羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

平清盛、“汚い”が問題でいない、のだ!

2012年02月03日 12時50分59秒 | Weblog
 書かずにおこうと思ったが、やっぱり書いておきたい。
 2月3日付け、朝日新聞朝刊に「映像機器」の性能の良さが、よくも悪くも今回のドラマ撮影には、問題を提起している、という内容の記事があった。
 柘植さんの味方をするわけではないが、“汚さ”というのは、決してマイナスではない。
 何がおもしろくないと思わせるのか、と私の思いを書くならば、当時の武士が虐げられていることばかりを羅列して描くからだ、と感じている。
 まず、朝廷側の白川法皇や鳥羽上皇、そして藤原摂関家の藤原忠実といった王家や上級貴族階級に対して、新興貴族として成り上がっていく平家の内側を描かないから面白くない、と思えるのだ。
 武士としてはじめて内昇殿を許される平忠盛が、ただ単に武将として武力に長けているだけでは、そうはならない。
 清盛から見て祖父、父である二代が、経済力を蓄えるには経営者としての才覚があってのこと。それに加えて政治家としてのセンスも持ち合わせ、朝廷に対して政治力を行使できる才能があった、という点をもっと表に出して描いてくれれば、本質的な”平安末期の汚さ”が見栄えの問題だけでなく、見る者を惹き付けてくれる筈なのだ。それなくして三代目としての平清盛の存在がある理由がない。

 おそらく大河ドラマに求めるものは、偉人、英雄、時代を変革した者の一代記を羅列的に見せてもらうことではなくなっている。そこに至る裏側の汚れも含めて、時代の変革がどのようになされていったのかを見たい。 
 平家三代が武闘派としての存在だけで、朝廷も藤原摂関家もしのげるわけがない。物流・流通革命と貨幣経済の元締めを一旦は手元に引き寄せることに成功しなければ、平家の栄華は齎されなかっただろう。

 ドラマの展開が虐げられる武士階級だけの話では面白くない。清盛の父・平忠盛を主役しても面白い人物であり、時代に違いないのだから。
 前回の「江」が、茶々と家康を中心に描かれていたら(実際には二人が主役だった)もっと面白かったように、今、生きる時代に少なくとも私がドラマに求めることは、変革の結果ではなく変革に至るまでの過程の凄さを見せてほしい。
 途上であっても平家が経済力を如何につけ政治力をどのように磨き、それを孫として清盛に、息子としての清盛にどのように伝えていったのか。そして這い上がろうとする人間の業の内面の哀しさを見せてほしいのだ。
“汚い”ことは、問題ではない。もっともっと汚くあれ、と世間に逆らっても言いたいところだ。
 これからに期待したいが……。
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