羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

気づく・ハッとする・なんだ?・もっとはやく気づけばよかった!

2014年07月14日 14時17分19秒 | Weblog
 今朝のこと。
 好きな団扇の地模様を眺めていた。
 以前にも、こうして眺めてたことは、1回や2回ではない。何度も繰り返している。
 その団扇は、立教大学創立130年記念の年に、大学の敷地に隣接し寄贈された江戸川乱歩旧宅の修繕が終わった時点で一般公開された時に配られたものだった。
 もっと正確に書くと、同時期に東武百貨店で開催された『江戸川乱歩と大衆の20世紀展』でくばられたもので、裏側にはタワーマンションの宣伝が大々的に印刷されている。
 表のデザインが気に入って、ずっと大切に使っている団扇である。
 独特の書体の黒字で「乱歩」とあり、その文字に書庫兼書斎として使われた蔵に4匹の蝙蝠飛び交い、その他には怪人二十面相の立ち姿をはじめ時代を象徴する絵がいくつも小さく描かれている。
 この地が、おそらく大正末か昭和初期の東京地図であった。
 向かって中央左隅に赤い文字で書かれた「体育研究所」にハッと目が止まり、そのまましばらく釘付け状態となった。場所は甲州街道・京王線から少し入った幡ヶ谷である。
 何度も確認した「東京体育専門学校」、「東京体育専門学校」、「東京体育専門学校」のあった場所に間違いない!

 さっそくウエッブ検索してみた。
《体育研究所(たいいくけんきゅうしょ)は、かつて存在した文部省直轄の研究所である。》
 とあるではありませんか。

1924年(大正13年)10月25日、体育に関する研究、調査、教授、指導する研究所として文部大臣所轄の研究所として代々木西原に創設された、とある。
 解剖・整理・化学・衛生・心理・教育・体操および遊戯の部にわかれていて、主要な事業は体育に関する各部専門の研究連合調査、講話会、体育研究会、講習会、研究生指導、講演会、出張指導、体育相談、出版等々、広範囲に渡って「体育」を研究する場であった。

《第一次世界大戦後の世界的な体育研究への関心の高まりを背景に、他の教育科学に比して立ち遅れていた日本の体育研究の基礎を固める役割を果たした。しかし1930年代以降の時局の悪化により研究所としての機能の発揮が困難になり、1941年(昭和16年)3月に廃止され、体育指導者養成のための東京高等体育学校に改組された。1944年(昭和19年)4月の「東京体育専門学校」への改称を経て、1949年(昭和24年)5月、学制改革にともなう新制東京教育大学に包括され同大学体育学部の構成母体となったことから、体育研究所は筑波大学体育専門学群の源流の一つの見なされている。》

 立教大学は、今年、創立140年記念の行事が行われている。
 すると10年間も、夏になるとこの団扇を眺めていたことになる。
 いや、はや、今年になって幡ヶ谷のこの地を訪ねなければ、この隅にある文字に気づかなかった。
「なんてこった!」
 この研究所に、大谷武一、本間茂雄が奉職していた、と思うと団扇を大切にしていた大きな意味に出会ったような感動を覚えた。
 体操の本間氏が群馬の小学校で素晴らしい成果を上げていた野口三千三を訪ね、東京体専への大抜擢の道をひらいた話が思い出された。
 古い地図は、歴史的事実を浮き彫りする。
 世界的な体育研究の高まりは、第一次世界大戦がその背景にあったことを突き止められた。

 今の時局に照らせば、思いは複雑である。
『江戸川乱歩と大衆の20世紀展』、蔵のある乱歩の旧宅公開から、はや10年の歳月がながれたことになるのかー!
コメント
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