萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

野球、自転車の旅、山、酒、健康法などを徒然に記載

外房~利根川 自転車の旅 <4> 「香取市佐原」

2013年05月24日 | 自転車の旅

<香取神宮>


<残念ながら、本殿は改修中>


<伊能忠敬記念館付近の佐原の町並み(1)>


<伊能忠敬記念館付近の佐原の町並み(2)>

平成25年4月29日 晴れ 西風 午後より南東の風

素泊まりで朝食なし。早めにホテルを出てまず香取神宮参拝。朝も早く人もまばらで鬱蒼とした森に囲まれた神社は西行の歌、

 なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる

を思い出させた。いかにも御利益(ごりやく)がありそうな神社である。ただ残念なのは本殿が改修の為、布ですっぽり覆われていたことだ。また、来るしかないかと思いつつ、お賽銭入れて本日の安全祈願をしてから神宮を後にする。

佐原でのもうひとつの観光目的である「伊能忠敬記念館」。9時開館ということで、約1時間半ほど国道沿いの「松屋」で朝定食をいただきながら、地図を眺めたりして時間をつぶす。記念館は水郷の町並の伊能忠敬住居跡のすぐそばにあった。

以下、伊能忠敬の略歴をWikipediaを参考に記す。

******************************************

1745年上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれる。1762年18歳の時に、下総国香取郡佐原村の伊能家に婿養子に入り、以来しばらくは商人として活動する。伊能家は、酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた他、利根水運などにも関っていた。忠敬は商人として成功し、伊能家を再興したほか、佐原の役職をつとめ、かなりの財産を築いた。

1794年50歳の時に、家督を長男景敬に譲り隠居、翌年江戸に出る。江戸幕府の天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などを修めた。1800年56歳の時に、第1次測量を開始。最初の測量は蝦夷地及びその往復の北関東・東北地方において行われた。忠敬の測量が極めて高度なものであったことから、その後徐々に幕府からの支援は増強され、国家的事業に育っていった。71歳(1816年)まで10回にわたり測量を行い、その結果完成した地図「大日本沿海輿地全図」は極めて精度の高いものとして、特にヨーロッパにおいて高く評価され、明治以降国内の基本図の一翼を担った。1820年74歳没。

******************************************

50歳まで商人として財をなし、それから江戸に出て測量・天文学を学んで56歳から測量を開始し15年かけて、原始的な測量機器しか無かった当時に、シーボルトもペリーも度肝を抜かれるほどの極めて精度の高い日本地図を作り上げた偉人である。子供のころから地図好きであった小生は一度は佐原に行ってみたいと思っていた。今まで来なかったのが不思議なぐらいである。そろそろ退職して、好きな事をやろうとしている55歳になって初めて訪れた、というのも何かのお導きかもしれん。男として人間として理想的な人生を歩んだお手本がここにある。ぜひとも、あやかりたいものである。

朝から香取神宮、伊能忠敬記念館といい観光ができた。後は利根川沿いに上流方面へひたすら漕いで大宮まで帰るだけだ。

                           <つづく>
「外房~利根川」いままでのお話
  ↓↓↓↓↓↓
外房~利根川 自転車の旅 <1>「計画」
外房~利根川 自転車の旅 <2>「館山~白子海岸」
外房~利根川 自転車の旅 <3>「九十九里~銚子~佐原」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする