今、ウランガラスのペーパーウエイトが宅配された。
極微量のウランを着色剤として加えたガラスのことを「ウランガラス」と呼んでいる。
同封されていた手書きのメモによると、《ブラックライトのように極端に光り方を強調しているライトでなくても、紫外線に反応するので、自然光でも充分に光ります》とあった。
今日の東京地方は、台風の影響の雨と風はおさまったものの、曇り空のもとでははっきりと蛍光現象は見られない。
そこで、紫外線照射器とブラックライトを用意して試してみた。
比べてみると、より鮮明な緑の発色は、ブラックライトの方であった。
なるほど、LED照明のもとでは、緑ががかった黄色のガラスである。
さて、「ウランガラス」の歴史を調べてみた。
なんでもガラスの着色にはじめてウランが使われたのは、紀元79年にイタリアのナポリという記録があるらしい。
長ーい、話になるが、その後の物語をここに書き記してみたい。
16世紀初頭、ザクセンとボヘミア(現在のドイツとチェコ)の境界の森に銀鉱山が発見された。ここに小さな町があった。国境付近の小さな町は、聖ヨアヒム盆地にあった。この鉱山の発見によって、この町には、「シルバーフラッシュ」が起こったという。当時、プラハの人口は5万人の時代に、この町の人口は、一気に2万人にふくれあがった。
そこで採掘された銀をつかって「ヨアヒムスターラー」後に「ターレル銀貨」と呼ばれる硬貨が鋳造されるようになる。この銀貨はヨーロッパから海外の植民地にまで流通し、ターラー、ダーラ、ダラー、そして現在のドルの語源となった銀貨である。
大量の銀貨が製造され、ついに銀鉱山は枯渇し、廃鉱となってしまった。
ところがこのゴーストタウンとなった町に不気味なうわさ話が持ち上がる。
「鉱山労働者が原因不明の病気になるみたいだ!?」
鉱山からは銀の他に、黒く光る鉱物が出る。彼らはドイツ語で、ペクブレンデ「不運な鉱物」、英語読みではピッチブレンドと呼んだ。
1789年、ドイツの化学者であるマルティン・クラプロスは、その鉱物の中に半金属があることに気づき、天王星(ウラノス)に因んだ名前をつけた。それが「ウラン」である。
それから1世紀の間にヨーロッパ各地でウランが次々と発見されるようになる。
そしてウラン塩やウラン酸化物が放つ鮮やかな色は、ガラスや陶磁器の着色剤として使われるようになっていく。
1830年代、ガラスに極微量なウランを混ぜて、黄緑色の透明なウランガラスが製造されはじめた。
コップ・花瓶・ケーキ皿・果物皿・アクセサリー等々、各種のガラス器がヨーロッパで、そしてアメリカで製造された。
しかし、1940年代になって、ウランが原子力に利用されるようになると、着色剤としての使用はピタッと止まるのである。
さて、話を戻す。
ウランがガラスや陶磁器に着色剤として使われていた当時は、美しい輝きの中に、目に見えない危険が潜んでいるとは誰も考えなかった。
1896年、フランスのアンリ・ベクレルが、ウランから出る目に見えない放射線が写真乾板を発光させることに気づくのである。
その数ヶ月後には、ドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンが、熱せられた金属から出る放射線が黒い紙を透かすのを発見。スクリーンに手をかざすと、手の骨の影が映し出された。X線の発見である。現在、私たちが医療現場で世話になっている「レントゲン」なのである。
ここまで来ると、キュリー夫妻の研究の話に直接つながってくる。
ベクレルが発見した目に見えない放射線について、本腰を入れて研究を始めていたキュリー夫妻は、ヨアヒムスタール鉱山で採れるピッチブレンド「不運な鉱物」・瀝青ウラン鉱に含まれるウランが、ボヘミアングラスの着色剤に使われていることを知った。夫妻は、廃鉱から大量のピッチブレンドを取り寄せ研究に没頭する。
使われなくなった粗末な解剖室で、トン単位の鉱物を分析し、未発見の放射性物質が含まれる可能性に気づく。なんと8トンのピッチブレンドから1グラムのラジウムを取り出すことに成功する。
きわめて強力なラジウムとポロニウムの発見によって、1903年ノーベル物理学賞がベクレルとキュリー夫妻に授与された。
思いを巡らす。彼らの死因に。
たとえばヨアヒムスタール鉱山労働者たちの原因不明の病は、放射性物質によるものだろうか。おそらくそうだったろう。
で、ピエール・キュリーは馬車に轢かれて亡くなったのだが、すでに放射能に蝕まれていたことがわかっている。
もちろんアンリ・ベクレルは放射線傷害で56歳でこの世を去った。
マリー・キュリーは、66歳で白血病で鬼籍の人となった。
ある化学の先生は、「人が一線を越えたのは、この時期だ」と、おっしゃった。
その後、着色剤としての使命を終えた「ウランの道」は、誰もが知っている不幸を起こしていく。
西欧の分析化学(科学)は、錬金術から始まって、電磁波の研究があって現代につながってくる。
ニュートン以来の物理学が量子力学へと。それがエネルギー革命を起こした。
さて、我が国の話で、今日のブログをしめたいと思う。
日本でもウランガラスは、第二次世界大戦まで製造されていたらしい。
その後、2003年に国内有数のウラン鉱床がある岡山県人形峠で産出するウランを使用したガラスが開発された。
手元に届いたペーパーウエイトは、国産のウランガラスでつくられたもの。
同封の説明書きによると、ウランの含有量は“0.1~1%”程度で、人体への危険性はまったくない、ということ。信じるしかない。
黄緑色のペーパーウエイトを眺めながら、思いを巡らす。
ウランに限らず、「人は、いつ、どこで、一線を超えるのか」
そのために、まず、ウランガラスのペーパーウエイトを身近においてみたかった。
これって、一線を越えている行為だろうか???????
極微量のウランを着色剤として加えたガラスのことを「ウランガラス」と呼んでいる。
同封されていた手書きのメモによると、《ブラックライトのように極端に光り方を強調しているライトでなくても、紫外線に反応するので、自然光でも充分に光ります》とあった。
今日の東京地方は、台風の影響の雨と風はおさまったものの、曇り空のもとでははっきりと蛍光現象は見られない。
そこで、紫外線照射器とブラックライトを用意して試してみた。
比べてみると、より鮮明な緑の発色は、ブラックライトの方であった。
なるほど、LED照明のもとでは、緑ががかった黄色のガラスである。
さて、「ウランガラス」の歴史を調べてみた。
なんでもガラスの着色にはじめてウランが使われたのは、紀元79年にイタリアのナポリという記録があるらしい。
長ーい、話になるが、その後の物語をここに書き記してみたい。
16世紀初頭、ザクセンとボヘミア(現在のドイツとチェコ)の境界の森に銀鉱山が発見された。ここに小さな町があった。国境付近の小さな町は、聖ヨアヒム盆地にあった。この鉱山の発見によって、この町には、「シルバーフラッシュ」が起こったという。当時、プラハの人口は5万人の時代に、この町の人口は、一気に2万人にふくれあがった。
そこで採掘された銀をつかって「ヨアヒムスターラー」後に「ターレル銀貨」と呼ばれる硬貨が鋳造されるようになる。この銀貨はヨーロッパから海外の植民地にまで流通し、ターラー、ダーラ、ダラー、そして現在のドルの語源となった銀貨である。
大量の銀貨が製造され、ついに銀鉱山は枯渇し、廃鉱となってしまった。
ところがこのゴーストタウンとなった町に不気味なうわさ話が持ち上がる。
「鉱山労働者が原因不明の病気になるみたいだ!?」
鉱山からは銀の他に、黒く光る鉱物が出る。彼らはドイツ語で、ペクブレンデ「不運な鉱物」、英語読みではピッチブレンドと呼んだ。
1789年、ドイツの化学者であるマルティン・クラプロスは、その鉱物の中に半金属があることに気づき、天王星(ウラノス)に因んだ名前をつけた。それが「ウラン」である。
それから1世紀の間にヨーロッパ各地でウランが次々と発見されるようになる。
そしてウラン塩やウラン酸化物が放つ鮮やかな色は、ガラスや陶磁器の着色剤として使われるようになっていく。
1830年代、ガラスに極微量なウランを混ぜて、黄緑色の透明なウランガラスが製造されはじめた。
コップ・花瓶・ケーキ皿・果物皿・アクセサリー等々、各種のガラス器がヨーロッパで、そしてアメリカで製造された。
しかし、1940年代になって、ウランが原子力に利用されるようになると、着色剤としての使用はピタッと止まるのである。
さて、話を戻す。
ウランがガラスや陶磁器に着色剤として使われていた当時は、美しい輝きの中に、目に見えない危険が潜んでいるとは誰も考えなかった。
1896年、フランスのアンリ・ベクレルが、ウランから出る目に見えない放射線が写真乾板を発光させることに気づくのである。
その数ヶ月後には、ドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンが、熱せられた金属から出る放射線が黒い紙を透かすのを発見。スクリーンに手をかざすと、手の骨の影が映し出された。X線の発見である。現在、私たちが医療現場で世話になっている「レントゲン」なのである。
ここまで来ると、キュリー夫妻の研究の話に直接つながってくる。
ベクレルが発見した目に見えない放射線について、本腰を入れて研究を始めていたキュリー夫妻は、ヨアヒムスタール鉱山で採れるピッチブレンド「不運な鉱物」・瀝青ウラン鉱に含まれるウランが、ボヘミアングラスの着色剤に使われていることを知った。夫妻は、廃鉱から大量のピッチブレンドを取り寄せ研究に没頭する。
使われなくなった粗末な解剖室で、トン単位の鉱物を分析し、未発見の放射性物質が含まれる可能性に気づく。なんと8トンのピッチブレンドから1グラムのラジウムを取り出すことに成功する。
きわめて強力なラジウムとポロニウムの発見によって、1903年ノーベル物理学賞がベクレルとキュリー夫妻に授与された。
思いを巡らす。彼らの死因に。
たとえばヨアヒムスタール鉱山労働者たちの原因不明の病は、放射性物質によるものだろうか。おそらくそうだったろう。
で、ピエール・キュリーは馬車に轢かれて亡くなったのだが、すでに放射能に蝕まれていたことがわかっている。
もちろんアンリ・ベクレルは放射線傷害で56歳でこの世を去った。
マリー・キュリーは、66歳で白血病で鬼籍の人となった。
ある化学の先生は、「人が一線を越えたのは、この時期だ」と、おっしゃった。
その後、着色剤としての使命を終えた「ウランの道」は、誰もが知っている不幸を起こしていく。
西欧の分析化学(科学)は、錬金術から始まって、電磁波の研究があって現代につながってくる。
ニュートン以来の物理学が量子力学へと。それがエネルギー革命を起こした。
さて、我が国の話で、今日のブログをしめたいと思う。
日本でもウランガラスは、第二次世界大戦まで製造されていたらしい。
その後、2003年に国内有数のウラン鉱床がある岡山県人形峠で産出するウランを使用したガラスが開発された。
手元に届いたペーパーウエイトは、国産のウランガラスでつくられたもの。
同封の説明書きによると、ウランの含有量は“0.1~1%”程度で、人体への危険性はまったくない、ということ。信じるしかない。
黄緑色のペーパーウエイトを眺めながら、思いを巡らす。
ウランに限らず、「人は、いつ、どこで、一線を超えるのか」
そのために、まず、ウランガラスのペーパーウエイトを身近においてみたかった。
これって、一線を越えている行為だろうか???????