいったい何だろう、と問いかけずにはいられない。
 答えは簡単にでそうもない。
 が、日本人には馴染みのない死の文化を、漱石が体現したことに驚きを覚える。

 当時の欧化政策に生きたエリートの責任感、使命感、行動の徹底ぶりに、日本の近代化の善し悪しを超えたエネルギーを感じる。
 一方で、神経衰弱に悩まされ、最期は胃潰瘍で亡くなったわけだが、からだの底に刻まれた心身の葛藤にも思いを馳せずにはいられない。
 大量の吐血で、自然な身体の暴走をくい止めることができない“からだの事実”が、突きつけられたのだろう。
 当時の日本人として、東洋と西洋との狭間で、自らの心身との孤独な闘いを、小説を書くという行為に転化したと読んでみると教科書にのっている小説家の姿がゆらゆらと歪んで見える。
 日本が負った近代化の意味に、一人の作家の身体性がしっかりと顔を出し、その他の多くの日本人のからだが透けて見える様な幻覚に襲われるから不思議だ。

 著名人の献体の先駆けとして解剖を受けた漱石の脳が、標本室にホルマリン漬けの状態で残されていることの重さも改めて感じる。拙著『野口体操 感覚こと力』に、養老先生のご案内で野口先生のお供をして見せていただいた時のことを書かせてもらった。見てはいけないものを見てしまったあのときの衝撃は、一生忘れられない。視覚がシャッターを押した何枚もの写真が、私の脳の記憶として残っている。

 いずれにして野口先生が生まれた1914年は、日本にとってターニングポイントの年であった。
 百年後に漱石の「心」を再掲載する企画は、なかなかに憎いのであります。
 お蔭で、何重もの意味を探る「心」を読む楽しさを満喫している。
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