羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

「降海の夢」……座・高円寺で……悔恨ありやなしや

2013年10月14日 07時42分48秒 | Weblog
 それは三島由起夫が目指した肉体ではない。
 それはすべてのスポーツアスリートが目指した肉体ではない。
 それは格闘技家が目指した肉体ではない。
 それは武道家が目指した肉体ではない。
 それはバレーダンサーが目指した肉体でもない。
 それはコンテンポラリーダンサーが目指した肉体ではない。
 それはストリートダンサーが目指した肉体ではない。
 etc.

 何者でもない肉体が蠢く。
 あえて言うなら、三木成夫が胎児の世界に描き出した生命36億年の肉体である。
 鮫であり、イルカであり、クジラであり、シャチであり、草原を駆け回る哺乳類であり、これまでも存在し、これから存在するであろう原罪を一身に引き受けたヒトの肉体である。
 まだまだ極限には遠い。しかし、5人の舞踏家は、一人ひとりの肉体を、一人ひとりの価値観で鍛え上げている過程をみせる。
 どれほどの苦痛と甘美。どれほどの悔悟と陶酔。
 どれほどの闘いがあり、どれほどの安らかさが彼らを包んだことだろう。

 彼らは美しすぎた。完璧に近い隙のない肉体の、ほとばしりのなかで現代文明をむさぼり、現代文明に押しつぶされ、現代文明を肯定し破壊し、命を再構築していくエネルギーはあまりに静かだった。

 男という存在は、通過儀礼なしには男になれないのか?
 自分の男根を大きく天に掲げなければ、ヒトとしての限りある生を確認できないのだろうか?

 それに反して、…… 西脇順三郎ではないけれど、創造から終末まで女は永遠である、と思えてきた。
 この舞台、“永劫の人”はそこにはいなかった。
 では、物体としての生命が厳然とあったのだろうか。
 もう一度言う、あまりにも美しすぎる5人の肉体の躍動感は、やすやすと重力をこえて、存在そのものを次々に消滅させていった。

 だが、……、この風景、どこかで見覚えがある。
 このエスプレッション、このウネリ、この微動、このざわめき、その根源に、いつかどこかで出会っている。
 母親の胎内だろうか。
 いや、違う。
 もっと意識が覚醒していた。足を取られて身動きできない泥沼の中でだったに違いない。
 
 どこだ?
 いつのことだ?
 
 懐かしさの源泉は、いったいどこだろう。
 この舞台のすべてではない。しかし、はじめて足を踏み入れて、“とんでもない”と思いつつ、抜け出すことができなくなったあの空間と時間だ。
 おおかた40年近くも前になるだろうか。
 それは、野口三千三の火曜日のレッスン場だった。

 思えば、遠くに来てしまった。ずいぶん、遠くに来てしまった。
 それは、罪だろうか。
 とすれば……
《是余が非徳の致す所悔恨するとも喝ぞ及ばん》

 野口没後、十七回忌を前に、よきものを見せてもらった。

 工藤丈輝 若林淳 浅井信好 河原田隆徳 オグラ・コブラ
 若手舞踏家の今を見せてもらった。
コメント
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