観心寺と後村上天皇陵の参拝で、前方後円墳の縛りから少し離れましたが、再び藤井寺に戻って仲哀天皇陵を訪ねます。
河内長野駅から近鉄電車で藤井寺駅まで移動、束の間の休息時間でした。
藤井寺市には昭和のイメージが蘇る雑踏が残っています。
藤井寺市とはお寺の名前がそのまま市名になったということでしょう。
少し寂れた感じですが門前町がありました。
葛井寺とこの字が寺名で、当地を治めた豪族葛井氏の拠点だったと説明書きがありました。
仲哀天皇参詣道の途上にあるので、折角ですからお参りしていきましょう。
西国三十三ケ寺参り依頼で、久々に立ち寄りました。
寄棟造り本瓦葺きの本堂には、国宝の千手千眼観音が祀られています。
毎月18日が御開帳とのことで、この時はお眼にかかれませんでした。
実際千本の手がある観音菩薩は珍しいでしょう。
境内には寺名そのまま、藤の大棚がありました。
本日は目的が違いますので、お参りもそこそこにお寺を後にしました。
葛井寺の境内を抜けた処にこの案内板です。
墳丘長242mの前方後円墳とのことですが、その巨大さがこの地図で分かります。
広大な前方後円墳の周囲を、この玉垣で囲ってありました。
この光景を見る度に思うのですが、エジプトのピラミッドの様に築造時の状態に戻すことは出来ないのでしょうか?
林に囲まれたこの姿は築造時墳丘の姿ではないので、何処か一つでも本来の姿に再現してもらえないものでしょうか?
本当の世界遺産の価値が蘇ると思いますが・・・
仲哀天皇は実在が疑われる天皇の一人ですが、仲哀この名前が何故が物悲しく思えます。
第14代仲哀天皇は、白鳥陵に眠る古事記のヒーロー日本武尊の第2子で、妃は神功皇后、そして第15代応神天皇の父であります。
大和の各地で勇猛をはせた父日本武尊、神懸かって自ら新羅統一に向かった妃の神功皇后、神の導きに背いて熊襲退治に向かい命を落とした仲哀天皇、残された事蹟の落差は何なのでしょうか。
仲哀天皇拝所の近くにこの船が係留されていました。
お濠の清掃用、それとも・・・
周囲一帯から墳丘を臨むことが出来そうです。
広島県に、古代築城時の姿を復元した前方後円墳がありますが、是非世界遺産の墳丘で一つでもありのままの姿を再現してほしいものです。
仲哀天皇の御陵印です。
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