桓武天皇陵も最寄駅は明治天皇陵と同じJR桃山駅ですが、陵墓間は少々距離が離れている上に方角も微妙な位置にあります。
明治天皇陵へ向かう時に、この看板を見るまではどうするか本当に悩んでいました。
しかしこの辺り一帯、桃山の森に囲まれた参道は炎熱下でも結構涼しいのです。
同じ森に囲まれた涼しい参道で行くことの出来る幸、、明治天皇陵参拝の後桓武天皇陵へ脚を延ばすことに、この場所に立った時決めました。
明治天皇陵参道と直交して桓武天皇陵への参道は伸びていました。
この部分は川原石を嵌め込んであります。
同じ桃山の森に桓武天皇陵への案内標識が立っていました。
なんという生命力でしょうか?
何という木かわかりませんが、外皮1枚で懸命に生き延びようとしています。
この光景に出くわした傘の年を超えた老人には、なんとも切ない気分を味わせてくれました。
「794(鳴くよ)うぐいす平安京」でお馴染み、京の都を拓いた桓武天皇陵の参道は、明治天皇のそれに比べて1/3程度の幅しかありません。
この場所が桓武天皇陵か定かではないことが影響しているのかもしれません。
明治天皇陵から歩いて20分、桓武天皇陵に着きました。
綺麗に掃き清められた墓前、箒目にも足跡は見当たりません。
ひょっとしてこの日(令和6年8月24日)オイラは初めての参拝者かな?
踏み後と思われる場所を辿って、足跡を残さないよう無事参拝を済ませました。
陵の形は円丘となっていますが、ここからは確認できません。
45歳で即位し70歳で崩御した第50代桓武天皇は、奈良仏教の影響を嫌って、山城⇒長岡⇒平安京と遷都を繰り返しました。
事蹟としては坂上田村麻呂によって蝦夷征伐を成し遂げ、奈良仏教に変えて最澄の天台宗を比叡山に、空海の真言宗を高野山に開かせました。
比叡山も高野山も都から離れた場所に置いたのは、仏教の圧力を恐れたためでしょうか
桓武天皇陵も豊臣秀吉の桃山城址の中にあります。
第50代桓武天皇の御陵印です。
珍しく丸印ですが、角印に比べて押印のし易さがあります。
実際に押印してみれば判ります。