もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

桓武天皇陵 柏原陵

2024年09月05日 | 御陵印

桓武天皇陵も最寄駅は明治天皇陵と同じJR桃山駅ですが、陵墓間は少々距離が離れている上に方角も微妙な位置にあります。

 

明治天皇陵へ向かう時に、この看板を見るまではどうするか本当に悩んでいました。
しかしこの辺り一帯、桃山の森に囲まれた参道は炎熱下でも結構涼しいのです。

同じ森に囲まれた涼しい参道で行くことの出来る幸、、明治天皇陵参拝の後桓武天皇陵へ脚を延ばすことに、この場所に立った時決めました。

 

明治天皇陵参道と直交して桓武天皇陵への参道は伸びていました。
この部分は川原石を嵌め込んであります。
同じ桃山の森に桓武天皇陵への案内標識が立っていました。

 

なんという生命力でしょうか?
何という木かわかりませんが、外皮1枚で懸命に生き延びようとしています。
この光景に出くわした傘の年を超えた老人には、なんとも切ない気分を味わせてくれました。

 

「794(鳴くよ)うぐいす平安京」でお馴染み、京の都を拓いた桓武天皇陵の参道は、明治天皇のそれに比べて1/3程度の幅しかありません。
この場所が桓武天皇陵か定かではないことが影響しているのかもしれません。

 

明治天皇陵から歩いて20分、桓武天皇陵に着きました。

 

綺麗に掃き清められた墓前、箒目にも足跡は見当たりません。
ひょっとしてこの日(令和6年8月24日)オイラは初めての参拝者かな?
踏み後と思われる場所を辿って、足跡を残さないよう無事参拝を済ませました。

 

陵の形は円丘となっていますが、ここからは確認できません。
45歳で即位し70歳で崩御した第50代桓武天皇は、奈良仏教の影響を嫌って、山城⇒長岡⇒平安京と遷都を繰り返しました。
事蹟としては坂上田村麻呂によって蝦夷征伐を成し遂げ、奈良仏教に変えて最澄の天台宗を比叡山に、空海の真言宗を高野山に開かせました。

比叡山も高野山も都から離れた場所に置いたのは、仏教の圧力を恐れたためでしょうか

 

桓武天皇陵も豊臣秀吉の桃山城址の中にあります。

 

第50代桓武天皇の御陵印です。
珍しく丸印ですが、角印に比べて押印のし易さがあります。
実際に押印してみれば判ります。

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昭憲皇太后陵

2024年09月03日 | 御陵印

御陵印異聞として明治天皇の御后である方の陵墓もお参りしました。

 

宿泊先である京都市八条にあるホテルの8階から、京都駅方面を撮影しました。
景観保護?の観点から、建築物の高さ制限が厳しい京都市条令ときていますが、ホテル8階から市中心部を見渡してもこの風景、あまり景観保護に役立っているとは言えないのではないでしょうか?

 

宮内庁管理の桃山御陵参道脇に、豊臣秀吉よって築かれた桃山城の石垣石が残されていました。
桃山城址は宮内庁管理地となっていますので、遺構の調査は進まず真相は謎のままです。

福山城の伏見櫓は遺構の一つと伝えられています。

 

広い砂利道の参道は緩やかに曲線を描いています。
静寂に包まれた参道には、地域にお住いの多くの方が散策されていました。

 

途中玉垣が見えたので拝所かと思いましたが、そうではありませんでした。
車両が出入りできるようで、陵墓維持整備のための出入り口でしょうか。
多くの天皇陵に参拝してきましたが、このような出入り口は初めてお眼にかかります。

 

切妻造平屋建向背付の桃山御陵監区事務所です。
平入の玄関口が少し、左側に片寄っているのは、何か意味が有るのでしょうか?

 

明治天皇陵を参拝後、緩く曲がりながら下る参道を通って、昭憲皇太后陵へ向かいます。

 

桃山を背後にした皇后の参拝所前広場は、歴代天皇陵に比肩する壮大なものでした。

 

昭憲皇太后、何故昭憲皇后ではないのでしょうか? 疑問が湧いてきます。

この意味を説明した、ある資料をを読んだことがあります。
明治天皇は殯の期間(亡くなられてから葬儀が行われるまで)が40日以上と大変長く、この間に大正天皇が即位されました。
その結果、明治天皇の御后である美子皇后は、大正天皇の皇太后にもあたることになりました。
美子皇后が亡くなれれて諱名が贈られたとき、宮内庁は「昭憲皇太后」と通知したそうです。
通常であれば昭憲皇后とするところを、昭憲皇太后と誤った?とその資料には書かれていました。
これが私の理解ですが、真相か否か未だに明確な答えは得られていません。

 

明治天皇陵を縮尺した形の昭憲皇太后陵、鳥居の右手に大きな女松(赤松)があるのが特徴でしょうか?

明治天皇は人前では皇后を「皇后さん」と呼ばれていたようですが、日常は天皇がひそかにお付けになられた仇名の「天狗さん」と呼ばれていたとか・・・
美子皇后は美しい方でしたが、日本人としては少しお鼻が高かったようで、その容姿を可愛く表現したのでしょう。
偉大であり、いたずらっ子であり、茶目っ気のあったらしい明治天皇の微笑ましい一面が偲ばれます。

帰り際、改めて案内板を確認しましたが、右端にある昭憲皇太后陵は左上にある桓武天皇陵より大きく描かれています。
実際に立派でした。

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明治天皇陵 伏見桃山陵

2024年09月02日 | 御陵印

伏見桃山御陵のある場所は、豊臣秀吉の桃山城址に位置しているのです。

 

「関ヶ原の戦い」以前のお城と言えば、山の上に築かれるのが定石です。
炎熱の京の都で、山の頂にある明治天皇陵を訪ねるのは、相応の覚悟が必要です。

JR桃山駅で背中に冷却スプレーを吹きかけ、首には冷たいタオルを巻いて歩き始めました。

 

駅の方に教えていただいた道を黙々と歩いていきました。
この先に明治天皇陵に続く、230段の石段が待っているのだと思い込んでいました。

 

やがて車止めの案内があり、砂利を敷き詰めた参詣道に入ります。

 

誰の目にも止まる場所にはっきりと、明樹天皇陵・昭憲皇太后陵の標識がありました。

 

此処には判り易い案内板が設置されています。
オイラは左下側の道を進んで来たので、そのまま真っ直ぐ参道を進めば明治天皇御陵前に行くことが出来ます。
心配していた230段の石段は、二股を右手の車道沿い進んだ先にありました。
迷うことなく石段を避けた参詣道を選びました。

 

鬱蒼とした樹木に覆われた参詣道は、日差しが遮られて快適です。
荘厳な趣の砂利道ですが意外と歩き難く、真っすぐにつけられた(自然についた)細いラインを辿って前に進みます。

 

20分程で(感覚で)宮内庁桃山陵墓監区事務所に着きました。
土曜の休日でしたが、入り口のインターフォンで「御陵印を戴けますか?」と来意を告げると、「どうぞ!」と快く受け容れてくださいました。
冷房の効いている?(涼しく感じた)建屋内でしたが、わざわざ扇風機を回して涼風を送ってくださいました。
机上に置いた複雑な模様のある袋はオイラの御陵印入れです。

 

桃山陵墓監区内で管理されている、歴代天皇の御陵印です。
朱肉を付けながら慎重に、御陵印帳に押印していきます。

 

明治天皇陵は、橿原神宮にある神武天皇陵に次ぐ壮大な陵墓でした。

 

木製の神明鳥居が三本連なり、鳥居脇にはそれぞれに玉垣が巡らされています。
国歌君が代にも謡われた「さざれ石」で囲われた。下方上円墳がはっきりと確認出来ました。

 

京言葉を話し、四季を問わず「肋骨式軍服」を日常着用されていたと言われる明治天皇です。
遺骨は京都の桃山に埋葬せよと遺言されておられたようですが、望み通り桃山の地に眠っておられます。

 

14歳で即位され61歳で崩御された明治天皇、全国各地に行在所が残ることで分かる通り、質実剛健最も庶民を気遣った天皇と言えるのだはないでしょうか?
周囲の荘厳な雰囲気と、陵墓に正対する230段の石段がその懿徳を表しています。

 

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白河天皇陵 成菩提院陵

2024年08月31日 | 御陵印

天皇・上皇・法皇と呼称が変わっても、譲位しても、出家した後も、権勢を振るい続けた白河天皇、さぞかし御陵は壮大なものと思ったのですが・・・

 

鳥羽天皇陵から、鳥羽天皇陵へ向かう道脇に、「冠石」なるものが置かれていました。
調べてみたところ、院政を敷いた鳥羽法皇(天皇)が鳥羽離宮を造営する際、冠を外して陣頭指揮を執ったようで、この時脱いだ冠を置いた石だそうです。

 

白河天皇陵は、鳥羽・近衛天皇陵とは高速道路を挟んで、少し離れた場所にありました。
写真からは想像出来ないかもしれませんが、この右手には高速道路の高架橋が走っており、多くの車が行き交っていました。

 

真夏の日差しを背後から浴びて、制札版の表記は読めません。

 

参道? 否、墓前の広場も形ばかりの狭いもので、白河天皇陵=荘厳=大規模の予測は完全に外れました。
それでも「桃山陵墓監区」の陵墓としては珍しい、神明鳥居が建てられています。

 

画角をいっぱいに狭めて、周囲の俗物を排除して写真に収めました。
神明鳥居、石の玉垣、背後の森がある光景は、何故か懐かしさを感じました。
百舌鳥・古市古墳群では、あれほど神明鳥居は見飽きたと言っていたのに・・・

 

強大な権勢を振るい続けた白河天皇陵ですが、想像も出来ないほど狭い場所にひっそりと存在していました。

 

お墓の形は円丘とされていますが、外からは伺い知ることはできません。
三重塔に埋葬するよう「遺詔」を残しますが、鎌倉時代に三重塔は焼失し、その後再建されることはありませんでした。

 

第72代白河天皇の御陵印です。
猛暑で朱印が柔らかくなっており、予想以上にくっきりと押印されました。

20歳で即位し、77歳で亡くなるまで権勢をほしいままにした法皇ですが、「鴨川の流れ、双六の目、延暦寺の衆徒」が三大不如意だとし、荒法師たちの制圧には源平の武士に当たらせました。

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鳥羽天皇陵 安楽寿院陵

2024年08月30日 | 御陵印

天皇陵を訪ねる旅はその道すがらに楽しみがありますが、猛暑の時期はさすがに長歩きは辛いです。

 

先に訪ねた近衛天皇陵脇に宮内庁の詰所?があり、数人の方が居られたので次に訪ねる、鳥羽天皇・白河天皇陵の位置を確認します。
樹木の影がくっきりと映る真夏の昼下がり、体力温存第一最短距離で目的地に着きたい一心でした。

 

鳥羽天皇陵は事前に調べておいた場所とは微妙に違っていて、用心深く確認したのが正解でした。
ほとんど自分の勘に頼って進むのが常ですが、熱中症の危険を考えれば当然のことでしょう。
綺麗な石畳道が整備されています。

 

照りつける太陽を避けて、樹木の影を拾いながらゆっくりと歩を進めます。

 

第72代白河天皇・第74代鳥羽天皇が譲位後、院政を敷いた鳥羽離宮跡がこの地であったようです。

 

丁寧に刈り込まれた植え込み越しに制札版が見えました。
やれ!やれ!

 

鳥羽天皇陵も見慣れた土盛りの墳墓ではなく、なんと宝形造りの建屋でした。

 

玉垣の奥には、桟唐戸と白壁に囲まれた寺院風建築がありました。
真言宗豊山派安楽寺院の1塔頭の感じを抱かせますが、これが鳥羽天皇御陵です。

 

鳥羽天皇御陵に間違いはありません。

 

父堀河天皇が崩御され鳥羽天皇は5歳で即位しましたが、その後も祖父白河法皇の院政時代が続きました。

 

第74代鳥羽天皇の御陵印です。

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近衛天皇陵 安楽寿院南陵

2024年08月28日 | 御陵印

連日油照りのうだるような暑さが続き、年寄りは安全の為外出を控えていましたが、生来の出歩き癖が収まらず我慢の限界、炎天下の京へ旅立ちました。

 

昨今、広島のローカルニュースで度々取り上げられるのが、赤字路線である芸備線の一部区間廃止の問題です。
オイラの自宅は芸備線沿線なので、いつも旅立ちにはこの路線を利用しています。
1時間に2~3本の運行状況ですが、結構頼りにしています。

 

炎熱下の京都のこと、覚悟はしてきましたが京都駅に降りた途端、半端ではない熱気が体を包みます。
苦闘が予測される陵墓巡りを前に、夏の京名物鱧のてんぷらをトッピングした冷やしうどんで腹ごしらえです。

 

荷物をホテルに預けてから、近鉄京都線で東寺から竹田まで移動します。

 

竹田駅周辺は少し田圃や畑の残った、何の変哲もない平坦な住宅地です。
周囲を見渡しても天皇陵らしき茂みも、丘陵も見当たりません。
何時もなら事前に見当を付けた方角へ歩き出すのですが、猛暑に足が竦み体が動きません。
駅近くのお菓子屋さんで道を尋ねましたら、近衛天皇陵は直近にありました。

 

これまで訪ねた天皇陵墓でおなじみの制札版です。

 

前回訪ねた百舌鳥・古市でお馴染みの前方後円墳ではなく、平坦な場所に多宝塔が建てられており、この場所が第76代近衛天皇陵でした。
寺院形式の為か見慣れた目印の神明鳥居も見当たりません。
近衛天皇は火葬されたため、多宝塔の基部に棺が納められているようです。

 

鳥羽天皇を父とする異母兄の養子となり、3歳で即位し、病弱の為17歳で崩御したと伝えられています。
武士が台頭し始めた時代の動乱期に、生涯を翻弄された天皇と言えるのでしょう。
石の玉垣ではなく、透かし板塀で寺院建築そのものです。

 

お寺の境内の一画に、ひっそりと納まっている天皇陵墓でした。

 

第76代近衛天皇の御陵印です。

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反正天皇陵 百舌鳥耳原北陵

2024年07月23日 | 御陵印

古市監区天皇陵で最後に訪れたのは、第18代反正天皇陵です。
反正(はんぜい)と発し、意味は「正しさに反する」ではなく「正しい状態に返す」の意味から、名付けられたと言われています。

 

堺市市役所の展望階から望む反正天皇陵、やはり確認出来るのは森だけで濠の存在は全く判りません。

 

南海高野線の堺東駅から歩き始めます。

 

この辺りはとても丁寧な案内板が設置されていました。
どの天皇陵も「かくありたし」、と願うばかりです。

 

堺東駅から5分ほどで、それと思しき場所に到着しました。

 

綺麗に刈り込まれた植え込みの中に、制札版が濡れていました。
ここに至って雨は本降りです。

 

前方後円墳の場合拝所は方部にあり、ほとんどの陵墓ではこの場所からお濠が見えますが、ここでは全くお濠が見えませんでした。
方部を囲むお濠は何らかの事情で、多分埋められてしまったのではないでしょうか?

 

小振りな前方後円墳なので、植生の高さがひときわ目立ちます。

 

雨に濡れて反正天皇陵とはっきり読み取れました。

 

仁徳天皇の第3皇子である反正天皇、兄の第17代履中天皇の崩御に伴い即位しました。
兄弟に天皇が継がれたのは、天皇系譜でこの時が初めてでした。
皇后を持たなかった反正天皇は僅か6年で崩御し、弟の第19代允恭天皇が継いで即位しました。
反正天皇の御陵印です。

この後土砂降りの雨に見舞われて、阪和線堺市駅までずぶ濡れになりながら歩きました。
何か失礼があったのでしょうか? それだとしたら恐れ多いことです。

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仁徳天皇陵 百舌鳥耳原中陵

2024年07月21日 | 御陵印

天皇陵墓巡りで最も期待する仁徳天皇陵は、総面積で世界最大の墳墓であるとされています。

 

百舌鳥耳原南陵である履中天皇陵との間にある、大仙公園を散策しながら向かいました。
この公園は日本の堺市を此岸(東側)に、交流のあった中国の港湾都市を彼岸(西側)において設計されていると説明されています。
写真下部が堺市、上部が対岸にある中国の都市を現わしているそうです。
川原石を敷き詰めて、壮大な州浜を現わしているのでしょう。

 

山間部には滝が掛けられており、鯉魚も配石されています。

 

中国(西側)から日本(東側)の堺市を見た処です。
現実的には堺市は瀬戸内海の内側にあり、大陸から望むことは叶いませんよね。

 

園内には縮景も配されており、ここは燕子花の名称「知立」を模したものでしょう。

 

大仙公園内にある堺市博物館には、仁徳天皇陵の俯瞰写真が掲示されています。
この姿が見られることを切望しますが叶いません。

函館の五稜郭を臨む五稜郭タワーのような、仁徳陵タワーの建設は望むべくもないでしょうか?

 

明治時代に発掘調査がなされた、前方部に埋葬された石棺のレプリカです。
天皇陵に比定されているためか、詳しい説明はありません。

 

仁徳天皇陵前にある、ロータリークラブによる説明版です。
墳丘長486m、三重濠を含めれば総長840mの世界最大の墳墓です。
阪和線三国ケ丘駅から百舌鳥駅間の距離に匹敵する長さを誇ります。

 

三重の濠が巡らされた仁徳天皇陵、周囲を約1時間で一周することができます。

 

二重の濠の手前から遥拝します。

 

望遠レンズをいっぱいに拡大して、仁徳天皇陵であることを確認しました。

 

世界最大の墳墓を俯瞰できると評判の、堺市役所展望フロアーに登りました。
終日無料で一般開放されており、雄大な景色を期待しましたが残念!
森の左側部分が仁徳天皇陵、白い塔のようなものが見える右方向が履中天皇陵です。

世界遺産登録と共に気球を上げて、天皇陵を俯瞰する計画があったようですが、安全面の問題から現在至るまで実現されていません。

 

世界遺産百舌鳥古墳群の空撮写真です。

 

堺市役所展望階に展示されている、桜で彩られた春の古墳写真です。

 

秋は紅葉で、文字通り赤・青・黄の衣を纏います。

 

雪に見舞われることもあるようです。
古墳の四季も楽しめるのですね。

 

明治の御代に発掘された、仁徳天皇陵方部のあった石棺を図示したものです。

 

第15代応神天皇の第四子である、第16代仁徳天皇を語る有名な逸話が残されています。

ある日天皇が高台に登り、民の集落を見渡したところ、煙の立つ家は1軒も無かった。
庶民は飯を炊くことも出来ないほど貧乏している。
これを知った天皇は、以降3年に亘り税を免除して、庶民の暮らしを助けたと言う。

更に大規模な灌漑工事を成し、大田畑を開いて仁政を布いたことから聖帝ともよばれている。
一方、好色な帝だったとの説もあり、実在したか定かではない天皇の一人である。

小学生の時に教えられた仁徳天皇陵、今目の当たりにし、その巨大さに圧倒されましたが、お墓の全容は何一つ判りませんでした。
いつかこの疑問が解ける日が来ることを願ってやみません。

仁徳天皇の御陵印です。

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履中天皇陵 百舌鳥耳原南陵

2024年07月19日 | 御陵印

いよいよ古墳の中の古墳とも言える、百舌鳥古墳群を参拝します。
百舌鳥=もず、三文字で表記されたものを、二音で発音するのは何か違和感があります。

 

世界遺産百舌鳥古墳群には3代の天皇陵がありますが、最も南に位置する履中天皇陵から参拝します。
阪和線上野芝駅で下車、履中天皇陵まで徒歩5分と紹介されています。
この駅にも履中天皇陵への案内は見当たりませんでした。


この日はあいにくの雨、この時期では仕方のないことですね。
雨合羽でリュックの防水を兼ね、さらに傘をさして完全雨対策で歩きます。

 

大きくて真新しい案内板、堺市は気合が入っています。

 

案内通り5分ほどで履中天皇陵拝所に到着です。
天は止むことなく降り続いています。

 

神明鳥居に正対する、真っ直ぐな参詣道でした。

 

拝所前の広場には大きな水たまりが出来ています。
雨に濡れて木の鳥居が新鮮に感じられます。

 

これも雨に濡れたお陰、石柱に刻まれた文字は「履中天皇百舌鳥耳原南陵」とはっきり読み取れました。

 

この後お参りする仁徳天皇陵、前日参詣した応神天皇陵に次ぐ、第3位の大きさを誇る前方後円墳です。
お濠の外苑に沿って約半周、案内板に示された「履中天皇陵ビュースポット」へ向かいます。

 

壮大な古墳に相応しいお濠を巡らしていました。

 

ここでも拝所の奥に(古墳側)船が係留されていました。
お濠の清掃用とお見受けしました。

 

古墳の外縁には多くの樹木が植えられていますが、野生動物の食害防止かネットが張られています。

 

改めてビュースポットから履中天皇陵を眺めました。
第16代仁徳天皇の子で、65歳と遅い即位のため在位は僅か6年でした。

 

せめてものご褒美か、ビュースポットに到着した時は雨は小降りになっていました。
墳丘長360m、円部高27m、第3位の規模を誇る前方後円墳です。

 

履中天皇の御陵印です。

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雄略天皇 丹比高鷲原陵

2024年07月18日 | 御陵印

雄略天皇とは名(文字)からして武闘派を連想しますが、本当にその通りだったのでしょうか。

 

雄略天皇陵は近鉄南大阪線高鷲駅から15分程度の場所にあります。

 

敢えて古墳のある場所とは反対側の、駅南口へ降り立ちました。
地図を確認しても高鷲駅北口から、雄略天皇陵への道順が特定できなかったので、無難な大きな通りを進むことにしたのです。

 

まず高鷲駅を降りて線路際を東に進み、最初の踏切を渡ります。
北側へ向かうということです。

 

すぐに大掛かりな道路工事がされている場所になりました。

 

雄略天皇陵脇の道路拡幅工事のようです。
ある説が頭をよぎりました、第24代仁賢天皇の御代に、雄略天皇陵が破壊されたと言われていたことです。
今の世に天皇陵に手を付けるなど到底考えられないことですが、道路工事と陵墓破壊工作が私の頭の中で繋がりました。
暴君雄略説が頭に叩き込まれているせいかもしれません。

 

宮内庁の資料によれば雄略天皇陵は円墳とされていますが、現在の姿は池の中に浮かぶ直径75mの円部と、陸上にある一辺50mの方部を繋ぎ併せて前方後円墳とする説もあるようです。

 

皇位継承のライバルである兄弟・従兄などを殺して自らが即位し、地方の有力豪族をねじ伏せてヤマト政権を確立した雄略天皇、その御陵はこれまで訪ねたどの天皇陵よりも、心なしか荒れた感じがします。

 

有力豪族の葛城氏や吉備氏を滅ぼし、他人の妻を略奪して皇后にするなど、その暴君ぶりから大悪天皇の異名も付けられていますが、真偽のほどはどうなのでしょうか?

 

第21代雄略天皇の御陵印です。
世界遺産古市地区最後の参拝場所が雄略天皇陵となったのは、単に巡り易い道順のせいで他意はありません。

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仲哀天皇陵 恵我長野西陵

2024年07月17日 | 御陵印

観心寺と後村上天皇陵の参拝で、前方後円墳の縛りから少し離れましたが、再び藤井寺に戻って仲哀天皇陵を訪ねます。

 

河内長野駅から近鉄電車で藤井寺駅まで移動、束の間の休息時間でした。
藤井寺市には昭和のイメージが蘇る雑踏が残っています。

 

藤井寺市とはお寺の名前がそのまま市名になったということでしょう。
少し寂れた感じですが門前町がありました。

 

葛井寺とこの字が寺名で、当地を治めた豪族葛井氏の拠点だったと説明書きがありました。

 

仲哀天皇参詣道の途上にあるので、折角ですからお参りしていきましょう。
西国三十三ケ寺参り依頼で、久々に立ち寄りました。

 

寄棟造り本瓦葺きの本堂には、国宝の千手千眼観音が祀られています。
毎月18日が御開帳とのことで、この時はお眼にかかれませんでした。
実際千本の手がある観音菩薩は珍しいでしょう。

 

境内には寺名そのまま、藤の大棚がありました。

 

本日は目的が違いますので、お参りもそこそこにお寺を後にしました。

 

葛井寺の境内を抜けた処にこの案内板です。
墳丘長242mの前方後円墳とのことですが、その巨大さがこの地図で分かります。

 

広大な前方後円墳の周囲を、この玉垣で囲ってありました。


この光景を見る度に思うのですが、エジプトのピラミッドの様に築造時の状態に戻すことは出来ないのでしょうか?
林に囲まれたこの姿は築造時墳丘の姿ではないので、何処か一つでも本来の姿に再現してもらえないものでしょうか?
本当の世界遺産の価値が蘇ると思いますが・・・

 

仲哀天皇は実在が疑われる天皇の一人ですが、仲哀この名前が何故が物悲しく思えます。

 

第14代仲哀天皇は、白鳥陵に眠る古事記のヒーロー日本武尊の第2子で、妃は神功皇后、そして第15代応神天皇の父であります。

大和の各地で勇猛をはせた父日本武尊、神懸かって自ら新羅統一に向かった妃の神功皇后、神の導きに背いて熊襲退治に向かい命を落とした仲哀天皇、残された事蹟の落差は何なのでしょうか。

 

仲哀天皇拝所の近くにこの船が係留されていました。
お濠の清掃用、それとも・・・

 

周囲一帯から墳丘を臨むことが出来そうです。

広島県に、古代築城時の姿を復元した前方後円墳がありますが、是非世界遺産の墳丘で一つでもありのままの姿を再現してほしいものです。

 

仲哀天皇の御陵印です。

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観心寺

2024年07月15日 | 御陵印

後村上天皇陵がある観心寺は、飛鳥時代役行者によって創建されたと伝わる古刹です。

 

河内長野駅から3キロ程度の場所にあり、空海が高野山を開くための拠点としたと伝えられています。

 

結構奥深い感があり、境内の脇にはこのような急流が泡を噛んでいました。

 

バス停観心寺から数分で、五条塀に囲まれた朱塗りの山門に到着します。

 

拝観料は400円と良心的です。
だらだらとした石段を含む登り数分で、国宝金堂に到着です。

 

国宝金堂は、入母屋造り本瓦葺き、桁行7間、梁間7間で回廊付きです。

 

楠木正成の手になる建掛堂は深い軒を持ち、アンバランスな茅葺屋根が特徴の重要文化財です。
なんでも三重塔を建てるはずが未完成で屋根を冠したため、この形となりました。
建造途中に楠木正成が湊川で討ち死にしたため、建て掛けのまま今日に至り、建掛堂と称されることになりました。

 

開山堂は三間社宝形造り茅葺です。

 

南朝方のために、獅子奮迅の活躍をした楠木正成の首塚です。

 

袴腰の下部が石造りとなっている珍しい鐘楼です。

 

歓心寺のご本尊は空海の手になる秘仏、如意輪観音が祀られいます。

 

観心寺には妙見信仰も伝わるのか、国宝如意輪観音の周囲を「北斗七星塚」が囲んでいます。
これは北斗七星塚の1番塚です。

 

南朝方の重鎮、後村上天皇や楠木正成が眠る、河内長野歓心寺周辺の光景です。

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後村上天皇陵 桧尾陵

2024年07月14日 | 御陵印

古市・百舌鳥古墳群は巨大な前方後円墳が、これでもかとばかりに存在を誇示していますが、同じ景色の繰り返しに少々出会いの感動が薄れた感があります。

 

ここで古市を少し離れて、南朝方の天皇陵を訪ねることにしました。

 

近鉄電車に揺られること20分、河内長野駅へやってきました。
此処は15年ほど前に、百名城探訪で楠木正成の居城である「千早城」へやってきて以来です。

 

近鉄河内長野駅前には、後村上天皇陵観心寺の石塔が建っていますが、バス停の行先に観心寺の文字は見当たりません。
駅前のお店で観心寺行のバス乗り場を訪ねるも、2軒のお店とも首を横に振るばかり。
そうこうする内に入ってきたバスの経由先に、大きな観心寺の文字を見つけました。
一安心! 勇躍乗り込みます。

 

途中新興の住宅団地を経由しながら、約25分ほどで観心寺前に到着です。
駐車場にある観心寺の案内板に、後村上天皇陵の表示を確認しました。
看板の右上に小さくです。

 

歓心寺山門前には南朝の後醍醐天皇即位に貢献のある、楠木正成の馬上像がありました。
皇居前広場にも同じような像がありましたよね。

 

観心寺境内の石段を息を弾ませながら登ると、この案内板を見つけました。
お寺のお参りは後回しにして、後村上天皇陵へ何故か急ぎます。

 

境内の奥まった場所に、後村上天皇陵への階段を見つけました。

 

鬱蒼とした森へ向かうかのような階段道です。
春訪ねた吉野如意輪寺内にある、後醍醐天皇陵と同じ雰囲気でした。
南朝方(大覚寺統)の天皇陵は何故か、結界で仕切られているような感じがして仕方ありません。

同じく南朝方の、第98代長慶天皇・第99代後亀山天皇陵はどんな雰囲気か、今度訪ねるのが楽しみになりました。

 

薄暗い参道は蛇行しながらさらに奥へと続きます。

 

やっと管理事務所らしき建物が見えてきました。
目の前の階段を昇れば御陵でしょう。ヤレヤレ!

 

第97代(南朝2代)後亀山天皇陵です。
波乱の生涯を過ごした後醍醐天皇の第8子である後村上天皇、この地で安穏に過ごしたわけではなく、常に京都奪還の戦いを北朝方と交えていました。

 

明治天皇(明治政府)によって、南朝が正統とされたことによって、第97代天皇とされました。

 

火葬された後この地に埋葬されたとされており、墓の形は円丘とされていますが、人の手が加わった形跡はなく、自然な山の一画の感じです。

強大な権力者によって営々と築かれた前方後円墳と異なり、自然の懐に抱かれたように存在するこの種のお墓は、何故だか心が温まるような気がします。

 

第97代後村上天皇の御陵印です。

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仁賢天皇陵 埴生坂本陵

2024年07月13日 | 御陵印

第21代雄略天皇は天皇の後継者をことごとく殺害しましたが、第3子の清寧天皇は幼少期から白髪で、霊力がある?ことから殺されることなく、第22代天皇として即位しました。

 

清寧天皇陵の周囲は、長閑な郊外といった雰囲気が一杯です。
一言で現わせば相当な田舎に寂しく存在しています。

 

歩きながら振り返ってみるとこの景色、周囲は畑に囲まれて荘厳さは微塵もありません。

 

天皇陵墓のすぐ脇に、家庭菜園らしき場所も見られます。

 

清寧天皇陵と仁賢天皇陵は、1キロ程度の至近距離にあります。
非道ぶりで名が知れた第22代雄略天皇の皇子だったため、清寧天皇陵はこのような場所に定められたのでしょうか?

此処では分かりやすい場所に案内板が建てられています。

 

仁賢天皇陵はすぐに見つかりました。
第22代清寧天皇は皇后も皇女もなく、子供がいなかったので後継天皇選びは難航しました。

 

天皇陵前の制札版が修理中でした。

後継の天皇は雄略天皇から逃れて隠遁していた、傍系の兄弟が宮中に招かれ皇太子に任ぜられました。
弟が先に即位して第23代顕宗天皇となり、その後兄が即位して第24代仁賢天皇となりました。

 

第24代仁賢天皇の御陵印です。

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清寧天皇陵 河内坂門原陵

2024年07月12日 | 御陵印

安閑天皇陵が近鉄古市駅の近くにあるので、参拝後はは近鉄電車に乗って河内長野へ向かう予定でした。

 

安閑天皇陵の参拝を終えて古市駅に向かう途中、たまたまこの標識を目にしてしまいました。
近付いて確認すると、清寧・仁賢天皇陵参詣道と記されておりました。
車通りの少ない歩きやすい道に思えたので、迷うことなくこちらへ先に向かうことにしました。

一人旅は気楽なものですよ、自分の思った通りに簡単に計画変更できるのですから・・・

 

曲がり入ったこの道も難波と飛鳥を結ぶ官道である竹内街道の一部のようです。
とても綺麗に整備されていました。

 

この道幅と、なんとも言えない曲線が昔の街道そのものなのです。

 

竹内街道に入って数分歩いた所で、予期しなかった巨大な古墳が目に入りました。
近くの案内板を見たところ、景行天皇の皇子である日本武尊陵だとわかりました。

 

古事記に記された日本誕生に関わる英雄のお墓なので、立ち寄ることにしました。
なんとこんな狭い路地を入った先に、参拝所があるようです。

 

民家が密集する一画に日本武尊陵(白鳥陵)はありました。

 

日本各地の戦いで傷つき瀕死の状態で白鳥となって、この地に飛来したと伝わっています。
白い羽を曳いてとんだところから、この地は羽曳野と名付けられました。
墳丘長200mの日本武尊陵です。

 

寄り道をした日本武尊陵から数分の場所に、目指す清寧天皇陵はありました。

 

雄略天皇の第3子で、第22代清寧天皇陵です。
在位4年と短く、子供がいなかったため後継天皇の人選は難航しました。
墳丘長115mと天皇陵としては小振りで、方部の幅が円部直径の2倍もある変わった形が特徴です。

 

第22代清寧天皇の御陵印です。

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