羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

気がつけばAppleばかり、思いは複雑だ!

2012年02月05日 19時11分24秒 | Weblog
 日本の電機メーカーが軒並み赤字となった記事を目にする昨今。
 とりわけSONYの現状に対しては、詳しいことはよくわからないものの、驚きと哀感を覚える。
 しかし、家の中にある物の変化からも、そのことははっきりと見て取れる。おそらくそれは我が家だけのことではないだろう。
 20~30年前を振り返ると、SONY製品が何台も常にあった。
 テレビ然り、オーディオ製品然り、ビデオ関係然り、携帯ラジオ然り、映像も音響もSONYでなければならなかった時代が懐かしい。
「指揮者のカラヤンが、自宅に凄いオーディオ+映像スタジオをつくり、そこはSONY製品で埋め尽くされている」と言う記事を読み写真も見た。
 そんなこともあって、1982年9月~1995年4月まで大賀典雄氏がトップにあった頃までは、我が家のSONY信仰は健在だったような気がする。しかし、退任と時期を同じくして、潮目が変わったていったことは確かだ。
 入れ替わるようにAppleの時代が始まる。

 とにもかくにも、昨年を境に、たった一台のテレビがパナソニック以外、気がつけばどの部屋にもApple製品がおかれている情況が出現した。自分で撮る写真やビデオは、iPhone4で間に合ってしまう。
 てなわけで「隅から隅までずずいず~い、とAppleでござる」って向上を述べることができるなんて、思いは複雑だ!

 来し方を振り返れば、電化製品を求める時に「ナショナルでもいいじゃない」という言葉を吐くようになった頃から、日ごとSONY製品は少なくなっていった。
 
 このようなことを改めてブログに書いてみると、生活の変化が身の回りにおかれる物によっても語れることがわかって興味深いのだが、SONYの凋落は、日本人として、或る意味哀しい。
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立春の日の「週刊ニュース深読み」NHK 

2012年02月04日 09時31分06秒 | Weblog
 今、この番組を見終わって、PCの前に座った。なかなか、面白かった!
「今なぜ世界で人気? 由紀さおり&初音ミク」の深読み。
 まず、「初音ミク」という名前は、北海道のベンチャーがつくった音楽ソフトの名称だと知った。
 それを使って作曲した人が、ニコニコ動画に投稿したのが始まり。さらにYouTubeに乗せられて、およそ1万人の人たちが関わって作り上げられた“日本のバーチャル歌姫”だそうだ。
 今や、インターネット上で、皆がいっしょに作り上げていく、ひらかられた時代に突入したことに出演者の面々も驚きを隠せなかった。
 私自身もこの名前や歌はこれまでに耳にしたことがあった。が、実体はなんだかよく解っていなかった。
 今では、生オーケストラをバックにして、握手会は開けないバーチャル歌姫のコンサートに、大勢の人が集まっている映像が流された。時代だね~!
 当然、これから商業ベースにのったとき、誰が儲かるのか?著作権はどうなるのか?などと野暮な質問をしたくなるのは高齢者らしい。
 そんなことはおかまいなしに、YouTubeにのって、歌姫は世界に躍り出ていっているらしい。そこで思い出したことがある。インターネット上でゲーム感覚で参加した皆の力が結集されて、HIV(エイズ)タンパク構造を解明した話題だ。参加したのは多くは素人さんたち。専門家だけでは気が遠くなるほどの時間がかかる解明を、参加者が次々に増えることで、一気に解明が進んだ。
 初音ミクさんも由紀さおりさんも、ともにインターネットが大きく関わって世界進出につながっていった。
 番組の専門家席におられる方々は、次のようにまとめられた。
「オタク文化、ソフトパワーこそ、日本がこれから生きる道」とネ。

 話は前後するが、由紀さおりさんの歌声の分析結果が興味深かった。
 レディー・ガガの歌声との比較だ。英語の歌では、子音が鋭く発音されることもあって、15000㎐(この数字は怪しい記憶です)を超える高音域が頻発する。それに対して日本語で歌う由紀さおりさんの音域は、15000㎐(この数字は怪しい記憶です)を超えることが少ない。むしろその内側の音域で発声されている。もともと日本語は、一音一音に母音がのってくる特徴があって、子音の鋭さが少ない。そこで由紀さおりさんの音声分析の結果を他の音と比較する。すると一番近いのは、日本の寺にある梵鐘のそれと重なることが実証された。
 つまり、彼女の歌声に癒されるのは、音域がもつ特徴もあるという。この歌声の癒し感が、一部の欧米人に好まれたのではないか、という話だった。コラボしたオーケストラもよかったし、なによりプロデューサーの手腕があってのことだけれど。
 しかし、この検証は非常に面白かった。突発性難聴を煩って、高音域が完治しなかった右耳には、高音域のみの管楽器や雅楽で演奏される楽器の音域が耳に刺さってくる。余談だが、「龍馬伝」に惹かれた一つの理由は、毎週日曜日に福山雅治の声が聞けることが大きく関わっていた、と膝を打った。声と音楽が或る種の快感を齎してくれていたからに違いないと。声の音域や声質(音質)は、快・不快を決める大きな要素であると昔から感じていたのだ。
 
 今朝のこと、髪を洗いドライヤーで乾かし終えて、耳に聞こえ目に入ったつけっぱなしのテレビ番組を見続けてしまった。どこが深読みかは解らないが、ちょっとしたヒントをもらった爽快感が残った次第。ついつい書かずにはいられなかった。
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平清盛、“汚い”が問題でいない、のだ!

2012年02月03日 12時50分59秒 | Weblog
 書かずにおこうと思ったが、やっぱり書いておきたい。
 2月3日付け、朝日新聞朝刊に「映像機器」の性能の良さが、よくも悪くも今回のドラマ撮影には、問題を提起している、という内容の記事があった。
 柘植さんの味方をするわけではないが、“汚さ”というのは、決してマイナスではない。
 何がおもしろくないと思わせるのか、と私の思いを書くならば、当時の武士が虐げられていることばかりを羅列して描くからだ、と感じている。
 まず、朝廷側の白川法皇や鳥羽上皇、そして藤原摂関家の藤原忠実といった王家や上級貴族階級に対して、新興貴族として成り上がっていく平家の内側を描かないから面白くない、と思えるのだ。
 武士としてはじめて内昇殿を許される平忠盛が、ただ単に武将として武力に長けているだけでは、そうはならない。
 清盛から見て祖父、父である二代が、経済力を蓄えるには経営者としての才覚があってのこと。それに加えて政治家としてのセンスも持ち合わせ、朝廷に対して政治力を行使できる才能があった、という点をもっと表に出して描いてくれれば、本質的な”平安末期の汚さ”が見栄えの問題だけでなく、見る者を惹き付けてくれる筈なのだ。それなくして三代目としての平清盛の存在がある理由がない。

 おそらく大河ドラマに求めるものは、偉人、英雄、時代を変革した者の一代記を羅列的に見せてもらうことではなくなっている。そこに至る裏側の汚れも含めて、時代の変革がどのようになされていったのかを見たい。 
 平家三代が武闘派としての存在だけで、朝廷も藤原摂関家もしのげるわけがない。物流・流通革命と貨幣経済の元締めを一旦は手元に引き寄せることに成功しなければ、平家の栄華は齎されなかっただろう。

 ドラマの展開が虐げられる武士階級だけの話では面白くない。清盛の父・平忠盛を主役しても面白い人物であり、時代に違いないのだから。
 前回の「江」が、茶々と家康を中心に描かれていたら(実際には二人が主役だった)もっと面白かったように、今、生きる時代に少なくとも私がドラマに求めることは、変革の結果ではなく変革に至るまでの過程の凄さを見せてほしい。
 途上であっても平家が経済力を如何につけ政治力をどのように磨き、それを孫として清盛に、息子としての清盛にどのように伝えていったのか。そして這い上がろうとする人間の業の内面の哀しさを見せてほしいのだ。
“汚い”ことは、問題ではない。もっともっと汚くあれ、と世間に逆らっても言いたいところだ。
 これからに期待したいが……。
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動きとイメージ……中心、重心、鉛直軸、重力軸、あぁ~!!!!

2012年02月02日 09時34分53秒 | Weblog
 野口体操に出会って、はじめの15年は「静かなるほぐし」に、多くの時間をあてたように記憶している。
 そのうちの10年目くらいになって、ようやく逆立ちの稽古を本格的にはじめた。
 その頃から自宅でも立って行う動きなども、ひとりの稽古に組み入れた。このような亀の歩みに、野口の我慢が切れなかったことが不思議なくらいだ。相当にイライラが募ったのではないか思う。
 ゆっくりの理由は、からだの内側からほぐれた実感が持てなければ、レッスンの場ではともかく、一人では不安があったからだ。そうした僅かに発する危険信号をキャッチする能力だけは、しっかり持ち合わせていたようだ。よくも悪くも、裏表の関係にあるのだが。

 さて、20年目にして『野口体操 感覚こそ力』を上梓させてもらった。自分自身のなかで野口体操をどの程度理解しているかを外側に出してみたかった。存命中の先生に原稿をすべて読んでいただき、赤を入れてもらえたことは、今となっては幸運としか言いようがない。
 そのなかでも「野口体操 動きの理論」の章は、野口から話を詳しく聞くことができた。
 からだを柔らかくすることにつれて滑らかな動きを導くために大切なことは「梃子の原理」をイメージとして描くことができるか、が問題だということを教えられた。
 立って行う動き、静かなるほぐしの動き、共通に「梃子を短くするイメージ」を持つようにと強調された。初めは意味が分からなかった。しかし、どうやら、そのことが動きにとってほぐし行為にとって問題だ、ということだけは理解できた。
 
 このブログを書きながら、『野口体操 感覚こそ力』春秋社 174㌻~を読みなおした。
《『動き』を中心にして、からだの構造を、いちばん単純にいうと、それは『梃子』の原理で成り立っているんです。例えば、脚を例にとります。骨格筋というのは、一つの骨から始まって関節を通り越し、他の骨についています。そして、一つの関節の動きに関係して、反対の働きをする二つの筋肉(拮抗筋)によって、単位の関係が成り立っています。片方の筋肉が収縮して、脚は伸ばされたり、他の片方の筋肉が収縮して曲げられたりします。滑らかな動きを求める場合、実際にある骨の長さでは、長過ぎる場合が多いんです。そこで、僕がいつも言っている、ほぐすことによって『柔らかなからだの動き』の意味が出てきます。骨が相当に長い梃子、だとすると、固いまま動くとたいへん重いんです。つまり、動くエネルギーがたくさんいるわけです。梃子は、重さの大きさと距離との積でエネルギーが示されます。したがって動く場合の梃子は、短い方がいい。できるだけからだの中をほぐすということは、からだのなかを『短い梃子』に変えることなんです。その時のからだのすべての関節の複雑微妙な関係のあり方でそれぞれが可能なのです。》
 ここを読むと野口体操が「イメージ体操」と言われる所以が納得できる。

 こうして「静かなるほぐし」で、ほぐしそのものに動きがともない、次に他の姿勢に変えるときなど、液体的なイメージと同時に、この「短い梃子」のイメージを同時に持っていないと、重さを活かす動きは生まれないということを実感するまでには、余分な力がぬけることが条件になる。

 液体的なからだ、そのからだの内側に存在する内骨格としての「骨」、それらの微妙な関係の取り方こそが、「ある激しさをもつ動き」「立位のほぐし」、「素早い動き」「滑らかな動き」、そして「静かなるほぐし」、すべてを通して貫かれていることだ、と教えられた。
 
 ここにきて問題にしている、液体的なイメージのなかに「鉛直軸」を求めることと、その時々に変形する「骨格の形」をつくる骨をつなげる関節、そうしたなかに「中心点」を求めることと、時々刻々動きにつれて変形するからだの縦軸のなかに「重心」を求めることと、それらが複雑に絡んだからだの内側に感覚を集中させることが、稽古のひとつの目的でもある。だから時間が必要なのだ。それは焦らずゆったりと流れる時間のなかで求められてほしいのだ。

 さらに176㌻には次のような記述がある。
《『中心というのは、動きの支えになる点のことを指します。それに対して『重心』というのは、ものの形の違い・ものの内部の比重の違いから、必ずしも見かけの中心とは限らないことがある、ということです。動きにとって難しいのは、動きの支点になる中心と、バランスになる重心の関係なんです。つまり『梃子』と『振り子』は、動きにとっては兄弟のような関係にあるということなんです。》
 梃子に対して「振り子」という概念も加わっている。さらに動きを複雑にするのは、人間のからだが単振り子ではなく、関節がいくつもつながった多重振り子である、という点に集約される。

 液体的な筋肉と骨の関係、少ないエネルギーで支えられる骨格。構造を生ものの動きとして支え成り立たせる「中心」「重心」・「重力軸」「鉛直軸」、それらを実感として捉える稽古は、稽古のなかの稽古と言えるに違いない。もし、野口体操が難しいと言われならば、ここにこそ問題が潜んでいる、と言えそうだ。
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