電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

幕末の英和対訳辞書草稿の発見と吉村昭『黒船』を読む

2007年08月06日 05時28分28秒 | -吉村昭
しばらく前の山形新聞夕刊に、「開国への息遣い」と題して、幕末の「英和対訳袖珍辞書」草稿の発見を解説した記事が掲載されました。「近代化示す超一級史料」と評価されたのは、名古屋学院大学の堀孝彦名誉教授です。氏は、幕末の通詞・堀達之助の玄孫でもあります。この発見は、すでに3月に共同通信等を通じて報道されていましたが、このほど第一人者の手により解説されたことで、その意義が理解できるようになりました。

堀達之助は、幕末の長崎オランダ語通詞であり、吉村昭『黒船』の主人公です。ペリーの来航に際し、首席通詞として交渉にあたります。しかし、オランダ語から英語へと移り変わりつつあった時代に、英会話に長じた森山栄之助らにその役をゆずっただけでなく、ドイツ商人リュドルフの私的な文書の取扱いをめぐって罪に問われ、伝馬町の獄につながれます。安政の大獄に際し入牢した吉田松蔭の手紙の中に、堀達之助への感謝が記されているのは、この時期のものだそうです。
獄中に救いの手を差し延べたのは、蕃書調所の頭取であった古賀謹一郎でした。西洋の文献書籍を系統的に翻訳する役割を果たしていたこの役所で、堀達之助は英和辞書の編纂を命じられます。オランダ語には熟達していた堀も、英会話については自信がありませんでした。しかし、英蘭辞書を底本としてオランダ語を日本語に直すだけでなく、品詞名を確定し、用例を追加するなど、独自の工夫が盛りこみました。たとえば、

any, adj. 一。一二ノ。或ル。或ル人。尚。
any thing, 或ル。総テノ物。少シ。
any where, 或ル所。
any one, any body, 或ル人。各々。
take any, 汝ノ気ニ入ル物ヲ取レ。
any how, ドノ仕方ニテモ頓着セヌ。

という熟語なども追加されたとのこと。現代の英和辞書の基礎となる、貴重な業績と言えましょう。

この『英和対訳袖珍辞書』は、英字の部分が鉛活字、日本語の部分は木版で、洋紙を用いて印刷され、200部を製本し、価格は2両で頒布されたとのこと。しかし、当時の洋学の必要度から言ってこれではとても足りず、市中ではついに20両まで高騰したそうです。

さて、堀達之助の晩年は不遇の一言に尽きます。恩人の古賀の依頼で蝦夷に渡りますが、獄中生活で会話から離れ、すっかり苦手となってしまっていた英語での通訳の仕事は苦痛に感じるばかり。おまけに、英国領事の不法な人骨収集事件の対応という難しい国際事件に遭遇し、屈辱を覚えます。

不遇な時代にも、たまたま出会った美也という美しい未亡人と正式に再婚し、家庭の幸せを得ますが、美也さんも病没してしまうのですね。本当にお気の毒です。端正で充実した内容の本作品(写真左上)は、堀達之助の子孫が丹念にほりおこした資料に基づいて書かれたものだそうです。その子孫が、先の新聞記事にあった英語学者というわけです。なんとも不思議な因縁です。

(*):日本初の英和辞典、原稿発見=オランダ語から英語へ-群馬の古書店~「一言語学徒のページ」より

写真は、私の手元にある黒船関係の本や雑誌類です。
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